事務所: 三島市緑町 12-4 三島カトリック教会内 代表 尾高 良子 TEL&FAX:055-981-3599 URL : http://msmcit.ddo.jp/amigos/ E-mail : [email protected] 三月中旬の或る日の天声人語に『弥生や花見月といった温雅な呼び名を持つけれども、 一皮向けば三月の本性は荒々しい、冬の寒気と春の暖気がぶつかり合って思わぬ嵐を各地 にもたらす。三月は獅子のようにやってくる』と書いてりました。この文の通り、全く、 そのまま現実になって、三島地方は今春下旬、どっと南風が、そして西風に乗って黄砂が 飛来したと思うと、北風がすさび、雪を降らせ、突風、春疾風で、彼岸は荒れました。特 に御殿場の野焼きで、突然の凶風にあおられて、あっという間に逃げ場を失った三名が火 に巻かれて尊い命を失われ、誠にお気の毒な事件に見舞われましたね。 去る正月前から、小春日和が続いた穏やかな新春を迎えましたのに、このあたりは三月 末、二日間続けて嵐が吹きまくりました。そんな暴風雨の続く中で、じっと耐え忍びつつ 桜が咲きほころびました。 それに加えて数日の冷たい雨が降り続きましたのに、窓外の桜は全力で耐え、凛然として、 何事にも動ぜず、何事も無かったように花を咲かせ、今、満開し、さくら、さくらと謳わ れています、今日、昨日です。胸をなでおろし、ほっとした気持ちで桜を愛で、仰ぎ見て います。そして満開のさくらは、入学式を励まし、祝ってくれています。 あの突風も、嵐も、雨も全くそ知らぬように、黙って、何の苦労もなかったように、美 しさに満ち溢れて、桜は幹も、小枝も、咲き揃って満ち咲いています。小鳥達が楽しく、 さえずっりながら、桜を讃えて、飛び交わしています。 この今春は強烈に、いろいろな感動と刺激を、喜びや恵みを私に与えてくれました。ど んなに苦境の出会いがあっても、悲しいこと、辛いことがあっても、それらは必ず過ぎ越 して行くからじっと耐え忍んでいたら、今、満開の桜のように、よろこび、楽しみ、幸せ は、必ずやって来ることを教示してもらった今春でした。 さくらを青空に、花曇の中に、満開を見上げながら、キリストがあらゆる苦難の中で死 んで葬られ、命のよみがえった復活を賛美している、大自然の春の、今日、明日に、私の 心も合わせたいと希望しています。 皆様の平安と幸せをひたすらお祈り申し上げつ々・・・。 ―――尾高良子 1 お心こめての御支援とお祈り、御寄附を厚く御礼申し上げます。 杉山 青野 田辺 和子 キヌヨ 哲夫 滝盛 宍原 匿 様 様 様 喜智 千恵子 名 様 様 様 <お知らせ> 4月18日(日) 4月22日(木) 御殿場地区例会 三島地区例会 午後3時15分から 午後7時から ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― <御殿場 活動報告>---河村 2月25日 ボリビア人Hさんの兄弟、就職希望先会社に提出のため、履歴書作成 に協力。 フィリピン人Mさんの子H君の西高入学に当たり、保護者面後会に同行、高校生活に 付いて話を聞く。 2月27日 フィリピン人Mさんの21年度確定申告提出について、申請書作成。 3月1日 フィリピン人Mさん確定申告書提出のため市民会館同行。 3月7日 ボリビア人Hさん兄弟に付いて、入社希望会社担当者より電話、本人の人間性につい て話をする。 3月9日 上記ボリビア人に付いて、会社担当者より採用に決まると、連絡あり今後も宜しくと の事。 3月12日 フィリピン人Nさんより、静岡県東部在住のフィリピン人が、裾野 不二聖心、黙想 の家にて3月20日、21日、黙想会を計画した事に付いて協力依頼。 3月19日 名古屋入管にて拘留中のフィリピン人Mさんより電話、長期に亘り拘留され我慢の限 界に来た、帰国します、色々世話になり感謝して居る大変申し訳ないとの連絡あり。 3月 20、21 日 静岡県在住のフィリピン人送迎の為、不二聖心3往復。 