ボーフォート海陸棚斜面上での冷たい塩分躍層の変質過程 Modification

海洋科学技術センター試験研究報告 第43号 JAMSTECR, 43(March 2001)
ボーフォート海陸棚斜面上での冷たい塩分躍層の変質過程
菊地 隆*1 島田 浩二*1 西野 茂人*1
小林智加志*1 畠山 清*1 滝沢 隆俊*1
北極海カナダ海盆の太平洋側に位置するボーフォート海陸棚斜面域での流動構造及び水塊混合過程を調べるために,海洋
地球研究船「みらい」の北極観測航海(MR99-K05)
によるCTD・ADCP観測,及び係留系BFK-98による水温・塩分・海流の通
年観測を行った。北極海に特徴的な冷たい塩分躍層の水塊は,冬季の大気からの冷却及び海氷の生成によって作られるが,
その水塊特性は夏季ベーリング海水の移流や大西洋水の湧昇に伴う水塊混合により変質させられることがわかった。晩夏か
ら秋にかけて顕著な夏季ベーリング海水との混合には,夏季ベーリング海水の流入による中規模渦の生成とそれに伴う水塊
間の強い流れのシアが,一方大西洋水との混合には,西向きの風が強まることで起きる湧昇と,その湧昇に伴う内部波の発
生・砕波が,重要な役割を果たすことがわかった。
キーワード:ボーフォート海,陸棚斜面域,冷たい塩分躍層,水塊混合
Modification of the Cold Halocline Water over
the Beaufort shelf break
Takashi KIKUCHI*2 Koji SHIMADA*2 Shigeto NISHINO*2 Chikashi KOBAYASHI*2
Kiyoshi HATAKEYAMA*2 and Takatoshi TAKIZAWA*2
In order to investigate a current structure and water mixing processes over the Beaufort shelf break, which locates in
the Pacific side of the Canadian Basin in the Arctic Ocean, we carried out the CTD and ship-onboard ADCP observations during the Arctic cruise of R/V Mirai (MR99-K05) and the mooring observation (BFK-98) over the Beaufort shelf
break. Cold Halocline Water spreads widely in the Arctic Ocean and is formed by winter atmospheric cooling and
brine drainage accompanied with sea-ice formation over a continental shelf. Observational results show that the characteristic of Cold Halocline Water is modified by the inflow of the Bering Summer Water and the upwelling of the
Atlantic Water. The inflow of the Bering Summer Water generates mesoscale eddies around the Barrow canyon.
Strong velocity shear accompanied with the mesoscale eddies plays an important role of the mixing between the Bering
Summer Water and the Cold Halocline Water. Therefore, the characteristic of the Cold Halocline water becomes fresher and warmer due to the mixing with the Bering Summer Water, especially in late summer and early autumn. On the
other hands, the upwelling of the Atlantic Water, which is accompanied with westward wind, is also important to modification processes of the Cold Halocline Water. Strong shear variance is found in and after the period of the upwelling
of the Atlantic Water. It means that the generation and breaking of internal wave promote the mixing of the Cold
Halocline Water with the Atlantic Water. Particularly in late winter and spring, the characteristics of the Cold
Halocline Water are modified into warmer and saltier.
