法教育入門 法学における「失敗の本質」 2012年10月10日 明治学院大学法科大学院教授 加賀山 茂 戸部良一=寺本義也=鎌田伸一=杉之尾孝生=村井友秀=野中郁次郎 『失敗の本質-日本軍の組織論的研究』 中公文庫(1991/08/10) 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 1 法教育入門-失敗に学ぶ- 目次 法学部の学生は潰しが効くか? その意味は? それに安住していないか? 従来の法教育の問題点とは? 法学部・研究科の危機とは? 2015/10/1 議論の前提としての「和」 議論の結果としての問題解決 数学と法学との対比 法教育の方法 権利のための闘争? 問題解決のための論争? 十七条の憲法の「和」? 問題解決の方法 先細る法学部(朝日新聞) 失敗の本質 原点に立ち返る 法の目標は何か? 三段論法からトゥールミン図式へ トゥールミン図式と証明責任 IRACによる出力 法教育の目標 当事者の納得 専門家の満足 世論の支持 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 2 法学部の学生は「潰しが効く」 という意味は何か? 法学部の学生の就職率は,文化系の学部の中で も高い方である。 そこで,昔から,法学部は「潰しのきく学部」と言わ れてきた。 ここでいう「潰しが効く」とは,「本来の職を離れて 別の仕事をしても、十分やってゆく能力がある」と いう意味であり,「融通が効く」と同じ意味である。 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 3 「潰しが効く」という「評価」が アダとなっていないか? 就職活動をする法学部の学生に対して,次のように尋ね てみよう。 「法学部の学生としての君の売りは何ですか?」 学生から,次のような答えが返ってくることはまずない。 「ルールに基づく平和な議論を通じて,困難な問題を 解決することができる能力があります。」 「潰しが効く」という幻想に安住し,「問題解決能力」という 最も重要な能力を身につけることがないままに卒業して いく学生が多いのが現状である。 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 4 従来の法学教育の問題点 問題解決能力を育成しようとする視点の欠如 知識を教授することのみ… 問題解決能力が育たない • 法教育を含めて,すべての教育 は理論の他動的教授によっての み与えられると考えられてきた。 • 講義では先生は常にまず学理と 原則とを教える。それを説明する 手段として多少の実例が引照説 明される。 • 先生は独断的に理論とその展開 ないし応用を説ききかせるのみで あって,学生の立場は徹頭徹尾 受動的であった。 • 今までの教育方法は,知識を分 量的に増加させることができる。 しかし心と力とを養うことができな い。 • 学生は,幾多の理論的知識を得 ることができるが,具体的事件に 直面した場合に自分の知ってい る知識のうちどれをあてはめると 問題が解決されるのか,それを 直観的に判断決定すべき力を全 くもたない。 末弘厳太郎『法曹雑記』(1936),『嘘の効用』(1954)229頁 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 5 法学部・法学研究科の危機 教育の到達目標が不明確 「議論による問題解決者」をめざすという意識が学生・教員とも に希薄。 憲法76条3項(議論の論拠としての条文)の意味が理解さ れていない。 ③すべて裁判官は,その良心に従ひ独立してその 職権を行ひ, この憲法及び法律にのみ拘束される。 法学部の学生から司法試験の受験資格が奪われたことも あって,「事案に適用されるべき条文・判例を検索する能力 」さえ身につけることができない学生が増加している。 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 6 法学部・法学研究科の危機 先細る法学部・人気にも陰りが… 法科大学院設置後,研究 を志す学生が急減! (朝日新聞2012年8月10日・29面) 2015/10/1 大学の法学部といえば,文系学部の中 心的な存在とされてきた。 その法学部が将来,存続の危機を迎え るかもしれない。 法科大学院が設置された後、法学研究 者の道へ進む人が減り,将来,法学部 で学生を教える人材が確保できなくなる 恐れがあるのだ。 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 7 法教育の失敗の本質 成功体験がアダ 法学部に共通の目標の不在 法学部生は,これまで,就職率が高く,「潰しが効く」といわれてきた。 社会が,「法的専門知識とその応用力」を求めていることに気づかない。 法曹,公務員,サラリーマン等,学生の志望が多様で,共通目標の設定が困 難。このため,成績評価の基準が曖昧となり,「信賞必罰」を実行できない。 