景 観 の 価 値 - みのお市民まちなみ会議

景 観 の 価 値
笑面市
み どりまらづ くり部長
中オ浩 己
普段 より市行政 に ご理17お 力添 えを賜 りま して議に有 難 うござい ます
箕面市 では
1991年 に 「箕面市都市景観 基本計画Jを 策 定 し 1992年
には都 市景観
形成要綱 を施行 した ことに始 ま り 妻面 らしい景観
地域 の特徴 ある景観 の保全や創 造に取
t
実 しきを十分に理解 し 箕面 にふ さわ
りlaん で きま した。 これ か らも 地域 の面性憫
しい景観づ く りを進 め てい きます ので
ご協力を よろ しくお願 い します.
箕 面 の 景観
私は実面 の景観 につい て二つ のキー ワー トを
大切 に考 えてい ます。 それ ま空 の広 さと まち
なかの藍かなみ どりです 一つ 日の空の広 さは
ゆ とりある住空間 と風 景 のひろが りとい う意IIk
です。案面 市ではエ ツア ご とに しつか り高 さの
規制 を行 つてお り 結果的 に高い建物 は比較││
少 な くな って い ます 力,え て
まちづ くり推進
条 例による最低峡地面積等 の基簿を連す いただ
│」
を背景に広が る妻面の市行地
)
くこ とで 互 いの建 物 が窮屁 に詰まる こともきほどあ りません.こ れ により大 きな建物 に日
まれ る圧 迫感 が抑 えられ ると同時 に まちの風 景に対す る視練 の ひろが りが生み出 されます。
大阪市内か ら新御 堂筋を北進す ると
"場 のあた りか ら山なみが 見 え
箕面へ帰 つて きた と
感 じる ことが私 には しば しばあ ります 道路や公国な どの 日常 の生 活空間 か らは 実面の財
産 と言 え る北摂山系の山なみ が見 える これが箕面の景観
●
´
の特徴 である と考 えて います
ャ
こう 目はまちなかの豊 かなみ どりです.箕 面市内で建築
ヽ
、
す る際には敵地内の緑化 つ ま り樹木 などの量劉 コ辺への
ヽ
効 果的な拉栽 につい ての基準 が細 か く設定 されてい ます。
住宅や店舗な どを計画す る ときに そ の歎地だけを考える
のではな く 同曖の ま らなみや背景 となる山なみと謳詢す
る よ うに植栽 が施 され る ことで その数地 のみ どりの潤 い
効果 は敷地 の外のまちなみ^と あふれ 出るわけです 一般
〈
庭本や生
が並ぶ風 景
的 に高度成長期 の頃に,H街 地 のみ どりが減少 しま したが
'垣
今 では住緊境 の面か ら潤 い要素 として重要視 されてい ます。 しか し 景観 を軸 にみ どりを考
,
えると いに敷地に どの くらいヽ 地部分があるかとい うこ とではな く どこに植識 しどの よ
竹
`
うにまらの景色 に映 ってい るかが大切です.ま た 景観的 に効果の ある情栽 は家や店舗 を建
築す る多 くの方 々のご協力があって こそ成 り立 ぅてい ます.実 面のみ どり鬱かなま らの表情
は 樹木やす花を植 え 育 て維持 してい くといつたそ こにた ま う市民の方 々の ご應力が不可
欠であ り まらのみ ど りに対する市民 のみな さんの関 心の高 さとご理解 が表出 した 箕面 の
誇れ る景観 であると思 い ます.
まちなみ 景観 の 価 値
景協 法が施行 されたの は 2005年
今 か ら約 10年 前の 出来事です
では それまで ま
ちの景観 は注 目されてこなか った のか とい うと そ うではあ りません 箕両市 では 1997
年か ら景観条例 を制定 し 伝続的 なまちなみや 地域な らではの風景を保 つ取組みがな され
様 々な績策や 制度 を展開 してい ます.さ らに員短 法施行 を うけ 2008年 に景観計画を策定
し景観 条例 の全面改 正を実施 しま した.景 観 条例や彙擁 計画 とい うと堅い印象 を受 けますが
つ ま りは
まちづ くりのルールの一つ です。 身近な劇染みある風景 が急に変 わ り 良好 な景
観 が失 われ地域 らしきが肖1ら れ て しま う前に 景観 の秩序 が大 き く崩 れ る前に 保 つべ き景
観や 目指す べ き景観 を 文言や数値 によ リー定の基準 としてルール化 した もの と言 えます
今 一度
景■ とはllJで あるかを考 えてみ ると 景機法 には 「共通 の資産 ,と い う音葉が使
われ ています す なわら ま ちの景捜 は rF宅 やマ ンシ ョン 会社 の ビル詢 古舗 、道略や公
口や力 の 自然の 土地な ど多 くにより構成 され ます が それ らが合 わ さぅた景色 風景 は
回
人 々の共通 の資産であ り 公共性 の あるものだ とい うこ とで
気持ちよ く散歩 していた生垣や庭木が並ぶ よ うな道 が
す
気が つ けば コ ンク ,― 卜の塀 や 派手な看板 が 日立つ道 にな
つた らど うで しよう力、 栞観 とい うものは 人 々の 日常の春
らしに密着 した もので あ り 地域 らしさや伝 統 文化 が表れ
る魅力 ある景観は まち^の 曇着や安 らぎ 誇 りとな り得 る
