インド―非暴力と自立― 1 英領インドの成立―近代領域国家の成立 インドの植民地化 形式的には1877年、ヴィクトリア女王が、インド皇帝に就 任したとき。 実質的にはインド大反乱(1857-58)の結果、イギリス政府 がインドの主権を握ったとき。…ムガル皇帝廃止、ビルマ に流刑、墓をつくることも許されず。 東インド会社の解散 1858年法により、イギリス内閣の一員であるインド大臣と インド省がインド支配を行うことになった。 インド省には、かつての東インド会社の重役会に代わり、 インド諮問会(15人)が設置された。 2 英領インド―広大な領域国家 現在の印パ、バングラデシュを合わせた国境 5年任期のインド総督(イギリス国王の副王Viceroyを兼ね る)と、各州に配置された州知事が統治。 その下に高等文官との一般官僚のヒエラルー 中央集権的な体制 1857年の大反乱まで滅亡を免れた旧来の支配者たちは、 藩王として所領を安堵された。 藩王国・・・大はカシミールのような州ほどの規模のものか ら、小は数村ほどしかないものまで、560。 それらがイギリスの「協力者}として、英領インドの間に入 り組んで配置され、反英運動を牽制。 3 1861年 インド参事会法 インド総督の立法参事会、すなわち立法府にインド 人代表の参加を認めた(代議制)。 しかし、諮問機関でしかなかった。 1892年改正で、予算審議権、質問権は認められた が、議決権はない。 4 1892年法による代議制 総督は、商工会、地主団体、大学などを母体としてそこか ら代表リストを提出するよう求めた。 これが、のちに、カースト、人種、宗教といった社会集団(コミ ュニティ)ごとに選挙区を分けて、そこからそれぞれインド 政庁が指定する人数だけ代表を選ぶ制度、いわゆる分離 選挙につながる。 この選挙制度は、カーストやヒンドゥー・ムスリムといった宗 教集団のような、インドの諸社会集団の閉鎖性や格差を 固定し、流動性を阻むマイナスの団結をかえって強化する ことになった。 分離選挙制度は、インド・パキスタンという両国の分離にま で発展。 5 官僚制の導入 イギリスの行った重要な政策 東インド会社・・・貿易会社から統治者へ 縁故採用されたイギリス人ではなく、ロンドンでの公開試 験の合格者がインドの高等文官職に任じられることにな る。・・・1853年の特許状改正以降。 (インドでも同時に公開試験が行われるようになるのは 1922年) ジェネラリスト、完全な能力主義、高等文官試験は、オクス フォードやケンブリッジやの文系卒業生が受験。前者が第 一位、後者が第二位。 昇進基準は9割が年功序列、1割が能力主義。 6 高級官僚 地主とはむすびつき、中産階級や工場主には反感を持 ち、初等教育には全く無関心。、 人数は最大のときでも1000人前後(1919年に1032人、 1938年に1029人)。 それに対して、インド人下級官吏の人員の数は、1931年 には、100万に上った(当時のインド人口は3億5300万 人)。 ピラミッド的イギリスの官僚体制 「官僚的専制主義と自由市場経済の結合」 インド人は、高級官僚への道の開放を要求。それを中心 目標に掲げたのが、インド国民会議。 7 英領インドの教育政策・・・「滴下政策」 イギリス支配の「協力者(コラボレーター)」の獲得・養成・・・ 近代日本とは反対に高等教育重視=初等教育軽視(財源 すべて英語教育のために使用) イギリスが教育業務を掌握するのは1913年以来(当時は 東インド会社)。 教育目的(1833年特許状以来)・・・インド政庁に雇用され る下級インド人官吏に英学教育を施し、彼らを司法、地租 行政に熟達させること。 インドにおいて英学教育政策が始まるのは、1835年、総督 ベンティンクの決断。「地と皮膚の色はインド人だが、趣味 と意見と道徳、その知においてはイギリス人であるような通 訳的階層」の育成。 8 インド軍隊―植民地軍の性格と機能 インド軍は、あらゆる意味で、帝国主義イギリスを 支える柱。 征服の初期・・・英領の拡大とインド軍の膨張とが 同時並行的。 いいかえれば、インドはイギリス人に指揮されたイ ンド軍自身の手によって征服されていった。 シパーヒー(セポイ)数 1792年 82,000人 1824年154,000人 1856年214,000人 9 インド軍ー19世紀半ば マドラス、ボンベイ、ベンガルの管区における3軍編 成。 ベンガル軍・・・インド社会のエリートからなる。高い カーストのヒンドゥー教徒や上級ムスリムが多い。 出身地域も北インドの中心をなす、アワド、ビハー ル、アグラのような地方出身が多い。 マドラス軍とボンベイ軍…あらゆるカーストを含む。 10 シパーヒー(セポイ)の大反乱 1857年、シパーヒー(インド兵)のうち、主として反 乱したのは、ベンガル軍。 彼らのうち約7万人が反乱に参加。 約3万人がイギリスに忠誠を示したまま。 他の3万人が武装解除されたり、逃亡した。 ボンベイ軍とマドラス軍は同時に反乱しなかった。 反乱の鎮圧には、インド人であるパンジャーブ地方 のシク教徒(インド亜大陸のマイノリティ)が多く使 われた。 11 「尚武の民」募集政策 大反乱後、第一に、軍に採用されるのは、政治的にあま り急進的でない地方の人びと。 北西辺境州のパタン人や一部のラージプート、 特に、パンジャーブ出身のシク教徒、ネパールのグルカ (ゴルカ)の兵士 インド社会の少数派である社会集団を軍として支配の根 幹においた。 第二に、英印軍の中のヨーロッパ人部隊の割合を高め た。1863年、14万人のインド人部隊に対し、6万5千人の イギリス人部隊(約2対1)。 12 軍と社会の階層性・支配の対応 現実の英印軍は、インド社会の階層秩序を代表。 連隊の司令官はイギリス軍人 下士官と兵は、インドの中層農民 人夫(にんぷ)や清掃人は、不可触民。 インドの大都市にはほとんど兵営が付属。 英印軍がインド内の治安も担当。 13 アジア・アフリカ支配とインド軍 植民地軍としてのインド軍は、英領インドからのア ジア・アフリカ地域の支配を可能にした。 イギリス帝国のもとで、インド軍は、北アフリカから 東アジアまで、すなわち、中国、イラン、エチオピ ア、シンガポール、香港、アフガニスタン、エジプト、 ビルマ、ニヤサ、ウガンダに出兵。 (1)第二次アフガニスタン戦争(1878-80) (2)エジプトの保護国化(1882)・・アラービー・パシ ャ陸相の反乱鎮圧、事実上エジプトを保護国化。 (3)スーダン遠征(1884-85、1896) 14 世界各地へのインド兵の投入 (4)上ビルマ併合(1885-86) (5)エジプト遠征(1896) (6)シッキム遠征(1888) (7)中国遠征(1895、1900-01) (8)南アフリカ(1899-1902)…ブール(ボーア、ブ ーアとも)戦争・・・・イギリス勢力とオランダ系定住 者(アフリカーナ―)とで争った戦争・・1886年金鉱 が発見されたトランスバール共和国に対し、イギリ スが自己の勢力範囲に入れようとした戦争。 15 アジア・アフリカ地域への出兵費用 ほとんどを、インド政庁がになった。 全植民地支出の約7-8割という圧倒的比重をイン ド財政が占めていた。 インドの植民地化・・・イギリスの世界制覇を軍事 的も、経済的にも支えた推進力。 19世紀以降の英露の角逐にあっては、インドはロ シアに対する第二戦線。 当時のイギリス本国は「安価な政府」が理想。それ は、植民地における「高価な政府」(植民地財政の 急膨張)によって支えられていた。 16 インド政庁の自由貿易政策 大英帝国の仕組みを通じて、世界市場へと統合。 自由貿易体制・・・マンチェスターを中心とするイギ リス綿業資本は、1873年に始まる「大不況」によっ て輸出の停滞に苦しみ、以前にもましてインドに綿 製品輸入関税の撤廃を迫る。 1878,79年、綿製品輸入関税の一部撤廃 1894、輸入綿製品にインド政庁が5%の関税をか けることを決定。 ランカシャーはインド政庁に圧力をかけ、最終的に 5%の消費税を国内産綿布にかけて相殺させた。 