第5号 - 福島県立相馬高等学校

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5555 わか こま
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救救救救援援援援 のののの出出出出前前前前講講講講義義義義開開開開催催催催
帝 京大学経済学 部教 授
で、 コラム ニスト でもあ る
であ る。 これだけ テレビで
学、ゲー ム理論、意思決定 見る ことが でき る。
論を専門とす る数学者 でも
また、 小島先生 から左 の 流 れるとイヤでも耳に残 っ
ら いた いな、と考える のは
私だけだ ろう か。 (
馬場)
大きな バカ笑 いや多彩や色
彩 のCMからも、 元気をも
態 の中 に いる ことも確 かで
あ る。 派手な振 る舞 いや、
がんば れ ニッポ ンと声を出
しても 一向 に改善 しな い事
相 双地方 はあ いさ つを交わ
しても、心遣 いを しても、
る。 ▲被災者 に配慮した広
告だ った のだ ろうが、 こ の
「
AC」と いう組織名 かも
知 れな い。何を しているか
よ く 分 か ら な い のに で あ
果、洗脳効果があ ると いう
が、最 も印象 に残 った のは
ジ ョンも御な じみだ。長 い
期 間 流 れ ると刷 り 込 み 効
てしまう ▲他 に 「
おも いや
り」 「
こころづ か い」 バー
あ る。 ような メ ッセージが寄 せら
寄 贈 さ れ た多 く の図 書 れた。 は、図書館 か数学教員室 で
た。 小島先生 は、数理経済
小島寛 之先生 から、数学 に
関 す る著 書 の寄 贈 を 受 け
「
おはよウナギ」や 「
あり
がとウサギ」と 一緒に スキ
ップを踏 むと いう例 のCM
はよう」 「
いただきます」
などとあ いさ つを交わ し、
な った。軽快な リズムとと
も に、
男 の子と女 の子が 「
お
か月 の間、あ の
CMはす っかり御なじみに
て いたという感
じです ▲こ の二
と して います。
い つの間にか新
緑 の五月にな っ
あ の震災 から
二か月が経 とう
新任 の先生方を紹介 します。
第 二回)
(
他校紙紹介 三重 ・上野高校
さら に交流を深めた。松井
先生も参加 した。 にツイ ッター で呼びかけた
結果、約 三十人 の仲間が参
加 してくれた義援金です」
特別授業 の終 了後に、長
友グ ラウ ンド で松井先生と
相高生がサ ッカーを行 い、
で 「
相馬高校と は以前 から
ササササ ッッッッカカカカーーーー でででで
交交交交流流流流 もももも
二面
に説明 してくれた。 交流がありま した。震災後
特別授業 に先立 って、視
聴覚室 では松井先生による
義援金 の贈 呈式が行われ、
し、経済学 に ついて具体的
発 行 人 今村有香
編 集 人 横川真美
先生 のあ いさ つの後、代表 と話を した。 の生 徒 に義 援 金 が 贈 ら れ
贈 呈式 には義援金を受け
た。 る生徒が参加 した。
松井先生 はあ いさ つの中
馬
馬の
の城
城
平 成 23年
5 月2日(月)
数数数数学学学学 書書書書 のののの寄寄寄寄贈贈贈贈 ががががああああ りりりりまままま ししししたたたた。。。。
帝京大 ・小島寛之先生 より
相馬高校を訪れ、ゼミ の大
四月 二十六 日 (
水) の放
学生 二名ととも に特別授業 課後 に情報室 で行われた特
を行 った。 別授業 は大学生 二名が担当
東東東東大大大大 のののの松松松松井井井井教教教教授授授授 ・・・・ゼゼゼゼ ミミミミ生生生生
震震震震 災災災災後後後後 のののの困困困困難難難難 のののの中中中中 でででで学学学学 んんんん でででで いいいいるるるる高高高高校校校校 生生生生をををを励励励励 まままま そそそそうううう とととと
大大大大学学学学 のののの先先先先 生生生生方方方方 のののの支支支支援援援援 がががが相相相相次次次次 いいいいだだだだ。。。。四四四四月月月月 二二二二十十十十六六六六 日日日日ににににはははは、、、、校校校校
内内内内 でででで特特特特別別別別授授授授業業業業 がががが行行行行 わわわわ れれれれたたたた。。。。
大学 で の研修会 に相高生を
招 いてくれたが、今回直接
▲松井ゼミの大学生2名による経済学の講義が行われた。
(情報室)
県 立 相馬高等学校
出 版 局
今回は、大地震と津波に加え、
深刻な原発事故も
加わり、
恐怖と不自由、そして、
混乱の中におられる