教員と学生の誤解の放置 教員は,きちんと教えれば理解が得られると思い込み,学生に学習を促す努 力,特に,「予習をさせるための努力」を怠りがちである。 学生は,予習もせずに講義に臨み,「理解ができないと,きちんと教えてくれ ないからだ」と思い込む。学習をした上で,わからないことを質問し,それによ って学修が実現できることを理解していないか,理解していても実行しない。 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 8 危機の時代であるからこそ 基本に立ち返ることが必要 あなたは,次の問いに答えられるだろうか? 法の目的と手段は何か? 法を学ぶ際の学習目標は何か? この問題についての共通理解はあるのだろうか? 法を学ぶと,どのような社会貢献ができるだろうか? どのような能力を身につけなければならないのか? そのために,どのような学習をすべきなのか? 何ができれば,法をマスターしたといえるのか? 以上の問いに真剣に向き合ってみないか? 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 9 法の究極目標は何か? イェーリング『権利のための闘争』(1872) 「法の目標は平和であり,これに達する手段 は闘争(Kampf)である。」 「正義の女神は,一方の手には権利をはか るはかりをもち,他方の手には権利を主張す るための剣を握っている。」 「はかりのない剣は裸の暴力であり,剣のな いはかりは法の無力を意味する。」 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 10 平和の実現の手段として, 「闘争」は適切なのか? イェーリングの『権利のための闘争』の考え方 は,法律家によって広く受け入れられている。 しかし,武力による解決は,結局,当事者の納 得を得られないため,闘争の繰り返しになる危 険性が高い。 むしろ,「法の目標は平和であり,これに達す る手段も,武器を手にした闘争ではなく,言論 を通じた論争である」と考えるべきではないの か? 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 11 法律家とは何をする人か? 法律家とは「『議論』による『問題解決』者」 として位置づけられるべきである。 平井宜雄「判例を学ぶ意義とその限界」専修ロージャ ーナル1号(2006)5頁,『法律学基礎論の研究-平井 宜雄著作集Ⅰ』有斐閣(2010) 335-365頁。 しかし,議論によって問題解決を行うこと は可能なのだろうか? そもそも,法律家はどのようにして問題解決を 図ってきたのだろうか? 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 12 法律家による問題解決の方法 数学の応用問題の解法 と 法律問題の解決方法 の比較 数学の問題(旅人算) 上り8km,下り12kmの山道を自転車で越えた い。下りを上りの3倍のスピードで進むとすると 上りと下りのスピードをいくらにすればよいか? 上り8km 時速x(km/h) 下り12km 時速3x(km/h) 法律の問題(冗談のつけ) 意思表示は,表意者がその真意ではな いことを知ってしたときであっても,そのた めにその効力を妨げられない。 ただし,相手方が表意者の真意を知り, 又は知ることができたときは,その意思表 示は,無効とする。 時速(km/h)=距離(km)/時間(h)…定義 時間(h)=距離(km)/時速(km/h)…変形 等式の作成による公式の適用と結論の導出 上りの所要時間 + 下りの所要時間 = 2時間 8(km)/x (km/h) + 12(km)/3x (km/h)= 2(h) x = 6(km/h) 2015/10/1 顧客Yは,ホステスXに,冗談で,「独立・ 開業資金として1,000万円をプレゼントす る」とみんなの前で約束した。XはYに対し て1,000万円の支払を請求できるか? 適用すべき条文の発見 民法93条(心裡留保) 20km 所要時間:2時間 適用すべき公式の発見 条文の適用と結論の導出 XがYの約束が冗談だと知っていたか,そ のことを知るべきであった場合を除いて, XはYに1,000万円の支払を請求できる。 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 13 問題の解き方が数学に似ている のなら,なぜ議論が必要か? 数学の「問題」に該当する法的「事実」につ いては,「事実」の内容が何なのか,当事 者の言い分をよく聴かないとわからない。 数学の「公式」に該当する法律の「条文」 は常に改廃が繰り返されており,適用すべ き条文が欠けていたり重複していることが あり,どの条文を適用すべきかについても 議論の必要がある。 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 14 議論は「和の精神」に反し ないか? 