俳優の身心変容技法 演劇人類学とパフォーマー

俳優の身心変容技法
演劇人類学とパフォーマー
松嶋 健
(京都大学 人文科学研究所/多摩美術大学 芸術人類学研究所)
第18回 身心変容技法研究会
京都大学稲盛財団記念館
俳優の身心変容技法は
はたして「技法」なのか
グロトフスキの〈貧困な演劇〉と〈否定の道〉
バルバの演劇人類学
〈プレゼンス〉と〈前表現性〉
演劇実験室のトレーニング
〈中動相〉と〈パフォーマー〉
イェジュイ・グロトフスキ
1933年 ポーランド、ジェシュフ生まれ
クラクフの国立演劇大学で学ぶ
1955-56年 モスクワに留学
1959年 ルドヴィク・フラシェンと共にオポーレ
に演劇実験室(Teatr Laboratorium)を立ち上げ
る
1985年からイタリアのポンテデラを拠点に活動
〈貧困な演劇〉
演劇とは何か?
文学、絵画、建築、照明、演技の総合としての演劇
=〈富裕な演劇〉
演劇にとって本質的でないものをすべて剥ぎ取って
いく=〈貧困な演劇〉
残るのは、「生きた身体が身近にあること」
三つの要素=俳優と観客とその場(=演劇実験室)
「問題は、剥き出しの実験室の状況、探究
にふさわしい場を作り出すだけのことであ
る。事実、最も本質的なことは、あらゆる形
式の演出のための固有の観客=俳優関係
を発見することであり、劇場空間の配置の
なかでその決定を具体化することである」
俳優の身心変容技法としての〈否定の道〉
Via Negativa(否定の道)
様々な技術を獲得していく(足し算)のではなく、自分を超え
出ていこうとする肉体の抵抗を取り除いていく(引き算)過程
「われわれの演劇において、俳優を養成するとは、何かを教
えることではない。そうではなく、心的過程における肉体の
抵抗を取り除こうとしているのである。その結果は、内的衝
動が即、外的リアクションであるように、内的衝動と外的リ
アクションとのあいだの時間間隔がゼロになることである。
衝動と行為は同時である。身体は燃え尽きて姿を消し、た
だ一連の可視的な衝動だけを観客は見るのである」
呼吸について
「どんなふうに呼吸をすればいいか?」
たしかに子供や動物、自然にいちばん近い人々は腹式呼吸をしている
だが「腹式呼吸でもどんな種類のものがいちばんよいか?」
無数のタイプの呼吸法の中からこうでなければいけないと決めようとするが、これはひど
い誤り
呼吸というのは、それぞれの人間の特徴に結びついた生理的な反応で、その場の状況や活
動の種類、身体の運動によって左右される
客観的に完全な腹式呼吸を無理に押しつけようとすると、自然な呼吸ができなくなる
まず「この俳優の呼吸には何かさしさわりがあるだろうか」と問う
例えばある俳優が身を固くしている。なぜ緊張しているのか
われわれは何かしらの緊張状態にあるもので、完全にリラックスした状態にはなれない
俳優が遊んだり、他の俳優と言い争っているところを観察する
その俳優の自然な呼吸法がわかってくれば、その自然な反応の障害になっている要因が見
えてくる
彼の精神と肉体を総動員せずにはいられないような課題を出す
精神=身体トレーニング
コルポレルと呼ばれるエクササイズ
一連の倒立、肩倒立、宙返り、跳躍など
脊椎を柔軟にし、身体の平衡の限界を試すことができるようにする
自身の身体に信頼感を取り戻すこと
自分の手には負えないと感じられる難しい課題に集中すること
で、相手と組んでうまくできるだろうかといった精神の働きを超
えてしまい、結果として自分の中のより大きな力に身を委ねる
ことを妨げないための効果的な手段となる
「われわれはプロの俳優たちの専有物であるレシピやステレオタ
イプを探しているわけではない。「憤りを表わすにはどうすれば
よいか?どう歩けばよいか?シェイクスピアはどのように演じる
べきか?」といった質問に対する答えを探しているわけではない
のです。確かにこれはもっともよくある類の質問です。そうでは
なく、俳優に聞かなければならない問いはこうです――「最も本
能的なものから最も理性的なものまで、君の精神=肉体のすべて
を必要とするような、全体的演技への進化の過程で、君を抑えて
