オリンダ便り No2

★★オリンダ便り★★
らされています。
No.2
小井沼眞樹子
*注:渡辺英俊牧師の私訳。新共同訳では「わたしたちの罪
★引越し
を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆
5月31日、サンパウロでの聖書講座を終える
赦しますから。」ルカ 11:4a
や否やオリンダへ戻ってきました。その日のうち
にジャニのアパートから荷物を運び出し、階下の
★6月の「お祭り」
アパートへ引越しました。かろうじて寝室と洗面
さて、日本からの第Ⅰ回目の移民船「笠戸丸」
所が使える状態でしたが、自分の住まいを確保し
がサントス港に着いた日が1908年6月18日
てやはりホッとするものがありました。ジャニは
でした。
今年は日本移民100周年ということで、
2日から20日までチリ在住の次男一家を訪問す
ブラジルでは大手テレビ局でも数ヶ月間、毎朝日
るために旅行に出ることになり、一日だけ顔を合
本移民の歴史や日本文化を紹介をする番組を放映
せ簡単な引き次をして別れました。留守中は、ジ
するなど、日本移民に対する大きな敬意を表明し
ャニの同居人のアルジーラさん(78歳)が食事
てきました。おかげで誰もかれもが日本移民10
の用意から買い物の場所の案内まで、お母さんの
0周年ということを知るようになったらしく、ア
ように世話を焼いてくださり助かりました。
ルト・ダ・ボンダーデ教会の教会学校に来ている
男の子まで、
「マキコ、日本人が初めて移住した時
は大変だったんだね」
と話しかけてきたほどです。
ちょうど18日には、サンパウロから届いた中古
衣料を教会に届けるためにタクシーに乗ったので
すが、運転手からも「おめでとう!」と挨拶され
ました。
サンパウロではきっといろいろな形で記念祭が
行われたことでしょうが、ノルデステにいるとそ
んな賑わいもはるか遠くの方から聞こえてくるよ
うな感覚です。引越したばかりでテレビがなくて
残念ながら関連ニュースも見損なってしまいまし
た。
6月はブラジルの「フェスタ・ジュニーナ」(=
アルジーラさんといっしょに朝のカフェ
6月の祭り)の月です。カトリックの暦では、6月
恐ろしいくらい買い物をして、やっと台所で料
12日が聖アントニオ、24日は聖ヨハネ、29
理を始められるようになったときは嬉しかった!
日が聖ペドロの記念日で、それに農村部の収穫祭
久しぶりの味噌汁には感激しました。しかし、住
が合体したようなブラジル民衆のお祭りになって
居を整えるのにどれほどお金を使ったか…、教会
います。特にサン・ジョァン(バプテスマのヨハ
の人たちの生活状況(あとの項に書きますが)を
ネ)の誕生日とされる24日(イエス誕生の6カ
考えると、それは莫大な出費です。なんという格
月前)の前夜は、最高の盛り上がりです。クァド
差か!「富める者」の自覚と申し訳なさに胸ふさ
リッリャという四角いダンス舞台(盆踊りに似て
がれる思いで、何日も気持ちが沈んでいました。
いる)が設営され、独特の衣装の男女(こどもから
「よこしまな富の分け前を受けてきたことをお赦
大人まで)がペァで踊ったりフォークダンス風に
しください。これからは持たない人々と分け合い
踊ります。トウモロコシで作るカンジッカやパモ
*
ますから」という「なか伝道所」で唱えている「主
ンニャという食べ物、トウモロコシの粉で焼くケ
の祈り」の一節を思いめぐらし、なんとか立ち直
ーキ、熱くて甘い飲み物ケントンは、冬の祭りフ
1
ェスタ・ジュニーナに付き物の飲食物です。
各家々
もいっしょにお祝いしてもらいましたよ。日本食
の前ではたき火を炊いて訪問客を迎え、おしゃべ
としてブラジルで一番人気のある焼きそばを提供
りをしながら食べたり飲んだりします。
したら、皆喜んで食べてくださいました。ジャニ
サンパウロにいるときには、フェスタ・ジュニ
と私は同じ歳で共に「ビウーバ」(「未亡人」とい
ーナは学校や幼稚園で行事化して祝うだけのよう
う表現は不快です)、
これからこの姉妹関係を通し
でしたが、ノルデステでは道端には山のように積
てどんなことが進展していくのか、未知数ですが
み上げられたトウモロコシがあちこちで売られ、
期待していましょう。
どこからともなくフェスタ・ジュニーナの音楽が
聞こえ、商店街や学校だけでなくどこの界隈も飾
★交通事情
りの小旗やぼんぼりが揺れて、ブラジル的お祭り
私が住んでいるアパートはバス停のまん前にあ
の風情を味わうことができます。
りその点は便利ですが、問題はバスの時間表がな
いことです。週に4、5回も往復する教会までの
交通のなんと不便なこと。アルト・ダ・ボンダー
デまで行くバスは本数が少ないうえいつ来るかわ