17 インド国民会議の成立(1885) 諸要求 責任政府の樹立、 官僚のインド人化(高等文官試験をイギリスのみで なく、インドでも行え) インド人選挙権の獲得 インドの民族運動が、イギリス国内の野党・反政 府勢力を一貫して、どこか信頼している。 ヒューム・・・「総督以外のすべての官職はインド在 住者の手に委ねられるべきだ」(彼も含まれる) 18 イギリス急進派の影響と役割 初代書記長・イギリス人、急進派「高等文官」アラ ン・オクタヴィアン・ヒューム その進言を受けたインド総督ダファリン候 ヒュームは、グラッドストン流自由主義者で、 リットン総督時代の保守的政策にあわず辞任。 ヒュームは、台頭しつつある中産階層に目をつけ、 彼らを組織して安全弁にしようとした。 19 富の流出(ドレイン)論 D・ナオロージー(ナオロジー、ペルシャ系=パーシ ー系、ゾロアスター教徒、インド国民会議創設者の 一人、イギリス下院で当選し、アジア人として初め てのイギリス下院議員)・・・「インドの歳入の内、ほと んど4分の1は、インドの国外でイギリスの資産に加えら れ、その結果インドは常に出血させられる」 代表的インド人は保護貿易に傾斜。 1899年のインド砂糖関税法・・・ロンドンにいたナオ ロージーとR・C・ダットは支持。 20 インド経済の変容ー鉄道建設 開通はアジア最初。 1850年ーゼロ。 1858年以降、鉄道建設促進 50年後の1900年、23,627マイル(日本の鉄道は1957年 で12600マイル) ロンドンで起債。元利保証制度。 払込資本にたいする確定利子5%の保証。 インド政庁が土地買収費と為替差損を負担。さらに、鉄道 収益が5%未満の場合、不足分を補填。ただし、余剰利潤 の分配からは完全に排除されていた。 21 インドの鉄道 1850年代から。主要大都市と炭田地帯を結ぶ。 路線は、マンチェスターの産業資本の原料調達に役立つ ように、港から内陸の綿花栽培地帯に向けて。 建設費が高額。 鉄道建設が進んでも、インド財政には負担。 第一次大戦までは、(1)軍事目的、(2)イギリス産業資本 の利益、(3)ロンドン金融市場の資本投資の対象。 第一次大戦後、インド鉄道政策の転換。 22 多角的貿易決済機構 1910年当時、イギリスは、他の工業国家に対し、 膨大な赤字を抱え、その赤字の30-40%をインド からの支払いによって賄っている。 インドはイギリス以外に対しては貿易黒字国であっ たが、その黒字は、イギリスへの支払いで帳消しに なる。・・・インドからの「富の流出」 イギリスに対してだけ、貿易赤字・・・イギリスがイン ド市場に有利な条件で輸出・・・インドに対し、イギリ スから従属的な関税政策(低関税・関税撤廃)が押 し付けられる。 23 インド資本主義の成長 重要なのは、綿工業、ジュート工業、石炭と茶 綿業・・・インドの手紡糸生産のような手工業は、イ ギリス工場制生産による安価な商品で深刻な打撃 を受け、没落した。 イギリス綿製品は、中・上層階層、主として、西洋 風の衣服をまとい始めた男性に消費されたにすぎ なかった。 貧しい人々(人口では圧倒的多 数)は依然として短繊維のインド綿で織ったインド 産の厚手の粗布を消費。 一方、富裕層は儀式用には高級毛織物を消費。 24 近代的なインド綿業の発達 1850年代にインド綿工業は再出発。 近代企業の中で綿工業だけが、ヨーロッパ企業の独占を 破ることができた。 中心は、ボンベイ。その出発は日本より早かった。 1854年、拝火教徒(パルシー)ダヴァールが最初の近代 的紡績工場を設立。 同じころ、ターターによるエンプレス・ミルの設立。 棉の商品化・・・農業の商品化 19世紀後半には、早くも綿糸の中国輸出が拡大。 25 近代的インド綿業…国内市場中心 ボンベイ綿糸・・・1890年代以降、中国市場で日本 と激しい競争、繊維の質の悪さなどの理由から、成 長に陰り・・・綿糸生産から国内向け綿製品生産 へ。 アフメダバード、ベンガル、マドラスなど他の中心地 は、綿糸であれ綿製品であれ、国内向け商品が基 本。 26 ジュート産業、石炭、茶 ベンガルを中心とし、ヨーロッパ人中心。 カルカッタが英領インドの首都となったこともあっ て、インド政庁とのつながりも強かった。 「経営代理会社」と呼ばれる少数のヨーロッパ人経 営の会社が、ジュート、石炭、茶など主要産業の大 多数を支配。 バード会社・・・東インド鉄道に労働者を供給する請 負業から入って、諸産業に手を伸ばす。 アンドリュー・ユールは貿易業から石炭・船舶へと。 27 インド資本主義の担い手の特徴 商人層、 カーストに縛られていないコミュニティの人々・・・拝火教徒 (ゾロアスター教徒、ペルシャ系=パルシー系)・・・タータ ーやワディア 政府の政策と担い手の関係 インド政府のレセ・フェール(自由主義)政策 初期の成功した官営工場の払い下げ・・・ヨーロッパ人に対 して。 政府が手厚く保護した機械工業・・・インド人はほとんど参 入していなかった。 大規模な灌漑施設建設など・・・契約はイギリス系 28 インド農業 英領時代のインドは、農作物の輸出国となった。 三つの方向性 ①綿花、ジュート、小麦、茶、油性種子、米、皮革な どの第一次産品をイギリス、ヨーロッパ、北アメリ カ、東南アジアへ輸出。 ②大反乱の影響・・・北インドなど、イギリス支配を支 える協力者(コラボレーター)・大地主(イギリスのジ ェントルマンと見立てて)の優遇政策 ③パンジャーブ(シク教徒が中心)のような兵士供給 地・・・大反乱のときシク教徒はイギリスに忠誠。 29 労働力 ①一つの方向・・・インド国内・・アッサムの茶のプランテー ション開園…ベンガルなどからの年季労働者・・半世紀の 間に約50万、ボンベイの工場労働者・・・周辺地域からの 出稼ぎ ②東南アジアやセイロン、アフリカへの出稼ぎ 19世紀前半、大英帝国内での奴隷労働禁止。その後、 アフリカ、東南アジアなどに出かける・・・プランテーション や商業益農業の労働力。世界に散らばる「印僑」。 アフリカ、砂糖労働・・・「あたらしい奴隷制」 アフリカの年季労働者の抵抗運動・非暴力・・・ガンディ- が指導 30 インド社会と女性 女性解放運動 先駆者ラクマーバーイー ラクマーバーイー事件・・・幼児婚(同一カースト内 結婚・・カースト制度維持)、同居拒否、裁判・・・有 罪判決、しかし、最終的にはヴィクトリア女王の離 婚を命じる勅令により刑を免れた。 1829 ベンガル・サティー(寡婦燃死・寡婦殉死)禁 止法 1856 ヒンドゥー寡婦再婚法 1891 婚姻承 諾法 1929 幼児婚禁止法 31 20世紀のインド 勢力範囲分割・・・インドを守るための西アジア 英露協定(ペルシャの北部をロシアに、南部をイギ リスに、勢力範囲分割) 1904 チベットをイギリスの勢力範囲に。 ベンガル分割・・・最も政治的発言を行っているベン ガルのヒンドゥー教徒を少数派に落してしまう分 割。 32 統治制度ーモーリ・ミント―改革 インド人をわずかながら統治に参加させる。本国の インド大臣の参事会にインド人メンバーを入れる。 インドでも、総督の行政参事会にインド人を入れ る。サティエンドラ・シンハ、1909年 代議制・・・しかし、選挙は、さまざまな社会集団ご と。 選挙されたメンバーだけでは、インド人は多数をと れないようになっていた。 33 第1次大戦の衝撃 西アジアを除くと、アジアの大半は戦場にならなか った。戦場にならなかったアジアは、戦争を通じ て、相対的には経済的地位を上げ得た。 1914年8月14日、イギリスの対独宣戦布告。 インドは自動的に参戦(総督の告知) インドは戦場にならなかったが、イギリスがヨーロッ パ、メソポタミア(イラク)、エジプトなど、各地で大英 帝国の権益を守るために、多くの兵士を必要とし、 インドにそれを求めた。 藩王も、国民会議も、全国民的規模でイギリスを支 持。 34 インド兵の出兵 開戦と同時に、インド軍から2個歩兵旅団と、騎兵旅団がヨ ーロッパ戦線に派遣された。 2ヶ月後には早くも、インド人死傷者は7000人前後(インド 人戦死者は合計約6万人)。 