シンビオティック情報システム - 情報処理学会 情報基礎とアクセス技術

シンビオティック情報システム(
シンビオティック情報システム(SIS)の概念と応用
SIS)の概念と応用
− 人と情報システムの自然な共生を求めて −
上野晴樹
国立情報学研究所 知能システム研究系
E-mail [email protected]
あらまし シンビオシスとは、組織(システム)の構成単位が夫々自律性を持ち、かつお互いの立場を尊重し、
協調してコミュニティを構成している状態をいい、これに基づいて形成されたコミュニティをシンビオティッ
ク・コミュニティと呼ぶ。シンビオティック情報システム(SIS)とは、人を含む情報システムがシンビオシス
の概念によって構成されているものである。真の高度情報社会においては、すべての人々が先端情報システム
によって管理・提供されている情報を活用する“権利がある”。このような目標を達成するには、特別の訓練を
必要とせず、誰もが使える情報システムの実現が不可欠である。それには、人を訓練する代わりに、コンピュ
ータや情報システムの方を訓練するという発想が必要である。本論文は、NII で現在進行中の COE プロジェク
トである SIS の研究に関して、SIS の概念、背景、研究課題、事例および研究の進め方について議論する。ま
た、特にロボットへの応用に関して考察する。
キーワード シンビオティック情報システム、シンビオシス、情報社会、ヒューマンインタフェース
人工知能、知能ロボット
Concepts of Symbiotic Information Systems and Applications
- Towards an Natural Symbiosis of Human-Beings and Information Systems Haruki Ueno
Intelligent Systems Division
National Institute of Informatics
[email protected]
Abstract Symbiosis is a situation of a system in which every element has its own autonomy and
constitute a collaborative community. This type of a community is called a symbiotic community. A
Symbiotic Information System (SIS) is an information system that includes human beings as elements
and is designed based on the concept of symbiosis. In an advanced information society the citizens have
rights of using the information that is maintained with advanced information technologies. In order to
achieve this goal, ordinary citizen must be allowed to use advanced information systems without any
specific training. To realize this situation the information systems should be trained instead of training
human beings. This is a concept of AI research in principle. This paper discusses the concept of SIS, its
background and motivations, study items, goals, case studies, and the way of research, in terms of ongoing COE project on SIS at NII. Symbiotic robotics research is discussed as an example of Applications.
Keywards symbiotic information system, symbiosis, information-based society, human interface,
Artificial intelligence, intelligent robot
1
1 はじめに
に取り組んでいるが、これは、情報システムあるいは
情報環境が人々の生活の中に溶け込んでいる状況を理
想的目標とする研究課題として提案するものである
[9,10]。これはまた、賢いコンピュータを造るという
点で、AI のメインテーマでもある。
ただし、次の点は強調しておきたい。現在までに SIS
の研究が行われていないから我々が行っているという
