第21集(2014年3月学位授与 ※PDF)

博士学位論文
内容の要旨および審査の結果の要旨
第21集
平成26年
日本赤十字看護大学
はしがき
本篇は、学位規則(昭和28年4月1日文部省令第9号)第8条による公表を目的
として、平成25年度において博士の学位を授与した者の論文内容の要旨および論文
審査の結果の要旨を収録したものである。
学位記番号に付した甲は学位規則第4条第1項(いわゆる課程博士)によるもので
あり、乙は学位規則第4条第2項(いわゆる論文博士)によるものであることを示す。
学位記番号
甲第 55 号
学位の種類
氏
目
次
名
論 文 題 目
博士(看護学) 濱田 真由美
授乳支援をおこなう助産師の経験
頁
(1)
Experiences of Midwives Who Support Breastfeeding
Mothers
甲第 56 号
博士(看護学) 矢ヶ崎 香
経口化学療法を受ける再発、転移性乳がん患者の療
(5)
養体験
Experiences of Patients Living with Recurrent
Metastatic Breast Cancer under Chemotherapy
甲第 57 号
博士(看護学) 太田 祐子
ジェネラリストとして在る、キャリア中期看護師の
物語としてのキャリア
Narratives of Nurses in Mid-Career : Working as
Generalists
(9)
氏
名:濱田 真由美
学 位 の 種 類:博士(看護学)
学 位 記 番 号:甲 第55号
学位授与年月日:平成26年 3月14日
学位授与の要件:学位規則第4条第1項該当
論 文 題 目:授乳支援をおこなう助産師の経験
Experiences of Midwives Who Support Breastfeeding
Mothers
論 文 審 査 委 員:主査 筒 井 真優美
副査
谷 津 裕 子(正研究指導教員)
副査
守 田 美奈子(副研究指導教員)
副査
高 田 早 苗
副査 佐々木 幾 美
論 文 内 容 の 要 旨
【研究の背景】
現在,母乳育児は母親にとっても児にとっても最も良い栄養方法であると世界的に位置づけら
れ,「母乳育児成功のための 10 カ条」
(WHO/UNICEF 共同声明,1989)を基に母乳育児推進運動が
おこなわれている。先行研究では,母乳育児できなかった場合に母親は自らのアイデンティティ
が揺るがされることや,母乳育児を支援する助産師と母親との間には緊張が生じやすいこと,時
間的・組織的な制約により助産師は必ずしも質の高い授乳支援をおこなえない状況にあることな
ど,母乳育児をめぐる授乳支援には様々な問題が存在することが明らかにされている。しかし,
日本では授乳支援に携わる助産師がどのような状況の中で,何をどのように認識して母子に関わ
っているのかについて探究した先行研究はない。そこで,授乳支援をおこなう助産師がどのよう
な経験をしているかを明らかにすることは,授乳支援にともなって生じる問題の深層に迫るうえ
で有用であると思われた。
【研究目的】
授乳支援をおこなう助産師の経験を明らかにすること。
【研究方法】
質的記述的研究デザイン。研究参加者は関東圏内の地域周産期母子医療センター2 施設に勤務
する助産師 6 名(助産師経験 1 年未満の新人助産師と管理職者は含めない)であった。データ収
集は,半構成的面接法(1 回あたり約 1 時間,1 名につき 2 回ずつ)と授乳支援場面の参加観察法
(1 名につき 1~2 回)によっておこなった。データ分析では,研究参加者 1 名毎に面接データの
逐語録と参加観察で得たフィールドノーツを繰り返し読み,助産師がおこなう授乳支援の経験
(感情や価値観などの内面的変化や知識や技術,態度に関する認識)について語られた文脈に着
目し,各研究参加者のデータをコード化,カテゴリー化した。その後,カテゴリー間の相違性と