Keywords : Beaufort Sea, shelf break, cold halocline, diapycnal mixing
*1
*2
海洋科学技術センター海洋観測研究部
Ocean Observation and Research Department, Japan Marine Science and Technology Center
37
1. はじめに
北極海成層構造の特徴の一つとして,冷たい塩分躍層
の存在が挙げられる。冷たい塩分躍層は北極海全体に広
く分布しており,北極海の太平洋側では水深50∼200mに
存在し,
ほぼ結氷温度の温度極小によって特徴づけられる。
この層の水塊は,冬季の大気からの冷却と海氷生成に伴
うブラインの排出によって作られると考えられており,低塩
分の表層水と,相対的に温かく塩分の高い大西洋水の間
にあって,大西洋水層から表層への熱の輸送を妨げ,また
表層の混合層の発達を妨げるなど,北極海での熱輸送に
重要な役割を果たしている。
しかし近年,特に大西洋側では,この冷たい塩分躍層の
厚さが薄くなる,もしくは塩分躍層自体が消滅しているなど
の報告(Steele and Boyd, 19981)など)があり,最近の気候変
動の様子を示すものとして考えられるとともに,大気循環場
や海氷分布・厚さの変化などへの影響が懸念されるように
なった。太平洋側においても,これまでの20年近くの現場
観測の結果から冷たい塩分躍層の水温が上昇していると
の報告(Melling, 19982))がある。これらの変動は,大気循
環場の変動などと結び付けられて考えられることが多い
が,厳密な意味でこれらの水温変動・水塊変質がどのよう
な過程を経て起きているのかを十分に調べられた結果は,
まだ示されていない。
そこで本研究では,北極海に特徴的な冷たい塩分躍層
の変質過程を明らかにすることを目的としている。特に陸
棚斜面上での内部波による水塊混合に注目し,現場観測の
結果や係留系による通年観測の結果を用いて水塊混合過
程を調べる。2節では,ここで用いた現場観測及び係留観
測データについて説明する。3節では,ボーフォート海陸棚
斜面域での成層構造・流れの構造を示し,4節ではアラス
カ沖ボーフォート海に設置された係留系のデータから通年
観測の結果を示す。最後の節で,まとめと議論をする。
2. データ
図1は,本研究で用いている観測データの観測地点を示
す。図1の中の赤と緑の点と線は,1999年に行われた海洋
地球研究船「みらい」の北極観測航海(MR99-K05)での
CTD観測点を示している。青色のハッチがついている部分
は,9月21日の海氷域を示している。海洋地球観測船「みら
い」による1999年の北極海域での観測は9月13日にベーリン
図1 海洋地球研究船「みらい」1999年北極海域観測航海CTD観測地点及びBFK-98係留系設置地点図。青色の部分は,1999年9月21日に海
氷が存在した領域を示す。
Fig. 1 Map of CTD stations in the 1999 Arctic cruise of R/V Mirai (MR99-K05) and the mooring position of BFK-98. Blue-hatched area shows sea
ice region in September 21st, 2000.
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JAMSTECR, 43(2001)
グ海峡を通過して北極海に入ってから9月23日に再びベー
リング海峡を通って北極海を出るまでの11日間に行われ
た。その中でCTD・採水観測は,図1に示す42点で行われ
たが,ここでは緑色で示したボーフォート海陸棚斜面域で
の観測(A99-020∼043)での観測データを用いる。この区
間では,陸棚斜面域で起きる表層水から大西洋水までの物
理 現 象 を 捕 えることが できるように ,水 深 が 5 0 0 m から
1000mの地点を選んでCTD観測を行った。またMR99-K05
観測航海期間中を通して,船舶搭載型ADCP(音響式流向
流 速 計 )による海 洋 流 速 場 の 連 続 観 測 を 行 った 。この
ADCPによる連続観測では,陸棚斜面上の詳しい流れの構
造を明らかにするため,8m間隔40層
(水深22.85∼334.85m)
という設定をしていた。絶対流速を求めるために十分に注
意深くデータ処理を行ったのだが船速補正による誤差の影
響を必要な精度まで除去することができなかったため,こ
こでは302.85mの深さで測定された流速に対する相対速度
を用いて上層300m(水深38.85∼302.85mの間)
の流速場を
調べた。
図1の星印で示された場所は,1998年7月から1999年10
月まで観測が行われた係留系BFK-98の設置地点(北緯71
度23.4分,西経152度05.1分,水深128m)
を示している。こ
の係留系は,アラスカ沖ボーフォート海陸棚斜面域における
流速場の変動及び陸棚斜面域と深海盆間の水塊交換過程
を明らかにするために,ワシントン大学応用物理学研究所
(APL/UW),アラスカ大学フェアバンクス校海洋科学研究所
(IMS/UAF)
,カナダ水産海洋省海洋科学研究所
(IOS/DFO)
と合同で実施された係留系観測の中のものである。この国
際協同係留観測では,アラスカ・プルドベイ沖(西経146度付
近)
に等深線を横切る形で4系の係留系を,またその東西
に1系ずつの係留系を設置し,流れの構造や波の伝播など
を調べている。この中でBFK-98は西経152度付近に設置
され,流れの観測を行うとともに,大陸棚と深海盆間の水塊
交換に伴う混合過程を明らかにすることも,その目的の一
つとした。表1では,BFK-98の構成と観測期間を示してい
る。77m深のNB-ADCP 600kHzは下向き配置され,4m厚で
12層(水深82mから126mまで)の流向・流速を測定してい
る。また4つのRCMは流向・流速とともに,水温・電気伝導
度・圧力を測定している。これらの結果から,海底上約
50mの水温・塩分・流れの構造を知ることができる。
表1 BFK98の構成および観測期間
Table 1 Mooring detail of BFK-98 (71゜
23.4'N, 152゜
05.1'W)
Depth (m)
Instrument
Time period
72
(56)
77
(51) NB-ADCP 600kHz July 21st, 1998, to October 10th, 1999
RCM-7
July 21st, 1998, to October 1st, 1999
103
(25)
RCM-8
July 21st, 1998, to August 19th, 1999
116
(12)
RCM-9
July 21st, 1998, to August 1st, 1999
123
( 5)
RCM-9
July 21st, 1998, to August 1st, 1999
* The figures between brackets show the distances from sea floor.