とわけではなく、むしろ方々で行われており、行われ
て来たと言える。人間機械協調システム、使いやすい
コンピュータ、様々な知的ヒューマンインタフェース、
自然言語による音声対話システム、知的情報検索シス
テム、などの研究はこの例の一部である。しかし未だ
成果は不充分である。多くのコンピュータ嫌いを振り
向かせるには程遠い。ディジタルディバイドは、情報
化が進んでいなかったこれまでは余り重要な問題では
なかったが、これからは極めて重要な課題となること
は方々で指摘されているとおりである。我々が改めて
SIS を提案する理由は、これらの関連研究に統一的な
概念と長期的目標を与え、理論と技術開発の方向付け
を明確化することである。
IT 研究には社会の要望に応えるというスタンスが
不可欠であるが、SIS の研究には特に社会との関係を
重視する取り組み方が必要である。一般論として、我
が国の IT 研究者には、流行の研究テーマは見えても
このような社会的テーマは良く見えないように思われ
る。論文や研究コミュニティ内での議論等から得られ
るヒントは限られており、社会との交流から研究目標
や研究テーマを探すという思考が必要であると思う。
ここでは、人々の日常生活や産業に根ざした高度情
報社会を実現するために不可欠の研究課題である SIS
の研究に関して色々と考察してみる。ただし、明確な
答えを与えるものではなく、問題提起と研究の啓蒙が
主たる目的である。後半では、COE プロジェクトの
サブプロジェクトである共生型ロボットの研究に関連
して、SIS のロボット応用について議論している。
最近の情報技術(IT)の進歩・発展は目覚しいも
のがあり、社会の仕組みを大きく変革しつつあること
は誰もが認めるところである。情報のディジタル化に
よって通信と放送が融合するという指摘は以前からあ
ったが、現実に Internet の普及に伴う情報システム
のグローバル化が進んでくると、情報に関連する融合
は通信と放送に止まらず、出版、報道、生産、流通、
行政、教育、生活、福祉など、社会のあらゆる情報関
連活動の融合を促進していることが明らかとなってき
た。現在の銅線を使った通信システムでも有用性は高
いが、光ファイバを使った超高速有線通信網と次世代
無線通信が実現されると、高品質のブロードバンド
Internet によって実用性は更に高くなり、少なくと
も情報通信インフラのハード面での高度情報化が大幅
に促進されることは確実である。
一方、21 世紀の高度情報化社会では、一般家庭に
先端 IT が入り込み、普通の人々が居ながらにして様々
な情報サービスを受けられるという状況が目標となっ
ている。つまり、“誰でも、いつでも、どこでも”型
情報環境である。しかしながら、ハード面での急速な
進歩に(広義の)ソフトの進歩が追いつかないのは今
更分析するまでもなく、歴史が証明している。法制度
の整備の問題も大きいが、人々が新しい技術を使いこ
なし、慣れるのにはかなりな時間を必要とする。伝統
文化と技術文明のギャップの解消にはそれなりの手順
が必要である。
一般論として、これまでの様々な技術の発展・普及
を振り返ってみると、大目ね3つの段階を経ることが
明らかである。すなわち、第 1 段階では、研究者や
開発者などごく限られた人だけが使え、次の第 2 段
階では特別の訓練を受けた人々が使えるようになり、
成熟した第 3 段階になると、誰もが特別の意識をし
ないで自然に利用するという状況になる。電話やカメ
ラは成熟した第 3 段階の技術の例である。
パソコンや Internet に代表される IT は、第2段階
に入っているが、第3段階には未だ入っていない。IT
教育や IT 講習会に国家が取り組むということは、と
りもなおさず技術が未成熟であるという証左である。
Windows OS とインターネットブラウザの出現によ
って IT が身近になったことは事実であるが、理想的
目標からは遥かに遠い。所謂“パソコン嫌い”は我が
国で約 6 割といわれるが、これを解決するには、人
を教育・訓練する代わりに、“コンピュータ・情報シ
ステムを教育・訓練する”という発想が必要であると
思う。言いかえると“賢い情報システム”、更には“賢
い情報環境”の研究・開発が不可欠である。しかも妥
当なコストで入手できるものを。
NII では、平成12 年度から COE プロジェクトの
テーマとして、シンビオティック情報システム
(Symbiotic Information System: SIS)の研究開発
2 SIS
2 SIS とは
シンビオティック情報システム(SIS)とは、人と
情報システムが自然な形で共存するという意味であり、
生物学上の symbiosis(共生)からヒントを得ている
ので、ある程度概念的な関係があるとはいえ、強く意
識しているわけではない。参考までに、symbiosis は
共生と訳されているが、
Websters によると(著者和訳)、
symbiosis: (生物学上の用語であり)種の異なっ
た生物がお互いに友好的に生息していること
を言い、特に、相互に利益を得ている状態を