の です。
行 政 の役割 は条例や 景諷 計 画に基づ き 建 築物等 が基準に
適合 す るか を確認す る ことですが その背 景 にある地域 の景
観 の 良 さや特数 を共有 して頂 くこ とも重要 です。そ のために
(み とり豊かな道餡空間)
は 地域 の方 力の声を聞 くこ と そ してまちなみ会議 の皆 さんが実施 されてい るような調査
研究な ど まちのス親 を理解 し 学メベ き ことは多 くあ ります
箕面市は市城全部 が景観 .l
画 区嬌であ り さらに重点地区 では地域な らではの 景観 形成 の方針 を地区 ごとに定めて いま
す
単 に基準 に照 らし合 わせ るだけではな く 実面 あ るい はその地域 の景観 の価値 をお伝 え
す るこ とが大切 だ と考えてお ります
これを金頭 に 今後 とも箕面 の請 りとなる景観 をす り
創 つてい く一助 として 市民のみな さま と一緒に歩 ませていただ きた く考 えてお ります ので
ご理解
ご協力 をよろ しくお願 い します
%
VIVA
箕
面
第十二 ロ
人本
方昭
にかけて
笑面に住む こと約 30年 になる。 なぜ宴面かと云えば 幼少峙代か ら学生
ビアなどの海
,ん でいたのは堺市であるが 戯職 してか らは関東地方 更にはサ ウジアラ"代
外肛在などを経て大阪に帰 つて来たが 事情があつて笑面の家内の
欠家にお世話になることになったからである
箕面のことをよく知るよ うにな ったのは 4∼ 5年 前からである
退職後始めた自営業の仕事も■めて みのお 市民まちなみ会議 贅
面滝道 アンテナン ●ップ装満案 箕面観光ボランテ ィアなどの市民
活動に参力,し てからである
'あ
り 野あ りで 海 さえも11こ 登れば過力瑳
くに大阪溶が望まれ る恵まれた場所だ。ある外国の方が次のようなことを云つていた.:日
装面にはⅢ・
●り
本に独性な景観の風たるものは 海辺 と1地 の極端な近議が薇 ,な すl.N岸 地帯に見られ る。
・ 山島'と 表見 した (魏 倭人伝).一 月
北
初 めて議れた古代中国人 は この景観 を
'■
'1を るよ小な空間 に あらゆる地形が 一挙 に圧 縮 されたかの ようにして混4tす る.ま
で見渡せ
.・
さしく箱庭 と呼ぶにふ きわ しい美 しさがそ こにあるJ ttt,外 国に居住 し 外国 を旅 した経
験などから 口本の 自然風員自体に (箕 面も然 ,)こ じんまりした
・f脅 らしさを 人生の
後半に して初めて感 じるようになった
とい うことで箕面は好きな所 であ その中であえて挙げるならば 箕両の滝道である
古来 多 くの僣や文人墨宮が修行輌 瀑賞楓のためこのに道を通った。 それ らの人々がそ
4・
の時 どのような思いを込めて ここを.Iれ たのか と 思いを馳せ るの も楽 しいこ とである
んず は役行者 修験道 の開社 と言われ る人である.ヽ 城や企剛で修行 していたが 贅面
が修● に丼適 な地であると感 じてやって来て 658年 水の神である弁才天の助法を受 サ
て来而寺 (夏 在の瀧,キ )を 創 立した.箕 面■は南北朝ll代 後醐 天皇によつて ス皇
の鰺岐脱出を贅面
修法 し 上手 く脱出できたことで そのお:Lと して瀧安寺 とい う名
前を賜つた。 その'が
後 行基 も来た.役 行者 と行基は時代が重複するが '喘 谷にある
であるか ら 当然箕面の滝も訪れたに違いない そ して空海'F意
空
輸寺を倉1立 したのが
'基 い う明白な記録は残 っていないが 龍安寺
のれ師棧 にも祀 ら
海が実面にや って来たと
どこにいたのかわか
れてい る おそらく空海が遺離 の一員 として唐に向 うllの 数年間^生
らない空白期間があるので おそ らくこの期間修行のため贅面を訪れた もの と思われる
かの有名な西行や鳴長明も贅面を訪れて欧を適 してい る.西 行は睫年
を訪れ 「何事
の│.は しますかは
,ら なども
'勢 の文髄を うま
かた じけなさに 涙 こぼるる∫ とい う神道
く衣■ した歌を遺 した人である
江戸時代には 松尾芭蕉が訪れている 紀行『 篠の小文』によると 1087年 江戸を旅だっ
た芭察 は 布]の 湾 を訪ltた 後 箕面の湾を訪れ 連歌の後半「 箕面の竜や Iを 織 るらんJ
とい う名句を通 している 流継 ちる滝の姿を巧みに表凝 しているのはさす がである.近
世以降では 縦日信長が荒木壮薫の,,根 攻めをしている時 鷹″ りの途 中滝見物のため
に立ち常つている またホ徳浪士の第 48番 日の義士 と言われ る董野三平が 自刃の一年
前 に訪れている.ま た夏 目漱石は礎午 療養蕉熟筆 していた 餃 岸過ぎまで」を執筆中
訪れてい る 等々 他にも笑両と訪れた多 くの有名人がい るが 紙面の都合上割脅する
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タウンウォッチング
私4の 住 む美 しぃ みの f.』 を
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み つお市民まちなみ会出では 毎年 8回 タウンウォッテング (ま らあるき)を 行い 管さんと一緒に僣を
