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■SGRA とは
関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)は、世界各国から渡日し、長い留学生活を経て日本の大
学院から博士号を取得した研究者が中心となり、インターネットを主要なコミュニケーション手段とし
て活動しています。SGRA では、個人や組織がグローバル化にたちむかうための方針や戦略をたて
る時に役立つような研究、問題解決の提言を行い、その成果をシンポジウム、出版物、インターネッ
ト等の方法で、広く社会に発信していきます。研究テーマごとに、多分野多国籍の研究者が研究チ
ームを編成し、広汎な知恵とネットワークを結集して、多面的なデータから分析・考察して研究を行
います。当研究会は、ある一定の専門家ではなく、広く社会全般を対象に、幅広い研究領域を包括
した国際的かつ学際的な活動を狙いとしています。良き地球市民の実現に貢献することが SGRA の
基本的な目標です。
☆
☆
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★このレポートは日本語版の他に、英語版、中国語版、韓国語版がございます。送付ご希望の方は、
郵送いたしますので、SGRA 事務局までご連絡ください。
★ 常時、会員は募集中です。入会ご希望の方は SGRA 事務局([email protected])までご連絡く
ださい。
1
第8回SGRAフォーラム in 軽井沢
グローバル化の中の新しい東アジア
2002 年 7 月 20 日(土)午後1時∼6時
ホテルメゾン軽井沢
主催:
◆関口グローバル研究会(SGRA)
協賛:
◆(財)渥美国際交流奨学財団
◆(財)鹿島学術振興財団
◆(財)韓国未来人力研究院
後援:
◆名古屋大学大学院経済学研究科附属国際経済動態研究センター
◆フィリピンアジア太平洋大学経済学部
◆朝日新聞アジアネットワーク
開催趣旨
第8回SGRAフォーラム in 軽井沢は、
「グローバル化の中の日本の独自性」研究チーム担当のフォー
ラムです。昨年2月の第2回SGRAフォーラム「グローバル化のなかの新しい東アジア:経済協力をど
う考えるべきか」では、東南アジアを中心に、通貨危機以後の芽生えてきた東アジアの新しい経済協力体
制について検討しました。今回は、アジア通貨危機5周年を迎えて、前回の議論をふまえ、その後の世界
情勢の変化も鑑みながら、東アジア地域での新しい経済協力体制について考えたいと思います。
1997 年7月に東アジア金融危機が勃発しましたが、日本は様々なイニシアチィブをとり、東アジア地域
ができるだけ早く危機を乗り越えるように努力しました。アジア通貨基金(AMF)の提案については各方
面からの抵抗がありましたが、日本は粘り強い交渉を続け、新宮沢構想などが実施されました。
「危機」を
東アジアの協力体制を整備する「機会」に転換した日本の努力は、決して軽視されるべきではないでしょ
う。改めて、当時のビジョンやプロセスを検証し、その後の発展、そして自由貿易圏や共通通貨など、未
来へのビジョンを検討します。
プログラム
2
1 時 00 分―1時 10 分
司会:SGRA運営委員
嶋津忠廣
挨拶(開催の経緯と趣旨について):SGRA代表
今西淳子
通貨危機は東アジアに何をもたらしたか
1時 10 分―1時 40 分
平川
均 (名古屋大学大学院経済学研究科附属国際経済動態研究センター
教授)
質問者:李 鋼哲 (SGRA研究員・東京財団研究員)
韓国IMF危機以後の企業と銀行の構造改革
1 時 40 分―2 時 10 分
李
鎮奎 (高麗大学校経営大学経営学科教授・(財)未来人力研究院理事)
質問者:金 雄熙 (SGRA研究員・仁荷大学経済通商学部専任講師)
経済危機と銀行部門における市場集中と効率性―インドネシアの経験
―
2 時 10 分―2 時 40 分
ガト・アルヤ・プートゥラ (インドネシア銀行構造改革庁主席アナリスト)
質問者:F.マキト (SGRA研究員・テンプル大学ジャパン客員教授)
2 時 40 分―3 時 00 分
休
憩
アジア経済統合の現状と展望
3 時 00 分―3 時 30 分
孟
健軍 (中国清華大学公共管理学院、中国科学院―清華大学国情研究中
心教授、日本経済産業省経済産業研究所ファカルティフェロー)
質問者: 金 香海 (SGRA研究員・中央大学社会科学研究所準研究員)
中国との競争と協力
3 時 30 分―4 時 00 分
バーナード・ヴィリエガス (フィリピンアジア太平洋大学経済学部教授)
質問者:徐 向東 (SGRA研究員・日経リサーチセンター研究員)
4 時 00 分―4 時 50 分
自由討論・フロアーからの質疑応答
4 時 50 分―5 時 00 分
総括
5 時 00 分―6 時 00 分
宮澤喜一元総理大臣をお迎えしてフリーディスカッション
6 時 00 分―8 時 00 分
レセプション
8 時 00 分―10 時 00 分 オープン・ディスカッション
3
ご挨拶
SGRA代表
今西淳子
皆さま、軽井沢までお出でいただき、ありがとう
ございました。ここ 1 か月ぐらい、天気予報とにら
めっこをしていました。梅雨があって、台風が2回
きて、今日は晴れるかどうか本当にドキドキしてい
ました。皆さまの行いが良いからだと思います。こ
のような快晴になり、今日のレセプションはお庭で
できるのではないかと期待しております。
SGRAの経緯を簡単に説明させていただきます。
それは渥美財団(財団法人渥美国際交流奨学財団)
から始まるのですが、1993 年に父が亡くなり、父の
遺志を継いで日本の大学で学ぶ留学生を支援する財
団をつくることになりました。当初から、ただ奨学
支援だけではなく、ネットワークづくりをしようと
いう希望を持っており、日本の大学院博士課程で勉
強されている方をサポートすることにしました。今
は8期生ですが、特にインターネットのおかげで、
SGRAは2年目になりました。今回のフォーラ
ムでは、もう1つネットワークの輪を広げようと思
い、SGRA研究員の皆さんの先生方にお越しいた
だきました。先生方には、大変お忙しい中、軽井沢
に来ていただきましたが、本日は森の中、ゆったり
とした雰囲気で、フォーラムを進めていただきたい
と思っております。
今は、Eメールで世界のどこに行ってもコミュニケ
ーションができる時代になりましたから、今までに
支援したのは 100 名弱ですが、とても活発なネット
ワークができてきました。しかし、ネットワークを
ただ繋いでいるだけではなく、もう少し何かをした
いということになって、2000 年の7月に関口グロー
バル研究会(SGRA:セグラ)という、ネットワ
ーク研究会をつくりました。SGRAでは、年に4
回フォーラムをしよう、それからレポートを発行し
て、知日派の若手外国人研究者の皆さんの声を発信
していこうということが基本です。SGRAの公用
語は日本語となっていますので、今日も基本的には
日本語をオフィシャル・ランゲージとして使わせて
いただきます。
SGRAには6つの研究チームがあるのですが、
今日担当しているのは、
「グローバル化の中の日本の
独自性」という、経済中心の研究チームです。この
研究チームに、今日のコメンテーターのマキトさん
と李鋼哲さんがいらっしゃいまして、このお二人か
ら名古屋大学の平川先生をご紹介いただきました。
平川先生の持論は「これからのアジアは、アジアの
人々みんなが共同で作っていかなければいけない」
ということで、そのコンセプトがSGRAとぴった
りなわけです。先生が経済学の教科書をお作りにな
るときに、マキトさんや李鋼哲さんもその共同執筆
者に入れていただきました。第2回SGRAフォー
ラムの時、平川先生に基調講演をお願いし、それ以
4
来ずっとお世話になっております。
アメリカ留学からお帰りになったときに、お友達と
高麗大学の李鎮奎先生は、今日のコメンテーター
2人で研究所をつくられて、それを大学にまで育て
の金雄熙さんが韓国にお帰りになってから、「21 世
られたということです。李先生やヴィリエガス先生
紀日本研究グループ」のメンバーとなられ、そのグ
のように、ご自身でリサーチ・ネットワークづくり
ループのスポンサーである韓国の(財)未来人力研
をされている方々が、ここにお集まり下さったこと
究院から、渥美財団と交換プログラムをしませんか
を本当に嬉しく思います。どうもありがとうござい
というオファーをいただきました。隔年日本と韓国
ます。
を行き来する日韓交流プログラムが始まって、今回
今日はこの先生方の発表を伺って、それからあま
が2回目ですが、その未来財団をおつくりになった
り時間はないかもしれませんが、できるだけ要領よ
のが李先生です。李先生の本業は高麗大学の経営学
く質疑応答の時間も取りたいと思います。
の先生でいらっしゃいますので、今日は無理をお願
いしてご講演もしていただくことになりました。
それから最後に、夕方に宮澤喜一元総理大臣にい
それから、3番目の講演者、インドネシア銀行構
らしていただきます。宮澤先生は私の父が一番尊敬
造改革庁のガト先生は、インドネシアのジャカルタ
していた方で、生前は大変お世話になりました。特
からいらしていただきました。SGRA研究員のヨ
にここ軽井沢で、家族ぐるみで、よく行き来させて
サファットさんに、インドネシアからのスピーカー
いただいたので、私も小さい頃から存じ上げていま
の紹介をお願いしたところ、公募をしたいとのこと
す。今年のSGRAフォーラムで、平川先生の発表
だったので、インドネシアの研究者のメーリングリ
をお聞きしたときに、アジア通貨危機の日本の対応、
ストでアナウンスしていただいて、幾つかの応募が
象徴的に「新宮澤構想」と宮澤さんのお名前が入っ
あった中で、ガトさんにお願いすることになりまし
たわけですが、それが今盛んになっているアジアの
た。
共同体づくりのきっかけになったのではないかとい
うご意見だったので、私はとても感激しました。そ
清華大学の孟健軍先生は、日本の東京工業大学で
れから、マキトさんからも、ぜひ宮澤さんの、その
ずっと勉強をされた方です。2月に平川先生が名古
頃のお話を聞きたいというリクエストがあったので、
屋大学で主催されたシンポジウムのときに、
「中国の
軽井沢なら来ていただけるかとお願いしたところ、
竹中平蔵」と言われていると聞いておりますが、中
ご快諾いただきました。
国政府に政策提言をずっとされている清華大学の胡
本日は、このように企画いたしましたが、先生方
鞍鋼先生がいらしていて、このフォーラムのことを
のお話を伺い、皆さんとの議論を楽しんでいただき
お話したところ、
「丁度この頃は東京にいるから軽井
たいと思います。今日はどうぞよろしくお願いしま
沢に行けると思う」とのことだったのですが、結局
す。
はあまりにもお忙しくて北京を離れられなくなりま
した。そこで、胡先生から孟先生がぴったりだとい
うことで、ご紹介いただきました。孟先生は昨年か
ら清華大学にお入りになって、東京が半年、北京が
半年という、生活をされていらっしゃいます。
最後のヴィリエガス先生は、この研究チームのチ
ーフ、マキトさんの先生です。マニラのアジア太平
洋大学の経済学部長をされています。先生ご自身が
5
レポート目次
■ 宮澤喜一元総理大臣をお迎えしてフリーディスカッション ・・・・・ 6
■ 通貨危機は東アジアに何をもたらしたか
平川
均 (名古屋大学大学院経済学研究科附属国際経済動態研究センター教授)
■ 韓国 IMF 危機以後の企業と銀行の構造改革
李
・・・・・30
鎮奎 (高麗大学校経営大学経営学科教授・(財)未来人力研究院理事)
■ 経済危機と銀行部門における市場集中と
効率性―インドネシアの経験―
ガト・アルヤ・プートゥラ
・・・・・35
(インドネシア銀行構造改革庁主席アナリスト)
■ アジア経済統合の現状と展望
孟
・・・・・15
・・・・・52
健軍 (中国清華大学公共管理学院、中国科学院―清華大学国情研究中心教授、
日本経済産業省経済産業研究所ファカルティフェロー)
■ 中国との競争と協力
バーナード・ヴィリエガス
・・・・・61
(フィリピンアジア太平洋大学経済学部教授)
■ 自由討論・フロアーからの質疑応答
・・・・・71
■ 総括
■ 講師略歴
・・・・・76
・・・・・78
6
宮澤喜一元総理大臣とのフリーディスカッション
(宮澤) 今、ご紹介がありました、宮澤喜一です。今西淳子さんのお父様、渥美夫人のご主人、
渥美健夫さんは、鹿島建設の社長をされましたが若くして亡くなって、本当に親友だったもので
すから、自分が渥美さんや今西さんのお役に立ちたいと実はしょっちゅう思っていたのです。今
年の春に今西淳子さんがお見えになって、こういう催しがあるから出てこないか、何か講演をし
てくれないかとおっしゃったのです。しかし、実は私はどうもここのところ、ものをすっかり忘
れるようになりました。年のせいなのですが、とても講演をする自信がないので、フリーディス
カッションなら、いつでも行きますよと申し上げたのが今日のようなことです。ですから、何な
りとどうぞ、皆さんのディスカッションに加えていただければ、私も幸せです。お招きをいただ
きまして、大変に光栄に存じておりますので、よろしくお願いいたします。
(平川) 名古屋大学の平川です。先生にお目にかかれて、大変光栄です。いつもテレビでは見
ておりますけれども(笑)
。
7
私はアジア経済論を専門にしております。そして、通貨危機のあとに、先生がイニシアチブを
取られた「新宮澤構想」が、アジアの地域協力に、あるいはアジアの相互理解の中で非常に大き
な役割を果たしたと思います。私自身、韓国に 1999 年に
行ったときに、先生の構想が出て、それはかなりの方が好
意的でありましたし、それからタイに行ったときも、
「宮澤
という人はどういう人か知らないけれども、宮澤構想とい
うのは、すごく良いことをしてくれた」という話を聞いた
ことがあります。アジアの人たちが、先生のイニシアチブ
で大きく変わる1つのチャンスを作られたと思っています。
それで是非お聞きしたいのは、新宮澤構想の「新」という意味です。「新」というからには、
古いものがあるからで、それは当然、1980 年代のラテンアメリカ危機が念頭にあるわけですが、
そのときに先生がイニシアチブを取られたのに、それは結局、アメリカにそのまま持っていかれ
て、先生のお名前は残らなかった。そう考えたときに、「新」という言葉の中に、先生の思い、
あるいは日本政府の思いが入っているのではと思いました。そこで、「新」の中の思いと、それ
から、先生がそういう構想を出された背景などについて少し教えていただければと思います。
(宮澤) 今日、伺いますときに、会議のためのいろいろな資料をもらい読ませていただきまし
て、平川教授の論文も拝読しました。大変、ご専門でいらっしゃるので、私が何か申し上げるこ
とも実はないのですが、私のしたことを評価していただいて、それが、東南アジアの各国間のこ
れからの連帯に何かの役に立つだろうとお書き下さったことを承知いたしております。
1997 年に金融危機がタイで起こって、あちこち広がっていったわけですが、その時、日本と
しては、財政的には非常にうまくない状況ですけれども、外貨は十分持っておりました。今まで
各国とのいろいろな具体的な関係がありますから、日本の持っている外貨を使っていただければ
何かの役に立つだろうと考えました。これはごくごく当たり前のことですが、それが動機です。
その前に、1997 年に The Asian Monetary Fund(AMF)が一時、取りざたされましたが、
実際問題として、これは急に出来るわけのものではない。また、私自身が、300 億ドルのお金を
使っていただくと考えたときに、それがそういうものにすぐ発展するとも思っておりませんでし
た。非常に率直に申せば、私は戦前の人間ですので、戦争前に日本も一生懸命アジアの国のため
に何かをしようとしたが、全くそれは失敗に終わったということを非常に肝に命じて感じていま
すから、うっかりそういうことを考えるわけにはいかないと、実は今でもそう思っているぐらい
です。ですから、何かのお役に立ったというのは、そうであったら大変幸せです。
その後に、2000 年ですか、タイでチェンマイ・イニシアチブというものをやってもらいまし
た。これは、そのようにして少しずつできつつある各国間の連帯関係を、スワップの形で表現し
たらいいのではないかということから考えついたことです。会合がチェンマイで行われましたか
ら、チェンマイ・イニシアチブという名前が一番穏当であろうと、命名いたしました。これが実
施され、また、そのプロセスの中で各国間の接近が更に図られたということも事実であろうと思
8
います。
新宮澤構想と言われた「新」は、平川さんのご指摘のとおりです。ラテンアメリカのときのボ
ンドを出したらいいという、後にいわゆるブレイディ・ボンドになって実現したわけですが、そ
ういうことの関連で、
「新」という名前がついたのだと思います。特段の意味はありません。私
が期待していることは、何かの役に立ったら、それは大変幸せで、そういう間に各国間のマルチ
ナショナルな接触が図られて、お互いをより知るようになるということです。
チェンマイ・イニシアチブもそうでしたが、ご承知のように、この頃はまた「ASEAN+3」
という考え方、我が国と中国と韓国が入って、ASEAN と一緒に話をするという発展も始まって
おります。大体それが、背景です。
ヨーロッパで共通通貨ができたことは、おそらく何世紀の間にわたって、各国間の接触という
ものがあり、喧嘩ばかりだったようですが、それも接触の内ですから、その所産としてできたの
だと思います。アジアの各国の間では、そういう意味での共通の因子というのは非常に少ない。
歴史においても宗教においても、実は大変少ないので、そこから何か共通のものを頼って、何か
ができるというような動き方には急にはなっていきません。しかし、オーディオ・ビジュアルな
時代ですから、過去において何世紀もかかったことが、これからも何世紀もかかるということも
ない。ですから、またこういう接触を通じて、平川さんのおっしゃる、連帯といったようなもの
がもし生まれていくならば、それは非常にうれしいことですけれども、かなり時間がかかるとい
うことは考えて置かなければいけないのではないでしょうか。
(ガト) こんにちは。インドネシアから参りましたガト・アルヤ・プートゥラと申します。イ
ンドネシアの銀行構造改革庁に勤めております。先程も平川先生に質問したのですが、宮澤先生
にお聞きすると良いと言われました。それは、以前、IMF の Horst Koehler 会長が、IMF は
AMF を支持すると発
言しました。もしそれ
が本当でしたら、日本
は AMF をリードして
いくことが出来るで
しょうか。
(宮澤) 1997 年に
起こった通貨危機の
関連で、IMF がいろ
いろな意味で活動し
たわけですが、必ずし
もそれは、全体的にうまくいったとはいえないという評価であったと思います。国によって違い
ますが、インドネシアの場合は危機のスケールも大きかったこともあり、なかなか IMF との調
9
整に苦労をしたということをお互いに知っているわけです。いまだに苦労をしている。私どもが
一番うまくいってほしいと思っている
のは、インドネシアのケースです。新
政権になってかなり進みましたけれど
も、問題の解決にはまだ時間がかかり
ます。しかし、今となっては、IMF も
そこは非常に素直に現状を見て、イン
ドネシア政府や中央銀行と仕事をして
いるようですから、結構なことだと思
います。
もし、今のご質問の意味が Asian Monetary Fund を積極的に考えるかということであれば、
先程も申し上げましたように、現実にはなかなか簡単なことではないでしょう。それだけの連帯
性というものがアジアの国々の中にないし、また、現実の問題として、例えば、IMF と AMF
がある事態に対応しようとしたときに、2つの対応の仕方が当然一緒ではないのです。それもコ
ンディショナリティというものがあって、IMF と AMF の考えるコンディショナリティは、お
そらく必ず一緒ではないわけですから、違ったコンディショナリティを巡って、なかなか実際う
まくいかない。また、自分たちよりもソフトなコンディショナリティをもう1つのファンドが提
示するのではないかと、IMF としては仕事がやりにくくて困るわけです。というようなことが
ありますし、私としては、実際上は2国間で結ばれますスワップの協定でも、沢山出来ればマル
チになりますから、そういうものが少しずつでも動き出す
ことの方が現実的ではないかと考えています。
(ヴィリエガス)
マニラの私立大学で経済学部長をして
いるベルナルド・ヴィリエガスと申します。
宮澤先生は今 83 歳ですけれども、100 歳まで健康でお
られることを祈っています。先生もその 1 人である高齢社
会問題に注目したいと思います。つまり、日本は高齢化と
少子化という問題を今抱えており、それによって労働市場に不均衡が発生している。我々は日本
の外から見て、アメリカと並んで世界経済の二大エンジンだった日本が、10 年以上にもわたる
長年の不況から抜け出せずにいることに大変不安を感じ、その原因は少子高齢化にあるのではな
いかと思っています。今後、日本は、年金制度をどうすれば良いのか、先生のように 83 歳まで
元気に仕事をするにはどのような就労制度を導入すれば良いのか、大変な問題に直面していると
思います。先生は、この難問についてどうお考えになっておられるか、先生のアイディアをお教
えいただけますと幸いです。
(宮澤) 今のヴィリエガスさんがおっしゃったことは、実際そのとおりだし、我々が困ってい
10
る現実もおっしゃるとおりです。ですから、イエス以外にお答えのしようのない質問ですけれど
も、ただ、現実にそのようになって見ると、いくつか気がつかなかったことも気がつくようにな
ります。そして、現実にそういう事態になると、年寄りというのは、ライアビリティ(liability:
不利となるもの)であると、一般に考えられる。ヴィリエガスさんもそういう観点から質問なさ
ったと思いますが、意外にも、現実には、これをアセッツ(asset:役立つもの)に変える方法
を考えることになります。
例えば、普通は老人というのは弱いもので、ライアビリティで経済成長にも貢献しないし、一
種の重荷になると考えられるけれども、実際には、今の日本の階層の中で、一番金を持っている
のは不思議なことに老人なのです。若い人は元気はあるけれども、金はない(笑)。老人はのろ
のろしているけれども、実際には意外に懐には金を持っている。ですからこれは、いろいろな意
味で、消費のためにも、インベストメントにも、実際には弱い階層ではなくて、ライアビリティ
ではなくて、むしろアセッツなのです。それから労働の観点から考えても、日本人でもフィリピ
ン人でも同じだと思いますが、比較的働くことを嫌がらない。従って、50 になったら牧場へ行
って遊んでいるといったことは日本人にはできないのです。牧場もないわけだが(笑)。皆何か
やりたいわけです。大きな力仕事はできないにしても、結構いろんなことをやりたい気持ちがあ
るし、社会活動に参加したいのです。そういう部分が生かされるのではないかということもまた
考えられてきて、一時は、老人の国になったら、この部分はとても役に立たない、burden(負
担)だと思ったのが、意外にそうでもない。或いは、ないように考えなくてはならないという考
え方が生まれてきているということは、ご紹介できるだろうと思います。
(宋
復) 私は韓国のソウルの延世大学で教えている社
会学者です。中国の問題に関してご質問したいのですが、
宮澤先生の知識と今までのご経験に基づいてお答えいただ
きたいと思います。ヴィリエガス先生のご発表の中で、中
国の国営企業に貸し付けたお金の 40%が不良債権になっ
ているとありましたが、それは民営企業の中にもそういう
不良債権が沢山あるということなのではないかと思います。
この高い比率の不良債権は、1997 年に韓国が IMF 危機に
置かれたときの比率とほぼ同じだと思います。こういうことを踏まえて、宮澤先生は中国の将来
に関してどんな思いをお持ちでしょうかということが、質問の要旨です。
(宮澤) お答えを申し上げます前に、今度の為替危機に、この何年間かの間で韓国がやられた
ことは、私は実は非常に感心しているのです。これは全くインプレッシブだったと思っています。
実際 1997 年のクリスマス頃から 1998 年の正月にかけては、非常なピンチだったのですから。
ところが、ああいう思い切った大改革をやって、そして、今や、韓国の経済は、もう石油危機前
の水準を遥かに抜けているわけです。プラスの成長をしている。日本が一向に駄目なだけに、韓
11
国の良いことが非常に目立ちます。あれだけの大改革をとにかくやった。銀行も企業も、それは
容易なことではありません。下手なゴルファーなら、先生に直されたらすぐに直りますけれども、
かなりうまいゴルファーになると、そんなに自分の流儀を捨てられるものではないです。韓国の
経済というのは、相当強い大きな経済ですから、それが IMF のリコメンデーションで改革をや
ったというのは、本当に偉いと思います。チェボル(財閥)が支配していた経済がこれだけ変わ
ったのでしょう。それに大変感心しているということを是非、申し上げたいのです。
それから、中国が WTO に加盟したということは、やっぱり非常に大きな出来事だと思います。
1つは、今の国営企業を巡るノンパフォーミングローンや銀行の話もあるし、あるいは、農産物
の価格が自由化されるわけですから、とても競争は難しいという問題もあるし、沢山問題がある
と思います。中国が WTO に進んで加盟したというのは、非常に勇気があることだと思うのです。
朱鎔基という人は偉い人ですね。よく、ああいうことをやったなと思います。あの方が長くおら
れたらいいと思うぐらい、感心しています。ですから、今、宋さんのおっしゃったように、いろ
いろ難しい問題がありますでしょう。容易なことではない。とにかく規模も大きいです。ですか
ら、どう思うかとおっしゃっても、あのように前に向かって進んでいっている姿を、一言でいえ
ば非常に勇敢だと評価しています。
(李
鎮奎) 高麗大学の李鎮奎と申します。宮澤元総理とこのように議論が出来たことについ
て、非常に光栄と思っております。今日は二重の通訳になっており、私が正しい理解をしている
かどうか、かなり不安もあるのですけれども、私の質問にお答えいただきたいと思います。
先程の AMF と新宮澤構想ということについての質問です。先生は、通貨危機を経験してから、
また第2のアジアの通貨危機のようなものに対処するた
めに、非常に新しいアジアのモデルというのを提案なさっ
たのですけれども、私がここで疑問に思っているのは、あ
る意味で、韓国と中国と日本は、経済的には非常に共有で
きるようなモーティブや利害を持っているかもしれない
です。しかしながら、この3国は政治システムが非常に異
なっている。中国は政治的に共産主義ですし、韓国の場合は大統領制で大統領の権限が非常に大
きい。日本の場合は議会制になっているのですけれども、このような政治システムの差異をどの
ように克服出来るかというのが、非常に大きなハードルになると思います。経済的な利害はある
程度、共感できるものを作り上げられるかもしれないのですけれども、異なる政治システムをど
のように乗り越えて、調和したアジアの経済統合を導いていくかということについて、何か創造
的なアイディアがあれば、教えていただきたいと思います。
(宮澤)
つまり、ご質問の意味は、「ASEAN+3」の3が、韓国と日本と中国である。3が
加わったのは良いことだが、その3は政治的にずいぶん違う国だろう、政治的なハーモニーがそ
こからできるのかというご質問ですね。全くそのとおりです。私は自分の経験から申し上げると、
12
この3つの国の間で、政治的なハーモニーを築くのは非常に難しいと思います。実際、国際会議
で、各国は、経済という面だけで付き合っているわけです。政治の話はしない(笑)。褒めるば
かりなら良いけど、話をすればクリティカルにもなるし、そういう面は見せないで、経済の面だ
けで付き合っているのです。ですから、李先生は学者だから、あっさりそういうことをおっしゃ
るが、政治家は実際、本当に答えるのはなかなか困るのです(笑)
。
(李
鎮奎) すみません(笑)
。
(宮澤) しかし、誠にごもっともな質問であって、同じことは「3」ばかりでなく、ASEAN
の国々についても言えることかもしれません。そういう意味で、今後のマーケットは大変です。
ご承知のように、経済の面だけでヨーロピアン・ユニオンというのは動いているわけではないで
しょう。政治の面も入ろうとしているでしょう。それはなかなか十分入り切らないけれども、入
るのが建て前なのです。しかし、ASEAN あるいは「+3」で政治の面まで入ろうとしたら、共
通なものを見つけるのはなかなか難しいのではないでしょうか。それだけに、いろんな意味での、
AMF のようなもの、あるいは更に進んで、EU のユニオンのようなものは、なかなかできない