指す。寄生(parasitism)と区別する意味で
使われる。
一方、広辞苑によると、
2
共生(symbiosis):種の異なった 2 種の動物が共存
し、互いに利益を得る状態。例:ヤドカリと
イソギンチャク。
寄生(parasitism):種の異なった 2 種の動物が共
存し、片方が別の方から一方的に利益を得る
状態。例:寄生虫。
米ではロボットはあくまでマシンであり、殺人兵器に
使うという傾向が強く感じられる。技術研究と伝統文
化は深く関わっていると思われるので、わが国独自の
思想に基づく独創的 IT 研究にとって、シンビオシス
を意識することは重要である。
さて、ここではシンビオシスを次のように定義して
議論を進めたい。
最近ではより広い意味で使われる用になっている。幾
つかの例を挙げると(著者が使っている事例を除く)
:
“International Workshop on Biorobotics: HumanRobot Symbiosis, May, 1995, Tsukuba” 。 こ れ は
Elsevior から Robotics and Autonomous Systems 18
として出版されている[1]。人を助けたり、人の作業
を助ける、サービスロボットに関する研究の方向付け
に関する議論を行う国際会議として企画された。人と
ロボットとのシンビオシスが主題であった。
“James Flanagan, Knowledge Creation – The
Symbiotic partnership of University, Government
and Industry, Proc. Information Environment and
International Cooperation for the 21st Century,
2000.”[2]。大学における IT 研究に関する産学共同研
究の推進方策と Rutgers 大学 CAIP プロジェクトの
事例の報告。知的インタフェース(注:著者はナチュ
ラルインタフェースと呼んでいる)に関する研究プロ
ジェクトの産学共同プロジェクトの事例を基にした知
識創造に関する議論であるが、大学と政府と企業との
シンビオシスとしての共同研究の役割と適切な運営法
の提案が主題であった。
これらはいずれも本来の生物学的意味とは多少異な
っているが、ニュアンスは維持されている。前者は、
人とロボットが生活空間で自然な形で共存することを
目指し、後者は、大学と企業が IT 基礎研究の領域で
夫々の特徴を生かして協力し、お互いに利益を得るた
めの共存の仕組みを目指している。前者が、ロボット
が擬似生命体であるという意味では本来の意味に近く、
後者は、法人同士の共存という意味で、無理な解釈と
は言えない。主張の意 図は、 例えば 、”universityenterprise collaboration”よりは説得力がある。
ついでに、我が国では最近、“共生”という用語が
新聞紙上等に比較的頻繁に現れるようになっている。
例えば、人と自然の共生、などと。これに関しては、
西洋と日本では異なっているようであり、興味深い。
すなわち、欧米では自然の保護(protect)というよ
うに、自然は共生よりも保護の対象と言う考え方が一
般的であるようである。世界が八百万の神々によって
作られ秩序が保たれているという思想の多宗教社会
(日本)と、唯一神が世界を創造し秩序が維持されて
おり人がその中心に在るという宗教感が基盤となった
一神教社会(欧米)の違いであるように思われる。こ
の違いは我が国独自の概念に基づく IT 研究の概念形
成に重要な役割を持つと考えられる。たとえば、わが
国ではロボットに人のような心情を感じる傾向があり、
人とロボットの共生という概念に違和感が無いが、欧
3
「シンビオシスとは、組織(システム)の構成単位が
夫々自律性を持ち、かつお互いの立場を尊重し、協調
してコミュニティを構成している状態。」で、これに
基づいて形成されたコミュニティをシンビオティッ
ク・コミュニティと呼ぶこととする。
「シンビオティッ
ク情報システム(SIS)とは、人を含む情報システム
がシンビオシスの概念によって構成されている情報シ
ステム」である。
SIS の 構 成 単位 と は、 一般 論 と し て は “自 律 性
(autonomy)を持つモジュール”であり、大きく分
けると人(ユーザ)と情報システムである。情報システ
ムの構成単位は、分類の仕方にもよるが、例えば、ヒ
ューマンインタフェース、オペレーティングシステム、
アプリケーションソフト、情報通信ネットワーク、デ
ータベース管理システム、及びコンテンツなどである。
いずれも自律性を持つようにモデリング可能な構成要
素(講義のエージェント)である。これらを更に分割
することも当然可能であり、(知的)ヒューマンインタ
フェースは複数の知能エージェント(やプログラムエ
ージェント)で構成されるのが妥当である。
ここでの議論の視点は、細かな技術論ではなく、人
と情報システムのあるべき関係、誰にも使いやすい情
報システム、人と情報システムの好ましい協調関係、
