Page 1 − 11 − は じ め に 「19世紀前半の世界」という言葉から生徒は何

「19世紀前半の世界」を「タペストリー」で学ぶ
千葉県立幕張総合高等学校 竜 田 雄 志 栄
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p.174には独立に関連して3人の肖像が登場す
は じ め に
るが、⑤のトゥサン=ルーヴェルテュールだけが
「19世紀前半の世界」という言葉から生徒は何
黒人の指導者である。1804年世界最初の黒人共和
をイメージするだろうか。ヨーロッパでは「産業
国となったフランス領サンドマング(ハイチ)の
革命」と「フランス革命」が同時進行で起こる「二
独立が、他のカリブ海植民地やラテンアメリカの
重革命」の時代であり、ヨーロッパ以外の地域で
独立運動に、大きな衝撃を与えたことを指摘して
は植民地化・半植民地化の時代であった。そして
おきたい。難を逃れたフランス人植民者がハイチ
両方の地域にまたがりパックス=ブリタニカの繁
での「惨劇」
(殺害と追放)を伝え、独立運動を
栄を謳歌したのが、他国を圧倒する経済力と海軍
指導する白人たちは「ハイチの二の舞」を警戒し
力を持った覇権国イギリスであった。
「19世紀前
たからである。
「ハイチ」は「流血と破壊」
、
「有
半の世界」を帝国書院『最新世界史図説タペスト
色人支配」
「貧困」の代名詞となった。
────
またはp.36のように略記)では、この時期につい
──
て「工業化で圧倒的な生産力を得たイギリスが、
ハイチ以外のラテンアメリカ諸国の独立では
世界各地をイギリス中心の経済分業システムに組
3.独立後のラテンアメリカ社会。
み込んでいった」時期であると概観している。
という観点から授業を展開したい。
本稿では「タペストリー」を使った「ラテンア
まず1だが、p.174④の社会構造の図(下図)
メリカ独立」と「インドの植民地化」
、
「アヘン戦
を使い、ラテンアメリカ社会の特色を説明する。
争」
の授業案を示し、イギリスがどう関わり、
「自
それぞれ階層の割合はどれくらいだろうか。
リー 初訂版』p.36∼37(以下「タペストリー」
、
1.独立の中心となったのは誰で、理由は何か。
2.独立の経緯とイギリスの関与。
────
由貿易」を進めていったか考えたい。
④スペイン統治下の社会構造
▲
ヨーロッパ
本国からの
白人(ペニンス
ラール)
ラテンアメリカの独立
クリオーリョ
この二つ
(植民地生まれ
が中南米
の白人)
独立を
推進
・ メスティーソ(白人と
インディオの混血)
・ ムラート
(白人と黒人の混血)
授業展開
この授業は多くの場合「フランス革命とナポレ
オン」の後となり、アメリカ独立とフランス革命
・ インディオ(先住民)
・黒人
の理念が、ラテンアメリカ独立に大きな影響を与
・社会の最高位・特権階級
・ラテンアメリカの大半
を支配
・本国生まれの白人から
差別
・サン=マルティンやボリ
バルもクリオーリョ
・全人口の約 80%を
占める
・大土地所有の底辺を
ささえる
・クリオーリョからも差別
──────────
授業は2つの地図(p.34、36)を見比べること
────
から始める。ポルトガル領であったブラジルを除
ペニンスラールの割合が0.1∼0.2%であるのに
き、ラテンアメリカ諸国はスペイン領であったこ
を従え、約6割の先住民を支配する。これが米国
と、イギリスとの自由貿易を求め本国スペインへ
やオーストラリアのような「定住植民地」
(先住
の不満が高まっていたことを読みとらせる。イギ
民は1%未満)とも、また英領インドや仏領イン
リスにとっては、貿易の中心は西インド諸島であ
ドシナなど「行政植民地」
(白人は1%未満)と
ったが。
も異なるラテンアメリカ社会の特色である。ボリ
えたことが強調される。(p.165「環大西洋革命」
)
対し、クリオーリョ(現地生まれの白人)の比率
は総人口の約2割であり、同じくほぼ2割の混血
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もクリオーリョ出身であった。
────
バル(p.174①)も、サン=マルティン(p.174⑥)
ューバとプエルトリコを残すだけとなった。
3に移る。ラテンアメリカ独立は社会革命を伴
1800年頃のスペイン本国の人口は約1150万、対
わず、クリオーリョによる大土地所有が強まった。
する植民地の人口は約1500万人であった。海上支
国内の分離主義が強く、政治的にも不安定であり、