からないので、待ち時間を40分も見込んで家を
出なければなりません。バスの時間は管理されて
いるのかと疑いたくなるほど、同じバスが続いて
来たり、長く来ないバスもある。要は運が良いか
悪いかが決め手です。
市営バスの他に、暫定的に許可を受けて民間が
走らせているコンビがあります。これがまた大抵
はひどいオンボロ車で、大声で行き先を叫びなが
ら近づいてきます。客の乗せ方も尋常ではありま
せん。かなり大きいこどもでも親はこどもをひざ
フェスタ・ジュニーナの小旗が揺れて
に乗せます。時には座席がいっぱいでも大人が立
もうずいぶん前のことですが1992年、ジョ
ったまま腰をかがめて乗っています。コブラドー
ァン・ペソアの基礎共同体で初めて伝統的なフェ
ル(車掌)はドァから半分体を外に出したまま走り
スタ・ジュニーナを体験しました。夕暮れの村に
出し、やっとこさっとこ、ドァを閉めるという具
たき火の煙が靄のように立ち込め、赤い炎が点々
合です。
いつまで待たされるかわかりませんから、
と行く道を照らして、それは不思議な光景でした。
隙間がある限り乗ってしまいますが、好き嫌いに
親しい人の家々を訪問して歩くと、行く先々で食
かかわらずスキンシップはたっぷりです。日本の
べろ、食べろと勧められますから、少しずつ頂き
通勤電車と似たようなものか?
その上、市の中心街をはずれ貧しい地区へ上っ
ながら次の家へ回ります。
汗をいっぱいかきながらポーボ(民)が楽しげに
ていく道は悪路で、鍋に放り込まれたポップコー
踊るクァドリッリャを夜遅くまで眺めているうち
ンのように乗客はポンポン跳ね上がり、終点にた
に、わけもなくこころに悲しみが充ちてきて…こ
どり着いたときには良い(酔い?)具合に仕上が
の気持は一体なんだろうかと思いながら、異国の
っています。雨が降るとさらに道路事情は悪くな
祭りに身を置いていたことを思い出します。
り、バス停で40分待ったうえ、乗ってから1時
間もかかってやっと着いたこともありました。
6月はまたジャニと私の誕生月です。彼女の誕
行きはまだしも、夜の集会の帰路がまた難儀で
生日(24日)の前日には長男夫妻が元気な男の
子3人を連れて、また友人知人たちもやってきて、
す。9時過ぎて、直行のバスもコンビもなくなっ
それは賑やかな一日でした。もちろん私の誕生日
たときには、途中で乗り換えねばなりません。家
2
に着くと10時半。結局、7時半から9時まで(日
ど、わずかなお金しかもらえないし、就職活動を
曜礼拝は7時から9時)までの集会に参加するの
しようとしても、実習とか経験がないので難しい。
に、夕方6時に出て帰りは10時半という効率の
最近、就職につながるためのある講習の申し込み
悪さを忍耐して受け入れるのです。これが海岸地
をしたのだけれど、明日返事の電話がかかってく
区に住み、乗用車を持たずにアルト・ダ・ボンダ
るという話でした。それを聞いて私は「一生懸命
ーデ地区へ通う日常生活の一コマです。そこでま
門をたたけば必ず神さまは開けてくださるから
たいろいろな人々と出会い、人情に触れることも
ね」と言葉をかけました。
あります。貴重な体験でしょう。
数日後、
「講習の件はどうだった?」と彼女に尋
ねますと、「受講許可がおりたけれど多分行かな
い」としょんぼりした顔で言います。「どうし
て?!」と思わず強い語調で聞き返しますと、こ
ういう話なのです。
講習場にいくのに往復3,5レ
アイスのバス代が要る。講習は月曜から金曜まで
週に5日間で、それを2ヶ月間続けなければなら
ない。
自分にはとてもそのバス代が工面できない、
と。何ということでしょう、就職につながるため
の機会をつかむことすら難しい経済状況に生きて
いるのです。これではいつまでたっても貧しさか
ら抜け出さないではありませんか。
思わず私は「バ
ス代はなんとか都合をつけるから、講習に行きな
雨にぬかるむアルト地区の道
さい!」と言ってしまいました。ここでは「門は
必ず開かれる」と聖書の言葉を口先で言うだけで
★バス代の祈り
は、なんの役にも立たないことを痛感させられま
ある晩の祈祷会で、一人の女性が熱っぽく語る
す。
話を聞いているうちに驚かされました。彼女の息
子はいま大学受験のため予備校に通っているので
先のバス代の祈りと言い、この一件からいろい
すが、毎日そのバス代が与えられるように祈って
ろ考えさせられ、ジャニやイヴァン牧師とも相談
いるというのです。先週もどうしても足りなくて
して、アルト・ダ・ボンダージ教会の会員のため
困っていたら不思議にどこからか援助の手が伸び
に、生活支援基金を設けようという話に発展して
てやりくりでき、無事に行かせることができまし
きました。一人に個人的に支援したら他にも似た