ところが、イギリス軍は、当初は、4個師団しか派遣しなか った・・・インド軍の役割・貢献度の重さ。 インド軍の規模は1914から18年までに3倍化。 第1次大戦に出兵したインド兵士の数・・・延べ人数で、ほ ぼ75万から109万7000人ほど。(不可触民層にまで徴募 対象を広げる) 出兵費用も、インド側負担。 35 インド人の忠誠心のゆらぎ(1) 第一に、イギリス支配がインド人の眼前で脅かされ た。1914年9月―11月、ドイツの巡洋艦エムデンが ベンガル湾深くに進攻。貨物船撃沈、マドラス砲 撃、石油備蓄タンク炎上。2ヶ月間にわたり、英印 間交通をマヒさせた。 第二に、1914年11月、オスマン帝国がドイツ側に 立って参戦、イギリスと戦端を開く。 ムスリムはインド兵のなかで最大多数。 トルコのカリフはイスラーム教の教主。 36 インド人の忠誠心のゆらぎ(2) ドイツ側でのトルコ参戦で、 英印軍はオスマン帝国領メソポタミア(イラク)に 進攻。バグダート近くまで。また、2万9千のインド軍 がエジプトに派兵。スエズ運河防衛。 1916年初め、英仏は、サイクス・ピコ条約で、オス マン帝国の分割を決めた。 オスマン帝国を崩壊させるイギリスに対するイン ド・ムスリムの抗議・・・ヒラーファト運動 37 インド人の忠誠心のゆらぎ(3) 第三に、移民との関係で兵士供給地パンジャーブ が揺れだした。問題は、カナダの移民差別、あるい は、不可触民の兵への採用。 第四、英印軍の階層秩序と社会の階層秩序。 司令官はイギリス人、 下士官と兵はインドの中層農民、 雑役・清掃は不可触民。 1917年、士官のインド人化が約束されたが、実効性はすくなかっ た。事実上、第二次大戦までこれは果たされなかった。 38 第一次大戦の影響-復員兵士の問題 1918年約50万人いた兵士は、23年には12万人 に。 パンジャーブには復員してきたシク教徒が、海外か ら新しい考えを持ち込んできた。「フランス軍ではも っと植民地の人々の昇進も早い・・・」と。 復員シク教徒は、多くが、反英的な不滅(アカーリ ー)運動に加わっていた。 39 自治政府の約束-1915-16 第1次大戦中のインドの軍事的・経済的貢献に対 する見返りの要求の高まり。 1915年のハーディング総督のインド大臣あてメ モ・・・自治の付与とはとても言えない内容。 1916年のインド政庁の急送文書・・インドへの譲歩は以下 の3原則。(1)官吏でないインド人を州政府に参入させる。 (2)高級官僚により多くのインド人を採用する。(3)州議会 により多くの(任命議員で内)被選挙議員を入れる。 40 自治政府の約束-モン・ファド改革 国際情勢・・・アメリカのウィルソン大統領の民族自決・国 際連盟設立の呼びかけ 1917年8月「自由主義的な」インド大臣モンタギュの宣 言・・・「大英帝国の不可欠な一部としてインドにおける責 任政治を漸次実現することを視野に入れながら、行政の あらゆる部分にインド人を次第に参加させること、また自 己を統治できる諸制度を漸次発展させることが、イギリス 政府とインド政庁の政策である」・・・「インドに自治政府を 約束」と受け取られる。 総督チェムズファド。 モンタギュ・チェムズファド改革・・・インド統治法の基礎 41 1919年2月インド統治法 モン・ファド改革、両頭政治。 (1)中央政府はイギリスが握ったままとする。 (2)地方行政の一部をインド人に渡す。 具体的には、教育、農業、地方自治の管理(patronage) は、選挙で選ばれた立法議会に責任を持つインド人に委 ねられた。 地方分権の実質的な開始。 (この行政組織は独立後も継続。独立インドの行政組織 は、村(パンチャーヤト)をのぞき、ほぼ全部がイギリス統 治時代にイギリスの地方自治組織をモデルにつくられたも の。) 42 インド統治法におけるイギリスの意図 中央に結集している反英的な国民会議の運動を置き去りにし て、地方の保守層に権力の一部を譲渡し、親英勢力を州段階 でつくる試み。 インド人の政治参加を拡大させるといっても、地主、ムスリム、 不可触民らにそれぞれ個別のカテゴリーを与えて政治参加さ せ、いかなるコミュニティも決して州内閣で支配的な立場になら ないよう、バランスをとってあった。 また、中央議会は、州議会が選ぶ間接選挙メンバーからなる のであるから、中央政治における国民会議派の発言力は自動 的に弱まり、地方における親英インド人層が活躍できる仕組 み。 ローラット法を急いで制定(裁判なし拘禁の弾圧法) 43 新たな民族運動の波 1905―08 スワデーシ運動・・・ベンガル分割反対 を契機に起こった。 スワデーシ運動とインド国民会議創設以来の運動との違い 第一 イギリス支配への真正面からの挑戦 第二 それが、インドの経済的要求と結びついていた 第三 それまでの議会主義的、請願的な運動を行ってきた 国民会議派の指導層に対する挑戦 44 スワデーシ(Swadeshi) インドで、19世紀後半以降、国産品の生産・使用 を奨励するためのスローガンとして用いられた言 葉。元来は、「自国の」の意味の形容詞。 イギリス植民地期に、その支配への対抗手段とし て、インド人の間で自国産業が奨励され、外国製品 ボイコット運動が組織された。 最もよく知られているのが、ベンガル分割を打ち 出したイギリスへの反対運動を契機とする1905-08 年のスワデーシ運動。 45 スワデーシ運動の経過(1) 1905年7月20日、分割の決定。 ベンガル中が沸きたった。 1905年後半・・・各市町村での反対集会、300余り カルカッタやダッカに近い町では反対がより激しか った。 同年の日露戦争における日本の勝利は、アジア人 によるヨーロッパ大国ロシアに対する勝利という意 味で、インド人を勇気づけた。 トーゴー(東郷)とかノギ(乃木)とかいうなを子供につけた人びともい るほど。 46 スワデーシ運動の経過(2) 1905年8月7日、カルカッタ会議では、イギリス商品ボイコットが 決議された。 ボイコット行為は、祈り(プージャー)の儀式をすることによって 聖化された。 イギリス産の衣類、特に木綿は山と積まれて火がかけられ た。 ボイコットの動きは各地方に広がり、数カ月間ではあったが目 に見えて効果は上がった。 紡績工場主も地主も運動に参加した。 ボイコットにより1904年に比べ08年までに25%輸入綿製品が 減少。 ボンベイ、アフメダバードなどの紡績工場(インド工業)は空前 のブームに沸いた。 47 スワ(=自分の)+デシュ(=国) イギリス支配に対する正面からの挑戦 ナショナリズム(不買=保護関税の役割を果たし、土着企 業の勃興と結合) インド産商品、とりわけ家内制手工業の生産と消費を奨 励。 手紡ぎと手織りを復活させ、 さらに、砂糖、マッチ、靴、金属製品、ガラスなでお、これ までイギリスから輸入していたものの国産化も刺激。 1907年、ターター鉄鋼会社の操業開始(第一次大戦をうま く乗り切り、第二次大戦期には、単一の鉄鋼会社として は、英帝国最大の規模に)。 48 スワデーシ運動と復古主義の結びつき 言語(ベンガル語)、教育、文学、道徳などすべての分野で 伝統的なインドの復興をもめざしていた。 1905年10月、詩人タゴールが「ラキーバンダン(ヒンドゥー教の祭り、女が兄 弟の腕にお守りを結ぶ。男はその代わりにしまいたる女を守る任務を帯び る)」の祭りをベンガル統一の祭りにし、大規模なデモ行進。 クリシュナ神や女神カーリーなどヒンドゥー教の神々が抵 抗のシンボルとなった。 (西欧的リベラリスト風の国民会議派指導層には見られない 価値観) 49 1911年12月、分割計画、中止 分割に賛成していた親英ムスリムの失望 50 ムスリム連盟の成立-民主主義と少数派 インドでは、多数派がヒンドゥー教徒であり、少数派の代表 格はイスラーム教徒(ムスリム)。 支配者イギリスは常に支配のための「協力者(コラボレー ター)」を必要としていた。 多数派ヒンドゥー教徒が反英運動に立ち上がると、イギリ スは少数派ムスリムに「協力者」を求めた。 