配権を持つイギリスを味方につけさえすれば独立
カウディリョ(頭目)と呼ばれる政治指導者によ
は十分可能であり、しかも植民地との合法貿易を
る暴力と恐怖の支配がしばらく続く。イギリスの
望むイギリスには動機があった。砂糖・カカオ・
自由貿易体制に組み込まれたラテンアメリカでは、
皮革など農牧産品の輸出を基幹産業とし、独立へ
クリオーリョ支配層は原料の輸出によって必要な
の要求がとくに強かったベネズエラとアルゼンチ
工業製品を獲得することを好み、国内工業の育成
ンが二人の出身地であったことに注意したい。
には無関心であった。だが1870年代に政治は安定
───
と地図を使い、本国スペインがフランス軍に占領
し始め、第二次産業革命を背景に一次産品・工業
されていたことを復習する。ナポレオンによる王
遂げた。
2について、p.171の「ヒストリーシアター」
原料に対する需要が高まると、経済的にも発展を
位簒奪に反発して1806年5月2日に始まったマド
綿布とアヘン:自由貿易帝国主義
リード市民の蜂起は、すぐスペイン全土に広がり、
国土解放と市民革命を同時的課題とする半島戦争
授業展開
に発展していった。本国の混乱に乗じて1810年、
世界最初に工業化を行ったイギリスが、自由貿
クリオーリョが反旗を翻したが、スペインの蜂起
易を他地域に強制していく過程を、東アジアと南
軍と同盟者となったイギリスは、独立運動の味方
アジアを例にとり勉強する。
をするわけにはいかなくなり、本国側の強力な巻
図10 イギリス綿製品輸出とインド・中国
%
60
き返しの結果、1814年の時点でクリオーリョの自
①
50
立体制が残っていたのはブエノスアイレスだけと
40
なった。独立闘争はナポレオン失脚とスペイン・
②
30
20
ブルボン王朝復位をはさんで繰り広げられた。
10
1816 アルゼンチン独立
③
1815 1820
1840
1860
1880
1900
①イギリスの対インド輸出にしめる綿製品の比率.
②イギリスの綿製品輸出にしめる対インド輸出の比率.
③イギリスの綿製品輸出にしめる対中国輸出の比率.
1815-74 は 5 年間隔,1876-98 は 2 年間隔.
第 1 表より作成)
(加藤祐三,1979,
1818 チリ独立(サン=マルティン)
1819 大コロンビア共和国独立(ボリバル)
1821 ペルー独立
(サン=マルティン・ボリバル)
加藤祐三「イギリスとアジア」
1821 メキシコ独立
1.輸出の流れが変化するのは、何年頃か。
1822 ブラジル、ポルトガルより独立(帝政)
2.アジアの貿易相手国は、どこか。
スペイン本国はウィーン体制からの援助を求め
初めはヨーロッパと北米がおもな輸出先であっ
たが、イギリスのカニング外相は、中南米がスペ
たイギリス綿製品の流れが変化し、アジア・アフ
インの支配から離脱することが貿易上好ましいと
リカ・南米向けの輸出が伸びてくる。逆転の時期
判断、メッテルニヒの干渉政策に反対して独立運
がドイツやフランスが産業革命を迎える1830年頃
動を支持した。1823年、独立に対する干渉を排除
であることを、グラフから読みとらせる。アジア
するための共同宣言を米国に提案し、またフラン
の相手国がインドと中国であること、第1位のイ
スの干渉意図に対する警告をだして計画を放棄さ
ンド向けが第2位の中国向けのほぼ2∼3倍であ
せたのである。大西洋の制海権を握るイギリスが
ったことを付け加える。南米向けの輸出が伸びた
明確に独立支持を打ち出したことで、スペインに
理由は上述の通り。またp.162④のグラフで、1820
よる植民地奪還の見込みは事実上消え、あとはキ
年頃を境にインド向け綿布の輸出が、輸入を上回
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────
ったことを読みとらせる。
自由貿易強制のための軍隊
イギリスは植民地の拠点を持っていたインドに
対中国貿易の独占権が廃止された1834年以降、
対しては、関税率をいじることで、インド綿布の
東インド会社は貿易活動から撤退し、イギリス本
輸入という「東から西」の流れを逆転させること
国の植民地支配・対外侵略の出先機関となってい
ができた。並行して自由貿易への要求が国内で高
く。軍隊維持や植民地行政、さらに本国の財政を
まり、1813年に東インド会社の対インド貿易独占
支えるためにも、アヘンの輸出は欠かせなかった。
権は廃止された。インド向け輸出の中で綿製品が
インドから輸出されたアヘンの約85%は中国へ、