たと言って、涙ながらに感謝の祈りをささげるの
ような例がたくさん出てくることは目に見えてい
です。私の想像を超える人々の生活の実態と大き
ます。会員に公平にしなければならず、しかも尊
な感謝のこころに触れ、私も泣けてきました。
厳を損なうような「援助づけ」にしたくないので
シンプルな規則を設けることになりました。
そのあと続けて、バス代に困っている現実を知
・基金の目的は何らかの就職につながるための
る機会がありました。
支援である。
教会の女子青年Dは、十代で未婚の母となり7
歳の娘を抱えています。ジャニによるとその一家
・受ける資格者はアルト・ダ・ボンダーデ教会
にはだれにも定収入がなくとても困難な状況だそ
のアクティブな会員に限る。
うです。ある日、ジャニのアパートで集会があっ
・使用目的と金額が具体的であること。
た時に、青年たちといっしょに海岸へくりだし私
・返済の期限を決める。
はDにそれとなく最近の状況を尋ねました。自分
などです。まだ組織化の途中ですがこういう枠組
はまだ一度も仕事に就いたことがない、保育園で
みがあると公に協力を呼びかけることができます
子供たちと遊ぶアルバイトを月2回しているけれ
し、お金の流れも明白でしょう。基金の名称と会
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計責任者を決めたら改めて公表したいと思います。 支援がなくて資金が足りないということで、とに
この基金が有効に機能し、少しでも困難な人々の
かく何かお金に換えられる物を作るための技術訓
経済的自立につながっていくことを祈り願ってい
練が求められています。
ます。
とりあえず、今の私にとって言葉を使いこなせ
なくてもできる奉仕が始められ、うれしく思って
★ミシン教室
います。生徒さんは今現在、5、6人で、2台の
サンパウロから戻ってきてすぐに、私が責任を
ミシンを交代で使い、簡単な袋ものを縫っていま
負う活動がひとつ始まりました。教会に4台のミ
す。新しいことを習って喜ぶ彼女たちとの触れ合
シンがあって、2台は工業用で使い方がわかりま
いは、私自身の支えにもなっています。
せんが、あとの2台は家庭用ミシンです。ずいぶ
ん前にどこからか寄付された機械だということで
*
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*
*
*
すが、だれも指導する人がなく教会に放置された
ままになっているというのです。サンパウロの路
大変遅くなりましたが、オリンダ便り2号を書
上生活者の共同体=ペドローゾで5年間続けてい
き上げることができました。
たミシン教室の経験のことを話しますと、すぐに
自分のアパートを確保したのは良かったのです
ここでも始めて欲しいということになりました。
が、引きこもりがちになっています。思うように
サンパウロに置いたままになっていた裁縫道具
上達しないブラジル語でのコミュニケーションに
一式や、サンパウロ福音教会の婦人会から生地を
疲れてきたこともあるでしょう。想像を超える貧
頂いて持ち帰りました。さっそく教会の女性たち
しさの実態がだんだん具体的に現われて、日々自
から希望者を募って毎週1回、水曜日の午後、教
分の無力と向き合うこともストレスですし、それ
室を開いています。教会には古着バザーで売れな
とは裏腹な経済行動に支えられていることもあま
かった洋服がたくさんあり、なるべくそれらの生
り心地よいことではありません。
地を再利用して簡単な製品を作り、売れるように
私の状況がうつうつとしていて書き上げるのに
することが目的です。
時間がかかったことをご理解ください。
長続きするためには、自分に無理をしないこと、
気分転換を上手にすることかと思っています。
7月はどんな具合に過ぎるでしょうか?8月に
は日本の友人たちとの旅行が待っています。
準備も「着々」とまではいきませんが、進んでい
ます。とても楽しみです。
次の便りは、そのブラジル研修旅行報告になる
でしょう。
皆さんからの読後感想メールをお待ちしていま
す。
(2008年6月30日記)
MAKIKO KOINUMA
Av. José Augusto Moreira, 66 Apt102
Casa Caiada, Olinda-PE 53130-410
Brasil
[email protected]
古着のリサイクルで作ったバッグ
アルト・ダ・ボンダーデ教会では毎年7月(ブ
ラジルの冬休み)に、4日間の冬季教会学校を開
催しており、大人から子供まで150人以上が集
まるのだそうです。今年はまだどこからも大手の
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