人を助ける情報システム、などである。あるいは、
「賢
い情報システム」の実現が長期的目標であるというこ
とができる。我々は未だこの種の設問に答えられるよ
うなパラダイムを持っていない。従って、SIS の研究
では、概念形成、モデリング、理論、手法、技術開発、
フィージビリティスタディを総合的に行う必要がある。
3 なぜ SIS か
21 世紀は高度情報社会であるといわれるが、その
ための情報科学からのパラダイムは未だ明らかではな
い。しかし、少なくとも、高度情報社会においては社
会を構成するあらゆる人々が先端の情報サービスの恩
恵を受ける“権利”があり、人、機械・システム、情
報環境が自然な形で共存(共生)する枠組みが不可欠
である。特に、人間の伝統文化と尊厳を尊重する枠組
みが基礎となるべきであるが、現在の情報システムは
特別の教育・訓練を受けた人々のためのものであり、
いわゆる情報弱者を生んでいる。これは、パラダイム
と技術の未熟によるものであり、根本的な解決が不可
欠であると考えるのが妥当である。
例えば、80 年前後のパソコンの出現はコンピュー
タ 資 源 を 個 人 所 有 に 変 え 、 95 年 に 提 供 さ れ た
Windows95 は、それまでの専門家やマニア向けとい
うコンピュータユーザのイメージに変革を与え、IT
の大衆化を促進した。また、グーテンベルグの活版印
刷には及ばないものの、ワープロは文字文明に革命を
もたらし、Internet の出現とともに“誰もが出版社”
となれるようになってしまった。この種のことは、数
え上げるときりがない。更に、Internet は世界規模
であらゆるジャンルの情報へ家庭に居てアクセスでき、
e-コマースはビジネスの形態を根本的に変えてしまい
商品の提供者と消費者の関係が様変わりしたといえる。
しかし、それでもこれらの情報技術を活用できる人は
未だ限定されており、その解決は国家的課題となって
いる。情報システムの利用者が限定されている状況下
では、如何に社会制度を整備し、情報サービスシステ
ムを完備しても、情報環境を基盤とした情報化生活を
実現することは出来ない。
“誰もが、いつでも、どこでも”利用できる情報環
境とは、老若男女、学歴不問、健常者も障害者も、違
和感無く利用できる情報環境であり、21 世紀の高度
情報社会の実現にとって不可欠な社会インフラとなら
なければならないものである。これらは、特別な教育
によって達成するのではなく、教育不要のシステムで
ある必要がある。子供は子供なりに、中学生は中学生
なりに、専門家は専門家としての要求に応じられるよ
うに、障害者にはそのハンデを補うように、情報サー
ビスが提供されることが重要である。最も重要なこと
は、日常生活の必要なレベルの情報サービスには、特
別な訓練や知識を出来るだけ不要とすることである。
表現をかえると、繰り返すが、これは、“人を訓練す
る代わりにコンピュータを訓練する”ことである。技
術を意識しないで誰もが使えるためには、技術の高度
化が不可欠である。いわゆる、賢いコンピュータ、賢
い情報システムの開発と提供が不可欠である。このよ
うな状況を実現するための努力の先の方に SIS があ
ると言える。
もう一つ重要なことがある。SIS は必ずしも高度な
技術を必要とするわけではない。目的や内容によって
は既に存在している技術で十分である場合が少なくな
い。目的や必要とされる機能が分からないために実現
されていないことの方が多いであろう。分かってしま
えば“何だ”ということになる。これを裏付ける事例
は“i-mode”の様にいくらでも存在する。ソフトウ
エアに限らず、新製品は一般に「見せるだけで技術が
分かる」といわれ、IT 研究機関では研究・開発室の機
密管理が厳格である。一方、目標が分かっていても達
成が困難な技術テーマもある。たとえば、人には何で
もないことであるが、ガラスのコップを認識できるロ
ボットビジョンは実現されていない。また、パーティ
会場では一般に騒音に音声がかき消されて聞き取りに
くいが、注目した人物の声は聞き分けることが可能で
4
ある。このような、注視点に基づく音声認識技術も実
現されていない。これは“カクテルパーティ効果”と
呼ばれる有名な問題である。意識の制御が視覚や聴覚
に重要な識別能力をもたらすが、機械化の困難な課題
の例である。
しかしいずれの場合にも、適切な研究目標や研究テ
ーマの設定は本質的に重要である。目標がどこから来
るかについては既に論じているので省略するが[3]、IT
の分野では日常生活を研究者の眼で注意深く観察する
ことが最も有効・適切な手段であると思う。これには、
要素テーマに関する理論や実験にとどまらず、実験シ
ステム、プロトタイプ、商品を試作し、フィージビリ
ティスタディ(実証研究)を通してフィードバックす
る研究方式が有効である。このスパイラルを通して意
味のある目標を獲得し、有用な技術を開発できる。
また、SIS の課題は世界共通のものであり、このテ
ーマの研究においては国際的な視野とともに適切な国
際連携が必要である。
4 関連研究分野に関する考察
ここで、SIS の研究に関連の深い研究分野、あるい
