現代中医鍼灸学の形成に与えた日本の貢献

現代中医鍼灸学の形成に与えた
日本の貢献
茨城大学大学院 教授
真柳 誠
2006, 6, 18 第55回全日本鍼灸学会学術大会 特別講演③
金沢市観光会館
日本の医学史 概要
• 日本は6世紀の仏教伝来と前後する中国学芸との
本格的接触以来、約1500年にわたり中国医学を
受容し続けてきた。
• しかし地理的に医人の往来は稀で、主に文献を介し
た受容だったことが他の周縁国と大きく違う。
• また風土や産出薬の相違もあり、明瞭な日本化が
十世紀から始まり、18世紀には日本独自の医学体
系が形成された。
• さらに明治後期から大正時代まで約30年間の断
絶・暗黒時期を経て、近代医学も援用した漢方・鍼
灸が形成され、現代に復興している。
日本における中国医書
• 日本は遣隋使の時代から幕末まで中国医
書を輸入し続け、その多くを現在まで保存し
てきた。
• 中には中国で失われた文献もある。これら
は本国で散佚し、国外に伝存したことから
「佚存書」と呼ばれる。
• 幕末には佚存書に基づく高度な古典研究が
なされた。日本の研究成果と伝存の古医籍
は明治以降に中国へ還流し、多くが復刻さ
れて現代中医学の形成に寄与している。
日本で保存された中国の佚存医書
• 京都の仁和寺からは唐代7世紀の『黄帝内経太
素』と『新修本草』(ともに国宝)が、尾張医学館の
浅井正封により江戸後期に発見されている。また
隋以前の灸書『黄帝蝦蟇経』も江戸医学館が発見
した。
• 一方、小曽戸洋氏と真柳は加賀・前田家の尊経閣
文庫にて、7世紀初めの経穴書『明堂経』(重要文
化財)と5世紀の『小品方』を1991年に見いだした。
• 以上は、いずれも遣隋使ないし遣唐使の将来品に
由来し、佚存書である。
日本で保存された善本
• また中国現存本より優れた版本や写本が日
本に伝存する場合も多い。
• 唐代7世紀の医学全書『備急千金要方』『千
金翼方』は日本に前者の南宋版(国宝)と後
者の元版があり、幕末に江戸医学館の多紀
元堅が両本を影刻した。
• 両書の版木は明治11年に上海に輸出され、
その印刷本が現代も中国・日本でテキストと
して広く使用されている。
日本から中国へ
第一期(明治初~中期:清国末期)
• しかし、明治維新後は漢方医の断絶により研究者
層の払底を余儀なくされた。
• 彼らの著述や研究資料であった厖大な医薬古典籍
は無用の長物と化し、あるいは死蔵され、あるいは
巷間に流出していった。
• これら書物、ときには版木などが当時来日していた
中国の学者や官僚に注目され、さまざまな経過を
たどり清末の中国に伝入した。
• その嚆矢は来日した金石学者の楊守敬が、購入し
た版木により帰国後の1884年に出版した『聿修堂
医学叢書』で、多紀元胤『難経疏証』や小坂元祐
『経穴纂要』も収められている。
楊守敬と聿修堂医学叢書
他に還流や伝入した書
• 1874年、山脇東洋復刻『外台秘要方』の版
木が広東に輸出され、印刷。
• 1888年、清国大使館づき商人で書店等を
経営していた王仁乾は、多紀元堅『診病奇
侅』の松井操漢訳本を日本で出版。
• 1890年、清国外交官の羅嘉傑は日本で入
手した影宋版『備急灸法』等を日本で影刻。
• 1892年、成都の胡乾元は上海で開業してい
た日本医家の持参していた和刻『仲景全書』
に基づき翻刻。
中国に還流の中国書と伝入の日本書
• 第一期には楊守敬以外に、来日した李盛鐸・羅振
玉なども多数の古医籍を購入。また上海等で薬店
を営んだ岸田吟香などは、日本から運び込んだ古
典籍も販売していた。
• こうした結果、佚存書も含めてこれまで中国に還
流した中国医書は296種、伝入した日本医書は7
51種で、いま中国にある日本旧蔵の古医籍は約
4千点・数万冊以上と推定される。
• 和刻版木も輸出されており、それで印刷された中
国医書は9種、日本医書は14種、朝鮮医書は2
種をかぞえる。
近年の還流事業
• かつて私は全世界に所蔵される中国系古医籍の
状況について、中国と共同研究を10年ほど重ね
た。
• この結果、中国大陸に約1万種の中国古医籍が
あり、日本にあった約1千種のうち153種がいま