ムスリムは、全体としては、地主(ザミンダール)や専門職 の人々を中核として、ベンガル分割を支持し、国民会議派 の反対運動には距離をおくものが多かった。 ムスリム独自の権益を擁護するための正当の必要性・・・ ムスリム連盟の結成へ。 51 1906年12月ダッカで連盟創立大会 1906年10月1日、ムスリム35人が代表団を結成し、新総 督ミント―に会見。 ムスリム連盟の結成を含む要望書を提出。 連盟の主要な目的は、ムスリムの政治的権限と権益の 擁護。それが認められての創立大会。 ムスリム連盟は、指導層がベンガル、ボンベイなどの大地 主や大実業家からなり、保守的性格。 連盟は、少数派ムスリムの政治的・経済的利益を守るた めに、イギリスに忠誠を誓い、請願をくりかえす。・・・イギリ スの「協力者」・・・分割統治の「手先」 52 ヒンドゥー対ムスリムの対立と融和 ヒンドゥー ムスリム ・分割反対 : 分割賛成(ないし支持) ・地主や金貸し : 農村の貧しいムスリム ・商工業全体として有利な地位 : 民族主義的対立を憂慮したのが、タゴール。 彼は、ヒンドゥーの指導者に、ムスリムに特別な情報をす るよう訴えた。 全インド的には、1916年のラクナウ協定 ベンガルに関しては、C・R・ダースによる妥協・ベンガル協 定。 53 スワデーシ運動と文化・教育 国民教育協会(National Council of Education) ベンガル語を教育言語とし、若いベンガル人に土着の文 化に目を向けさせる。 ゴーカレー・・・初等教育法の提案・・・県や市が、望めば、 6歳から10歳までの男子に義務教育を与えることができ る、と。・・・これは、インド政庁が受け入れなかった。 社会改革運動、1915年の全国社会改革会議の議長カル ヴェー・・・日本の女子大をモデルに、インド初の女子大学 を創設。 54 スワラージ(Swaraj自からの・支配) イギリス植民地期のインドで、自治・独立の意味 で用いられた。 1905年からのベンガル分割反対運動の盛り上 がりを受けて、1906年のインド国民会議派大会で は、外国製品ボイコット、スワデーシ、民族教育と並 び、 スワラージに関する決議が採択された。 29年、国民会議派は、プールナ・スワラージ(完全独 立)を政治目標として定めた。 55 ガンディ『ヒンドゥー・スワラージ』 (1909) スワデーシ運動たけなわのころ、ガンディーはアフリカ。イ ンド移民、すなわち年季契約労働者の運動を指導。 白人支配者の年季労働者に対する人種差別政策に反 対・・・・その中で、サティヤーグラハ(非暴力)の運動の方 法を編み出した。 運動形態が奇想天外: 断食、菜食主義、不殺生(アヒン ダー)、暴力⇔非暴力(サティヤーグラハ)、性欲⇔禁欲 (ブラフマチャリヤ)など。 肉体的な感覚で近代ヨーロッパ文明に対抗しようとしたの であり、身体を拠点として、権力にまつわる問題を提起。 56 『ヒンドゥー・スワラージ』の思想 イギリスからアフリカにもどる船中で執筆。 1915年インドに帰り、独立運動を展開。 「インドはイギリスに政治的に支配されていることが問題な のではない。ただイギリスを追い払って、日露戦争後の日 本のように富強の独立国を作り、強い軍隊を持つのがよ いというのなら、それはイギリス人のいない、イギリスをつ くるだけではないか。 問題はそこにはない。真の問題は近代文明にあるのだ。」 これは、日本の進んだ世界強国への道、軍国主義・帝国 主義の批判を意味する。 57 ガンディーの言う「近代文明」とは? 「近代文明とは何か。それは肉体的欲望の増進を 文明の表徴とみる思想に基づいている。 西洋近代の基本問題は、肉体的欲望を解放したこ とにある。 無制限の生産をたたえ、無制限の消費を歓迎し た。 できるだけ手足を使わずに遠くまで行くこと、できる だけ多くの種類の食べ物を食べること、できるだけ 多くの種類の衣服を着ること。 58 ガンディーの「近代文明」批判 このような肉体的な欲望をできるだけ満足させることを進 歩だと考える思想では、真の独立はありえない。 われわれが打ち立てるべきインドの自治とは、真の文明な のであり、真の文明とは、徳のありかという意味である。真 の文明は、肉体的欲望の自制に基づくものでなければな らない。 生産だけではなく、むしろ消費に注目するとき、その暴力 性を批判できる。 人間は知っている技術を必ずしもすべて使うべきではな い。そのことをインド古来の文明は教えている。 59 ガンディ- 近代文明批判の観点からする民族独立運動。 ガンディーにあっては、思考の拠点が身体にあった。身体性、つ まり、どのように生きるか、ということ、その生き方を点検するこ と。食べること、飲むこと、着ること、セックス、男性であること、女 性であること、暴力行為などすべてを点検することであった。 そこにあっては権力が国家権力だけに結びついていな いのであり、男性と女性の間にも、人間と自然の間に も、権力、あるいは暴力の問題が存在することを気付か せるのであった。 60 ヒンドゥーとムスリムの妥協 1913年、ムスリム連盟は、親英的立場を捨て、そ の目標として、「帝国内の自治政府(self government)」を掲げた この立場に共鳴したのが、のちにガンディーの宿命の 対決者となる、パキスタン建国の父、ムハンマド・アリ ー・ジンナー(1876-1948) 第一次大戦中、ムスリムはしだいに反英的に。 1916年、ラクナウ協定(会議派とムスリム連盟の合 同会議による協定)・・・議会制の枠内で統一して 権利を獲得することをめざす。 61 ラクナウ協定 (1)ムスリムは分離選挙を継続する(このことを会議派は 認める) (2)分離選挙の結果、ムスリムに割り当てられる州議会の 議席配分は以下のとおり(数字はパーセント) パンジャーブ・・・50、ベンガル・・・40(ムスリム人口は50%以 上。ムスリム側が譲歩)、連合州・・・30(ムスリム人口は14%程 度。ムスリムが得をする)、ビハール…25.マドラス・・・15、中央 州・・・15、中央…33。 (3)関係する社会集団の75%が反対した場合、いかなる 法や決議も通過させない。 62 ガンディーの運動 1915、アフリカでインド移民の運動を勝利のうちに終わら せ、インドに帰国。 故郷グジャラート州の中心にある織物の町、アフメダバー ド郊外に修道場を開く。 1917、ビハールの藍作(インディゴ)プランテーションの耕 作民から呼ばれサティヤーグラハ運動を行い、農民の指 導者となる。 つづいて、アフメダバードの紡績工場のストライキを指導。 労使協調路線に基づく解決を導き出した。 次いで、ケーだ―において高騰した地税に抗議する農民 の戦いを指導。政府にかなりの額を引き下げさせることに 成功。 63 インド経済の転換-(差別的)保護貿易へ スワデーシ運動・・・ナショナリズム・・・保護 第一次大戦・・・インド政庁の歳出増加。 1916年、赤字克服のため、関税一般を5%から7.5%(従 価)に引き上げ。 その後、例外扱いの物品についても少しずつ引き上げ、 1917年にはついに輸入綿製品にまで1894年以来はじめ て一般関税と同様の7.5%に。 第一次大戦・・・インド工業の育成・・・方向転換。工業の軍 事的重要性。インド国内における軍需品生産能力の構築 =自給自足。 (戦時中における日本のインド進出をイギリスは危惧) 64 イギリスの戦時政策とインド工業化 1918年の産業委員会報告・・・全インド的規模での計画的 な工業化の構想。 戦時中におけるインド工業の発展 戦争による船舶不足・・・インドへの綿製品輸入に打撃。ジ ュート輸出も打撃。 インド人経営の綿工業は需要増大で潤った。 インド人は機械工業にも着手し、軍需に応えた。 第一次大戦が終わると英印の貿易関係は逆転。 イギリスからインドへの綿製品輸入は取るに足りないもの となる。鉄鋼、セメントなどでも、インドは自前で、国内需要 を賄えるようになっていった。 65 平和時の産業は、戦時への準備 第一次大戦後、1923年にインド政庁によって、「保 護政策」。 ただし、保護対象は、鉄鋼と製糸業だけ。 