3月25日 フィリピン人Mさんの子Hくんの書類提出の為、社会福祉協議会に行、書類不備のた め、3月29日再提出。帰路必要書類取得のため御殿場市役所に行く。 <三島地区 活動報告>---堀 3月11日 アミーゴス会報作成、印刷。 3月15日 9時過ぎ沼津市役所でフィリッピン人Mさん母子の生活保護相談、申請用紙を受け 取る。子育て支援課に行き、母子手当等の申請についての手続きを聞く。 11時頃、アミーゴス事務所でペルー人Kさんの件で、長泉町の社会福祉協議会に 電話して貸付制度の話を聞く。 3月22日 シスター尾高と一緒にペルー人2世のNさん姉弟の相談を聞く、弟と同居している が二人とも失業し困っている。裾野市に生活保護の相談に行きたい。 3月24日 10時頃、Nさん姉弟と、生活保護の相談で裾野市役所に行く、住宅手当金と生活 保護の相談をするが、母国の親兄弟から支援要請が先決と断られる。 3月25日 夜7時からアミーゴスの例会、尾高、水口、水野、高原、百瀬、堀参加。 2 報告と、定期総会と20周年記念行事について話し合う。 3 月26日 朝、9時頃、ペルー人Kさんと、産廃業者を目途に、職探しの電話を数社掛けるが いずれも断られる。ハローワークに行き捜す、函南に1件、29日、面接予定。 Kさんにバイクを貸す。 3月27日 富士山植樹の苗上げ作業に、Kさんと一緒に浅木塚に出掛ける。 3月30日 ボリビア国籍のFさんと清水町役場に行き生活保護の相談、1年近く職が無い、預 貯金が底をつきそうとのことで相談したが、預貯金が10万円以下になるまで駄目。 家賃滞納について住宅手当申請をする。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― <相談あれこれ> ―――フィリッピン人Mさん母子のこと Mさんはフィリッピン人でN市に在住。2001年に、来日、日本人男性と結婚したが、夫の暴力(D V)により、昨年1月頃、DVで警察に相談したことがある。昨年11月に正式に離婚した。 現在、6歳と2歳の子供と一緒にアパートを借りて住んでいる。今はアルバイトで生計を立てている が、月12,3万円の収入で生活は大変厳しい。夫は生活費も子供の養育費も出さない。子供を抱えて の夜勤の仕事なので、離婚後、本国から母親に3ケ月の観光ビザで来日してもらい、子供の面倒を見て もらっている。母親は4月には帰国するので、仕事が出来なくなるし、アルバイトで長くは続けられな い。 4月から仕事がなくなるため、生活保護の申請を検討している。 市役所窓口で生活保護の相談をしたが、一人で行ってもまともに取り合ってくれない。取合えず申請 用紙だけはもらってきた。相談窓口で、母子手当の申請をすれば支給されるとの話で、子育て支援課で 申請についての手続きを聞いた。それには比国大使館で離婚証明手続きが必要で、別れた旦那の本籍地 の法務局で、離婚証明書をもらい、大使館に行き、比国の離婚証明書又は独身証明書を出してもらう必 要があるとのこと。しかし、その後、詳しく調べると、一度、本国に帰り手続きしないと証明書が発行 されないとの話し。帰国の費用も無く、母子手当は諦めるしかない。 ―――日系ブラジル人青年の声③(日本カトリック難民移住者委員会ニュース No.68 より) I・Mさんは大阪教区在住、両親は父親が日系ブラジル人、母親はブラジル人です。9歳の時に来日 したそうですが、白分かブラジル人であることをとても誇りに思っているそうです、両親の母国である ブラジルにも親しみを感していますが、貧しいこと、仕事やお金が無いことなどに不満も持っているよ うです。 ポルトガル語は、両親から学んだり、ブラジル人グループとの付き合いの中で学んでいるので、読ん だり書いたりすることはもちろん、話すことにも問題はないようです。 I・Mさんにとって、学校はけっして楽しい場ではないようです。