見る/開く

山
)
晃
子
― 十七世紀後半を中心に ―
石

(
なすべき 重要な研究課 題であると指 摘してい る。
近世津軽領における廻船建造システムと地域社会
はじめに
はじ め、廻米や津 軽領からの 有力商品で あった材木の 移出体制な ど、海
近世津 軽領の海運に ついては、弘 前藩の流 通統制機構で ある九浦制を
本稿 は、近世の廻 船はどのよ うなシステ ムで建造され たのか、十 七世
運 の制度面を中 心とした研 究が蓄積さ れてきた。し かし、この ような業
型廻船 が各地で建造 され、運航さ れること によって、全 国的な流通ル ー
近世にお いては、近距 離輸送に用 いる小廻し 船や、長距離 輸送用の大
造船 技術力や資材 供給力などの 問題を素 材としながら 、藩船や商船 を含
のが現 状である。そ こで、本稿で は、十七 世紀後半の津 軽領内におけ る
で建造さ れたのか、と いう視点に立 った研究 はほとんどな されていない
)
紀 後半の津軽領 を対象に、 廻船建造の 実態を明らか にすること を目的と
績に対して 、実際に海上 輸送を担っ ていた廻船 は、どのよう なシステム
トが 確保されてい た。内航海運 が最も発 達した時代と 評価される前 提と
め た大型廻船の 建造の実態 とそのシス テムについて 、明らかに すること
蓄 積 が あ り 、 本稿 で も こ れ を 参 照 し て い る 。 石 井 謙 治 『 図 説 和 船 史 話 』
- 19 -

(
する。
し て、このよう な造船業の 展開があっ たことは見逃 すことので きない問
)
としたい。
なお、弘 前藩政史研究 の基本史料 である「弘 前藩庁日記」 のうち「御

(
題といえる。
この物資 輸送の主力で あった廻船 のありかた については、 当然のこと
)和船の造船技術については、石井謙治氏や安達裕之氏による厚い研究
して いることから 、本稿ではお もに同史 料に依拠する こととした。
国日記 」
(以下 、
「国日 記」と略記す る)に、 廻船建造関係 の記事が充実
一九 七二年 )によ れば、 河川 ・海上
ながら 、海運や造船 の視点から理 解されよ う。例えば、 児玉幸多編『 近
世史ハンドブック 』(近藤出版社
註
交 通の問題を制 度面と技術面 に区分し 、制度につい ては廻船、 河川交通
・船番所・海 難の側面か ら、技術に ついては造船 と海運から の研究視点
)
(

(
が示され ている。この うち造船業に ついては ほとんど研究 されていない
ことに ふれ、これは 海運と密接な 関係があ ることから、 史料を捜索し て
1
(至誠堂
界 文化社
一九八三年 )
、 石 井 謙 治 責 任編 集 『 復 元 日 本 大 観
一九八八年 )、 石井謙治『ものと人間の文化史
また、越前新保商人による津軽領内からの材木移出については、印牧信
近世前期十三湊からの材木移出体制の確立と意義が明らかにされている。
船』
(世
―Ⅰ・和
) 江 戸 の上 屋 敷 で 記 録 さ れ た も の を 「 江 戸 日 記 」 と 称 し 、 弘 前 城 中 で 記
二〇〇一年)に詳しい。
明「近世前期、越前商人の北奥進出と材木流通―越前新保商人の商業活
一 九 九 五 年 、 以 下 『 和船 Ⅰ 』 と す る )ほ か 多
(
船Ⅰ 』(法政大学出 版局
一九八五
動と廻船業―」
(『海事史研究』第五八号
交通 ・運輸』 日本評 論社
和船編 』
(財団法人日本海事科学振興財団
第八巻
数。 安達裕之「近世におけ る廻船の発達 」(永原慶二・山口啓二編『講
座・日 本技術 の社会史
年)
、安達裕之『日本の船
一九九八年)ほか多数。
録され たものを「御国日記」 と称する 。「御国日記」は寛文元年(一六
六一)から元治元 年(一八六四)まで 。「江戸日記」は寛文八年(一六
六八)か ら慶応四年(一八六八 )。ともに 弘前市立弘前図書館蔵津軽家
船の科学館
文書。
津軽 領における廻 船建造
近世 における大型 廻船
近世における大型廻船の概容について、石井謙治『図説和船史話』・
同『和船Ⅰ 』などによっ て概観して おこう。
近世初期 には、地域性 の強い、多 種多様の船 型・構造をも つ廻船が主
力を占 めていた。そ の船型名称に ついては 、瀬戸内海で は二形船・弁 才
弘 前 市 市 長 公 室企 画 課
一九八四 年 )。和泉清司「近世における津軽藩の日本海交
東北学院大学東北
一
人と地域内分業 」(斎藤善之編『新しい 近世史③市場と民間社会』新人
一九九六年)がある。近世後期、地方廻船勢力の台頭の要因
文化研究所
号
船・ 押廻し船・伊 勢船、九州は あだて船 ・二形船・弁 才船・あざ ってい
易 」(『年報「市史ひ ろさき 」』第
一 九 六 六 年 ) が 先 駆 的 で 、 上 方 廻 米 の実 態 を よ り 明 ら
船・間瀬船 ・組船・木附 船が代表的 なものであ った。このな かでも、当
初は小型 ~中型廻船用 が主であった 「弁才船 」は、寛文~ 延宝期(一六
一九九四年)がある。
そ れまでの地方 的特色をも った各種の 廻船は海運の 主流から駆 逐され、
化し 、元禄期には ほぼ帆走専用 船として の形式を確立 した。これに より、
六一~ 八〇)にかけ て帆走船化へ の努力が 試みられると ともに逐次大 型
屋敷と廻米制について 」
(『海事史研究』第五一号
一九九八年)では、
一九九九年 )、印牧信明「津軽藩の敦賀
船 、東海・関東 は伊勢船・ 二形船・五 大力船、日本 海は北国船 ・羽賀瀬
一九九
考」
(『東北学院大学東北文化研究所紀要』第一六号
( )九浦制の成立および展開については、難波信雄「津軽藩九浦制沿革小
する、という重要な指摘がなされている。
て検討した結果、大坂、能登黒嶋、伊勢大湊の造船拠点の三類型が存在
点から、造船拠点における技術労働力の編成と資材調達の二側面につい
船勢力の拠点と隣接する地域に造船拠点が形成された点にあるという視
として、十八世紀中期以降の弁才船建造技術の全国普及により、地方廻
物往来社
( )廻船建造に関する近年の成果として、篠宮雄二「廻船建造における職
4
1
長谷川成一 『近世国家と東北大名 』(吉川弘文 館
て 」(『交通史研 究』第四四号
かにし たものに 、印牧 信明「津 軽藩に おける成 立期の 大坂廻米につい
流通 』(柏 書房
の江戸廻米および上方廻米については、渡辺信夫『幕藩制確立期の商品
三年)では、近世期を通じた日本海交易のありかたが示される。弘前藩
2
- 20 -
4
76
2
3

(
)
弁 才船が全国的 に普及し、 近世後期の 代表的廻船と なったので ある。
この弁才船 の船体構造は 、航(かわ ら)と呼ば れる幅広い厚 板を船底
材として、船首側に水押(みよし、船首材 )、船尾側に戸立(とだて、
る 場合、①造船 する場所、 ②材木・鉄 など造船資材 の入手方法 、③資材
代金の支払 方法、④保証 人の有無な どを明確に した上で、当 該町奉行に
造船を願 い出る必要が あった。
こ の三段の棚板 構成を三階 造りという 。何枚もの板 をはぎ合わ せて必要
み合 せ、内側から 多数の船梁( ふなばり )を入れて構 成するのが特 徴で、
もとづいて、 造船が行わ れたことが 確認できる事 例を、寛文 七年(一六
以上を対象とした)、造船資材入手方法などの情報が明確であることに
(船型など )、廻船の積載能力をあらわす積石数(本稿では一〇〇石積
このよ うに、船主と みなされる船 頭などの 出身地や名前 、廻船の種類
に応じた大き な板を造り 出す「はぎ 合わせ」の技 術は、和船 独特のもの
六七)~宝永七年(一七一〇)までを対象に 、「国日記」から抽出し、
船尾材 )を配し、そ の両側に根棚 ・中棚・ 上棚といった 幅広い外板を 組
で、これ により一〇〇 石積以下の小 船も二〇 〇〇石積以上 の大型船でも
である。以下 に検討し てみる。
まとめ たものが表
船頭 の出身地が判 明するの は、全六四件 のうち五一件
で ある。津軽領 六件をはじめ として、 松前四件、仙 台二件、銚子 一件、
船頭 の出身地
容易に 建造できたの である。
商 船(荷船)の 建造
市川一件、江 戸二件、越 後三件、佐 渡二件、越中 二件(放生 津一・六渡
寺一 )
、加賀六件 、能登穴水 一件、越前 九件、新保 三件、勢州慥 柄二件 、
大坂二 件、塩飽三件 、備前岡山一 件、筑前 一件と、北国 地方が比較的 多
な かでも越前は 九件一七・六 パーセン トを占めるが 、そのほとん どは
いも のの、その分 布は日本全国 に及んで いる。
合 申度望ニ而罷 下候、西海船 一艘分之 御材木・鉄拝 借仕代銀者年
越前新保(八 件)であるこ とが注目 されよう。近 世前期には 、越前商人
いた 。さらに今年 もまた、十三 において 、造船資材で ある材木と鉄 を藩
「 近世前期、越 前商人の北奥 進出と材 木流通―越前 新保商人の商 業活動
そ の 多く を 材 木 の運 搬 の ため に 使 用 した と考 えら れて いる (印 牧信 明
った。 かれら新保な どの越前商人 が、津軽 の材木産地で 多数の船を造 り、
暮ニ急度上納 可仕趣中畑清 左衛門迄 申立候、請人 佐渡屋孫右 衛門
)
が良質な材 木を求めて 北奥に進出し ていたが、 その中心は 新保商人であ