大恐慌時、インド政庁の税収が減り、関税を増大さ せた。・・・インド政庁の「保護政策」。 66 ガンディー時代 第一次大戦終了から第二次大戦開始まで。 非協力運動・・・ガンディー時代の到来 大衆的ナショナリズムの時代 1921-37 民族運動が社会を覆い、イギリス統治はそ れへの対応に追われる。 特に1929年の大恐慌以降。 67 イギリスの対応・・・「モン・ファド」改革 第一次大戦後、中央政治の舞台での国民会議に よる反英運動 イギリスは、これに対抗して、「政治」を地方化しよ うとした。・・・・モン・ファド改革による地方自治の部 分的付与。 68 ガンディーの簡明で徹底した態度 イギリスの「改革」の方向に対して、 ガンディー・・・インド人の運動の「全国性」を示す。 「身体の欲望」の抑制が出発点・・誰でも感知可能 「必要以上は食べない、着ない、持たない文化」、腰布 だけ、鉄ぶち眼鏡と木の下駄のみ。 菜食主義、酒も妻との性交も断つ生活、断食。 権力への非協力、 非暴力的闘争形態。 69 戦争と革命の時代における非暴力 第一次大戦・・・総力戦・・・帝国主義の暴力の極限 世界大戦をやめさせようとするロシア・ボルシェヴィ キ革命・・・武装した労働者・農民による革命・・・武 力革命・・・内戦における武力での反革命鎮圧 革命の暴力・・・暴力(武力)による権力獲得・維持 反革命の暴力・武力、それに反革命と連携した干渉諸 国の武力 これらに対する非暴力の運動。 70 ガンディーの非協力運動 穏健派・・・ただし、請願運動の限界を感じている人々が 支持。 ローラット法(弾圧法)に反発して激しい運動を繰り広げる かもしれない暴力派・テロリズムの潮流を抑えること。 諸産業の工場主たちをも引き付ける。(カルカッタのマー ルワーリーと呼ばれる実業家たちが、有力支持者) 1920年に、家族経営主義による労使協調、全員一致原則 による決定など、係争解決の新しい倫理を打ち出す。 71 ガンディー(の思想・態度)と労働者 1918年以降、組織労働者がインド政治の舞台に登 場。組織人員の拡大。 会議派指導者たちが、労働者の代弁者として意識 的に活動。 ガンディーもその一人。 1918年から19年、アフメダバードの労働争議を、階 級闘争でなく階級協調の思想で指導。 それは繊維産業の主力労働組合の結成につなが った。 72 ガンディー運動→抑圧・弾圧→拡大 多くのインド軍兵士の出身地であるパンジャーブ 大戦中、兵士の徴募や献金強制で政府への反感増大。 1919年4月13日、ガンディー逮捕に対する抗議をきっかけ に運動がこの地域全体に広がる。 これに対するインド政庁の弾圧・・・アムリトサル市にある ジャリアンワーラー広場で、イギリス人代や将軍が、無辜 のインド人の大量殺戮を行った。 入口がひとつしかない袋小路のような広場に集まっていたインド人に対 し、完全武装の兵士が「弾丸がつきるまで」撃った…「アムリトサルの虐 殺」・・・死者379人、重軽傷1208人 ムスリムやパンジャーブのシク教徒 への支持拡大 73 ガンディーに対するムスリムの支持 インド・ムスリムの覚醒 (1)ジンナーらの方向・・・議会主義的方法でインドの独立 国家建設を進めようとする (2)アリー兄弟・・・遥かに遠いトルコのカリフ制を擁護しよ うとする運動(ヒラーファト運動) ガンディーはムスリムの反英運動に着目し、アリー兄弟に 接近。 ムスリムのヒラーファト運動とインドの反ローラット法運動と を結びつけ、インドのナショナリズムを西アジアに広がる大 きな反英運動の波の中に。 74 ガンディーの非協力運動 1919年12月、デリーで開かれたヒラーファト全インド会議 において、非協力(non-cooperation)運動を提起。 1920年3月―4月、具体案 イギリスから与えられた称号の返上 子弟の教育施設ボイコット 立法参事会などの委員の辞職 改革立法参事会の選挙ボイコット 税の支払い拒否(ただし、地代の支払いは拒否しないため、地 主とは対立しない) 75 ガンディー、指導権 1920年4月、ガンディー、自治連盟(ホーム・ルー ル・リーグ)の議長に。スワデーシを目標とするこ と、ヒンドスターニーを国語とすること、ヒンドゥー・ ムスリムを統一することなどの骨格運動方針を20 年代半ばに確立 1920年9月の国民会議特別大会で。多数派の支 持を獲得。 国民会議の目標・・・合法的・平和的方法で「スワラ ージ」(自治・独立)を実現することと綱領を改定。 76 運動過激化→運動中止命令 →ガンディー逮捕 労働争議・農民の運動の高揚 1922年2月5日 連合州ゴーラクプル県で、農民が警官 を焼き殺す事件。 ガンディーは運動中止を命令。 (若いネルーはこれに反発、ガンディーを批判) ガンディー、逮捕される。 77 逮捕後・運動中止後ー二つの方向 議会参入路線・・・スワラージ党の結成 ボイコット方針継続派・・ガンディーとその支持者・・ 非改編派 1924年、ガンディーもスワラージ党員が会議派のまま参事会 に参入するのを許した。 ガンディーは敗北のうちに、非協力と協力とを交互に使い分 けざるを得ないことを認めた。 議会制と政治運動のとの結合によるインド型民主 主義の原型の形成 78 1920年代後半のインド 第一にベンガル、パンジャーブのようなムスリム人 口多数派の地域において、会議派によらないムス リム主導の地域勢力が基盤を固め、地方自治の強 化を望む。連邦制を望み、中央政府の権限は所収 の共通事項のみを扱うことを求める。 第二に、反英運動の先頭に立ったバラモンを中心 とした会議派にかわり、イギリスはバラモンの下の カースト=在地の村の地主などの層に新たな親英 勢力・協力者(コラボレーター)を見出した。 釈放後のガンディー・・・政治の第一線から退く 79 宗派間対立の顕在化 ヒンドゥー・ナショナリズムの登場 ガンディーとムスリム指導者との関係も疎遠化、論 争 分離選挙は、社会集団間の利害の対立を煽ること となった。 ヒンドゥーの側でも、ムスリムへの対抗運動が起こ り始める。・・・再改宗運動、組織強化運動。 1925年、民族奉仕団を創設・・・現在のインドのイ ンド人民党の前身。(ヒンドゥー・ファンダメンタリズ ム。ヒンドゥー・ナショナリズムの潮流) 80 サイモン委員会 1927年11月、イギリスはサイモン委員会の派遣を言 明・・・モン・ファド改革から10年後に行われるはずの憲政 改革のための調査団(後のイギリス統治の幕引き役・アト リーも7人の議員団メンバーの一人)。 イギリスにおける二つの潮流 一方に、チャーチル流の断固とした帝国主義者・・・「我々はインドに 一億ポンドの投資がしてある。我々はそれを守るためにインドに とどまる。どうやって自ら統治するかを教えるためにではない。」 他方に、アーウィン(総督在任1926-31)・・・「帝国主義的概念は終 わりを告げた」。 81 ネルー憲法 インド人からの対案と独立構想 M・ネルーを中心とした人びとによるネルー報告(憲法とし て知られる独立構想案)…過渡的な形態 ・イギリス国王が任命する総督と、総督が任命する首相により行 政がおこなわれる「自治領」の構想。 ・ムスリムに対する分離選挙、留保議席の否定。 ・会議派が望んだ強い中央単一政府。(ムスリム政治家の多くは、 弱い中央政府をいただく連邦制を希望) 1928年8月、ムスリムへの譲歩がないまま成立。 82 アーウィン宣言と会議派決議 1929年10月30日、アーウィン総督の宣言・・・自治領を約 束し、かつ、円卓会議を開催して統治法改正の内容を討 議する、と。 自治領の意味は、「大英帝国の枠内にとどまる」ということであ り、会議派の要求する「独立」は認めないという意味。しかも、そ れがいつ実現するか全く不明の約束。 1929年12月31日、会議派はラホールで、有名な完全独 立決議を採択。 1930-31年(「塩の行進」)、32-34年、2度にわたる広範な 民族運動(非暴力・不服従運動)の展開。 83 第一次不服従運動 1930.3-31.3 「塩の行進」・・・塩の専売(法)への不服従。 