と思うことが多くあります。今のご質問は、全く我々の問題そのものを正にお突きになったと思
います。
(孟
健軍) 私は北京にある清華大学で働いていますが、以前は経済産業省、今は独立行政法
人経済産業研究所のファカルティフェローでもあります。今は基本的に日本と中国を行ったり来
たりしています。
ご存じのように、日本と中国のこの1∼2年の関係は、
私の立場から見ると非常に表現が難しいのです。例えば、
昨年、対中国というと、セーフガード一辺倒の流れがあり
ましたが、突然今年に入ってから、中国との FTA を結ぶと
か、そのようなニュアンスのある新聞などの情報があり、
盛んな議論にもなっています。4月に小泉首相は中国の海
南島のボアオ・アジア・フォーラムに出て、中国と脅威論ではなく、全面的な協力構想を打ち出
したということです。日本とシンガポールは2国間の FTA もやりましたし、日韓とも今、検討
中のようです。質問は、いわゆる中国との関係、日本と中国との FTA の可能性についてお聞き
したいと思います。
(宮澤) 先程、セーフガードとおっしゃったのですか。昨年日本が、ネギとシイタケとイグサ
の3つについてセーフガードをやったのです。これは非常に恥ずかしいことです。日本は、こん
なことはしてはいけない。国内事情があって、そういうことになってしまった。ただ、非常に不
思議だったことは、普通、こういうことをすると、生産者は賛成をしても、日本の消費者が反対
13
するのです。ところが、意外に消費者が反対しなかった。それもまた難しい話なのです。ネギと
かシイタケは安いものでしょう。ですから、農薬や何かの関係で、どうも問題のある品物が入っ
てくるよりは、少し高くても日本の品物の方がいいと消費者が考えたのです。これは中国にも考
えていただかなければならないことなのだが、そういうことがありました。
そこで、お話の主題は、自由貿易、Free Trade Agreement(FTA)をどう考えるかというご
質問ですが、従って、これも非常にいいご質問です。日本はこの間、シンガポールと初めて FTA
を結びました。なぜできたかというと、シンガポールは農産国ではないからです(笑)。シンガ
ポールから農産物が日本に入ってくる心配はありません。海産物は少しあるかもしれませんが。
だから、日本の農業は少しも心配をしなくてもいい。相手が農産物を持っている国だったら、な
かなか自由協定などはできない。これは日本の農業の持っている、1つの宿命なのです。
ですから、政府は勢いよく、どこかと自由貿易協定をやるのだなどと言いますが、簡単にはで
きないのです。途中までやって、「農産物は別ですよ」と言ったら、向こうが困るのですから。
今、韓国とやろうという話もあるが、なかなか大変ですね。水産物など、いろいろなものがあり
ますから、自由化を日本の水産業界が受け入れられるか、簡単にはおそらくできないでしょう。
それから、メキシコともやろうといっているが、それならエビなどはどうするのだとか、いろい
ろあって、簡単にはできない。日本の持っている経済の弱みがあるのです。
その関係で一番感心するのは、孟さんのお国の朱鎔基という偉い人です。あの人は、10 年間
にASEANの国とやってしまうということを宣言したのでしょう。それは考えてみると凄いこ
とです。というのは、中国にはたくさんの農民がいますから。そして、トウモロコシや小麦にし
ても、おそらく、国際水準、国際価格よりは2割か3割ぐらい高いかもしれない。それは国内で
援助するけれども、それも限りがあって、ある程度以上はできないですから、そういうものを本
当に自由化してしまったら、中国だってなかなか大変です。アジアとの関係では熱帯植物があり
ますが、中国の熱帯植物はごく一部です。ですから、いろいろお考えになっておっしゃったので
しょう。僕は、偉いなあと思いました。日本は言えといえば言えるけれども、とてもそれはやり
切る自信はないです。私のお答えはそういうことです。
でも、これはしょっちゅう新聞に出たり、政治家が言ったりするから、本当にやるのかと思い
ますよね(笑)。私などは、言ったら、やればいいと思うのです、やればいいと思うのに、イグ
サやねぎのセーフガードをするようでは、とてもそんな大きなことを言えないです。イグサやシ
イタケ、とてもそんなことではしょうがない。
(笑)。
(李
炫昇) 私は韓国から参りました李炫昇と申します。1998 年に ASEM 会議で一度お目に
かかったことがあるのですが、再度お目にかかれて非常に光栄です。
私の質問は、簡単に申し上げて、これからの日本経済成長のエンジンは何になるかということ
です。例えば、韓国企業も今、非常に悩んでいるのですが、中国から非常に挑戦されておりまし
て、中国の状況が韓国の企業競争力あるいは産業競争力を非常に危なくしているのです。こうい
う状況は日本も全く同じではないかと私は思います。そういうことで、今後未来において、日本
14
はどういう成長エンジンを持って経済を活性化させていく計画にあるかをお伺いします。
(宮澤) 非常に正直な答えは“I don't know”ということです(笑)。今、日本の経済という
のは全くだらしのない姿ですが、その中で困っていることの1つは、たくさんの日本企業が中国
へ行ってしまうことです。空洞化とよくいわれます。中小企業ではない、大企業もかなりの部分
が行こうとしていますから、そういうことも含めて、なかなかこの問題は難しいという思いがい
たします。同じことはおそらく韓国においても起こっているのではないのでしょうか。
やはり付加価値の高い企業が残るとお答えをすることになるのでしょう。しかし、中国だって
同じことをおやりになるのでしょうから、競争関係に立つことはもう間違いはない。どういう付
加価値の高い産業
が日本に残れるか
ということになる
と、適格に申し上げ
られるようなもの
は見えていない、と
いうのが真相です。
ですから、韓国は、
ことに為替危機を
これだけ素早く見
事に乗りきっただ
けに、さて、これからの韓国の成長の要因は何か、成長企業とは何かと、おそらく僕らと同じよ
うにお考えになっているのでしょう。その悩みは同じことですね。
(李
鋼哲) 東京財団で、政策研究をやっている李鋼哲と申します。東京財団はできて4年ぐ
らいで、竹中平蔵先生が大臣になられる前に理事長をやった財団です。そこで、私を含めて 10
人ぐらいのいろいろな外国の方も含めたチームが、北東アジア地域協力問題、特に北東アジア地
域協力のための開発銀行の創設、北東アジア開発銀行を新しくつくるというアイディアについて、
フィジビリティ・スタディを行っております。
その理由の1つの簡単な例を挙げますと、日本が位置している北東アジア地域には、日本、中
国、韓国、そして北朝鮮、モンゴル、ロシア極東地域が含まれて、一応、北東アジア地域協力と
いういろいろな動きが出ていますが、この地域内には、先程先生がおっしゃったように、日本は
外貨をたくさん持っています。今、中国も外貨をたくさん持っています。韓国も合わせると、3
か国だけで約 7000 億ドルの外貨を持っているのです。域内資金を域内で循環させるシステムと
して、もう1つは、やはりこの地域の平和と安定、そして途上国の持続的な発展のために使うべ
きではないかという持論です。こういう新しい開発銀行をこの地域につくっていこう、そこに日
本がもっと積極的に役割を果たそうというのが我々のアプローチです。それについて、先生がど
15
のようにお考えになるかお聞きしたいと思います。
(宮澤)
アジア開発銀行(ADB)にもう少し金を出してやったらどうでしょう。それでは何
か足りないところがあるのでしょうか。
(李
鋼哲) 実は、ADB に北東アジアファンドを設けるなどという考え方も同時にあります。
もちろん、ADB の総裁、日本政府の中にもそういう意見もありますが、現在アジア全体におい
て、地域開発銀行は ADB1つしかないのです。ほかの地域には地域開発銀行はそれぞれありま
す。さらに、サブリージョナルの開発銀行でしたら、米国にもアフリカにも欧州にも数多くある
のです。北東アジア地域の特殊な事情を考えてみますと、世界では発展途上国の人口の約 50%
をアジアが占めているし、人口的にも、発展レベルから見ても、開発の課題が非常に大きいので
す。ですから、ADB だけではやはりこの地域全体をカバーできない。ADB の規模を増やそうと
しても、ADB の通常資本財源を、制度的な枠組みから世界銀行以上に増やせないのです。です
から、新しいサブリージョナルをターゲットとした開発銀行が必要なのです。
(宮澤) 北東アジアというのは、どこの国々を考えていらっしゃるのですか。
(李
鋼哲) 日本、中国、韓国、そして北朝鮮、モンゴル、ロシア極東も一応この中に入れて
います。
(宮澤) なかなかそれはアンビシャスな話だな。そうですか。
(司会) 1つのスタディのご紹介ということで、ありがとうございました。
(白
寅秀) 大変貴重な時間を使わせていただいて恐縮ですが、1点だけぜひお聞きしたいこ
とがあるのです。私は早稲田大学大学院商学研究科博士課程に在学しております。韓国からの留
学生です。
先生のお話を聞くと、非常に謙虚に話していらっしゃるという感じがいたしました。というの
は、先程、戦前、日本がアジアに対してやった
日本の行為は失敗であった、新宮澤構想では何
とかアジアの国々に役に立ちたかったという
話をされましたし、先程フロアーからの、日本
ではこれからどういう発展の成長エンジンが
あるのかという質問に対しても、「真相を明か
しますと何もない」という控えめな表現をされ
ました。
16
それで質問なのですが、今回のテーマは、「グローバル化の中の新しい東アジア」となってい
るのです。これは、ただ単なるアメリカでいわれるグローバル化に対する反応ではなくて、もっ
と積極的な意味でのアジアの価値観、あるいはアジア共同体としての意味合いというものを、こ
ちらから発信しなければならないということだと思うのです。そういうところで、先生ご自身が
考えられる、アジアならではの独自性、東アジアから発信できる新しいものとはどういうもので
あるのか、一言お伺いしたいのですが、よろしくお願いします。
(宮澤) 日本の経済のことと話はまた違うので、私はアジアについて、非常に控えめではなく
て現実的だと思っているのです。なかなか、経済の領域を越えて、一緒にコモンなことをやろう
というのは難しいと思っているのです。それは、各々の国にいろいろ政情があって難しいという
こともあります。国によっては政権が安定していないということもあります。そういうことの前
に、共通なものがなかなかお互いの間で意識されていないと思うのです。それを育てるのがグロ
ーバリゼーションだということならそれでいいのですが、何で一致できるかといえば、共通なも
のがなかなか見つからないのに、グローバリゼーションだけで一致したのでは、困るのです。
しかし、幸いにしてこうやって平和が続いていますから、お互いそういうものを見つけるよう
になっていくかもしれません。ただ、あまり私自身はオプティミスティックになれないものです
から。ことに日本がその中で何かリーダーシップを取ろうなどということには、どうも私は賛成
ではない。そんなことは出すぎたことだと、私は思っているのです。そのような気持ちです。
(司会) ありがとうございました。
これで終わりにさせていただきます(拍手)
。
(宮澤) 皆さん、大変ありがとうございました(拍手)。
17
通貨危機は東アジアに何をもたらしたか
平川 均
名古屋大学大学院経済学研究科付属
国際経済動態研究センター教授
通貨危機は東アジアにグローバル化の時代に
対応する新しい経済構造を創る契機になると共
に、新しい地域社会を生み出す契機になったよう
に思う。それゆえに、地域協力はさらに進展する
だろう。そこには、多様性を認めると共に、いま
までこの地域に欠けていた共通の地域意識を促
進する、新しい地域経済共同体への展望が見てと
れる。そして、この展望は、この地域の経済協力
を通じて達成されるのである。報告では、東アジ
ア通貨危機後の新しい動きと共に、その背景及び意
はじめに
義を考えてみることにしたい。
通貨危機は東アジア経済史の中で将来どのように
理解されるだろうか。1997 年 7 月に起こった東ア
[1]グローバリゼーションと東アジア通貨危機
ジア通貨危機は、90 年代に入って「奇跡」とみなされ
るようになっていた東アジアの経済に大きな衝撃を
1
与えた。それを契機に、東アジアの成長への信認は
方箋
アジア通貨危機の勃発とアメリカ・IMF の処
大きく揺らいだ。その後、東アジアは予想を超える
通貨危機が 1997 年 7 月にタイのバーツ危機とし
速さで危機から回復したものの、多くの課題が指摘
され以前のような信認を得られないでいる。
て勃発すると、それは瞬く間に東アジアに「伝染」
この危機は、しかし、東アジアの経済発展の歴史
(contagion)した。夏のうちにインドネシア、マレ
において普通に見られる単なる危機の一つに過ぎな
ーシア、フィリピンなどの ASEAN 諸国に、同年秋
いものだったのだろうか。それとも、東アジアに変
以降は香港、韓国へも広がりアジア通貨危機へと深
化をもたらす大きな危機だったのだろうか。今は、
化した。危機の起こる前月の 97 年 6 月を 100 とし
だれも確実なことは言えない。しかし、東アジア経
て各国通貨を見ると、98 年 1 月の谷に向かって急激
済社会史における大きな転換点であった可能性が強
に下落し、比較的軽微なシンガポールの約 20%の下
い。
落以外、韓国、フィリピン、マレーシアがほぼ 50%、
18
インドネシアに至っては 80%も下落した。その後回
ーズトラストなどの金融機関に金融コンソーシアム
復基調に乗るものの、インドネシアのみスハルト体
を 構 成 し 、 150 億 ド ル 規 模 の 予 備 流 動 性 基 金
制の崩壊という政治的危機を反映して 98 年 6∼7
(Back-Up Facility)を確保しようと試み、また日
月にもうひとつの谷がある。99 年末にはインドネシ
本銀行との通貨スワップ協定も結ぼうとした。しか
アのみ 70%、その他の国は 20∼30%の下落水準に
し、アメリカ政府の反対によってこれらの交渉は不
持ち直した。危機の直接的な契機は、短期資本の大
調に終わり、韓国はコンディショナリティー付の
量の流出であった。
IMF の融資に頼らざるを得なかったのである[高
2000:16]
。アメリカは自らの考える構造改革が唯一
ところで、通貨危機に陥った東アジアの国々だけ
でなく、その後の政策に重大な責任を負うアメリカ
の解決策と考えたからである。
政府や IMF、世界銀行などの政策決定者、エコノミ
タイ支援東京会議を契機に、日本政府が実現に乗
ストは、とりわけ当初、危機の性格を認識していな
り出したアジア通貨基金(AMF)構想もアメリカと
かったといえる。タイの危機は 1997 年 8 月段階で
IMF の強い反対で実現しなかった。同構想は 1997
はタイ 1 国の危機と理解されていた。その月の初旬
年 9 月タイで開催されたアジア欧州会合(ASEM)蔵
に東京で IMF の呼びかけによって開催されたタイ
相会議、香港で開かれた日本−ASEAN 非公式蔵相
緊急支援会議1で、総額 162 億ドルの支援が合意さ
会議、IMF-世銀年次総会、G7 会合などで提案され
れたが、そのうちには香港、シンガポール、マレー
た。しかし、アメリカと IMF の強硬な反対によって、
シアの各 10 億ドル、合計 30 億ドルと、インドネシ
同年 11 月にマニラで開かれた 14 カ国蔵相・中央銀
ア、韓国、中国の 3 カ国による 13 億ドルが含まれ
行総裁代理会議において断念され、代わって IMF
ている。いうまでもなく、これらの国は、その直後
の対応力の強化と域内サーベイランスの設置からな
に通貨危機に陥るか、その影響を強く受けた国であ
るマニラ・フレームワークが合意された[外国為替等
る。そうした国が、この時点で支援に同意した理由
審議会 1998:13]。IMF が AMF に反対した理由は、
は、むしろ苦境に陥った域内の国に対して支援を行
AMF が創設され、IMF と比べて緩やかな条件で巨
うという連帯意識によるものであり、自らへの危機
額の融資がなされるならば、モラルハザードのリス
の波及を予想した結果ではなかったように思われる。
クが高まるということであった。同時にもうひとつ
あくまでも危機はタイ経済のファンダメンタルズや
の理由として、AMF の理念が IMF とアメリカの理
政策の未熟さという内的要因によって起こったと理
念と対立的であり、IMF との関係でも調整が難しく、
解されていたのである。
IMF の潜在的な対立のリスクが高まること[ADB
だが、こうした理解はアメリカ政府と IMF におい
1999:44]、同時にそれは、日本の東アジアにおける
てはさらに強かった。アメリカ政府は、同年 8 月の
リーダーシップの増大と地域主義への動きとなって、
タイ支援会議には参加を拒否したが、同年末に危機
アメリカの指導力の低下になるということであった。
に陥る韓国に対しても支援の手をまったく差し伸べ
『ウォールストリート・ジャーナル』によれば、サマ
なかっただけでなく、政府として支援の動きを阻止
ーズ米財務長官は、マニラの会議で日本に AMF 提
したのである。同年 11 月初め、韓国政府は IMF の
案を断念させた後、次のように述べている。
「アメリ
緊急融資を避けるために米シティーバンク、バンカ
カの経済的なリーダーシップは、われわれが両大戦
間期に見たような地域主義と保護主義に転落するの
IMF 専務理事のミカエル・カムドゥスは、1997 年 8 月 5
日、IMF の支援プログラムとは別に、タイの政策努力を
支援する補助的金融パッケージを協力して行う東京会議
を開催するため関係政府、多国籍機関に連絡を取った
[IMF News Brief No.97/17, August 7, 1997].
1
を 避 け る た め に 決 定 的 に 重 要 で あ る 」 と [WST,
Sep.24, 1998]。アメリカや IMF の政策決定者、エ
コノミストにとって、当初、危機は、
「クローニー資
16
本主義」と呼ばれるような東アジアの経済制度や組
会構造を持つと思われていた東アジア諸国の信認喪
織の内的欠陥の反映であり、それゆえに IMF による
失に繋がり、東アジア通貨危機に発展したと理解さ
構造改革が強く求められたのである。そしてそうし
れたのである。そして、アメリカ政府の対応と IMF
た見方からすれば、東アジアの地域協力による危機
の処方箋はその危機を深化させる役割を果たした。
の解決策および回避策は、地域主義、保護主義の動
国連貿易開発会議(UNCTAD)の報告書は、IMF
きであり、従って自由貿易体制への脅威である、と
の処方箋による高金利や財政緊縮政策が金融機関の
同時にアメリカの指導力への挑戦であり、阻止の対
貸し渋りを発生させることによって本来有利なはず
象となるのである2。
の輸出向け製造業さえ危機に陥れたことをはっきり
ハーバード大学教授で全米経済研究所所長のM・
と指摘している[UNCTAD 2001:131]。世界銀行副
フェルドシュタインが、「IMF の最大の誤りは、伝
総裁であった J・スティグリッツも IMF が危機を深
統的な機能から踏み出し、アジアの国々に構造改革
めたと同様の見解を表明した。
を課す機会として危機を捉えようとしたことだ」
[日
こうした批判は 1998 年中頃になると危機がアジ
経 1998.5.7]と非難したように、IMF は「支援の条
アの枠を越えて拡大したことで確実に強くなった。
件として(ソビエトや東欧と同様に)経済構造や制
それに応じて、IMF は緊縮政策を緩和するようにな
度を根本的に変革するよう迫った」のである
り、危機の原因についても自由化政策の順序を重視
[Feldstain 1998:22] 。しかし、彼がこの時に指摘し
するようになる。危機は自由化によって起こったの
ていたように、アジア通貨危機は一時的な流動性危
ではなく、強固な金融システムの構築以前に、金融
機であって、ファンダメンタルズに問題のある東欧
を自由化したことが問題だったというのである。し
諸国や旧ソビエトとは危機の性格が異なっていた
かし、この解釈でも、構造改革の必要性を説く点に
[Feldstein 1998:25; Radelet & Sachs 1997:45;吉冨
おいては何の変化はない。構造改革の課題は世界銀
2001]。
行によってその後も確実に続けられていくことにな
るのである[平川 2002a]。
ちなみに、IMF が融資の条件に課したコンディシ
ョナリティーは、伝統的な処方箋である政府支出の
2
削減、増税、金利引き上げの他、市場の開放と構造
資本の過剰流動性と東アジア通貨危機
改革であった。IMF は危機を次のように説明する。
「危機は金融システムの脆弱性と、より小さな程度
東アジアの制度・組織の脆弱性に危機の本質を見
でガバナンスの脆弱性から生まれた。不適切な金融
ようとするアメリカや IMF の解釈は、危機が 1998
セクターの監視、脆弱な金融リスク評価と金融リス
年に入ってロシアやブラジルに波及し、世界的な危
ク管理、そして相対的に固定的な為替レートの維持
機へと発展することで、ある程度影響力を失った。
が結びついて、銀行と企業に外貨中心で、その多く
しかし、同年 9 月にアメリカの著名なヘッジファン
が短期資本でしかもヘッジされていない大量の国際
ド LTCM がロシアでの運用の失敗によって実質的
資本を借り入れさせた。時と共にこの流入した海外
な破産に追い込まれ、それをニューヨーク連邦銀行
資本がより低質の投資に向けられた」[IMF 1999]
。
が支援すると、投機的な取引が危機を引き起こした
そのため、タイで危機が発生すると、同様の経済社
とする見方が急速に支持を得ることになった。実際、
ニューヨーク連邦銀行は、LTCM の破産によるアメ
2
ウォールストリート・ジャーナルは、「アジア通貨基金
が巨大な融資をIMFよりも緩やかな条件で行われ、アメ
リカの経済的優越性を脅かすことを、ルービン米財務官と
サマーズ米財務長官が恐れていた」と報道している[WSJ,
Sep.24,1998]。
リカ金融システム不安を恐れて、オフィスの 1 室に
16 の主要銀行と証券会社代表を集め、総額 35 億ド
ル を 上 回 る 支 援 を ま と め た [New York Times,
17
Sep.24, 1998]。そして、この事件を決定的な契機と
な資金造りと投機性の強い資本取引の実態の一部が
して、それまで不明であったヘッジファンドの膨大
明らかになった。危機はヘッジファンドの投機、そ
バレッジ(梃子の原理)を通じて膨大な資金を調達し
うした投機を許す短期資本の過剰な流動性が原因と
て金融取引を行う金融機関(HLIs)の直接規制は実
みなされることになったのである。
現していない。アメリカはヘッジファンドなどの
HLIs の問題も、そうした機関を利用する銀行の情
投機を危機の元凶とする見方は、通貨危機が発生
報開示によって回避できるとの主張を繰り返してお
すると直ぐにマレーシアのマハティール首相が表明
り、東アジアの国々や発展途上国は自己防衛を余儀
していた。彼は、著名な投資家ジョージ・ソロスを非
なくされているのである。
難し、1997 年 9 月香港で行われた IMF・世銀合同主
[2]東アジア通貨危機の教訓と対応
催のセミナーでは、ソロスを非難し、同時に「貿易
取引を伴わない為替取引を違法とすべきだ」
[Financial Times, Sep.23, 1997]と自説を述べた
アジア通貨危機の最大の特徴は、地域を越えた世
が、単に嘲笑されるのみであった。しかし、アジア
界的な「伝染」であり、それを 1 国の内的要因やアジ
通貨危機が深化し世界的に拡大していく中で、翌年
アの制度・組織の特質から説明できない。そして、
春以降、コロンビア大学教授のB・バグワティ、当
その危機は、1980 年代後半からアメリカ、IMF、さ
時世界銀行副総裁のJ・スティグリッツなどが短期
らにアメリカ系銀行や証券会社によって強力に推進
資 本 取 引 の 危 険 性 に 言 及 し [Bhagwati 1998;
されたグローバリゼーション、金融自由化の圧力に
Stiglitz 1998]、MIT 教授のP・クルーグマンもアジ
さらされて[Pempel 1999:70]、そのブームに乗った
アの通貨危機を、基本的に経済ファンダメンタルズ
ことが原因である。
によるものでなく、投機家の投機や不安心理が作り
実際、1990 年代に入ると東アジア諸国の多くは本
出した「自己実現型危機」であるとの見解をとるよう
格的に自由化を推進し、その結果生じた膨大な短期
になる[Krugman 1998]。こうした中で、LTCM の
資本の流入の持つリスクも、国際機関や国際的格付
倒産劇が国際金融システム危機への脅威となること
け会社によって過小評価され、むしろ信認が高まり
によって、初めて国際社会の重要なテーマとなった
さえした[BIS 1998:125-127]。世界銀行は、危機の
のである。
起こる 1 年前のある報告書において、タイが大量に
もっとも国際金融取引の危険性が多くの論者から
流入する資本をうまく処理している典型国に数えて
発せられたにしても、アメリカは一貫して金融市場
いたほどである[World Bank 1996:71]。数十年にわ
の規制に反対している。日本は 1998 年秋に、過剰
たって高成長を続ける東アジアはこうして大量の短
流動性とドルへの過度な依存がアジア通貨危機の原
期資本を引きつけたが、その危険性は指摘されず、
因であるとして大規模な投機的資本取引の規制、お
むしろ助長させられた。東アジア諸国は、エマージ
よびそうした金融機関への監督を主張した。同年 11
ング・マーケットとしてアメリカなど先進国の銀行、
月にマレーシアで行われた APEC 首脳会議では、ア
証券会社、ヘッジファンドなどの手ごろな運用先と
ジア諸国は投機の規制を主張したが、アメリカは反
なったのである。その結果がシステム危機としての
対した。この問題はその後の IMF,G7 首脳会議、
通貨危機である。アメリカとIMFはそれにも拘ら
G7 蔵相会議などの議題となった。ヘッジファンド
ず、危機に陥った国に一方的な責任を負わせたとい
の規制については、国際決済銀行(BIS)のバーゼル銀
わねばならない。
しかし、そのことは危機に陥った国に制度的な脆
行監督委員会の下でもっぱら検討されているが、レ
18
弱性や政策的過ちがなかったことを意味しない。ア
革を分析したある研究が「彼らの考えるコーポレー
ジア開発銀行は『アジア開発展望 1999』で、通貨危
ト・ガバナンスが欧米機関投資家のための現地大企
機が一見するとファンダメンタルズと無関係に引き
業のそれ」であると要約していることは興味深い。
起こされたように見えるが、危機に陥った国をよく
事実、世界銀行とタイ公認会計士協会の共同作業で
見ると、長期的プロジェクトに短期債務が使われ、
作成されたタイの新会計・監査制度は、アメリカの
国内銀行は国内企業に現地通貨建てで貸し出す一方、
財務会計基準に合致しており、上場企業に監査人委
短期の外貨をヘッジなしで借入れ、更に信用の安易
員会と社外取締役制度の設置、財務諸表の英文での
な利用がますます高リスクの資産への投資を拡大し
報告が義務付けられている。構造改革がアメリカ標
たことを無視できないという[ADB 1999:27]。内的
準への改革であること、とりわけアメリカ企業にと
要因は通貨危機の主要な原因とはいえない。しかし、
っての改革であることを思い知らされるのである
危機国の反省点として理解するならば、この指摘は
[鈴木 2000:73]。
正しい。東アジアの危機国は、IMF の融資を得るた
もっとも、世界銀行やアメリカの求める構造改革
めにコンディショナリティーを受け入れなければな
路線に沿って改革がなされているにしても、他方で
らないにしても、同時に、この外圧を利用して主体
危機国独自の政策も追求され始めている。タイでは、
的な構造改革を推進し脆弱性を克服しようとするこ
2000 年末までに立案された経済社会再構築の方針
とは自然である。とりわけ、東アジア諸国がグロー
では、世界銀行の方針と異なると同時に、日本の支
バル化のなかで工業化と経済発展を達成し、引き続
援を受ける産業構造調整事業や中小企業支援事業が
きこの方向で発展を追及する限り、国際競争力を高
掲げられている[末廣 2000:101]。アジア NIES やマ
めるために構造改革は不可避の課題となるのである。
レーシアでは IT 投資が活発である。
危機の原因をどこに求めるかに関係なく、これが、
為替制度もタイやインドネシアでは、経済が回復
東アジア諸国が通貨危機から得たひとつの教訓であ
するに伴い 2000 年末から一部規制の動きが見られ
る。なお、地域協力がもうひとつの教訓であるが、
るようになった。2001 年 1 月にタクシン政権が誕
それについては次節で論じる。
生したタイでは、民間金融機関の不良債権買い取り
さて、構造改革は世界銀行が主導して推し進めら
による金融機関の救済が始まった。韓国では 2000
