国際医療福祉大学大学院乃木坂スクール2009年度 後期

第3回身体論研究会報告
脳性まひの身体と運動
―イメージ、力学系、官能ー
熊谷晋一郎
脳性まひとは
脳性まひの定義
「受胎から生後4週までの間に生じた
脳の非進行性病変に基づく、
永続的な、しかし変化しうる
運動および姿勢の異常である」
厚生省研究班(1968年)
病型分類
痙直型 spastic type
不随意運動型 athetotic type
失調型 ataxic type
弛緩型 flaccid type
混合型mixed type
約50%
約20%
約10%
脳性まひの原因
The European
Cerebral Palsy Study
JAMA2006
脳性まひと診断された
小児583例中431例を評価し、
うち351例の脳のMRI撮影を行う
早産・感染症・多胎
50.0% 早産
39.5% 母親が感染症
11.8% 多胎妊娠
脳MRI所見
未熟児白室障害 42.5%、大脳基底核病変12.8%
皮質/皮質下病変 9.4%、奇形 9.1%
脳性まひの発生率
1950年代
後半
2.5人
1000出生
1970年代
後半
1980年代
前半
呼吸管理技術の進歩
従来は救命不能であった
ハイリスク児の救命
(特に早産・低出生体重児)
1.0人
1000出生
0.6人
1000出生
周産期医療の進歩
(抗生物質、重症黄疸の治療、
光線療法、帝王切開など)
現在
2.0~4.0人
1000出生
(推定)
減少?
妊娠管理技術の進歩
例:感染症予防
早産管理
再び減りつつある脳性まひ
「予防策に対する認識が高まれば
今後10年で脳性まひの発生率は
大幅に低下する可能性がある」
ロンドン、インペリアルカレッジMartin Bax博士
再び減りつつある脳性まひ
Charlene M. T. et al. “Changes in the Prevalence of Cerebral Palsy for Children Born Very Prematurely Within a
Population-Based Program Over 30 Years” JAMA. 2007;297(24):2733-2740
痙直型脳性まひを
イメージしてみましょう
特徴① 緊張しやすい
まねてみましょう
痙縮とは
一次運動野が障害されることにより、
その下流にある脊髄の運動回路が
統制を失って誤配線を起こす。
寒いときに体がこわばる感じ
でも、緊張とは必要なもの
歩くときに、何十個もの筋肉の
一つ一つを意識して、
指令を下してはいない
おのおのの筋肉は
「勝手に」連動する
特徴② 目標が高いと
(「正しい動き」を強要されると)
よけいにこわばる
健常者も慣れていないとこわばる
健常者の新しい運動学習
⇒初期は予測的に運動を制御できない
⇒筋肉の緊張度を上げて、運動をフィードバック制御
している。
緊張によって関節を固定=制御するべき変数が減る
学習が進む⇒予測が立つようになる
⇒徐々に緊張度を下げてもうまく運動が可能に。
しなやかな動きへ。[Osu et al 2002]。
随意運動の悪循環
高すぎる目標
目標と実際の運動が乖離
焦り
こわばり
目標を前に自壊
特徴③ 折りたたみナイフ現象
こわばる身体に、
受動的に力を加えられ
続けていると、
ある時ふにゃりと
こわばりが抜け、ほどける
抱擁に似た気持ちよさ
ここに、動きの余白が生ま
れるのではないか
搾取と探索
イメージが先か、運動が先か
探索戦略 exploration
Or
搾取戦略 exploitation
搾取戦略
無意識の運動企図
イメージ
・これから行う行為につい
てのイメージを先行的に想
起させつつ、それに沿うよ
うに身体や外界のモノ、人
を配置させるように動くとい
うもの。
・イメージ→運動の順番で
物事が進行する。
・搾取する側はイメージ、さ
れる側は身体、モノ、人。
搾取戦略
搾取戦略
搾取戦略
搾取戦略
搾取戦略
・「自転車に乗る」「歩く」「電動車いすに乗る」
などの、パターン化され、慣れた行為は、無意
識の状態で(イメージを伴わずに)できるように
なる(頭頂葉から小脳へ)。
・このとき、自転車、からだ、電動車いすが、「
身体化」されたと呼ぶことにしよう。
・身体化の範囲は、無意識のうちに連動し、恒
常的なパターンを維持しているシステム。
搾取戦略が完璧に遂行され、他者性
がなくなるときに、身体化が起きる。
身体化が起きると、自己監視の感覚
が消失する。
探索戦略
・イメージを想起しないままの状態で無秩序に
運動を繰り出し、身体と外界とのかかわり合い
を通して徐々に行為が自己組織化される。
・脳には、自分が繰り出した運動と、それによっ
て外界から返ってくる応答の組み合わせが
データとして入ってくることで、外界や自己身体
についてのイメージが出来上がってくる。
・運動→イメージの順番で生じる。
・この様にしてできる世界についてのモデル自
体がイメージのひとつでもあるので、後に搾取
戦略に使われることもある。
無秩序な探索から生まれる自己
ダマジオ
原自己
身体の状態を、継続的かつ無意識的な仕方で、狭
い範囲内に、および生存のために必要な相対的安
定性のうちに維持する、脳のさまざまな装置の集合
(内部環境・内臓・前庭システム・筋骨格の各状態な
ど)→前述の「身体化された範囲」に近いか?