友だちの多くは日系ブラジル人で、 日本人の友だちもいるようですが、表面的なつきあいがあるだけで、内面的な悩みなどはけっして話さ ないそうです。差別は日常的で、周りの人から侮辱的な言葉をしばしばかけられるそうです。そんな時 は、その場から逃げる以外に術を持っていません。クラス全体に問題が起こると、先生はI・Mさんが 3 悪いと言って怒るので、平等に扱っでほしいと悲しげに話してくれました。 彼にとっての唯一の安らぎの場は、やはり家族のようです。―諸に食事をしながら、学校で起こった ことなどを話すことを楽しみにしているそうです。けれども、両親は仕事が忙しく、帰りも遅くなるこ とが多いそうです、そんな時にはひとりぼっちで、不安を抱えながら過ごしています。それでも、家族 は彼のことをとても大切にしてくれるし彼も家族を深く愛しているそうです。皆に心配をかけたくない ので、できるかぎり、自分のことは自分でするように心がけていると語る表情には、家族を思いやる、 とてもしっかりとした面が垣間見られました。 最後にI・Mさんは。「将来い仕事が見つかるかどうか、それが心配です」と、ぽつりと言ったのが 印象に残りました。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― <移住連機関紙 M−ネット 気になる新聞記事から> ◆再生のとき「開国」途上の日本で奮闘 難民仲間の力に[毎日新聞2010年1月4日] 切り出したままの生木を組み立て、屋根に葉っぱをふいただけの小屋が密集していた。 ミャンマー人男性のMさん(40)は09年夏、タイ西部の難民キャンプを訪れた。祖国の軍政を逃 れてきた同胞およそ15万人が、9つのキャンプに分かれて暮らしている。 非政府組織(NGO)を通じた外部への織物販売や日用品の売買。難民たちの日々の糧は不安定だ。 将来の希望もなく、援助を待つだけの暮らし。そのみじめさは、日本に亡命したMさんにとっても人ご とではない。集めた寄付金や服を渡し、 「祖国民主化の日が来るように」と祈った。 04年5月の朝だった。通い慣れた東京・高田馬場駅の改札を出ると、2人の男に両脇を挟まれた。 「パスポートは?」と聞かれ、私服警官だと気付いた。「難民認定申請をしています」と訴えても聞き 入れられず、人管難民法違反(不法残留)容疑で逮捕された。軍事政権下のミャンマーを逃れて13年。 自由と安全を求めてたどり着いた日本での身柄拘束だった。 兆しはあった。3ヵ月前、在日ミャンマー人向けのミニコミ紙に、軍政トップを批判するコラムを仮 名で書いた。ほどなくミャンマー大使館長を名乗る男から職場や携帯に電話があり、「ただでは済まな い」と脅された。 「報復で警察に密告されたのだと思う」とミョウさんは言う。 懲役2年6月、執行猶予4年の判決。人管の施設に移送され、拘束を解かれたのは逮捕から8ヵ月後 の05年1月たった。ふさふさだった髪は抜け、今も生えていない。ようやく難民と認定されたのは、 その翌月のことだ。 旧首都ヤンゴンの近郊で育ち、高校生だった88年に民主化運動に身を投じた。仲間は次々と逮捕さ れ音信を絶った。Mさんも、深夜、自宅にやってくる軍の警備隊員の尋問をたびたび受けた。身の危険 を感じ偽名パスポートで91年、日本に来た。日本の難民認定の厳しさは聞いていたが、チャンスを逃 すわけにはいかなかった。 当局から受けた仕打ちには今も納得できない。難民認定を申語中なのに、なぜ逮捕されたのか。 1回目の審査では不認定だったのに、2回目は認められた。認定の基準があいまいだ。入管職員に問う ても説明はなかった。 来日時は22歳の大学生。祖国での学歴も異国では役立だない。皿洗いをしながら懸命に日本語を覚 えた。能力を生かせる場所へはい上がりたかった。独学でITの知識を学んでメディア関連会社に就職 するまでに9年かかった。 4
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