は研究課題を2,3取り上げて考察してみる。
4.1 Perception と Afordance について
人(広くは動物)が物体や環境をどのように知覚し
ているかは知的ヒューマンインタフェースの研究にと
って基本的テーマである。この分野は認知科学の領域
であるがその中でも知覚心理学に最も関係が深い[11]。
Perception という概念は新しいわけではないが、人
の Perception を計算モデル化することは容易ではな
い。AI の中の画像理解、文字認識の分野では 70 年代
に“データ->特徴->部分->対象同定”のパラダイムが
研究されたが、効率が悪くあまりにも人の認識能力と
はかけ離れていた。その後ファジー論理やニューロコ
ンピューティング手法が開発されて、限定された状況
においては高い性能を示すようになり実用化が進めら
れた。画像処理技術指向のアプローチもこれとは別に
その後かなり進歩し、ロボットビジョン等で使われて
いる。ビジョンは重要な機能であり一筋縄では行かな
いので、若い研究者にとって格好の研究領域であり続
けるであろう[12、13]。
Zadeh は Perception の概念を広く捉え、
例えば、“A
さんの家は B さんの家の近くである”
、“B さんの家
は C さんの家の近くである”から、“A さんの家は C
さんの家と遠くない”というような、人が日常的にご
く自然に行ってような距離に関する知覚能力をファジ
ー論理の拡張でモデル化を試みている[6]。彼はこれ
を“言葉による計算”と提案している。(ついでに、
Zadeh は AI 研究者ではなくシステム制御研究者であ
ると思うが、ファジー論理は AI 分野として AI 研究
者が認識するようになっているのは興味深い。
)
Afordance 理論は、James J. Gibson によって 40
年代から 60 年代にかけて研究され体系化された人の
知覚システムに関する認知科学的理論である[5]。人
が物体や環境を知覚する方法は、例えば網膜に移った
映像から情報処理によって同定するという“推論”説
(情報処理モデル)が我々の直感とあまりにも離れて
いることに対する疑問から出発し、知覚情報は人が推
論によって作り出すのではなく物体や環境が元々持っ
ているものであり、人はそれを“探索”するのである
という仮説をたて、様々な認知心理学的実験によって
立証している。ギブソニアンと呼ばれる信望者がこの
学説を支持し、発展させているそうである。“椅子が
欲しいとき一見して分かるデザインの椅子”はアフォ
ーダンスを発している椅子であると言い、デザインの
心理学的基盤を与えている。ただし、Afordance 理論
に基づいてグラフィカルインタフェースを設計すれば、
訓練しなくても自然に使えるヒューマンインタフェー
スが開発できる可能性がある。
4.2 AI の役割について
SIS の研究において人工知能(AI)が非常に重要な
役割を担うことは疑問の余地が無い。SIS は広義の知
能システムであるからである。AI が学問として急速
に進歩していた 60 年代後半から 70 年代は、人の知
的能力に関する素朴な疑問に答えることと、コンピュ
ータに人のような知能を実現することからスタートし、
実問題を取り上げて研究が進められ、様々な学術デモ
システムや実験システムが開発され、人と比較されな
がら新しい設問を見出せては次の挑戦目標とされてい
た[8、14]。
70年代に大学の研究室内で行われた実験システム
の研究開発のために開発された知識処理モデルや知識
処理ツールの有用性が注目されるようになり、80 年
代になって産業への展開が急激に起こったが、簡単に
は産業界が期待したような実用的エキスパートシステ
ムが開発できず、数年で再び冬の時代へ戻ってしまい、
現在に至っているといっても過言ではない(ただし、
実用システムの開発と利用は着実に進んでいる)。
AI 研究者は“地道に基礎研究を続けている”とい
うが、自己弁護の匂いが強いようにも感じられる。将
来役に立つかもしれない、純粋に研究者の興味に基づ
く研究こそが、基礎研究であり、世の中は分かってく
れないとぼやいているように聞こえる。最近の AI 研
究の動向を見ると、オントロジーやデータマイニング
などの新しいパラダイムを提案してはいるが、取り扱
っている問題が以前と比べると簡単すぎるようである。
「簡単な問題ではどんな方法も有効であるかのように
見える」と P.ウインストンが警告したことを再考し
てもらいたいものである。もう一度実問題指向に帰る
必要があると思うが如何。(著者も一 AI 研究者であ
るから他人事ではないが)
5
さて、“人には出来るが機械化しにくい知能に関す
る問題”を取り扱うのが、知能に関する研究分野であ
ると言える。機械翻訳、音声対話、画像理解、機械学
習等はこの例であり、これまでもこれからも重要な研
究領域であり続けるであろう。このような機能は重要
であるが、(汎用システムとしては)決して解決でき
ない機能であるからである。
最近は、人や生物の諸機能にヒントや手がかりを求
める研究が盛んになりつつある。遺伝的アルゴリズム、