逮捕者、9万人 84 1920年ー30年代の経済 ー大恐慌の意味ー 自由貿易から、限定的国内工業保護へー大恐慌 まで。 イギリス…1925年金本位制復帰、経済停滞 1931年金本位制離脱・・・ オタワ会議・・帝国特恵関税の形成へ 85 大恐慌の影響 劇的な物価下落、信用収縮 インド政庁・財政大臣の政策・・・「健全財政」、デフ レ政策、鉄道・灌漑に投資せず。 30年代のインド政庁の歳出入は、30-31、31-32を 除くと常に黒字。 商品取引では、インドは、32-33を除き、常に黒字。 86 ガンディー・アーウィン協定 1931年3月5日 1930年5月、ガンディー、逮捕。その一週間後、総督はロ ンドンでの円卓会議の開催を発表。・・・会議派はこれをボ イコット。 円卓会議に出席したインド人代表は、ガンディー釈放を要 求するだけ。 第一回会議の終了後、ガンディーを釈放(保守派のチャー チルはこれに激怒)・・交渉へ(総督は8回もガンディーと会 談) ガンディー・アーウィン協定の成立・・・ガンディーは運動 (不服従運動)をやめ、第二回円卓会議に出席。 87 ガンディー・アーウィン協定 連邦制、インド人による代議制政府(ただし、この場合の連 邦制は、藩王国を含むので撹乱要因ともなりうるものであ った)の方向で、今後の憲政改革の議論が進められること をアーウィン総督が認めた。 インド政庁が「インド工業の発展を奨励することを容認す る」とした。 これは画期的なこと。インドの資本家たちもこれを歓迎。 インドは不服従運動をやめた。 1932年1月まで、政治的休戦が続いた。 88 第二次不服従運動 第二回円卓会議(31年9月1-12月1日)・・・各社会集団の 代表の割合を巡り、紛糾。無残な失敗。 1932年1月ー34年4月・・・ガンディーは第二次不服従運動 の開始を呼びかけ。(32年1月、ガンディー逮捕)(32年1月 から33年3月までに約12万人の逮捕者・・・34年4月ガンデ ィーが公式に中止を命令。 インド資本家たちの統一は乱れを見せた。 一方でランカシャが商売敵であると同時に、 他方で、日本製品との競争(日本製品ボイコットの呼びか け) 89 ガンディー引退表明 1934年 村落工業を起こすための新しい組織を作ることを 会議派に認めてもらう。 ガンディーの手を離れた会議派と大実業家との本 格的な同盟関係の開始。 J・ネルーによる社会民主主義的イデオロギーが会 議派の中で勢力を得ていく。 90 オタワ協定(1932年) オタワ会議・・・32年7月21日ー8月20日 自由貿易を捨て、「帝国内自由貿易」(帝国内特恵 関税の制度)への転換 大英帝国内、もしくはスターリング・ブロック内の団 結を強める。イギリスはインドとの結びつきを排他 的に強めようとした。 その内容は、インドをイギリス工業製品の有利な市場にするこ と、その代わりにインドからは原料、食料をできるだけ多く輸 入する、というもの。 91 不可触民問題とコミュナル裁定 被抑圧カースト(Depressed Classes)の問題 円卓会議(1930-32)での議論と裁定(宗派間紛争[コミュナル]裁 定:1932年8月17日、マクドナルド首相による・・・不可触民代表 はアンベードガル) 裁定内容・・・不可触民に二票。一票を分離選挙区で、一票を一 般選挙区において投票できる。 この裁定に対するガンディーの反対(「死に至るまでの断 食」) アンベードガルの妥協案・「分離選挙の代わりに不可触民 により多くの留保議席を与える」・・プーナ協定(不可触民 はヒンドゥー社会の一員にとどまる) 92 1935年インド統治法・・「指定カースト」 不可触民よりすぐ上の階層である後進カーストも、 差別されているとして優遇措置を要求・・・運動。 1934年に、マドラス後進カースト連盟の結成。 1935年インド統治法・・・「不可触民」ではなく「指定 カースト(Scheduled caste)」という法律名称を採 用。 政府の特別優遇措置を享受するものとして のアイデンティティ。 これ以降、インドの政治は、カーストに関して、優遇 措置を与えることによって差別を解消するという方 針を基本的に取る。 93 インド資本主義の台頭と社会主義勢力 社会主義を代表する政党は、共産党と会議派社会 党。 会議派社会党は、1934年結成・・・ガンディーが引 退を表明した年。 J・P・ナーラーヤン、ローヒャー、メーター、マサニの ような若い社会主義者たちは、ガンディー的な方法 による近代批判を時代錯誤として、ロシア、アメリ カ、イギリスなどで行われている社会主義的思想に 基づいて、反帝国主義運動を展開しようとし、しか も、それが力を得ていった。 94 1936年J・ネルー・・・会議派議長に。 その訴え・・・「会議派は、農民組合、労働組合の結 成に尽力すべきである」と。 また、村落再建の鍵は、大地主制(ザミンダール) をいかに解体するかにあり、土地改革を行い、土 地無き耕作者に土地を配分、と。 95 インド統治法以後のインドの状況 この統治法以後、州政府はインド人が握った。 諸州では、選挙によって州議会が選ばれ、その多 数派が州政府を組織し、行政を担当。 また、財産を基盤にした制限選挙とはいえ、選挙 権は拡大され、3500万人のインド人が、女性もふく め、選挙権をもつようになった。 インドの資本家たちにとっても、会議派との結びつ きがより重要な課題となっていく。 96 インド政庁中央はイギリスが支配継続 インド政庁中央の総督、参事会などは依然としてイ ギリスが掌握し、防衛、財政、外交に関する権限を インド人は持たなかった。 州内閣の上には、イギリス国王が任命権を持つイ ギリス人知事がいた。 イギリス人知事は、必要と認めれば、州内閣を倒して行政を 知事の直轄下に置いたり、州首相をかえることさえできた。 これは独立後まで引き継がれ、イギリス国王を大 統領に置き換えたまま、「大統領直轄統治」の制 度。 97 インド総督、財政・通貨の権限 1935年法・・・・インド総督が依然としてインド財政と通 貨政策に絶対的、最終的な権限をもった。 「財政的防御装置(セイフガード)」・・・インド総督が、 通貨と交換に影響する「不適当な提案」に関して、 立法議会で討議することさえも妨げる権限を持つ。 総督だけが、ルピー通貨と為替の交換比率を決定で きた。 98 社会主義とインドの資本家・地主層 会議派議長ネルーには社会主義的思想。 しかし、インドの資本家・地主、会議派のなかの 穏健派は、ネルーの社会主義的傾向に反対し、牽 制。 会議派の穏健派・・・「社会主義は、会議派の教義 ではない」と演説。地主の利益に手をつけない約 束。 →ネルーの敗北。執行委員会内での穏健派の支 配。 1937年選挙・・・議会政党としての会議派に戻 る。 99 インド人州政府と諸組織 1937年の州選挙(1935年統治法に基づく) 11州のうち、7州で会議派が政権を獲得(38年ま でに8州)。 州立法議会の1585議席のうち、716議席が会 議派。 会議派の選挙戦勝利の基盤・・・地方の村落を握 る在村支配層が、会議派を支持。インドの資本家も ほぼ会議派を支持。 インド実業界と会議派の協力関係が出来上がった 100 ムスリム多数派の諸州 シンド、ベンガル、パンジャーブでは、 ムスリムを首班とする地域政党が勝利。 101 ネルー出身地、連合州の連立問題 ムスリムの代表ジンナーは、連合州におけるムス リム連盟と会議派の連立を希望。 ネルーは、連立を拒否。 一顧だにされなかったムスリム連盟は、起死回生 を計る。 ガンディーによる調整と試み・・・失敗。 102 計画経済への道 ガンディーの「建設的プログラム」は農業の発展に 集中・・・・資本家にとってはあまりに不十分で時代 錯誤。 商工会議所連合などから資本家の要求としての 「計画」・・・計画的な機械工業化の要求 1938年10月、諸州の工業大臣会議において、議長 S・C・ボースによって、国家計画委員会National Planning Committee)の具体的活動、開始。 