いる障害物とは何なのか?」われわれは、呼吸や運動、そしてと
りわけ人間関係において妨げとなっているものを見つけ出さねば
なりません。そこにはどんな抵抗が隠れているのか?どうすれば
それを除くことができるか?俳優を邪魔しうるあらゆるものを私
は取り除いて、脱がしてやりたい。創造的なものは彼の中に残る
だろう。」
エウジェニオ・バルバ
1936年 南イタリア・ブリンディシ生まれ
1954年 ノルウェーに移住し船員として働く
1961年 ポーランドでグロトフスキと出会い共に活動
1964年 オスロで演劇学校の入学試験に落ちた若者
と劇団オーディン・テアトレットを立ち上げる
1966年 デンマークに拠点を移し、北方演劇実験室/
オーディン・テアトレットと改称
上演と日常の関係
俳優の日常のトレーニングは何のためのものか
舞台上の〈プレゼンス〉の問題
舞台上に二人の俳優がいるのを見て、たとえその上
演形式に馴染みがなく、二人が何を話しているか理解
できない場合、一方の俳優に全く関心がなくても、もう
一方の俳優から目をそらすことができないのは一体な
ぜか
インド、バリ、日本など東洋の演劇への関心
演劇人類学のコンセプト
「演技者たちの活動の場と時代はさまざまに異なり,し
かもそれぞれの伝統に特有の様式を保持しているにも
かかわらず,彼らの原則には共通したものがある.演
劇人類学の第一の目標は,この(共通性に帰着する)
原則を再発見することだ」
ISTA(国際演劇人類学学校)
1979年にバルバが設立
演劇人類学の探究のための国際移動大学
実践的なクラスやワークショップを通して、異なる文
化における演劇の比較分析を行う
各地から多彩な演劇人が講師として参加(日本か
らは観世栄夫、野村万之丞、吾妻勝子など)
前表現性 (Pre-espressività)
「前表現的基層は,観客が総合的に知覚すると
いう意味で、表現レベルに含まれている。しかし、
作業過程を通じてこの段階を区別しておくことで、
俳優は〈あたかも〉この局面での主な目的が決
して意味を表すことではなく、むしろエネルギー
や存在感、所作の〈生命力〉を主に取り扱うのだ、
というふうに前表現レベルでの作業をすること
ができるようになる」
前表現性の四つの原理
(1)アンバランスなバランス
(2)非経済的なエコノミー
(3)力の矛盾と均衡
(4)一貫した非一貫性
能〜落とした腰、曲げたままの膝、摺り足は各部位に対立する緊張を生み出し、背骨の位置を
変え、身体の重心を変え、新たな均衡点を発見するよう促す
インドの古典舞踊オディッシ〜「トリバンギ(Tribanghi)」と呼ばれる表現形式が、踊り手に腰・首・
胴体を通して体全体がS字に貫かれているように体を使うことを要請し、演者に新たなバランス
の発見を促す
バリ舞踊〜足の裏を地面に密着させながら爪先だけは上に持ち上げることによって地面との接
触を最小限にするため、体は不安定となるが、それを補うために歩幅を広げ、膝を曲げることで
新たなバランスと持続する身体的緊張状態を作り出す
日常の自動化された身体の使い方を脱日常化する
舞台の上で演技のためのエネルギーを呼び起こすことを可能にする
精神病者との演劇実験室
• イタリア中部M市
• 2005年から3年間の演劇実験室
• 精神病者(精神保健センターの利用者)による劇団を作ろうと
いうプロジェクト
• フラシェンと共にワークショップを行なっている演出家とオー
ディン・テアトレットの俳優たちが指導
• セラピーとしてではなく、あくまで演劇が目的
• 発表者は1年間参加
刑務所内の演劇実験室
1988年 要塞の劇団(ヴォルテッラ)
ペーター・ヴァイス作「マラー/サド(マルキ・ド・
サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者に
よって演じられたジャン・ポール・マラーの迫害と
暗殺」
ローマ・レビッビア刑務所
『塀の中のジュリアス・シーザー』タヴィアーニ兄
弟(2012)
精神=身体トレーニング
ゆっくり歩く
〈中心〉で歩く、〈中心〉が歩く
ジェルンディオ
自らの動作を実況中継する