進化システム、複雑系、ソフトコンピューティングな
どはこの例である。研究者の得意なアプローチによっ
て研究が進められているというのも特徴といえよう。
つまり、心理学的アプローチ、計算モデル的アプロー
チ、知識モデル的アプローチ、論理学的アプローチ、
ネットワークモデル的アプローチ等様々なアプローチ
があるが、研究者によって特異不得意があり何でも出
来るわけではない。また、個人としての知能だけでな
く、集団 として の知能 も研究 対象と なって いる。
(Minsky の“心の社会”は個人の心の働きを、単純
化した知能単位の協調社会としてモデル化したもので
あるが、蟻や蜂の生態をヒントとした集団としての知
能モデルの研究も行われている。
)
SIS の研究は、方法を限定するものではない。人と
情報システムとの理想的なあり方を求めた研究課題で
あり、色々な研究者が夫々の方法で、多様な課題に取
り組むことを勧める。色々な AI 研究者、IT 研究者、
心理学者、哲学研究者とシステムのユーザである一般
の人々との交流の場を与えられることがささやかな希
望である。欧米に比べて我が国の学問領域は細分化さ
れすぎており、相互交流が極めて少ないと思う。
5 SIS の研究課題
“誰もが、いつでも、どこでも”利用できる情報環
境の実現が SIS の長期的目標である。専門家のため
の高度な技術は一先ず脇へ置いて、一般社会人の為の
支援技術に的を絞って考えることとする。それには、
人と情報システム、人とコンピュータ、及び人と機械
(ロボット)のシンビオシスを考える必要があり、社
会的要望から、高齢者や障害者を含むいわゆる情報弱
者への IT による支援は特に重要な課題である。また、
人とシステムという関係だけでなく、人と人(人々の
シンビオシスを支援する IT)、コンピュータとコンピ
ュータ、機械と機械のシンビオシスも考えられる。グ
ループウエアや遠隔学習システムは、見方を変えると、
人と人のシンビオシスを支援する例である。
更に、情報インフラとアプリケーション、アプリケ
ーション(エージェント)間、なども考えられよう。
シンビオシスでは、組織の構成要素をエージェント(自
律体)としてモデル化できることが基本となる。人間
と自然環境、人間と人工環境とのシンビオシスも概念
構成を適切に行うことによって成立する可能性がある。
特に前述のような多神論に基づく東洋思想の下では。
社会のニーズを先取りして基礎研究のテーマとする
場合に重要なことは、研究コミュニティに学術的貢献
をする(つまり学術論文を書く)ことに加えて、一般
の社会人に理解してもらう努力が不可欠である。(少
なくとも長期的視点に基づく IT 基礎研究は国民の税
金で支えられていることを忘れるべきでない。)社会
的な有用性の評価は唯我独尊に陥りやすい研究者より
も、一般の社会人の方が遥かに適切であることが少な
くない。その為には、分かりやすくて興味を引くよう
な意味のある実問題を取り扱った学術デモが有効であ
る。デモシステムの開発にはかなりの労働を伴うが、
基礎研究と社会との接点を維持するには欠かせないも
のである。
意義が理解されるレベルでのデモシステムの開発も
含んだ SIS の研究を行うためには、研究開発用のソ
フトウエア、つまり汎用プラットフォーム、の開発が
必要である。これを使って SIS デモシステム(一種
の応用システム)を開発するわけである。つまり、SIS
の研究は二段構えで取り組む必要がある。プラットフ
ォームは一種の高級プログラミング言語であり、この
設計には当然想定される SIS システムの情報モデリ
ングが必要であるので、このようなプラットフォーム
開発は、それ自体がソフトウエア工学における重要な
テーマとなり、これを使った SIS システムの開発は、
プラットフォームの機能設計、実現、及び評価として
貴重な役割を担うこととなる。
更に、評価を通しての改良は、実用性の高い汎用プ
ラットフォーム化の可能性をもたらす。
C 言語や JAVA
言語のような汎用プログラミング言語を使った開発は、
労多くして実りが少なく、本格的なデモシステムの開
発が困難なだけでなく、関連分野への技術波及も困難
であり、ソフトウエア工学への貢献は全く期待できな
い。(欧米に比べて我が国から新しい概念や機能の汎
用ソフトウエアが殆ど出ないのは、アプリケーション
ソフトの開発でとどまってしまっているということが
最大の原因である、と著者は信じている。)
以上を前提として SIS の研究課題を考えてみると、
開発環境の研究開発と応用システムの研究開発に分け
て取り組む必要があり、例えば、次のようなものが挙
げられる:
SIS 研究課題の例:
1)共通基盤技術の研究(SIS システム開発環境)
・分散型自律システム開発用ソフトウエアプ
ラットフォーム
・QoS 型情報ネットワークインフラ
・自律分散知能システム開発実行環境
・大規模高性能マルチメディア情報管理シス
テム
・マルチエージェントシステム開発言語と実
行環境
等
2)実問題指向の基礎研究(事例研究∩基礎研究)
・人間−コンピュータ協調システム