と思います。
本来ならば、
10代の後半という多感
な時期を、勉強、
スポーツ、芸術、
そして友情や恋愛
で飾っていくべき、
何事にも代えがたい大事な青春
の時間を、このような劣悪な環境の中で過ごされて
おられることを想像するだに、
胸が痛みます。
しかし、だからこそ是非とも、
絶望に身をゆだね
ることなく、
ひたむきに勉強し、
積極的に活動される
ことを願っております。
確かに、今回の震災は、
人間の力ではどうするこ
ともできない類のわざわいです。しかし、
そのわざ
わいの周辺には、人間が考え、なすべき課題も多く
見受けられます。それは、
このような災害を予測し、
被害を最小に食い止めるという、自然科学や工学技
術の課題でもあり、
また、
リスクを管理し、災害対応
の社会制度を整備するという、
社会科学の課題でも
あります。
みなさんは、
このリアルに過酷な事態を、
当事者と
して目撃しているわけですから、21世紀の人類に必
要な上記のような知見の大切さを、誰よりも身をも
って実感されておられることと思います。
だからこ
そ、逆境に翻弄されるままにされず、
逆に、これをバ
ネにして、将来、
サイエンスの分野で活躍できる土
台をこの高校時代に身につけていただければ、
と切
に祈っております。
安全な場所から不遜なことを申し上げるのは気が
引けるものがありますが、これだけはどうしても伝
えたいのです。
つまり、さまざまな障害や不運や理
不尽と対抗できるたった一つの武器は、
「確かな知
見」だということです。これらの本が、
そのきっかけ
入り口になってくれればと祈っております。
救救救救援援援援 金金金金 のののの贈贈贈贈 呈呈呈呈もももも
東京大学経済学部 の松井
彰彦先生 は、震災後に東京
▲長友グラウンドでサッカーで交流を深めた。
▲あいさつする松井彰彦先生
相高
は若 い子が多 く て軽 い気持 です」 ち で学 ん で いた よ う で す
相高生 の印象 は。 が、外国 は社会 人 の人が多
「一年生 の授業 しかも って
か った ですね」 いな いん です。あ いさ つす
「
英語が好きだ ったん です る と す ぐ に 返 し てく れ ま
新任 の先生方を紹介 します。
②
英英英英 語語語語がががが好好好好 ききききだだだだ っっっったたたた。。。。
佐藤 朋美 先生 (
英 語)
▲ラーメンが好きと語る佐藤先生
字幕付き にしますね。役者
さ ん の英語をそ のまま聞き
すね。 理科 の中 では化学 が 後 の つら いこと に負けな い
一番好きだ ったん です。好 で明 るくがんば っている様
きだ から こそ得意 にな ろう 子が、 こちら にも伝わ って
と思 って いま した。大学 で きま した」 も専攻 は化学 です」 好 物 は ラ ー メ ンだ そ う
地震 の時 は、神奈川県 の だ。 大学 で実験を して いたと い 「
大学時代もよく友人と神
う。 奈 川県内 のお店を探して食
「
四階 の研究室 で実験中 で べに いきま した。 おすす め
して いる。 にび っくりしま した。 地震
「
高校 の時 の理科 の先生 に
行 ってきた。上野高校 の「
震
災情報特別配布版」 (
四月
三重県 の上野高校新聞部
と は、震災 以後 に互いに連
絡 を取 り合 って新聞作成を
る。 写真 を小野 田先生に見 て
もら ったと ころ、 「
南相馬
られた。図書館前掲示板 で
読 む ことが でき る。
募集 の呼びかけを行 い、多
く のメ ッセージが今回届け
て いる。 紙 面 で全校生 に相馬高校
への「
励ま し のメ ッセージ」
に地震 の様 子などを取材 し
いるほか、仙台 に いる OB
三重 ・上野高校
震災情報特 別 配布 版
「「「「
相相相相 馬馬馬馬高高高高新新新新 聞聞聞聞」」」」をををを紹紹紹紹介介介介
あ こがれた のがき っかけ で
神栖市 は茨城県 の海岸部 な お社が写 って いる。
最南 端 にあり、利根川を は
さ ん で千 葉 県 に 接 し て い
津波 はなくがれきが打ち寄
せた程度だ ったと いう。海
市 の小浜地区に同形 のお社
の造 りが多 く見られます。
上 に流され茨城県まで漂流
し て い った も のと 思 わ れ
岸線 よりも陸上 の地震被害
の方が大き か ったそうだ。
ただ、 お札とお社 は偶然 に
一緒 にな った も の で し ょ
す」と話 してくれた。 写真 と茨城県被災地図 は
図書館前掲 示板 で見る こと
が でき る。 う。 お札 は 一般 のお札 の紙