スローモーション
1つのアクションをサブアクションに分割し時間をかけて行う
雲
〈中心〉から発出した動きを連続変化させていく
精神=身体トレーニング
Tics
他人にくすぐられる、高温の鉄板の上に裸足で立っているといった状態
を想定
棒
2-3mの細いしなる棒を用いて二人組で行う
蜘蛛の巣
雲を多人数でインタラクティヴに行う
歌う
歌をだんだんしゃべりにしていく
人間ドラム
自分のからだを楽器にして共鳴させる
能動と受動の「あいだ」
刺激に対する「反射」と能動的行為の「あいだ」に広がる広大な領域の探
索
モノと他人の身体が嵌入している
それらを統合する身体図式
「ここ」にいながら「あそこ」にいる
反転可能性(メルロ=ポンティ)
多数のインパルスの群れの相互作用の結果として行為が生じている
そういう群れの「効果」としての「私」
自己の身体が拡張し、モノと他人を含んだ集合身体の効果としての「私」が立
ち現れる
Corpo Deciso(決断された身体)
「ヨーロッパの多くの言語には,俳優の生にとって本質的なものを一言で
言うために選ばれたような表現がある.それは文法的には逆説的な表現
である.受動態が能動的な意味をもち,行為への現働化をもたらすエネル
ギーのしるしが,受動態のかたちで隠されて示されている.それは曖昧な
表現なのではなく,雌雄同体なのであり,要するに,それ自体アクションか
つパッションなのである.(略)だがそれは,何か、あるいは誰かがわれわ
れのために決め、その決断をわれわれが甘受したり、われわれがその決
断の対象になるということを意味するのではない。けれどもまた、われわ
れが決断しているというのでも、決断するという行為を為しているのがわ
れわれであるというのでもない。この相反する状況の間に,生の息吹が吹
き抜ける.(略)説明不能、ただ直接経験だけが〈決断される〉の意味する
ものを示すのだ」バルバ
中動相と〈パフォーマー〉
中動相の身体
グロトフスキの〈パフォーマー〉
「パフォーマーは行動の人である.それはダンサーであり,僧
侶であり,戦士であり,あらゆる芸術ジャンルの外にある.
パフォーマンスがその儀礼であり,完遂された行動は一つ
の行為となる.(略)その過程は存在=本質(essenza)に結
びついており,潜在的に,〈存在本質の身体〉に導く.われ
われが過程に入るとき,身体はその抵抗をなくし,ほとんど
透明となる.すべてが軽やかで,すべてが明瞭になる」
二重性としての〈私〉
〈乗り物〉としての芸術
〈証人〉としての観客
「〈私–私〉が存在する.二番目の〈私〉は潜在的なものであり,わ
れわれの中にあるのでもなければ,他者のまなざしでもなく,良識な
のでもない.それは まるですべてを照らす太陽のような,不動のま
なざし,沈黙の現前,ただそれだけだ.各人の過程は,この不動の
現前の文脈においてのみ果たされる.〈私–私〉.経験において,こ
の二重性は分離されたものとしてではなく,充実した一つのものとし
て立ち現れる」
参照文献
• Barba Eugenio, (1993). La Canoa di Carta. Il Mulino.
• Barba Eugenio, (1996). Teatro. Solitudine, Mestiere, Rivolta. Ubulibri.
• バルバ, エウジェニオ+サヴァレーゼ・ニコラ, (1995) 『俳優の解剖学―演劇人類
学事典』中嶋夏・鈴木美穂訳, PARCO出版.
• Flaszen Ludwik & Pollastrelli Carla & Molinari Renata, (2007). Il Teatr
Laboratorium di Jerzy Grotowski 1959-1969. VoLo publisher s.r.l..
• Grotowski Jerzy, (1970). Per un Teatro Povero. Bulzoni.
• Grotowski Jerzy, (1988). Il Performer. TEATRO E STORIA, 4-n.1.pp.163170.