「ツツミ」は、もともと田の用水確保のために作られ たものですが、プールの無い時代は、子どもたちの 貴重な泳ぎ場所でもあった。 (写真は昭和30年ころ) 宮本三郎ふるさと館 企画展 「ふるさとに贈られた宮本作品」 会 期 6月23日(火)∼9月6日(日) ところ 宮本三郎ふるさと館(松崎町) 入館料 一般400円 大学生200円、 高校生以下と65歳以上は無料 14 14 ほかの地形関連の方言から と を ヒ ラ チ と 言 い ま す。 「 平 ら な 土 地 」のひこ ら ち 言 う ま で も な く「 平 地 」の 意 味 で す 。ヘ ー チ と も言います。 ヒ ラ チ に 対 す る「 山 」、「 山 」の 中 で も 岩 で で き た 山 、「 岩 山 」の こ と を イ シ ヤ マ 、イ ッ シ ャ マ の よ う に 言 い ま す 。イ シ ヤ マ は 言 う ま で も な く いし やま 「 石 山 」か ら で 、イ ッ シ ャ マ は そ れ か ら の 変 化 形です。 「 清 水 」の 字 が あ て ら れ る シ ョ ー ズ は 、「 湧 き 水 」を 指 す と と も に 、「 湧 き 水 が 出 る 場 所 」を さ しても使われます。 休館日 月曜日、祝日の翌日 問い合わせ ● 宮本三郎美術館 ☎20・3600 ● 連 載 みずがみぞう ほこら さん 市史編纂室 ☎ ・5315 中 心 で あ る 以 上、田 圃 へ の「 用 水 」は 村 々 に と っ て死活問題だった。 本 江 に 伝 わ る「 文 書 を 刻 ん だ 水 神 像 」は「 我 田 にら 引 水 」へ の 睨 み と「 農 」に と っ て の「 水 の 切 実 さ 」 あかし を今に伝える証でもある。 た ん ぼ 藩 政 期、各 村 は村 御 印( 租 税 の 内 容 )の 定 め に よ っ て 村 ご と に 年 貢 を 納 め て い た。年 貢 は 米 が むら ご いん 本江町八幡神社境内の小さな祠に陶製の水神 像が祭られている。像は昭和 年に、本殿床下の が れ き 瓦 礫 か ら 偶 然 に 発 見 さ れ た。片 膝 を 立 て て 座 る 百 姓 姿 の 水 神 の 形 相 は 異 様 で、目 も 鼻 も 口 も 大 き く、何 か を 凝 視 す る 姿 に 威 厳 が あ る。 か ん じょう む ら 背 中 に は 本 江 村( 本 江 町 )と 勘 定 村( 東 山 町 ) の水争いを取り決めた文書を刻む。 文書は、まず、「本江村用水河の事」と題目を書 き、続 い て、両 村 の 水 争 い を 収 め る た め、文 政 4 ど が 年( 1 8 2 1)に 奉 行 が 中 に 入 り、本 江 村 の 同 ガ た んつつみ 谷 堤 から引く水の配分を、九(本江村)対一(勘定 村)と定め、以後はこの決まりを志すようにと記 している。 はちまん 宮本三郎「ゼンマイ」▶ (水彩 昭和37年 18×18㎝ 日末小所蔵) ◀宮本三郎﹁オリーブの丘﹂ ︵油 彩 昭 和 年 日 末 小 所 蔵︶ 27 「文書を刻んだ水神像」 もんじょ *上記料金にて宮本三郎美術館 で開催中の展覧会「宮本三郎とモ デルたち」にも入館できます。 子供向けの美術書や技法書など も 手 が け ている 宮 本 三 郎 で す が、こ のよ うに子 供 た ちに対 し てメッセー ジを込めた絵画作品は皆無に等しい と言えます。 宮本と喜多先生の間で作品の内容 についてや り 取 り が あった か ど う か は 定 か で は あ り ま せ が、日 末 小 学 校 に贈られた作品﹁ゼンマイ﹂が喜多先 生 の 解 釈 通 り な ら ば、画 伯 の 画 業 の 中でも特別な作品として位置付け ることができるでしょう。 母校 日末小学校に贈られた 宮本三郎の表紙絵 37 青 森 県 か ら 南 は 九 州 の 大 分・熊 本 県 ま で の 広 い 範 囲 に 及 ん で い る こ と が わ か り ま す 。し た が っ て、「 た め 池 」の 方 言 ツ ツ ミ は( 少 な く と も 現 代 共 通 語 で は「 た め 池 」を ツ ツ ミ と は 言 い ま せ ん か ら )、方 言 と は 言 い な が ら も 、特 に 中 年 層 か ら 高 年 層 に か け て は 、東 北 か ら 九 州 ま で の 非 常 に広い範囲で通用した方言ということになり ます。 