が 失 わ れ た も の のよ う で
学校 の被害 も少な か ったた
め、地震後 四日間休校 した
百メート ル、地震 の時 は生
徒、先生方 で三階まで避難
した。幸 い相馬 のような大
る。海岸線 はなだらかな砂
十 一日発行)が、届けられ
浜が続 いて いる。 た。 波崎柳 川高校 の校舎 は、
木 のお札 は南 相馬市 の 一 紙 面 では 「
相馬高新聞」
近く の日川浜海岸 まで約 二 般家庭 のも のが、津波 で海 の内容を大きく取 り上げ て
南南南南 相相相相 馬馬馬馬 かかかからららら
漂漂漂漂流流流流 かかかか
佐 藤 良 紀 先生 (
理科 )
地地地地震震震震 のののの時時時時 、、、、実実実実 験験験験 しししし ててててまままま ししししたたたた。。。。
た いと思う から です」 三年間 ソ フトテ ニス部 で活 浪江町 で育 ったん です。相
地震 の時 は、県庁 の九階 動 しま した。尊 敬する人は 高 の大須賀先生 のお父さ ん
に いたそうだ。 両親 ですね。高校生ま では にも高校 の時 に教わ ったん
「
九階 で仕事を していて、 衝突ば かりして いたん です
コー ヒーを取 りに行 って、 が、大学生 にな ってから見
机 に置 いた瞬間 に揺れがき 方が変わ りま したね。すご
茨 城 県・波崎柳川高校の報告
ま した。廊 下ま で飛ばされ いなあ、 って思う よう にな
たせ いで、倒 れた ロッカー りま した」
に つぶされな いで済んだ ん
在籍す る こと にな る。 って いる。 五月九 日の授業
転 入生と保護者 に対す る から相馬高校生と して の生
オリ エンテー シ ョンは、 五 活を始 める こと になる。
月六 日に行われる予定 とな
転転転転 入入入入生生生生はははは2 名名名名
震災 にともなう避難、住
所移動など で相馬高校 に転
校を希望す る人に対す る転
入試験が四月 二十五日に行
われ、転 入者が合計で二十
九名とな った。 応援 歌講 習 は 5月 9日か ら
相 馬太田神社の
お 札が流れ着いた。
茨城県神栖市 にある茨城 後学校を再開 したという。
て、 五月九 日から行われる
指導 には生徒会役員 のほ
送られ てきた写真三枚 は
こと にな った。
か、学部 の代表 の生徒があ 県立波崎柳 川高校 から出版
局に便 りと三枚 の写真 が届 海岸 の様 子、打ち上げられ
五月九 日 の今 野先生 によ たる。
る校歌応援歌 の紹介から始
今年 は、原町高校と の野 いた。 た 福 島 県 船 籍 のク ルー ザ
報告 してくれた のは校長 ー、そして 「
相馬太 田神社」
まり、 五月十三 日まで五日 球 の定期戦 は行われな い。
の田川章夫先生。 と書 かれた木 のお札と小さ
間 の日程 で行われる。授業
転 入試験 の結果 は、 四月
二十八 日に通知された。
転 入 者 二十 九 人 の内 訳
一年生 に対す る校歌 ・応 終 了後 に講堂を会場に行わ
は、 一年生十 二名 (
男 五、 援 歌 講 習 が 例 年 よ り遅 れ れる のは例年通り であ る。
女 七)
、二年生六名 (
男 二、
女 四)、 三年生十 一名 (
男
四、女 七)とな っている。
転 入生 は今後オリ エンテ
ー シ ョンなど の手続きがあ
り、相馬高校 の各 クラ スに
▲「相馬高新聞」
を取り上げた上野高校の紙面
9
英語 の佐藤 朋美先生 は、
「
語学学校 のア ルバイト で ね。教育実習 で英語を教え す。 明 るく て いい子たちだ
した。逃げ ようと したん で は 『一風堂』と いうお店 で
語学 研修 でカナダ に三か月 た め た お金 で行 った ん で てみて、 こ の仕事 の面白さ なあ って、思 います」
すが、防火扉が次 々に閉ま す」 滞 在 し た こと が あ る そ う す。 いろんな国 の人が研修 を感 じま した。 映画を見る
佐 藤 先 生 は福 島 市 の 出
って、閉 じ込められたみた
愛読書 は ? だ。 で来 て いま したね。日本 人 ときも吹 き替え ではなく、 身。 理科 の佐藤良紀先生 は原 です」 いにな ったん です」 「マンガ 『ワンピー ス』が
「
今度 テ ニス部 の顧問 にな 町高校 の出身。 専門 は化学。 一年生 から
相高生 の印象 は。 好き です。マンガだ ったら、
「
生まれは相馬市 ですが、 三年生ま で六クラ スを担当
りま したが、中学生 の時、
「
着任式 で、 みんな の元気 単行本派 かな」
▲進路室で話す佐藤朋美先生。