中核自己および自伝的自己
変化しつつある原自己と、そうした変化を引き起こ
す対象=他者の感覚‐運動マップとの関係性を描写
しているもの→イメージ的存在者としての自己
原自己の範囲は変わる!!
U字型発達ー探索と搾取の繰り返し
乳幼児の発達をよく見てみると、白紙の
状態から徐々にいろいろなことができる
ようになるのではなく、無意識的にできて
いた運動(環境との強い協応構造によっ
て反射的に行うパターン化された運動)
が一度できなくなり、再び意識的にでき
るようになるという経過を描く。
運動の自由度に注目すると、
①自由度の凍結(パターン化された搾取
戦略)→②自由度の開放(協応構造に隙
間が発生、無秩序な探索によるイメージ
の分節化)→③自由度の再凍結(再パ
ターン化)
というサイクルになる。
U字型発達ー探索と搾取の繰り返し
イメージに搾取される身体
私のリハビリ体験
• 私は、物心ついたころから十代の半ばぐらいまで、毎日濃厚なリハビリを
受けていた。そのリハビリというのは、「私の動きを、すこしでも健常な動き
のイメージに近づけること」を目標にして行われた。私は、主に母親から、
座り方やずりばいの仕方、お茶わんや鉛筆の持ち方など、日常生活の一
挙手一投足を監視され続け、イメージから外れると厳しく修正された。
• また、座位や膝立ち、片膝立ち、立位などの健常な姿勢パターンをなぞら
せる訓練を、一回一時間半、一日に3回程度行っていた。母親は訓練中、
しばしば激情的になって、イメージ通りにうまく動かない私に厳しく接した。
エスカレートしたときには、バットでつつかれたりもして、文字どおりのスパ
ルタだった。私は訓練中、懸命に、これまで見聞きしてきた健常な運動イメ
ージを想起させながら、私自身が繰り出す運動を自己監視し続ける。
• しかし、イメージを意識して監視すればするほど、私の体は緊張を強め、
かえってイメージから外れた運動を繰り出してしまう。イメージと運動のギ
ャップ→焦り→体の緊張→更なるギャップ→更なる焦り→…という悪循環
によって、私は立ちすくんでしまい、運動が出せなくなる。そして、「自分を
監視する自分を監視する自分を監視する…」というグルグルとした無限回
路が、私の中に重く沈澱し、膨れ上がっていくのだ。
脳性まひリハビリ
の歴史
1950年~1960年代
すこしでも健常者の動きに近づける、
一人でできるようになるためのリハビリ
本人の「体」に介入
■対症療法をめぐって―和田・田中論争
■脳性まひ者を中心とした自立生活運動
■アメリカでの障害受容論
「ステージ理論」と「価値転換論」
→1980年代には衰退
1970年代
すこしでも健常者の動きに近づける、
一人でできるようになるためのリハビリ
本人の「心」に介入
■神経発達学的アプローチの席巻
→この時代、マスコミは「脳性まひは治る」と
センセーショナルに書き立て、
これに翻弄された親子がいるのも事実。
夢の終わり
■科学的根拠に基づく評価
経験主義、権威主義に陥りがちなリハビリに対して、
「統計学的な科学的根拠に基づいて
正確な評価をなすべきだ」
という風潮
→一連の臨床研究の結果、
神経発達学的なアプローチの治療効果については、
十分な科学的根拠がないということがわかってきた。
夢の終わり
1980年代、
米国理学療法協会と米国小児科学会が
声明を出し、
パターニングの効果と
「人間能力開発研究所」が開発した
促進方法の有効性について警告を示した。
「心」に介入するリハビリで
気をつけること
体ではなく、心の問題
↓
努力や気の持ちよう
↓
できないときにその原因を人格的なものに
見出しやすくなる
↓
外在化できない頑張り地獄
1977年生まれの私のリハビリ体験
①前半のストレッチ
②課題訓練
③後半のストレッチ
1977年生まれの私のリハビリ体験
①前半のストレッチ
ストレッチの有効性
「持続的ストレッチングは、
関節可動域を改善させ、
痙性を減少させうるので
強く勧められる」
Pin T, Dyke P, Chan M: The effectiveness of passive
stretching in children with cerebral palsy. Dev Med Child
