スリランカにおける村の政党政治とその変化

現代インド研究 第 5 号 127‒147 頁 2015 年
Contemporary India, Vol. 5, 2015, pp. 127–147
鈴木:スリランカにおける村の政党政治とその変化
特集研究ノート
スリランカにおける村の政党政治とその変化―内在的文脈の理解に向けて
鈴木 晋介*
Party Politics in a Sri Lankan Village: Changes and its Internal Contexts
SUZUKI Shinsuke
Abstract
This paper aims to describe recent changes of party politics in a Sinhalese village in Sri Lanka, and
to set out a framework for understanding the nature of its changes through the internal logic of the
villagers. Democracy in Sri Lanka has long been characterized by the combination of a ‘two-party
system’ and persistent ‘welfarism’, which, as a consequence, perpetuated sharp divisions among
villagers according to their party affiliation. In recent years, however, the significance of political
patronage in village life seems to be diminishing, while we can see political apathy spreading.
Such changes may be partly explained as an outcome of transitions in state economic policy, from
state-led welfarism to neoliberalism. However, comprehending the ‘meaning’ of changes on the
part of the villagers is necessary if we are to fully understand the phenomena in question.
By referring to Nalani Hennayake’s discussion on the ‘indigenous vision’ of Sri Lankan politics
[Hennayake 2006], and by complementing her view with the argument on ‘political habitus’, this
paper attempts to come up with a framework to interpret the recent changes in Sri Lanka within
the internal context of its ‘cultural politics.’
要旨
本稿は、スリランカの民主主義のひとつの具現の「かたち」である村の政党政治の在り方と変
化を記述し、その変化を捉えるためのフレームをめぐる議論を行う。スリランカの民主主義を特
色づけてきた二大政党制と福祉国家主義は、村レベルに支持政党ごとの党派的分断を引き起こし
てきた。だが近年、村の政治状況には強い分断からある種の政治離れへと向かう傾向がみられる。
中央州のシンハラ村を事例に、先行する民族誌との対比によってこの変化を記述する。近年にみ
られる変化は 1977 年以降の開放経済路線への転換に伴う経済状況の変化との強い整合性を想起
させるが、変化を的確に捉えるには「村人の目からみた政治」の内在的理解が不可欠となる。後
* 関西学院大学先端社会研究所 専任研究員(文化人類学、スリランカ研究)
・2013、
『つながりのジャーティヤ』、法藏館。
・2013、杉本良男・高桑史子・鈴木晋介(編著)
『スリランカを知るための 58 章』
、明石書店。
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半ではナーラニ・ヘンナーヤカによるスリランカ政治における「固有のヴィジョン」の議論を敷
衍し、村レベルの「固有の政治実践」の領域を浮かび上がらせることで、変化を捉えていくため
の内在的文脈を提示する。
1. はじめに
スリランカの民主主義 1) を特色づけてきたものに、二大政党制と福祉国家主義(welfarism)が
ある。
「統一国民党」(United National Party: UNP)と「スリランカ自由党」(Sri Lanka Freedom
Party: SLFP)という二大政党による政権交代の図式は 1950 年代に始まり今日にまで至っているが、
この過程で両党が共に注力してきたのが、食糧給付や教育・医療の無償化をはじめとする社会福祉
政策だった。
二大政党制と福祉国家主義、この二つが結びついたとき、スリランカ政治の末端の村々にひと
つの副産物がもたらされたこともまたよく知られている。福祉国家主義の構成する「資源の与え手
(=国家)」と「受け手(=国民)」の構図が、パトロネージ的政治実践を介して、支持政党ごとの党
派的分断を村落社会に引き起こしてきたのである。マルグリット・ロビンソンやジョナサン・スペ
ンサーの民族誌には、政党政治が村を二分する強い分断状況が書き記されている[Robinson 1975;
Spencer 1990]。
だが近年、こうした村の政治状況には微細な変化が生じ始めている。その変化を一言でいえば、
「強い分断状況」から、政党政治そのものに対する距離感の醸成、ある種の「政治離れ」へと向かう
流れが垣間見えるのである。
本稿は、スリランカの村落社会における政党政治の在り方と近年における変化をめぐる記述と考
察を行うものである。前半では、政党政治が村の分断を引き起こしてきた経緯を概括した後、中央