だに佚存書だった。
• また3種の大陸散佚書が日本と欧米に、19種が
日本と台湾に共通してあった。
• さらに当共同研究の一環として、日本所蔵の佚存
書と貴重な古医籍すべてをマイクロフィルムに撮
影して中国に里帰りさせ、1500年におよぶ学恩
にいささかなりとも報いることができた。
中国古医籍所在模式図
大陸佚存書種数
計195(170)
( )内は半佚書・
輯佚書・偽書・未
詳書を除いた数
4(4)
大陸
約1万
その他
約200
日本
約1千
台湾
約500
3(2)
153
(137)
19(11)
16(16)
近代日中の鍼灸
• 中国では清の1822年、勅令により宮廷の太医院
で鍼灸科が廃止された。以来、鍼灸はほとんど民
間療法となって研究・教育もなく、民国時代には壊
滅状態に瀕していた。
• 一方、日本では明治維新以降、西欧医学を導入し
て漢方医の根絶策を進めた。しかし鍼灸だけは近
代医学も教育した鍼灸師の形で存続し、科学研究
もなされてきた。
• 伝統が途絶えていた中国は、これゆえ日本に大き
な刺激と影響を受けたのだった。その程度は中国
で出版された日本の鍼灸関連書からはっきり分か
る。
明治21年刊の鍼学テキスト
明治中期には近代解剖学に基づく穴位も教育された
近代中国で出版された日本の鍼灸書
• 1910年までの清代に出版された日本の鍼
灸書は、江戸の著述が1種だけ。
• 1911~48年の民国時代には新たに、江
戸の著述が10種、明治後の著述が7種。
新中国の1949年から文革以前の66年ま
では、新たに明治後の書が16種出版され
ている。
• むろん各書は幾度も復刻されているので、
出版回数はもっと多い。これに各時代の状
況や翻訳出版に関わった人物を重ねると、
興味深い傾向と史実が見えてくる。
近代の中国医学と日本
• 清末の唐宗海は1884年に『中西匯通医書五種』を
著して生理・解剖学より中医理論を解釈、のち中医・
西医の長を採る中西匯通派が形成される。匯通派
のモデルとなったのは、明治以後に近代医学も援
用した日本の伝統医学研究だった。
• 1914年、北洋軍閥の袁世凱政府は中医の廃止を
主張、全国の中医界が強い反対運動を起した。
• 民国政府も明治政府に倣い中国医学の廃止策を採
る。1925年には、全国教育連合会提出の医学教
育に中医を編入する申請を拒絶し、医学校での中
医教育を禁止した。
民国政府の中医廃止策
• 1928年5月、民国政府の第一次全国教育会議に
て、大阪医科大学卒の汪企張が中医廃止案を提
起。
• 翌29年2月、大阪医科大学卒の余雲岫を筆頭と
する廃止派の提出した「廃止中医案」を、政府の第
一次中央衛生委員会が批准した。これは約半世紀
前に明治政府が実施した漢医廃止策に倣ったもの。
• これに対し全国の中医界は日本の前例に学び、ね
ばり強い存続運動を展開する。
• すなわち29年3月に上海で開催された第一次全
国医薬団体代表大会を皮切りに、迅速な対応がな
され、36年1月発布の中医条例で合法地位を獲
得。37年3月には政府衛生署に中医委員会を設
立させることに成功した。
1929年の請願代表団
(前列は陳存仁と謝利恒)
注目された日本の研究書
• こうした存続運動のひとつが伝統医学教育の体系
化と新教材の編纂だったが、中医廃止派による五
行説などへの批判に応え、世論や政治家の理解
を得られるものでなければならない。
• 他方、日本では江戸中期以降の古方派以来、後
期の考証派を含め五行説を否定する傾向が強い。
• また清末に楊守敬が中国に紹介した考証派の著
述は、幕府江戸医学館の教材に相当し、高度な学
術性と体系性を備えている。
• さらに明治後の伝統医書は近代医学の洗礼を受
けている。そうした特徴を持つ日本医書は、当時
の中国医学体系化と近代化にかなり有用なモデ
ルだった。
日本から中国へ 第二期
明治末~昭和初期:民国時代
• 1915年、岡本愛雄『最新実用西法鍼灸(原題:実
習鍼灸科全書)』 が顧鳴盛の翻訳で出版され、のち
幾度も再版。
• 1929年、名古屋玄医『難経注疏』の復刻。
• 1930年、勝万卿『難経古義』の復刻、また原志免
太郎『灸法の医学的研究』が周子叙の訳で『灸法医