れ 、 金 融 セ ク タ ー 改 革 と 企 業 統 治 ( corporate
年末から財閥系企業への金融支援や公共事業対策の
governance)に収斂していった。金融セクター改革
強化の動きが現れた[日経 01.2.5]。為替制度にして
では、金融セクターの有する大量の不良債権のため
も、タイやインドネシアにおいて非居住者間の自国
再建の目処のたたない銀行やノンバンク系金融会社
通貨の為替取引を制限するようになっている。
の閉鎖と、その他の金融機関の不良債権の買い取り、
こうした動きは構造改革を不徹底にして国際競争
資本の注入が試みられ、そのための資本注入機関の
力を失い、再度の通貨危機を呼び起こすものである
設立などの制度的枠組みが作られた。企業統治では、
との批判が一般的である。しかし、マレーシアが 98
経営の不透明性、会計基準や監督・規制の欠如が問題
年 9 月に実施した資本の取引規制は、IMF がその後
とされ、そのための制度化と情報開示が求められて
成功例と認めざるを得なかったように[IMF Public
いる。ここで興味深いのは、企業統治の強化が上場
Information Notice No.99/88]、効果的に機能した。
企業に限定されていることである。IMF、世銀、ア
それは、IMF や主流派エコノミストの主張が唯一の
メリカは、アジア諸国の会社法それ自体の改正には
解決策でなかったことを示している。実際、深刻な
関心を示さず、証券取引法規の改正に関心があると
通貨危機を免れた国は、中国はもちろん、台湾、シ
いわれる。そのため、通貨危機後のアジアの法制改
ンガポールのいずれも、為替取引の規制を行ってい
19
たのである[阿倍・佐藤・永野 1999; Jin 2000]。
力への強力な内的圧力であった。アジア通貨危機が
2001 年 1 月に神戸で開かれた ASEM 蔵相会合に
グローバリゼーションに伴うシステム・リスクであ
出席した、ホルスト・ケーラーIMF 新専務理事は、
る限り、これを回避することは 1 国の対応能力をは
発展途上国の為替制度として一定の状況では変動相
るかに超えると判断せざるを得ない。ところが、ア
場制に代えて固定レート制もありうることを表明し
メリカも IMF もそれを原則的には認めないのであ
た[Koehler 2001]。それは、マレーシアの固定レー
る4。しかも、アジア諸国は危機に陥っても、ラテ
ト制や日本政府が東アジア諸国の為替制度として提
ンアメリカ危機時にブラジルやメキシコが経験した
唱しているバスケット為替方式などの採用の可能性
ようなアメリカや IMF の強力な支援を期待できな
をも容認するものである。
い。通貨危機の再発を回避するための通貨金融協力
IMF、世銀、アメリカに主導される構造改革から
への試みを軸に、東アジアでは、地域協力への機運
の逸脱や改革の遅れを単純に怠慢として否定するの
が高まるのである。
は性急である。むしろ各国に適した改革の模索であ
そしてこの動きを決定的にしたのが、ヨーロッパ
る可能性を認めるべきだろう。それは、東アジアの
共同体(EU)に 1999 年 1 月に誕生した共通通貨ユー
国々が決してグローバル経済からの離脱を志向して
ロであった5。それは、通貨危機を経験して通貨問
いる訳ではなく、むしろグローバル化する経済に参
題の重要性に気づいた東アジアにとって衝撃であっ
画しようとしているからである。しかし、各国は社
た。日本はユーロ誕生の日、宮沢蔵相が「緊密な経
会的軋轢を最小限にする必要があるし、社会の許容
済金融連合への偉大な 1 歩である」と祝福の声明を
量を見定めつつシステムの構築を目指している可能
発すると同時に、円の国際化に言及した。そして、
性を否定できない。改革に時間的な観念を加味する
この後一時的だが、とりわけ円の国際化を真剣に考
必要もあるだろう。
えるのである。
他のアジア諸国でも、関心はアジアの通貨に向か
[3]東アジアにおける地域経済・金融協力の発展
1 ふたつの衝撃:通貨危機と欧州単一通貨の誕
生
アジア通貨危機後の東アジアの国際秩序における
大きな変化は、地域協力の枠組みが誕生し、経済統
合に関わる議論や検討が始まったことである。既述
のように、これも通貨危機のもうひとつの教訓であ
る。一般に、アジアにおける地域協力あるいは地域
主義の高揚は、通貨危機とは無関係に、ヨーロッパ
と米州の地域主義のリアクションとして説明される。
地域協力が通貨危機後に実体を伴うことになった理
由も 1990 年代後半における FTAs の高揚の中で説
明されることが多い3。しかし、通貨危機は地域協
3
GATT/WTO に報告された FTA の動きを見ると、1970
20
年代に小さなひとつのブームがあるが、90 年代に起こる
今回のブームが最大のものである。日本の経済産業省の
2001 年版『通商白書』によれば、FTA 総件数は 113 件で
あり、そのうちの 17 が 70 年代、66 件が 95 年以降であ
る。地域別では FTA の 80%以上がヨーロッパに集中して
いる。90 年代のブームを見ると、85 年の「市場統合白書」
が契機となったといえる。EU はこの市場白書にしたがっ
て 93 年完全市場統合を果たした。これに続いたのがアメ
リカである。アメリカは 89 年に米加自由貿易協定を締結
し、92 年にはメキシコを加えた北米自由貿易協定を形成
した。そして、この 2 つの経済圏は、前者が東欧へ、米州
では全域に拡大している。94 年の米州首脳会議は、2005
年の全米自由貿易協定(FTAA)の形成に合意した。こうし
た流れの中で、東アジア地域の FTA あるいは地域主義の
高揚の説明がなされるのである。
4
最近、IMF の政策を批判した世界銀行元副総裁スティグ
リッツに対して、IMF の幹部が IMF を擁護して強い批判
を加えている。
5
ちなみに、2002 年 1 月にはユーロ導入 12 カ国(ユーロラ
ンド)において旧各国通貨との交換が、当初不安も語られ
たが、成功裏のうちに実現した。なお、12 カ国は、ドイ
ツ、フランス、イタリア、スペイン、ベルギー、ルクセン
ブルク、オランダ、オーストリア、ポルトガル、フィンラ
ンド、アイルランド、ギリシャである。
った。マレーシアのマハティール首相は日本の1新
中でアメリカも IMF も認める以外なかったのであ
聞社のインタビューに答えて、ユーロと同様にアジ
る。こうして、同年 12 月以降、マレーシア、タイ、
アにも国際通貨が必要であるとして、円の国際化を
インドネシア、フィリピン、韓国などに順調に支援
支持した[毎日 1999.1.12]。タイの高官も同じである。
が約束され、2000 年 2 月までの支援約束額は合計
幾つかの中央銀行もアジアの共通通貨は遠い将来の
210 億ドル相当円に達した(財務省ホームページ)。
こととしても、共通通貨について語り始めた[Japan
宮沢構想は、危機国によって期待を持って受け入
Times, Jan.12, 1999]。
れられ、その上、東アジア諸国が 1999 年になると
通貨問題の重要性の確認は、東アジアにおいて急
回復基調に乗ったことで、高い評価を得た。宮沢構
速に地域協力・地域主義への機運を高めることにな
想は東アジア地域での日本の役割を認識させること
るのである。
に成功し、改めて地域協力への機運を高めたといえ
よう。ただし、同構想はアメリカの反対を避けるた
めに 2 国間支援の形態を採り、ASEAN 諸国など東
アジアの国々に対して持つ意味が AMF と異なる。
そのため地域協力の進展の中で、その後、再び AMF
への関心が呼び起こされることになるのである。
2
通貨金融協力の分野ではその後、一層の前進があっ
地域金融協力と協力枠組みの発展
た。2000 年 5 月にタイのチェンマイで催された
AMF 構想が挫折した後、1998 年 10 月に新宮沢
「ASEAN+3」蔵相会議はチェンマイ・イニシアティ
構想6(「アジア通貨危機を克服するための新構想」
、
ブに合意した。通貨危機の再発防止のために各国が
通称、宮沢構想)が発表された。これは、前年に AMF
通貨スワップ協定を結ぶというものである。しかも、
構想をアメリカの反対によって断念した日本政府が
これは 97 年にアメリカの反対にあって断念された
装いを新たに提案したもので、最終的に 12 月に実
AMF への第 1 歩であり、やがて単一通貨の実現に
施に移された。経済回復のための中長期資金 150 億
向かうだろうという展望が語られるまでになってい
ドル相当円と、経済改革過程で必要な短期資金 150
る。
億ドル相当円、合計 300 億ドル相当円からなる支援
金融・通貨協力の進展と歩調を合わせて進んだの
パッケージで、それは同時に、円の国際化にも資す
が、「ASEAN+3」会議の定例化である。もっとも通
る政策であった。
貨危機が決定的契機となるが、それ以前に助走段階
ところで、宮沢構想が提案されたこの時期には、
があった。最初の発案は、1990 年 12 月にマレーシ
すでに世界銀行などでも IMF の緊縮政策に批判が
アのマハティール首相が提唱した東アジア経済グル
強まっており、日本の提案は、J・スティグリッツ
ープ(EAEG)の提案である。しかし、この提案はア
やハーバード大学教授のサックスらによって支持さ
メリカとオーストラリアが反対し、東アジア経済協
れた。AMF 構想が実現していればこれほどの危機
議体(EAEC)に名称変更され、92 年の第 4 回
に陥らなかったはずであり、同時に、現在の IMF
ASEAN 首脳会議(シンガポール)で重要性が確認さ
のみでは東アジア通貨危機への対応が困難であると
れたものの、89 年に誕生したアジア太平洋経済協力
いうのが主な理由である。そのため、深刻な危機の
会議(APEC)を分断するものであり、地域主義の動き
だと批判されて機能しなかった。日本はアメリカの
6
意向に沿って参加を拒んだ。
この構想が「新宮沢構想」と呼ばれるのは、80 年代後半
のラテンアメリカ債務危機に対して支援の提案を行って
いるからである。
東アジアにおける最初の自由貿易協定は、急速に
21
工業製品輸出国として台頭する中国への対抗策とし
議では ASEAN 首脳会議にあわせて「ASEAN+3」首
て ASEAN が 92 年に合意した ASEAN 自由貿易地
脳会議を定期的に開催することが合意された。
域(AFTA)であり、それは 2008 年(その後 2003 年に
だが、「ASEAN+3」地域協力枠組みの飛躍的発展
短縮)までに完了することになっている。しかし、こ
は、1999 年 11 月フィリピンのマニラで開かれた第
の動きが北東アジア地域に拡大することはなかった。
3 回首脳会議である。この会議で史上初めて「東ア
実際、韓国、中国、台湾、香港、日本の北東アジア
ジアの地域協力に関する共同声明」が出され、東ア
の 5 カ国・地域は 2000 年までどのような地域貿易協
ジアの政治、経済、文化、安全保障の幅広い分野で
定にも参加しないできたのである[石川 2002:16]。
地域協力の強化が謳われた。実際、第 1 回と 2 回の
日本の公式の理由は、大戦後、戦争の原因がブロッ
「ASEAN+3」首脳会議はひっそりと開催された。そ
ク化にあったとして GATT の多角的貿易システムを
の理由は、地域主義を強く警戒するアメリカの目を
重視してきたことである。しかし、その他、日本の
気にしていた面もあるだろう。しかし、それ以上に
アジアへの侵略の歴史と戦後の東西冷戦の枠組みが
日本がアメリカと一定の距離を置く決断をすること
地域の対話を困難にさせてきたこと、それにも拘わ
が不可欠であり、同時に、歴史的わだかまりを持つ
らず順調な成長を維持してきたことがある[平川
北東アジア 3 国が協力を決断することが必要であっ
2002b]
た。先ず、そのハードルが取り払われることで、
EAEC の制度化は、しかし、ASEAN によってそ
「ASEAN+3」の協力枠組みが急速に進展するのであ
の後も地道に続けられた。1996 年 3 月バンコクで
る。
開催された第 1 回アジア欧州会合(ASEM)にはアジ
2000 年 11 月の第 4 回「ASEAN+3」首脳会議(シ
ア側メンバーとして ASEAN に日本、韓国、中国の
ンガポール)は、サミットを ASEAN の招待会議から
3 カ国が参加し、EAEC と同じメンバーであった。
アジア首脳の会議にしようとする提案がなされた。
また、97 年 1 月に東南アジアを訪問した橋本龍太郎
また、議長のゴー・チョクトン・シンガポール首相
首相が、当時日本の進めていた日米ガイドラインの
からは東アジア経済圏の創設が提案され、その作業
見直しへの理解を得るために提案した「ASEAN+
部会の設置も合意された。この提案は、中国の朱鎔
日本」首脳会議は比較的好意的に受け入れられたも
基提案による ASEAN・中国 FTA への代替案として
のの、慎重な意見があった。そのため、ASEAN は
出されたものであったが、東アジア規模の自由貿易
同年 12 月に開かれる ASEAN 創設 30 周年の首脳会
圏の提案が、アジアの首脳会議の場において歴史上
議に日中韓首脳を招待する提案で応えたのである。
初めて提起された意義は大きい。この会議ではその
ASEAN は、日本との関係強化が日米安保の強化に
他、情報技術分野の人材育成、熟練の開発、労働者
強い警戒感を示す中国との関係を悪くするだけでな
の訓練などを通じて経済の遅れた国を進んだ国が助
く、EAEC 構成国からなる地域協力枠組みの構築に
ける「ASEAN 統合イニシアティブ」(IAI)の開始も合
とって日本のみとの関係強化は好ましくないと判断
意された。
したからだろう[平川 2002b]。
首脳会議以外でも、「ASEAN+3」の枠組みでの定
こうして ASEAN が日中韓首脳を招待した 97 年
期的な会議の制度化が進んでいる。1999 年からは財
12 月の会議が最初の「ASEAN+3」首脳会議となった。
務省会議、2000 年からは経済閣僚会議、外相会議が、
それはいうまでもなく、アジア通貨危機の真っ只中
2001 年からは労働大臣会議が開始されている。協力
の会議となり、当然にも通貨問題が話し合われ、地
分野も貿易、投資、金融の他、情報技術、e コマー
域協力の必要性が確認された。98 年 12 月にベトナ
ス、中小企業支援、メコン川流域開発や環境問題な
ムのハノイで開かれた第2回「ASEAN+3」首脳会
ど広範な領域にわたっている。
22
また、99 年には「ASEAN+3」首脳会議で初めて日
における包括的経済連携構想の提案となった。フィ
中韓での会合が昼食会として催され、2000 年の首脳
リピンは、ASEAN・中国 FTA に積極的に対応する
会議からは 3 カ国会議が定例化され、曲がりなりに
姿勢を示し、将来の東アジア経済圏への期待を表明
も北東アジア首脳会合が実現している。これは、北
している[日経 02.5.21]。
中国は現在、香港とマカオとの FTA の正式協議を
東アジア地域のサブリージョナルな協力体を創る第
1 歩になる可能性がある。
開始し、その香港はニュージーランドと協議を開始
し、シンガポールから打診されている。台湾はニュ
3
ージーランドとの間で研究が始まり、日本とアメリ
自由貿易協定の新しい動き
カとも研究が合意あるいは始まっている[『日経』
本章 1 節で触れたように、地域経済統合、あるい
02.4.12]。なお、韓国はこの間、チリ、ニュージー
は自由貿易協定(FTAs)の動きはヨーロッパ中心で
ランド、シンガポールと交渉を始めた。今では、北
あり、米州にも拡大したが、アジアでは消極的であ
東アジア地域のすべての国・地域が何らかの FTA に
った。しかし、通貨危機後は新しい動きとなった。
関わる政策転換を行っているのである[石川
1998 年 10 月に日本を訪問した金大中大統領は日韓
2002:16]。
自由貿易協定を提案し、その検討が始まった。日本
東アジアで FTA にもっとも積極的な国はシンガ
への FTA 提案はこの年の 5 月にメキシコが行った
ポールである。同国は 2000 年 11 月にニュージーラ
のが最初であるが、翌 99 年 12 月にはシンガポール
ンドと FTA を締結し、99 年中にチリ、
2000 年以降、
が FTA の提案を行い、日本はこの時期に徐々にだが
カナダ、メキシコ、アメリカ、オーストラリアと交
政策転換に乗り出すのである。2000 年版の『通商白
渉を始めている。タイも 2001 年 1 月にタクシン政
書』は、FTA を検討しそれを推し進めることを表明
権が誕生すると、FTA に積極的になり、2001 年 11
した。それは、従来の WTO を中心とした多角的貿
月には日本にも提案した。
易システムを重視し、2 国間協定に参加しないでき
東アジアの FTA もその主要な市場であるアメリ
た日本の政策転換といえる。2002 年 1 月には、シ
カやメキシコ、チリなど地域を越えた交渉が目指さ
ンガポールと最初の FTA の調印が実現した。
れており、決して域内に限定されてない。しかし、
韓国による日韓自由貿易の提案に関しては、両国
域内の経済の有機的な関係を強め、域内市場の発展
の 2 つの研究機関により FTA の研究報告書が 2000
に役立ち、それは外部世界で進展している地域主義
年 5 月に発表された。韓国も日本もその後、一時消
から生まれる不安や、経済変動に対する抵抗力を強
極姿勢に戻るがそれが与えたインパクトは大きく、
めることになるだろう。
年末のシンガポールの日本への FTA 提案に繋がる。
さらに、中国が同じ 2000 年 11 月の「ASEAN+3」首
[4]東アジア地域協力の課題と挑戦
脳会議で ASEAN への FTA を提案した。その提案
は、
1 年後のブルネイで行われた第 5 回「ASEAN+3」
通貨危機を契機に東アジアに地域協力秩序が創ら
首脳会議で 10 年後に FTA を結ぶ合意となって結実
れ、また、経済統合への動きが顕著に見られるよう
した。中国はこの交渉で、熱帯産品の先行した輸入
になった。しかし、それが今後、達成されるために
自由化などの譲歩を示して合意を探った。これを受
は大きな障害がある。
けて、韓国は直ぐに ASEAN と FTA 研究の専門部
シンガポールがとりわけ積極的に進める FTA に
会の設置に合意した[Nation, Nov.7,2001]。日本も
ついても ASEAN 諸国のすべてが賛成しているわけ
翌 2002 年 1 月の小泉純一郎首相の ASEAN 訪問時
ではない。大きな流れの中で声がかき消されている
23
が、シンガポールの政策に対しては、ASEAN 市場
り 10∼30%高く、WTO への加入によってさらに格
への「裏口」である、「ASEAN の団結を乱す」、「抜け
差は広がる[Li 2002:4]。ASEAN との FTA はそうし
駆け」だ、などの批判がマレーシアやインドネシアな
た中国に一層の困難を強いることになる。東アジア
どから上がっている[日経 2000.11.27;マハティール
FTA の締結は、それぞれの国がこうした困難を乗り
2001:33]。マレーシアは自国の国産車メーカーのプ
越えなければならないのである。
ロトンを守るため自動車関税の引き下げを 3 年延長
ところで、東アジアの地域協力はそれ自身が域外
したが、競争力のない産業を有する国や後発国は急
関係、とりわけアメリカとの関係に変化を生み出す。
速な市場統合に不安を感じている[Nation, Nov.2 &
アメリカのアジア戦略に大きな変更を迫る内容を持
7, 2001]。
っている。チェンマイ・イニシアティブを扱った『フ
確かに、FTA は各国の産業構造の改革に関わる効
ァー・イースタン・エコノミック・レビュー』のある
果を持っている。しかし、それは痛みを伴う。日本
記事は、同イニシアティブが東アジア金融統合の第
はその点で今のところ十分な決意を持っていない。
1 歩といわれているが、スワップ協定額の 10%を超
日本はシンガポールと FTA を締結したものの、シン
える規模の供給では IMF の同意が要り、制度は自由
ガポールと FTA を最初に結んだ理由は農業問題が
に使えず、IMF に逆らえない。日本は地域主義の最
基本的になかったからである。農産品は何一つ開放
大の推進者であると同時に最大の障害でもある、と
せず、
「実質的に農業は『聖域』として開放できない
日本の立場を批判している[Dieter 2001:29]。フィリ
ことが浮き彫りとなった」[重岡 2002:40]。
ピン大学教授のウォルデン・ベローは、日本がアメ
小泉首相が提案した包括的経済連携構想にしても
リカと IMF と対決しようとしなかったことが通貨
農業の自由化は真剣に検討されていない。中国は、
危機を深刻なものにした、として日本にアジアの立
ASEAN との FTA の締結までの期限を設けており、
場に立つよう促している「Bello 2002」。日本に対す
加えて締結のために農産品の早期の関税引き下げを
るこうした見方はアジアでむしろ一般的である。ア
約束しているが、日本はそのような提案はしていな
メリカはアジアにおける覇権を守ろうとする。しか
い。2001 年 4 月、日本はねぎ、生しいたけ、イグ
し、日本は、自国はもちろんアジアの発展のために、
サの 3 品目について暫定セーフガード(緊急輸入制
アメリカと対等な立場で自己を主張し説明しなけれ
限)を発動し、最大の輸入国の中国から自動車、携帯
ばならないだろう。
電話の輸出に報復関税をかけられたが、その根拠は
とはいえ、チェンマイ・イニシアティブは、問題が
説得力を欠き、セーフガードの発動の裏には産地出
あるにしても将来の共通通貨への出発点である可能
身の国会議員の圧力があったという[和田 2002:
性を生んでいる。しかし、各国が結ぶスワップの通
88-93]。農産物の自由化に象徴される日本の課題は、
貨は、日中を除くとドルであって円ではない。各国
FTA を通じて構造改革を進めねばならない。だが、
のスワップ通貨に円を使うことは中国の賛成を得ら
その達成のためには日本の政治改革も同時に遂行さ
れない[朝日 2000.11.25]。中国の日本への強い不信
れねばならないことを示している。
感があるからである。また、アジアの分業構造が深
中国は 2001 年 12 月、カタールのドーハで行われ
まるにつれ、ますます通貨の安定性が重要となるが、
た WTO 閣僚会議において加盟が認められたが、中
通貨の安定には各国の協調的な政策が必要である。
国農業が安い国際価格の輸入品の輸入によって受け
ところが、日本は、急速に産業集積し競争力を強め
ると思われる打撃は深刻である。中国の価格と国際
る中国に対して脅威論が生まれている。ASEAN も
価格の比較をしたある研究によれば、2001 年で小麦、
中国へ海外直接投資が集中することに不安感を強め
コーン、大豆、綿の卸売価格は国際価格(CIF)よ
ている。経済協力の過程で相互に自己を変革し信頼
24
関係を築かなければ、大きな前進は難しい。
そのため、東アジアが共通のビジョンを持つ必要
がある。ヨーロッパが EU を創り共通通貨を生んだ
ように、東アジアにも共通の共同体を作る必要性が
生まれているのである。この点で、1999 年の第 3
回「ASEAN+3」首脳会議が東アジアビジョン・グル
ープを設置したことは画期的である。ビジョン・グル
ープは 2001 年 10 月に報告書『東アジア共同体に向
けて』を各国首脳に提出した[ASEAN+3 Summit
2001]。ヨーロッパ共同体との直接的な比較は難し
いにしても、最近では東アジア共同体を語ることは
決して例外ではなくなった。新しいアジア共同体、
アジア社会の可能性が生まれているのである。
東アジアでは、通貨危機を契機に地域主義の動き
が生まれた。それは、国内、域内、域外のそれぞれ
の領域で大きな課題を背負っている。しかし、グロ
ーバリゼーションが生み出した大きな制度的リスク
を回避し、同時に発展を保障するために地域主義、
地域協力は肯定的に理解される必要がある。それは
閉鎖的な動きと理解されてはならない。歴史、文化、
言語など多様性をもち、歴史的にばらばらであった
社会を、多様性をもちつつ発展させていくために必
要な過程であると思われる。大きな困難を伴うと同
時に、可能性を秘めた出発点ということが出来よう。
そして、新しい社会を創るためには、国家だけでな
く市民が大きな役割を果たさねばならない。
25
平川先生との質疑応答
ンゴルや北朝鮮は通貨危機とほとんど縁がなかった
ような国々です。これらの国が我々の周りにある以
鋼哲) 平川先生とは3つの組織、研究会で
上、地域協力を考えていくうえで、分離されている
お付き合いさせていただいており、指導を受けてい
このような国々に対してどのように対応していくべ
る立場ですから、弟子が先生に対してコメントをす
きか、先生のご意見を伺いたいです。
(李
るということは非常に難しいです。私がこれを務め
3つ目の課題として、今後、通貨統合を含めた東
られるかどうか悩みましたが、勉強するつもりで先
アジア統合ですが、ユーロ圏やドル圏と比べると、
生と一緒に今後の東アジアの協力課題について考え
アジアにはアジアの多様性、特徴があります。それ
たいと思います。
を考えながら、アジア式の、別のかたちの特殊性を
生かした今後の東アジア統合を考えていくべきだと
通貨危機の
いうのが私の意見です。
原因分析につ
先生のコメントをよろしくお願いいたします。
いては、いろい
ろと評価が分
(平川) 李さん、ありがとうございました。
かれるところ
です。平川先生
まず、内的な構造改革をしなければ、おそらくア
の基本的な考
ジアはこれからの発展にあたって、非常に大きな困
え方は、東アジア通貨危機やその原因を、グローバ
難に直面するだろうと思います。構造改革をすると
ル化の中のいわゆるアメリカン・スタンダードに拠
きの問題は、まず、強い企業、強いセクターはより
って見るという立場に対して徹底的に反論するとこ
強くなれるけれども、弱いセクターは非常に大きな
ろだと私は思っております。しかし、先生もご指摘
負担を強いられるということです。弱い人々により
されているように、この通貨危機には外的要因があ
大きな負担がかかるという構造になります。その問
ると同時に、やはり内的要因があるのではないかと
題を地域協力として、真剣に考えていかなければな
思います。内的要因は通貨危機の経験、教訓として
りません。したがって、ターゲットは、経済の市場
構造改革を通じて変えていくべきだという主張です。
に任せる部分に外れるところをどうするのかを考え
外的要因だけ強調することになると、内的要因を無
なければいけません。私は、構造改革を、断固とし
視することになり、結局自己改革を怠ってしまいま
てやらざるをえないと思っております。しかし、そ
す。
のためには非常に大きな負担をそれぞれの社会が持
1つ目の質問ですが、これからの東アジアの課題
たなければいけません。それをどうやって傷の少な
は内的構造改革が大きく取り上げられています。先
いかたちでできるのかを真剣に考えないと、強い者
生は、今後どのような方向で構造改革を進めていく
の社会になってしまうのでよくないと思います。
第2点目ですが、北東アジア地域の協力の問題。
べきだとお考えになっているのでしょうか。
2つ目は地域協力です。
「ASEAN+3」が通貨
実は、アジアが一つの共同体意識などを持つにあた
危機以降から急激に進展して、我々としては頼もし
っては、いろいろなレベルでのことを考えなければ
いことです。しかし、今後、この「ASEAN+3」
いけません。日中韓で考えたときに、当然それは推
の枠組みだけでいいのでしょうか。地域協力を考え
進していく一つの大きな枠組みの一部になるでしょ
る場合に、我々が住んでいる、特に日本、中国、韓
う。国境を越えたNGOが非常に大きな力を持ち、
国が中心となっている北東アジア地域には、市場側
社会が民主化されて、都市と都市が結びついて、そ
から取り残されている国々があります。例えば、モ
の中でお互いの認識を深め、全体として、サミット
26
のようなかたちで認識されていかなければいけませ
ん。そういう部分はそれぞれレベルは違うけれども、
できるかぎり発展させていかなければ、東アジアと
しての社会をつくるというのは難しいでしょう。北
東アジアの協力関係というのは、私はそういう点で
は非常に重要なものであると理解しています。
3点目の通貨統合の問題です。EUがなぜユーロ
という単一通貨に移行しなければいけなかったのか
ということですが、それは同時にヨーロッパ共同体
(EU)をつくっていくということと同時に起こっ
ています。私たちは今まで、ヨーロッパが共同する
ということは、弱い国、競争力のない地域がリージ
ョナリズムというかたちで、保守的に対応していく
ものだろうという理解を 80 年代にしました。日本
の研究は特にそうだったと思います。しかし、ヨー
ロッパが経済的に発展していく中で、通貨の安定が
図られなければいけませんでした。同時にEUの基
礎、オリジンというのは、第一次・第二次世界大戦
などの「大戦」を通じて、人々がお互いに信頼関係
をつくらなければ発展ができないという経験のうえ
にEECができて、その一つの延長線上に発展した