州キャンディ県のシンハラ村を事例に近年の村の政治状況の変化を記述する。後半では、この変化
を捉えるためのフレームをめぐって考察を行う。村の政治の変化は、それを取り巻く経済状況の変
化との対応関係によってある程度説明可能にみえる。しかし、それだけでは事態の一面的な把握に
留まってしまうことになる。本稿では、ナーラニ・ヘンナーヤカの指摘するスリランカ政治の「固
有のヴィジョン」[Hennayake 2006]の議論を敷衍し、村の政治をいわば内在的に理解するための
フレームを議論したい。
なお三輪博樹も指摘する通り、諸ファクターが複雑に絡み合って展開するスリランカの民主主義
に対する一般的関心は、隣国インドに比して必ずしも高いものとはいえない[三輪 2007: 30]。本稿
では、村の政治という、スリランカ民主主義のひとつの具現形態に接近することを通じて、現代ス
リランカの民主主義と社会変動を広範に捉えていくための諸材料と視角を供することができればと
考えている。
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2. シンハラ村落の政治的分断過程
2-1. 二大政党政治と福祉国家主義
スリランカの二大政党 UNP と SLFP は、それぞれ 1946 年、1951 年に結成された。UNP は後の
初代首相 D. S. セーナナーヤカを中心に、また SLFP の方は後の第 4 代首相 S. W. R. D. バンダーラ
ナーヤカを中心に結成されたものだ。一般に UNP は中道右派、SLFP は中道左派および民族主義的
といわれる[cf. 三輪 2007: 34]2)。また同じく一般に、UNP は知識人や富裕層、SLFP は農村部や
労働者層を基盤とすると言及されることもあるが 3)、地方における UNP 支持の拡大(とくに 1980
年代以降)もあり、今日この区分の単純な適用には慎重であるべきだろう。
UNP と SLFP はこれまで幾度にもわたる政権交代を繰り返してきた。第 1 回総選挙が行われた
1947 年(独立前年)から、政権の中心 4) は概ね次の通り変遷している(1978 年からは議院内閣制
、以後、SLFP(1956
から執行大統領制に移行)5)。独立当初は UNP が政権を担い(1947 年~ 56 年)
年~ 65 年)→ UNP(1965 年~ 70 年)→ SLFP(1970 年~ 77 年)→ UNP(1977 年~ 94 年)→
SLFP(1994 年~ 2001 年)と政権は交替した。つづく 2001 年~ 04 年の期間は、大統領(C. バン
ダーラナーヤカ)が SLFP、首相(R. ウィクラマシンハ)が UNP というねじれ状態となり、2004
年の第 13 回総選挙を経て、現在は SLFP 中心の政権運営となっている。
スリランカにおいて福祉国家主義的政策が徹底したのは、とくに 1977 年 UNP 政権誕生まで
の期間であるとされることが少なくない。これについてはすぐ後に言及するが、少なくともこの
間、両党は食糧給付、医療・教育サービスの無償提供、土地なし層への土地分配、農薬や肥料の分
配、公共交通サービスの廉価な提供など多岐に及ぶ社会福祉政策の充実に注力してきたといえる
[Jayasuriya et. al. 1985]。こうした諸政策の財源を成していたのは、イギリス植民地期に国内に飛び
地的に形成されたプランテーション部門であり、同部門に課せられた輸出税と特別税が社会福祉政
策に充当されていた。この福祉国家主義的スタンスは、しかし、1977 年にひとつの転換点を迎えて
いる。独立以降採られてきた閉鎖経済的な輸入代替工業化政策が国内経済の停滞を招き、医療・教
育の充実の成果としての「増加を続ける教育ある若年層人口」を国内労働市場が吸収しきれなくなっ
ていった。またプランテーション部門の生産性の低下も相俟って、社会福祉予算は財政を大きく圧
迫するようになった。1977 年に政権に就いた UNP 政府により、スリランカ経済は輸出志向型の経
済自由化路線へと大きく舵を切った[cf. 絵所 1999; 平島 1989]。
開放経済への転換ならびにその後の内戦激化に伴う軍事費増大を念頭に、ラクシリ・ジャヤスー
リヤは、スリランカ政治の中心的課題が「福祉から軍事へ」(‘welfare to warfare’)と移行したと
論じている[Jayasuriya 2005]。またスリランカ経済全体を「福祉国家主義的モデル」から「ネオ
リベラリズム的成長モデル」への移行と捉える向きもある[cf. Hennayake 2006: 3]。ただし留意
しておきたいのは、1977 年以降のスリランカの経済政策が、必ずしも福祉国家主義的政策の放棄
を意味していたわけではなかったことである。例えば 1978 年に首相に就任した UNP の R. プレマ
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ダーサ(1989‒1993 年の期間は大統領)が、農村開発や地方の住宅整備事業を中心に徹底した福祉
政策を進めたことはよく知られるところであり(1980 年代の UNP の地方支持基盤拡大の一因でも
ある[Moore 1994])、今日でも、
「プレマダーサ・マハッタヤーは貧しい人びとを手助けした」と
いう声を聞くことは少なくない 6)。また 1989 年に貧困削減を目的に始まった参加型開発計画「ジャ
ナサウィヤ・プログラム」
(Janasaviya Program)ならびに SLFP 政権が 1995 年から名称を変えて
継承した「サムルディ・プログラム」(Samurdhi Program)(詳細は[cf. 磯邉 2009; 花田 2003]参
照)についても、人びとの間では「生活補助金の支給プログラム」と受け取られている側面が強い。
1977 年以降の経済自由化路線は、少なくとも一般の人びとの目には福祉国家主義の後退とは映って
こなかったようにみえる。
2-2. 政党政治による村の分断
スリランカの福祉国家主義が二大政党制と結合してもたらした副産物が、政党支持による党派
的な村の分断だった。歴代政府の福祉政策の推進は、人びとの間に「自分たちは資源の受け手」と
いう「福祉依存シンドローム」を醸成する一方、両党は資源やさまざまな利得の分配を支持者獲得
ひいては選挙戦勝利のための強力なツールとして利用していった[Abeyratne 2001: 16; