Reggae 大賀・市場・但野・立川・清水 ジャマイカ① “砂糖・コーヒー・タバコ” ヨーロッパでの嗜好品 ジャマイカでのプランテーションで需要に応える ジャマイカ→金を生み出す機械 1509~1655年までスペインの統治下 のち、イギリスの統治下(1962年独立) 奴隷貿易によってプランテーションの経営を行う。 ジャマイカ② • 1655年から1808年の間 100万人を超える奴隷がアフリカから • 1930年代初頭 ラスタファリアリズムの発展 奴隷制によって引き離された祖国エチオピアへの 帰還を唱える思想(宗教的な部分もある) エチオピア最後の皇帝 ラス・タファリ ラスタファリアニズムの特徴 • • • • 内面の自己規律を追及 不条理な社会状況を改革する必要性 自分たちを抑圧する力に対しての抵抗 アフリカの系譜に誇りを持つこと 奴隷扱いへの不満のはけ口として 一人の人間として 実際にこの動きが社会で目に付くようになるのは 1968年~1969年頃(都市の貧困層・学生・知識人によっ て) ジャマイカ③ 大きなターニングポイント 1972年2月総選挙 長年政権を握っていたジャマイカ労働党を、 人民国家党が破った。 【この総選挙に影響を与えたもの】 ①1960年代前半の公民権運動の影響によるブラックパワー ムーヴメント ②1968年のロドニー事件の影響 ロドニー…若い研究者で、ブラックパワーなどをトピックにキ ングストンの大学で講義をし、学生運動を促進させた。 レゲエの誕生 1968年、このような政治状況の元、 ロック・ステディより、より政治的なメッ セージを持つ攻撃的なレゲエが、生 み出される レゲエの歴史 レゲエの語源→いくつか諸説がある ・「ぼろ、ぼろ布,または口げんか、口論」という意味を持つス ラングから転じた。 (1967年のジャマイカの辞書) ・「Do the Reggae」1967年 トゥーツ・ヒバート作曲 reggaeという言葉を最初に曲に使った。 ・ボブマーリー曰く、 「作られた言葉で70年代始めから使われ始めたが誰が最 初に使ったかは分からない。」 スカ→ロックステディ→レゲエ誕生へ スカ・・・1950年代にジャマイカで流行していた 音楽。アメリカのR&Bとカリブの音楽が融合し て出来た。→レゲエの基礎となる ロックステディ・・・1960半ば頃~。緩やかなリ ズムや美しいボーカルのコーラスが特徴。 ↓ 1960年代後期 レゲエ誕生 1967年の「Do the Reggae」によってさらに広まる 1970年代 成熟期 1970年代のレゲエはルーツロックレゲエと呼 ばれ、ラスタファリズムの影響が顕著に表れ ているとてもメッセージ性の強いレゲエ。ボブ マーリーによって世界中に広がる。 *ラスタファリズム・・・アフリカ回帰運動。 1980年代 変換期 1981年のボブマーリーの死を契機にラスタ ファリズム色の強い歌詞は薄れていく。そして、 自分の力を誇示するような歌詞のダンスホー ルレゲエへと移り変わっていく。 1990年代~現在 80年代はまだまだ国内だけのものであったダ ンスホールレゲエが世界に広がる。またジャ マイカ人以外のレゲエ歌手が活躍するように なる。→世界のレゲエへ まとめ ・レゲエはあくまでジャマイカの音楽の移り変わ りの中自然な形で生まれた。 ・そこに当時の時代背景と相まってメッセージ性 の強い音楽へと変化し世界へと広がった。 レゲエの広まり レゲエの生みの親ボブ・マーリー ボブ・マーリー(本名ロバート・ネスタ・マーリー)は、1945年 2月6日ジャマイカ北部海岸沿いの小さな村、ナイン・マイル ズで生まれる。 彼の父親ノーヴァル・マーリーは、ジャマイカ駐屯のイギリス 軍大尉で白人だったが、母親は地元ジャマイカの黒人だった。 白人と黒人との混血であり、支配者と被支配者との間に生ま れた子供という彼の境遇は彼を苦しめた。1950年代にジャ マイカのキングストンに移り、音楽活動を開始する。その後レ ゲエを歌い始めたきっかけは「嘆き」からだと話している。ジャ マイカという小さな島国を飛び出し世界を駆けめぐることにな るのも、彼の生み出したレゲエが世界中へと広がって行くの も、すべてはこの彼の生い立ちから始まったと言える。 *代表作 “I Shot the Sheriff” ボブ・マーリー • ボブ・マーレィがボーカル・ギターをする “ウェイリング・ルード・ボーイズ”の結成 歌詞 社会的不平等 人種的不平等 • レゲエ・ビジネス開始 レゲエ元年 ・1972年という年は、レゲエの世界進出元年とも言える年。ジミー・ クリフが主演したレゲエの伝説的映画化 『ハーダー・ゼイ・カム Harder They Come』が、この年に公開され、サ ントラ盤が世界的に大ヒットする。 ・ポール・サイモン(1941年生まれ、ユダヤ系アメリカ人シンガーソン グライター)が、ジャマイカでレゲエ・ナンバー『母と子の絆』を録音し たアルバムが世界中で大ヒットとなる。この曲は白人によるレゲエ・ ヒット第一号である。優美でフォーク調のシンプルな楽曲に慣れてい た大多数のサイモン&ガーファンクルのファンの度肝を抜いた。この アルバムでは、サイモン&ガーファンクルで築き上げたスタイルを敢 えて崩し、レゲエやスカなど全く新しいジャンルの曲目で占められた が、大衆に迎合せずに、新たな創造性を求めるという、他のポップ・ ミュージシャンとは一線を画す真のアーティストとしてのアプローチは、 その後発表されるアルバムでも繰り返されることとなる。 The Harder They Come① 1972年、レゲエ映画の元祖 ・ジャマイカのイメージを作った映画 ジャマイカはイギリスの植民地から実質的なアメリ カの植民地へとなってしまった国である。カリブの 楽園として、リゾート開発を行いながら、一歩街を 出るとスラム街が広がる貧しい国でもある。そうし たもともとのジャマイカのイメージを世界中に広め た最初の映画。 The Harder They Come② ジャマイカ初の映画 ジャマイカ初の劇場用映画。監督はジャマイカ生まれの白人ペリー・ ヘンゼル。彼はイギリスで育ち、テレビ・ドラマやCMの世界で活躍し た後、故郷ジャマイカで初めて映画製作&監督に挑戦した。 映画の中に登場するリアルなキングストンの街並みを飾らず欠かさ ず撮っている。実際この映画が完成した時、出演していた俳優が二 人も射殺されてこの世を去っていたというエピソードもあるくらい当時 のキングストン周辺のスラム街、シャンティ・タウンは危険な場所だっ た。そんな街をとことんリアルに写し取ったことで、この映画は作りも のではない「生きたジャマイカ」「生きたレゲエ」を描き出すことに成功 した。(あまりにリアルに描きすぎたため、犯罪を誘発する恐れありと して、ジャマイカ政府はこの映画を上映禁止にしてしまったほど) The Harder They Come③ レゲエ文化を紹介したカルト・ムービー この映画は1973年の作品だが、映画の公開 よりもサントラ盤の発売が先行し、いち早く音楽 としてのレゲエ・ブームの火付け役となった。そ のため、映画の公開時にはすでにこの映画は カルト的な存在になっていたといえる。1972年、 レゲエ映画の元祖。 世界中にレゲエが認知され、 人気拡大を促した、 出来事・映画・CD・アルバム 1972年: 映画『ザ・ハーダー・ゼイ・カム』 • レゲェが世界中に広まったきかっけとなる映画。首都キングストン を舞台にしたジャマイカ初の長編劇映画。サントラ盤が世界的に 大ヒットし、ジャマイカだけではなく、アメリカでも大反響があり、レ ゲェ・ムーブメントを巻き起こした。役者のほとんどが現地人であり、 キングストン周辺のスラム街、シャンティ・タウンなど「生きたジャマ イ」を描きだし、ジャマイカのもつイメージを世界中に広めた最初の 作品である。日本でも70年代末ごろミニ・シアターや大学祭での 呼び物として全国で上映された。 • 【監督】ペリ・ヘンゼル:ジャマイカ生まれの白人 • 【主演】ジミー・クリフ:レゲェ・ミュージシャン • 【あらすじ】ジャマイカの貧しい農村からスターの座を夢見てキング ストンに上京してきた青年、アイバン(ジミー・クリフ)の姿を描く。 1973年: 『キャッチ・ア・ファイア』〔アルバム〕 • 1973年:ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズが メジャーデビュー。 • ボブ・マーリー(1945‐1981):第三世界出身の 歌手として最も大きな商業的成功を収め、多 くの国々の音楽家に影響をあたえた。 • 代表曲『one love』歌詞とyoutubeの動画 http://www.yo.rim.or.jp/~tomte/puppet/onel ove.htm 1974年: 『アイ・ショット・ザ・シェリフ』 カバー • 1974年:エリック・クラプトンがボブ・マーリー& ザ・ウェイラーズの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」を カバーしレゲェ楽曲としては初めてBillboard Hot 100チャート一位を獲得 • 日本では1970年代後半からフラワー・トラベリ ン・バンドやペッカーらがレゲエを取り入れた音 楽を製作。1979年ボブ・マーリー&ザ・ウェイ ラーズが来日公演を行ったことをきっかけにレ ゲェ人気が高まった。 