形態としてEUがあったわけです。アジアではそう
いうことができないだろうと言われていたわけです
が、今、私たちはその経験をアジアの中でもう一度
真剣に考えなければいけません。ヨーロッパでは長
く統合の歴史があったけれども、今までそれはよそ
の世界の話で、アジアでは難しく、ありえませんで
した。では、やらなくてもいいのかということでは
なく、やらなければおそらくアジアは発展的な社会、
あるいは安定した平和的な秩序をつくることが非常
に難しいでしょう。したがって、我々は通貨危機を
通じて、経済が実体として国境を越えて有機的な関
係を持ちつつある中で、やっとヨーロッパの経験を
認識するようになったということだと思います。
少し舌足らずのところもあるかと思いますが、時
間の関係上、これぐらいにさせていただきます。
27
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29
IMF 管理体制下における企業及び銀行の構造改革
韓国の事例
李 鎮奎
韓国高麗大学校経営大学経営学科教授
1997 年の金融危機は過去 30 年間の高度経済成長
に慣れていた韓国経済と韓国民に大きな衝撃を与え
た。この危機は韓国民にとって単に経済的な損傷だ
けではなく、心理的な打撃であった。その3年後、
世界のメディアは、短期間における韓国の危機から
の成功的回復を賞賛した。韓国 GDP 成長率は 1998
年のマイナス 6.7% から 1999 年 10.9%に伸び、非
常に早く回復した。
Rate(&)
12
10. 9
10
9. 3
8. 9
8
6. 8
6
5
4
2
0
-2
1995
1996
1997
1998
1999
-4
-6
-6. 7
-8
G DP G ro w th R a te 1995-2000
30
2000
1997 年の金融危機直後 39 億ドルであった韓国の
外理事の選定などを求められた。
外貨保有高は、2002 年 4 月現在 1,080 億ドルにま
韓国政府は企業財務構造の改善のため様々な措置
で伸びている。一部欧米のメディアには、韓国の金
を取った。1998 年 12 月 7 日、韓国の上位5つの財
融危機からの注目すべき回復を引合いに出して、経
閥と債権銀行団は国際基準に添って企業の負債比率
済構造調整に向けた日本の遅い対応を批判する声も
を下げるための努力をすることに合意した。その結
ある。
果、破産した大宇(Daewoo)グループを除いた上
韓国が IMF 金融危機の後遺症からまだ完全には
位5つの財閥の債務純資産比率は、1997 年の 500%
解放されていないという主張は一理ある。しかしな
近くから今は 200%まで下がっている。韓国の全製
がら、韓国は危機を克服する過程にあり、これまで
造 部門 の平均 債務純 資産 比率も また 1997 年の
は成功だったと評価できよう。
400%からおよそ 240%に下がっている。財閥は連結
危機を乗り越える過程において注目に値する2つ
の改革は企業及び銀行の構造改革である。本講演の
財務諸表の公表も求められた。財閥グループ企業間
の相互債務保証もまた禁止されるようになった。
目的はこの3~4年間の韓国における、企業及び銀
大手財閥の競争力向上のためには、コア(核)で
行の構造改革作業が成功裡に行われた幾つかの例を
ない事業部門をスリム化し、核となる競争力のある
紹介することにある。
部門に集中することが薦められ、整理統合、M&A、
ビジネススワップに代表されるビックディールが発
(1)企業の構造改革
表され、問題を抱えている企業に賦課された。1998
年から 1999 年の間、韓国の上位5つの財閥は 549
韓国の急速な産業化は、韓国の複合企業体(財閥)
の企業をスピンオフした。韓国政府は 1999 年以降
の注目すべき実績によるところが多い。しかし韓国
競争企業に対する乗っ取りを許可し、財閥はまた企
の財閥が過剰借入資本の利用と過剰投資という問題
業相互間の主要ビジネス∙スワップ、合併、買収など
を抱えてきたのは韓国経済の持続的な課題であった。
を進めた。
財閥が問題を起こし、困っているときであっても整
1997 年 以 後 、 政 府 主 導 の 構 造 改 革 の ジ ョ ブ
理するには大き過ぎるという悪循環が続いた。明ら
(workout)が 97 の企業を対象に着手され、まだ
かに財閥を初めとした多くの韓国企業は、脆弱な企
35 の企業を対象に行われている。
業構造、透明性にかける金融会計状態(financial
62 の企業のうち、36 の企業が乗り越え、政府統
states)、企業意思決定過程の不明瞭さという特徴を
制の構造改革の作業から卒業した。15 の企業が
もっている。IMF 危機が発生したとき、幾つかの措
M&A され、11 の企業は破産した。ここでは、政府
置が取られたが遅れた措置であった。
の関与なしに自らの努力で危機を乗り越えた6つの
企業セクター改革における3つの主な領域は、企
企業における構造改革の事例を紹介しようとする。
業経営管理構造、企業財務構造、競争力からなる。
韓国電気硝子、太平洋、三星電子、ヒューマックス
企業経営管理構造については、財閥は国際的な会計
( Humax )、 新 韓 生 命 保 険 、 韓 国 農 業 基 盤 公 社
基準に合わせること、少額株主の投票権の尊重、社
(KARICO)がそれである。
32
事業再構築作業と主要成功要因
企業名
事業再構築作業
労使の協調を通じた製造効率性の向上
韓国電気硝子
労使関係の安定性
主要成功要因
CEO のリーダーシップ
労使の間の価値共有
組織構造と生産における効率性
高価値の製品
戦略的選択と集中戦略を通じたリストラ
太平洋
M&A とスリム化
CEO の決定
タイムリーなリストラ
高収益製品の開発
リストラとダウンサイジング
IT 革命とダウンサイジング
三星電子
成長指向のビジネスに集中し
IT ビジネスへの重点
たリストラ
採算の悪いビジネスの切り捨て
革新に基づいた経営
グローバルスタンダードの採択
ヒューマックス
(Humax)
R&D を通じた成長市場における早期ポジ
単一製品への成功的特化戦略
ショニング
ベンチャー精神
ハイテク製品における先導的技術
核心ビジネスへの集中
アウトソーシングによる効率性
収益のための経営効率性の向上
新韓生命保険
成長戦略の経営からの転換
収益指向の戦略からの転換
予防的(Proactive)危機管理
自律的マーケティングシステムの構築
農業基盤公社
(KARICO)
すべての農業ビジネスと公共セクターに
整理統合産業のモラルな正当
おける組織の整理統合
化
リストラにおける葛藤の最小化
リストラ後の高い効率性
33
CEO の強力な推進力
(2)銀行の構造改革
2001 年 4 月現在、政府は銀行と金融システムの構造改革に膨大な公的資金をつぎ込んでいる
が、成果は制限的で最小限のレベルに止まっている。銀行構造改革の主な方向は、資産規模の拡
大、M&A による重複機能の再編、不良債権の解消による財務構造の健全化などである。
韓国の金融システムは、過去 30 年間、産業化を主導してきた政府の直接的な統制下に置かれ
てきた。韓国政府は国家の金融資源を管理し、コントロールしてきた。市中銀行の金融資源も例
外ではなかった。韓国の市中銀行は政府の監督のもとで国家の金融資源を割り当てる代理人のよ
うに機能してきた。銀行の役員の間には、銀行が金融トラブルに巻き込まれたときでも韓国政府
が救済してくれるという認識が一般的であった。このような互恵的な関係が、政府と銀行の両方
におけるモラルハザードと腐敗の原因となった。
韓国の金融システムの環境的問題点に加えて、金融セクター、特に銀行部門は構造的な脆弱性
を抱えてきた。幾つかの例をあげよう。危機管理能力の不在、低い資本ベースでの運用、不良資
産(non- performing assets)保有の問題、適切なヘッジ(損失防止措置)なしの危機に深刻
にさらされていたことなどである。
危機が実際に発生したとき、適切な規制や監督のためのインフラが効果的に機能しなかった。
その結果、韓国は適切なヘッジなしに海外からの過剰借入と過剰信用貸付(over-extending
credits)という金融状況を迎えた。短期借入と長期貸付の結果、1997 年 11 月末、韓国の総対
外負債は 1,618 億ドルにのぼり、その大部分が短期債務(1996 年、64.4%)で占められた。
これはいわば長・短期債務不均衡(term-structure mismatch)の典型的なシグナルである。
1997 年 10 月香港の株式市場が急激な下落を記録したとき、外国の貸し手は韓国の借り手への
短期貸付の運用を中止し、韓国は IMF による救済金融に追い立てられた。
韓国における金融セクターの改革が2つの主要分野で実施された。国家の金融規制と監督にか
かわる制度的基盤の建て直しと、金融セクターの構造改革がそれである。
前者の改革は 1998 年 4 月、金融監督委員会の設立に至った立法化によって実現された。後者
は、金融機関の透明性や説明責任能力(accountability)を高めるために取られた様々な措置に
よって可能となった。市中銀行の数は 27 社から 17 社に減らされ、市中銀行の雇用者数は、そ
の3分の1が削減された。問題となった銀行 12 社のうち、5 社は清算され、他の銀行に合併さ
れた。また、2 社は外国の投資家に売却された。1997 年の時点で韓国には 30 社の市中銀行と
31 社の投資信託会社があったが、現在は市中銀行 19 社と投資信託会社 7 社がつぶれ、又はそ
れぞれ他の機関に合併された。これらの銀行の構造改革は、韓国政府が膨大な規模の公的資金を
投入し、問題となった金融機関のバランスシートを健全なものにすることによって可能となった。
いま韓国の金融市場は、外国との競争に完全に開かれている。直接であれ間接であれ、外国の
投資に対するいかなる規制も 2000 年までに外国との取引の完全自由化に向け緩和されてきた。
34
一連の改革措置と韓国民の一致団結した努力のおかげで、1 年半という短期間のうちに金融(為
替)危機から回復することができた。
しかし、韓国経済はまだ、IMF 危機から端を発した企業及び銀行の構造改革の渦中にあり、
その後遺症から完全に抜け出すためにやるべきことが残っている。
IMF 危機からの楽観的な回復ぶりにもかかわらず、まだ韓国経済と世界金融市場には不確実
性が存在している。現在、韓国経済は危機からの完全な回復に向けた途上にあり、目標を達成す
るため多くの分野で努力している。韓国政府は以下のような4つの主要部門において、構造改革
プログラムを実施している。(1)企業の構造改革、(2)金融の構造改革、(3)公共部門の構造改革、
(4)労働セクターの構造改革である。本発表で私は一先ず企業と金融の構造改革について説明し
たわけである。
(原文は英語、金雄熙氏により日本語訳)
35
李鎮奎先生との質疑応答
(金
雄熙) コンパクトでわかりやすい、そして楽しい発表をありがとうございました。
最初の質問ですが、先生は、企業セクターと銀行という
2つの構造改革を取り上げられ、韓国の場合は、企業の構
造改革が銀行のそれより進んでおり、それが通貨危機の克
服に役立っているという話をされました。銀行の構造改革
より企業の構造改革の方が進んだ理由をどのような点で見
い出せば良いでしょうか。
次の質問ですが、成功した企業の構造改革を、3つの領
域、1番目がコーポレート・ガバナンス、2番目が企業の
財務構造、3番目が選択と集中を通じた競争力の確保、に分けました。もちろんこの3つは絡み
合っているとは思うのですが、3つの領域の中で相対的に進んでいる部分と、遅れている部分は
どれでしょうか。
最後に、この発表の中で説明されたとは思いますが、ごく短かな、3年という時間内に韓国は
とても速いスピードで回復しています。その早い回復を説明できる一番主要な要因は何かという
ことについて、先生の意見をお聞きしたいと思います。
(李
鎮奎) 昨日、彼に易しい質問をするようお願いしたのに、これは難しい質問です。
(笑)
まず、企業部門の構造改革が、相対的に銀行部門の構造改革より進んで成功している理由につ
いてですが、1つの大きな違いを指摘できます。それは、
企業部門が構造改革に成功したのは、相対的に自由で拘束されていなかったからで、銀行部門の
構造改革は、政府がバックにあってコントロールされていたので、構造改革が遅れたということ
です。
2つ目の質問で、3つの領域の中では、
「選択と集中を通じた競争力の確保」が一番進められ、
成功しています。その理由も同じようなことですが、
「コーポレート・ガバナンス」と「財務構
造」が相対的に拘束されていたのに対して、選択と集中を通じた競争力の確保は、もっと自由に
構造改革をすることができたからです。
最後の、どうして韓国はそんなに短い期間に経済危機をうまく克服できたかという質問ですが、
2つの要因があります。第一に、韓国が経済危機、金融危機に陥った最も大きな原因は、それが
キャッシュフローの問題だったことです。短期で借り入れたものが余りにも莫大な金額になって
しまい、金の流れがうまく機能しなかったということです。銀行にお金を沢山預けてあるのに、
今、自分のポケットにお金がなくて、物が買えなくなったというような、キャッシュフローの問
題だったのです。第二の要因としては、韓国の経済のファンダメンタルがかなりいい状態にあっ
たということが言えると思います。
36
経済危機と銀行部門における市場集中と効率性
―インドネシアの経験―
ガト・アルヤ・プートゥラ
インドネシア銀行構造改革庁主席アナリスト
37
なぜ統合するのか7
すが、半数の国々は高度に集中した銀行産業を有し
ています。BIS が発行した報告書によると、銀行業
の統合は 1990 年代から多くなっていますが、これ
は産業間の集中的統合の結果です。こうした統合の
中には財政上または真に市場のグローバル化への反
応として起こったものもありますが8、近年 10 年間
に何度も生じた金融危機への対応から生じた結果で
ある場合も少なくありません。
インドネシアにおける銀行の統合についてお話
するのは、誠に時機を得ていると思います。統合は
市場集中を促進するので、とりわけ競争に影響を及
ぼします。市場集中が高くなると、市場参入が困難
になり、売り手寡占的な振る舞いが一層激化しやす
くなります。これは統合を進めるべきでないと言う
のではなく、むしろ、金融部門の効率化や顧客への
影響を良く検討し、慎重に進めなければならないと
申し上げたいと思います。
銀行は常にすべての経済活動の中で、最も重要な
金融仲介機関です。最近の危機の後でさえ、金融部
門は東アジアの金融産業を独占し続けてきました。
1998 年には、銀行資産が全体の金融部門資産の、イ
ンドネシアで 91%、
マレーシアで 77%、タイで 78%、
シンガポールで 71%、韓国で 38%に上りました(資
料:Bank International Settlement,以下 BIS)
。す
べての経済の中心的な役割を事実上銀行が負ってい
ることを考えると、銀行が最も規制された産業の1
つであっても不思議ではありません。
銀行の構造は国によって大いに異なります(表1
参照)
。集中度の低い銀行産業を持つ国もありま
7
この論文は著者の個人的な意見です。誤りはすべて著者
の責任です。2002年7月20日、第8回 SGRA フォ
8
ーラムにて
38
企業合併・買収と、戦略的提携を含みます。
1998 年末銀行産業構造
表1
中・大型
国内銀行
数 1
銀行産業の
2
集中度
政府への
3
銀行の要求
国有銀行
4
のシェア
BFSR
外資銀行
4
5
のシェア メジアン
評価
(%)
香港
インドネシア
韓国
マレーシア
フィリピン
シンガポール
タイ
21
..
14
15
14
5
9
29
45
50
40
60
39
62
7
2
3
7
23
17
0
0
22
28
7
..
0
29
7
69
6
0
オーストリア
87
17
44
47
ドイツ
116
22
11
15
日本
182
35
15
0
アメリカ
資料: BIS, IMF, 今日の投資家のサービス
1
世界ランク 1,000 に入った銀行数
2
5 大銀行の全資産中の資産(%)
3
銀行預金からの政府の銀行所有率
4
全銀行資産のパーセンテージとして
5
銀行経済力評価は財政上の設立が第三者からの援助を必要とするという見込みを測定します
表2
77
12
6
20
..
..
13
C
E
E+
D
D+
C+
E
17
6
2
20
C
C
D
C+
銀行数
銀行グループ
1997 年 10 月
1997 年 11 月―2000 年 11 月までの変化
流動化
合併
7
国有
115
個人外貨
新銀行
4
34
2000 年 12 月
2
14
5
67
-分類 A
28
-資産再構成
6
- BTO
4
-その他 (ex. JV)
個人非外貨
-分類
29
79
35
1
43
A
42
-資産再構成
地域開発銀行
1
27
1
26
-資産再構成
12
-再構成せず
14
外国
銀行数
10
238
10
70
19
2
151
資料:インドネシア銀行
1
創業膠着、銀行膠着を含む
国際通貨基金(以下 IMF)の処方箋に従って、イン
インドネシアの場合、通貨危機の大打撃を受け、
1997 年後半には金融危機に陥りました。それ以来、
39
ドネシア政府は金融部門 9への介入による危機の打
開に努めています。1997 年末には、数々の銀行支援
プログラムが施行され、2000 年 12 月までにインド
ネシアの銀行の数は 238 から 151 にまで減少しまし
た (第 2 表参照)。
9
介入は、「閉鎖」あるいは「銀行開放」という解決策により
ます。後者の場合、銀行は開放されていますが新しいビジ
ネスのルールに従って、又は他の企業の一部として営業し
ます。
40
危機の間に 70 の銀行が閉鎖し、11 の銀行が国有
金融部門の統合が必要であると認めました。そして、
化されました。その結果、インドネシア政府は民間
短期的には、金融部門の利益を回復させ、監督方法
資本銀行に対して非常に大きな影響力を持つように
を改善すると約束し、中期的には、金融部門への関
なりました。現在、11 の国有化された銀行を含めて、
与を減らすための方策を急いで開発する必要性を指
銀行資産の 75%を、インドネシア政府が支配してい
摘しました。国の銀行産業への介入の著しい変化の
ます(資料:インドネシア中央銀行/インドネシア銀
様子を表 3 に見ることができます。
行(BI))。インドネシア政府は利益回復のためには、
表 3 インドネシアの銀行の特徴( 1998 & 1999)
預金の集中
1998
45.31
2.00
21.59
11.15
0.43
1
政府に対するクレーム
2
国有銀行のシェア
2
外国銀行のシェア
3
実質銀行預金成長
1999
62.68
47.33
74.81
8.18
-33.81
資料:インドネシア銀、 IFS, IMF
全銀行預金に対する 5 大銀行の預金率(%)
2
全銀行預金の%として
3
CPI 指標によってインフレ調整済み
1
統合・資産・預金
行 によるものです。1998 年末の時点でインドネシ
アの金融部門が持つ資産は合計 454 兆ルピアでした
が、1999 年末には 772 兆ルピアまで上昇しました。
まず、銀行の資産の集中度を調べるために、1998
年末と 1999 年末の総資産額を比較してみましょう。
ここで使用するデータはすべてインドネシア中央銀
グラフ1:銀行資産市場のローレンツ曲線(1998 年-1999 年)
資料:BI
100
90
マーケットシェア︵
%︶
絶対平等線
80
70
60
1999 年
50
40
1998 年
30
20
10
0
0
10
20
30
40
50
60
小企業から蓄積された企業数 (%)
41
70
80
90
100
1999 年の間に増加しています。
資産市場のローレンツ曲線から分かるように、不
平等線が、1998 年よりも 1999 年の方が上昇してい
ます。また、表4に示されるように、銀行資産市場
の集中の3つの指標(ジーニ係数、C1 から C10、
そして HHI)は、いずれも通貨危機中、1998 から
表4
インドネシア銀行の資産市場の集中
1998
1
銀行ランク
ジーニ係数
C1
C2
C3
C4
C5
C6
C7
C8
C9
C10
IHH
55.67
14.90
26.70
34.19
40.94
45.31
48.48
51.48
54.14
56.45
58.74
551.54
1999
1
銀行ランク
1. BCA
2. BNI
3. BRI
4. BII
5.ダナモン銀行
6.リッポ銀行
7.シティバンク, NA
8. ニアガ銀行
9. BTN
10. パニン銀行
69.71
29.00 1. マンディリ銀行
41.52 2. BNI
53.98 3. BCA
58.73 4. BII
62.68 5. BRI
66.05 6 ダナモン銀行
69.13 7.リッポ銀行
71.52 8.シティバンク, NA
72.98 9.パニン銀行
74.98 10.ユニバーサル銀行
1235.62
資料:インドネシア銀行
1
調整済み銀行資産の大きいものからの順番
年末に約 7 行が銀行全体の資産の 50%以上を保有
資産市場のジーニ係数は不平等を意味する 55.67
から 69.71 へと上昇しており、これは 1998 年初め
していたのに、1999 年末には3つの銀行が管理する
にインドネシア政府の銀行改革が始まってから悪化
ことになっていたのです。HHI は 551.54 から
したことを示しています。 集中度は同様に顕著な上
1235.62 に大幅に上昇しましたが、それは 1999 年
昇を見せています。1998 年末には BCA は全銀行資
には、不均等に大きな市場占有率を持つ会社が増え
産のおよそ 15%を保有していました。次いで当時最
たことを意味しています。
大の国立銀行だった BNI は、銀行全体の資産のおよ
そ 11.6%を保有しており、おおよそ7つの銀行が銀
これに似通った状況が、銀行の預金市場にも見ら
行資産市場の 50%以上を管理していました。しかし
れます。1998 年末に金融部門の預金総額が 391.5
1999 年末には、4つの国有銀行(BBD、BDN、バ
兆ルピアであったのに対し、1999 年末には金融部門
ピンド、イクシム銀行)の合併により設立された新
が 600 兆ルピア以上の第三者預金を保有していまし
しい国有マンデリ銀行が全銀行資産の 29%を支配
た。
することになり、状況は全く変わりました。1998
42
資料:BI
グラフ 2:預金市場のローレンツ曲線(1998 年と 1999 年)
100
%︶
マーケットシェア ︵
90
絶対平等線
80
70
60
50
40
1998 年
30
20
10
1999 年
0
0
10
20
30
40
50
60
70
80
90
100
小企業から累積された企業数 (%)
ローレンツ曲線がわずかしか絶対平等線から離れ
分かります。表5では預金市場の変化を見ることが
ていないので、預金市場における不平等性は、1998
できますが、資産市場と同様、集中指標からも統合
年から 1999 年にかけて、少しだけ悪化したことが
後の預金市場が更に集中したことを確認できます。
表5
預金市場のローレンツ曲線(1998 年と 1999 年)
1998
Bank Rank 1
ジーニ係数
C1
C2
C3
C4
C5
C6
C7
C8
C9
C10
I HH
64.91
17.89
31.31
42.21
49.05
53.79
57.00
60.14
63.02
65.64
68.00
753.50
1. BNI
2. BCA
3. BRI
4. BII
5 .リッポ銀行
6.ダナモン銀行
7.シティバンク、NA
8. BTN
9 .ニアガ銀行
10.バリ銀行
1999
Bank Rank 1
69.72
23.21
37.47
49.73
56.63
60.72
63.81
66.84
69.55
71.75
73.82
1009.36
1.マンディリ銀行
2. BCA
3. BNI
4. BRI
5. BII
6.ダナモン銀行
7.リッポ銀行
8.シティバンク NA
9. BTN
10.ニアガ銀行
資料:インドネシア銀行
1
調整済み銀行資産の大きいものからの順番
新しく設立されたマンデリ銀行は、1999 年末には、
にすべての国内銀行の債権者に預金保証を提供した
市場の総預金のほぼ4分の1を保有していました。
ことが一部関係していると思われます。銀行の安全
マンデリ銀行に続き、BCA は 1999 年の市場総預金
性への懸念が、更に大きな通貨や経済政策に対する
の 14%を保有していました。預金市場の集中につい
懸念と相俟って、1998 年までに、より安全な投資先
ては、1998∼1999 年中には実質的な変化はありま
せん。これはインドネシア政府が 1998 年 1 月 26 日
43
へ逃避するための取り付け10が広がっていました。
まず弱い民間銀行から国有銀行へ預金が移動し、そ
の貸出枠が大幅に減少したのです。1998 年には業界
の後、すべての銀行全体の預金が減少しました(外
全体の貸付額がおよそ 233.8 兆ルピアだったのが、
資系銀行を除く)。
1999 年末には 163.1 兆ルピアしかありませんでし
た。危機は銀行の貸付能力に深刻な影響を与えたの
です。ほとんどの銀行が、貸借対照表の 8%の標準
統合と貸付の流れ
自己資本比率を満たすために、資本再構成債券
貸付市場において、インドネシア政府の銀行改革
(recapitalization bond)によって支配されてしま
政策の後、銀行の集中性は驚くほど下がりました。
いました(インドネシア政府 の資本再構成プログラ
グラフ3によって、いかに集中性が減少し、ローレ
ムは銀行国際標準自己資本比率(CAR)達成の半分を
ンツ曲線が絶対平等線方向に移動したかが分かりま
目指しました。)。 貸出しを再開するために、銀行は
す。
利益を回復し、標準自己資本比率を構築しなければ
なりません。政府はこれを、今後の最優先課題にす
表6によれば、貸付市場において、1998 年末から
べきです。
1999 年末までに市場集中の改善がはっきりと示さ
れています。しかし、1998-1999 年のインドネシア
の銀行の貸付市場を分析するに当たって考慮すべき
重要なことが1点あります。危機によって、銀行
グラフ 3 : クレジット市場のローレンツ曲線(1998 年から 1999 年)
100
マーケットシェアー︵
%︶
90
80
絶対平等線
70
60
50
40
30
20
1999 年
10
1998 年
0
0
10
20
30
40
50
60
小企業から累積された企業数 (%)
資料:インドネシア銀行
10
編集者注:預金者が銀行に殺到して預金を引き出すこ
と
44
70
80
90
100
表6
貸付市場の集中率
1998
1999
銀行ランク
58.94
17.02
29.44
38.24
43.24
47.27
51.18
54.83
57.76
59.70
61.63
638.36
ジーニ係数
C1
C2
C3
C4
C5
C6
C7
C8
C9
C10
I HH
1
銀行ランク
53.03
13.26
26.41
38.48
43.92
48.19
51.36
53.69
55.99
58.19
60.30
605.38
1. BCA
2. BNI
3. BRI
4. ダナモン銀行
5. ニアガ銀行
6. BII
7. BTN
8. BPD
9. パニン銀行
10. リッポ銀行
1
1. マンディリ銀行
2. BRI
3. BNI
4. BII
5. BTN
6. シティバンク
7. BCA
8. ニアガ銀行
9. ユニバーサル銀行
10. パニン銀行
資料:インドネシア銀行
調整済み銀行資産の大きいものからの順番
1
銀行の統合は小規模銀行の減少を招き、中小企業
って特徴づけられる傾向があります。このような情
を対象とした融資の減少が懸念されています。なぜ
報は伝えにくいので、小企業は別の機関から資金調
こういった現象が生じるのか、2つの議論がありま
達をする時に困難に直面する可能性があることを示
す。第一に、大規模で複雑な金融機関は小企業を軽
しています。しかしながら、インドネシア国内の貸
視しがちです。第二に、統合のスケールの大きさゆ
出市場の改善した部分を調査すると、銀行がしぶし
えに、信頼関係が消滅してしまう可能性があります。
ぶながらも貸し出すのはほとんど中小企業であり、
銀行と小企業との間の信用関係は貸借対照表や損益
既に膨大な負債歴11のある借り手たちではありませ
計算書のようなハード情報よりも、ソフト情報によ
ん(グラフ4)。
グラフ4:商業貸付に対する小企業への貸付の割合
1995 - 1997
0.21
0.20
0.19
0.18
0.17
0.16
0.15 Jan-95
May-95
Mar-95
Sep-95
Jul-95
Jan-96
Nov-95
May-96
Mar-96
Sep-96
Jul-96
Jan-97
Nov-96
May-97