占める割合は、1830年には55%に達した。
残りの15%はオランダ領インドネシアなどへ転売
─────────────
東インド会社によるインド支配の過程を整理する。
された。インド軍には周辺諸国への出兵の役割も
「タペストリー」p.198∼199の地図と年表から
プラッシーの戦い
あった。アヘン戦争でイギリスが動員した兵力は
→ベンガル地方
陸軍1万5000人、海軍艦船46隻、輸送船は100隻
カーナティック戦争 →南インド東岸
に及んだ。兵士のうちインド人シパーヒーが約8
(ポンディシェリ攻略:仏の敗退)
割を占めた。1826年にペナン、マラッカと海峡植
マイソール戦争
→南インド
民地を構成したシンガポールが、カルカッタを出
マラータ戦争
→デカン高原
発した遠征軍の集結基地となったことを、p.37の
シク戦争
→北西部(パンジャーブ)
地図「日本と東アジア海域」
(下図)で確認する。
植民地拡大に伴って増大する維持経費は、どの
──
世界に点在する島が、海軍の補給基地であった。
──────
ようにまかなわれたのか。
(p.198⑥、⑦参照)
近代の東アジア 強まるイギリスのアジア支配 西半球で覇権を確立したイギリスは,アジアでもインドを拠
日本と
点にシンガポールなどの海峡植民地を建設し,アヘン戦争にも勝利して東アジアへの侵略
東アジア海域 を開始した。押し寄せるイギリス・ロシアの船に強硬な態度をとっていた江戸幕府も,
よ ぎ
アヘン戦争の結果を知るにおよび,外交方針の転換を余儀なくされた。
イギリス領
インド
マドラス
イギリスは中国から茶を買っていた。支払いは
コロンボ
銀である。銀塊を積み中国の広州で買いつけた茶
をイギリスに運ぶ。アヘンの専売が開始された
イルクーツク
キャフタ
ロシア
ビルマ
ペグー
シャム
1826年,海峡
植民地成立。
1847年に東シベリア総督を
設置。ムラヴィヨフが就任。
ヨーロッパ諸国との貿易
港は,広州に限定してい
たが,アヘン戦争に敗れ
て5港を開港。
カルカッタ
対清貿易で赤字が続
いたため,アヘンを
密輸出。
バンコク
ネルチンスク
清
ラオス
ハノイ
カンボジア
ペナン
マラッカ
サイゴン
越南
フエ
マカオ 広州
厦門
香港 (アモイ)
シンガポール
アイグン
南京
福州
寧波
上海
朝鮮
オランダ領東インド
1773年の前後、東インド会社がかかえた大幅な貿
バタヴィア
ロシアの進出
英フェートン号の進路
アヘン戦争の英軍の進路
マカッサル
南京条約で開かれた港
イギリスの植民地
米ペリー艦隊の進路
日米和親条約の開港地
アンボン
通商条約の開港地
易赤字の多くが茶の輸入によるものであることを、
アルバジン
北京
天津
アム
ウラジオストク
ール 川
沿海州
マニラ
スペイン領
フィリピン
琉球
ナポレオン戦争時,フラン
ス領オランダの植民地を占
拠。ついでに長崎にも野心。
長崎
神戸
大坂
下田
新潟
江戸
横浜
箱館
根室
日本
江戸時代
─────────────
インドの2∼3倍の人口を持つ中国で、イギリス
北京への食料輸送のルートであった大運河を、
製の綿製品の輸出がなぜ伸びないのか。イギリス
イギリス海軍が封鎖したことが決定打となった。
はその理由を、中国の貿易制度(貿易港の広州限
戦意を失った清国側は1842年南京条約を結び、賠
定と公行)に求めた。林則徐によるアヘン没収は、
償金を支払い、上海など5港を開港した。アヘン
イギリスには自由貿易を強制する好機に映った。
の密貿易は黙認された。しかし、イギリス産綿布
p.35およびp.34の茶のグラフから読みとらせる。
ヒストリー
シアター
小笠原諸島
の中国向け輸出は依然として停滞し、市場開拓の
イギリスの一発逆転打となったアヘン
ために条約改正を求め、再度の武力行使(アロー
イギリスの鉄甲艦
ネメシス号
号戦争)につながっていった。
清のジャンク船
<参考文献>
ボートで脱出する清の水兵
▲
歴史学研究会編『講座世界史2・3』東京大学出版会
①アヘン戦争
1.図は、イギリスの戦艦が清の軍艦を砲撃して
いる場面だが、この戦艦はどこからきたか。
高橋均『ラテンアメリカの歴史』山川出版社
高橋均/網野哲哉『世界の歴史18』中央公論社
大江一道『世界近現代全史1』山川出版社
2.アヘンを輸出(専売)しているのは、誰か。
加藤祐三『イギリスとアジア』岩波新書
答えはともに、東インド会社である。
横井勝彦『アジアの海の大英帝国』講談社学術文庫
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