JAMSTECR, 43(2001)
3. ボーフォート海陸棚斜面域での「みらい」による観測
(MR99-K05)
の結果
まず成層構造と水塊混合過程の空間分布と,陸棚斜面
上で起きている物理現象を調べるために,1999年の海洋
地球研究船「みらい」の北極航海(MR99-K05)で行われた
CTDと船舶搭載型ADCPによる観測結果を示す。図2(a)
は
ボーフォート海西部陸棚斜面域(西経161度40分から150度
まで)での水温の鉛直断面を示す。図中の等値線は塩分の
分布を表している。ここでは,まず北極海に一般的な成層
図2 海洋地球研究船「みらい」で観測されたボーフォート海陸棚
斜面上での,
(a)水温,
(b)岸に沿う方向の流速(岸を右に見
る方向が正)
,
(c)岸に直行する方向の流速(岸から離れる方
向が正)の東西断面図。観測地点は,図1の緑色の点と線で
示す。図中の等値線は塩分の鉛直断面を示す。等値線間隔
は,
(a)
は0.2psu,
(b)
と
(c)
は0.1psuである。ここで示す流速は,
深さ302.85mに対する相対流速である。
Fig. 2 Vertical sections of (a) temperature, (b) along-shelf velocity,
and (c) across-shelf velocity observed in the 1999 Arctic
cruise of R/V Mirai (MR99-K05). CTD stations used in the
figures are shown by green dots-and-lines in Figure 1.
Vertical salinity distributions are also shown by counter lines
in each Figure. Counter intervals are 0.2psu in (a) and 0.1 psu
in (b) and (c). Note that the velocities shown in (b) and (c)
are relative velocities referred to 302.85 m depth.
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構造が見てとれる。表層20m付近までには河川水や海氷融
解水を起源に持つ低塩分の水塊が存在する。特に氷縁域
に近かった西経160度付近(図1参照)では,表面の塩分は
26psu近くにまで達していた。亜表層(30∼60m付近)
にはと
ころどころに水温極大となる暖かい水が存在する。特に,
バロー海底谷以東(Stn.34より東)
にパッチ状に顕著な水温
極大が存在し,最も水温が高い値としては+5.5度にまでな
るものがあった。これらの水塊は,ベーリング海に起源をも
つ夏季ベーリング海水だと考えられる。
その下層(50∼250m付近)
には,塩分33.1psu付近に中心
を持つ冷たい塩分躍層が存在する。水温極小の値は,平均
して-1.55度である。その起源が冬季の冷却と海氷生成に伴
うブライン排出にあると考えれば,その水温は結氷温度付近
を示すべきである。しかし陸棚斜面域での何らかの混合過
程により他の水塊と混合して,その水温が上昇したものと考
えられる。冷たい塩分躍層の下には,水深400m付近の温度
極大により特徴づけられる大西洋水の層が存在する。今回
の観測では,大西洋水の中心の水温は約0.9度から約0.5度
まで西から東に進むにつれて変化する。これは西側が大西
洋水の流れの上流となっており,陸棚斜面を東に進むにつれ
て,水塊混合が進み,徐々に水温が減少したためと考えられ
る。この大西洋水の水温低下や,冷たい塩分躍層の水温上
昇と関係があると考えられるものが,
大西洋水の湧昇である。
水温・塩分の鉛直断面から,Stn. 24, 29, 36付近で密度面(等
塩分面)
が上昇していることがわかる。
図2(b)
(c)
は,それぞれADCPで観測された岸に沿う方
向(東向きが正)
・横切る方向(沖向きが正)の流速分布を