Mar-97
Sep-97
Jul-97
Nov-97
CGI(Consultative Group on Indonesia)経過報告書
(2000 年 9 月)参照。
11
45
グラフ 5 : 商業貸付に対する小企業への貸付
1997 半-2000
0.19
0.17
0.15
0.13
0.11
0.09
0.07
0.05
Jan-98
May-98
Mar-98
Sep-98
Jul-98
Jan-99
Nov-98
May-99
Mar-99
Sep-99
Jul-99
Jan-00
Nov-99
May-00
Mar-00
Jul-00
インドネシアにおける銀行統合の貸付市場への影
ます。また、公設市場で取引きされる証券を持たず、
響も注視すべきでしょう。新しい合併銀行は中小企
財務報告書上の要求もゆるやかなので、企業の査定
業に対する貸付けを増やしていくのでしょうか?大
は更に難しいかもしれません。
企業のほとんどが、貸借対照表上の巨額の負債によ
り銀行からこれ以上借金ができないので、この問題
銀行は、長期にわたる接触を通じて企業の詳細な
は非常に重要です。もし、この問題が速やかに解決
情報を得、情報不均衡の問題を克服してきました。
されず、銀行統合が中小企業に対する貸出しに悪影
小さな銀行は縁故に基づいて貸付けを行い、中小企
響があるのならば、今後、経済全般への資金供給に
業の活動を監督することによって、比較優位を得て
大きな問題が生じるでしょう。
きました。銀行のある地域のことを良く知っている
おかげで、その地域の企業家や市場のソフト情報も
銀行が合併すると、貸し手機関の規模が大きくな
入ってくるでしょう。銀行統合によって組織構成が
り複雑さが増します。第一に、小規模な銀行の大企
より複雑になり、貸与決定が企業活動を知らない本
業への貸付けには限界があり、大銀行はより多くの
社で下されることになるかもしれません。個人顧客
借り手、資産、金融商品へのアクセスがあります。
への小売りサービスの提供と、大口顧客への卸売り
もし規模の違いによる限度が緩和され、新しい合併
サービスの提供を統合してしまうのは能率的とは言
銀行は貸付けを大口の顧客や、従来の貸付先とは違
えないかもしれません。
った顧客に移行するかもしれません。第二に、限ら
れた情報しか必要としない小規模の借り手に貸付け
しかも、企業の吸収合併は通常大きな構造改革と
を行うことによって、小規模の銀行は、貸付けと監
責任者の交代を伴います。ソフト情報を持たない新
視のコストを削減することができます。したがって、
マネージャーによる貸付ポートフォリオの再評価は、
ひとたび小銀行が大銀行に吸収されると、中小企業
今までの関係を中断させてしまうかもしれません。
に対する有利な貸付けも減少を余儀なくされるでし
借り手側が主張する縁故に基づく信用は、他銀行に
ょう。小企業(ほとんどのインドネシアの企業)は
伝えることは困難であるばかりか、再審査において
大企業に比べ、非常に不透明であるとみなされてい
不利な要素になりかねず、 融資を断られることにな
46
ってしまうかもしれません。
れば、消費者への利益も増加し、業界の安定に寄与
するでしょう。
統合・利益性・効率性
表7は銀行の総資産、運営費及び人件費の平均成
前述のように、市場集中によって、その業界の競
長率とインフレの平均値を示しています。運営費及
争の度合いを計ることができます。インドネシアの
び人件費のほとんどがインフレ増加率内に収まって
銀行業界で進行中の統合は、資産においても預金に
いるのに対して、財政抑制期間に資産成長率が上が
おいても集中度が高まっていることが分かりました。
ったことが明示されています。この財政抑制と資産
BIS の年次報告第 70 号では、統合による競争促進
増加の関係は奇妙ですが、それは国債に起因してい
の効果は、最終的には市場参入の見込みと企業行動
るからです。国債は銀行再建策の1つとして銀行業
に依存すると議論されています。ボーモル(1982
界に注がれます。しかしながら、例えばトルコでは
年)は、統合は市場集中を促進するが、市場が競合
この2つの関係は異なる結果を生み出しました(ロ
的であれば、競争が衰えることはないと主張してい
ーシャ著「発展途上国の仲介コスト」参照)。トルコ
ます。金融業界の場合、様々な参入障壁によって、
では財政抑制と資産の増加は逆の関係になりました。
競合性は失われています。銀行の個人顧客を対象に
コスト(人件費と運営費)に関しては、両国におい
した業務における競争のなさは、あまり変化のない
て、財政抑制によって成長率が下がりました。低い
顧客需要によって引き起こされています。例えば、
インフレ率は、金融部門の財政抑制は、コストを減
競争相手がより安い商品を提案してきても、顧客は、
らすための効果的な対策として証明されました。イ
取引相手を変えるよりも、その人の金融サービス全
ンドネシア銀行が利子率を上げてインフレを抑制で
部を1つの会社に任せた方が便利だと感じています。
きるので、金融部門における人件費と運営費の上
需要が固定するもう1つの理由は、金融商品の複雑
昇を押さえることができます。
さです。他の会社の商品と比較するのを難しくして
います。このように金融業界は競争的な市場になり
得ないとすると、銀行の統合は、この業界における
競争を全く無くしてしまう危険性があります。
金融部門おいては、国内での吸収や乗っ取りが、
たいてい一番費用のかからない統合になります。 銀
行システムが危機に陥った場合、政府は合併を促進
するために努力します。しかし、2つの弱い銀行を
1つにすることが、1つの強い銀行を作ることにな
るかについては議論すべき問題でしょう。弱い銀行
同士が合併して大きくなっても、合併した組織が破
綻したら業界そのものの安定を揺るがす危険性があ
ります。優良な銀行に、弱い銀行の不良債権の重い
負担を押し付けるのは逆効果かもしれません。しか
しながら、もし新しい銀行がより効率よく管理され
47
表7
成長率 (%)
期間
インフレ
総資産
運営費
個人支出
Jan-Des'97
11.1
39.6
126.3
23.4
Jan-Des'98
77.6
29.0
311.4
17.6
Jan-Des'99
2.0
-8.8
-62.4
-7.9
Jan-Agt'00
9.3
18.9
-51.7
-25.3
Ordinary Least Square (最小二乗項)を使って
ドネシア銀行制度には当てはまりません。それは少
市場の集中性と資産収益の関係を見てみましょう。
なくとも、以下の3つの理由から説明することがで
より理解を深めるために、資産、貸付、預金、資産
きます。第1に、業界の内部競争の効果はあまり現
収益の市場構造について考えてみましょう。まず、
われません。銀行数が比較的少数であっても、国内
資産収益(ROA)とハーフィンダール指標で計る資
外の他の金融機関や債券市場からの競争に晒されて
産市場の集中性との相関を分析したところ、理論に
います。インドネシアでは、短期及び長期借入金の
かなった期待どおりの結果が得られました。この関
ほとんどはノンバンクからの貸付けでした。第2に、
係の量的な影響は比較的にわずかではありますが、
集中性には一定レベルがあって、企業数が減って市
非常に重要です。資産市場の集中性が高くなればな
場の寡占性が強まりそのレベルを超えると、談合や
るほど、銀行の収益性は下がるのです。次に資産収
企業連合を招くことになるのかもしれません。この
益とハーフィンダール指標で計る貸付市場の集中性
レベルを超えると、独占的な構造になってしまいま
との相関を分析したところ、貸付市場の集中性が高
す。しかしながら、集中性が増したといっても、そ
くなるほど、わずかな値の係数値で資産収益にマイ
のレベルへの道のりはまだ遠いのです。第3に、イ
ナスの影響を与えていました。最後に、預金市場の
ンドネシアの銀行閉鎖は金融恐慌と、外資系銀行以
集中性も資産収益にマイナスの影響を与えました。
外の民間銀行全体に対する取付けを引き起こしまし
3つのテストから市場構造と資産収益の負の関係が
た。インドネシアでの IMF の対応は致命的でした。
明らかになりました(Putra and Setiati, August
突然 2 千万ルピア以上の預金は保証されなくなり、
2001 参照)。
16 の民間銀行は閉鎖を余儀なくされました。これは
まだパニックの序曲でした(Radelet and Sachs,
April 1998)
。 銀行は利益と資本の激減という危機
なぜインドネシアの銀行では、より集中した市場
構造が収益へマイナス影響を与えるのかは、興味深
的な事態の蔓延に直面することになりました。
い問題です。理論的には、企業が少数で市場参入の
障壁が高い構造は、談合、価格誘導や価格調整等、
非効率性を推定したローシャの研究を利用して、
収益率の最大化のための価格操作を容易にすると言
プトラ、セティアティとダマヤニは 2001 年 8 月、
われています。しかしこの理論は、市場構造と収益
OECD(経済協力開発機構国)加盟国内で算出され
が負の関係であることから証明されるように、イン
た銀行の売上総利益比率(資産の 3.9%)と運用費
48
比率(資産の 2.3%)を、インドネシアの銀行と比
ストの過剰を GDP のパーセンテージとしての表す
較しました。OECD の数字はローシャの研究(1986
ことができます。その結果は下表8に見ることがで
年)に基づいています。ここで算出された差に、GDP
きます。
に対する資産の比率を掛けることによって、中間コ
表8
金融機関の効率の評価
銀行グループ
年
資産/GDP 合計
OECD 平均値*からの
GDP 偏差値(%)
売上総利益
運用費
-0.80
0.04
1.58
1.31
-0.61
0.51
トップ 10
トップ 11-20
トップ 21-30
1996
5.71
1.28
0.51
トップ 10
トップ 11-20
トップ 21-30
1997
6.93
1.57
0.71
-0.87
2.36
1.00
0.08
2.14
1.26
トップ 10
トップ 11-20
トップ 21-30
1998
5.73
1.30
0.60
-14.84
3.45
2.26
10.58
16.26
12.41
トップ 10
トップ 11-20
トップ 21-30
1999
5.58
0.77
0.37
-4.13
-2.49
-2.87
4.57
9.88
11.20
資料:インドネシア銀行
* ローシャの研究 (1986)
49
以上の結果から、これらの銀行グループのいずれも 1997 年末に始まる危機の前ですら、独占
的な仲介料を享受することができなかったことが分かります。特に国内10大銀行は、売上総利
益を犠牲にして、仲介コスト12を確保してきたことがよく分かります。しかしこれはただの説明
にすぎないということを述べておかなくてはなりません(特に OECD の 1986 年の研究から基
準データをとったので、この数字は現在は変わっているはずです。
)
。この研究の主な目的は、効
率性の中の損失という考え方を提供することであり、実際、これこそが本質的な問題なのです。
ここでは銀行システムに限っていますから、以上の結果は実際の効率性の中の損失を過小評価し
ているのかもしれません。
2001 年 7 月、プトラ 、セティアティとダマヤニは、トランスログの費用関数アプローチに
基づいて、インドネシアの銀行業界における伝統的な生産性、預金額、技術開発、経済規模等、
伝統的な要素の重要な影響を調査しました。費用関数については 1996 年 12 月から 2000 年 8
月までの期間で、インドネシアの 109 の銀行について分析しました。この期間の銀行費用の分
析によって、短期間の変化ではなく、銀行間の長期的な費用の差異を特定することができました。
それはまた通貨危機以前の期間と通貨危機の期間の把握にも役立ちました。それが 1996 年 12
月から存在し、2000 年 8 月時点にも存在していた銀行は、すべてこの費用関数に含まれており、
この費用効率モデルに必要なすべての情報は毎月インドネシア銀行に報告されました。この研究
の成果の 1 つによると、効率性について言えば、銀行の統合政策は適切とはいえないことを示
しています。銀行の規模が小さいほど銀行の効率性は高い訳ですが、この調査によれば、銀行は
生産効率の最適規模よりも大きくなる傾向がみられることが分かりました。
おわりに
上述のように、現在 IMF 下のインドネシアでは、金融部門の統合によって市場の集中性は増
加したのに、収益率は減少しました。一般に、競争的な環境では、最も能率的で革新的な会社だ
けが生き残り、それによって産業は健全な状態で維持され、会社が競争と技術革新の利益を顧客
たちに還元します。統合によって市場集中が増加すると、産業内の競争を減少させる13可能性が
あります。市場集中が高くなると、市場参入が困難になり、売り手寡占的な振る舞いが一層激化
し、競争的でないレベルの価格(金融部門においては利子率)や取引量に達する恐れがあります。
12
インドネシアの運用費が OECD のものと大きく違う理由の1つとして低い標準賃金を挙げることがで
きます。
13
高い市場集中が必然的に競争や市場力の減退を意味する訳ではないという事実に注意を払う必要がある
でしょう。市場に競争力がある限りは、高い集中性が同様に競争力の高さと関連しているのかもしれませ
ん (ボーモル、1982年、参照) 。企業が共謀してカルテルを形成するような場合、低い市場集中は競争
力の不足となりうるでしょう。実際には、預金市場の競争力は融通性の少ない顧客需要により非常に低い
のです。
50
しかしながら、インドネシアの銀行グループのどれもが、1997 年末に始まった危機以前でさえ
も、独占的な利益を維持することはできませんでした。資産収益率からみても、一般的に銀行の
実績はますます悪化しています。トランスログのコスト関数の調査から、銀行の効率性も下がっ
ていることが分かりました。銀行の非効率性を抑えるためには、銀行同士の競争、銀行員の労働
市場における競争を促進すること、産業界と金融界の分離を促進することが提案されています。
もっと速やかに、より多くの外国の直接投資へ、金融部門を開放すべきであったでしょう。よ
り多くの外資系銀行は、ほぼ間違いなく、金融危機を静める手助けができたでしょう。ラデレト
とザックスは 1998 年 4 月に次のような理由を挙げました。第1に、主な外資系銀行の支店が、
預金者たちのパニックを静めることができたでしょう(インドネシアの国有銀行から外資系銀行
へ逃避した預金者はほとんどいませんでした。) 。第2に、これらの外資系銀行はインドネシア
の銀行に対する国境を越えた貸付けをやめるのは容易であっても、現地の顧客への貸付けをやめ
ることは簡単ではなかったでしょう。第3に、これら外資系銀行は銀行間の競争の一般的なレベ
ルを引き上げ、恐らく、銀行の所有と貸付けの政治問題化を抑制することができたでしょう。し
かしながら、政治的な関与がありますから、このような措置をすべて実行することは困難でしょ
う。より激しい競争を奨励するために、外資銀行と外国人の専門家の国内の金融市場への参入を
許可するべきです。WTO での交渉進行中の金融サービスは、十分な防衛手段を備えており、イ
ンドネシアが市場開放する良いチャンスといえるでしょう。
(原文は英語、根本朋子氏により日本語訳)
51
ガト先生との質疑応答
(マキト) ガト先生、はるばるインドネシアから来てくださってありがとうございました。
IMFの危機対策の中で、銀行合併の推進がインドネシアにとって良くない結果をもたらした
という先生のご報告の中で、基本的に2つの要素があ
ると思います。1つは、規模があまりにも大きくなっ
てしまったので、銀行の効率性が低下したこと。もう
1つは、銀行の利益は危機の前にもそれほどなかった
のに、更にそれを低下させたということ。IMF の危機
対策はこの2つの悪影響を与えたということです。
では、IMF の結論、あるいは対策の背後にどういう
ものがあるか。もしそのような話があれば聞かせてい
ただきたいと思います。
また、IMF の役割は結果としてそれほど良くなかったということであれば、それに代わるメ
カニズムが東アジアにとって必要でしょうか。
(ガト) まず、第1の質問に対するお答えです。私の意見では、IMF の処方箋は経済的な動
機ではなく、政治的な動機に基づくものだったと思います。経済危機に陥った時、インドネシア
のファンダメンタルはタイほど悪くなかったと思います。しかしながら、当時はスハルト大統領
の支配下で、IMF は大統領の政策に反対していました。破産したり合併したりした銀行はほと
んどスハルト家が所有していたものです。当初、スハルト大統領が余りにも頑固で、自分のファ
ミリー・ビジネスを守るために、IMF の支援を断ったという背景もありました。その後インド
ネシアは経済危機になりました。私もスハルト大統領の政策を支持していた訳ではありませんが、
IMF はこのような政治的な動機によってインドネシアにパニックを起こしたと思います。IMF
はマハティールの政策にも批判的でしたが、マレーシアと比べるとファンダメンタルが劣るイン
ドネシアは経済危機に陥り、現在に至るまで IMF に支配されています。
IMF に代わる機関が東アジアに必要なのではないかという2つ目の質問に対して、私は大賛
成です。AMF(アジア通貨基金)が中央銀行のようにうまく機能し、危機に落ちた国に対して
最終的な貸出しをするという役割が果たせることになったら素晴らしいと思います。通貨危機の
時に、そのような仕組みがあれば、インドネシアもこれほど苦しむことはなかったと思います。
52
付
録
マージンの定義方法
損益計算書の項目の集計は、レヴェル(1980 年)とパッサカンタンド(1983 年)によって OECD(経済
協力開発機構)の国々のコストと商業銀行システムのマージンの研究で使われたものです。主計は以下の
とおりです。
受領利率 – 支払い利率 =利率マージン
利率マージン + その他の収入 (正味) = 総収入マージン
総収入マージン – 運用費= ネット収入マージン
ネット収入マージン + その他のクレジット (正味) = 課税前の利益
最上段の式は貸付や預金で支払われる利子のみが含まれています。投資(証券など)による利子、外国為
替業務による利益や損失、コミッションや手数料等の受取りや支払いなどがその他の収入項目に加算され
ます。総収入マージンは相対的に財政操作上銀行によって取り扱われたマージンとして定義付けられてい
ます。言い換えれば、それは銀行の利益率(mark-up 又は spread)と呼ばれるものです。
ネット収入マージンはすべての運用費(人件費、管理費、賃借料(正味)
、保険、貢献、及び間接税)を総
収入マージンから引くことによって求められます。その他のクレジット(正味)は金融機関の正常なビジ
ネスで発生しないと思われる価格下落や分配といったすべての歳入が含まれます。この項目は通常負符号
として式に加わります。
上記の式を1つの方程式で表すと以下のようになります。
IR – IP + OI = GM IR
OC
– OCR = PBT
(1)
= 受領利子
IP
= 支払利子
OI
= その他の収入 (正味)
GM
= 売上総利益
OC
= 運用費
PBT
= 課税前の利益
OCR
= その他のクレジット−分配と他の負債
売上総利益が方程式の右側の項目の追加によって得られると、それは一般的に財政上の仲介コストと呼ば
53
れます。この研究で、私たちは全体の資産の月末計算平均14を損益計算書からの流動変数で割ることによっ
て比率を求めました。表1は 1 番目、2 番目、及び 3 番目の年末までもっとも多くの平均資産を所有して
いた銀行グループを示しています。
ローレンツ曲線とジーニ係数
一般的産業組織理論の中に、産業市場集中評価に使われたインジケータがあります。ローレンツ曲線とジ
ーニ係数は相対的集中度を反映します。この2つの指標の理解に役立つ例を挙げてみましょう。
以下のような市場の売上げのシェア(%)(あるいは資産や従業員)を持つ 4 つの企業を思い浮かべてくださ
い。企業 A-5%、B-10%、C-15%、D-70%としましょう。ローレンツ曲線作成の主要素は(1)小規模な企
業の加算された市場販売のパーセンテージ、(2)小規模から大規模企業までの市場販売のパーセンテージ
です。したがって A(もっとも小さい企業)から始まり、市場販売の 5%が全体の企業の 25%によってな
され、販売の 15%(A と B)が 50%によってなされている、等です。これらのすべての点をつなぐとその
産業のローレンツ曲線になります。ローレンツ曲線はまっすぐな対角線と比較されます。
もし前述の 4 つの企業がすべて 25%のシェアを持っていたなら、ローレンツ曲線はこの対角線と等しくな
ります。ということは、25%の企業が 25%の売上を所有し、50%の企業が 50%の販売をする、などです。
このように対角線は等分布を示しています。ですから分配が不公平になってくるほどローレンツ曲線と対
角線の間の相違が一段と大きくなるのです。対角線とローレンツ曲線の間のエリアを集中のエリアと呼び
ます。
14
幾何学的平均はもし資産が年間を通して一定の幾何学成長傾向を続ければ正しい手法だと言えるでしょう。資産がよ
り不規則に成長しますが、株変数の年の終値だけを元にした場合、この平均は最良の手法だと言えます。この研究では、
銀行の貸借対照表(株変数)が月ごとの情報でしたので、幾何学的平均を使いました。
54
不等号でのローレンツ曲線とジーニ係数
100%
90%
マーケットシェア︵
%︶
80%
絶対平等線
70%
60%
50%
40%
30%
20%
ローレンツ曲線
10%
0%
0%
10%
20%
30%
40%
50%
60%
70%
80%
90%
100%
小企業から累積された企業数 (%)
ジーニ係数は不平等の程度を示しています。この統計値は対角線の下の全体のエリアに対する集中のエリ
アの比較です。対角線の下の全体のエリアは常に 5,00015です。ローレンツ曲線が対角線に近づく時(より
対等の分布)集中エリアが小さくなり、ジーニ係数が 0 に近づくのがはっきり分かります。大きな不平等
が集中のエリアを拡大するので、ジーニ係数が 1 に近づきます。しかし、これらのインジケータには深刻
な欠点16があり産業組織文献は市場集中についてのもっとよく説明できる他のインジケータを探しました。
それらの1つに産業集中度があります。これは最も大きな企業の絶対数によって占められた市場販売のパ
ーセンテージ、例えば 4、8、20 の大企業、など。4 つの企業の集中度、かつて統合のガイドラインとして
1968 年から 1982 年まで使用されていました。集中度を以下のように定義します。
i
I i ≡ ∑ si
i =1
下表に 4 つの架空の企業の I4 の価値を示しています。
% シェア
S1
S2
S3
S4, S5
S6…S8
S9, S10
I4
産業 1
60
10
5
5
5
0
80
産業 2
20
20
20
20
0
0
80
産業 3
100/3
100/3
100/3
0
0
0
100
産業 4
49
49
0.25
0.25
0.25
0.25
98.5
メモ: Si (%)
15
16
½ x (100 x 100) = 5000
エーデルマン「産業集中の測定」、経済・統計調査、1951年11月参照。
55
Ii 比率については多少不満も残ります。産業1、企業1は市場の 60%を持っています。しかし、産業2に
は5社存在し、全部が 20%の等しい市場占有率を持っています。しかし、4企業集中度は両方の産業で I4
=80%でした。それは措置が直線なため、4 つの大企業が市場のほとんどを占めてしまう限り、企業の
サイズを区別できないためです。産業を比較すると、3、4 の産業を 2 社により産業界を占めている場合よ
りも 3 社により等しく分配されている方が市場の集中が高いと測定されてしまうという問題があります。
ハーフィンダール・ハーシュマン・インデックス
ハーフィンダール・ハーシュマン・インデックス(HHI)は会社の市場占有率の凸形の関数であり、ゆえ
に不公平な市場占有率に敏感です。 私たちはこの基準を会社の市場占有率の合計2乗と定義します。公式
としては、
N
HHI ≡ ∑ ( si ) 2
i =1
となります。上記の表から産業1の HHI(3,850)は産業2の HHI(2,000)のほぼ2倍であると計算結果
が出ました。大きな会社の市場占有率を 2 乗することがこのインデックスをはるかに不公平な市場占有率
での産業の値を大きく増やすということが分かります。3 及び 4 の産業を比較すると、I4 は産業3の方が
集中度が高いと示しているところを、HHI は産業 3(3,333)より産業 4(4,802)の方が集中度が高いこ
とを示しています。このため、HHI は規制目的のために好ましい集中基準であると判明されています。
米国の合併活動の監視は連邦取引委員会(FTC)と法務省(DOJ)が行います。FTC が DOJ のどのよう
なタイプの合併に対し説明を要求するべきかの推薦に対してのガイドラインを提出します。 ガイドライン
は合併前のハーフィンダール・ハーシュマン集中度インデックス、HHI 下記の条件を満足す場合、その合
併は説明を要求されるべきではないとしています。
1.
HHI < 1000;
2.
1000 < HHI < 1800 かつ ∆HHI <
3.
HHI > 1800 かつ ∆HHI < 50
100;
合併以後、集中レベルでの HHI <1000 は市場は集中していないと分類されます。 合併後の 1000<=HHI
<=1800 は多少集中しているとされます。合併後に 1800 に達する場合、市場は非常に集中しているとみ
なされます。HHI>100という事態を生み出す集中度の高い市場での合併は、市場力が高められる傾向が
あるので、1992 年の水平合併ガイドライン、セクション 2.5 で述べられている追加要因によっては重要な
競争が懸念されるでしょう。こういった推定は 1992 年ガイドラインの セクション 2.5 で合併市場力を高
めないと述べられることによって克服されるでしょう。
56
DOJ と FTC 水平合併ガイドライン、セクション 2.5(1992 年 4 月)は HHI によって測られた市場集中に
加えて潜在的な意に添わない競争的な合併の効果にハイライトを当てます。 これらの効果は以下を含みま
す。
1.会社内の調整の傾向
2.共通の価格、定価差、安定した市場占有率、あるいは消費者や領土などの制限のような暗黙のあるい
は公の状況
3.品質の違いにより区別されていた企業同士の合併による異なるブランド間での価格情報の傾向
4.失われた競争力を取り戻すライバル企業の販売能力
銀行の合併の場合、 DOJ、及び連邦準備制度理事会は 1992 、及び 1997 に、水平合併ガイドラインに
暗示されたテストの修正よりむしろ簡単な HHI テスト17の修正をしました。HHI テストに加えて DOJ の
独占禁止部門が銀行の預金所有に基づき銀行の合併を遮ります。これは、独占禁止部門が消費者を優先さ
せるという事実を考えると驚くことではありません(彼らは銀行業界の統合が大幅に競争を弱めることに
よって消費者に打撃を与えないようにします) 。独占禁止部門は以下の条件を満たさなければ完全な調査
を行いません。
合併以後の HHI が少なくとも 1800 になる。
合併は少なくとも 200 の HHI の変化を伴う。
銀行合併の場合、関連する製品市場の集中は全ての銀行預金と地理的に関連のある市場で
全ての倹約預金の 20 %の審査を目的に計算される。
より詳しい調査のために、銀行の合併競争的調査 1995 年版を参照ください。
■参考文献
Gatot Arya Putra, Ira Setiati and Damayanti, IBRA Economic Review April 2001: “Market
Concentration in Indonesia Banking Industry”.
Gatot Arya Putra, Ira Setiati and Damayanti, IBRA Economic Review July, 2001: “Scale of
Economies and Efficiency in Indonesia Banking Industry.
Gatot Arya Putra, Ira Setiati and Damayanti, IBRA Economic Review August, 2001: “Cost of
intermediation in Indonesia: Rocha approach”.
Steven Radelet and Jeffrey Sachs, Harvard Institute for International Development April 20,
1998. “The East Asian Financial Crisis: Diagnosis, Remedies, Prospects”.