103 インドの計画経済の内容 (1)自由主義経済ではなく、国家の介入を認めた (2)国内市場の拡大が主目的で、輸出は重視されな かった。 (3)外国投資に反対。外国企業の士気を削ぐためな ら、インド工業の発展の遅れも辞さない。 こうした内容の経済政策が、「社会主義」という名 目で推進された。 インドの資本家と会議派との結びつきの緊密化。 104 会議派議長問題 S・C・ボース(急進左派)とガンディー(保守派)の対 立 ボースは、1938年につづいて39年も立候補の 意思をみせ、同時に期限付きの最後通牒の形にし て独立を要求しようとした。 ガンディーは、腹心のシーターラーマィヤを推薦。 しかし、ボースが勝利。 ガンディーは、ボースの議長就任を阻止できなか ったが、執行委員会の辞任を誘い、ボースを辞任 に追い込んだ。 105 S・C・ボース スバース・チャンドラ・ボースの周りには、A・ポッダ ーに率いられたカルカッタの若いマールワーリーた ちや東部インドの実業家が集まり、独自の経済的 基盤と要求。 しかし、ガンディーに追い落とされ、会議派からも 追放される。 第二次大戦に突入したインドから脱出して、独立 運動を追求する路線を選択。 ドイツを経て、1943年には日本にやってきて、日本軍に 協力しながら、武力(日本軍と協力してのインパール作戦) で外からインド解放をめざす。 106 第二次大戦とインド 1939年9月1日勃発 大戦の原因はインドには無関係。しかし、 インド総督リンリスゴーは、即座にインドが交戦状 態にあると声明。 ただちにインド軍は連合軍の一員として、アフリ カ、中東、アジアにたちまち派兵されていった。 インドはイギリスの理由により交戦国となり、インド 軍はイギリス帝国軍の一部にされた。 107 第二次世界大戦ー何のための戦争か 植民地として支配された国・地域の人々、すなわちこの場 合インドの人々にとって、何のための戦争だったか? ・連合軍の戦争目的:大西洋憲章(チャーチル・ロ ーズベルト)・・・「ファシズムに反対し、自由を奪わ れた人々に自由を回復」。 では、インドのような植民地にも適用されるのか? ・チャーチルの答え:これはインドには適用されな い、と。 会議派はいつ実現するかわからない「帝国内の自治」だ けを約束する総督に業を煮やし、インド人州内閣を総辞職 させた。 108 日本は? 「自存自衛」の戦争としたが、同時に「大東亜戦 争」と命名。アジアが独立を維持・獲得するための 戦争、と位置付けた。 しかし、自存自衛とは何か?中国の広大な領土に 攻め込んで日中戦争を戦っている日本か? また、「大東亜の共栄」というが、イギリスがインド を例外としたように、日本も、自分の植民地である 朝鮮に独立を獲得させる展望は全く示さなかった。 朝鮮や台湾にたいする日本の態度を見て、ネルー は憤慨。 109 ソ連は? 1941年6月の独ソ開戦以来、ソ連の戦争こそ「人 民戦争」だとして全世界の「人民」に、ソ連の側に、 すなわち、連合国の側に戦争協力することを要求。 インド共産党の戦争協力姿勢は同党を合法化さ せ、その意味で勢力拡大へ。 しかし、反英的な会議派とは対立。不人気のもとと なった。 110 帝国主義国・強国の国益を守る戦争 その中での植民地人民の選択肢は? (1)ネルーやジンナーなどの戦略・・・「連合国への戦 争協力の中で独立を勝ち取ろう」、「独立を与えてく れれば、連合国側で参戦する」。 (2)ボースの立場・・・イギリスが窮境の今こそ独立の 好機。反英武力戦術を主張。 (3)ガンディー・・・基本的に反ファシズム。しかし、英仏にもド イツに対する「非暴力」抵抗を訴えた。 彼の組織した個人的不服従(40年10月ー41年12月)は、インドの運動と してはかなり形式的。 111 S・C・ボース 会議派を追われ、フォワード・ブロックという組織を結 成。急進的運動を展開。 孤立・・・40年7月投獄。 仮保釈中に逃走・・・41年1月インド国外に逃亡。 最初ソ連に行こうとし、ソ連が受け入れないため、ドイ ツに落ち着き、ドイツから強力な電波を使って地下 放送。 この地下放送に耳を傾けるインドの人々・・・ボースがド イツ軍、のちには日本軍とともに、解放軍の司令官とな ってインドに進軍してくると信じた。 112 イギリスの協力者は? 会議派が反英的な状況の中で、インドはイギリス が期待するほど戦争に協力的な態度を見せなかっ た。 イギリスが求めた協力者(コラボレーター)は、イン ド軍兵士の中で数が多いムスリムであり、その政治 組織ムスリム連盟であった。 113 パキスタン決議(ラホール決議) ー分離独立への第一歩ー 1937以来のインド人州内閣体制の問題 1939年9月、会議派執行委員会によるネルー提案の制憲 議会方式(人口比による代表選出で) インド人(多数派ヒンドゥー)がイギリスの干渉なし に制憲議会によりインド憲法を制定、との方針。 ムスリムにとっては、少数派への配慮を欠いた多 数派有利の解決策。 ムスリム連盟は一貫してこの方式に反対・・・固有 の領土を確保する「国民国家=パキスタン」の創設 の路線へ。 114 戦時の経済状況 ー債務国から債権国へー 第二次大戦によるインドの経済的地位の激変。 1939年英印財政協定・・軍事費分担・・イギリスに有利な 配分・・インドの軍事出費は急増。 この協定により、イギリスはインドからの軍事費の借り上げを合法 化。イギリスの負担分と決められた軍事費さえ、それをポンドで支払 い、かつそれをイングランド銀行に凍結して、その自由な使用をイン ドに認めなかった。 その結果、インド政庁は東インド会社以来累積した3億ポンドあまり のスターリング債務のほとんど全額を43年3月までに返済。その後 も、イギリスにおけるインドのスターリング資産は増大しつづけ、46年 末には残高12億9630万ポンド。独立への経済的基盤。 115 インド産業界の躍進への道 戦時中、基本的には英帝国への兵站基地、原料 供給基地。しかし、イタリア参戦によるインド航路の 変更、イギリスからの自立化への傾向。 1941年11月、イギリス植民地11カ国の東部経済会議 (1)機甲隊、航空隊など軍備拡充、(2)自給体制の確 立、(3)技術者の動員、(4)重工業自給計画ー製鉄を中 心とする従来の施設の拡充ー。 これらに加えて、新たに金属(銅、真鍮、ニッケル)、化 学薬品(クロロホルム、カルシウム)、医療器械、ソー ダ、その他の重化学薬品、電池などの生産開始。ヒンド ゥスタン飛行機工場、2機生産 116 惨憺たるインド人の生活状態 海上交通途絶による輸入落ち込み インド軍、イギリス軍、アフリカ軍、アメリカ軍など 連合軍のインド駐屯による物資調達(インドの負 担)・・・物価上昇。 インフレの危機、通貨供給量の7倍加(39年30億ルピー、45 年220億ルピー)、とくに食料、燃料、灯油、衣類など基礎物資 の値上がりが激しかった。 さらに日本軍のインド侵攻がはじまると、米どころ ビルマとの交通遮断・・・米などの食料が東部インド にまったくはいらなくなった。・・・350万人の死者を 数えるベンガル飢饉。 117 クリップス使節・1942年 ーイギリスの懐柔策(失敗) 41年12月8日、日本が、米英蘭に宣戦布告。 緒戦の日本軍の勝利・・・タイ、マレー半島を席捲。 42年2月15日シンガポール陥落・・・5万のインド兵が捕虜に。 その後、ビルマを北上、3月8日ラングーン陥落。 イギリスでは、挙国一致内閣成立。労働党アトリーが副首 相として入閣。チャーチルにインドへの理解を求める。チャ ーチルに対するローズベルトの圧力、蒋介石の圧力。 4月末にはインド国境に迫る。日本軍によるカルカッタ爆撃。 「日本軍には、アジアでも結成されたインド国民軍のインド 兵士が同行している」(日独双方による地下放送)というう わさ。 118 クイット・インディア(インドから出ていけ)運動 42年5月1日、ビルマのマンダレー、4日にはミートキ ーナが陥落。アレクザンダー指揮下のインド軍、ス ティルウェル指揮下の中国軍ともインドに撤退。ニ ューデリーで敗北を認めた。 