示している。図2( a)同様に,図中の等値線は塩分の分布
を示す。バロー海底谷以東(Stn.34以東)では東向きの流れ
が卓越している。これはアラスカ沿岸に沿った夏季ベーリ
ング海水の流れを捉えたものと考えられる。しかし,その
流れは空間的に一様ではない。これは,図2(a)でも見られ
たように夏季ベーリング海水の水塊は陸棚斜面上に一様に
存在するわけではなく,パッチ状に存在することと一致する。
つまり,ボーフォート海に流れてきた夏季ベーリング海水は
一様に岸に沿って流入するのではなく,バロー海底谷付近
で中規模渦を形成するなどして流入することが推測される。
Stn. 24, 29, 36付近で見られる大西洋水の湧昇に対して
も,それに対応した流れの構造が見られる。図2(c)
を見る
と,大西洋水の湧昇に伴った上に凸な密度(塩分)構造に
対応して,西側の岸に向かう流れと東側の沖に向かう流れ
があることがわかる。大西洋水の湧昇に伴って渦状の流れ
が作られている。
図2の見られるような成層・流動構造において,どのよう
に水塊混合が起きているのかを調べるために,ADCPと
CTDのデータからそれぞれShear variance(Sh 2)
とBrunt
2
Vaisala frequency(N )
を計算した。それぞれの値は,
∂u
∂v
g ∂ρ
2
Sh =
+
,N=
ρ 0 ∂z
∂z
∂z
2
2
2
( ) ( )
2
( )
として定義される。成層流体中のshear flowの力学的安定
40
性に対するパラメーターとしては,N 2とSh 2の比として定義さ
れるリチャードソン数(Ri = N 2 / Sh 2)がよく用いられる。一
般的に,Riが大きければ力学的に安定で,小さな値を取れ
ば不安定となり得る。これまでの理論的研究及び観測によ
る研究から,Ri∼0.25を境としてKelvin-Helmholtz不安定
(Turner, 1973 3))が,Ri∼1.0を目安に内部波による混合
(diapycnal mixing)が起きる
(Orlanski and Bryan, 1969 4))
と
考えられている。つまり,Sh 2とN 2との分布を比較し,Sh 2が
N 2と同等かそれ以上であるかを調べることで,内部波によ
る密度面を越える水塊混合が生じているかどうかを知るこ
とができる。
図3は,ボーフォート海陸棚斜面域での(a)Sh 2と
(b)N 2の
鉛直断面図を示す。図2と同様に,図中の等値線は塩分の
鉛直断面を表している。図3(a)からSh 2が高い値を示すの
は,大西洋水が湧昇している付近と,図2(a)で夏季ベーリ
ング海水が見られた場所であることがわかる。大西洋水が
湧昇しているところ
(Stn. 24, 29付近)
では,冷たい塩分躍層
と大西洋水の間でSh 2が高い値を持っており,これらの値は
図3(b)で示すN 2の値と比較しても同程度であることがわか
る。つまり湧昇が起きるところでは,内部波による水塊混合
が盛んに行われ,大西洋水から冷たい塩分躍層への熱・塩
の輸送が行われていることが示唆される。また,夏季ベー
リング海水がパッチ状に見られたStn.34よりも東の海域で
は,冷たい塩分躍層とその上層との間でSh 2がN 2と比較し
ても同程度かそれ以上の値を示していることがわかる。こ
のことから,夏季ベーリング海水が中規模渦を形成するな
図3
ボーフォート海陸棚斜面上での,
(a)Shear variance,
(b)BruntVaisala frequency
Fig. 3 Vertical sections of (a) shear variance and (b) Brunt-Vaisala
frequency observed in the 1999 Arctic cruise of R/V Mirai
(MR99-K05). Vertical salinity distributions are also shown
by counter lines in each Figure. Counter intervals are 0.1 psu.