・自律型共生知能ロボット
・知的ヒューマンインタフェース/ナチュラル
インタフェース
・バーチャルリアリティ型遠隔会議システム
・適応型遠隔教育システム
・ユービキタス情報検索支援支援システム
・ 進化システム
・ 福祉支援生活ロボット
等
ここで、“事例研究∩基礎研究”と特記した理由は
次のようなことである。一般にわが国の大学や学術研
究機関では、基礎研究という名のもとに、一部の専門
家にしか理解できない高度な理論や、論文で必要なデ
ータを作るためだけの簡単な実験システムを試作する
例が多い。これでは評価はできない。実問題を対象と
した意味のあるレベルの事例研究によって初めて本質
的な問題点が明らかとなり、究明すべき課題が明らか
となる。これを解決する努力によって自ずと独創的成
果が得られると思う。このような意識のもとに行われ
る事例研究は基礎研究そのものである。SIS にはこの
ような研究の方法が不可欠である。
6 ロボットを対象とした SIS 研究の例
ここで、具体的な研究目標、研究課題、研究の視点、
要素研究課題について、著者の研究領域の一つである
知能ロボット(自律ロボット)を例に挙げて考察する。
ここでは、ヒューマン-ロボット・シンビオシスとし
て、人とロボットが自然な形で共存する状況を考える。
したがって、多くの研究室や研究者が行っているビジ
ョン、制御、ヒューマンインタフェースではなく、こ
れらを統合したロボットシステムとして実現され、さ
らに人との心の交流を行うための認知科学モデルが重
要となる。
研究の位置づけを把握し易くするために、関連のあ
るロボット分野を網羅的に議論してみる。
6.1 事例研究課題と要素技術の例:知能ロボット
事例研究課題と要素技術の例:知能ロボット
研究目標は、人の構造、姿、機能、知能、心、の実
現を目指す統合システムの研究開発である。
1)知能ロボット関連の研究テーマ例(知能ロボット
の種類):一般に知能を持った、あるいは持たせ
たいロボットには次のようなものがある。
自律サービスロボット、福祉ロボット、協調作業
ロボット、遠隔操作ロボット、自律移動ロボット、
エンターテイメントロボット、ペットロボット、
次世代産業ロボット
6
・ ナチュラルインタフェース(ロボットを人と思わせ
る)
:
自然言語対話。表情対話。アクション対話。視線対
話。意味の理解と意図の理解。学習能力(動作が
巧くなる。対話が容易になる。機能が増える。
)
2)知能ロボットの研究に必要な要素研究テーマ例:
以下に挙げる機能の幾つかを持つことが知能ロボ
ットの実現において不可欠である。
ロボットビジョン、タスク/モーションスケジュ
ール、知能制御、ワールドモデル、ヒューマンイ
ンタフェース、自然言語対話、プラットフォーム、
動的環境適応、モニタリング、意味理解、意図理
解、学習システム、進化システム、生物モデル
6.3 事例研究の意味
事例研究の意味:エンターテインメント
:エンターテインメント・
:エンターテインメント・
ロボット
SIS の研究は、基礎研究といえども事例研究の形態
をとることが重要である。さもなければ一人よがりの
趣味的研究に陥る。事例研究では、研究成果として学
術デモを開発することが骨子となる。例えば、エンタ
ーテインメント・ロボットに関して考察してみよう。
3)各ロボットの目的、機能、特徴:
・ サービスロボット:
人を助けるロボット、人を手伝うロボット、人を代
行するロボット。例えば、掃除ロボット、運搬ロ
ボット、誘導ロボット、通信ロボット、など。
1)デモシステムの例
人の問いかけに応える。人の動作を真似る。人と雑
談をする。人を案内する。物を運ぶ。人について動き
回る。人と遊ぶ。ロボットどうしでじゃれる。ロボッ
トどうしで遊ぶ。喜怒哀楽の感情を持つ。意外な動作
をする。TV画面を通して対話をする。
・ エンターテインメントロボット:
エンターティナーの役割を果すロボットで、見てい
るだけで楽しい、ストレスの解消、心のなごみ、
人間性の回復、などが重要な研究の視点。
・ ペットロボット:
ペットの代わりをするロボットで、かわいい動作、
主人に従順、主人の動作をまねる、挨拶をしたり
癖を学習する、面倒を見ないと拗ねる、などは代
表的な研究の視点。
2)学術的要素
音声対話、自然言語理解、意図理解、心のモデル、
感情のシミュレーション、意外性の定式化、協調のモ
デル、プラットフォーム、知識システム、しなやか制
御、協調分散システム、進化システム、知能エージェ
ント、エージェントプログラミング、ミドルウエア、
マルチメディア処理、など。
重要なことは、デモシステムは一般の人々が直感的
に重要さを理解できることであり、しかも先端 IT 研
究としての学術的要素によって実現されていることで
ある。(ただし、パラダイムや概念の提案が主体の場
合には、それ自身が学術的に極めて重要であるので、
要素技術の新奇性は問題とならない。例えば、速度が
遅ければ、速い技術を開発すればすむことであるが、
パラダイムの欠陥は如何とも修復しがたい。このこと
が分かっている研究者は、我が国だけでなく、欧米に
も極めて少ないのはなぜだろうか?)
