若狭神宮寺お水送りと不老不死 ・海からやってきた ……朝鮮半島 ? ・不老不死 ■ 若狭創世二神■ 徐福 ・始皇帝の命により渡来 ・不老不死の妙薬を求める 遠敷明神・若狭彦 若狭姫 和銅 7 年( 714 ) 9 月 10 日 遠敷郡下根来村白石創建 元正天皇霊亀元年( 715 ) 9 月 10 日現在地へ遷座 下社にあたる若狭姫神社は、 元正天皇養老 5 年( 721 ) 2 月 10 日上社より分祀し、 若狭姫大神とした 八百比丘尼 ・父親が獲った人魚を食べる ・望まずして不老不死 渡来系 ■ 鈴応山神願寺創建■ ・若狭彦直系子孫といわれる 修験者 秦氏 徐福とともに渡来したとされる 和の赤麿 ■ 東大寺初代別当■ ・東大寺を開山 渡来系 ・白石明神に仕えていた 秦の常満の子 良弁 イン ド僧 ■ 東大寺修二会創始■ ・大仏建立で良弁を補佐 『ラサラトナ = サムッチャヤ』 ( 水銀の宝の集成 ) を元にお水送り、お水取り体系化 ゾロアスター系の火の儀式 実忠 ■ 東 大 寺 第 14 代 別 当 ■ 修験者 護摩供養 = 火の儀式 遣唐使 若狭水銀鉱脈の探索 ・三方石観音→瓜割滝を指す ・瓜割滝→遠敷川と同じ源 空海 【若狭神宮寺寺誌】 若狭の祖である遠敷明神若狭彦の直系で祝部(はふりべ)の和の赤麿が、山岳修行者として若狭神宮寺の背 後の龍王山で修行していたとき、和銅七年(714)に龍王山から金鈴が降ってきて、この金鈴を地主神の那伽王 明神として龍王山に祀った。また赤麿は薬師如来と十一面観音を安置する寺を建てて鈴応山神願寺と名づけ た。 赤麿は、根来の白石明神に仕えていた秦の常満という長者の子を大和の法相寺の義淵の弟子にさせた。こ の子が後に東大寺の開山初代別当(住職)になったという良弁大僧正である。 良弁が大仏の建立に着手した頃、インド僧の実忠が神願寺に来て修法をして後に、東大寺の良弁の弟子と なり、大仏建立を助けた。 大仏の開眼供養があった天平勝宝四年(752)二月、実忠は十一面観音を東大寺上院(二月堂)に祀り、法会 (修二会)を催した。 二週間の法会の第一日に、「神名帳」を読みあげて日本国中の神々に守護を請うたが、若狭の遠敷明神は 遅刻して影向できず、お詫びの印に十一面観音にお供えする阿伽水を送ることを約束し、二月堂の下まで水を 導いて、泉から水を湧き出させた。この泉を若狭井といい、その水を汲み取る行事がお水取りである。 そのお水取りの若狭井の水源は若狭神宮寺の前を流れる遠敷川の上流の音無川鵜の瀬とされている。 若狭神宮寺の修二会で行うお水送り神事では、赤土を神酒で練った赤土の土饅頭を盆に載せ、白石明神に 供えて加持祈祷する。 遠敷の惣谷、通称中の宮にある洞窟で採取された鉱石は、水銀を含んだ辰砂鉱石であることが確認されて いる。 和銅五年(712)まで、遠敷は小丹生と記されていた。 お水送りとは辰砂を採取して奈良東大寺へ送っていたことを象徴する祭りであり、火の祭典は辰砂からの水 銀の精製を象徴しているとも考えられる。
© Copyright 2024 ExpyDoc