基本的な理由は、銀行が事実上すべてのノンバンク、そして国外(あるいは州外)からのサービス競争に直面すること
です。
17
57
アジア経済統合の現状と展望
孟 健軍
中国清華大学公共管理学院、中国科学院―清華大学国情研究中心教授
日本経済産業省経済産業研究所ファカルティフェロー
なり書いてありますが、私は薄い2ページのパワー
ポイントだけで少し恥ずかしいですが、これでも水
曜日にできたばかりのものです。データで現実的な
もの、あるいは中国のダイナミックなものを、今日
は基本的に中国の視点から3つお話しします。
1つは中日の貿易、投資関係の変化です。2番目
は中国のFTA、自由貿易構想のシナリオはどのよ
うなことを描いているかということです。1999 年ご
ろ、我々はこれを検討し始めて、2000 年 12 月に報
告書を中央政府に提出しました。そのときは、中日
(孟健軍) ご紹介いただいた孟健軍と申します。
韓プラス香港の構想を首相に提言し、ある意味で了
今日の講演は、始めに今西代表が紹介しておられた
承を得たと言えます。その翌年、昨年 2 月 15 日の
胡鞍鋼先生が来るべきなのですが、中国国内の仕事
日経新聞の「経済教室」に、胡鞍鋼の名前で出した
が忙しくて、3 ヶ月間の日本での仕事を全部キャン
その翻訳の一部分があります。経済統合という現実
セルされてしまい、私が今フォローしています(笑)
。
的なものを中国で盛んに議論したのは、この1年の
6月の中旬、私がイギリスに行っている最中に、彼
ことです。私は中国政府の代表ではないのですが、
から「私の代わりにこの会に出てください」という
研究者として中国の将来を展望した上で、我々が想
メールをもらいました。出頭しなさいということで
定しているシナリオを話します。3番目も、ある意
もありますが(笑)
、そういうことになりました。6
味でこれが絡んだ展望です。人の流れ、あるいは将
月末までに、私はイギリス、フランス、ドイツ、そ
来の政策。実際に制度的な枠組みを我々がつくれる
れと東欧で会議がありましたが、ブルガリアから帰
かどうかが最も難しい問題です。そこまで行けば、
ってきた翌日、こちらの打ち合わせが始まりました。
ほとんどハッピーエンドになると思います。
すぐに打ち合わせをしなければいけなかったのは、
私はその3日後、また北京に行かなければいけない
幾つかのデータを出しますが、基本的に中国で、
という過密なスケジュールだったからです。先週の
この 10 年、
あるいは 20 年、
話題になっているのは、
金曜日に帰ってきたばかりです。そういう中で今日
やはり中国の経済発展のことです。経済発展の背後
は「アジア経済統合の現状と展望」の話をします。
には2つあります。1つは経済改革。皆さんは盛ん
お手元のペーパーは、皆さんは英語と日本語でか
に構造改革と言っていますが、すでに中国は毛沢東
58
時代の約 30 年間、いろいろと試行錯誤してきまし
はどうであるかということは別に頭の中に入れてい
た。鄧小平時代の 1978 年にやっと経済を中心とし
ません。基本的に自分の構造改革を必死にやってい
た改革が始まりました。中国の改革はすでに 20 年
たのです。これもある意味で経済危機の1つの原因
以上経過しているのです。もう1つは、これと同時
になったと言われている、中国の 60%の通貨切り下
に始まった「開放」
。オープン。この2つが背後にあ
げがあるのですが、確かにその時代には、アジアあ
ります。
るいは日本などの外の関係よりは、国内の通貨の一
本化という最も重要な課題がありました。中国の兌
政府の公表の数字によれば、中国の経済成長は年
換券という言葉は、今は死語になってしまいました
平均 9.5%から 10%の間にあります。イギリスやブ
が、7∼8年前まで、中国では人民元と兌換券とい
ルガリアに行っても、盛んに論争しているのは、そ
う2種類の通貨レートがあって、それを一本化する
の中国の数字は本当かどうかということです(笑)
。
ために中国は通貨切り下げを行ったと理解していた
別に7%でも、それは世界最高の成長率です。最近、
だきたいのです。ただし、そのときは、外のことは
世界で中国のこんな数字が話題になるのは、ついに
基本的に頭の中にまだ入れていませんでした。です
中国はここまできたということだと、私はそう思っ
から、それが急に上がったということです。しかし
ています。アジアの恵まれている経済環境は、変わ
高い経済成長率に伴い、やはり外資の依存度は下が
っていくのが当然のことです。日本や韓国の対応が、
っています。今、大体3%台前後です。しかし、ア
これから中国の構造改革、経済発展に応じて変わる
ジア経済危機以降でも、海外からの対中投資は年間
のも、ある意味で私から見ると非常に自然な流れで
に大体 450 億ドルから 500 億ドルを維持しています。
す。グローバル化、あるいは地域化ということです。
なんともうらやましい話です。今年もやはり 500 億
ドルを超えています。中国のマクロ経済は安定して
いることを意味します。
(%)
FDI対GDPの比重
7. 0
6. 0
5. 0
その他
12.7%
4. 0
EU
7.9%
3. 0
2. 0
日本
7.7%
1. 0
香港
49.1%
0. 0
1982
1985
1988
1991
1994
1997
アメリカ
8.4%
2000
マカオ
1.2%
図1 中国の外資依存度(1982−2000)
シンガポール
5.1%
台湾
7.9%
図2 国・地域別の対中 FDI(1991-2000 年)
ここでは幾つかの公式データを出しますが、まず
投資と貿易から見てみます。図1は外資依存度と海
外直接投資の対中国 GDP の比重ですが、大体1%
地域別対中投資(図2)の中身を見ると、よく言
台は 90 年代の初期までです。そのあと、急激に上
われている日本、アメリカなどが対中国で投資して
がったのは、実際に通貨の切り上げという段階もあ
いますが、やはりオーバーシーズ・チャイニーズ(華
りますが、逆にいえば、この時点の中国は、アジア
僑)が香港、台湾、シンガポール、マカオを合わせ
59
て 63.3%で、約3分の2が外の中国人からの投資と
10%、最近はすでに7%まで下がりました。その代
いえます。アメリカ、日本、EU は、今、合わせて
わりに欧米は大体で 10∼12%になっているという
25%です。これは 10 年間のトータルで割り出した
状況です。
特に 1997 年以降、日本からは投資がどんどん減
シェアです。
昨年のデータはまだ分かりませんが、1990 年から
っているということで、ある意味で中国の経済は量
2000 年までの中国の FDI 投資額が全改革開放期の
から質への変化の段階であり、品目別投資から見る
約9割を占めていますから、これで見ると、中国の
(%)
外から受け入れた投資構造はこういうものだという
14. 0
ことが分かります。
12. 0
10. 0
EU
アメリカ
日本
8. 0
(億米ドル)
6. 0
EU
4. 0
アメリカ
日本
2. 0
19
91
19
92
19
93
19
94
19
95
19
96
19
97
19
98
19
99
20
00
0. 0
図4
先進国の対中 FDI の比重
(1991—2000 年)
19
91
19
92
19
93
19
94
19
95
19
96
19
97
19
98
19
99
20
00
50. 0
45. 0
40. 0
35. 0
30. 0
25. 0
20. 0
15. 0
10. 0
5. 0
0. 0
と、日本がやらない産業を、アメリカかヨーロッパ
図3 先進国の対中 FDI(1991—2000 年)
が埋めてくれているという状況です。逆にいえば、
対中投資は、日米欧には一つの競争のパターンがあ
図3は、先進国の投資です。やはり EU、日本、
ります。1つは中国生産基地、もう1つは市場とし
アメリカの比較になります。これを見ると投資額は
ての有望性、両方が絡んで、全体的には日本が下が
年々増えています。日本は 1997 年までは増えてい
ったシェアにアメリカかヨーロッパが入るという状
ますが、そのあと 1997 年以降、少なくとも昨年ま
況です。簡単な事例は電信産業です。携帯電話は中
では下がっています。今年はブームですが(笑)、少
国では今は完全に欧州方式です。自動車も6割はフ
し日本がブームになると、中国への投資は最後のも
ォルクスワーゲンです。結局、こういう状況です。
う1つの段階を超えるという状況になります。これ
今日、そういう言葉を使っていいのかどうか迷い
を見ると、大体額はずっと増えているという状況で
ましたが、非常に強く言えば、中国にとって日本抜
す。初めは日本の投資が一番多く、6億ドルくらい
きでもやっていけるという現状が既にできています。
です。アメリカは3億ドル、ヨーロッパは 2.5 億ド
危機感を持っていただきたいのですが、これは重要
ルの程度ですが、最近は大体それぞれ 40 億∼50 億
なことです。日本が何を言っているか新聞で見てい
ドルの間になりました。対中投資は、10 年で 10 倍
ると、
「そうではないのではないか」と思うことが多
以上増えたということです。
くあります。このままでは、日本がチャンスを失う
だけです。逆にいえば、FTA の1つの前提にもなる
図4を見ると、日本は投資額が下がると同時に、
ことです。日本は距離的にも中国に近いですし、政
そのシェアもどんどん下がっています。日本は初め
策を転換すればかなり有望で、将来、大きな発展の
60
可能性があるのではないかと私は思います。少し厳
貿易国です。これは輸出・輸入です。日本は 18%、
しい言い方になっていますが、アジア経済統合の必
アメリカは 16%、EU15%です。日本、台湾、韓国、
要性は、投資から分かる話だと私は思います。
ASEAN、あるいは香港を含めてアジア地域が5割
以上占めています。
次は、貿易から見たものです。昨日の日本経済新
聞によると、日本からの対中輸出がアメリカの半分
図6
国・地域別の対中貿易比重(2000 年)
図5 中国の貿易依存度(1979-2000 年)
50 (%)
45
40
35
30
25
20
15
10
5
0
1979 1982
日本
台湾
18%
6%
韓国
7% ASEAN
8%
アメリカ
香港
16%
11%
その他
EU
15%
19%
中国の貿易総額は4742.96
1985
貿易依存度
1988
1991
輸出依存度
1994
1997
2000
米ドル
更に図7を見ますと、主要国地域の貿易額の中に、
輸入依存度
輸入超過している地域は、台湾、韓国、ASEAN 地
になりました。中国がアメリカを超えて、日本の最
域、あるいはその他ということです。輸出超過して
大の輸出国になるのは 2010 年、あと8年だという
いる地域は、香港、EU、アメリカ、日本。日本と
ことです。もちろん、中国への依存度がどんどん深
はほぼ対等で、輸出入はそれほど赤字や黒字ではな
まっているのも1つの事実です。しかし、図5で見
いということです。基本的に、日本からの生産財を
ると、中国の貿易への依存度、GDP に占めるシェア
かなり輸入して、消費財は日本に輸出という状況に
はどんどん上がっています。やはり「開放」という
なっています。台湾、韓国、ASEAN、あるいは日
コンセプトの下に、現実的にはどんどん世界とつな
本との関係で、FTA の重要なシグナルはこの中にあ
がっていきます。今は中国は鎖国をしておりません
ります。
し、鎖国に戻るのはほぼ不可能です。大体 GDP の
4∼5割は今、貿易に頼っているという状況です。
図7
中国と主要国・地域の貿易額(2000 年)
輸出依存度と輸入依存度で見ると、80 年代の半ば
ア
すが、時間的な問題で、2000 年だけのものを見てみ
日
本
台
湾
状況でした。もっと具体的にデータを出したいので
EU
メ
リ
カ
ら、1993∼94 年以降は、中国はずっと黒字という
輸入
輸出
香
港
集約的なもの、いわゆる消費財の輸出は堅調ですか
AS
EA
N
そ
の
他
大きな赤字を出しました。90 年代は、そういう労働
(億米ドル)
韓
国
600
500
400
300
200
100
0
ぐらいはかなり生産財をたくさん輸入して、かなり
ました。
図6は地域別の対中貿易比重です。日本は最大の
更に図8を見ていくと、地域の貿易差というのは、
61
中国は先程話しましたように、台湾、韓国、その他
国から年間約 30 億ドルの黒字を一応稼いでいます。
ASEAN、いわゆるアジア地域に対しては基本的に
タイもインドネシアもそうです。先程の「重要なシ
赤字です。ですから、FTA で何が中国にメリットを
グナル」ですが、どうして重要か説明します。朱鎔
もたらすかという単純な利益で見ると、中国はある
基首相は「ASEAN プラス中国」というものを提言
意味で積極的にならなくてもいい面もありますが、
しています。これは、基本的にはアメリカを想定し
日本との補完関係にあると説明できます。中国の稼
ながら、自国の安全保障及び経済発展から、ある
ぎ先はアメリカやEUです。このように、全体的に
図10 中国と ASEAN の貿易差(2000 年)
は黒字構造になっています。
図8
港
香
世
界
ア
メ
リ
カ
EU
AS
EA
N
日
本
国
の
他
そ
韓
シンガポール
ベトナム
ミャンマー
カンボジア
ラオス
ブルネイ
フィリピン
インドネシア
台
(億米ドル)
タイ
湾
(億米ド
ル)
10
5
0
-5
-10
-15
-20
-25
-30
-35
マレーシア
400
350
300
250
200
150
100
50
0
-50
-100
-150
-200
-250
中国と主要国・地域の貿易差(2000 年)
意味で戦略面の主導権を取るということにあると私
は思います。もう1つは、よく話題になっています
更に一歩、ASEAN との貿易関係(図9)を見る
が、実際に中国の西部大開発と根本的なつながりが
と、こういう構造になります。やはり主要国のマレ
あります。これは私の研究の結果ですが、西部大開
ーシア、タイ、インドネシア、フィリピンに中国は
発は ASEAN(10+1)と関係があります。外部環
赤字をずっと出しています。シンガポールはかろう
境づくりの一環として考えています。後でそのデー
じて少しの黒字があるという状況です。
タを出します。むしろ中国は経済面においては、
ASEAN の相手国に経済利益をもたらして、大きな
図9
(億米ド
ル)
摩擦を避けるような政策調整をすることが、今のス
タンスです。これからもそのようにアドバイスする
輸入
輸出
のが私の考え方です。
なぜかというと、図11のように、東部地域の上
シンガポール
ベトナム
ミャンマー
カンボジア
ラオス
ブルネイ
フィリピン
インドネシア
タイ
マレーシア
70
60
50
40
30
20
10
0
中国と ASEAN の貿易関係(2000 年)
海、北京、広東地域は大体1人当り貿易額で 3 万
7000 元ですが、貴州、四川省、雲南省などは、1人
当り大体 350 元という、100 分の一以下です。そこ
はメコン川やタイやマレーシアなどが隣接している
図10も同じような話ですが、マレーシアは、中
62
図11 中国各地域の 1 人当り貿易額(2000 年)
(千元/ 人)
40
37. 22
35
30
25
18. 78
20
15
10
3. 11
0. 35
0. 36
北
京
津
海
建
广
天
上
福
江
浙
南
全
海
山
疆
江
・
国
宁
夏
林
・
・
・
西
新
吉
江
内 蒙 古
宁
北
黑
河
重
徽
北
藏
西
安
南
山
西
西
湖
广
云
南
海
西
川
江
青
湖
四
南
甘
河
・
・
州
・
0. 25
・
5 0. 15
0
・
念頭に置いて、自由貿易を開始・・・
ということです。
最後は、アジア太平洋自由貿易圏を形成す
地域ですから、そこの経済圏を補完すること
るというシナリオです。
によって、経済開発を行っていくという考え
全体的にこのような自由貿易の話について、
方があります。いわゆる東部の上海、北京か
らの投資よりは、ASEAN の方がもっと有利
もう少し議論できるところもあると思います
ではないかという、全体的な国内のシナリオ
が、ここま
です。
でにします。
ですから中国の自由貿易の FTA の考え方
最後に、幾つかの展望について話します。
として、次のようなステップで進めるという
一つは人的移動があります。先程、物と金
の移動を話しました。幾つか事例があります
のが我々の提案です。
中国は ASEAN(10+1)の自由貿易
が、ハイスキル労働者の移動を紹介します。
圏に積極的に推進
最近、日本の中高年者が、定年あるいは早期
中国は日本と中国と韓国プラス香港の
退職してから上海、あるいは中国で仕事を探
自由貿易圏を提起。これは補完関係の
しているといいますが、それも1つの移動と
上で、東部の開発を更に経済成長させ
いえます。IT人材は最も多い例ですが、ハ
るため
イスキル労働者の移動は日本でも中国でも重
③
①と②の上に「10+3」の統合を推進
要なことです。ちょうど5月に私が集中講義
④
中国はIT関連で非常にいい関係にあ
に行ったとき聞きましたが、今では、香港か
①
②
ら隣の深圳へ移動しており、データでは既に
るイ
ンドとの関係を想定しながら、安全保
6000 人がオーナーではなくスタッフとして
障という最重要のファクターを全体に
働いているという状況です。
63
です。もちろん長期・短期などいろいろとあ
りますが,これは中国では大きなことです。
図12 海外留学生人数(人)
年度
1990年
1991年
1992年
1993年
1994年
1995年
1996年
1997年
1998年
1999年
2000年
1995-2000
1990-2000
1995-2000/1990-2000
出国者数
2,950
2,900
6,540
10,742
19,071
20,381
20,905
22,410
17,622
23,749
38,989
帰国者数 中国人も海外旅行の時代に突入する。香港に
1,593
大陸の人々が行かないと、ゴールデンウィー
2,069
3,611
クは、ほとんどもたない状況です。
5,128
4,230
ですから出国者数は年々増えて、8.4%の年成
5,750
6,570
長率で
7,130
7,379
すが、プライベートの旅行者数は 25%近い成
7,748
9,121
長率で
144,056
186,259
43,698
60,329
77.3
72.4
図13 中国人の海外旅行者数(万人)
中国の人材のイメージは、Brain Drain と
年度 出国者数(A) プライベート旅行者数(B) (A)/(B)
758.82
241.39
1996
31.8
817.54
243.96
1997
29.8
842.56
319.02
1998
37.9
923.24
426.61
1999
46.2
1047.26
563.09
2000
53.8
1213.00
2001
1996-2000
8.4
23.6
いう話になりがちですが、私はそう思ってお
りません。私は Brain Circulation、個人の選
択が一番重要と考えています。中国の国内の
環境がよければ、みんな帰ります。出国留学
生(図12)は 1990 年では千人単位ですが、
1993 年はもう万人単位で、2000 年は3万
8000 人というのが公式なデータです。実際に
私が日本の文部科学省のデータを見たところ、
す。2000 年に初めて、個人の旅行や買い物な
2000 年に日本に来ている留学生だけで3万
どプライベートの旅行者数が、ビジネス等の
7000 人ですから、これはかなり過小評価とい
パブリックの旅行者数を超えました。2001 年
うことになります(笑)
。少なくとも実際の留
は 1200 万人で、日本は 1560 万人です。あと
学生数は3倍以上ということでしょう。中国
3年で、海外旅行で日本を抜くのは確実です。
の海外への留学生は 100 万人以上いるという
このような膨大なものがあります。こういっ
ことになり、中国人留学生の皆さんは危機感
た大旅行の時代です。
を持たなければなりません。1995 年以降、こ
昨日の夜、経済産業省関係のメンバーでプ
の5∼6年間で、改革開放以来の留学生総数
ライベートな会があり、そこで提案が出まし
の8割近い留学生が海外に出ているという状
た。先月のサッカーのワールドカップを見て
況です。帰国も大体このような状況で帰って
いて、我々は健全なナショナリズムを育て、
きます。ですから Brain Drain から Brain
日本、韓国、中国でASIAリーグをつくる
Circulation という時代。これが1点目です。
べきだというものです(笑)。別に私にとって
サッカーはどうでもいいのですが、そうする
もう1つ言いたいのは、中国人の海外旅行
と、そのファンの移動によって、もっと交流
64
と理解ができるはずです。ですからその辺を
研究成果を国家政策に変換される、非常に生
もう少し建設的な意味できちんと考えるべき
産的な、うらやましい研究をされています。
ものがあるのではないか。これがいわゆる人
私は先生の報告をお聞きして、最前線の研究
的移動の話です。
をしておられるという印象を強く受け、私個
人としては非常にいい勉強になりました。孟
最後の2点です。政策調整は最も重要で、
先生の報告にコメントを出す立場ではありま
我々は中国に政策提言をしていますが、同時
せんが、孟先生は日本の経験者ですので、後
に日本政府にもこのような考え方を話してい
輩が先輩に対する質問という形で、率直に3
ます。やはり交流することによって、建設的
つの問題を伺いたいと思います。
な意見を出し合うべきだと考えています。現
その1つは若干、孟先生の展望の3点と少
状では、お互いに、対中脅威論、対日警戒論
し重なる形になるのですが、政策調整です。
を持っています。それは基本的にお互いの不
中国が経済統合をしていく中で、いろいろな
信感から来るものです。我々は、Win Win、
困難な政治問題にどのように取り組むか。例
お互いに勝つような発展メカニズムに転換す
るべきです。中国の「10+1」の政策の特徴
から見ると、それが言えます。政策調整は重
要な1点です。
もう1つ重要なのは、制度的な枠組みをつ
くることです。やはり協力を超えて、地域安
定と持続的な発展を保障するために、制度的
な枠組みづくりは重要だと私は思います。で
は将来像はどのようなものになるか。私は、
えばASEANとの関係、ASEANの独自
中国政府への提言、あるいは自分の考えでも、
目標を定めない緩やかな地域統合が望ましい
の摩擦をどのように受け止めるかということ
と思っていますし、決して、ヨーロッパやア
です。最近の瀋陽領事館事件からも見られる
メリカのようなものになるのがいいとは、私
ように、北東アジアで、日本と韓国と中国の
は思いません。以上です。
間の摩擦問題をどのようにクリアしていくの
(講演録音テープから記録)
か。もしこの問題を解決できないのであれば、
アジアの経済統合は余りにもほど遠いのでは
孟健軍先生との質疑応答
(金)
性をどのように受け入れるか、ASEANと
コメンテーターの、中央大学の金香
海と申します。
先生は、中国の朱鎔基首相と副主席胡錦涛
の出身学校の清華大学で教えていらっしゃい
ます。先生のお話から伺うと、先生は自分の
65
に持っており、私は伝統的な観点からそれを
ないかということです。
もう1点は、制度的な枠組みですが、私の
説明できます。何千年の間に多民族をマネジ
理解は、この東アジアで本当に経済統合がで
メントした結果が、何よりもその説明になっ
きるのかということです。私の理解が間違い
ています。ですから摩擦回避は単なる一長一
でなければ、経済統合と経済協力は違うと思
短のメカニズムの問題ではなく、それなりの
います。経済統合というものは、非常に制度
精神、あるいは制度を全体的に見てリーダー
性が強い。関税を引き下げることによって経
シップを取れるかどうかが、私はもっと重要
済を制度的に結びつけるということが、経済
だと思います。
統合だと思います。経済協力は、関税引き下
2番目の問題である制度の枠組みをつくる
げと、資金の協力や技術の協力、それが含ま
には、はっきり言うと、日本は3万ドルの国
れていると思います。これは2つの概念で、
ですから、中国は一段と経済が発展する必要
今、こちらで提起されている課題は、経済統
があります。ですから、それを経済産業省で
合をしようということです。それだけにアジ
も、中国の安定的な経済発展こそ、日本と中
アの多元的な経済レベル、文化レベル、政治
国の良好関係の基礎になるということが、そ
レベルで、本当に今のような制度的に高い枠
れに対する見解です。その上で制度的なもの
組みがつくれるのでしょうか。それが私の2
になります。
3番目は人材交流のネットワーク。中国に
番目の疑問です。
第3番目は、孟先生の展望と重なりますが、
どのような制度があるのか、最近自分自身は
東アジアにおいて経済統合をしていく中で、
あまり研究していません。去年まで、確かに
人材交流の枠組みをどのようにつくるか。私
留米組を中心にやっていました。今年も、や
は非常に重要なポイントだと思います。もう
はりアメリカ留学組が中心ですが、日本から
一歩踏み込んでお聞きしますが、中国政府は
帰った人たちは、実力があれば勝負できるは
今、日本の中国留学生を受け入れるために、
ずです。中国はすでに性悪説に立って、みん
どのような制度を整備しているか、どのよう
な実力で評価していく時代に入りますから、
な政策がいるか、ということについて伺いた
自信があれば勝負しようということです。実
いと思います。
際に 10 年前、中国に帰った東大の博士が、今
以上3点です。よろしくお願いいたします。
の青海省、中国の最も貧しい省のエグゼクテ
ィブ、バイス・ガバナーになったというケー
スもあります。昨年も東工大の私の後輩が、
(孟) どうもありがとうございました。
ある市の副市長になりました。ですから、私
1番目の問題の、アジアとの経済統合が私
の今日のテーマです。私は中国人で、ここに
は基本的に個人選択を一番尊重していますが、
座っている人のおそらく3分の1も中国人で
外でも中でもこのようなネットワークがあれ
すが、自分の出身地を思い出せば、我々は実
ば、お互いに交流したり、あるいは地域全体
際に経済統合をしているのです(笑)
。国内で
的な貢献ができる、その辺が重要ではないか
は一種の経済統合です。歴史の中に、経済統
と私は思います。
もう1つは、これから推進するという話で
合のための危機回避のメカニズムを中国は常
66
すが、7月に、日中国交回復 30 年の記念のた
めに、私は北京に帰って日中科学技術交流の
会に出ました。これから中国に留学している
日本人、日本に留学している中国人を、卒業
してからフォローするというようなセンター
を立ち上げようという現実的な問題が、すで
に今、浮上して、検討が進んでいます。9月
には案を出さなければいけないのですが(笑)
。
ですから、そのようないろいろな面で、経済
統合の方向に向かっていくのではないかと私
は思います。
67
中国との競争と協力
バーナード・M・ヴィリエガス
2001 年は2つの大きなニュースが世界経済の
フィリピンアジア太平洋大学経済学部長
話題をさらいました。第一は、昨年 3 月、10
年にわた
フィリピン貿易産業長官、マニュエル・ロクサ
ス II 世は、世界貿易機構(以下 WTO)の中で最
る米国の景気拡大に終止符が打たれたことであ
大の加盟国となる中国とは輸出市場で競争が激
り、 第二は 2001 年 12 月 11 日の中国の WTO へ
化することに備えなければならないが、その巨大
の公式参加の決定です。これにより、中国は大規
なマーケットを開拓する必要性もあることを、民
間セクターに警告しました。戦略のキーワードは
」
。 フィリピンは中国とい
「協争(Co-opetition)
かに競争し、かつ協力することによって、国民へ
最大の利益を与えることができるのでしょうか。
この論文ではそのような「協争」戦略の主なポイ
ントを取り上げてみたいと思います。
模な海外投資を背景として、国有企業(SOEs)
を民営化することを正式に表明し、保護経済シス
テムに終わりを告げる方向へ向かうことになり
ました。
米国の不況が東アジア経済に与える影響は一
時的なものだと思います。2002 年内にも米国の
経済が修復に向かうのは必至であり、シンガポー
ル、台湾、及び香港のような経済が悪化した国々
の輸出は大きく改善することになるでしょう。当
分の間、米国が引き続き世界の経済成長のエンジ
ンとなり続けることに疑う余地はありません。
中国の WTO 加盟に対しては、様々な反応が起
新たなる経済推進力の出現
こりました。世界経済成長の第2のエンジンであ
る日本に取って代わるであろうと予測する人々
68
は、中国が東アジア諸国への投資を奪って、アジ
門家を大量に養成していることは、大き
ア・太平洋地域の海外投資を独占してしまうだろ
な利点です。低賃金労働者が多いだけで
うと予想しています。また、莫大な量の低賃金労
はなく、毎年 40 万人もの工学学士を社
働力のおかげで、中国が輸出においても他国を圧
会に送り出しています。これは日本の年
倒するだろうとも予想されています。
間 16 万人を大幅に上回っています。大
学生数が多くて知られているフィリピ
ンで年間 4 万人、これより少し規模の小
なぜ中国が強いのか
さいタイが 1 万5千人しか工学系大学卒
楽観主義的な見解として、中国が強いのは以下
業生を毎年送り出していないことを考
のような理由が挙げられます。
1.
慮に入れると、中国は技術系製造・サー
工業労働者の平均月収を比較
ビス業界で強い競争相手になるといっ
すると、フィリピンの 117 米ドル、
てよいでしょう。
タイの 137 米ドルと比べて、中国は
このような楽観論が正しいかどうかは、今後 5
およそ 90 米ドルと大幅に低く、失
∼10 年以内に明らかになってくるでしょう。たと
業率も 10∼12% と高いために、中
え生産性、効率、統治において大きな改善がない
国国内の大幅な賃金上昇は考え難
としても、資本、人的資源といった国内資源をた
いです。
くさん使うことによって、中国は年間 7∼9%の成
中国国内市場は巨大であり、9
長をし続けることができるでしょう。近代史に残
億人もの未開拓の消費者市場が地方に
る、1960 年中頃から 1990 年代中頃までの 30 年
眠っています。そして年間個人消費支出
に及ぶ、タイガー経済18と呼ばれたアジアの経済
増加率が近隣の東アジア諸国の 2∼3%
急成長の再来をもたらすかもしれません。
2.
と比べ、7∼9%と高く、特に洗濯機、テ
レビ、パソコン、携帯電話などの耐久消
中国への投資の無限の可能性
費財の消費支出増加率が著しく上昇し
世界各国からの中国への投資の無限の可能性
ています。
3.
諸外国から中国への直接投資
については、朱鎔基首相のコメントに集約されて
を可能にする大きな要因として、アジア
います。ローレンス J. ブラン著「中国の世紀」
諸国内に広がる大きな中国人コミュニ
の序文で、首相は中国の明るい将来展望について
ティが挙げられます。フィリピン、イン
次のような強い自信を見せています。
ドネシア、タイ、マレーシアなどに住む
「中国は WTO への同意する手続きを早急に進
中国人ビジネスマンだけでも、およそ 6
めています。WTO 加盟という重大な変化は中
億米ドルもの海外投資を中国国内に持
国の市場開放につながり、新しい時代へ発展し
ち込んでいます。ASEAN 長官によれば、
ていくと信じています。
」
2000 年には中国企業から東南アジア全
「エネルギー、運送、電気通信、及び環境保護
体に、わずか 5700 万米ドル程度しかつ
分野の市場開放プロセスを進めると同時に、金
ぎ込まれなかったということです。
4.