学研究』として出版。
• 1932年、杉山和一の書が繆召予の訳で『百法鍼
術』、吉原昭道の書が陳景岐の訳で『中風予防名
灸』として出版される。
• 1935年、玉森貞助の書が『人体写真十四経経穴
図譜』として出版される。
1936年 日本医書ブームのピーク
• 1936年に陳存仁が江戸から昭和までの全72書
を集大成・編刊した『皇漢医学叢書』は画期的で、
現在も復刻され続けている。
• 当叢書は杉山和一『選鍼三要集』・多紀元胤『難経
疏証』・小坂営昇『経穴纂要』のほか、佐藤利信『盲
人の学ぶ鍼法』を『鍼学通論』、菅沼周桂『鍼灸則』
を『鍼灸学綱要』として収める。
• 同年刊の叢書『中国医学大成』も岡本一抱の『鍼
灸素難要旨』を収める。
• 同年には玉森貞助『鍼灸秘開』が楊医亜訳で出版。
• また猪又啓岩ら著の神戸延命山鍼灸学院テキスト
が陳景岐・張俊義・繆召予の訳で『高等鍼灸学講
座』として出版され、のち幾度も復刻された。
陳存仁の『皇漢医学叢書』
日本鍼灸書の中国訳版
• 玉森貞助の『鍼灸経穴医
典』は『鍼灸秘開』の名で
翻訳され、1936年の初
版以降、現在も復刻が重
ねられている。
• 訳者の楊医亜はのち河
北中医学院の傷寒論研
究室教授となり、私は19
77年に初めて訪中した
際、北京でお会いした。
神戸鍼灸学院テキストの中国訳版
折 (張
衷 一賛
九臣
』
二三
巻 七輯
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収 )印
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二
『
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穴』
1950年以前の中国における
日本伝統医学関係書の出版回数
出版
年代
明治前の書
明治後の書
総
計
考証派
その他
古方派
-1880
81-85
86-90
91-95
96-1900
01-05
06-10
1
12
1
2
1
3
1
1
1
1
1
1
2
17
2
1
1
2
1
1
1
2
1
2
1
2
17
2
2
1
4
2
小計
16
7
2
1
26
1
3
4
30
11-15
16-20
21-25
26-30
31-35
36-40
41-45
44-50
1
3
5
23
23
3
3
5
4
22
1
1
3
2
18
1
3
7
2
1
2
2
5
9
10
32
71
1
3
1
2
7
8
4
3
2
3
1
1
2
6
7
2
4
1
1
1
1
3
2
1
3
1
1
4
1
1
6
6
2
12
15
18
6
9
8
11
11
22
47
89
7
12
小計
55
37
25
10
5
133
27
26
9
5
7
74
207
総計
71
44
27
11
5
159
27
27
9
8
7
78
237
鍼
灸
評
注
小
計
漢
方
生
薬
鍼
灸
通
俗
医
史
小
計
グラフ1 明治前と明治後の書の中国出版回数
明治後
明治前
-1880
1881-85
1886-90
1891-95
96-1900
1901-05
1906-10
1911-15
1916-20
1921-25
1926-30
1931-35
1936-40
1941-45
1946-50
0
10
20
30
40
50
60
70
80
90
日本から中国へ 第二期ブームの終焉
• 1929年から日本医書の出版が急増し始め
たのは、中医存続運動が背景にあった。
• その中国版出版回数は1934年に8回、35
年に21回、36年に83回と急増する。
• しかし1937年には3回、38年は1回、39
年は0回に急減してしまう。
• 1936年でブームが終焉した理由はいうま
でもない。1937年の第二次上海事変から
の日中全面戦争による反日と戦乱である。
グラフ2 明治前の書
1911-15
グラフ3 明治後の書
1911-15
考証派
その他
古方派
針灸
評注
1916-20
1921-25
1926-30
1916-20
1921-25
1926-30
1931-35
1931-35
1936-40
1936-40
1941-45
1941-45
1946-50
1946-50
0
10
20
30
40
50
60
漢方
生薬
針灸
通俗
医史
70
0
10
20
• 出版を明治前と後の書に分けると、1921~25年
の期間を除くなら両グラフの増減は同様に推移する。
• ただし明治前の書は振幅の程度がより大きく、29
年から36年までの出版ブームの中心は、およそ明
治前の書だったことが分かる。
明治後医書の中国版
• では明治以降の医書は、中国でどのような
ものが好まれ紹介されたのだろう。
• そこで辛亥革命の1911年から新中国成立
前後までに、2回以上出版された漢方治療
書・鍼灸書・生薬書を調査したところ計17書
があった。
• うち鍼灸の5書を中国の初版年順で刊年・中
国名(著者・原書名)を列記すると次のように
なる。
1911~50年代に2回以上、
中国で出版された明治後の鍼灸書
• 1915・17・23・24・32年刊『最新実習西法鍼灸』(岡本
愛雄『実習鍼灸科全書』)
• 1930・33・35・40年刊『灸法医学研究』(原志免太郎
『灸法の医学的研究』)
• 1930・31・32・33・36・37・41年刊『高等鍼灸学講義』
(神戸延命山鍼灸学院『高等鍼灸学講座』)
• 1936・48・49・51・52・54・55・56年刊『鍼灸秘開』(玉森
貞助『鍼灸経穴医典』)
• 1949・51・54年刊『鍼灸処方集』(代田文志『臨床治
療要穴』・松元四郎平『鍼灸臨床治方録』)
1911~50年代に翻訳
出版された書の日本原本
好まれた書の傾向
• 以上17書の著者は、漢方治療書の全員が医師、
生薬書は薬剤師か薬学者、鍼灸書は鍼灸師・鍼灸
学校・医学者で、みな近代医薬学を修めている。
• 明治以降でもこれらに該当しない内容や著者の漢
方・鍼灸・生薬関係書は少なくないが、そうした書の
中国版は数えるほどしかない。
• つまり近代科学の修飾を受け、いわゆる「科学化」さ
れた書が総じて好まれたのだった。
• これら17書が民国期の1911~49年に出版され
た回数をみると、漢方治療は8書で27回、鍼灸は5
書で20回、生薬は4書で12回だった。
• 刊行が重ねられた書ほど需要があったはずなので、
本数字は当時好まれた分野と書物の反映とみてい
い。
湯本求真『皇漢医学』の中国版
• 湯本求真の『皇漢
医学』は2種の訳本
があり、新中国以
後も含めると計9回
復刻され、もっとも
影響のあった明治
後の医書といえる。
• 当中国版には魯迅
も反応し、エッセイ
に記している。
当時の雰囲気
• 前掲祝辞が載る『皇漢医学』の周子叙訳本初版は1
929年の年末に出たが、同年2月には前述の「廃
止中医案」が批准されている。その切迫感と本書へ
の期待感は当本の周氏序文にもみることがでる。
• 事実、前述17書のうち6書は29年と30年に初版
が集中しており、それらが同案への対抗策としての
近代化や科学化のモデルだったことを物語っている。
• 各訳書名でみても、「高等」「最新」「西法」「医学研
究」「化学実験」などの語があり、みな同じ雰囲気を
伝えている。
日本から中国へ 第三期
• 1937年の上海事変以降の日中戦争で、第二期
の日本医書ブームは終わった。
• ただし1949年からの新中国では66年の文革発
動までに、日本伝統医学書ブームが起きていた。
背景には新中国政府の中医振興策がある。
• この時期には昭和の鍼灸書16種が、新たに翻訳
出版されている。
• 鍼灸書の著者は柳谷素霊・代田文誌・長浜善夫・
赤羽幸兵衛・本間祥白・間中喜雄らで、私たちにも
なじみ深い。
第三期の出版
• 1949年、代田文誌『臨床治療要穴』と松元四郎平
『鍼灸臨床治方録』が楊医亜の合編訳で『鍼灸処方
集』として出版(51・54・56年にも復刻)。
• 1953年、楊医亜編訳で柳谷素霊『(最新)鍼灸治
療医典』が出版される。
• 1954年、劉芸卿訳で阪井松梁『灸点新療法』が出
版される。
• 1955年、北京に中医研究院設立。同年、長浜善
夫『経絡の研究』が承淡安の編訳で『経絡之研究』、