「和の精神」は付和雷同の薦めではなく(君子は和 して同ぜず),自由な議論のための前提である。 十七条の憲法 第1条〔和の精神〕 和をもつて貴(とうと)しとなし〔孔子〕,忤(さから)うことなきを宗とせよ。 人みな党(たむら)あり,また達(さと)れる者少なし。ここをもつて,あるいは 君父に順わず,また隣里に違(たが)う。 しかれども,上和(かみやわら)ぎ,下睦(しもむつ)びて,事を論ずるに諧(か な)うときは,すなわち事理(じり)自ら通ず。何事か成らざらん。 十七条の憲法というと,「和をもって貴しとなす」だけが引 用され,平和に「事を論ずるにかなうときは,すなわち事 理自ずから通ず」という,後半部分が引用されないのは, 何とも不幸なことである。 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 15 議論がうまくいくためには,前提 がある 十七条の憲法 第10条(仏教の教え) 心の怒りを絶ち、顔色に怒りを出さないようにし、人が自分と違う からといって怒らないようにせよ。 人には皆それぞれ心があり、お互いに譲れないところもある。彼 がよいと思うことを、自分はよくないと思ったり、自分が良いこと だと思っても、彼の方は良くないと思ったりする。 自分が聖者で、彼が愚者ということもない。ともに凡人なのであ る。是非の理は誰も定めることはできない。お互いに賢者でもあ り愚者でもあることは、端のない環のようなものだ。 ということで、相手が怒ったら、自分が過ちをしているのではない かと反省する。自分一人が正しいと思っても、衆人の意見も尊重 し、その行なうところに従うがよい。 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 16 十七条の憲法(第1条)の 現代的解釈 第1条〔和の精神〕の日本国憲法流の解釈 平「和」を誠実に希求し,正義と秩序を尊重して,武力に訴えるこ とのないようにせよ。 紛争の解決を力に頼る人は,みな数を頼んで党派を作る。しかし 力や数では問題の真の解決にはならないことを理解していない。 このような人々は,多数に雷同してリーダーに従わなかったり, 相隣関係における「必要かつ損害最小」の原理を無視する行動 に出たりする。しかし, 上司も和やかに部下も睦まじく,「輪」になって議論を行えば,自 然に道理が明らかになり,どんな困難な問題でも解決できないこ とはない。 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 17 議論の目的は何か? 独断と偏見を未然に防止する 人は自分に甘いが,他人には厳しい側面を持つ。 自由な議論で反論を奨励すれば,独断や偏見に基づ く誤りを最小限に抑えることができる。 自由な議論の積み重ねから,関係者全員が納得 する解決策が見つかることが多い 法の目標は,紛争の平和的な解決である。 その実現手段を議論に求めるのは,「三人寄れば文 殊の知恵」というメリットがある。 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 18 反論を許さない「三段論法」から 反論可能な「トゥールミン図式」へ • 三段論法(反論を許さない硬直性が問題) • 大前提: 全ての人間は死ぬ。 • 小前提: ソクラテスは人間である。 • 結 論:ソクラテスは死ぬ。 • トゥールミン図式(あらゆる議論に通用する構造を提供している) ソクラテスは人間である。 誤り おそらく ソクラテスは哲学 の神様である。 全ての人間 は死ぬ。 万物は流転するが, 2015/10/1 ソクラテスは死ぬ。 真理は生き続ける。 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 19 民法93条の「トゥールミン図式」 による表現 (冗談でも責任をとらされる?) 表意者は,真意でないことを知りな がら,冗談で,意思表示をしている。 おそらく 誤り 表意者は,意思 表示に責任を 持つべきである。 意思表示は 有効である。 相手方は,意思 表示が真意でな いことを知ってい たか,真意でない とわかるはず。 表意者が真意とは異なる,誤った外観を作出した場合の意思表示の効果: 1. 相手方が表意者の真意を知っているか,知るべきであったときは,無効となる(原則)。 2. 相手方が表意者の真意を知らず,知ることもできなかったときは,有効となる(例外)。 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 20 民法93条の立証責任は, 冗談に甘い国では多少異なる 表意者は,真意でないことを知りな がら,冗談で,意思表示をしている。 誤り おそらく 冗談だと知らな かったのだから, 表意者は,意思 表示に責任を 持つべき。 意思表示は 有効である。 相手方は,注意 すれば,意思表 示が冗談である ことを,知ること ができたはず。 表意者が真意とは異なる,誤った外観を作出した場合の意思表示の効果: 1. 相手方が表意者の真意を知っているか,知るべきであったときは,無効となる(原則)。 