知識を基盤とする世界経済に
18
(編集者注)韓国、台湾、香港、シンガポールの経済。
儒教国なので、虎に喩えられた。
おいて、中国が高水準の教育を受けた専
69
融、保険、観光、商業貿易といったサービス部
2001 年でさえ GNP が7%以上も成長をし続けて
門をもっと開放します。更に、海外投資を積極
いるということに加え、2001 年 12 月 11 日に、
的に多様な形で導入し、国有企業の再建を図り
ついに WTO に認可されたことにより、中国の展
ます。」
望は更に明るくなったように思われています。よ
「中国は現存の対外関連の法律や制度の見直
り開かれた経済のおかげで、2001 年初には総計
しを図り、国内の状況を反映させつつも、急速
3,500 億ドルに及んだ大規模海外直接投資を更に
に経済・貿易システムを確立させ、WTO に規
増進するでしょう。中国の海外直接投資(FDI)
定された条件に見合うようにしていきます。
」
は、アジア全体の 80%を占めています。WHO 加
「中国は大きな市場の潜在能力を有する世界
盟によって世界市場への進出がより自由になっ
最大の発展途上国です。生活水準を上げ、 10
たので、中国は靴、おもちゃ、衣服、洗濯機、テ
億人以上の居住者の消費構造を改革すること
レビ、パソコンなどあらゆる種類の工業製品の大
によって、大きな消費者需要が生まれるでしょ
輸出国になるでしょう。どんな危機に直面しよう
う。大規模なインフラ建設、工業構造改革及び
とも中国は少なくとも今後5年間は年間7∼9%
西部開発は、必ず、より大きな投資の需要を導
の成長を続けていくでしょう。
しかしながら、今後 10 年以内の近未来におけ
くでしょう。
」
「今後 10 年間の中国の国民総生産(以下 GNP)
る中国の崩壊を予言する人もいます。真実は、
「理
は年平均7%で成長し、資産投資は 10%成長す
に叶わぬ繁栄」と「破滅と陰り」の間のどこかに
ると予想され、総輸入額は2兆米ドルを超える
あるにしても、中国の過去 20 年にわたる経済成
とも言われています。中国に潜む莫大なビジネ
長を停止しかねない中国社会の弱点を検証する
スチャンスは国内企業だけでなく、今後の展望
のは、それなりの意味があるでしょう。実際、ゴ
を見据える多くの諸外国の企業家にまで広が
ードン・チャン著「中国の崩壊」と題された本が
っているのです。」
最近出版されました。チャンは、中国政府内で大
「長期的見ると、中国市場の拡張は、世界繁栄
きな反乱が起こり、5年以内に政府は崩壊すると
を促進する重要な要素です。中国へ来てビジネ
予測しています。
スを確立する企業や国際投資機関を心より歓
迎します。手に手を取って明るい将来に向かっ
中国の主な弱点
て進んでいきましょう。
」
過去 20 年間、朱鎔基首相は常に奇跡ともいえ
中国の社会全体でないとしても、経済の崩壊を
る中国経済開発の第一線で活躍し続けてきまし
もたらしうる中国の主な弱点とは何でしょうか。
た。彼が中国の近代化へ力を注ぎ続ける限り、サ
以下は、多くの悲観論者たちによってしばしば挙
クセス・ストーリーは続くでしょう。少なくとも
けられる弱点です。
今後5∼10 年間は、中国は世界中の投資家の目を
1.中国経済において公式に発表された数値はほ
引き付け続けるでしょう。
とんど作り事と言われています。例えば、中
国財務省の最近の調査によって、10 社に1社
が 2000 年に損失があったにもかかわらず、
不合理な繁栄の危険性
利益を捏造していたことが明らかになりま
中国の経済展望について「不合理な繁栄」と言
した。どうも中国企業は「創造的な会計」を
わざるをえない理由が幾つかあります。不況下の
行ったエンロンからの教訓を必要とはして
70
いないようです。多くの場合、政府高官自身
商社は更に規則に基づくシステムを要求して
が共産党の上層部を喜ばせるべく歳入を誇
くるでしょう」と述べています。
張して報告しています。 経済学者の中には、
3.都市と地方の貧富の差が広がっています。改
2001 年政府発表の 7%経済成長を信用しない
革開放政策により、1978 年以降、約 2 億 7
者もいます。 実際の成長率は 3.5%にも満た
千万人の生活水準が向上しましたが、全体か
ないであろうと考えている評論家もいます。
らみると、利益の還元はいまだ少数のエリー
2.中国の銀行は多くの不良債権を負っており、
トのみに著しく偏っています。過去 20 年間
その内のおよそ 40%は国有企業に融資され
に、最も裕福な人々の収入は、最も貧しい
たと推測されています。世界経済協議会のク
人々の収入より、およそ 4 倍の速さで増大し
ロード・スマディア常務取締役は、中国の不
ています。事実、1998 年からは地方住人の
良債権は2兆から3兆米ドルあると指摘し
消費は下降線をたどっています。そういった
ています。トーマス・クランプトン氏は、2001
不公平感から既に中国全土で周期的な爆破
年 12 月 18 日発刊のインターナショナル・ヘ
事件等の出来事が発生しています。そのよう
ラルド・トリビューンの記事で、多くの中国
な抗議の火種が、大火事に発展するのは、も
の企業は、1997 年の金融危機以前の韓国の
う時間の問題なのかもしれません。こうした
財閥よりも高いレベルの負債を負っている
不安は、WTO 加盟により失業者が増え、更
のではないかと感じる、と述べています。中
に悪化しました。クロード・スマディア氏が
国政府は、高い雇用率を確保するために、負
著書「中国の時代」で、述べているように、
債のある企業に補助金を与える政策をとっ
中国政府は直面している問題を軽視しては
ています。WTO 加盟によって、中国内に優
いけません。労働省によると、もし完全に国
良な外資系銀行が参入してくるので、国内の
有企業の再編成を行うとすれば、その過程で
銀行は危険にさらされることになります。
1999 年末から 2000 年末の間に、1100 万人
更に、銀行の不正行為が大きく報道されま
の労働者から職を奪うこととなり、その改革
した。中国銀行の王雪氷社長が銀行預金を何
が更に続けば、次の数年間に3∼5千万人が
百万ドルも詐取したと告発されたのです。王
職を失うこととなります。更に、膨大な地方
の手引きで、中国銀行のアメリカの支店は役
企業も、新しい市場経済に適応することがで
員の友人への貸与にあたって、偽造借用書や
きず、破産や廃業せざるを得なくなるでしょ
返済計画書を作成して貸し付けたり、その他
う。農業部門では困窮が続き、多くの人々が
の「疑わしい行為」を行ったりしたというこ
地方を去り、都市中央部で働かざるをえなく
とです。ワシントンポストのジョン・ポムフ
なるでしょう。しかも、毎年 1500 万人の新
レット氏は 2002 年 2 月 18 日発行のインタ
人が労働市場に参入してきているのです。
ーナショナル・ヘラルド・トリビューンで「王
4.ゴードン・チャン著「中国の崩壊」にあるよ
の事件は、近年 20 年間の中国における法制化
うに、WTO 自由貿易下の世界競争を勝ち抜
の試みと、中国の急成長の歯車となった奔放
くためには、重要な構造改革の必要性に迫ら
かつ多くの違法行為の実践とが衝突した事例
れることになりますから、中国にとって今後
であるといえます。中国の経済及び法制度が
5年間は最も厳しい時期となるでしょう。不
近代化しているからこそ、こうした摩擦が増
幸にも、この 5 年間は世界各国が 2001 年に
加するのです。WTO への加盟により、外国
始まった不況から脱出する非常に苦しい時
71
期と重なります。また、中国国内も朱鎔基首
を、地方自治体が阻止したり、遅らせた
相の後継者となる第 4 世代のリーダーを探し、
りするのを、今後も目の当たりにするで
政治を次世代のリーダーに移行するという
しょう。」と述べています。
難しい局面に当たります。これらの困難な状
経済ジャーナル誌に掲載された、シカゴ大学経
況下で中国は深刻な社会的混乱に直面する
済学部教授のアルウィン・ヤング氏の記事に指摘
かもしれません。
されているように、強い地方保護貿易政策が中国
将来のリーダーを育成する中国共産党校長、
の 27 の州と 4 つの政令指定都市で施行されてい
胡錦濤氏は将来の指導者の一人に挙げられて
ます。他州からの流通は貿易規制によって制限さ
います。彼は同時に州知事も勤めています。
れています。そうした保護貿易政策は WTO 規制
胡氏は改革主義者として高い評価を得ていま
に対しての反発に他なりません。中国は WTO 加
す。彼と彼の同世代の高級技術官僚(テクノ
盟により、今後 3∼5 年間は厳しい局面に立たさ
クラート)たちは、経済の自由化のために、
れるでしょう。
前世代の指導者達の使った手法は、恐らく使
このような中国の経済システムに特有な弱点
わないでしょう。チャールズ・ハツラー氏は、
と今後 5 年間の困難に対して、中国の指導者たち
アジア版ウォールストリートジャーナル
は対応策と防衛手段を用いる必要に迫られるこ
(2002 年 1 月 4、6 日)で以下のように報告
とになるでしょう。そして、東アジアの国々は、
しています。
「最大の問題は政治領域の中に存
世界経済の中で中国と上手く競争していくため
在しています。官僚的、権威主義的な政府の
に、適切な戦略をたてなければならないでしょう。
下では、ダイナミックな経済と多様な社会を
導いていくことは難しいと思われます。胡氏
ピンチをチャンスに変える
と彼の同僚たちが変化の可能性への手がかり
として注目したのは正にこの点なのです。彼
中国の WTO 加盟は東南アジアの経済に大きな
らは熟練した公的サービスを作り上げ、より
脅威を与えています。大きな「吸引音19」は、中
明解な政治を奨励することによって、民主主
国への海外直接投資の集中を意図しており、東南
義ではないとしても、より国民の期待に応え
アジアを除けばその影響は更に大きくなってい
ることのできる政治を作り上げるプログラム
くでしょう。1990 年代初めには、東アジアの海
作りに着手しました。
」
外直接投資の 70%以上が ASEAN、特にタイ、イ
WTO の要求への対応は、事実
ンドネシア、マレーシア、及びシンガポールに流
上、中央政府から地方レベルへ権限を大
れ、30%以下が中国に流れていました。今日、こ
幅に委譲することによって遅らせるこ
の地域の海外直接投資のほぼ 80%が中国に流入
とができました。クロード・スマディア
しています。中国が WTO 下で更に市場を開放す
氏は、「今日、中国では中央政権が以前
れば、ASEAN には何も残されないかもしれませ
より弱くなってきていると言っても過
ん。中国では、ASEAN 諸国のおよそ 4 分の 1 の
言ではありません。北京の中央政府が施
賃金しか必要としないので、輸出志向の製造業は
行を切望している政策でも、地方政府に
東南アジアから消滅の一途をたどることになる
5.
よって延期させられてしまう例が幾つ
もでてきました。恐らく、WTO の要求
(編集者注)The great “sucking sound” :液体が音を
たてて吸い込まれる様子を表す
19
を満たすため作られた中央政府の政策
72
大型市場を構成することができないことを、熱狂
かもしれません。
しかし、こうした脅威も ASEAN のリーダー達
者たちは忘れがちのようです。
セヴェリノ事務局長が勧めるように、WTO に
が速やかに中国との競争に対応できれば、チャン
スに変えることもできるでしょう。
今後 5 年間に、
加盟した中国からの競争圧力を受け、ASEAN 諸
ASEAN 諸国が自由貿易を前提に地域貿易協力を
国は以下のような改革の推進を図るでしょう。
速やかに進め、汚職に巻き込まれる企業をもっと
・非関税障壁の除去
決然となくしていけば、脅威はチャンスに変わる
・関税手順の簡素化
だろうと思います。中国が WTO 加盟国としての
・重要な生産ラインの規格の国際的標準化
利益を完全に得ることができるようになるまで
・商品流通経路やロジスティクスの効率化
には、少なくともあと 5∼10 年かかります。中国
代表的な改善計画として、シンガポールからマ
は国有企業の独占を抜本的に改革しなければな
レーシア、タイ、カンボジア、及びラオスを通
らないし、少数民族自治州の反政府運動を解決し
り中国・昆明までの鉄道を建設。経済興隆のた
なければならないし、誇張された経済統計値を現
めミャンマーとラオスも通る。
・ビジネスサービス、交通輸送、電気通信、建設、
実に近づけていかなくてはならないし、中国の銀
財政、観光等、サービス業の自由化
行の非常に高い不良債権率を下げなければなら
ないからです。
実際、WTO が中国に透明性を要求するので、
中国の競争的な脅威をチャンスに変えるため
短期的には外国の直接投資が減速するかもしれ
のもっと大胆な対応策は、ASEAN のリーダー達
ません。したがって、今後 5 年間は ASEAN 経済
が世界最大の自由貿易圏を作るために、中国と交
にとって貿易、銀行、及び企業の構造改革で先行
渉を始めたことです。そのような自由貿易圏は、
するチャンスなのかもしれません。2002 年 1 月 1
今後 10 年以内に 18 億人の消費者を擁することに
日に ASEAN 自由貿易協定(以下 AFTA)が公式
なり、消費財製造業とサービス産業は少なくとも
に実現し、 東南アジア地域内貿易に課せられる
10 年間は 2 桁で成長するでしょう。これにより、
関税が 0∼5%になったのは、正に絶好のチャンス
一人当たりの所得レベルは 1,000 米ドルから
といえましょう。ASEAN 事務局長ロドルフォ・
2,000 米ドルとなり、加工食品、ファッショング
セヴェリノ氏の報告によれば、ASEAN 内貿易の
ッズ、装飾品、器具、教育や観光サービス等の需
平均関税率は、AFTA 政策が始まった 1993 年の
要が飛躍的に増加するでしょう。
11.44%から、現在、最小値の 3.2%にまで下がっ
フィリピンの場合、国際貿易省国際貿易グルー
プ次官トーマス・G・アキノ博士により、現時点
ています。
5 億人の消費者市場である AFTA は、米国、日
での中国への輸出品の展望が報告されています。
本、及びヨーロッパから海外直接投資を引き付け
フィリピンが中国市場へのフリー・アクセスを取
る上で中国の強力なライバルになりえます。
り決めることができた製品は以下のとおりです。
ASEAN は中国の半分の人口ですが、GDP はほぼ
・ ココナッツ油:当初、関税割当量制度が存在
同じなので、一人当たりの所得は中国の2倍にな
したが、2006 年までに関税のみに。ココナ
ります。ASEAN 諸国は、消費財製造業やサービ
ッツ油の関税は大豆油等他の植物油と同様
ス産業にとって、より大きな市場といえるかもし
に 9%で、今まで大豆及びヤシ油に比してコ
れません。中国のほぼ 9 億人の地方在住者は、最
コナッツ油が得ていた利益を更に増強
・ バナナ:2004 年までに 12%に固定
低生活水準程度の収入しかなく、ほとんど有益な
73
・ 小エビ・クルマエビ:2004 年までに 10%に固
為替の収支差、輸出パフォーマンスと部品の現
地調達等を含む技術移転に必要な貿易投資措
定
・ マンゴ:2004 年までに 15%に固定
置 (TRIMS)を取り除くことに直ちに同意し
・ パイナップル:直ちに 25%に固定
ました。中国はこれらの政策によって、投資環
・ LPG:直ちに 3%に固定
境を改善することを望んでいます。
」
・ 浴室やトイレ設備:2005 年までに 15%に固定
「中国は、衛生関係の装置(以下 SPS)の部門
・ フロートガラス:2001 までに 15%に固定
において、SPS に関する WHO 協定の条件を完
全に取り入れることになりました。これにより、
フィリピン企業が今後 5∼10 年の間に行う中国
動植物及び人間の健康に関する輸入品の条件
との取引の準備のため、トーマス・アキノ博士は
はしっかりとした科学に基づくものでなけれ
以下のような非常に有用なガイドラインを提案
ばならなくなりました。
」
しています。
「中国は、WHO 加入時に、米を含む農産物に
「諸外国との交渉において(最恵国原理によっ
関するすべての輸出補助金を廃止するでしょ
てフィリピン自身も同時に利益を得ることの
う。それは貿易をゆがめる国内の農業補助金を
できるのだが)、中国は利害関係が複雑な製品
廃止することともいえます。この条件に関して、
も自由化することに同意しました。蒸留酒、ビ
中国が提出しうる国内の補助金の最低レベル
ール、ワイン、水産物、自動車部品などを例に
は生産価格の 8.5%に設定されたことに注目し
挙げることができます。アルコール飲料と自動
なくてはなりません。フィリピンを含む WHO
車部品については、現在中国は 65%∼100%の
の発展途上国は、生産価格の 10%の最低レベル
関税率を適用しています。これらは 2006 年中
を設定しています。現在の WHO 規定では、発
頃までに0%(ビール)から 10%(自動車部品)
展途上国にとって、最低限の貿易補助金(例え
までの間に減少するでしょう。水産物について
ば価格維持)は、開発目的と同様に不可欠であ
は、現在の平均関税率は 25%ですが、2005 年
ると考えられていて、削減約束を条件とはして
」
までには 10∼11%に減少するでしょう。
いません。しかも投資補助金同様、一般的に発
「中国は非関税障壁(以下 NTB)に関しての
展途上国は削減約束の条件を逃れており、中国
WTO 規則に従うことを約束しました。これは、
にも当てはまりません。
」
上述のように中国が同意した関税基盤の自由
AFTA と中国の間の自由貿易枠組内で、フィリ
化を補強することになるでしょう。
」
「中国は貿易の拡大につれて、すべての割当量
ピンはココナッツ油、バナナ、及びパイナップル
と量的制限を徐々に解除していくでしょう。
といった農産物、加工品や飲料、装飾品等の輸出
1992 年に中国は、時間税輸入管理を 1,247 の
に競争力があるかもしれません。更に大きな世界
関税ラインに課していましたが、今日 300 まで
市場からみれば、もし、情報・コミュニケーショ
減少しました。製品によっては 2002 年、遅く
ン科学、医療、観光、ロジスティクス、教育、エ
とも 2005 年までには NTB が撤廃されるでしょ
ンターテイメントといった知識集中型サービス
う。この間、割当量は存在しますが、市場参入
に的を絞れば、中国の製造業との競争は的外れで
が増えることにより、割当量も年 15%ほど拡大
あると言えるかもしれません。1 つだけ確かなこ
するでしょう。」
とは、中国の WTO への加盟により、フィリピン
「産業部門において、中国は、地域主義、外国
企業は更なる戦略計画及び経営技術を磨かなく
74
てはならないということです。
(原文は英語、根本朋子氏により日本語訳)
常にすばらしい日本語訳を作ってくださいました。
まず、最初の中国に関する話なのですが、中国
ヴィリエガス先生との質疑応答
の経済データに水増しした部分があるという話は、
否定できないと思います。ただ、私も最近、中国
の経済データをどう見るかという解説記事を書い
ており、少し調べておりまして、少し代弁させて
いただきたい。確かに、西側で言われているよう
(徐 向東) ヴィリエガス先生ありがとうござい
に、中国では地方政府が報告しているデータの中
ました。
に、やや誇張した水増し部分があると思います。
先生は基本
一方、特に中国では、中小企業、零細企業、民間
的に2つのこ
企業は、企業全体の8割ぐらいを占めています。
とをおっしゃ
孟先生がもっと詳しいかもしれませんが、政府は
ったと思いま
零細企業の実態をほとんど把握できておりません。
す。1つは中
しかも、こういった零細企業、民間企業は、いわ
国の経済発展
ゆる脱税、節税のために、自分の売上げを実態の
をどう評価す
まま報告していません。だから、過大評価もあり
るか。先生は自分は中国の専門家ではないとおっ
ますけれども、一方では、過小評価もあるという
しゃいましたけれども、非常に的確に中国の経済
ことも十分に踏まえる必要があると思います。
の発展をとらえていると思います。2番目は、中
ですから、脅威論、崩壊論、China Wall Collapse
国の発展に対応して、ASEAN、とりわけフィ
など、いろいろ言われていますが、私がいつも思
リピンはどのような戦略を取るべきかと。そして、
うのは、中国は大きなゾウのようなもので、それ
「co-opetition」という、非常にすばらしい概念を
ぞれの人たちが自分の立場から中国を見て、目の
作られ、マキトさんが、それに「協争」という非
見えない人がゾウの体を触って、中国は丸い大き
75
い形をしているのだ、ある人はゾウの鼻を触って、
参入するチャンスがある。一方では、中国は今、
中国は細長い形をしているのだというように、ほ
家電市場はものすごく飽和しており、外へ出てチ
とんどの人がみんな中国の実態を把握できていな
ャンスを求めたい。そうすると、フィリピンは逆
いのです。おそらく、中国の人たちも中国の経済
の視点、考え方を変えて、中国の国内メーカーを
学者も、本当に中国はどうなっているのかよく分
フィリピンに誘致する。そういうことがあります。
からないと思います。清華大学のある社会学者と
ここで、フィリピンの co-opetition という戦略
昨年議論しまして、その先生は、中国人というの
を考える場合に、私は先生にお聞きしたい2つの
は不可能を可能にする能力があるというのです。
質問があります。第一に、東南アジアの他の国に
あまり理論的な解釈ではありませんが、なんとな
比べると、フィリピンが中国に参入する、中国と
く中国の実態を表しているような気がいたします。 協争するときに、どういった優位性があるかとい
それで先生がおっしゃっている、東南アジアと
うことです。第二に、フィリピンにいるチャイニ
の協争(co-opetition)ですけれども、中国という
ーズ(華僑)の力、あるいは役割をどう生かすか
のは、先程の話と関連して、きわめて多重構造の
ということです。この2点についてお聞きしたい
国なのです。例えば、昨日上海から日本に帰って
と思います。
きたばかりですが、上海の都心のど真ん中にある、
平均年齢 25 歳の、いわゆるITベンチャー企業を
(ヴィレイガスヴィリエガス)
見てきました。そういう、非常にドキドキワクワ
フィリピンが比較優位性を持てるかという質問に
クと感動するような、IT関係の、トフラーが言
対して、2つの例を挙げます。1つは、例えばコ
っている、いわゆる『第三の波』の世界にすでに
コナッツ・オイルやエビなどの高い付加価値の農
入っている部分もあります。一方、例えば北京の
業品に比較優位性があるかもしれません。もう1
シリコンバレーと呼ばれる中関村から 1000m離
つは、知識労働者です。その例としては、華僑に
れている所に、首都鉄鋼会社という大きな鉄鋼会
も関係があるのですけれども、例えば、先日、プ
社があります。1000m離れて、第3の波から第2
ロクター&ギャンブル20に行ってびっくりしたの
の波の世界に入ります。更に、おそらく 1000m歩
ですけれど、フィリピンの華僑が、英語と中国語
いて北京の郊外に行きますと、また昔の前近代的
を利用しながら、すばらしい貢献をしています。
な零細工業がある第1の波の世界があります。そ
最近は中国からフィリピンに英語を学ぶために多
ういう多重構造の国なのです。
くの人が来るようになりました。やはり、フィリ
どういう分野で
さて、先生は、アメリカ、日本の投資がどんど
ピンのもう1つの比較優位性というのは言語、特
ん中国の方に流れていて、アジアの方は、お金は
に英語です。遠いアメリカよりは、フィリピンで
全部中国に奪われてしまったとおっしゃいました。 英語をわりと安いお金で勉強できます。
それは確かにそうなのですけれども、例えば日本
やアメリカは、中国のハイクラスの消費者あるい
2番目の質問、華僑は具体的にどのように中国
はマーケットしか見ていなくて、中国にはまだ膨
とフィリピンの関係に貢献できるかと言いますと、
大な、中所得、低所得のマーケットがあります。
ご存知のように、今、フィリピンには、メガモー
話は詳しく展開できませんが、私が思うには、日
ルという、大きなアウトレットのような所があり、
本が中国のオートバイで大きな失敗をしたのは、
中国の中所得の階層を見ていないからなのです。
20
(編集者注)育児用、女性用の衛生用品を作っている米
国大手企業
そういうところに、まだまだ東南アジアは大きく
76
大体は華僑が経営しています。今度は華僑が、中
できるか、例としてはセブン・イレブンのような
国のアモイという地域に、サプライ・チェーン・
ものですけれども、その技術を中国に持っていっ
マネジメント、つまり、在庫を効率的にどう管理
て、将来の大きな市場を狙いそれに備えています。
参考文献
Thomas Aquino, “China’s Accession to the
WTO: Implications for the Philippines.”
Year-End Economic
Briefing of the University of Asia
and the Pacific, December 3-4, 2001.
Asian Wall Street Journal, China: The
Rising Economic Sun, Asian Economic
Survey, 2001-2002,
October 29, 2001.
Laurence J. Brahm (editor).
Century:
China’s
The Awakening of the Next
Economic Powerhouse,
New York: John Wiley & Sons,
2001.
Gordon, Chang, The Coming Collapse of
China, New York: Random House, 2001.
Rodolfo C. Severino. “ASEAN Builds on
Free Trade,” Asian Wall Street Journal,
December 28-30, 2001.
Craig S. Smith, “China; The Perils of a
Wider Global Area,” International Herald
Tribune, December 19,
2001.
77
(司会)
これから自由討論をお願いしたいと思い
ってつくられて、本当の危機というものは内部より
の中から、その後、若干でも時間が許せば、フロア
ました。先生はどう考えておられるのか、私の理解
の方から質問をお願いします。
でよろしいかどうかを確認させていただきたいと思
自 由もむしろ外にあったのだと、私の考え方では理解し
討 論
ます。最初に、発表をいただきました5人の先生方
います。
(平川)
それでは、非常に簡単に質問をさせてい
ただきます。第2報告の李鎮奎先生にですが、コメ
(李
ント中で、アジアの通貨危機がわずか2年ちょっと
多いのです。韓国では IMF 危機という表現をするの
で回復したということでした。それはどういうこと
ですけれども、アジア通貨危機がどうして起こった
なのか、なぜそんなに簡単に回復できたのかという
かというと、アメリカが主導する世界の中でこれは
問題です。孟先生の先生でもある、日本の有名な経
つくられたという理論があります。具体的に申し上
鎮奎)先生のご意見にかなり同感する部分が
済学者の渡辺利
げますと、これは
夫先生は、アジ
ニューヨークの
ア通貨危機はア
ストックマーケ
ジアの強じん性
ットを握ってい
を明かすための
るユダヤ人が、華
事件であった、
僑が浮上するの
アジアの経済に
をけん制するた
コンペティティ
めにつくったと
ブネスが「あっ
いう話です。これ
た」ということ
は証明されてい
を逆に証明した
ないのですけれ
のだという言い
ども、そういう点
方をされたこと
で先生の意見に
があります。コ
同感いたします。
メントに対するお答えの中で、いわゆるキャッシュ
フロー・クライシス、あるいはリキディティ・クラ
(平川) ありがとうございます。
イシス(Liquidity Crisis)であるファンダメンタル
ズは良かったのだということをおっしゃられました。
(孟
韓国の通貨危機というものは、結局は、IMF クライ
て、フィリピンでこういう認識があったということ
シスという言葉の中にありますが、むしろ IMF によ
で非常に勉強になり、今、読んで更にいろいろ考え
78
健軍)先程のヴィリエガス先生の発表を伺っ
ています。質問もフィリピンについてです。協力関
以上が、最近、フィリピンにおいては大きな進歩
係の議論の話になりますが、アジアや ASEAN とい
を遂げており、中国に負けないように、私たちがこ
うより、フィリピン自身の、対中国のこれからの戦
れから更に発展させようとしているニッチ市場です。
略は何なのでしょうか。透明なものではないかもし
東アジア内で、私たちはこのようにして中国と競合
れませんが、どういった全体的イメージで考えてい
することができると思います。更に、アメリカ向け
るかということについて、教えていただきたいと思
のアニメーション、あるいはデータの入力、そうい
います。
った、やはり英語の比較優位性を持ってアメリカ向
けにIT関連サービスを提供するというところでフ
(ヴィリエガス)私達の対中国観はとても前向きで
ィリピンは競争できるのではないでしょうか。
す。お互いに補完し合える関係だと思っています。
発表の中でも申し上げましたが、低賃金労働力を
(孟) ありがとうございました。
必要とするナイキの運動靴や、バービー人形のよう
なものでは、とても競争できないことは明らかです。
(ヴィリエガス) 私は平川先生のご発表について、
ですから輸出業者は、フィリピンで何が付加価値の
コメントしたいと思います。これからの先生のアジ
高いものであるか考えています。たとえば、非常に
ア通貨危機についてのご研究に、タイとフィリピン
洗練されたデザインの高級家具は、今でもロンドン
で起きたバブルのことも加えていただけると良いの
やフランクフルトに輸出されています。ここでは、
ではないかと思います。このことは通貨危機を説明
中国と競争できます。高級な洋服も同様です。廉価
する根本的な問題ではないかもしれませんが、それ
な衣料品では中国に勝つことはできません。しかし
まで不動産業に関心もなく、事業を展開する能力も
ながら、刺繍の入った女性の下着や子供服では強い
なかった企業がたくさん不動産に進出し、バンコク
競争力を持っています。これらはフィリピンで数世
とマニラのあちこちにビルを建てましたが、そのよ
代にわたって伝えられてきた技術が必要な商品で、
うなビルは今は空の状態です。これは 1997 年に起
中国で一夜にして生産できるものではありません。
こったことの説明の一部になると思います。
集約労働力だけが必要な商品では、中国、ベトナム、
しかしながら、このことは日本にとっても決して
そしてインドネシアと競争することはできません。
新しいことではないでしょう。日本もバブルを経験
また、ITで可能になるサービスがあります。今、
しました。ですから、アジア通貨危機は全く予想で
フィリピンでは、コールセンター(カスタマー・サ
きなかったことではなかったのです。景気の循環を
ービス・センター)が、きのこが増殖するように増
みると、たいてい不動産に不必要な投資がたくさん
えています。それは、アメリカ人が私達の英語の話
集中することが観察できます。だから、バブルは、
し方を好むからです。ご存知のように、フィリピン
タイとフィリピン両国にとっての 1 つの問題だった
人はアメリカ人そっくりに真似することができます。
のです。
コールセンターではアメリカ人に合わせて英語を話
さて、もう 1 つコメントさせてください。李鎮奎
さなければなりませんから。その他、アニメーショ
先生は、韓国はとても強いファンダメンタルを有し
ン、医療診断、データ入力など、ITで可能になる
ていたとおっしゃいました。私も賛成します。そこ
サービスがたくさんあります。これらのサービスの
から更に発展して考えてみると、クローニー資本主
やり方を中国人が習得するには、しばらく時間がか
義には幾つかのタイプがあるように思います。そし
かるでしょう。なぜなら、何百万人の人に英語を話
て、アメリカや IMF はそのことに気づいていなかっ
すようにさせるには時間がかかるからです。
たのではないでしょうか。韓国は、朴正煕が財閥と
79
一緒に作り上げた独自のクローニー資本主義があり
皆さんが同意されるか分かりませんが、以上のよ
ます。李先生がご発表の中で指摘されたように、銀
うに、IMF はクローニー資本主義について、もっと
行がどこに貸し付けるかは、政府によって決められ
細かく対応する必要があったのではないかと私は思
ていました。
います。
しかしながら、この種のクローニー資本主義は、
グローバリゼーションがそれほど進んでいなかった
(李
当時は非常に効率的に作用しました。その頃は、今
を否定的に見ているという点では、先生のご意見に
と違って、1 つの国の経済を世界中の国が検閲する
同意します。しかし、私は、むしろクローニー資本
ようなことはありませんでした。
主義は、儒教の資本主義、あるいはアジアの価値観
鎮奎)クローニー資本主義は、アジアの価値
日本でも同じことが言えます。通産省と日本銀行
であると申し上げたい。私達は、アメリカ人とは違
と財閥の間の癒着があり、市場が十分に機能してい
った価値観を持っています。先生は、日本や韓国の
ないと指摘する人がいます。クローニー資本主義と
経済モデルを、アメリカを基準にして捉えていらっ
は、正にそのようなクローニズムによって成り立っ
しゃるのではないでしょうか。全世界を 1 つのコミ
ているのです。しかしながら、インドネシアにおい
ュニティーにしてしまおうというグローバリゼーシ
てさえ、それは効率的だったのです。例えば、今日
ョンは、アメリカ的なビジネスのやり方なのではな
の発表でも分かるように、私達は決してスハルトを
いでしょうか。私達は、アメリカのやり方を追従す
好きではありません。スハルトのクローニズムは、
る必要はないのです。私達には、私達のやり方があ
エストラーダは勿論、マルコスとも違いました。少
るでしょう。だからこそ、アジアの人々は、アメリ
なくとも、スハルト一族の多くが、スイスやバンク
カの価値観ではなくアジアの価値観に基づいた、1
ーバーやサンフランシスコではなく、インドネシア
つのコミュニティーである必要があるのです。それ
国内に投資していました。しかもその中には、たと
をクローニー資本主義と呼ぶ人もあるでしょうが、
えば麺などの食品業など、とても生産的な投資もあ
私はもう少し違う言い方をしたいと思います。私達
りました。世界の市場が幾つかに分かれていた当時
は、私達独自のビジネスのやり方があるでしょう。
は、8∼10%の投資を引きつけるには、クローニー
それは良いとか悪いとかいうものではなく、文化差
は効果的な方法でした。
というか、違ったものなのです。
IMF の処方の誤りは、全部を同じバスケットの中
私は、グローバリゼーションはアメリカの価値観
に入れたことです。中には良い部分もあることを認
に基づいているという先生のご意見に同意します。
めず、クローニー資本主義は全く悪いものだと。グ
でも、アジアには違った価値観があります。このよ
ローバリゼーションが進み、世界中が監視していま
うなお答えでよろしいでしょうか。
すから、もし今誰かが、朴正煕や通産省やスハルト
と同じことをしても、全く海外から資本を引きつけ
(ヴィリエガス)
ることはできないでしょう。
ご意見は正しいと思います。
私は反対いたしません。先生の
ある意味で、中国では、今でも同様なことをして
いるということができるでしょう。ある程度、国有
(平川)
企業はクローニー資本主義であるということができ
えします。バブル経済で、タイにしろ、ある意味で
るでしょう。しかしながら、中国が本当に WTO、
韓国にしろ、非常に過剰生産になっていました。そ
あるいは世界のメンバーになりたいのでしたら、遅
ういう弱さが通貨危機の1つの要因ではないかとい
かれ早かれ、修正が必要になるでしょう。
うことでしたが、確かにそのとおりだと思います。
80
ヴィリエガス先生の最初のご質問にお答
しかし、その危機は、アメリカあるいは IMF が、ア
の国々が気づいていなかったということです。しか
ジアの国々を指導し、求めてきたグローバリゼーシ
し、今、グローバリゼーションから外れたところで
ョンのための自由化と同じレベルで考えることはで
アジアが成長していくことはできないわけですから、
きません。アメリカと IMF は自由化を要求するとき
構造改革をアジアの中で、アジアのそれぞれの国々
に、グローバリゼーションのプラスの側面のみを強
が協力しながらやっていくしかないのだという決意
調してきました。タイにおいては、1996 年の段階で、
があるのだと思います。
例えば世界銀行は「アジアの中で、タイは最もうま
経済学者たちは、IMF や世界銀行の議論が正しい
く短期資本の流入をマネージしている国である」と
という前提でものを考えます。むしろアジア各国政
言っています。90 年代の前半にはバブルが起こって
府は、そういうことよりも、グローバリゼーション
いたのですけれども、IMF にしろ、いわゆる格付け
の時代の中でアジアの国々が発展していくためには
会社にしろ、アジアの国々のレイティングをむしろ
どうしたらいいのかという、ポリシー・メーカーの
高めています。そいう状況がある意味で、アジアの
立場で構造改革をする。そして、同時にアジアの安
国々を慢心させたというか、自分たちには力がある
定をどうしていくのかを考えた。それが私は、アジ
のだと思わせたし、彼らにすると、そのことによっ
ア通貨危機の1つの経験、レッスンだったと思いま
てビジネスチャンスをそこに見いだすことができた
す。バブルは確かに通貨危機の1つのファクターだ
のだと思うのです。
ったと思いますが、それは決定的なものではなかっ
したがって、基
たし、アジア通貨危
本的にはアジアの
機というアジア地
中に弱さがあった
域全体、それからア
けれども、もし、
メリカにも、ラテン
それによって危機
アメリカにもロシ
が起こるとするな
アにも広がった、そ
らば、その危機は
ういう一連の危機
アジア全体に急速
の決定的+な重要
に波及する必要は
な要素にはならな
なかった。それぞ
かったと思ってい
れの国の個別の危
ます。
機であればよかっ
たものが、そうで
(ヴィリエガス)
はなかったという
ありがとうござい
ことが非常に重要だと思うのです。だから、アジア
ました。
通貨危機の後に、それぞれの国が改革に乗り出すと
いうこと、グローバリゼーションにそれぞれの国が
(ガト)
乗ることは、実は非常に難しいことでした。日本が
うに IMF の Horst Koehler 総裁が、
IMFは Asian
その問題で今ずっと悩んでいるわけですが、構造改
Monetary Fund(AMF)を受け入れる用意がある、
革をするというのは、グローバリゼーションに従来
とおっしゃったことがあります。もし、これが本気
の発展の枠組み、経済構造を合わせていくことであ
で発せられた言葉であったとしたら、日本がリード
り、非常に難しいことなのです。そのことをアジア
した AMF を設立することができますか?