承為奮・梅煥慈の合訳で赤羽幸兵衛著の『知熱感
度測定法・鍼灸治療学』に承淡安が序、56年に刊。
1954年、劉芸卿訳で出版された『灸点新療法』の原
本、阪井松梁の『(図解)灸点新療法』(1930年刊)
翻本 の 治 赤
合療羽
訳』
誌訳
しに 学 幸
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五
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六
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針 承感
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梅
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医
現道煥法
象の慈・
針
も日ら灸
第三期の出版
• 1956年、本間祥白『鍼灸経絡治療講話』が承淡
安の訳序で『経絡治療講話』として出版。
• 同年、赤羽幸兵衛『知熱感度測定法』『鍼灸治療
学』が劉芸卿ら合訳で同名出版。
• 同年、陶義訓・馬立人ら合訳で『針灸療法国外文
献集錦』の出版。
• 1957年、代田文誌『鍼灸臨床治療学』が胡武光
の訳で同名出版。
• 同年、本間祥白『図解実用鍼灸経穴学』が承為
奮・梅煥慈の摘訳で『十四経穴図譜』として出版。
代田文誌著『針灸臨床治療学』
人民衛生出版社版(1957)
第三期の出版
• 1958年、柳谷素霊『鍼灸医学全書(経穴篇)』が
董徳懋の編訳で『針灸経穴概要』として出版。
• 同年、間中喜雄・シュミット『医家のための鍼術入
門講座』が蕭友山・銭稲孫の合訳で『針術之近代
研究』として出版。
• 同年、代田文誌『(沢田流聞書)鍼灸真髄』が承為
奮・承淡安の合訳で同名出版。
• 1959年、本間祥白『図解実用鍼灸経穴学(第二
部)』が承為奮・梅煥慈の摘訳で『経穴主治証之
研究』として出版。
• 同年、小川惟精『指圧療法』が潘益翰の訳で同名
出版。
• 柳谷素霊著『鍼灸医
学全書(経穴篇) 』は
董徳懋の編訳で、
『針灸経穴概要』とし
て1958年に人民衛
生出版社より刊行さ
れた。
承淡安と近代中医鍼灸
• 以上の翻訳出版を担ったのは承淡安や楊医亜
など、民国時代から鍼灸の復興と教育啓蒙を
行っていた中医師である。
• とくに精力的に活動した承淡安(1899~1957)
の功績は注目していい。
• 彼は1929年、江蘇省の呉県に「中国鍼灸学研
究社」を設立し、中国初の鍼灸通信教育を開始。
これは32年に無錫に移転している。
• 1933年には中国初の『鍼灸雑誌』を発行した。
承淡安の来日
• 1934~35年の八ヶ月間、承淡安は鍼灸
教育を来日調査。東京高等鍼灸学校(呉
竹学園)にて、しばらく授業も受ける。
• 卒業時に坂本貢校長は目黒・雅叙園で特
に宴を催し、祝賀している。
• 承淡安はこの来日で和刻『十四経発揮』や
「鍼灸銅人写真」「人体神経図」・鍼灸器具
を購入した。
• それらを帰国後の1936年に『校注古本十
四経発揮』『銅人経穴図考』として出版する。
承淡安が出版した『校注古本十四経発揮』
中国で消滅寸前だった『十四経発揮』
• 元・滑伯仁の『十四経発揮』3巻は江戸時代
に17回も復刻された。中国医書の和刻回
数では第三位で、江戸から現在まで読まれ
ている。『十四傾城腹之内』なる洒落本まで
出た。
• 中国では滑伯仁の『難経本義』が多数復刻
された反面、本書は明の『薛氏医案』二十四
種収録本を最後に、復刻されていなかった。
• それゆえ本書の和刻本を入手した承淡安は
喜び、日本での研究にも驚嘆している。
承淡安「校注十四経発揮序」
• 私は…日本に渡り、… 。ある日、坂本貢という東京
高等鍼灸学院の院長で…、編著の鍼灸書も甚だ多
い…、人物が私の名を聞いて来訪された。
• 又ある日、彼の家の宴に招かれた時、八田泰興氏
が訳した十四経発揮を出して質問された…。此の
書は我が国でほとんど失伝しており、薛己本が民間
で流行しているが、錯簡が多くて取るに足らない。
• いま意図せず坂本貢氏に遇い、また意図せず此の