2. 相手方が表意者の真意を知らず,知ることもできなかったときは,有効となる(例外)。 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 21 法律文書は,原則として IRAC(アイラック)で表現される I: Issue(争点:事案の争点の発見) R: Rules(ルール:事案に適用される条文の発見) A: Application (適用:争点へのルールの適用) Application1 → 原告に有利な条文の適用 Application2 → 被告に有利な条文の適用 Argument (議論:議論を通じて合理的な(双方が 納得できる)解決策を発見する) C: Conclusion(結論) 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 22 最初の法律問題の解決策も, IRAC(アイラック)で表現できる I(争点): Yは,ホステスXの歓心を買おうと,冗談で,「独立・開業資金 として1,000万円を贈与する」とみんなの前で約束し,契約書に押印した。 この契約は有効か,それとも,真意を欠くためこの契約は無効か? R(ルール): このような冗談による意思表示が法律上の効力を有す るかどうかは,民法93条が定めるところによって決せられる。 A(議論): 民法93条ただし書きによれば,Yが冗談で約束していること をXが知っていたか,または,よく注意すれば,冗談であることがわかる ような場合であれば,真意を欠く意思表示は,原則通り無効となる。 しかし,本件の場合,Yが提出した証拠によっては,Xが冗談と知って いたこと,又は,冗談と知らなくても,注意すれば,それが冗談だとわか るものであったと認定するには不十分である。 C(結論): 本件の書面による贈与契約は,民法93条に照らして有効で ある。よって,YはXに対して,契約書通りに,1,000万円の支払をせよ。 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 23 IRACと論文の書き方との対比 • I:重要な問題を発見したことの経緯を述べる 問題提起 • R:その問題を解決する視点と仮説を提示する 本論 • A:問題をいくつかのブロックへと分割する • A:ブロックごとに問題を展開しすべてを解明する 結論 • C:問題を展開して得られた答えを1つにまとめる • I:残された問題に対する展望を行う 2015/10/1 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 24 今後の法学教育のあり方 法の目標は,議論による紛争の平和的な解決である。 以下の3条件が満たされたときに目標が達成される。 1. 当事者双方が満足する解決策が発見されたとき。 2. 専門家が納得する解決策が発見されたとき。 3. 世論を納得させる解決策が発見されたとき。 このことを追究するのが,法学の最重要課題である。 目的を実現するには,以下の能力の養成が必要である。 1. 議論をトゥールミン図式で表現する能力の育成 議論を通じて,前記の3条件を満たす法理が創造されることになる。 2. 議論をIRACでまとめて表現できる能力の育成 2015/10/1 法律文書では,議論のプロセスがIRACで表現されるべきである。 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 25 参考文献 法律家の思考方法 イェーリング(小林孝輔=広沢民生 訳)『権利のため の闘争(原著1872年)日本評論社(1978) カイム・ペレルマン(江口三角 訳) 『法律家の論理 ―新しいレトリック』木鐸社(1986) 加賀山茂『現代民法 学習法入門』信山社(2007) 平井宜雄『法律学基礎論の研究-平井宜雄著作集 Ⅰ』有斐閣(2010) 失敗の本質 戸部良一=寺本義也=鎌田伸一=杉之尾孝生=村 井友秀=野中郁次郎『失敗の本質-日本軍の組織 論的研究』1 中公文庫(1991)(1984ダイヤモンド社 刊) 鈴木博毅『「超」入門 失敗の本質-日本軍と現代 日本に共通する23の組織的ジレンマ』ダイヤモンド 社(2012) 2015/10/1 議論の方法 福澤一吉『議論のレッスン』NHK生活人 新書(2002) 岩田宗之『議論のルールブック』新潮新 書(2007)206頁 スティーヴン・トゥールミン(戸田山和久 ,福澤一吉訳)『議論の技法(The Uses of Argument(1958, 2003)) トゥールミ ンモデルの原点』東京図書(2011) 教育方法論 井上尚美『言語論理教育入門-国語科 における思考-』明治図書(1989) 市川伸一『考えることの科学』中公新書 (1997) 戸田忠雄『教えるな!-できる子に育 てる5つの極意』NHK出版新書(2011) 法教育入門 ─失敗の本質に学ぶ─ 26
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