ツ ツ ミ と 言 え ば「 堤 」と い う 漢 字 が あ て ら れ る よ う に 、「 土 手 。堤 防 」を 指 す ツ ツ ミ の 存 在 も 考 え な く て は い け ま せ ん が 、文 献 上 で は 「 土 手。堤 防 」の 意 の ツ ツ ミ は 、「 万 葉 集 」( 巻 ・ 三 四 九 二 )に す で に 使 用 例 が 見 ら れ ま す か ら 、 東 国 語 と し て の ツ ツ ミ は( 巻 は 当 時 の 東 国 出 身 者 の 歌 を 集 め た と さ れ る「 東 歌 」の 巻 で す ) 相 当 古 い 可 能 性 が あ り ま す 。そ れ に 対 し て「 た め 池 」を 指 す ツ ツ ミ も 、平 安 時 代 に は か つ て の 中 央 語( 京 都 語 )と し て の 使 用 例 が 確 認 で き ま す の で 、小 松 で の「 た め 池 」の 方 言 ツ ツ ミ も 、そ うした古語の名残であることは間違いありま せん。 昭 和 年 1 月 、当 時 の日 末 小 学 校 教 頭 の 喜 多 庄 助 先 生 宛 てに東 京 の 宮 本 三 郎 画 伯 か ら 一枚 の 水 彩 画 が 贈 ら れ て き ま し た 。描 か れ ていた の は﹁ゼ ンマイ﹂。文 集﹃ ひ ず え﹄創 刊 に 際 し て、喜 多 先 生 が 同 校 卒 業 生 で あ る 宮 本 画 伯に表 紙 絵 の 制 作 と 寄 稿 文 を 依 頼 し 、そ れに応 じ て 届 け ら れ た ものでし た。 作 品 に同 封 さ れ ていた 手 紙 には 、 絵 柄﹁ゼ ンマイ﹂について の 説 明 は一 切 無 く 、題 字 の 色 の 指 定 な ど 、印 刷 する際のアドバイスのみが書かれて いま し た 。こ の こ と か ら も 色 彩 の 画 家と言われた宮本らしさを垣間見 ることができます。 創 刊 号の中 で喜 多 先 生 は 絵につい たるみ いわばし て 、万 葉 集 の 短 歌﹁ 石 走 る 垂 水 の 上 さわらび も い の早蕨の萌え出づる春になりにける しきの み こ か も︵志 貴 皇 子︶﹂を 引 用 し、﹁冷 たい 雪 を は ね よ け て、希 望 の 春 を 目 指 し て 元 気 よ く 進 み な さいと 励 ま し て 下 さっている﹂、と 子 供 た ちに説 明 し ています。また、宮本に感謝すると共 に 、日 末 小 の 子 供 た ち に 対 し て﹁ 画 伯のように誠実で努力の人になるよ うにがんばろう﹂と記し ています。 (金沢大学人間社会学域教授・日本語学) 前 回 は「 ト ン ネ ル 」の 意 味 の 方 言 マ ン ポ・マ ン プ を 取 り 上 げ ま し た が、今 回 も そ れ に 続 け て 〈 地 理・地 形 〉に 関 す る 小 松 の 方 言 を 見 て い き ます。 地理・地形に関する方言 その2 加藤 和夫 「ため池」を指すツツミ、ツズミも方言 かん がい 「 灌 漑 用 に 水 を た め た 池 」つ ま り「 た め 池 」の こ と を ツ ツ ミ、ツ ズ ミ と 言 い ま す。た だ、人 工 的 な た め 池 だ け で な く、自 然 に 水 が た ま っ た 池 の こ と も 言 う よ う で す。ツ ツ ミ が も と も と の 言 い 方 で、ツ ズ ミ は そ の 変 化 形 と し て 生 ま れ た 形 で す。こ こ ま で 読 ん で「 え ー っ! ツ ツ ミ っ て 方 言 な の?」と 思 う 人 も い る で し ょ う。確 か に『 日 本 方 言 大 辞 典 』( 小 学 館 )に よ れ ば、「 用 水 池。た め 池 」を ツ ツ ミ と 言 う 地 域 は、小 松 な ど の 石 川 県 を は じ め と す る 北 陸 三 県 の ほ か、北 は 24 連載 26 広報こまつ 2009.6 27 129 51 ▲水神像(座幅35㎝) みまっし、きくまっし 小松の方言 135 ▲平成18年1月、日末小学校新校舎の完成に併せて設置された 「宮本三郎記念ホール」。 (中央の作品「乳牛」は複製品) ◀ 文 集『ひ ずえ』 (第 4 0 号、 平成21年3月発行) 昭和37年発行の創刊号 と第7号から現在まで、宮 本の「ゼンマイ」が表紙を 飾っている。
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