インド洋でもイギリス海軍は敗れ、4月前半にはセイ ロン爆撃があり、インドの東海岸にあるヴィシャカパ トナムとコオカナダも爆撃された。 このとき、ガンディーは日本の勝利を信じたとされる。 4月27日から開かれた会議派執行委員会に秘密の 決議案・・・「独立したら日本と講和する」路線 119 ネルー、連合国寄り路線 ネルーの主張・・・日本にはインドを侵略する意図がある。「独 立を与えられたら連合国側で参戦しよう」ネルーはガンディ ー案(日本との講和を念頭に置いた案)に反対。 議長アーザード・・・「政治的妙手」・・・ネルーの案は「実質的 にガンディー案と同じ」と強引に主張して、満場一致でネル ー案を通過させた。 42年7月14日の執行委員会では、「日本の侵略にたいするレ ジスタンスを作り上げたい」として、ガンディーの指導下に 非暴力闘争を行うことを決めた。 結局、反日とも反英とも解釈しうるクイット・インディア運動が おこなわれることになる。 120 クイット・インディア運動 この運動は、結局、どちらかの側に立っての参戦 ではない。その意味では、まさにガンディーの非暴 力運動であり、戦争をしている連合国・枢軸国双方 への抵抗・非協力の証明。 42年8月9日、会議派が運動の開始を決定し、ガンデ ィーが「行動か死か」と呼びかけを記した朝未明、ガ ンディーをはじめとする会議派指導者は全員逮捕 された。これ以降、大戦が実質的に終わるまで、イ ンドの政治的指導者は監禁されたままであり、大衆 は指導者のいない運動を担わねばならなかった。 121 クイット・インディア運動 運動をになった階層は、富農、中小土地所有者、初期に は学生の役割が顕著。 地域的には、北インド全域。ボンベイ、サーターラ、アフメ ダーバードから連合州、ビハール、ベンガル。 組織的には、会議派社会党、農民組合が積極的に支援。 会議派社会党のJ・P・ナラーヤンの影響下にあるビハー ル州では、激しい農民運動によって一時期通常の行政機 構はほぼ崩壊した。 共産党、ムスリム連盟は、この運動に否定的。 ビハールの後進カースト組織やアンベードカルの指導す る不可触民組織など後進・不可触民カースト組織の多くが 反バラモン、反会議派。 122 クイット・インディア運動 運動の弾圧は激しく、間もなく公然たる運動は不可能 となり、運動の中心は都市から農村に移っていっ た。 いくつかの地域での孤立した大衆蜂起など。 これは、反地主闘争に発展することはほとんどなく、 反英的色彩の強いままにとどまった。 1944年5月、ガンディー釈放。・・・・地下運動をやめる よう勧告。運動の終焉。 123 運動の陰にインド国民軍への期待 クイット・インディア運動の影には、常に、インド国外で 軍と臨時政府をもつS・C・ボースへの期待があっ た。 地下運動は、ボースがインドに進攻してくると信じて、 それに呼応しようとしていた。 ボースの方でも、国内の運動との連携を考慮。 43年10月、彼は日本の承認のもとで、インド臨時政 府をシンガポールで樹立。その首班となり、5万のイ ンド国民軍の司令官となる。 124 インパール作戦 インドに必ず進攻するというボースの言葉。 1944年3月、やっと日本軍とともにインド国民軍の司 令官としてインパール藩王国に進攻。 ときはすでに遅く、インド国境を越え、インパール 盆地にまで進軍したとはいえ、インパールの町を占 拠することさえできなかった。 日本軍とともに、ビルマ平原のなかでの凄惨な敗退 行・・・「白骨街道」 まさにこのとき、ガンディーのクイット・インディア運動 の中止勧告・・・44年5月末。 125 終戦: しかしインド独立付与の計画なし 終戦時のトルーマン・・・「圧制に対する自由の勝 利だ」と宣言。 これに対し、インドのある新聞・・・「もしそうなら、世 界中の虐げられている数千万の人びとは、今なぜ 解放の証をえられないのだろう」と。 イギリスに植民地解放の意思・具体的計画なし。 インドは独立のための闘争を再開。 126 インド国民軍裁判 1945年、連合軍側・インド兵の復員(98万人) そのほか、インド国民軍2万には戦時捕虜として 帰還。「囚人」だが、ボースの写真を公然と掲げ革 命化をうたい、スローガンを叫んだり。 兵士の政治化・・・ナショナリズム・反英意識の鮮 明さ 11月5日から3名のインド国民軍将校に対して・・・ 「イギリス国王への裏切りの罪」で軍事裁判。 会議派はそれに対抗、被告支援。反イギリス支 配。 127 戦後の諸反乱 インド国民軍将校に対する裁判への反対運動が、軍 にも波及。 1945年11月「インド軍のなかに、インド国民軍への同 情が高まる」 1946年1月18日、インド海軍の反乱(総計78隻の軍 艦、20の軍事施設、2万人の水兵が影響を受けた) コチン、ジャムナガル、アンダマン、バハレーン、ア デンなどで同情スト。 1945年11月―46年1月20日の間に、イギリスは、権 力移譲の重要な決定・・・・インドの独立へ。 128 閣僚使節団と中間政府案→分離案 1946年3月、イギリス労働党の閣僚使節団 A案・・・暫定措置として統一した中間政府、国家形態 を統一インド連邦(現在のインド、パキスタン、バン グラデシュを合わせた地域の統一連邦) ・46年8月16日・・・ムスリム連盟のA案反対の「実力 行使」 B案・・・インド・パキスタンの分割案 1947年6月2日、最後のインド総督マウンドバトン、分 離案を提示。分離決定。 129 独立と国民国家の形成 47年8月14日 東西パキスタンの独立 8月15日深夜、インド新首相ネルーのラジオ演説 「世界が眠りに落ちているこの真夜中、時計が新し い日の到来を告げるとき、独立インドは生と自由に 目覚めるのだ」。 1757年のプラッシーの戦い以来、インド亜大陸に 存在した服従の歴史が190年ぶりに転換されると き。 植民地支配からの解放=独立=自由の実現 130 ネルー ケンブリッジ大学卒、弁護士、西欧貴族風文人 20年代に旅行したソビエトの社会主義建設に感銘。 しかし、プロレタリア独裁には批判的。 イギリス労働党風の社会民主主義が彼の真髄。 私的所有権を認め、議会制民主主義、文民政治、 言論・結社の自由、政教分離主義(セキュラリズム) 131 「世界最大の民主主義」 1951-52、総選挙 成人男女ともに選挙権、複数政党制による初めての普通選 挙。 会議派は73%を獲得。「一党優位体制」 総意政党と圧力政党 57年、62年とネルーの会議派が選挙で大勝利。 独立インドの統治制度は、事実上英語を共通語としており、 裁判制度、官僚制、連邦制(中央政府ー州政府関係)から 始まり、さまざまの法律に至るまで、英領インドの統治制度 をほぼ引き継いだもの。 132 社会主義型経済建設 一党独裁型(ソ連・中国型)ではないが、国家の役割 が重要。 計画経済の思想。 48年の産業政策決議。 50年計画委員会の設立。第一次5カ年計画 55年の会議派党大会・・・主要な生産手段の社会的 所有化における「社会主義型社会」をめざすと決 議。 133 社会主義型経済建設 56年第二次5カ年計画から本格実施。資本財部門へ の投資、輸入代替工業化の推進。 56年、国家が独占的に管理する産業部門を17部門、 国家の役割を補充すべき部門を12部門とし、最後 に既存民間部門にも存続を許すとした。 59年の会議派党大会「協同組合化」を打ち出した。 インドの社会主義・・・公的部門が製造業生産の20% を超えることなく、「市場メカニズム」をも否定しない 混合経済。「民主主義」の原則を維持した「インド 型」社会主義 134 「留保制(優遇措置)」による 不平等是正 土地改革は不徹底。 不平等を目に見える形で是正する措置としての「留保 制(優遇措置アファーマティヴ・アクション)」 後進カーストといわれる中・下層のカーストやグルー プのために特別留保枠が、国会議員、官僚、教育 機関、政府機構の中に確保される。 135 主要参考文献 長崎暢子「インド―非暴力と自立―」『世界の歴史 27 自立へ向かうアジア』中央公論社、1998年。 『世界史小辞典』山川出版社、2004年 136
© Copyright 2024 ExpyDoc