(
か ら拝借した上 で 、
「 西海船 」
( 船型呼称で はなく、日 本海海運に運 航す
と廻船業―」)
。
佐渡の八兵衛は、ここ数年、十三において「合船 」(造船)を行って
る船の意か) 一艘の合船を したいと 十三町奉行で ある中畑清左 衛門まで
廻船の種類
船型が明確 であるの は六四件中二 〇件で 、
「組舟」一 件 、
申し立てた 。このよう に、船頭など の海運業者 が津軽領に おいて造船す
- 21 -
1
江
相立候由就 申ニ、相談 之上願之通 可申付趣清左 衛門 申
渡之、
江
一 、佐 渡 之八 兵衛 儀 、数 年十 三 罷
下合船 仕候、 当年も 十三ニ 而船
〔史料 一〕
「国日 記」貞享五年 (一六八八 )十月九日 条
造船にかか る許可願の 一例を、次に 掲げてみ よう。
津軽領におい ては、どの ようにして 廻船が建造さ れていたの だろうか。
2
舟」
「弁才 」
)一五件で あった。この うち弁才船 が七五パー セントを占め
「北国船」二件、「羽ヶ瀬船」一件、「間瀬船」一件、「弁才船」(「弁才
する方法 が取られたこ とがわかる。 また、№
から拝借し た銀五貫目と 米一〇〇俵 については 、江戸廻船の 運賃と相殺
ま た、造船資材 である材木 と鉄の代銀 については来 春に上納す るが、藩
の場合、塩 飽船頭与四兵
ている。 これらの廻船 は瀬戸内海や 日本海で 使用されたも のとそれぞれ
、№
、№
、№
、№
衛の「 国本之船」は 、毎年大坂に おいて、 弘前藩の「御 城米積船」に 雇
、№
同様の 船型呼称とみ なされるもの であり、 地域的であっ た造船技術の 他
、№
われ ており、来年 の大坂廻米に 際し、青 森からの一番 船として七〇 〇石
の№
地域 への伝播や、 国内海運業の 実態を直 接に反映する 指標といえよ う。
表
積 の五艘を秋に 造船したい という。こ の船を雇って くれるなら ば「御運
7
につ
賃 積の雇船
16
23
27
である。 次の史料によ り、№
之壱艘 分并御銀五貫 目・御米同 所ニ而納百 俵・銕四拾束 拝借被仰
御船木御材 木有之処ニ 而七百石積 之船壱艘合 申度候間、御 材木右
大坂御蔵 江相渡日和無御座大坂舟囲置罷有候処、蟹田・今別ニ而
戸 御廻船御雇ニ 被仰付候処、 去春大坂 御蔵米従鰺ヶ 沢被仰付積登
一、 小石次郎右衛 門以書付唐牛 与右衛門 迄申立候ハ、 今度拙者船江
うだ。 弘前藩の廻船 雇傭事情と海 運業者に よる雇船を見 込んだ造船は 、
ー船による 廻漕の場合 、運賃価格を めぐる駆 け引きや交渉 が行われたよ
当時、雇船の 運賃は割高 であったこ とがうかがわ れ、賃積の チャータ
次兵衛船の雇傭は却下されている(「国日記」天和三年七月三十日条)
。
「大 分之御物入之 儀ニ候間、御 雇被成候 儀、無用ニ被 成可然候」と 、与
廻 船の積石数が 判明する のは六四件中 三四件で、一 〇
〇石積から最 大で一七〇〇 石積が建 造されたこと が判明する 。なかでも 、
廻 船の積石数
ニ而も自分之 荷物積込候共 御用之節 中物差置御公 儀様御荷物 を積
八〇〇石積 ・一〇〇〇 石積・一五〇 〇石積が最 も多く、そ れぞれ五件一
こ の小石次郎右 衛門は、自分 は船頭・ 艫取・水主と いった乗組員 を抱
江
右願 之通与右衛門 直
ニ 御家老中被 仰付之 、
(傍 線筆者)
積石数につい ては、一〇〇 石積・二 五〇石積・三 〇〇石積が各 一件、八
た 、船型が判明 する廻船の大 部分(七 五パーセント )を占める弁 才船の
離輸 送)に用いら れた廻船がほ とんどで あったことを 意味している 。ま
五パー セントを占め ている。これ は、概ね 一〇〇里以上 の大廻し(長 距
え、かつ「江 戸廻海上数年 乗候而功 者成」人物で あるというか ら、廻船
〇〇石積が 二件、九〇 〇石積が一件 、一〇〇〇 石積が三件 、一二〇〇石
取・水 主拘置候故御 奉公ニ合せ 船仕度と奉 存候由、
江戸着可仕 候、拙者義 、江戸廻海 上数年乗候而 功者成、船 頭・艫
来 春上納可仕候 、右之通被仰 付候ハ丶 、船之義御船 御同意ニ何時
密接 に結びついて いたのである 。
〔史料 二〕
「国日 記」天和三年 (一六八 三)三月四日 条
4
付度 候、御運賃ニ 而御銀・御 米之分当年 差上、御材木 ・銕之代銀
で 江 戸 藩 邸 へ 廻 漕 す る 荷 物 を 「 運 賃 ニ 而 積 登 せ 」 た い と 申 し 出 た が、
賃諸色来年大 坂ニ而御雇 之並ニ被成 被下度候」と 、運賃の価 格交渉も引
15
いては、弘前 藩の城米輸 送や江戸廻 船の雇傭を予 定して建造 される事例
9
き合いに 出している。 また、鰺ヶ沢 の船頭与 次兵衛は、七 〇〇石積の船
7
の小 石次郎右 衛門の場合を みてみよう。
4
の所有者で あるととも に船乗りを統 率する長で もあったと 解されよう。
- 22 -
1
積 が二件、一五 〇〇石積が 二件であっ た。
弁才船の大 きさは、十七 世紀後期ま では一〇〇 石~五〇〇石 積が主で、
え て、九浦と称 したもので 、寛文~延 宝期(一六六 一~八〇) までには
によれば、 船合場が判 明する五二 件中、十三が 五件一〇パ
成立していたとされる(難波信雄「津軽藩九浦制沿革小考」)
。
さて、表
ーセン ト、今別が二 一件四〇パー セント、 蟹田が二一件 四〇パーセン ト
大きくても九〇〇石積級までであったといわれている(『和船Ⅰ』一五
六頁 )。しかし、津軽領では一〇〇〇石積・一二〇〇石積・一五〇〇石
であ った。つまり 、ほとんどの 場合、九 浦として位置 づけられた十 三、
一九八一年 。
十 三御山奉行 宛『御定書』 二六号
以下『御定書 』とする) から以下に 摘記する。
御 定書 』
( 国立史料館編 『津軽家御定 書』東京 大学出版会
して、船頭に対する船材木の売渡しの定めが令達されていた 。『津軽家
寛文四 年(一六六四 )には、十三 、今別、 中師の三か所 の山奉行に対
ていこう 。
これらの造船 場と、主要 な造船資材 である船材供 給の問題に ついてみ
今 別、蟹田の三 か所で造船 が行われて いたことが判 明する。
積と 、九〇〇石積 を優に越える 弁才船が 建造されてい たのである。
船 大工の木割術 は秘伝とさ れ、軍船の 場合はとくに 厳しかった とされ
るが、廻船の 場合には容 易に実物が みられること もあり、比 較的短期間
で木割や 工作技術を覚 えることは可 能だった 。つまり、弁 才船が江戸中
期 以 後ま た た くま に 全 国 的に 普 及 した こと は 、別 段驚 くに 当た らな い
(『和船Ⅰ』一六頁)と考えられている。
しかし、「国日記」元禄六年(一六九三)九月八日条によれば、蟹田
町の船大工舟 之介の手船 は「地船弁 才作六百五拾 石積」であ ったことや 、
寛文四 年十二月十 六日付
一、船 材木之儀も船 頭に売渡之 砌、各は不 及申、山師・ 小山頭之者
①
買い積み上方へ登る途中、十三浜沖で破損した(「国日記」元禄五年六
出合 、善悪之位付 可相究之、 船之大小に より面木板其 外入用之材
「外浜之内 油川地舟弁 才壱艘」の船 頭作十郎 が南部領田名 部から材木を
月二 十三日条)と みえるように 、弁才づ くりは津軽に おける造船技 術と
木 壱艘切に員数 改之、一々極 印打相渡 、則舟頭に判 形仕せ差置、
今 別御山奉行宛 『御定書』 二五号
し て、弁才船は 地元津軽の廻 船として 、一六九〇年 代にはすでに 定着し
寛文四 年十二月十 六日付
上中位付不紛 やうに代銀請 取可被申 事、
②
一、船 材木之儀も船 頭に売渡之 砌、各は不 及申に、山師 ・小山頭之
者出 合、善悪之位 付相究へし 、船之大小 により面木板 其外入用之
材 木、壱艘切に 員数一々極印 を打相渡 、則船頭に判 形仕せ置、上
中位付まきれ さるやうに代 銀請払可 被仕候事、
一、今別出 材木湊に巻 場無之、沢 々に巻置候故 、水に逢流 失之由、
- 23 -
1
ていたのであ った。この問 題は、造 船史上もっと 注目される べき問題と
いえるだろ う。
造船 場の問題
・今別を二 浦といい、 以上の各湊に 大間越・碇 ヶ関・野内 の三関所を加
森・鰺ヶ沢を 両浜といい、 両浜に十 三・深浦を加 えて四浦と称 し、蟹田
弘 前 藩 では 物 資 や 人の 出 入 りを 限 定す る 九浦 制が おか れて いた 。青
3
③
向 後所を吟味仕 巻せ可被申 候、自然洪 水にて流失候 ハ丶、家並 に
江
間 、 方々 一里 ・ 二里 先ニ 御 座候 右 御材 木日 雇ニ而 も船合 場 廻
置
つまり、今別を中心に、上磯では「算用沢」「藤嶋」「釜之沢 」「本宇
門・工 藤長兵衛ニ申 渡之、
右之通尤成事ニ候、船合場 江廻シ置候様ニ可申付趣、原七郎左衛
候ハ丶、悪 木之分ハ合船 之切板ニも 遣可申様ニ 奉存由申立候 ニ付、
中師 御山奉行宛 『御定書』一 一号
人足を出し 、急度集せ可 被申候事 、
(傍線筆者 )
寛文 四年十一月朔 日付
一、材 木巻場下小国 に可相定之 、則同所に て山方之者出 之諸材木請
取置 、船頭共に売 渡刻紛失無 之勿論、上 中下位付念を 入改之、極
一、船材木之 儀も右同所 巻場ニ而請 取、大小善悪 之位付、山 師・山
た」まで 搬出させて、 そこに船頭に 受け取り に来させたり 、日雇いを使
とし て の 「長 板 」 を 数年 間 保 管し て い た。 これ を浜 名村 や「 上・ 中う
鉄 」、下磯では「下・中うた(宇田)」「用茂内沢」の川口に、造船用材
江
子之 者 出合 可相 究 之、 船頭 方 売
渡 候 刻も 山師・ 小山頭 何も罷 出
って今 別の船合場ま で運ばせてい たのであ った。
印 をうたせ出之 可被申候事 、
江
吟 味仕 逸々 極 印を 打可 相 渡之 、 山師 自分 とし て舟頭 方 渡
し 申へ
また 、蟹田近辺で は下小国の巻 場で船材 木の売り渡し が行われたが 、
下 小国で入手し た材木は、蟹 田川を使 って川流しし 、河口近くの 船合場
まで搬出した と考えられ よう。
資料 編
近世
』 青森県
二
なお、近世 後期の津軽 領の様子を 伝える「御 国縮図并弘前 之図其外所
々之図 」
(弘前 市立博物館蔵 、
『青森 県史
〇〇 二年所収)の うち「十三之 図」によ れば、水戸口 をはさんで対 向し
一、足 軽目付山内作 十郎申立候 者、今別・ 上磯算用沢・ 藤嶋・釜之
水戸 口近くに船合 場が設定され ていたと みて支障はな いだろう。今 別、
世後期 と同様、船卸 (ふなおろし )に適し た浜で、かつ 日本海に通じ る
- 24 -
から す、勿論上中 之位付まき れさるやう に代銀請払可 被仕事、
( 傍線筆者)
このように、 十三、今別 、下小国( 蟹田川中流域 )において は、船の
大きさに応 じた面木( おもき)板や その他の 造船用材に製 材・加工した
商品を 、一艘分を建 造するのに必 要な材と して入念に確 認しながら、 船
頭に 売り渡してい たのである。
た「上ノ瀬」(南側)と「下ノ瀬 」(北側)の、「上ノ瀬」の「湊港」側
沢・ 本宇鉄、下磯 者下・中う た・用茂内 沢、右川口ニ 数年囲之長
蟹 田について、 管見の限りで は、近世 前期の造船場 をビジュアル に示し
の部分が「舟 合場」である と記され ている。近世 前期におい ても同様の
板 御座候、毎年 草木生茂り日 預ニ罷成 大分朽申事ニ 御座候、浜名
た資料を見い だせないが、 前者につ いては、三厩 湾に注ぐ今別 川河口付
保管している という。その 実態は次 の史料に示さ れている。
村之浜并上・ 中うた迄廻シ 置候者可 然候、船合場 近所ニ候者以 後
近、後者に ついては、 陸奥湾に注ぐ 蟹田川河口 付近に設け られていたと
場所に比定 できるかど うか、確認で きる絵図資 料を見いだ せないが、近
合船之船頭 共可参様ニ 奉存候、当 年ハ数年之囲 材木斗ニ而 船合候
〔史料三 〕
「国日記」 元禄二年( 一六八九) 五月十二日条
今 別の場合、湊 に材木移出用 の「巻場 」がなく、そ れぞれの沢ご とに
2
み て大過ないと 考える。
江
水 相
達 之、 願之 通 津出 シ可 申 付候 、 尤紛敷 儀無 之様ニ 可申付 之
郎が、今 別領算用師、 藤嶋などの運 上山や運 上屋の近所に おいて小廻し
依之油 河ニ而味噌拾 五樽相調 申候而小商人 共廻シ申度旨 申立候、
一、右両 人申立候者、 今別之者共 味噌一切商 売共ニ無之難 儀仕候、
江
旨町奉行并 勘定奉行 申
渡之、
用の小 弁才船を造船 したい旨を願 い出た。 しかし藩庁は 、今別が以前 か
是又 願之通津出申 付廻シ候様 ニと申付之 、
「国日記」 宝永二年(一 七〇五)三 月二十三日 条によれば、 竹内伝三
ら「 御定之舟合場 」であり「格 別」の造 船場であるこ とを理由に、 たと
先 にみたように 、造船用材 については 造船場周辺で 調達するこ とがで
きたのに対し て、米・味 噌・酒・薄 縁・苫などの 糧食や銭に ついては、
え 小型廻船であ っても今別 以外での造 船を許可しな かったので ある。
廻船建造を計 画する船頭 にとって、 造船場が造船 資材や糧食 の調達に
青森で調 達して造船現 場である今別 に廻漕す る必要があっ た。唯右衛門
の松前 の船頭山 田三右衛門が 、今別での九 〇〇
便利であ ることは大き なメリットで ある。同 時に、十三、 今別、蟹田は 、
№
の青森 湊からの津出 しについて、 商売用の 積み出しと明 確に区別する よ
は、表
まさに 造船事業にか かわる人や物 資の流れ を掌握し統制 する弘前藩の 意
ま た表
うに 青森町奉行へ も通達されて いる。
)。
今別 での造船に際 しては、ほと んどの場 合、合船入用 諸色は青森湊 から
津 出しされたよ うだ。青森は 造船場と してではなく 、おもに糧食 や生活
物資の供給地 として重要な 位置付け にあったとい えよう。
また、今別 町奉行によ れば、今別 には味噌を取 り扱う商人 がおらず、
味噌の 調達に支障を きたしている ので、油 河(川)で味 噌一五樽を仕 入
れて 今別で小売り をさせたいと いう。こ のような全国 各地の船頭に よる
津 軽領内での造 船事業は、領 内の商品 流通をも刺激 したのであっ た。
- 25 -
図の もとに、主要 な造船場とし て位置付 けられたこと がうかがわれ る。
弘 前藩は、資材 供給地や造船 現場の集 約によって船 頭の利便をは かり、
№
右 衛 門 と 申 者 、 今 別 ニ 而 合 船 壱 艘 仕 候 、 依 之入 用 之 諸色 米 弐 拾
俵・味噌六樽 ・酒四樽・薄 縁一束・ とま百枚・銭 六百目、右之 通
江
青森 ニ 而相 調今 別 廻
シ 申 度候 間 、津 出之 儀奉願 旨申立 候付 、主
薪を指すか )、筵や苫など生活に必要な物資が一通り網羅されている。
石積弁才船建 造のために 青森から廻 漕した物資で ある。これ によれば、
38
造船資材の販 売も促進さ せる一方で 、民間の造船 事業を効率 的に管理し 、
1
一六種類の 品目には、 食料のほかに 銭やたば こ、鍋・釜 、
「こき 」
(小木 、
2
無許可の造 船を防ぐね らいもあった と考えら れる。
糧食 の供給
今別で造船 を行った、 松前の船頭唯 右衛門の場 合を示そう (表
〔史料 四〕
「国日 記」元禄十六 年(一七〇 三)二月二 十四日条
33
一、 今別町奉行一 戸清兵衛・成 田理右衛 門申立候者、 松前之船頭唯
1
であるが、建 造期間中の糧 食はどの ように調達し ていたので あろうか。
廻 船を建造する には、船大工 ・木挽・ 鍛冶など、多 くの労働力が 必要
4
船 小屋の設営
次の史料に よれば、勢州 慥柄(たし から)の半 太夫が、来春 蟹田にお
いて一四〇〇石積を造船するにあたって 、「船小屋」を造るため、二間
の「水 竿(棹 )
」八〇 本と二間の丸 太三六本 の杣取を願い 出ている。
〔史 料五〕
「国 日記」元禄十 五年(一 七〇二)閏八 月十九日条
特 に 「 垂 木 」「 水 竿 」 は 船 が 完 成 し た 後 、 積 荷 の 保 護 の た め 、 胴 の 間
に示すよ うに、青森か ら苫二〇〇枚
(船体中央 部、船の胴を 占める間) 上部に苫屋 根をふくため の材として
転用され たものと推察 される。表
を調達 していること からもみても 、船卸し た後の荷役ま で想定した資 材
調達 が計画的に行 われていたの でなかろ うか。
註
ための堅牢な船底構造をもつ、面木(おもき)造りの廻船。そのほかの
一 、蟹田町奉行 添書ニ而勢 州慥柄之半 太夫於蟹田来 春合船千四 百石
積壱艘造り申 度候、従之 船具入用之 長板・平物何 も雑木也、 水竿
(
)
「国日記」では、造船を指す語として「合船 」
「船合」が多く用いられ
されたい。
言 及 す るこ と が で き な い の で 、 石 井 氏 前 掲 書 お よ び 安 達 氏 前 掲 書 を 参 照
各廻船の船体構造等の詳細については、紙幅の都合上、本稿では詳細に
)北国地方の北国船や羽ヶ瀬船は、岩礁の多い北国地方の海岸に耐える
檜木弐間 物八拾本・弐 間丸太三拾 六本、是ハ 船小屋造り入 用候由、
(
右之通 雑木檜共ニ小 国御山之 内ニ高石ヶ俣 ニ而手前入付 仕取出申
度奉 願候、右之外 入用之檜諸 材木者来春 舟造候節現銀 段々買請申
度 奉存候 、
( 下略)
( 傍線筆者 )
「船小屋」は 、使わない 船を陸上に 引き揚げて格 納する船蔵 の意味も
あるが、こ の場合、造 船場の近くに 造船資材 などを保管す るために建て
第 十 七 巻 』( 小 学 館
一九七三
ているが 、
「造船(つくりぶね )」「合せ造り(あわせづくり)
」などの語
も 使 用 さ れ て い る 。『 日 本 国 語 大 辞 典
年)によれば 、「船合(ふねあわせ )」は船を建造すること 、「合船(あ
、№
一九 七三
一 九七三年 )
。
などの場合、 船板とは区別 して
第十八巻』 小学館
、№
の用材は、 当初は船小 屋を設営する のに必要な 材として入 手されたが、
領内の船 大工
津軽領にお ける造船技 術力と労働 力
長い 棹で、川船は 浅い川で船を 進めるの に用い、海船 は浅い港での 出入
、№
63
二
わせぶね)
」とともに北国地方で主に用いられた語、という。
る小屋 とみたほうが よいだろう。 船道具の 一つである水 棹(みさお) は、
2
に 用いられたも のである。そ して、和 船の胴(どう )の上に積荷 の保護
第十 三巻』 小学館
用と し て 苫屋 根 を ふ く際 、 そ の骨 組 のた め 合掌 に組 む細 長い 材を 番木
(つがいぎ)といい(『日本国語大辞典
、№
62
今 別での造船の ため、十三か ら五人の 「加勢舟大工 」が派遣され ている
「国 日記」天和二 年(一六八二 )九月二 十八日条によ れば、藩によ る
領内の 船大工はどの ような存在形 態だった のだろうか。
1
年 )、水棹は、この番を組んだ上に水平に並べ、苫をふく骨組みにも利
の№
54
用された(『日本国語大辞典
表
46
「丸太 」「小丸太」「垂木 」「水竿」の杣取をしている。つまり、これら
41
- 26 -
2
5
1
1
ほか、
「 国日記」天和 三年五月十 三日条には 次のようにあ る。
〔史料六 〕
「国日記」 天和三年五月 十三日条
一、今別 ニ而御廻船合 候ニ付、十 三船大工・ 鍛冶不残参候 、十三ニ
而合せ 船数多在之由 百沢小左 衛門就申立ニ 、十三船大工 ・鍛冶不
る ように、商船 建造の注文 が十三に殺 到している、 といういず れかの状
況がうかが える。とくに 後者の場合 、次の史料 にその状況が 明確に示さ
れている 。
〔史料 七〕
「国日 記」天和三年 (一六八 三)五月十一 日条
( 傍線筆者)
縦冬付候而も 可成事ニ候 間、可致其 心得之候、尤 商人之船合 せ懸
右 商人之合船仕 候内御船合 候儀難成候 者、商人之合 船相済以後 、
一、 十三合船之儀 、商人共合船 仕候ニ妨 ニ不成様ニ可 申付候、勿論
これによれば 、藩の廻船 建造のため 、今別におい て十三の船 大工と鍛
候所々、 船大工不残御 用之合船取 上ケ候儀有 之由、左様之 所両所
江
残相 返シ可申之由 一戸儀右衛 門・逢坂与 五左衛門 申
遣 之、
冶を総動 員して作業を 行っていたが 、十三で の造船数が多 いので、船大
共ニ手 支無之様ニ可 被申付候 、商人合船之 手を明候様ニ ハ被致間
「 国日記」天和 二年九月二十 日条によ れば、弘前藩 江戸藩邸での 消費
で建造してい たのであり 、注文に応 じて十三、今 別などの領 内の各造船
こ のように、十 三の船大工集 団は、藩 の廻船と商船 の両方を掛け 持ち
)
工と鍛 冶を全員十三 に返さなけれ ばならな いという状況 であった。こ れ
敷由 、従江戸被仰 下候 、
(下 略)
物資をすべて 国元から廻 漕すること が決定され、 この江戸廻 船御用のた

(
はい かなる事情を 意味するのだ ろうか。
)
現場を奔走 していたの であった。天 和期、十 三船大工の造 船技術力とそ

(
め、唐牛与 右衛門が中 川小隼人・磯 谷十介と ともに惣奉行 に任命された 。
た。しかし、「国日記」天和三年七月三十日条によれば、唐牛与右衛門
度・ 三度之廻船」 による江戸藩 邸入用品 の廻漕に対応 すべきものと され
を最優先する ように指示を 出してい るのは、後述 するように 、船頭への
や 船大工の管理 に集中しなけ ればなら なかった。そ の反面、商船 の建造
弘前 藩としては、 藩の廻船建造 に支障の 出ないよう、 作業の進捗状 況
の需要 の高さ、そし て技術集団と しての稼 業がみとめら れよう。
は「元来五艘 之外二艘も三 艘も船合 せ」するよう に命じられ ていながら 、
造船資材販 売による藩 にとっての財 政収入や、 造船にかか る日雇い層な
この唐 牛与右衛門ら の江戸廻船御 用は、今 回に限らず「 連々一年ニ二
実態として は、五艘の 廻船でさえよ うやく六月 に完成した ばかりで、こ
どの手 間賃収入を見 込んでのこと に違いな い。
一、郡奉行 比留間伴右 衛門申立候 者、
〔史料八 〕
「国日記」宝 永六年(一 七〇九)七 月四日条
位 付を決定した ものである。
さて 、次の史料は 、領内の船大 工一二名 に対する上々 、上、中、下 の
れ以上 の造船事業は 困難である、 と訴えて いる。
以上 の状況から、 先の今別にお ける十三 の船大工・鍛 冶による建造 作
業 は、この五艘 の造船を指す と考えら れよう。そし て、十三での 別件の
造船とは、毎 年二~三度実 施される 江戸藩邸への 物資廻漕に対 応するた
めの造船か 、あるいは 毎年、十三で 造船した佐 渡の八兵衛 の例が示唆す
- 27 -
に ランク付けさ れている。 それまで上 々船大工の役 銀と作料が 定められ
)
太兵衛
一 、同上々
一、 同上
一、同 中
一、同上
一、同下
一、同上
赤石 組 久田 村
浜名村
三 馬 屋村
三 馬屋 村
久兵 衛
後 方組 大川 平 村
金井 ヶ 沢村
三五 郎
て役銀が賦課されていた 。「常小屋よりハ前々不仕」とあるように、常
軽領 内における大 工と船大工の 分化を明 確に示すもの といえよう。
れに準 じたものと考 えられる。こ のような 船大工として の位付けは、 津
ので はなかろうか 。
候」と あることから 、先の十三の 船大工は 、すでに位付 がなされてい た

(
広須 組木 筒 村
ていなかっ たということ は、領内に おける造船 技術の向上を 反映したも
一、下船大工
作蔵
同 岩崎 村
赤石 組 沢部 村
一、同上
赤 石組 岩 崎村
の と 理 解 で き よ う 。 ま た 、「 前 々 位 付 致 候 舟 大 工 共 ニ 右 之 通 位 付 仕 せ
一、同下
伝十 郎
延宝九年(一六八一)二月二十一日の「御印諸式」(前掲『津軽家御
太左 衛門
一、同 下
舞戸村
佐次兵衛
定書 』
)によれば 、
「大工札之印 」に、上 々、上、中、 下、下々の焼 印を
一、同下
小屋に詰め る必要はな かったが、こ れは、和 船は固定施設 としての造船
久右衛 門
一、 同下
驫木 村
才兵衛
右拾弐人之 船大工位付 之儀、常小 屋よりハ前 々不仕候由ニ 付、前
所を必 要とせず、適 応な浜と材木 さえあれ ばよかったか ら、注文次第 で
仁 兵衛
久右衛門
木村一名、金井ヶ沢村一名(以上は西津軽郡深浦町 )、舞戸村一名(西
位付がなされ た一二名は、 岩崎村二 名、久田村一 名、沢部村 一名、驫
~大型 廻船の建造に 際しては、そ の求めに 応じて、十三 、今別、蟹田 な
川船、小廻 し船などの 製作を手がけ ていたと考 えられる。 そして、中型
一二人の船大 工の稼業につ いては、 普段は漁船や 岩木川舟運 で用いる
)
津軽郡 鰺ヶ沢町)と 西海岸地方が 多く、津 軽平野中央部 、岩木川中流 西
どの 主要な造船場 に出向き、十 三などの 船大工に加勢 する形か、あ るい

(
こ の一二名の船 大工は、その 技量によ って位付が決 められ、職人 とし
付すがこ とが定められ ており、船大 工の位付 けの「究札」 についてもこ
々位付 致候舟大工共 ニ右之通位 付仕せ候、 位付之究之札 ハ常小屋
船大 工が船主の浜 へ出掛けてい って建造 する場合も多 かった、とい う船
弥兵衛
より 如先格被仰付 度之由ニ付 、申立之通 申付候旨比留 間伴右衛門
岸の木筒村一名(北津軽郡鶴田町 )、今別に近い三馬屋村二名(東津軽
は 暫定的な船大 工集団の一員 として、 藩船や商船の 建造作業に従 事する
大 工特有の労働 形態によるも のと考え られる。
郡 外 ヶ 浜 町 三 厩 )、 浜 名 村 一 名 、 大 川 平 村 一 名 ( 以 上 は 東 津 軽 郡 今 別
場合もあった のではなかろ うか。
江
江
申
遣之、右之通 可申付旨書付 ニ而勘定 奉行 遣
之、
町)である。 とくに、今別 に近い三 馬屋村、浜名 村、大川平村 の船大工
の位付は「上」の傾向が高く、浜名村の仁兵衛にいたっては 、「上々」
- 28 -
廻船方碇抔練申様」に命じている(「国日記」天和三年閏五月二十二日
か、
「 船方之細工」 もせずにい るという青 森の鍛冶三人 に対しても 、
「御
船大工以外 の労働力につ いては、ど のように確 保されたのだ ろうか。
条)
。
領 内の鍛冶・木 挽・人足
大浜(青 森市油川)で の「大船」 建造では、 天和二年(一 六八二)九
いている(「国日記」天和二年十一月九日条 )。また、「御船合」に際し
行 った。これは 、そのほと んどの場合 が天和二年( 一六八二) 九月に決
農民 、日雇いなど 、領内に存在 する最大 限の労働力を 結集させて建 造を
以上の ように、弘前 藩は、船大工 、鍛冶、 木挽をはじめ として、足軽 、
て 、外浜の船大 工のほか、 建造の現場 には「小知行 之木挽」や 江戸廻船
定された、江 戸藩邸にお ける消費物 資の、国元か らの廻漕に 対応するた
月二十 七日から十月 十四、五日ま で、日用 銀を与えて「 船合人足」を 用
御用の惣奉行 である唐牛 与右衛門組 の足軽も動員 され、造船 に関わるさ
「国日 記」宝永元年 (一七〇四) 五月二十 一日条によれ ば、今別町の
めのもの であると考え られる。
別の「 御船合」では 、上磯および 下磯の領 民に人足を割 付し、飯米を 支
五郎 兵衛が、一〇 〇〇石積の弁 才船二艘 を建造するた め、船材や鉄 の代
まざまな業務分担を命じられた(「国日記」天和二年十一月六日条)
。今
給した上で、一日に六〇人を徴発した(「国日記」天和二年十二月二日
)。このとき、今別町奉行
銀 な ど一 八貫目 の拝借 を願い 出た( 表
の一戸清兵衛と成田理右衛門は 、「殊合船御座候得者日用取一日暮之者
№
条)
。
「国日記」天 和四年(貞 享元年、一 六八四)正月 十七日条に よれば、
共今別并近 在共竃ニ罷 成儀ニ御座候 」と、是 非とも資材代 金の拝借を認
貞享 元年(一六八 四)の外浜に おける「 御船」建造に 際しても、入 用
之 船壱艘と申な から御材木之 払方次ニ 町中之者共為 ニも罷成候」 と、庄
さらに、蟹田町奉行も、大坂の船頭庄左衛門の造船に際して、「ヶ様
)
鉄の運搬のための人足一五人が必要とされ(「国日記」貞享元年四月十
商 人 船の 建 造 の場 合 、 船大 工 ・ 木 挽・ 鍛冶 のほ かに 、造 船場 周 辺の
左衛門に対する御用鉄二〇〇貫目の売り渡しの許可を上申している
あるこ とから、まず は五〇束を運 ばせて、 残りは廻漕す ることとなっ た
「日 用取一日暮」 などの日雇い 層による 多くの労働力 が必要とされ たと
五日条 )、貞享二年の十三における造船では、蟹田から十三まで、御用
(「国日記」貞享二年五月二十三日条)
。こ のような「船 合人足」は、 船
考 えられる。船 材や鉄などの 造船資材 を購入した場 合は、当然、 作業現
(「国日記」元禄二年(一六八九)五月十三日条)
。
大 工や鍛冶など の専門技術を 求めない 、造船資材の 運搬などに従 事して
間賃をかけ て雇わなけ ればならなか ったからで ある。つま り、このよう
場までの運搬 が必要であり 、用材の 再加工、船釘 や碇などの製 作にも手
鉄一〇〇束 を運搬しな ければならな かったが、 ちょうど「 田地時分」で

(
「御船錪銕 」を奥内村 から蟹田に運 ぶ「御人 足百人」の、 一人あたりの
めてく れるよう、添 書のなかで訴 えている 。
40
運搬量 は二〇貫目と 見積もられて いる。
1
いたものと考 えられる。
また、船釘 や碇を製作 する鍛冶に ついては、先 にみた十三 の鍛冶のほ
- 29 -
2
な 造船事業は今 別、蟹田な どの職人や 日雇い層を中 心とする領 民の生活
にも直結す る重要な産業 として認識 されていた 、と理解され よう。
則 原七郎左衛門 ニ申渡之 、
( 傍線筆者 )
〔史料一 〇 〕
「国日記 」元禄五年( 一六九二) 四月十五日 条
一、十 三ニ而旅船拾 六艘合船仕 候、此暮相 止申候時分柄 致細工懸り
江
候 間、 細 工被 仰付 被 下置 候様 に と同 所 町奉行 申立 ニ付、 隼人 相
他領の 船大工
津軽 領で稼業した 他領出身の船 大工につ いては、すで に安達裕之氏 が
達 候処、他之者 之義ニ候間 、船細工願 之通可申付旨 ニ付、則中 畑
)
指 摘している通 りであるが 、大坂道頓 堀の舟之介は 、寛文末年 から弟子
半兵衛に申渡 之 、
(傍線筆者)
このよう に、今別で造 船を行って いた越前新 保の船頭伝三 郎、同与三

(
五、六人を召し連れ 、「舟大工商売かせき」のため南部・松前方々を渡
り歩き、 津軽領蟹田で 諸国の廻船を 建造した という。また 、寛文初年か
右衛門 、同長右衛門 と、十三で造 船してい た「旅船」一 六艘の船頭た ち
)
ら毎年 蟹田に来て諸 国船頭の造船 の棟梁を つとめ、時に は同郷の船頭 な
に、 他領の者であ ることを理由 に船細工 を命じている 。これは、す わな

(
どを 呼び寄せて材 木の売却にも 立ち働い たのは、新保 の弥左衛門で あっ
ち、
領外の技 術力が評価 されている 。
)
①
旅船の 船頭が棟梁 も兼ねてい るか、ある いは船大工な どの造船

(
た 。安達氏は、 このような状 況を、東 北地方の林産 地帯における 材木廻
漕のための造 船需要の伸 びを、地元 の船大工だけ ではまかな うことは到
②
〔史料一一 〕
「国日記」宝 永三年( 一七〇六)三 月二十九日条
な 集団の具体像 をみることが できる。
とい う状況を前提 にした判断と 考えられ るが、次の史 料からはこの よう
技術者 を抱えこんだ 集団である 。
底できず、 そのために 各地から船大 工が仕事 を求めて下向 してきたこと
は想像 に難くない、 と評価してい る。
この ように、寛文 期にはすでに 、他領の 船大工が津軽 領内で稼業し て
い たことは確実 であるが、次 の史料九 ・一〇は、こ のような領外 の造船
技術力に対す る、領内での 需要を示 すものである 。
船頭 伝三郎
一、 綱三本内弐本 者間物綱、 壱本ハわら 綱
一、金 碇弐頭
一、はかせ 船壱艘船頭 ・水主共乗 入不申候、中 物別紙書付 左之通、
越前 新保
同 与三右衛門
〔史料九 〕
「国日記」 元禄五年( 一六九二) 四月十四日条
一、九 百五拾石積弐 艘
右同
一、帆柱 大・小弐本
一、 右同断壱艘
一 、金つち弐丁
一、の こ切弐丁 内壱丁ハたい 引
同長右衛門
一、 鳶口四ツ
右同
一、金てこ壱 丁
一 、右同断壱艘
右之通従当春 今別ニ而合船 仕候、此 暮相止申由今 別町奉行申立 候
一、金 かすかい拾 弐固
一、
壱丁
江
ニ付、隼人 相
達、他之 者之儀ニ 候間、船細工 可申付旨被申 ニ付 、
㯉
- 30 -
3
一、 粮米壱俵
とは異なり 、大型廻船の 建造には多 くの技術力 や労働力が組 織的に編成
新 保の弥左衛門 にみるよう に、船大工 が単独で製作 する小型の 漁船など
但四斗五升入
一 、かつふし壱 丸
一 、けた大・ 小弐ツ
そして 、領内の造船 技術は、もと は瀬戸内 方面の廻船で あった「弁才
一、御座帆 切々
有候之 由庄屋方より 注進ニ付 、早速罷越見 分仕勤番目付 立合見届
船」が津軽の「地船」(地元建造の船)として認識されるまでに、舟之
されなけ ればならなか ったのである 。
之上ニ而荷物不残浜上仕十三町蔵 江納置、尤勤番目付拙者立合符
介 や弥左衛門な どの棟梁を 頂点とした 領外の船大工 集団との接 触や交流
右之通積入、去月廿九日之大風ニ而十三湊支配磯松村浜 江船懸罷
印 仕差置申候、 船之儀者磯 松村庄屋申 付番人付添申 候由申立付 、
によって、磨 かれていっ たものと考 えられる。
また、弘 前藩が、領内 の船大工を 駆使しなが らも、他領の 造船技術力
江
御家老中 相
達之、
これによれば、大風のため磯松村の浜に船懸りした「はかせ船 」(羽
をも積 極的に求めて いるのは、領 内の造船 技術力の底上 げによる、さ ら
註
(
一、唐牛与右衛門・磯谷十介就御用従鰺箇沢被遣候御用状之内ニ申来候
)
「国日記」天和二年九月二十日条
ヶ瀬船 )には、船頭 ・水主などの 乗組員が 一人も乗って おらず、積荷 だ
」
ハ 、 江 戸 御 台 所 之 諸 色江 戸 ニ 而 相 調 候 義 自 今 以 後 不 仕 、 従 御 国 不 残 差
登 せ 候様 ニ 可 仕 旨 被 仰 出 候 間 、 各 ニ も 其 御 心 得 可 有 之 候 、 就 夫 唐 牛 与
右衛門・中川小隼人 ・磯谷十介右三人 江今度江戸諸色御入方 廻船御用
被仰付候、
(中略)
中川小隼人
(下略)
唐牛与右衛門
江戸御勝手方諸色之覚
一、御書付之写左記之、
惣奉行
磯谷十介
ちなみに唐牛与右衛門は、延宝三年(一六七五)二月九日に「金銀銅
- 31 -
なる 廻船建造受注 をねらってい たことを 意味していよ う。
)
」は大 工が用いる道 具で 、
「

(
か ら 、 こ の よ う に さ ま ざ ま な 用 途 に 応 じ た 道 具 を 搭 載 し て 、「 は か せ
船」で津軽領 に廻航した人 々は、自 ら伐採→運材 →造材→造 船という一
連の事業を 手がけるこ とができた集 団だったと 考えられる 。ただし、こ
の道具 の数では大掛 かりな事業は 無理であ ろうから、実 際には、現地 の
職人 や人夫などを 雇い入れて労 働力を補 充しつつ、作 業の技術指導 をも
行 ったのではな かろうか。
五、六人の弟 子を召し連れ 、集団で 船大工商売稼 ぎに歩いた大 坂の船
大工舟之介 、また諸国 の廻船建造に 際して船大 工の「棟梁 」をつとめた
1
けが 残されていた という。この ため、す べての積載物 は勤番目付立 ち合
い の上、十三町 蔵に納められ ることと なった。
この積載物を 整理してみ ると 、
「金碇 」
「帆柱 」
「御座帆 」
「けた」はい
)
わ ゆる 船 道 具で 、「 かつ ふ し 」「 粮米 」は 船中 の 食糧 であ る。 そし て、

(
「金つ ち 」
「のこ 切 」
「金か すかい 」
「
㯉
は伐木にも 、「鳶口」は材木の搬出にも使用する道具である。このこと
㯉
差出候、右 両様之書付御家老中 江相達之、勘 定奉行書付之通可申付之
)前掲「北国地方における廻船の発達―とくにハガセ船・北国船・弁才
惣 御 山 奉 行 」 に 任 命 さ れ 、 津 軽 領 内 に お け る 非 鉄 金 属 の 鉱山 全 て を 管
(
江
旨郡奉行 申
遣之 、
(傍線筆者)
二〇〇二年、一九頁)
掌した人物(長谷川成一「尾太以前―近世前期津軽領鉱山の復元と鉱
第七号』青森県
山開発― 」『青森県史研 究
)
「 国 日 記」 に は 「 碇 」 の ほ か 、
「いかり」と読むとみられる「錪」が多
船について―」一一三一頁。
(
で、延宝八年(一六八〇)十二月朔日に、同三年から金銀銅惣山奉行
を務めてきた唐 牛与右衛門が交代し 、「尾太(おっぷ )御銀山」が唐
一九八二年)によれば、
一九八八年)四〇頁。
製の碇(錨、かないかり)という意味で錪を用いていると考えられる。
しりと重いの意。ずっしりと重い金属、おもりの意を表すことから、鉄
「錪」の読みはテンで、かまとおもりの意味がある。但し、典は、ずっ
く使われている 。
『広漢和辞典 』
(大修館書店
二〇〇二年 )
。
人 文社
牛甚右衛門の支配となった(長谷川成一「延宝・天和期の陸奥国尾太
)
』
(青森市
二〇〇四年、二〇頁)
。
銀銅山―津軽領御 手山の繁栄と衰退― 」『弘前大学人文学 部
近世(
会論叢(人文科学篇)
』第十二号
)
『新青森市史 資料編
(
)
』青森市
二〇〇二年)
資料編
)
「国日記」元禄四年(一六九一)正月三十日条によれば、弥左衛門は、
近世(
り勝手能御座候ニ付 、
(下略 )
(傍線筆者 )
(『新青森市史
江
内私折々爰元 上
下仕候、其後津軽蟹田と申所 江罷越、諸国之廻船共作
以前、弟子五・六人召連舟大工商売かせきに南部・松前方々と働、其
一、私儀親従代々御当地ニ而船大工仕候、然所兄弟共相談之上廿年余為
有候船大工舟之介と申者ニ而御座候、
私者道頓堀新戎町新屋太郎右衛門借屋、船大工又兵衛方ニ同家仕罷
乍恐御訴訟申上候、
一、蟹田町船之介差上候訴訟之写、昨日到着之飛脚従江戸申来、左記之、
)「 国日記」元禄六年(一六九三)九月八日条によれば、次のようにあ
(
)安達裕之「組船考 」
(『海事史研究』第四五号
(
)「国日記」宝永六年(一七〇九)七月二十四日条によれば、上々船大
工の役銀と作料があらたに定められている。
(
る。
(
一、代官清野伊兵衛・今庄左衛門申立候、後潟組浜名村船大工仁兵衛儀、
上々船大工ニ而此度御札請取相渡候、上々船大工御役定并作料位付御
書出シ無御座候、従之御役定并作料位付被仰付候様奉伺之旨申立候付、
江
勘定奉行 僉
儀之趣左記之、
上船大工作料
下船大工作料
中船大工作料
此御役銀拾弐匁五分
一、銀弐匁五分
一、同弐匁
右同拾匁
一、同壱匁七分
右同八匁五分
上々船大工作料
従前々御定御座候、
一、銀三匁
此御役銀拾五匁
上 々 船 大 工 作 料 并 御 役 定 只 今 迄 無 御 座 候 付 、 此度 申 立 候 、 右 上 ・ 中 ・
3
1
6
3
下船大工之作料御役定之積を以如斯可被仰付哉、奉伺旨笹森勘右衛門
1
2
7
々蟹田 江参諸船頭合 船棟梁仕、亥・子両年 船頭共罷下不申時分 者同国
一、蟹田御材木役人申立候者、新保之弥左衛門と申大工従三拾年以前年
代金三百目を下付して欲しいと願い出たところ、許可されている。
弘 前 藩 の材 木 の 販 売 に 尽 力 し て き た こ と を 理 由 に 、 小 船 一 艘 の 造 船 用 材
8
- 32 -
4
5
3
(
去年自分小船壱艘為合申候ニ付、面木・長板売貸仕候代物山方にて三
之 船 頭 并 従 南 部 船 頭 共 呼 寄 合 船 御 材 木 共 才 覚 仕 売 払 精 を 出申 候 、 此 者
館書店
だのではないかと推測されている。諸橋徹次『大漢和辞典』十一(大修
ら、津軽領 では
は「鐇」と 同じ意味で用いられ 、「まさかり」と読ん
百 目 程 之 物 御 座 候 、 数 年 御 為 大 切 ニ 仕 者 御 座 候 、 被 下 置候 様 奉 願 旨 就
あるからことから検討しても、津軽領では同じ意味で用いられたと考え
は、杣や大工が用いるまさかりを指すに違いない。
一九 六八年)によれば 、「鐇」はちょうな、刃の広い斧の意で
㯉
津軽領 における造 船資材供給
資材 購入の方法
三
るべき
江
申立、御家老中 相
達、願之通被下置旨申渡之、
)「のこ切」二丁 のうち一丁が「たい引 」と但し書きされているが、い
一 九 六 九 年) に 、
「 大鋸 」 の 種 類 と
かなる鋸であろうか。寺島良安「和漢三才図会」巻二十四の百工具の項
(『和漢三才圖會〔上 〕』東京美術
太 以 岐 利 」 と 説 明 さ れ る 台 切 鋸 を 指 し て い よ う か 。こ の 台 切 鋸
して「大 鋸 」「前挽 」「臺切」があるとする 。「たい引」は、同書で「臺
切大鋸
については、長さが二尺二寸、広さが一尺で、両柄がついていて人が相
一九七六年)という。さらに、大鋸の
㯉
す でに、領内に おける造船用 材供給の 概容について みたが、次の 史料
から実際の売 買の実態をみ てみよう 。
〔史料一二 〕
「国日記」 元禄十四年 (一七〇一 )三月七日条
一、慥 柄船頭弥左衛 門・同人宿 丸尾弥左衛 門両人書付ニ 而笹森次
左衛 門迄申立候者 、拙者儀於 蟹田当春千 石積之船壱艘 合せ申度
奉 存候、依之右 舟材木大図 代銀弐貫目 分并御鉄五百 貫目御売貸
奉願候、右代 銀之内只今三 百目差上 相残分舟出来 之節被仰付次
第急度上納 仕舟臺おろ し可仕候、 若変之儀御座 候ハ丶宿請 方よ
り急度上 納可仕旨申 立候ニ付、 次左衛門付紙 ニ弥願之通 被仰付
江
江
可然 由申立候ニ付 、八兵衛 相
達 、願之通可申 付旨次左衛門 申
渡 之、
慥柄の 船頭である弥 左衛門は 、蟹田で一〇 〇〇石積の船 を建造す
これによれば 、資材入手の 内容は次 のようになる 。
①
るにあた り、丸尾弥 左衛門を宿 としていた。
- 33 -
、き
、る
、、大木を横に切
、鋸であるとも説明している。だいぎりは大
対して引
型鋸の意で、大きい材を切る鋸のことであり、おがとは大型縦挽鋸のこ
とである。横挽きの「だいぎり」は製材の基本的な仕事をするものであ
る。製板するには、まず一定の長さに丸太に切って、それから縦挽きす
るから 、
「 だ い ぎ り 」 鋸 だ け で仕 事 す る こ と は あ る が 、
「だいぎり」なし
・鋸』法政大学出版局
で、大鋸だけで仕事をすることは考えられない(吉川金次『もの人間の
文化史
中心に― 」
(『弘前大学大学院地域社会研究科年報
留」が伐採禁止を指していることは間違いないとし、
「国日記」寛文六年(一六六六)正月二十九日条と同二月二十二日条に、
らず、帆柱用の木を伐り出す許可を出した記事が掲載されていることか
帆柱の折損した他国 船に、留山で「鐇留 」「まさかり留」であるにも拘
㯉
八六頁)では、
「
第六号』二〇〇九年、
( )長谷川成一「藩領における植生景観の復元とその変容―近世津軽領を
用いた鋸であると考えたほうがよさそうである。
イとは読まないから、この「たい引」は伐採した丸太を横挽きするのに
読み方は「於賀(おが )」
(「和漢三才図会 」
)であり、この場合は大をダ
18
1
9
10
②
したい。代 銀の一部につ いては支払 うが、船が 完成して残り の分を
船材木代銀二貫目分と鉄五〇〇貫目については、「売貸」で入手
付より沖 御売払共ニ相 勤」めるもの とされて おり、先の町 人請負体制を
払役人に任命されている。この材木請払役人の職務内容は 、「御材木入
賀 屋伊兵衛、蟹 田は大和屋 留兵衛・京 屋次郎兵衛の 町人七名が 、材木請
より強 化しようとし たようだ。
含めて代 銀の全額を支 払った後に 船卸するこ ととする。
② の通りに支払 いができない 場合は、 請人である宿 の丸尾弥左衛
右 衛門と大和屋 留兵衛の申 し立てによ れば、当年は 「囲新御材 木」のほ
③
こ のように、必 ずしも即時 に現金で支 払う必要はな く、売掛け による
とんどが売れ 、残りは二 〇〇〇斗で ある。現在は 秋作りの合 船が大・小
「国 日記」貞享二 年(一六八五 )七月二 十九日条にみ える、松館次 郎
取引が行われ ており、船 が完成する までの間に資 材代金の全 額を支払う
五艘あり 、来年の合船 のために七〇 〇~八〇 〇石積から一 五〇〇~一六
門が 代わりに支払 う。
ことが認 められていた のであった。
もに町奉行 などへの種 々の申し立て や交渉事 をも行ってい たのである。
であるばかり でなく、造 船資材購入 にかかる保証 人もつとめ 、船頭とと
を 申し立ててい る。つまりこ のような 「合船宿」は 、船乗りの宿 泊施設
船宿 十右衛門」が 「宿船佐州之 重次郎」 に代わって、 古帆柱の払い 下げ
こと。交際すること)して、よく立ち働いたからなのだという(「国日
できたのは、彼ら材木役人が上方の船頭と日頃から「通路 」(つきあう
れている。し かも、本来 は備蓄用の 「囲木」さえ も全て売り 捌くことが
年 間、材木を公 定価格より高 値で販売 したことによ って、褒美を 与えら
この 松館次郎右衛 門と大和屋留 兵衛は、 貞享二年(一 六八五)から 六
〇〇石 積まで、一五 艘分の材木を すでに約 束していると いう。
他領の 船頭は、津軽 領内で造船す るにあた って、このよ うな地元の宿 を
記」元禄四年(一六九一)正月三十日条 )。このような廻船業者の長年
- 34 -
「国日記」元禄十六年(一七〇三)七月十一日条によれば、「小泊合
拠り どころにして いたのであろ う。
に わたる津軽領 での造船によ って関係 者の交際が深 まり、商売上 の信頼
ところが、 このような 信用取引の 慣例化が未払 の誘因とも なったよう
関係をも築き 上げていった のであろ う。
弘前藩では 、寛文九年 (一六六九 )十二月に、 蟹田と十三 の材木奉行
で 、 そ の 売 掛 金 の 回 収 に 追 わ れ る こ と と な っ た 。「 国 日 記 」 天 和 二 年
材木役人の船 材木販売
へ令し て、役銀を徴 収して町人請 負による 、留山以外の 山地への山入 り
(一 六八二)十月 一日条によれ ば、十三 の材木役人竹 内勘兵衛と内 海久
衛が派遣されている。また 、「国日記」元禄六年(一六九三)十月二十
と材 木の伐採を認 め、藩営の材 木切り出 しの方針を変 更した(長谷 川成
「国日記」天 和二年(一六 八二)九 月二十五日条 によれば、十 三は竹
八日条によ れば、加賀 ・能登・越前 ・越後の諸 船頭に先年 売貸しした材
右 衛門の所から 、上方船頭に 当年夏売 借した代銀を 回収するため 、長兵
内勘兵衛・ 内海久右衛 門・竹内四郎 左衛門、今 別は美濃屋 宇右衛門・猿
一 『近世国家と 東北大名』二 五八~二 五九頁 )
。
2
木 と鉄の代金に ついて、十 三・今別・ 蟹田の問屋が 催促に行く のに、三
№
の丸尾与四兵衛の場合 、「只今杣取雨水出次第川流」し、船
し たのであろう か。
表
材木役銀 については、 木場まで材木 を流し届 け、見分を受 けてから上納
か所の足軽 が同行した。 しかし、こ の足軽たち に才覚がなく 、代金を回
収できな かったので、 今年の催促で は表足軽 で才覚のある 者三人を同行
した(「国日記」宝永元年(一七〇四)六月三十日条)
。
の蟹田町 の清次郎は、 今の時期 に杣山に入っ て桂の船材木 を
杣 取し、来年の 春に山から 取り出しし たいと申請し ている。役 銀につい
№
町 奉行の申し立 てによれば 、越後新潟 の船頭治郎兵 衛が 、
「 亥ノ年 」
(元
ては木場へ材 木が着き、 見分を受け てから上納す るという手 続がとられ
表
禄八年か)に 、材木と鉄 の代銀銭六 貫六二二匁二 分八厘を藩 から拝借し
ている(「国日記」宝永元年九月二十九日条)
。
の丸尾右左 衛門は、雑木 の長板と 平物、檜の丸 太と水竿を、
小国 明山のうち清 水俣・藤ヶ沢 俣などか ら杣取してお き、来年の春 「雪
№
木と 鉄の代銀銭は 「現金」を申 し立てて 造船したのに 「合懸候内よ り段
之上ニ而引出」したいと願い出ている(「国日記」宝永七年五月十二日
表
々 取立」もせず 、とうとう当 年まで三 年も借りてい る状態である 。材木
条)
。
このように 、山林から 切り出した 材木の運搬 には、雨水を 利用した川
材木 役人たちは、 船材木の売り 捌きに励 む一方、諸国 の船頭たちと 懇
る のはもちろん のことである が、在庫 商品の船材木 を購入するの ではな
から の運搬に半年 以上の時間を かけるの は、このよう な運搬の利便 によ
流しや 、春の雪解け を利用した方 法が用い られていたの であった。山 中
意 になり過ぎて しまったよう で、売掛 金の回収どこ ろか、支払い の催促
造船用鉄の供 給
では なかろうか。
分をう けたら早速建 造にとりかか ることが できるように 意図していた の
ま山中であ る程度自然 乾燥させてお く。そして 、翌年春に 山出しして見
く自分で杣入 りするからで あろう。 つまり、伐採 した後、用 材をそのま
上納す るように命じ ている。
で誰も買う 人はいまい 、代銀につい ては材木 役人が船頭に 代わって必ず
役人と町奉行 は「油断沙 汰之限」で あり、今さら 船を取り上 げたところ
きない ので、船その もので支払い たいとい う。これに対 して藩庁は、 材
て、一五 〇〇石積の弁 才船を一艘造 った。し かし、代銀を いまだ上納で
さらに 、「国日記」元禄十年(一六九七)七月五日条にみえる、蟹田
させて ほしいという 。
41
42
64
船釘や碇を つくるのに 必要な鉄は どのように供 給されたの だろうか。
- 35 -
1
1
1
を怠った場合 には、自ら弁 償しなけ ればならなか ったのであ る。
用材の 搬出
にみる ように、元禄 十四年
先 にみ た よう に、商 品の船 材木 につ いては 、十三 、蟹田 (下小 国 )
、
今 別で調達する ことができた 。しかし 、表
(一七〇一) ごろからは、 船頭が直 接山林に入り 、杣取する場 合が多く
1
なったよう である。山 林で杣取をし た場合、ど のように造 船場まで搬出
4
3
日条 )
。ま た、
「国 日記」天和四 年正月二 十四日条によ れば、十三に て鉄
村から蟹田へ「御船錪銕」が運搬された(「国日記」天和四年正月十七
目が買い上げられた。天和四年正月には 、「御人足百人」によって奥内
廻船合せ候 入用」のため 、小国の鉄 を廻すとと もに、十三で 鉄五七〇貫
「 国日記」天和 三年(一六 八三)十一 月九日条によ れば、十三 での「御
領 内での造船用 鉄の供給に 支障をきた しはじめてい たことが判 明する。
頭た ちが鉄の調達 に奔走してい る状況を みると、十七 世紀末にはす でに、
付、願 之半分現金ニ 而御払可申付 」とみえ ること、また 前述のように 船
敦賀屋甚 右衛門が願い 出た造船用の 切子鉄に ついて「御余 慶無御座候ニ
しかしながら 、「国日記」元禄十六年(一七〇三)正月十三日条に、
青 森から各造船 場までの海 上輸送ルー トが運用され ていたので あった。
おわりに
六六〇貫目が不足となったため、「小国ニ有之銕成共、三馬屋ニ有之銕
ニ而も、在々 人足草臥不 申所より勝 手次第下ヶ申 様」に指示 されている 。
小国と三 馬屋が鉄の供 給地であるこ と、また 在々の領民が その運搬人足
として 常用されてい たことを示唆 していよ う。
松 前之船頭山田 三右衛門は、 今別にて 九〇〇石積の 弁才船の建造 につき、
少なくとも年 間一〇艘程 度とみられ る。しかもそ のほとんど は、当時の
海 運業者による 大型廻船の建 造がさか んに行われて おり、その艘 数は、
十七 世紀後半の津 軽領において は、越前 新保を中心と する全国各地 の
「今別御蔵鉄 」を購入し ようとした が、御蔵鉄が ないため、 青森で鉄四
全国レベル を上回る一 〇〇〇石積級 前後の弁 才船であった とみられ、一
- 36 -
「国 日記」元禄十 七年(宝永元 年、一七 〇四)三月八 日条によれば 、
〇〇貫目を 購入・調達 して今別まで 廻漕した いと願い出て いる。また、
二〇〇 石積~一五〇 〇石積という 規模の廻 船さえも建造 することも可 能
軽領において 一六九〇年代 にはすで に、弁才船は 地船として の地位を確
す なわち、弁才 船が江戸中期 以後に全 国的に普及し ていくなかで 、津
蟹田で 一二〇〇石積 弁才船の建造 許可を願 い出た丸尾由 兵衛は、蟹田 お
、「国
であ った。
№
よび青森に「商売鉄」が一切ないので、「蟹田御蔵切子鉄」一二〇貫目
を 、 現銭 で売っ ていた だきた いと、 藩に 願い出 ている (表
日記」宝永四 年(一七〇七 )七月十 一日条 )
。
立していた のである。 そして、この ように津軽 領で建造さ れた弁才船の
こ のような近世 海運の発達へ の貢献を なし得た大前 提として、津 軽領
このように 、弘前藩に よる廻船建 造に必要な鉄 は、奥内、 小国、三馬
に ついては、今 別御蔵鉄およ び蟹田御 蔵鉄、また青 森、蟹田の商 売鉄が
域が日本海、 津軽海峡、陸 奥湾に囲 まれた海上交 通の要衝にあ ったこと
ほとん どは、日本海 や太平洋での 大量物資 の長距離輸送 に供され、全 国
供給されてい た。このよう に、造船 用鉄の供給ル ートとして、 主に奥内
はいうまで もなく、さ らに、適当な 造船場、豊 富な造船資 材、造船技術
屋がい わゆる集積所 (保管場所) となって いて、そこか ら十三、今別 、
―蟹田(小 国)―今別 ―三馬屋の松 前街道に沿 った陸上輸 送ルートと、
的な 商品流通の一 翼を担ったと 考えられ る。
59
蟹田 の各造船場へ 運搬されてい た。諸国 の船頭が造船 するのに必要 な鉄
1
力 、労働力など の造船に必 要な諸条件 を備え持って いたからに ほかなら
ない。領内 においては、 造船資材を はじめ糧食 や生活物資な ど、廻船建
造に必要 な物資のほと んどを、造船 場に効率 的に供給する ことのできる
システ ムが確立され ていたのであ る。
全国 各地の海運業 者による大型 廻船の建 造は、まずも って領内の造 船
技 術力の向上に 大きな影響 を与えたと 考えられる。 そして弘前 藩の商品
材木の消費を はじめとし て、造船資 材の流通やそ の他商品の 流通をも促
した。領 内外の商人や 町人による活 発な商取 引によって、 広域的な人的
ネット ワークも形成 されたのであ った。さ らには、たと え一艘の造船 で
も、 日雇い層の生 活を支えるも のとして 、廻船建造は 領内産業のな かで
重 要視されてい たのである。
このように、 十七世紀後 半の津軽領 において、既 存の資源や 自然条件
の利用価値 が十分に評 価され大いに 活用され るとともに、 領内外の海運
(い しやま・あき こ
みちのく 北方漁船 博物館学芸員 )
関係業 者の活力や努 力により造船 業は大き く成長してい ったといえる 。
〔付記〕
本稿を執筆 するにあた って、弘前 大学人文学部 ・大学院地 域社会研究
科教授 の長谷川成一 先生から、貴 重なご助 言とご指導を 賜わりました 。
ここ に記して感謝 申し上げます 。
- 37 -
表1
津軽領内におけるおもな廻船建造(寛文 7 年~宝永 7 年)
№ 和暦年 月 日 西暦年
1 寛文7 4 21 1667
船頭など
三国や茂右衛門
廻船の種別
―
積石数
―
―
―
2 寛文7
4 21 1667
庄内屋権左衛門
3 延宝2
4 22 1674
銭屋五兵衛
組舟
4 天和3
3 4 1683
小石次郎右衛門
(江戸廻船御雇) 700石積
5 貞享元 6 5 1684 銚子
6 貞享元 7 29 1684 今別
7 貞享3
5 13 1686 塩飽
信田清左衛門
美濃屋善右衛門
船頭
8 貞享3 12 23 1686
9 貞享3 12 26 1686
与四兵衛
安田九郎兵衛
船頭
秋浜治左衛門
―
―
―
―
―
(御城米積船御雇) 700石積
―
800石積
(御廻船御雇) 1700石積
10 貞享4 12 1 1687 佐渡
儀右衛門
―
―
11 貞享5
6 8 1688 備前岡山
源右衛門
―
―
12 貞享5
8 8 1688 新保
六兵衛
―
―
13 貞享5 10 9 1688 佐渡
八兵衛
西海船
―
―
―
14 元禄2
5 13 1689 大坂
15 元禄4
4 20 1691 市川
船頭
庄左衛門
船頭太郎兵衛・藤兵衛 (江戸廻御雇船)
―
16 元禄4
4 20 1691 江戸
長次郎・源右衛門
(江戸廻御雇船)
―
17 元禄4
4 20 1691 新保
船頭七兵衛・権三郎
―
―
18 元禄5
19 元禄5
20 元禄5
4 14 1692 越前新保 船頭
4 14 1692 越前新保 船頭
4 14 1692 越前新保 船頭
伝三郎
与三右衛門
長右衛門
―
―
―
950石積
950石積
950石積
21 元禄10 4 12 1697 越前敦賀
竹内五郎右衛門
北国船
1500石積
22 元禄10 7 5 1697 越後新潟 船頭
治郎兵衛
弁才船
1500石積
23 元禄10 10 21 1697
嶋屋五郎右衛門
(東廻りの雇船)
―
24 元禄11 10 19 1698
竹内長三郎
―
―
弥左衛門
―
1000石積
清次郎
弁才船
250石積
泉屋善四郎
弁才船
800石積
25 元禄14 3 7 1701 慥柄
船頭
26 元禄14 9 28 1701 蟹田町
27 元禄14 10 25 1701 仙台