-1-
共通性を比較し,授乳支援をおこなう助産師の経験を表すテーマを見出した。Lincoln &
Guba(1985) が提唱する自然主義的研究における真実性(Trustworthiness)の 4 つの規準に則り,
データ分析結果の妥当性を確保した。
【倫理的配慮】
日本赤十字看護大学研究倫理審査委員会(No.2012-73)と研究協力施設の倫理審査会(No.1301)
の承認を受けて研究を実施した。研究協力施設の産婦人科師長に研究の趣旨と概要を文書と口頭
で説明し,協力を得た後,研究参加者の条件に合う助産師に対して研究者が個別に研究参加を依
頼した。入院中の母親に対しては,産婦人科師長の承諾が得られた場合に病棟にポスターを掲示
して研究について告知すると共に,参加観察の際には研究者の身分や研究の目的・方法を個別に
説明し,了承を得てから実施した。
【結果】
1)研究参加者の概要
研究参加者は,20 歳代後半から 40 歳代前半の助産師 A・B・C・D・E・F 氏であった。臨床
経験年数は平均 9.0±6.0 年(うち助産師歴 5.3±3.1 年)であった。
2)授乳支援をおこなう助産師の経験
(1) 授乳支援に対する信念が揺れ動く
授乳支援に携わるなかで研究参加者は,母乳育児からの‘逃げ道’として人工乳が使用されて
いる実態や,母乳育児推進に熱心なあまりに母子に介入し過ぎる授乳支援の実際,母乳育児が確
立するまでに母親が体験する疲労や苦痛などを目の当たりにした。Baby Friendly Hospital にお
ける授乳支援方法を実習施設や勤務施設で学ぶ過程で,堅く信じるようになっていた‘母乳育児
を推進することが助産師の役目’という考えは,臨床の現実を知る過程で揺らぎ始め,研究参加
者は自らの授乳支援に対する信念に疑念を抱くようになっていた。
(2) 授乳支援に不確かさや迷いがつきまとう
研究参加者は,母乳哺育の子どもに人工乳を補足的に飲ませる基準や方法など,授乳支援を展
開するために必要となる知識や判断の科学的根拠の乏しさを感じ,自らの授乳支援に不確かさや
迷いを抱えていた。授乳支援の手がかりとなる明確な規準や解決法を先輩助産師の実践や母乳育
児関連の講習会,インターネット上の情報等に求めても入手することは容易ではなく,施設の新
生児科医が定めたルールに従って授乳支援の方向性が規定されている現実があることを感じ取っ
ていた。
(3) 母親の実情に沿い,かつ母子の利益が最大になる授乳支援を開拓する
研究参加者は,人工乳を極力用いない母乳育児支援は母親の身体的・精神的ストレスを増大さ
せてしまうだけではなく,かえって母乳育児したいと思う母親の気持ちを萎えさせ母乳育児継続
を困難にさせる結果を招くことを,実践を通して学んでいた。そこで,母親に対しては母乳育児
を強く勧めたい気持ちに歯止めをかけ,母親にストレスを与えない支援方法に変更したり,母親
の主体性と意思決定を支える支援を心がけたりする一方で,医療者に対しては新生児科スタッフ
と産科スタッフの授乳支援方針の食い違いを是正することによって,母子にもたらされる利益を
高めようと努めていた。
(4) 授乳支援の難しさの中から母親との隔たりを埋める手がかりを感じ取る
産前から産後にかけて母親の心身の状態が目まぐるしく変化するなかで,研究参加者は,母乳
-2-
育児に対して漠然とした希望をもち明確な意思をもたない母親,助産師に容易に心を開かない経
産婦に対して関わることに困難さを感じるとともに,母親になったことのない助産師が「母親」
の存在を理解して授乳を支援することには限界があると認識していた。しかし,曖昧で捉えどこ
ろのない母親の姿こそ真の母親の姿であると考え方を転換し,母親自身の感覚や思いを尊重して
関わることによって,母親との隔たりを埋める手がかりを感じ取っていた。
(5) 組織の円滑な運営のために個人的な不満や見解は差し控える
研究参加者は,それぞれに母子にとって利益となる授乳支援のあり方を模索していたが,時間