Neurol 2006; 48(10):855-862
ストレッチのもうひとつの意味
模倣しあいと拾いあい
↓
世界の見え方が
複眼的にそろっていく
②課題訓練
健常な動きの
一方的な模倣
↓
高すぎる目標
↓
自壊
後半のストレッチ
間身体性がない
↓
暴力に近接
↓
幽体離脱を体験
リハビリ後の過食嘔吐
• 訓練が終わると、食事の時間だ。私は、我を忘れて食べた。食
べている間は、自己監視のぐるぐるを振り払うことができた。監
視によってあらゆる運動をせき止められ、出口を失ったグルグ
ルのエネルギーを、「食べる」という行為で発散している感覚だ
。それは、怒りとも、喜びともつかない忘我の恍惚。
• 食事中に茶碗の持ち方などを注意されると無性にイライラとし
、ある時などは怒って茶碗をわざとひっくり返した。それに怒っ
た父親が、私を抱えて暗い部屋にほおり投げ、私はそこで悔し
さのあまり、大声で何時間も泣き続けた。
• 爆発的な過食をした後というのは、一気に正気に戻る。そして
、またあの自己監視のグルグルが舞い戻ってくる。「みっともな
く食べ散らかし、ぶくぶくと肥っていく自分」を責める自分が生
まれるのだ。そしてそのグルグルが再び一線を越えると、今度
は食べた物を残らず吐き出し始めるのである。
竹細工のメタファー
• そんな頃のある日、いつもの厳しい訓練中に、母が私をねじ伏せている現
場を、偶然に通りかかった祖母(母の母親)が目撃した。母のすごい形相を
見て、祖母は泣きながら母を諌めようとした。
• 「あんたの手はなあ…、堅すぎるんじゃ。竹細工でもなあ、乱暴にやりゃあ
ぽきんと折れるじゃろう。ゆるりゆるりと、しなる竹をやさしゅうに曲げんに
ゃあいかん。」
• 母は、今亡き祖母のこのセリフを思い出して口にするたびに、うっすらと涙
ぐむ。
•
そう、母の思い描くイメージに沿わせるように、私の体に介入してくる母の
手は、堅かった。切る感じ、押す感じ、弾く感じのする手だった。それは、私
の体から発せられる情報を拾ってくれる手ではなかった。健常な動き、とい
うイメージから流れ出してくる情報やエネルギーのようなものは、母の手を
伝って私の体に流れてくる。そこには、「目指すべきイメージ→母の手→私
の体」という一方通行の情報の流れがあって、下流にある私の体は今にも
折れそうになっていた。
竹細工のメタファー
•
しかし、これは最近になって母から聞いたことなのだが、「そんなに厳し
くしなくってもいいじゃない」という周囲のセリフと、「あなたがこの子をなん
とかしなさい」という周囲の暗黙のメッセージの間で、当時の母自身も折
れそうになっていたそうだ。そして、折れそうになるたびに、「自分が折れ
てしまったら、この子は誰からも見捨てられてしまう。どうか神様、私が折
れないように見守っていてください。」と、祈り続ける日々だったという。だ
からあの日の母は、諌める祖母のセリフに一瞬ひるみながらも、それを
振り払って訓練を続けたのだ。
•
そういう意味では、母が唯一の加害者というわけではない。「健常な動
き」「子供のために尽くす母」という規範的なイメージこそが、最上流に位
置する加害者なのだ。規範的なイメージは、大人同士の相互監視によっ
て維持されており、すべてはそこから流れ出す。つまり、「イメージ→母→
母の手→私の体」という一方通行の情報やエネルギーの流れがあって、
母自身もイメージから監視され、折れそうになっていたのである。
竹細工のメタファー
• それにしても、祖母が使った竹細工のメタファーは、含蓄に富
んでいる。竹細工を作るときには、あらかじめ「こんな作品を作
ろう」という大まかなイメージがあるのは確かだろう。しかし、素
人のように、一足飛びにイメージ通りの形にしようと竹に無理
な力を加えてしまうと、ぽきんと折れてしまう。竹のしなりや軋
みを情報として受け止めながら、いたわるように力を加えてい
かなくてはならない。つまり、情報が「イメージ→手→竹」の一
方通行に流れるのではなくて、「手⇔竹」のように相互に情報
をやりとりしあいながら形を作っていかなくてはならないのだ。
• その結果できあがる最終的な竹細工の形というものは、最初
のイメージとは異なるものになる。しかし、それでよいのだ。確
固たるイメージが最初からあるのではなく、「手⇔竹」という、
手と竹の相互の情報のやり取りによって、想像していなかった
新たな形=イメージが事後的に生み出されるのである。
投企によって立ち上がる私
一人暮らしの経験
• 私は、18歳で一人暮らしを始めた。それ以前は、健常なイメージに近づくよ
うになるためのリハビリはされてきたものの、なぜか「入浴」「着替え」「移動
」といった、日常生活を構成する具体的なあれこれの動作に関しては、親
が、すべて手となり足となって介助していた。あまりにも体の一部のように
親の介助が生活に組み込まれていたものだから、私は私が、自分ひとりで
どこまで出来てどこからは出来ないのかさえ、分からずにいた。
•
ところが、18歳で両親の反対を押し切って一人暮らしを始めた私に訪れ
たのは、大きな世界の変化だった。トイレの便座、台所、ドアノブ、電話、ベ
ッド。それらすべての「モノ」の名前を、私は知っていた。しかし、例えばトイ
レの便座の材質や冷たさ、ぐらつきやすさなどは、何一つ知らなかった。便
意に襲われて、便座まで這って行って、便座に手をかけて上体を起こし、
乗り移る。失敗するたびに体の動かし方を見直したり、便器を改造したりす
る。このような試行錯誤は、まさに、「私の身体⇔便座」という、便座と私の
身体との、情報やエネルギーのやり取りであり、便座も、私の身体も、互い
に歩み寄るように形を変えていく。その過程で、私は便座のなんたるかを
知り、私の身体の限界と可能性を知ることになる。
一人暮らしの経験
•
同じようにして私は、「私の身体⇔シャワールーム
」「私の身体⇔ベッド」「私の身体⇔玄関」などといっ
た情報交換を通して、世界について、そして私の身
体やその運動についてのイメージを立ち上げていっ
た。
• かつて私と世界との間には、親という存在がジェル
のように媒介しており、私と世界が直接に接触して
情報をやり取りするということはなかった。その結果
私は、世界についてのイメージも、自己身体につい
てのイメージも、曖昧なままでしかもっていなかった
のである。一人暮らしによって、私の輪郭も、世界の
輪郭も、はっきりとしてきたのである。
1980年~1990年代
健常者と同じ動きにこだわらず、
周囲とつながるためのリハビリ
本人と環境との「関係」に介入
■アメリカ型自立生活運動の輸入
■当事者運動とリハビリテーションの合流
■障害受容論の輸入
根治を目指すリハビリの熱狂に対して
専門家内部から疑義
しかし現場では、概念乱用の傾向
「ゆだね」と「ささえ」
動きというのは、
自分の体一つで生じるものではなく、
体と周囲のモノ、周囲の人との
「関係」で生じる
例:呼吸は空気がなければできない
歩行は地面と重力がなければできない
ロボット研究の視点から
ー運動の投企ー
■「ゆだね」と「ささえ」で人は歩いている
自らバランスを崩して倒れ込む。
倒れ込みながらも、その大地から受ける抗力を使って、
動的なバランスを維持する
ゆだね 行為の意味や価値を見いだすために、
その意味や価値をいったんは環境に委ねる
ささえ
地面やモノなどがそうした投機的な行為を支え、
意味や役割を与える
参考文献 岡田美智男[2008]「人とロボットとの相互行為とコミュニケーションにおける身体性」
『現代思想』三六巻一六号
Muu
岡田美智男氏のHP http://www.icd.tutkie.tut.ac.jp/projects/muu.html より
実体としての同型性
人間並み、
あるいはそれ以上に
色々なことができる
ロボット
関係としての同型性
体と環境が1つのシステムを作り、
関係を支えつつ
関係に支えられるようなロボット
ささえられて意味を持つ運動
生活を共にしているうちに
動きの意味を
拾われるようになる
関係から生まれる動き
モノと作り上げる動き
トイレとのチューニング
何度も経験する「失敗」は、私の体のこわばりを緩める
↓
緩んだ私の身体は、周囲とつながるためのあそびを持つ
↓
私の意識が必ずしも届かない場所で、
半ば自動的にトイレとのチューニングを始める
トイレに対して繰り出すさまざまな運動のレパートリーが増えた
⇒自分の輪郭がはっきりしてくる感じ
私の運動に応答する形で、便座の高さ、滑りやすさや
体重をかけたときのぐらつきぐあい、腰掛けたときの体と便座の摩擦など、
トイレについての特徴を知ることになった
⇒世界がはっきり見えてくる感じ
電動車いすとの出会い
・慣れてくると体の一部になる
・二次元から三次元へ
・時間の流れや距離感が変わる
見直されつつある電動車いす
Butlerは電動車椅子使用効果を研究
・自己開始行動が増加した
・親たちも、満足と積極的心理的効果があった
「移動補助具選択の結果が歩行発達の可能性を妨
げないし、同様に子どもたちが、代替手段を利用し
たとしても、歩くことを諦めない」
「電動車いすは最後の移動手段と考えるのでなく、強
い運動障害のある子どもの効果的な自立移動を提
供するものと考えるべきである。」
Bottos M, Gericke C: Ambulatory capacity in cerebral palsy: prognostic
criteria and consequences of intervention. Dev Med Child Neurol
2003;45(11):786-790
ヒトと作り上げる動き
さて、どうしようか・・・
百円ショップのテクノロジー
一人でやろうとする
と、必要なモノがどん
どんかさばってくる
模倣しあいと拾いあいで
チームワークが立ち上がる
ストレッチのときと同じ、
動きを取り込みあい、拾いあう
横並びの関係
チームワークの基盤
採血のすがた
失敗のない挑戦
あそびのある実験的構え
• 失敗に対してみんなで楽しみ、
共有する
• 実験的構えならば、失敗も成功も
データと経験の積み重ね
↓
焦りとこわばりの悪循環に陥らない
回復を目指すアプローチ
宮本省三(2008)「脳のなかの身体」より
「情熱(パッション)の灯火を消さないこと。
この闘いを回避し、勝利をあきらめることは
論外である。」
「早期の家庭復帰や社会復帰を目的とした
代償的なアプローチであり、
こうした日常生活動作訓練によって
麻痺肢の手足が動きだすわけではない。」
疑問点
一貫した理論や実践がなく、
常にアプローチが変容し続けるという危うさ
少数派の身体を「克服すべきもの」
として捉え、それを克服することに
情熱を燃やすという同化的な考え方
痙性は悪か?
宮本省三(2008)「脳のなかの身体」より
リハビリテーション医療の臨床で働く
セラピスト(理学療法士や作業療法士)が
人生のすべてをかけて闘うべき相手は
「運動麻痺」である。
そのなかでも特に脳卒中、脳性まひ、
脊髄損傷などで出現する「痙性まひ」は
強敵である。
痙性の強さと、運動発達との間には
それほど関係がない
family-centered functional therapy
ecological approach
1940年代のCarl Rogerの研究から、北欧、米国を中心に広まる
「ボバース、ボイタ法と比較し
有意に有効な結果を得た」
Ketelaar M, et al.:Effects of a functional therapy program on
motor abilities of children with cerebral paslsy.Phys Ther
2001 ;81:1534-1545
身体化と自己決定の対立
• 介助者は被介助者の手足になるべきだ。
↓
• 先回りせずに被介助者の自己決定に従う。
↓
• しかし、自己決定を意識しなくなるのが身体
化の条件。
↓
• 手足になれない介助者。
身体化と暴力
• 一度、モノや人を身体化してしまうと、思い通
りに(イメージ通りに)動かないと無性にイライ
ラしてしまう。
• 相手が壊れてしまうと、抑うつ感を感じる(電
動車いすの故障)
他者化する身体
投企の限界と身体との対話
• 一人暮らしで自信をつけた私は、「この様な試行錯誤
で、私はどこまで出来るようになるだろう」という前向き
な生き方で突っ走ってきた。なんでも試行錯誤だ、と、
とりあえずチャレンジしてみた。失敗ない。すべては知
るための実験だ。そんなマッチョな時期もあった。
• しかし、30を過ぎたころから、体がSOSを発するように
なってきたのである。頸椎症で、左腕がしびれ、思うよ
うに動けない。私は今まで身体外にあるモノや人とば
かり情報交換をしてきて、最も足元にある身体と、情
報交換をしてこなかったのだ。私は、私の身体を搾取
していたのである。私は一人暮らしを始めて以来作り
上げてきた、生活や、自分自身の限界についてのイメ
ージを、書き換える必要に迫られた。
二次障害
アディクション
原自己の恒常性を掘り崩す習慣
再帰性とアディクション
アルコホリズムの社会学
• ギデンズが指摘するとおり、再帰性こそが、アディク
ションの論理的な意味での生みの親である。再帰性
という規範がその論理的対称物としてアディクション
を析出する。同時に、アディクションという観念の存
在が、再帰的な自己というフィクションをリアルなも
のとして存立させている。P.188
• そして、もうひとつの側面が、いま述べた、アディク
ションを無限の反復へと昂進させていく原動力として
の再帰性である。再帰的な自己であろうとする努力
が、アディクションのプロセスを実質的に駆動する。
P.188~189
流動化と「潜在能力と開発」規範
不安な経済、漂流する個人
• セネットは、流動化した社会において高まる自己消
費的情熱(アディクション)の背景に、潜在性(再帰性)
とブランド化(幻想の投影)があると言った。
• 想像力は何かを望むときに最高潮に達し、手に入
れると次第にしぼんでゆく。P.141
• みずからもたぬものに対して非常に強い情熱を燃
やすが、一度、所有するとそれに対する熱意を喪失
する。 P.142
流動化社会におけるイメージ編集
「発達障害当事者研究」3章
意味づけできない情報(ノイズ)の飽和
再帰性(シュトコー)
想像的世界(オハナシ)
流動化と「潜在能力と開発」規範
現代は、流動化した社会と呼ばれる。人間も、モノも
、関係も、常に変化し続けるよう命令されているのだ
。そのような社会には、パターン化されずに浮遊する
断片的な情報や、現状否定のひずみエネルギーが
満ち溢れており、その発露として、多種多様で短命な
イメージが次々に産み落とされていく。そして一部の
者が、次々に産み落とされるイメージを素早く掬いあ
げ、それを実装するための商品やサービスを生み出
す生産ラインを用意し、短期的利益を上げる。さらに
言えばこの、次々に形を変える職場に従順に適応し
うるのは、ほかならぬ、変化しやすい流体のような人
間だ。
当事者研究
ー私に碇を下ろすにはー
平安の祈り
神様 私にお与え下さい
変えられないものを受け入れる落ち着きを、
変えられるものを変える勇気を、
そして、その2つを見分ける賢さを
A変えられない部分:外在化される必然性の領
域。変えられず受け入れるしかない。
B変えられる部分:自由と責任の領域。変えうる
がゆえに現状否定のエネルギーが向く。
ジェネラル・ムーブメント
他者に拾われないこと、ひとりでいることの意味
私の動きを、私が拾う
私が話すのを、私が聞く
自己に根が生え、熟していく感覚
しかし、ひとりでやらない
• 近代は「自己をすでに存在するものではなく、達成すべきも
のとする点で、自己の限界という考え方をあらかじめ巧妙に
排除する仕掛けになっている。P.190」→B領域の拡大
• 数多くの他者のまなざしと、数多くの語りのデータベースに触
れることが必要
• 多様性があるわけだから、ある語りでそっくりそのまま自分を
語れるはずはない。語りのパッケージを押し付けられ、説得
されるのではなく、他者(他の患者、スタッフ)の語りの一部
断片を、自分の語りへと借用する。
• そうして、流動的な自己に、碇を下ろす。
いいっぱなし、ききっぱなし空間
• 匿名になって、断片的な語りを回す空間
• 自己の記憶や身体感覚を参照しつつ、回って
くる言葉の一部から「自分がたり」を再構成し
ていく
• 話すことと聞くことの非同期性が、ノリのよう
な同期的コミュニケーションを脱臼させ、語る
こと、聞くことに集中していく
• 具体的他者に対してというよりも、HPに向か
って語る→祈り
• 語りのデータベースが共有されていく