船頭
28 元禄15 5 10 1702 加賀国
久右衛門
―
―
29 元禄15 5 14 1702 能登穴水
長四郎
―
―
閏
19 1702 勢州慥柄
8
半太夫
―
1400石積
敦賀屋甚右衛門
―
30 元禄15
31 元禄16 正 13 1703
32 元禄16 2 5 1703 新保
船頭
喜兵衛
33 元禄16 2 24 1703 松前
船頭
唯右衛門
34 元禄16 2 29 1703 松前
船頭
山田清右衛門
羽ヶ瀬船
―
間瀬船
艘数
備 考
― 藤本庄左衛門の材木を借りて合船。
御用木を藩から借りて合船。材木
―
代銀は2番船にて上納。
外浜瀧沢御留山にて、面木2艘・腰
―
4本・帆柱4本を取出。
1艘分の御材木・御銀・御米・鉄を
1艘
藩から拝借。江戸廻船御雇のため。
― 船道具・切子鉄600貫目を藩から拝借。
― 当夏、藩から拝借し船合。
秋の合船。御材木代銀は、出船の
5艘
際に上納。
当春の合船。御材木代銀は船出来
次第上納。町人吉屋久四郎に、上納
―
が遅延の場合は船を売却する旨の
証文を渡す。
当春の合船。来春の御廻船支度の
1艘
ため、17尋の帆柱を蟹田山にて入付。
合船が許可されなければ、田南部
2、3艘 (田名部)へ行くというので、材木役
人中で相談し、この船頭を留め置く。
当春の合船。舟材木代は大坂為替
―
で上納。
合船につき、大工・木挽飯米など
―
を青森から廻漕。
1艘分の御材木・鉄を藩から拝借。
1艘 代銀は年暮に上納。請人は佐渡屋
源右衛門。
御用鉄200貫目を藩から購入。代銀
1艘
は船出来次第上納。
江戸廻御雇船建造につき、水主・
―
大工・木挽飯米を青森から廻漕。
江戸廻御雇船建造につき、水主・
―
大工・木挽飯米を青森から廻漕。
合船につき、水主・大工・木挽飯
―
米を青森から廻漕。
2艘 当春の合船。
1艘 当春の合船。
1艘 当春の合船。
合船につき、御鉄・御材木を藩か
1艘 ら拝借。入用飯米を青森から今別
へ廻漕。
元禄8年、合船のため御材木・鉄代
銀合わせて6貫622匁2分8厘を藩か
1艘 ら拝借したが、上納できず。材木
役人の怠慢ゆえ、材木役人から上
納のこと。
来春の合船のため、御材木569本・御
― 鉄2,600貫目を藩から拝借。代銭は
来春、東廻りの運賃金にて差引上納。
請山である外浜後潟組六枚橋運上
― 山にて合船。他国からの入鉄禁止
につき、新鉄は領内で調達。
当春の合船。船材木代銀2貫目分・
御鉄500貫目を、藩から貸し売り。
1艘 このうちまず300目は上納し、残り
は出来次第上納するが、もし変更
があれば宿請方より上納。
当秋の合船につき、檜小丸太16本・
1艘 垂木25本を、小国明山の内三枚橋
沢にて杣取。
当秋の合船につき、御材木代銭1貫
1艘 500目・御鉄代銭2貫目を拝借。来春、
御雇船の運賃金で借用代銭を差引。
合船につき、船材木代として金子10
―
両を上納、残りの分は追って上納。
合船につき、御材木代銀・鉄を藩
―
から拝借。
来春の合船につき、船具入用の長
板・平物、船小屋造り入用の水竿80
本・丸太36本を、小国御山の内高石
1艘
ヶ俣にて手前入付。このほか入用
の檜諸材木は来春合船の際、現銀
にて購入。
船合場
―
宿
―
十三
―
―
―
蟹田・
今別
蟹田
(今別)
―
―
蟹田 蟹田宿 伊兵衛
今別
―
十三
―
十三
―
蟹田
―
蟹田
―
十三
―
蟹田
―
蟹田
―
蟹田
―
蟹田
―
今別
今別
今別
―
―
―
今別
―
蟹田
―
今別
―
六枚橋
―
蟹田 宿 丸尾弥左衛門
(蟹田)
―
(蟹田)
―
小泊 小泊宿 孫左衛門
―
―
蟹田
―
嶋屋五郎右衛門をもって合船。9尋
板40枚を、山役人立合のもと御留
山にて杣取。切子鉄については余 蓬田
分にないので、800貫目のうち半分
現金にて藩から購入。
去秋に船合したが、桁・腰がない。
1200石積 1艘 当春出帆のため、16尋の桁1本・14尋 今別
の腰1本を、堰口御山の内にて杣取。
―
―
―
―
―
1艘
合船入用の米・味噌などを、青森
今別
から今別へ廻漕。
―
400石積 1艘
当春合船につき、入用諸色を青森
今別
から今別へ廻漕。
―
―
- 38 -
35 元禄16 3 1 1703 越前新保
竹内勘兵衛
―
1500石積
―
36 元禄17 正 23 1704 越前新保 船頭
竹内清吉
―
―
―
37 元禄17 正 23 1704 越前新保 船頭
竹内長兵衛
―
―
38 元禄17 2 10 1704 松前
山田三右衛門
弁才舟
900石積 1艘
善四郎
弁才舟
800石積 1艘
弁才船
1000石積 2艘
船頭
39 宝永元 5 16 1704 仙台
40 宝永元 5 21 1704 今別町
今別山師 五郎兵衛
―
41 宝永元 6 30 1704
丸尾与四兵衛
弁才船
1500石積 1艘
42 宝永元 9 29 1704 蟹田町
清次郎
弁才船
1000石積 1艘
43 宝永2
4 21 1705 越後市堀 船頭
喜三郎
―
400石積 1艘
44 宝永2
5 7 1705 青森
船主
豊田彦右衛門
―
1000石積 1艘
45 宝永2
5 10 1705 放生津
船頭
長左衛門
―
800石積 1艘
46 宝永2
8 4 1705 加賀
船頭
八郎兵衛
―
47 宝永2 10 14 1705 十三町
忠兵衛
―
500石積 1艘
48 宝永3
2 20 1706 加賀
茂兵衛
―
900石積 1艘
49 宝永3
2 20 1706 加賀
長左衛門
―
800石積 1艘
50 宝永3
2 20 1706 越後
喜三郎
―
400石積 1艘
51 宝永3
3 21 1706 加賀
八兵衛
―
52 宝永3
8 19 1706
唐金屋庄三郎船
53 宝永4
2 4 1707 越前新保 船頭
清左衛門
弁才
54 宝永4
2 9 1707 筑前
船頭
儀右衛門
弁才船
55 宝永4
5 22 1707 六度寺
船頭
庄右衛門
―
―
―
56 宝永4
5 22 1707 加賀
船頭
太郎兵衛
―
―
―
57 宝永4
6 23 1707 塩飽
船頭
六左衛門
弁才
―
1艘
58 宝永4
6 23 1707 塩飽
船頭
吉右衛門
弁才
―
1艘
59 宝永4
7 11 1707
丸尾由兵衛
弁才船
1200石積 1艘
60 宝永5
2 25 1708 松前熊石 船頭
半右衛門
弁才船
100石積 1艘
61 宝永5
5 6 1708 越前新保 船頭
七兵衛
北国船
1500石積 1艘
62 宝永6
3 25 1709 大坂
船頭
平兵衛
―
―
―
63 宝永7
2 16 1710 江戸
船頭
吉左衛門
―
―
―
64 宝永7
5 12 1710
船頭
丸尾右左衛門
―
―
―
―
―
―
―
300石積 1艘
弁才船
1000石積 1艘
1200石積 1艘
※「国日記」により作成。「国日記」の記事掲載日付による。
※船合場の( )は状況から場所が推定されるもの。
- 39 -
合船入用諸色を、青森から今別へ
廻漕。
合船入用諸色を、青森から今別へ
廻漕。
合船入用諸色を、青森から今別へ
廻漕。
合船入用諸色を、青森から今別へ
廻漕。
舟材木代銀・角鉄を藩から拝借し、
巳ノ年(元禄14年か)暮から合船。
代銀上納できず、囲船とする。去暮、
加州の者に60両で売却。
当秋の合船につき、長板・角・平物
代銀・御鉄代など、2艘で都合18貫
目を、藩から拝借。たしかな請人
を立てること。
造り船入用の長板・平物を、小国明
山の内高石ヶ俣にて、手前入付に
て杣取。雨水を利用して木場まで
川流し。船道具・丸太・垂木も役銀
の上取出。
来春の造船につき、造船入用の長
板・平物を杣取、来春取出。木場へ
着き、見分を受けた上で役銀上納。
合船につき、御蔵鉄120貫目を現銀
にて藩から購入。但し、10匁につ
き、鉄100目ずつの高直。
先年平館運上山から杣取、囲い置
いた材木で当年合船。大工・木挽飯
米を、青森から平館村へ廻漕。
合船につき、飯米などを青森から今
別へ廻漕。蟹田御蔵御用鉄のうち切
子鉄240貫目を、自分船にて今別へ
廻漕。代銭は今別御役所へ上納。
合船につき、小国明山の内にて、長
板・平物・小丸太・垂木を、役銀上納
の上杣取。
船板は藩から拝借、代銭は来年小
廻し運賃にて上納。鉄は藩から購
入できず。
合船につき、船材木を小国明山に
て杣取。
合船につき、船材木を小国明山に
て杣取。
合船につき、船材木を小国明山に
て杣取。
合船につき、垂木・丸太は小国明
山にて自分入付にて、一割御役で
取出。合船入用諸材木も役銀上納
の上取出。
8月16日、新艘臺おろし。
合船につき、小屋入用諸色を青森
から今別へ廻漕。
合船につき、板・平物・角・丸太・垂
木を、小国明山の内無沢にて杣取。
合船につき、入用諸色を青森から
今別へ廻漕。
合船につき、入用諸色を青森から
今別へ廻漕。
合船につき、小丸太・水竿を、小国
明山の内清水ヶ俣にて、自分入付
にて取出。
合船につき、小丸太・水竿を、小国
明山の内清水ヶ俣にて、自分入付
にて取出。
当秋合造。造り船入用鉄は、蟹田・
青森に商売鉄が一切無いので、蟹
田御蔵切子鉄120貫目を現銭で購入。
合船につき、入用飯米・諸色を青
森から今別へ廻漕。
合船につき、入用諸色を青森・弘前
にて買い調え、青森から今別へ廻漕。
合船につき、入用板・平物・小丸
太・垂木を、小国明山の内三枚橋
沢にて、役銀の上杣取。小丸太・
水竿については一割御役。
合船につき、入用板・平物・丸太
・水竿を、小国明山にて杣取。丸
太・水竿については一割御役。
来春の合船のため、長板・平物・丸
太・水竿を、小国明山の内清水俣・藤
ヶ俣・高石ヶ俣・砂川俣・無沢にて、
自分入付にて杣取させ、雪の上に
引き出したい。→来春の合船は今
から許可できないので、当秋に杣
入付のこと。
今別
―
今別
―
今別
―
今別 今別宿 小鹿弥次兵衛
蟹田 蟹田宿請 右衛門
今別
―
蟹田
―
蟹田
―
蟹田
―
平館 平館宿 斎藤佐次兵衛
今別
―
―
―
(十三)
―
―
宿 蟹田町 勘太郎
―
宿 蟹田町 久兵衛
―
宿 蟹田町 次兵衛
―
―
小泊 宿 三国屋利兵衛
今別 今別町宿 理兵衛
(蟹田) 蟹田町 久兵衛
今別
―
今別
―
―
―
―
―
蟹田
―
今別
―
今別
―
蟹田 蟹田町 清左衛門
―
―
蟹田
―
表 2
№
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
900石積弁才船建造の入用諸色
品 目
白米(4斗入)
味噌(10貫目入)
酒(2斗入)
銭4貫目
たばこ(40縄入)
酒粕
酢(1斗5升入)
醤油(1斗5升入)
鱈の切漬
干鱈
鴨
華筵
こぎ
鍋
食釜
苫
数量等
130俵
25樽
30樽
20叺
4固
3俵
2樽
1樽
2樽
5束
4把
6束
3束
大・小3つ
1つ
200枚
「国日記」元禄17年2月10日条により作成
津軽領における廻船建造関係地図
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