的余裕がないことや同僚と異なる意見を交わし合う場がないこと,小児科医との摩擦,看護職者
が大切にされない環境といった問題に阻まれ,思うように授乳支援の方法を改善できない状況に
置かれていた。しかし,そうした不満や疑問を表出することは,組織において医師や同僚との人
間関係や円滑な業務を阻害する恐れがあるため,差し控えていた。
【考察】
1)母親の現実に寄り添う授乳支援の再構築
授乳支援の現実を知る過程で助産師は,実習や勤務を通して培ってきた母乳育児支援に対す
る信念を自問する必要性に迫られ,母親の現実に寄り添うことの大切さを身をもって学んでい
た。授乳支援が母親の生活に適したものとなり,母子にとって利益が最大になるためには,助
産師自身がもつ価値観を批判的に問い直し,母親に対して公平で多様な情報を提供することが
大切であると考えられた。
2) 授乳支援の創造に必要な組織のあり方
母親の現実に即した授乳支援方法を創り出す過程では,助産師自身の経験に対する内省や授
乳支援への批判的な反省のみならず,職種や部門,先輩後輩の垣根を越えた多様な人々との対
話が重要な契機となると考えられた。授乳支援に携わる医療者が実践を通した学びや気づきを
自由に表出し,互いの視点を理解し合って,母子の利益となる授乳支援の実現に向けて変化し
続けることのできる組織作りに努めることの必要性が示唆された。
3) 授乳支援の新たな展開を拓く助産師を支える体制
助産師が母子の実情に即して編み出した授乳方法の中には,WHO や UNICEF が提唱する母乳
育児支援方法にとらわれないものも含まれていた。科学的な観点から軽視・排除されがちなこう
した実践の知識を,母親の多様性を考慮した豊かな知識として蓄積していくことの必要性が示唆
された。また,母乳育児支援に熱心な助産師と距離を置く母親との間にある隔たりは,母乳育児
推進に対する批判的吟味が十分とはいえない助産師教育に一因があると考えられた。そのため,
助産師教育においては,授乳する母親の多様な生活や価値観に根ざした授乳支援の必要性とその
具体的方法を教授することが重要であると考えられた。
論文審査の結果の要旨
本研究は,授乳支援をおこなう助産師の経験を当事者の語りを通して明らかにした研究であ
る。母乳育児推進を標榜する授乳支援に伴う問題の詳細を,日本の母親の実情を反映するかた
ちで明らかにした点は意義がある。日本で実施された授乳支援に関する先行研究は母乳育児推
-3-
進を前提としたものが多数を占める中で,そうした前提には立たずに助産師の経験そのものに
着目し,授乳支援の問題の深層に接近した点にもオリジナリティが認められる。
授乳支援をおこなう助産師の経験には,現代社会に生きる母親の価値観やライフスタイル,
母子を取り巻く環境の多様性と複雑性が色濃く反映されていた。また,助産師が他職種や他部
門,同僚との関係性を築きつつ,授乳支援を通じて母子の利益を追究するという複雑な課題に
取り組む様子もリアルに描き出されていた。そうした課題は,助産師が実習や勤務を通して習
得してきた母乳育児推進を前提とする知識や価値観だけでは解決できるものではないことを,
本研究を通して根拠をもって示唆し,今後の助産師教育の方向性を提言したことは評価できる。
また,母乳育児推進の根拠とされる科学的知識や方法にとらわれない授乳支援が母子の利益に
結びつくという現実や,そうした現実が専門家としての価値観に自己吟味を促し授乳支援の前
進へとつながり得ることを具体的に示した点も興味深い。本研究で得られた結果は,授乳支援
場面にとどまらず看護一般に見受けられる実践知の進化のありようを示唆するものであり,看
護学・助産学の知の構築の観点からも今後研究の発展が期待される。
博士学位論文審査専門委員会では,申請者に対して質疑応答を行い,審査の結果,本論文を学
位規程第 3 条により,博士(看護学)の学位論文としてふさわしい水準にあると認め,「合格」
と判定した。
-4-
氏
名:矢ヶ崎 香
学 位 の 種 類:博士(看護学)
学 位 記 番 号:甲 第56号
学位授与年月日:平成26年 3月14日
学位授与の要件:学位規則第4条第1項該当
論 文 題 目:経口化学療法を受ける再発、転移性乳がん患者の療養体験
Experiences of Patients Living with Recurrent Metastatic
Breast Cancer under Chemotherapy
論 文 審 査 委 員:主査 武 井 麻 子
副査
守 田 美奈子(正研究指導教員)
副査
筒 井 真優美(副研究指導教員)
副査
本 庄 恵 子
副査 佐々木 幾 美
論 文 内 容 の 要 旨
【研究の背景】
近年、がん医療の発展により国内外で急速に開発が進んでいるがん化学療法は、静脈投与から
経口剤へと、その投与方法が変化している。経口化学療法は穿刺による侵襲がなく、簡便なため
患者の QOL を挙げるという利点がある。一方で副作用の判断や対応は患者に任される等、患者
にとってはセルフケアの課題が増える。新たな治療法に対する看護援助方法の開発は今後の重要
課題となっている。さらに、この薬剤の適応となる再発、転移性乳がんの患者は、がんの進行へ
の恐れや死の脅威、生活上の困難も抱えていると思われる。そこで経口化学療法を受ける再発、
転移性乳がん患者のニーズに応じた看護のあり方を探究するためには、まず当事者の体験を明ら
かにする必要があると考えた。
【研究目的】
本研究の目的は、再発、転移性乳がん患者がどのように生活を送りながら、経口化学療法を続
けているのか、当事者の視点から明らかにすることである。
【研究方法】
1.方法:経口化学療法を受ける再発、転移性乳がん患者の療養体験を明らかにするために質的
記述的研究を行った。
2.研究参加者:大学病院の外来に通院中の経口化学療法を受けている再発、転移性乳がん患者
とした。主治医や外来看護師長が面接を行うことが可能と判断した 35 歳から 60 歳代の女性で、
研究への協力の同意が得られた 4 名を研究参加者とした。
3.データ収集:2011 年 12 月 22 日-2013 年 6 月 1 日に実施した。都内大学病院の一施設の外来
で、インタビューガイドを用いて半構成的面接法による面接を行った。4 名の対象者に対し、30
-5-
分から 60 分のインタビューを 3-4 回行った。
4.分析:データを熟読し、研究指導教員のスーパーバイズを受けながら療養経験のエピソード
を抽出した。患者ごとに事例として再構成し療養経験の特徴を記述した。
【結果】
研究参加者は経口化学療法を受けている再発、転移性乳がん患者 4 名で、年齢は 30 歳代1名、
50 歳代 2 名、60 歳代 1 名であった。既婚者は 2 名、未婚者 2 名であった。経口化学療法を開始し
て 2 年間-8 年間が経過していた。
1.治療と生活のバランスの揺らぎ:A さんの体験
A さん(50 歳代)は実母を看取ることを使命としており、経口化学療法を自分らしく生きるため
の救世主と意味づけて、治療を続けながらも自分の生の充実を大切にしていた。仕事をして自分
のスタイルを大事にしてきた A さんにとっては、生命を守ることと外観の美(容姿)を維持するこ
とが重要であった。A さんはこの二つの「価値の狭間での慎重な治療選択」を行い、また下痢等
の副作用の苦痛を和らげるための服薬方法を模索していた。A さんは死の脅威が強まると、病状
が安定するようにと「願いを込めた服薬行動」をとっていた。一方、医師から様子みようかと言
われると、自分を癒すかのように薬をスキップすることもあった。このように病状の深刻さや死
の恐怖が高まると服薬を慎重にしたり、病状が安定し、不安が和らぐと自分の生活や自分らしい
生き方を重視して容易に抗がん剤をスキップしたりしていた。このように病状によって服薬の判
断や行動は変化していた。
2.
「普通の生活」を維持することの価値:B さんの体験
B さんは(50 歳代)、経口化学療法に対して、安心して生きるための「安心料」だと意味づけて、
ボランティアや仕事など活動的な日々を送っていた。
最近は、医師から病状が安定しているので治療を休止しようかと相談されたことがあったが、B
さんは医師が迷っている様子をみて、服薬の辞め時を躊躇しながら治療を続けていた。経口化学
療法を受けて 8 年目であるが、治療の服薬時期と休薬時期の切り替えが難しく、飲み始めること
をうっかり忘れたり、時には意図的にスキップすることもあった。このような自分の行為に対し
て「ずるしてる」という罪の意識を表現したり、乳がんのほかに大腸がんの病歴をもつ自分を「前
科者」と語ることもあった。B さんが服薬を続ける根底には、
「普通の生活」を維持するという価
値感があり、その生活を得るための治療として抗がん剤を意味づけていた。
3.元気に生きるためのがんと抗がん剤との狭間:C さんの体験
C さんは(60 歳代)、毎晩、翌日に服薬する錠剤をコースターに準備することが日課だった。し
かし、準備していてもうっかり忘れることを繰り返していた。この行為には医師との関わりも影
響していた。
医師の言葉や表情から、飲み忘れても大したことのない薬だと C さんは捉えていた。
逆に化学療法による重篤な副作用の経験を過去にもっていたことから、過剰に飲むことで副作用
が重症化することの方が怖いと C さんは感じていた。そのため元気な身体に害となる抗がん剤を
飲む必要があるのかという疑念を持ち、抗がん剤を服薬することの意味を探していた。
4.孤独の中で「いいこと」を期待して続ける服薬:D さんの体験
D さんは(30 歳代)、経口化学療法を飲み忘れることは一切ないと言い切るほど完璧に服薬をし
ていた。しかし、服薬の行動では「自分自身を鼓舞」し、
「飲まなきゃ死んじゃう」と、命を保つ
ためには不可欠なものと治療を意味づけ、緊張感の中で徹底的に服薬を管理していた。若年性乳
-6-
がんと診断された時から、再発のリスクが高いという説明を受け、現在に至っても病状が不安定
で、常に死の恐怖を身近に感じていた。D さんは、このような厳しい状況のなかで、10 年生存を
目指して治療を続けていた。生き延びている父親の癌体験も D さんの支えであったが、「生きて
いれば何かいいことがある」と信じる気持ちと希望が D さんを支えていた。一方では、乳がんを
発症後、友人、知人との関係性を絶ち、仕事も退職し、年月を重ねるにつれ社会との繋がりが途
絶えていった。最近では通院時の主治医との関わりと、ネット上での他者との関わりが唯一自分
の存在を認識する機会になっていた。家族や医療者を含めた周りとの関係性において孤立が深ま
り、D さんは苦悩していた。
【考察】
本研究の研究参加者は、自分の生命と生活を天秤にかけながら服用を判断し、薬を意図的にス
キップしたり、うっかり忘れたり、あるいは逆に確実に服薬していたといえる。
その服薬行為の根底には、経口化学療法への価値や感謝という肯定的な感情と治療への疑念な
どの否定的な感情があり、その狭間で葛藤していると考えられた。すなわち、経口化学療法を受
ける研究参加者は、アンビバレンスの状態(杵淵, 2006: 杵淵, 2008: 広瀬, 2010b)にあると考えら
れた。その複雑な感情の狭間から生じる服薬行動には、経口化学療法への意味づけや必要性の認
識が影響し、がんや死への脅威が高まると厳密な服薬行為に意識が向き、一方、病状が安定し死
の脅威が和らぐと治療効果よりも抗がん剤の毒性への懸念や自身の生活や趣味、価値などを含め
た生き方への意識が高まり、薬をスキップするといった行為が生じていた。特に再発、転移性乳
がんという状況にある患者にとっては、治療効果そのものが不確実なため、自分の生活やこれか
らの生の充実などを天秤にかけながら、自分で判断し行為するという特徴があったと考える。参
加者にとって重要なことは、パンを焼くこと等の自分の趣味、自分らしい姿の維持、外出等、健
康だった時には当たり前で、それを疑うことのなかった、しかし今では失う可能性のある「普通
の生活」を営むことであった。その維持を基準に服薬行為の判断をしていた。また、研究参加者
が意図的にスキップすることには自分へのご褒美や自分を癒すという意味が含まれていた。過度
な緊張感を維持している研究参加者にとって、抗がん剤をスキップすることはがんから解放され
普通の生活を感じ取れるひと時だったのだと考えられた。
服薬の判断には、医師との相互作用が大きく影響していると考えられた。医師の診察時の口調、
