フィリピン余暇退職庁 (PLRA/旧 PRA)26周年記念行事に参加した雑感

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週刊メッセージ:N o .155( 2011年7月25日)
フィリピン余暇退職庁(PLRA/
旧PRA
)
26周年記念行事に参加した雑感
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Posted:July 25, 2011
去る2
2日、久方ぶりに車で首都圏マニラはマカチ市に日帰り外出をしました。フィリピン政府のPRA(Philippines Retirement
Authority;フィリピン退職庁)26周年行事に参加するためでした。
外国人が退職後の生活をフィリピンで過ごすように政府が積極的にそれを支援するためにできた官庁です。外国人退職者がお金をフ
ィリピンに落として少しでも経済振興に役立たせるというのが狙いのようです。そのためにPRA Visaという永住権のともなう特別のビザ
制度を設けています。
ちなみに、このPRAは2002年秋、PLRA(Philippines Leisure Retirment Agency;フィリピン余暇退職庁)
と名称変更されました。
このフィリピン余暇退職庁は政府(
投資局)
の管轄で運営する法人であり、入国管理局が発給するSRRV(特別居住退職者ビザ)の申
請手続きを行う機関です。本資格の取得者はフィリピンでの永住権が与えられます。
かくいう私は、永住権を持たずに、2か月毎の更新手続きで今日に及びます。いずれの時点かでは永住権を取得しますが、2か月ごと
に支払う2千ペソから5千ペソ(
16ヶ月間で徐々に増額して、また振り出しに戻る仕組み)
は「市民税」
みたいなものと割り切っていま
す。それに、2か月ごとに訪れえる移民局での一寸した外国人たちとの接点も無駄ではないからです。前回は色の黒い女性二人に積
極的に話しかけました。ソマリアとナイジェリアの女性留学生でした。
あらかじめ、地図で確認してのドライブでしたが、割り合いにスムーズにたどり着きました。家から約40キロ。1時間足らずでたどり着き
ました。会場に1時間以上も前から入って、周辺の人たちと会話を試みました。何時ものことながら、取材をかねたものです。
後ろの席にアメリカ人と思しき男性の胸に貼られたファースト・
ネーム"Goarge"をみて、ジョージさん、どちらから?と積極的に話しか
けました。アメリカはジョージア州出身。退職者の仲間入りする年齢ではないことから、この国で何をするつもり?と訊きました。英語教
師機会を狙っているとか。ホームシックにならないか?と訊けば、即座にNever!(
まったくないです)
と。グローバリゼーション時代の最
先端の生き方ですよね、とヘンなところで共感して、思わず握手しました。
もともと、海外に移住する人は日本人でもそうですが、自国のことに執着していません。むしろ、ある面では、母国での生活が性に合わ
ないといった側面もしばしば窺われます。かくいう私もその一人。フィリピンに永住している人のほとんどがフィリピン人女性と再婚もしく
は同棲といったところ。「外国人と結婚する」
ということ自体が「
異色性」
を窺わせることは確かです。
さて、今回の本行事のことを知り、かつ参加する気になったのはほかでもありません。ごく最近、小学生一年生の男のお子さんを伴って
その子の英語教育から、タガログ語のマルチ言語人として世界で活動できる人間作りを目指してフィリピンに親子で住んでおられる父
子に会うのが主たる目的でした。そのことは後述するとして、行事の模様を簡単に述べ、かつ率直な印象を書いてみます。
「
周年行事」
と言えば、欧米が本尊みたいです。ライオンズクラブやロータリークラブのそれは代表的なもの。フィリピンが300年余のス
ペイン、半世紀余アメリカ植民地下にあったということから、欧米文化の導入や定着なかんずくその精神文化は日本が背伸びしてもか
ないません。「
中身はチョンマゲ、上っ面だけの西欧文化」と日本の現状を酷評するのが私ですが、今回もその事実をまざまざと見せつ
けられた想いを禁じえません。