81
平川先生に質問があります。ご存知のよ
でひとまず、自由討論を終わりにさせていただきま
(平川)
AMF の問題については、この後、宮澤
す。
先生が来られたときに、おそらく質問されるとお答
えになられるのではないかと思います。通貨危機を
通じて、日本の政府は「あれはリキディティ・クラ
イシスである」という基本的なスタンスを取りまし
た。そのために、通貨を供給するということは、日
本にしてみると、アジアに貢献できる非常に重要な
要素であると考えました。それから、当然そのとき
に、アジア版ユーロができる。アジア版ユーロがで
きる前に、アジアの中での日本の立場を維持してい
くために、円の国際化が必要である。その1つの手
段として、AMF というのを考えた部分があると思
います。
しかし、AMF が宮澤構想と基本的に違う点は、
二国間のファイナンシング・サポートではないとい
う点です。AMFはあくまでもAMFの中で考える
という、多国間の1つの国際機関になります。それ
を日本がコントロールするということは、実は非常
に難しい。日本もその中に入って協力していくこと
になるからです。
ASEAN 側からすれば、AMF 構想がつぶれて、宮
澤構想が 1998 年 12 月から実際に行われるわけです
が、その段階で既に AMF の議論が再燃しています。
フィリピンの大統領から AMF 構想のようなものが
出されています。そして、タイのチェンマイのイニ
シアチブでも、通貨が何になるか分かりませんけれ
ども、最終的にはAMFに結びつけていくような流
れがあります。いろいろな問題がありますが、日本
の政府もそれについて考えていると思います。そし
て、そういうものを経なければ、日本は非常に発展
の展望が難しい段階になったと理解しています。
(ガト) どうもありがとうございます。
(司会) 先生方、どうもありがとうございました。
フロアの方からご意見をいただく時間をと思ってい
たのですが、時間がなくなってしまいました。これ
82
総
括
それではフォーラムの前半、先生方の講
を1つの視点に据えたときに、IMF の改革は決して
演と自由討論の時間を、ここで総括して終わりにし
うまくいったものではないということをはっきり指
たいと思います。
摘されました。しかし、同時に、銀行の改革を考え
(嶋津)
本日のフォーラムは、SGRA の「グローバル化の
たときに、よりオープンな経済にしていくことが大
中の日本の独自性」という研究チームの担当になっ
切であると指摘された点はいろいろ議論があるかも
ております。平川先生には、そのチームのアドバイ
しれませんけれども、私は非常に感銘を受けました。
ザーとして、いろいろご指導をいただいております。
同時に2つの報告は、ある意味でセットになって
そういうこともあって、今日はトップバッターで講
いるわけですけれども、その中で言えることは、単
演もお願いし、先程から質問が集中しているという
一の基準ですべての国に政策を要求したからといっ
状況もありました。まことに恐縮ですが、本日の総
て、決して1つの同じような答えを得られるわけで
括をよろしくお願い申し上げます。
はないということです。アジアにおいては、そうい
う点はより慎重に考えていかなければいけないとい
(平川)
数分で、私が総括する能力があるとは思
うことが教訓ではなかったかと思います。
えないのですが、予定されていた方がたまたま来ら
それから、孟健軍先生の第4報告ですが、日本の
れないということで、私に回ってきました。それで、
私たちに対しては、非常に挑戦的なことを言われま
僭越ですけれども、少しお話しさせていただきます。
した。
「日本抜きでも中国はやっていけるぞ」という
私の報告を除き、今日の講演を振返ってみますと、
ことです。これは真剣に考えなければいけないこと
まず、第2報告で李鎮奎先生が言われたのは、韓国
で、私自身、方向は違うのですが、貿易統計を調べ
はかなりうまくいった、IMF ショックをうまく吸収
ていく中で、アジアの中で日本の政治力はこのまま
して、構造改革を進めた地域であるということだと
では確実に弱まっていくだろうという、先生とほと
思います。しかし、同時にアジア通貨危機というも
んど同じ結論に達しています。名古屋大学で2月に
のは、決定的な、本質的な危機ではなかったという
開催されたシンポジウムでの報告ですけれども、私
ことをお話しされた点に、非常に私は感銘を受けま
がしたのと同じだったものですから、非常に感銘を
した。もしかしたら、韓国において通貨危機という
受けました。
ものは、積極的に利用する1つのファクターになっ
それから、Brain Drain(頭脳流出)から Brain
たのであって、グローバル化される経済の中に積極
Circulation(頭脳還流)に変わっているのだという
的に対応していく韓国の姿が見られたと思うのです。
指摘がありました。これは実は 90 年代前半ですけ
それと対応するのが、ガト先生の第3報告です。
れども、NIEs諸国にそういう現象がありました。
インドネシアにおいては、IMF の処方箋は全然うま
台湾は 60 年代ぐらいまで、Brain Drain といわれて
くいかなかったということをお話しされたと思いま
いました。50 年代、60 年代、どんどんアメリカに
す。そして非常に面白かったのは、中小企業に対す
行った人たちが、70 年代、80 年代から戻ってきま
る支援を、インドネシアの発展の中で考えて、そこ
す。そのときに、それは Reverse Brain Drain(逆
83
頭脳流出)であるという言い方をしましたが、同じ
のか。私がまとめ役でありましたので心配したので
ケースが、韓国、台湾、シンガポールにもありまし
す。そうしましたら、非常に共通した視点があった
た。そういう点で、今同じことが中国で言われてい
と考えます。通貨危機を1つの契機として、私たち
るのだと考えます。
は地域協力の方向に向かっていくのだと。そしてそ
それから、差別化という問題がありますが、アジ
の場合に、人的なネットワークがきわめて重要な要
アは緩やかな地域統合というかたちをとって、ヨー
素としてあって、それは関口グローバル研究会の正
ロッパとは違う方向に行くのだと思います。しかし、
に求めているものではないでしょうか。私も関口グ
ヨーロッパの経験は、我々に対する非常に重要なサ
ローバル研究会の一人の会員として、非常にうれし
ジェスチョンを与えてくれるだろうと思います。
く思っています。これからは co-opetition というこ
それから、5番目の報告のヴィリエガス先生です
とをお互いに考えていかなくてはいけないだろうと
けれども、co-opetition という、
いわゆる競争でも、
思います。
協力そのものでもなく、両方を合わせた「協争」と
ちょっと時間を過ぎてしまいましたが、私のまと
いう新しい概念を出され、これがキーワードだと思
めにさせていただきたいと思います。どうもありが
います。そして同時に、ASEAN と中国の自由貿易
とうございます(拍手)。
協定をするときに、中国の側にも非常に大きな問題
がある、しかしそれを乗り越えて、あえて行かなけ
(司会)
ればいけないというメッセージを出されたと私は思
まして、ありがとうございました。
います。その点で、非常に新しい概念、例えば、Brain
すばらしい総括で締めくくっていただき
あらためてここで、今日のフォーラムの前半を終
Circulation、co-opetition という新しいキーワード、
了するにあたり、講師の先生方、コメンテーターの
キー概念が、今、この会を通じてできたのではない
方、通訳の方にもう一度拍手をお送りして、感謝申
かと思います。
し上げたいと思います(拍手)。
ここで最後のまとめになりますが、私たちは共通
の視点というものを今回ここにきて、持てたのでは
ないか。私が第1報告をさせていただいて、実は非
常に心配しました。というのは、私の報告と外れた
方向で議論が出てくると、どういう具合にまとめる
講師紹介
著書に『NIES―世界システムと開発』同
文舘出版、1992年。『からゆきさんと経済進
出―世界経済のなかのシンガポール−日本関
■
平川
均(ひらかわ・ひとし)
係史』(清水洋氏との共著)コモンズ、1998年4
月。『第4世代工業化の政治経済学』(佐藤元
1980年明治大学大学院経営学研究科博士課
彦氏との共著)新評論、1998年5月、「東アジ
程単位取得退学。1996年京都大学博士(経済
ア通貨・経済危機と世界経済(上)、(下)」『労
学)。1980年4月より長崎県立国際経済大学
働法律旬報』Nos.1454,1455,1999年4月下旬
(現・長崎県立大学)経済学部講師、助教授、茨
号、5月上旬号、「新・東アジア経済論―グロ
城大学人文学部教授、東京経済大学経済学部
ーバル化と模索する東アジア」(石川幸一氏
教授などを経て、2000年10月より名古屋大学
と共編著)ミネルヴァ書房、2001年4月、な
経済学部付属国際経済動態研究センター教授。
84
ど。
事分科委員会及び常任理事。韓国社会科学協
<コメンテーター>
議会研究委員。韓国人事管理学会副会長。韓
■
国経営学会常任理事。韓国経営史学会理事。
李
鋼哲(リ・ガンゼ)
韓国生産性学会理事。世界未来学会会員(The
1985 年中央民族学院(中国)哲学科卒業。中
World Future Society)。労使管理学会常任理
国工運学院助手・専任講師を経て、1994 年立
事(会長歴任)。
教大学大学院経済学研究科に入学、博士前
期・後期課程修了後、学位論文執筆中(テー
<コメンテーター>
マ:国際開発における計画経営メカニズムに
■
金
雄熙(キム・ウンヒ)
関する研究)
。現在、環日本海総合研究機構主
任研究員、東アジア総合研究所研究理事、笹
1964 年韓国全羅北道生まれ。89 年ソウル大
川平和財団朝鮮半島研究プロジェクト研究委
学外交学科卒業。94 年筑波大学大学院国際政
員、東京財団北東アジア開発銀行研究プロジ
治経済学研究科修士、98 年博士。博士論文「同
ェクト研究員、中国延辺大学東北亜研究院客
意調達の浸透性ネットワークとしての政府諮
員教授。SGRA 研究員。主な論文に、
「図們江
問機関に関する研究」98 年より韓国電子通信
デルタ地帯における投資環境の一考察」(上、
研究員専任研究員。2000 年より韓国仁荷大学
中、下)
『立教経済学論叢』第 52、54、55 号、
国際通商学部専任講師。SGRA 在外実行委員。
1997 年∼1999 年.
■
■
李
ガト・アルヤ・プートゥラ
鎮奎(イ・ジンギュ)
インドネシア大学経済学部(国際貿易・財政)
高麗大学経営大学経営学科教授。韓国の学者
1993 卒業、インドネシア大学大学院ビジネス
のネットワークを作って、環境、長寿、ジェ
アドミニストレーション 1996 修了。インド
ンダー、地域研究など幅広いテーマを扱う、
ネシア大学経済学部統計学院講師・研究員
財団法人未来人力研究院を設立し、現在理事
(1996−1997)、Jakarta Stock Exchange
を務める。
(JSE)ミクロ経済構造課長(1996−1997)
、
1952 年ソウル生れ。高麗大学経営大学経営学
JSE 開発・評価リステイング課長(1997−
科経営学士(1979)。 米国 Michigan 州立大学
1999)、JSE 労働組合会長(1998−2000)、
経営大学院経営学修士(1982)。 米国 Iowa 大
JSE のマクロ経済構造課長(1999−2000)、
学経営大学院経営学博士(1987)。専門は、組
インドネシア銀行構造改革庁(IBRA)・マク
織行動論、組織開発論、人事管理、経歴管理。
ロ経済アナリストのチームリーダ(2000−現
主な国内外学会及び社会奉仕活動は以下のと
在)を歴任。 Jurnal Indonesia 誌と Bisnis
おり。Academy of Management。 Society for
Indonesia 新聞のコラムニストとしてインド
Human Resource Management。 American
ネシア共和国の経済に関する数々の記事を執
Management Association。KMDI(韓国経営
筆中。ペンシルベニア大学ウォートン校・ア
研究院)。韓国経営学会。韓国人事管理学会人
ジア保証行政官プログラム(1997)、ロード
85
アイランド大学 PACAP 研究所・財政行政官
41 巻第 4 号(pp1-24)、アジア政経学会、1995
プログラム(1997)、ハーバード大学・協力
年 8 月。
「中国における投資効率と地域の経済
行政プログラム(1999)、イスラエル・ガリ
成長―限界資本付加価値比率(ICVAR)の分析
レイカレッジ・中小企業ビジネス(2001)な
を中心に―」(共著)『世界経済評論』第 42
どに参加。
巻第 6 号(pp51-57)
、世界経済研究会、1998
年 6 月。
「中国における地域経済の収束性―横
<コメンテーター>
断面および時系列分析による統計的検証」
(共
■
著)
『アジア経済』第 41 巻第 6 号(pp20-33)、
フェルディナンド・マキト
アジア経済研究所、2000 年6月。「日本の経
1982 年フィリピン大学機械工学部卒業。
験と教訓―中国の高速鉄道建設」
『日本経済新
Center for Research and Communication
聞―日経教室コラム』、日本経済新聞社、2002
(現在 University of Asia and the Pacific)
年 2 月 11 日。著書:
『東アジア長期経済統計
産業経済学修士。1996 年東京大学経済学博士。
―経済発展と人口動態』(共著)、勁草書房、
現在テンプル大学ジャパン大学院講師、
2000 年 11 月。など。
SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究
<コメンテーター>
チームチーフ。
■
■
孟
金
香海(きん・こうかい)
健軍(もう・けんぐん)
1987 年中国東北師範大学政治学修士取得、延
中国清華大学公共管理学院、中国科学院―清
辺大学政治学部で専任講師を務めた後、来日。
華大学国情研究中心教授、日本経済産業省経
2002 年3月、中央大学より政治学の博士号を
済産業研究所(RIETI)ファカルティフェロ
取得。博士論文「現代中国の対外経済政策―
ー。
APEC・WTO 加盟を事例として」では、中国
1962 年生まれ、1995 年 3 月東京工業大学博
の対外経済政策の決定過程について分析した。
士課程修了、Ph.D.取得。日本学術振興会外国
現在中央大学社会科学研究所準研究員。
人特別研究員、拓殖大学専任講師等を経て
SGRA 研究員。
2001 年より現職。
■
専門:中国経済、地域発展比較および公共政
バーナード
ヴィリエガス
策等。
主な論文:
「中国における人口流動の実証的研
フィリピンで一番有名で影響力のあるエコノ
究―広東省の事例」
『計画行政』第 16 巻第 1
ミストのひとり。開発経済、ビジネス経済、
号(pp83-97)
、計画行政学会、1993 年 3 月。
経営戦略を専門とする。ハーバード大学博士。
「中国の改革・開放と人口流動」
『アジア経済』
フィリピンのアジア太平洋大学(UAP)学部
第 36 巻第 1 号(pp26-48)、アジア経済研究
長。同大学母体である Center for Research
所、1995 年1月。
「中国の経済発展と物流―
and Communications の共同創始者。フィリ
鉄道物流に関する事例研究」
『アジア研究』第
ピン諸島銀行、Globe Telecom,フィリピンの
86
IBM やマクドナルド等の大企業の役員であ
り、フィリピンやアジア太平洋で展開する多
数の会社の経営コンサルタントを務める。ま
た、マカティビジネスクラブや、Parents for
Education 財団、Dualtech 財団等、様々な
NGO の活動にも関わり、社会の様々な側面と
利害に関心をもっている。フィデル・ラモス
前大統領の経済アドバイザー委員を務め、産
業政策と地方の発展に関する提言を行った。
ヴィリエガス博士の著書は数多いが、特に経
済学の教科書はフィリピンの大学で使われて
いる。タイム誌の太平洋エコノミスト会議の
委員で、国際・国内版に定期的に寄稿してい
る。De La Salle University の商学部と人文
学部を主席で卒業し、1987 年には、フィリピ
ン憲法制定委員会のメンバーを務めた。
<コメンテーター>
■
徐
向東(じょ・こうとう)
1992 年中国北京日本学研究センター修士、
2001 年立教大学博士、社会学博士(専門は産
業組織論、国際経営論)。北京外国語大学、
北京日本学研究センター専任講師、日本労働
研究機構情報研究員、中央大学兼任講師を経
て、(株)日経リサーチセンターコンサルタ
ント、研究員。SGRA 研究員。
87
フォーラムあとがき
東アジアの経済協力は重要であるが、ASE
ANを含め多角的な関係にしたほうが良い」
初めての試みとして軽井沢での開催を2月に
と答えました。次に、本フォーラムの協賛者
決定してから、鋭意準備を進めてきた第8回
である韓国の(財)未来人力研究センターの
SGRAフォーラム「グローバル化の中の新
理事で、高麗大学の李鎮奎教授が「韓国IM
しい東アジア」は、2002 年 7 月 20 日(土)
F危機以後の企業と銀行の構造改革」につい
盛会のうちに終了しました。スタッフの祈り
て英語で発表しました。アジア通貨危機後の
が効き過ぎたくらいで、前日までの雨も止み、
IMF政策の成功例を紹介しながら、会場か
参加者が到着した 19 日(金)から、最後の
らの笑いも引き出して、とても明るい発表で
21 日(日)昼の渥美財団理事長別荘でのバー
した。他の英語による発表と同様、SGRA
ベーキューまで、軽井沢は暑いほどの晴天に
研究員が用意した日本語スライドを利用しな
恵まれました。今回のフォーラムは、従来よ
がら発表は進められ、英語の質疑は日本語に
りも幅広いご協力をいただき実現しました。
通訳されました。金雄熙SGRA研究員の「何
鹿島学術振興財団、韓国の(財)未来人力研
故韓国はこれほど早く危機から回復できたの
究院、渥美財団から協賛、名古屋大学大学院
か」という質問に対して、李教授は「一時的
経済学研究科附属国際経済動態研究センター、
に大量の資金の国外流出に対応できなかった
フィリピンのアジア太平洋大学経済学部、そ
が、韓国の経済基礎は強いので早く危機を乗
して朝日新聞アジアネットワークから後援を
り越えることができた」と説明しました。3
いただきました。そして、現役の渥美奨学生
番目の発表者はインドネシア銀行構造改革庁
を含むSGRA会員等60名の積極的な参加
主席アナリストのガト氏で「経済危機と銀行
もフォーラムを大成功に導きました。
部門における市場集中と効率性―インドネシ
アの経験」について英語で発表し、統計と統
フォーラムは20日(土)午後1時より、ホ
計的分析法を利用しながら、インドネシアの
テルメゾン軽井沢内の軽井沢セミナーハウス
事例をIMFの失敗例として取り上げました。
で、日本語を公用語として開催されました。
F.マキトSGRA研究員の「何故IMFは
今西SGRA代表の開催趣旨とゲスト講演者
失敗したか」という質問に対して、ガト氏は
の紹介後、本フォーラムを担当するSGRA
「IMFは政治的問題を経済政策と混同し
「グローバル化のなかの日本の独自性」研究
た」と指摘し、さらに「AMF(アジア通貨
チームの顧問、名古屋大学の平川均教授が「通
基金)のようなIMFの代替国際機関も検討
貨危機は東アジアに何をもたらしたか」とい
しても良いのではないか」という考えを示し
うテーマで基調講演し、一般にあまり知られ
ました。
ていないアジア通貨危機から芽生えた東アジ
ア地域協力の経緯が報告されました。李鋼哲
青空のもと、木々に囲まれたホテルの庭で、
SGRA研究員からの「北東アジアの地域協
コーヒーと高原の空気を満喫した休憩の後、
力をどのように東アジアの地域協力に位置づ
4番目の発表者は中国清華大学で日本の経済
けるか」という質問に対して、平川先生は「北
産業研究所ファカルティーフェローの孟健軍
88
教授で、
「アジア経済統合の現状と展望」につ
第2部は、宮澤喜一元総理大臣をお招きし、
いて日本語で発表しました。孟教授は、中国
アジア通貨危機における新宮沢構想、中国と
大陸を舞台に欧米と日本が投資を競い合って
の貿易、地域協力、高齢化・少子化等、幅広
いるデータを示し「中国は日本なしでもやっ
いテーマについて、率直なご意見を聞かせて
ていける」という刺激的な分析を発表しまし
いただきました。新宮澤構想は日本が外貨が
た。また、中国人の国際的人材移動について
多かったので、少しでもアジア諸国のお役に
頭脳流出(Brain Drain)から頭脳還流(Brain
たてばという気持で行ったこと、日本は戦前
Circulation)に変化しているという認識が示
アジアと一緒にやろうとして失敗し、近隣諸
されました。金香海SGRA研究員は孟教授
国に多大なご迷惑をおかけしたのだから、リ
が中国政府の政策立案に関わっていることに
ーダーシップをとるのは相応しくないと思う
関心を示しながら、
「この地域での経済統合は
こと、アジアはヨーロッパと違って宗教や文
果たして可能であるか」という疑問を投げか
化を共有しないし、政治体制が違うのだから、
けましたが、孟教授は、
「何千年の中国統合の
アジアの地域協力にはそれほど楽観的ではな
歴史の中で、中国は異文化異民族を纏めてき
いこと、しかしながら近年は情報化等により
た」と前向きな姿勢を崩しませんでした。5
社会の変化が早いので以前よりは協力体制へ
番目の発表者、フィリピンアジア太平洋大学
の道は近いかもしれないこと、対中セーフガ
のヴィリエガス教授は「中国と競争と協力」
ードは恥ずかしかった、あのようなことをや
について発表し、協力しながら競争する「協
っているのだから自由貿易協定への道は遠い
争(Co-opetition)
」というキーワードを紹介
だろう、少子高齢化であるが老人は負担では
しました。徐向東SGRA研究員からの「ど
なく資産と考えるべきではないか、等等、控
の分野でフィリピンが中国と競争できるか」
えめな姿勢ながらもまさに鋭い洞察力に、参
という質問に対して、ヴィリエガス先生は「付
加者は大変深い印象を受けました。
加価値が高い農業品や衣類品など、つまり安
い労働に依存度が高くない市場の隙間をフィ
フォーラムの後、夕方の涼風の中、ホテルの
リピンが見つけないと勝ち目がない」と答え、
庭に集まった参加者は、ビールやワインを飲
同時に中国と協力するためにフィリピンの華
みながら、さらに歓談を楽しみました。その
僑の活躍に期待を示しました。その後の自由
中には、東アジアの地域協力において、SG
討論では発表者のあいだで活発な議論が交わ
RAのようなNGOの役割は大きいではない
されましたが、焦点は「アジア共有の価値観
かという意見がありました。フォーラムでも
は何か」ということでした。そしてこの「ア
示されたように、国家の違いを越えることが
ジア共有の価値観」については、その晩のオ
できるのは、世界の人々と仲良くし平和な世
ープンディスカッションでも、その他の場面
界を作りたいという市民ひとりひとりの熱意
でも、軽井沢での熱い議論のテーマになりま
による、ということがもっとも印象的でした。
<原文:F.マキト、編集:今西>
した。最後に、平川教授が総括を行い、第一
部は終了しました。
89
SGRAレポート
No.0014
日本語版
第 8 回 SGRA フォーラム in 軽井沢
「グローバル化の中の新しい東アジア」
編集・発行 関口グローバル研究会(SGRA)
〒112-0014 東京都文京区関口 3-5-8 (財)渥美国際交流奨学財団内
Tel:03-3943-7612 Fax:03-3943-1512
SGRA ホームページ: http://www.aisf.or.jp/sgra/
電子メール:[email protected]
発行日:2003 年 1 月 31 日
発行責任者:今西淳子
編集協力者:嶋津忠廣 竹内忍
足立憲彦 F.マキト 金 雄熙 根元朋子
印刷:藤印刷
ⓒ関口グローバル研究会 禁無断転載 本誌記事のお尋ねならびに引用の場合はご連絡ください。
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