表情、雰囲気を通して、病状を捉え、経口化学療法に対する意味づけを行い、服薬行動が変わっ
ていた。また、過去の抗がん剤治療による苦痛が身体に記憶され、それが経口化学療法に対する
脅威等の複雑な感情をもたらしていた。
D さんのような服薬をきちんと守っている若い患者は、その心中にがんの脅威による強い緊張
感を維持していることが示された。若い患者は仕事の継続や社会的関係の維持に困難を極め、医
療者を含む周囲の人や家族からも孤立していく状況があることも示された。
【看護実践への示唆】
長期的に治療を続ける再発転移性乳がん患者に対しては、継続的に看護を提供するための方法
や場(外来看護相談など看護システム)の検討が不可欠であることが示唆された。
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論文審査の結果の要旨
経口化学療法による治療は、日本ではまだ始まったばかりと言えるほど新しい治療法である。
今後は、がん患者の増加と共に、治療適応となる患者は増加することが予測される。このような
治療を受ける患者の看護に関する研究はまだ少なく、今後、がん治療の進歩に伴う看護のあり方
を考える上で、また経口化学療法を受ける再発、転移した患者の看護を考える上でも、非常にオ
リジナリティが高く今日的なテーマであると評価された。
本研究は、外来通院する患者に対し、インタビューを半年から 1 年間かけて複数回行い、患者
の経時的な経験の変化を追いかけている。その結果を、4 名の患者の個別の体験として記述して
いる点に特徴がある。研究結果から、再発、転移した乳がん患者は、病状やがんへの認識の違い
だけでなく、家族関係や生活の仕方、価値観等により、それぞれに多様な体験をしていることが
明らかとなった。結果では、参加者のそれぞれの生活や感情、価値観等が服薬行為と深く関連し
合っており、病状変化やその理解の仕方、患者の価値観や生活の変化等によって、流動的に変化
する様子がリアルに描かれており、患者理解を深めることができると評価された。特に、薬物を
スキップすることや、逆に服薬を厳守することの背景に抗がん剤や死に対する複雑な思いがあり、
さらに普通の生活を営むことへの強い思いがあることなど、患者の行為の意味を考えることの重
要性を示しており、看護のあり方を考える上で、重要な示唆を与えたと評価された。さらに治療
を厳守している若い患者が抱えている深い孤独等、患者が抱える問題の深刻さを記述しており、
今後の看護実践に重要な示唆を与えると評価された。
博士学位論文審査専門委員会では、申請者に対して質疑応答を行い、審査の結果、本論文を学
位規程第 3 条により、博士(看護学)の学位論文としてふさわしい水準にあると認め、
「合格」と
判定した。
-8-
氏
名:太田 祐子
学 位 の 種 類:博士(看護学)
学 位 記 番 号:甲 第57号
学位授与年月日:平成26年 3月14日
学位授与の要件:学位規則第4条第1項該当
論 文 題 目:ジェネラリストとして在る、キャリア中期看護師の物語として
のキャリア
Narratives of Nurses in Mid-Career : Working as
Generalists
論 文 審 査 委 員:主査 筒 井 真優美
副査
高 田 早 苗(正研究指導教員)
副査
佐々木 幾 美(副研究指導教員)
副査 グレッグ 美 鈴(神戸市看護大学 教授)
副査 武 井 麻 子
論 文 内 容 の 要 旨
【研究の背景】
キャリア中期の看護師は、量的(マンパワー)質的いずれの面でも看護実践現場において重要
な役割を果たすことが期待される。その反面、看護管理者やスペシャリストに就いていないジェ
ネラリストのキャリア中期看護師は、看護実践能力のプラトーを迎える、職業性ストレスが他の
年代よりも高い、今後のキャリアプランが描けない、などの課題や問題を抱えていることが明ら
かになっている。キャリアという語はこれまで職業経歴や昇進、資格取得といった意味合いで用
いられることが多かったが、近年では職業のみならず人生の生き方として統合的に捉えられるよ
うになっている。看護職者を対象とするキャリア研究は集団の傾向をみる量的なアプローチや先
駆的な活動に取り組んだ保健師やリタイアした管理職を対象とするものなどに限られ、キャリア
中期のジェネラリストに焦点を置いた研究は見出されない。さまざまな経験を重ねる一方で正当
な評価を得にくい当該看護師のキャリアを明らかにすることは、当事者の意味づけや今後の展望
を見出す機会になるとともに、キャリア支援のあり方やその促進にとって重要な知見になる。