祈祷から始まる行事はその最たるもの。同庁の歴史を物語る音楽を伴うパソコン表示の編集内容やその垢抜けした様は、日本人も負
ける感じです。テレビのコマーシャルも同じですが、ここで見るテレビは多種多様。それだけに比較対象ができることから、痛切に感じま
す。ちょっとした仕草にも文化の差を感じます。単に国民性とは片づけられない側面を有します。日本が西欧文化に直面し採り入れ始
めたのはわずか160年前。フィリピンが400年余のスペイン・
アメリカの植民地時代に採り入れきたのとは、根本的に異なります。
参加者は日本人を含む外国人ですが、行事を推進するのはフィリピンの人たち。かれらの仕草は参加者のそれに比べて、勝るとも劣
りません。堂々とした風情です。そんなところにもかれらの先祖伝来受け継いできたスペイン・
アメリカの欧米文化継承の痕跡を垣間見
ます。まさに堂々とした振る舞いと感じました。
しばらくしたら、くだんの日本人父子が来られました。その方にお会いするのが主目的だったことから、パーティーが始まるやいなや、
別室に移動して懇談し始めました。何よりも驚いたことは、連れて来られた小学校一年生の息子さん!いやはや、いきなり流暢な英語
で話しかけられました。此処にその時の写真を貼りつけたいのですが、編集用サイトがどうしたことか、「
コピー・添付」
作業用のサイト
が出なくなったことから、後日のことにしますが、それはそれは、並みの男の児ではありません!
お父さんはその子をほったらかしにしてそそくさと私と別室に移り、話しこみました。ふと気づいて、マスダさん(
というお名前)
、お子さん
は・
・・?と気遣う始末。やあ、放っておいてイイんです、と。ふと、ガラス壁を通してみるロビーに、なんとその坊やは大人たちの中に混
じって、シャアシャアと「
お付き合い談笑」
しているではありませんか!英語を自由自在に話せることもあり、かつ小学生幼児にも関わら
ずということで、大人たちが興味を示して話し相手しているのです。おっ魂消ました。
この子の将来のために、本格的な英語やタガログ語の留学教育を目指してお父さんが一緒でこの国に来ておられるのです。並みの親
子ではないことがこの光景からだけでも想像できます。ついでながら、私のサイトは「
Q&A」にそのお父さんがその後日に下さったメー
ルを掲載します。線の太い、稀にみるニッポン人父子と私の目に見えました。
http://www.a-bombsurvivor.com/weeklymessage.2011/jpn.2011.7.25.155.html
8/10/2011
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明るい内に帰宅の予定が週末金曜日のラッシュにかかり、同父子を送り届けるつもりが暗くなっての帰途のナビゲーター役になってい
ただくなかで、市内のど真ん中で身動きできない状態の交差点信号で信号無視といった形になり、引っかかりました。このことは、稿を
改めて書きます。夜間のドライブは避けるようにしてきた私が、遠乗り状態で夜間ドライブを余儀なくされた格好になりましたが、無事に
帰宅してホッとしました。
この写真は後日添付したものですが、私たちの後ろの目を閉じた人物が本稿に出ているジョージというアメリカ人です。未だ定年族の
年齢ではありませんが、フィリピンで英語教師の職を探しているとか。アメリカへのホームシックは皆無だと断言しました。思わず握手し
て共感し合ったものです。右が益田さんという方で、そのひとり児のレイ君。フィリピンの小学校一年生ですが、大人も顔負けする英語
の達人です。日本語・
英語・
タガログ語から将来はドイツ語、フランス語に手を出しそうな人間に育つ要素を持つ頼もしいニッポン男児
です。そのために奥さんを日本に残して家業の「
ゲスト・ハウス」
経営をする傍ら、フィリピンで生活して居られる異色の人物家族です。
(
2011年8月9日追記)
2011年7月25日
吉田祐起
原爆生存証言者/健康・
生きがいづくりアドバイザー(
フィリピン共和国ラグーナ州サンタローサ市在住)
[email protected]
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