・ 福祉ロボット:
障害者や高齢者の為のサービスロボットで、介護ロ
ボット、自立を助けるロボット、歩行補助ロボッ
ト、歩行訓練ロボット、言語訓練ロボット、など
がこの例に入る。
6.2 ヒューマンヒューマン-ロボットインタフェースの研究
このテーマでは、“人と人とのインタフェースを人
とロボットへ持ちこめるか?”が研究のスタンスとな
る。ロボットは“人の機械モデル”であるからである。
具体的には、この設問に答える為のコンセプトと技術
をどう解決するかということでもあり、技術的には、
既存の技術を活用する(TT)して実現するか、新し
く技術を開発することとなる。技術の新奇性よりも説
得力のあるコンセプトの提案が重要である。技術はそ
れの結果に過ぎない。
7 まとめ
文部科学省国立情報学研究所(NII)は、旧学術情
報センターを改組・拡大して本年 4 月に発足した我が
国唯一の IT 基礎研究所[7]である。COE(Center of
Excellence)研究機関として認定されている大学共同
利用機関でもある。平成12年度から始まった COE
プロジェクトテーマ「シンビオティック情報システム
の概念形成と実現技術の研究」の構想として考えたこ
とを報告に纏めた、多少改定したのがこの論文である。
Internet で検索してみても Symbiosis が学問分野
で使われている形跡は殆ど見られないが、昨年 3 月
にヨーロッパの数大学の知能系研究室やプロジェクト
・ ロボット操作のタイプ:
動作反復型(産業用ロボット)、ハンドル・ボタン
操作型、プログラム型、コマンド型。運動エネル
ギー増幅型(指でクレーンを操る)。知覚能力増幅
型(わずかな光、見えない光、聞こえない音、わ
ずかなエネルギー)
。
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[13]P.H.ウインストン(白井良明、杉原厚吉 訳)、
コンピュータビジョンの心理、産業図書、1979.
[14]P.H.ウインストン(長尾真、白井良明 訳)、人
工知能、倍風館、1980.
を訪問したとき構想を話してみると、直感的に賛同が
得られ、しかも殆ど説明しなくても趣旨や目標が分か
ってもらえた。
この提案が議論の切っ掛けとなり、この分野の研究
の促進と、情報社会の発展に貢献できれば幸いである。
人と情報システムとのあるべき姿に関するパラダイム
の提案が我が国から出されることを期待しつつ。
謝辞
本研究は、文部科学省国立情報学研究所が平成 12
年度から推進している(機関型)COE プロジェクトの
一環として行っているものであり、プロジェクトに参
加して頂いている方々に感謝する。
参考文献
[1] International
Workshop
on
Biorobotics:
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and T.E. Davis), Robotics and Automation
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Symbiotic
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University,
Government and Industry, Proc. Information
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the 21st Century, 2000.
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[5] 佐々木正人、アフォーダンス−新しい認知の理論、
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1999.
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題−IT 基礎研究所の設立と役割に関する考察、
信学技報 KBSE99-53, pp.33-40, 2000.
[8] 上野晴樹、知識工学入門(第 2 版)、オーム社, 1990.
[9] Haruki Ueno, Symbiotic Information System –
Towards an Ideal Relationship of Human-beings
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pp.71-78, 2001.
[10] Vuthichai Ampornaramveth, Haruki ueno,
Concepts of Symbiotic Information System and
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[11]T ウィノグラード、F フローレス(平賀譲 訳)、
コンピュータと認知を理解する、産業図書、1989.
[12]谷内田正彦、コンピュータビジョン、昭晃堂、1990.
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