1985年: 『アンセム』グラミー賞レゲエ部門 • 1985年:グラミー賞にベスト・レゲェ・レコーディ ング部門が設けられ、ブラック・ウフル「アンセ ム」が第一回受賞作品となった • • 【補足】横浜レゲエ祭:日本最大のレゲェのイベ ント • 1995年8月19日にスタートし当時の観客動員 数150人。昨年第16回を迎え観客動員数は 15000人へ。日本のレゲェ人口の増加が目に見 えるようである。 日本でのレゲエ • 1970年代後半から 【レゲエを取り入れた人々】 フラワー・トラべリン・バンド 豊田勇造 上田正樹 ペッカー • 1979年 ボブ・マーレィとザ・ウェイラーズが来 日公演 →日本においてレゲエに注目が集まり、人気が 高まるきっかけとなった。 日本でのヒット • 2001年 三木道三 『Lifetime Respect』 http://www.youtube.com/watch?v=btwWPXfhi-0 • 2006年 MEGARYU 湘南乃風 アルバム MEGARYU『夜空に咲く花』 http://www.youtube.com/watch?v=1ZXPEd3z2TY 湘南乃風『純恋歌』 http://www.youtube.com/watch?v=tUNjftJ8zm4 すべてオリコンチャート1位 三木道三 Lifetime Respect 一生一緒のいてくれや みてくれや才能も全部含めて 愛を持って俺を見てくれや 今の俺にとっちゃお前がすべて 一生一緒にいてくれや ひれくれや意地っ張りなんかいらない ちゃんと俺を愛してくれや 俺を信じなさい いつのまにか本気になった俺は お前の優しさに惚れた お前だけは手放してはいけないと思えた 今は湧いてくる愛しさに溺れたい 歌うで大切なひとへ 幸せになりたいなら任せとけ 俺の夢と胸ん中はバラ色で 溢れるのはお前の笑い声 ジャパニーズ・レゲエ① 社会的、経済的、歴史的に全く異なるジャマイカ • サウンド(メロディー)に関しては非常にゆっくり で陽気 サウンド→日本で受け入れられ、取り入れられて いる • 歌詞に関しては反政府的な厳しいもの 歌詞→無視されている 日本人が共感しやすい歌詞 (日本独自の 文化??) ジャパニーズ・レゲエ② • ジャパニーズ・レゲエを作り出している人がど れだけレゲエ文化を勉強し、レゲエを理解し た上でジャパニーズ・レゲエを作り出している のか。 • それなりの独自性をもった日本のレゲエ文化 と言えるのか。 • それとも、レゲエとはかけ離れた、日本の新し い文化とみなされるのか。 レゲエファッションといえば… • ラスタカラー[rasta color] ・・・ラスタファリアン・カラー (Rastafarian color)の略語。 赤・黄・緑の明るい陽気な イメージの聖地エチオピアの 国旗の色のことを言う。 • ラスタ・ヘア(ドレッドヘア) ラスタカラーの意味 • • ヒンズー語で「道」 という言葉を意味する。 それぞれの色には 次のような意味があり, 配色の順番にも決りがある。 「赤」 ・・・ 戦いで流した鮮血 「黄」 ・・・ 輝く太陽 (ゴールドでもOK!) 「緑」 ・・・ 豊かな大地 「黒」 ・・・ 故郷アフリカ 配色の順番は,必ず真中が「黄色」で、縁取り が『黒』である事。 ドレッドヘア • • • • • • レゲエ・ミュージシャンや その愛好者に特有のヘアスタイル。 細かい縄状のロング・ヘアで、 レゲエの神様といわれた ボブ・マーリーの髪型として広く知られる。 3つ編みのまわりに毛を巻きつけ、表面をあぶって溶 かした縮れ毛を固定させるのが本格的だが、これに 似せた髪型も含めて言う。 • 縮れ毛の部分にビーズをあしらうスタイルも見られる。 • ジャマイカ産のレゲエをドレッド・ロックとよぶところか らドレッド・ヘア、また、ナイト・ラクブで遊ぶ男性に多く 見られることからクラブ・ヘアなどともよばれる。 ラスタファリアン • かつてアフリカから奴隷としてジャマイカへ連 れて来られた黒人たちが故郷アフリカへの帰 還を夢見て始まったのがラスタファリ信仰で あり、その信仰者をラスタファリアンと呼ぶ。 • ラスタ・カラー、ドレッドヘアはこの信仰と深い かかわりがある。 参考サイト • レゲェ-wikipedia• http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%8 2%B2%E3%82%A8 • 『ザ・ハーダー・ゼイ・カム』あらすじ http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCS TD9249/story.html • 『ザ・ハーダー・ゼイ・カム』/レゲエの原点 • http://www.beats21.com/ar/A00121506.html
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