【研究目的】
ジェネラリストとして在るキャリア中期の看護師のキャリアを、物語として記述する。
【研究方法】
ライフストーリー研究。以下の条件を満たす 5 名の参加を得た。①35-49 歳かつ 6 年以上の経
験、②病院病棟勤務の女性正職員、③管理職・専門看護師等の資格をもたない。データ収集は、
語り手と聴き手の相互行為による対話により物語の生成にかかわるナラティブ・モデルに基づく
複数回のインタビュー。逐語録を、転機に関連するエピソード、繰り返される話題等を手がかり
として、時間軸を意識し、参加者との間で確認・更新しながらひとりひとりのライフストーリー
-9-
を描出した。
【倫理的配慮】
日本赤十字看護大学研究倫理委員会の倫理審査を受け承認を得て実施した。文書を用いて目
的・方法等を説明し、自由意思による参加同意を書面で得た。匿名性を確保し、データの取り扱
いを厳重に行った。参加者を共同して物語を構築するパートナーとして尊重し、対等な関係、誠
実な対応を心がけた。
【結果】
1)参加者は 30 代後半 3 名、40 歳代 2 名の 5 名。経験年数は 6 年~20 数年であり、1,2 施設の 2
~4 病棟に勤務してきた。全員が看護専門学校卒であり、准看護師を経た者は 2 名、基礎教育前の
社会人経験者は 2 名であった。既婚者 1 名、シングルマザー 1 名、未婚者 3 名。
2)語られたライフストーリー
澪さん「関わる中で、語る中で、見えてきたキャリア」
高齢者へのかかわりに魅力を感じ看護職に。6 年の ICU 経験で幅の狭さとマンネリに限界を感じ、
外科病棟へ異動し、患者からのダイレクトな反応や医師の承認に手ごたえを感じた。「日常生活援
助」を求め当初からの希望であった神経内科病棟へ異動するが、異なる看護状況に戸惑う。わずか
半年で ICU に請われて戻る。外科経験で患者の前後の経過が見通せるようになり、よい看護につ
ながっている実感を得る。スタッフの「底上げ」や人間関係の円滑化に、師長・主任と共に取り組
み、意味も見出している。しかし、看護部面接では主任か認定看護師かの二者択一の圧力が年々
強くなり、肩身が狭い思いをしてきた。インタビューで語る中で、自分なりの関わりを大切にす
る主任像が見えてきた。
瞳さん「霧、だんだんと晴れ間―自分を取り戻しつつある日々」
祖父の勧めにより高校衛生看護科、2 年課程の後看護師に。初期には多くの先輩モデルに恵ま
れ励む。10 年目、病棟再編の中後輩を守るつもりの行為が理解されず四面楚歌に。元上司の誘い
で異動する。「なぁなぁ」の雰囲気の中でも自分なりに若いスタッフの見本になるようにとの努力
をするものの、受け入れられず、患者の「事故死」と上司の態度に心が「折れ」て、元の職場に。
患者とのやり取りに笑いがある職場の中で、自分を取り戻し、今後のことに目が向けられるよう
になった。
香里さん「自分を合わせて生き延び、人として看護師としての価値の融合に向かう」
文系大学卒業後紆余曲折を経て 30 歳前に看護学校に。経済的にも気持ち的にも余裕のない学校
時代、新人時代であった。当初から人としての考え方と看護師としての考え方のズレを自覚して
いた。周囲からの冷遇を感じながらも、病棟文化に自分を合わせ失敗を乗り越え生き延びてきた。
そんななかで、副師長の患者への踏み込んだ関わりや、終末期患者の意向に沿う主任の判断に触
れ、自分を振り返り目指す方向を見出しつつある。人として、看護師としての価値の融合に向か
う新たな一歩を踏み出した。
泉さん「一筋の光明を追い求め、生き残るために模索する」
進学に踏み切れなかった長い准看護師時代、30 歳を過ぎて宗教家になるべく修学したことをき
っかけに、通信制で看護師免許を得る。専門病院でのさまざまながん患者との経験のなかで、思
春期看護を志して別の病院に移る。小児科に配属されたものの思春期看護は経験できないまま、
病院の再編により不本意な再異動を受け入れてしまう。疲労と挫折感でモチベーションが下がり、
- 10 -
目標を見失いそうになる中、何とか生き残るための模索の日々を送っている。
咲子さん「広がる可能性へのチャレンジ」
20 歳代で離婚し、娘を育てながら准看護師に。勤務しながら看護師免許を取得。子育てもあり、
仕事にも一線を引かざるを得ず、割り切るように努めてきた。そんな中でも患者に成長させても
らった、と思えることは多くあった。教育委員を機に敬遠していた看護倫理にも関心が出てきた、
がん患者のスピリチュアルケアも避けずに向き合う準備ができてきた。リーダー業務が多く患者