JAMSTECR, 43(2001)
どして流入してくることで,冷たい塩分躍層との間で強いシ
アを生じて,密度面を横切る混合が起きるものと考えられ
る。このように陸棚斜面上での水塊混合過程は全体に一様
に起きているわけではなく,湧昇や中規模渦の形成などの
アクティブな物理過程が起きているところで盛んに行われて
いることがわかる。これまでは,数少ない結果を用いて,
その値に面積や時間をかけることで全体量を評価していた
が,空間及び時間分布に大きな変動があることが,この結
果から示唆される。
4. 係留系BFK-98による観測結果
続いてボーフォート海陸棚斜面上水深128mに設置した係
留系BFK-98による通年観測により,ボーフォート塊大陸棚上
の水塊変質過程の時間変化を調べる。図4(a)
と
(b)
は,そ
れぞれ72m, 115mに配置したRCMで観測した水温・塩分の
時間変化を示す。便宜上,図中の塩分の値は観測値から30
を引いた値を示している。冷たい塩分躍層の水塊は,冬季
に大気からの冷却・海氷の生成により形成される。図4(a)
と
(b)
からは,約360日目にほぼ結氷温度に達し,その後しば
らくこの性質を保っていることから,12月から1月にかけて生
成されて陸棚斜面域に流れていることがわかる。このことは
1ヵ月毎の水温-塩分図を見ることでも確認できる。この冬の
ボーフォート海陸棚斜面域に見られた冷たい塩分躍層の水
塊は,水温が約-1.8度,塩分が約32.9psuであった。
図4(a)
と
(b)
を見ると,この冷たい塩分躍層の水塊以外
の性質をもつ水が陸棚斜面上に現れていることがわかる。
これらの水塊は,2つにまとめることができる。ひとつは,高
温で低塩分の水塊(水温と塩分が逆相関を示す)で,およ
そ230, 270, 580, 630日目の夏から初秋にかけて見られる。
この水塊はその水温・塩分から夏季ベーリング海水に相当
すると考えられ,この水塊が見られた後の冷たい塩分躍層
の水温はわずかながら高くなっている。もうひとつは,高温
で高塩分の水塊(水温と塩分が順相関を示す)で,290,
330, 380, 460, 485日目に見られる。これは大西洋水が湧昇
したものと考えられる。大西洋水の湧昇に伴って,冷たい
塩分躍層の水温は上昇しており,特に450日目から500日目に
かけて続く湧昇ではその前後で水温が-1.8度から-1.5度ま
で上昇していた。またこの水温上昇は,大西洋水の湧昇が
顕著には見えない72m深のデータ
(図4(a))からも見られ,
湧昇に伴って大西洋水から冷たい塩分躍層に熱が供給さ
れたことを示している。
図4(c)
は,ECMWFの風データから計算した風応力の東
西成分の時間変化を示している。ここでは正の値が東向き
の風応力が働いていることを表す。夏季ベーリング海水の
図4
BFK-98設置地点でのBFK-98で得られた
(a)72m深と
(b)115m深での水温・塩分の時間変化と,同じ地点での
(c)ECMWF風応力データの東西成分。
Fig. 4 Time series of (a) temperature and salinity at a depth of 72m, (b) temperature and salinity at a depth of 115m, and
(c) ECMWF zonal wind stress.
JAMSTECR, 43(2001)
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到来や大西洋水の湧昇と風応力のデータを比較すると,夏
季ベーリング海水の到来とは特に相関はない。しかし,大西
洋水の湧昇に対しては,西向きの風応力が強まると高温・高
塩分の水塊が下層に現れるという有意な相関が見られるこ
とが,図4(b)
と
(c)
を比較することでよくわかる。流向・流速
データから,係留計が設置されたどの深さにおいても平均的
には岸を右に見た方向(方位角で約100度の方向)
をもつ流
れがあることがわかる。しかし,西向き
(岸を左に見る方向)
の風が強くなると,湧昇と共に西向きの流れが強くなってい
る結果が見られた。このことから,ボーフォート海陸棚斜面
域では西向きの風が強まることで湧昇が起きて密度面が上
昇し西向きの流れが強まることがわかる。
図5は,西向きの風が強まり大西洋水の湧昇の影響が最
も強く見られたと考えられる4月20日
(図4での476日目)から5
月10日
(495日目)
までの水温と流れの時間変化を示す。この
期間に見られる大西洋水の湧昇を経て,そのために冷た
い塩分躍層の水温は-1.8度から-1.5度に塩分が32.0psuから
32.8psuに上昇する
(図4(a)
(b)
,
)。これらは大西洋水からの
熱・塩のフラックスによるものと考えられる。図5は,湧昇が
見られる期間に上層では西向きの強い流れが起きている
こと,そして冷たい塩分躍層と大西洋水の間に強いシアが
生じていることを示している。前章に示した現場観測の結
果と同様に,ここでは湧昇に伴う強いシアがあり,密度面
を越える混合が起きていることが示唆される。このことが
湧昇前後での冷たい塩分躍層の水温・塩分の変化に大き
な役割を果たしている。
5. まとめと議論