見て夕いてお ります。多加 自●ですので 歩きなが ら「路上観察」 しま しょう.街 に在る斬旧取 り瀑ぜ
て面白い もの、おか しな もの うlっ 掛かるものを歩きなが ら発見 し 箕面の衡壺みを楽 しんでみま しょ
う。建物か らヽまって円 塀 屋根 工 看板 マ ンホール 澪 石垣 II本 草花など歩きなが ら
,で も見ましょう 今回は新 しく始 めた青民家探繊 シ ツーズを紹介 しま■
枚策や探訪 の参考にして
下さい
岬
吉民家探訪
澤
編 筋
│『
シリーズ 彿 一回)
訪)―
養谷■m
→ 上々呂実神社 ― 鳥場之所集落(古 民家探紡)
一
一
ウォッチングコース 歩
離 釣 0 0km
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"距
々呂業 BS ― ■ 之所葉落(き 民家探訪)
阪急′ ス白島 BS ― 中止
1貶 所彙落く
古民家探
■上 々呂莫
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白島 B6(解 Ю
■畠を出発 して 実面 トンネルに入 ります 閾 口付近 では斎名棒高速の [C工 事がたけなわで 何本
も巨大な柱が見えます また清籠キの奥 では笑面 トンネルの錮消1工 事も進捗 しています.
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中止々昌実 B7Sで 下苺 し 奈野川に沿つて摂丹街道を北上 します 谷間の斜面は山桜 が全面を種 うの
ですが 少 し華節がズレま した。
上之所業落の長徴的な古民家 高い石垣の 上に母屋や蔵 納屋などが並ぶ尾崎家 が見えます。手前右
7レ
手の奥に 荒壁の古民家が残 っていま九
通常 自い漆
喰壁なのに 珍 しい7造 りで他に下上 々昌美 にも 2軒
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茶野
渡って集落に入ると 茅事 きの家(ト タンで
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いる)が 3軒続 きま丸 書は茅場が各所に
豪 われて
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真き替 えが出来たが
田畑の開発が進み 茅場が無 く
なり 茅華き僣人ヽ号なt'の で い
が大変だと
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に出す役割 で した が
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見代では全 く使 われ な く
像 々 に減少 してい まt上
々8実 の民家 は lu裾 にヽ ば
りつ くよ うに
建 っています T・ 地が少な いため
少
して も田畑 を多く確保 したい との願 いか らです
しか
も 余野,1に 向って緩やかに傾斜 し 日畑の水 が 自然
に流下する様 に工夫されてい ます(晨 々畑 山裾におつ
)。
て進む と 最も規模 の大きな屋数が 目に入 ります 立
派な門構や蔵 離れ 茅事 の母屋な ど 歴史を感 じる
建物 でヽ
しか し 晨奥の家 は立派な古民家だつた と
思われますが 廃屋となっていました
摂筋 道を,き 返 し イ
貶 所薬落を探訪 しまヽ 街道筋にお動染みの泉谷家が在 り ま饉意(む しこ意)
や煙出 しが特徴です 街道をとの坂を上 ると 大きなll構 えの奥に茅算の星嗽が見えまtこ の トタン
の薇いを真 く見ると麹 が沢山付いています 上之所では見 られなかった ものです。豪賃時に雪が榊
落ちるのを防いてい るのです
小路を辿ると右手の量根では
● ▲
判 ります.
や が て谷
壊れ
nll事 oま
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て
,
, に接 し
の承
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かか った
小屋が 見
i止 めの架起が真 く
「
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■々 呂 美
えます.
注 意 して
見ると水
車小量でヽ 装置に現存す る☆颯なものでヽ
1を 渡 う
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て姜安寺で休憩 しまち このキ ヽ茅苺で トタンの騒いに言
の滑 り止めが付いていまヽ
姜安寺の石段を下 り 左手へ進みます。右手は止 々8美
特産の栖子の本で 沢山の実が成 ぅていますが 収篠する
人がいないのか 放置されている様で丸 上 々昌美神社の
nt々 8■ 縦
に分飛』桑A銚 う
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