に直接かかわる機会が限られてきたのが残念に思う反面、若い看護師への刺激を考える余裕も出
てきた。子育てが一段落し、新たな仕事や生活の場に夢を描く日々である。
【考察】
5 名の参加者の語りから、必ずしも順調とばかりは言えないキャリアの様相が浮かび上がって
きた。初期には先輩に恵まれたり、職場における役割期待に応えようとする「中心化」
(Schein,1978)がうまくいっていた人も、キャリア中期になると望まない職場への異動を命じら
れたり、職場内での役割期待と応えようとする役割遂行の仕方のずれが大きくなりストレスが高
まったりすることが多くなっている。参加者は生じてきた認知的不協和に異動の利点を見出すこ
と等により適応の努力はするが、なかにはそれもうまくいかない者もいた。さらに、経験を重ね
る中で自律的判断ができるようになるキャリア中期看護師は、医師の治療方針や部署の看護業務
の遂行の仕方に疑問を抱いたり、独自の提案をしたりする。これが部署の上司らに受け入れられ
ないことにより、中心化をやめる、脱「中心化」とでもいうキャリアのあり様が伺われた。
参加者の多くは、キャリア中期を迎え、体力の低下や新しい環境への適応の難しさを感じ、夜
勤をいつまで続けられるか、といった不安を口にしている。その一方で、看護部や上司から主任
と認定看護師の二者択一を問われると、ためらいや自信のなさを口にし、さらに責められている
ような感じさえもっていた。つまり、キャリア支援としてなされているはずの面接がむしろ看護
師たちには反対に受けとられているようであった。現在までの努力や積み重ねへの言及や評価が
なく、年数だけが強調されたり、ジェネラリストとして在り続けることが含まれないといった要
因が関係していると考えられた。
本研究での語りは、キャリア中期にある参加者のキャリアの方向を見失いかける、時には自分
自身をも見失いそうになっている厳しい状況を明らかにした。しかし、語ることは、同時に貴重
なエピソードを思い起こしその意味付けを深める、揺れ動く自分に向き合う機会ともなっていた。
参加者の中には自分が大切にしてきたことを再発見したり、自分を認めこれからのキャリアの方
向を見出すことにつながった者もあり、キャリア支援としての可能性の一端を示した。
論文審査の結果の要旨
本研究は、看護管理上の課題であるとの認識はされても、研究対象者として取り上げられるこ
とは少なかったキャリア中期看護師に焦点をあて、ライフストーリーアプローチでキャリアの物
語を記述しようとする意欲的な研究である。
キャリアを職位や資格取得といった表面的な経歴ではなく、個人生活ややりがいなどの内面を
も含む統合的な視点で捉えるとしたことにより、語られ再構成された物語は一人ひとりユニーク
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で奥行きのあるものとなっている。また、複数回のインタビューにより、個々の参加者のまさに
キャリアを重ねているなかでの苦悩やゆきづまりなどがリアルに描出されている。研究参加者と
方法により、サクセスストーリーになりがちであった本分野における従来の研究から抜き出た点
は高く評価できる。
考察では、研究参加者の語りから描かれたキャリアの物語の意味するところを、先行研究や概
念を用いて検討している。Schein や Donner との一致をみない点について検討を加えた点、特に参
加者の自信のなさや揺らぎの大きさについて組織や部署における上司や同僚、医師との関係、さ
らにはそれらを包む文化の影響などに関連付けて検討したこと、専門職としての判断が形成され
る中期看護師にとっては「中心化」よりは脱「中心化」が決しておかしくはないことなどの議論は
注目に値する。
看護協会の定義から出発した「ジェネラリスト」ではあったが、参加者の語りから、参加者にと
ってジェネラリストとして在ることの意味を一定明らかにし得たことも評価できる。
以上から、都市部の急性期病院を場とするキャリア中期のジェネラリストのキャリアを当事者
の立場を大切にし、物語として記述するという研究目的は概ね達成されており、本専門委員会で
は、審査の結果、本論文を学位規程第3条により、博士(看護学)の学位論文の水準に達してい
ると認め、「合格」と判定した。
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博
士
学
位
論
文
内容の要旨および審査結果の要旨
第 21 集
平成 26 年 6 月 13 日
編集・発行
日本赤十字看護大学大学院
〒150-0012
東京都渋谷区広尾 4-1-3