海洋地球研究船「みらい」による現場観測及び係留系
BFK-98による通年観測の結果を用いて,ボーフォート海陸
棚斜面上での冷たい塩分躍層の変質過程を調べた。冬季
の大気からの冷却と海氷生成に伴うブラインの排出で生成
される冷たい塩分躍層は,暖かく低塩分な夏季ベーリング
海水の流入や,西向きの風によって起こされる暖かく高塩
分の大西洋水の湧昇により,その水塊特性を変質させられ
ることがわかった。夏季ベーリング海水はボーフォート海に
流入する際に渦状となり,その流れに伴う強いシアにより
冷たい塩分躍層の水塊と混合する。このような現象は,夏
季ベーリング海水がボーフォート海に流入してくる晩夏から
秋にかけて,散発的に見られる。一方,大西洋水の湧昇は
西向きの風が強化されることで起きる。湧昇が起きること
で陸棚斜面上においては冷たい塩分躍層と大西洋水の間
に内部波による混合が生じて,大西洋水から冷たい塩分躍
層の水塊へと熱・塩が輸送されることがわかった。
ここでは内部波による密度面を越える混合が行われて
いるかどうかを,成層度と流速シアを比較することで検討
した。乱流拡散による密度面を越える混合による熱・塩の
輸送を定量的に評価するためには,密度面を越える混合
のパラメーター化が必要である。Osborn(1980)5)は,密度
面を越える混合のパラメーター
(diapycnal diffusivity, Κ)
を,
dissipation rate ε と buoyancy frequency Ν によって,
K=0.2
ε
N
2
として示した。ε を直接測定するためにはより細かいスケー
ルの流速シアを測定できる観測機器が必要で,簡単なこと
ではない。故に上記の式を用いたパラメーター化には特別
な観測が必要となってくる。しかしながら,密度面を越える
混合は最終的には流速シアにより生じていると考えられるた
め,
ε も流速シアを用いた形で示すことができるはずである。
Gregg(1989)6)はそのような関係を調べ,
4
K=0.5×10
–5
S 10
N
4
(S10は10m以上の鉛直波長を持つ流速シア)
としてパラメー
ター化できることを示した。この結果を用いると,XCPや
ADCPを用いた流れの観測とCTDによる海洋構造の観測
を合わせることにより密度面を横切る混合の評価を行うこ
図5
BFK-98で観測された1999年4月21日から5月10日までの水温・流動構造の時間変化。矢印が流向・流速を
示し,色が水温を示す。
Fig. 5 Time-series of vertical structures of temperature (color) and velocity vector (arrows) from April 21st to May
10th, 2000 observed by BFK-98.
42
JAMSTECR, 43(2001)
とが可能となる。
これまで北極海域で上記の関係式を用いて密度面を越
える混合を調べた研究は,現場観測やブイによる観測など
の結果を用いていくつか行われてきた。例えば,D'Asaro
and Morison(1992)7)では,ナンセン海盆からフラム海峡に
かけての北極海大西洋側において,CTD観測と流向流速
計による観測観測からdiapycnal diffusivityを見積もり,海嶺
などの海底地形の変化が激しいところで密度面混合が盛
んに行われることを示している。
今回の「みらい」での現場観測及び係留系による通年観
測の結果にもこの関係式を適応することで,ボーフォート海
陸棚斜面上での密度面を横切る混合の空間分布・時間変
化を求めることができる。本稿では定性的な話のみを行っ
たが,その結果から中規模渦の形成や風の循環場の変化
に伴う湧昇など様々な物理現象に伴いより強い水塊混合が
進むことが予想された。今後は,まず今回のデータに関し
て水塊変質に関わる密度面を超える混合を定量的に見積
もる必 要 が ある。また ,今 後 の 観 測 に おいてもC T D や
ADCPなどを用いた観測を行い,物理過程に対応した水塊
混合及びこれらの海域での熱輸送過程を明らかにするべ
きだと考えられる。
謝辞
本研究で用いたデータは,海洋地球研究船「みらい」の
1999年北極観測航海(MR99-K05)
と,カナダ沿岸警備隊所
属Sir Wilfred Laurier号の航海により得られました。ここに,
JAMSTECR, 43(2001)
ご協力を頂いた乗務員並びに研究者・観測技術員の皆さ
んに,厚くお礼申し上げます。
引用文献
1)M. Steele and T. Boyd, "Retreat of the cold halocline layer
in the Arctic Ocean," J. Geophys. Res., 103, 10,419-10,435
(1998).
2)H. Melling, "Hydrographic changes in the Canadian Basin
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(原稿受理:2001年1月31日)
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