訳本を獲て読み、彼の邦に我が国の古本が必ずあ
るのを知った。
承淡安「校注十四経発揮序」
• そこで日々医学書店に往き、…ついに某古書店で
この古本を見いだし、急ぎ購入して読んだ。そ
の内容は…日本人の訳本や我が国の薛己本と較
べ、更に詳細で完全である。 …
• 此の書は中国で散佚したため鍼灸の学はほとん
ど湮没して見えないが、日本に流伝して彼の邦
の鍼灸は又た盛興している。
• 此の次の東行目的は鍼灸の道を発揚することに
在り、茲に此の書を獲得して祖国に持ち帰り…、
即ち刊印を行う。…
中華民国三十六(1937)年十一月 承澹安序於
金陵旅宿舎
『校注十四経発揮』に載る
和刻版と日本訳本の写真
• 昭和8年(1933)初版
の坂本貢『教科用/受
験用/経穴並孔穴図
譜』。他に『鍼灸医学精
義』などの著がある。
• 坂本は1926年に東洋
温灸医学校、1929年
に東京高等鍼灸医学
校を設立している。
• 承淡安が来日した時
は坂本が新校舎を建
設し、各種学校の振興
に貢献している 時期。
張錫「重刊古本十四経発揮序」 (1938)
• …嘗て日本の文部省は孔穴調査会を設け、医
学博士富士川游、医学博士大沢岳太郎を聘き、
…調査を経た結果、三百六十穴を決定した。
• また文部省は三宅医学博士らの五大家に委托
し、解剖によって調査研究し、凡そ一百二十
穴の灸治点を規定した。
• また後藤博士の研究では、英国人の…発見し
たHead‘s Zoneと古来鍼灸の孔穴には相互に吻
合の点があるという。…而して其の経穴の本
づく所は、けだし滑伯仁の十四経発揮しかな
い。
承淡安の鍼灸教育
• 1936年、承淡安は無錫に中国鍼灸学講習所を設
立し、3月・半年・2年の教育を開始、日本語も教育
した。 同講習所は37年に中国鍼灸医学専門学校
と改名したが、日本軍に焼き払われている。
• 1951年、蘇州で中国鍼灸学研究社を再開。
• 1954年、新政府は中医を正規の医学として認可。
承淡安は江蘇省中医進修学校校長となる。
• 1955年、中華医学会副会長となる。
• 1956年、北京・上海・広州・成都に中医学院を設
立。同年、梅蘭芳が京劇団を率いて来日。梅蘭芳
は承淡安の依頼で本間祥白『経絡治療講話』、代田
文誌『鍼灸神髄』などを購入した。承淡安翻訳グ
ループの梅煥慈は梅蘭芳の一族かも知れない。
• 承淡安は、中国史に残る京劇の名優、女形の第一人
者、梅蘭芳(1894~1961)の主治医で同郷の友人。
承淡安関連の日本鍼灸翻訳:11書
• 1936年、『古本十四経発揮』『銅人経穴図考』
• 1954年、『灸点新療法』
• 1955年、『経絡之研究』
• 1956年、『経絡治療講話』『知熱感度測定法』『鍼
灸治療学』
• 1957年、『十四経穴図譜』『知熟感度測定法与皮
内鍼法訳叢』 (『医道の日本』誌掲載の赤羽幸兵衛
ら17論文)
• 1958年、『(沢田流聞書)鍼灸真髄』
• 1959年、『経穴主治証之研究』
• 一方、承淡安が養成し
た門下は数百人という。
• 彼ら門人は1956年か
ら各地に設立された中
医学院で教鞭にあたり、
60年に刊行された中
医学院の第一版統一
教材『針灸学講義』も編
纂している。
1960年刊の中医学院第一版統一教材
• 現代中医学の骨格はこの第一版教材で築かれてお
り、いま日本と中国の鍼灸医学に湯液ほどの齟齬
がないのは、以上の歴史経緯が背景にある。
承淡安の高弟、楊甲三北京中医薬大教授
1983年、北京中医学院留学生卒業写真
総括
• 日本は中国で失われた多くの佚存古医籍や善本
を保存し、現代に伝えている。
• それらに基づき江戸末期まで高度な古典研究がな
され、明治以降は近代医学も導入した研究、鍼灸
教育システムが体系化されてきた。
• 中国の鍼灸は清末の廃絶により、民国初期に壊滅
状態にいたっていた。
• 民国政府は中医廃止策を採ったが、日本の研究
成果も援用した中医の反対運動で存続された。
• 承淡安らが日本に学んだ鍼灸学と教育は、新中国
以降に中医鍼灸学が復興する礎となった。
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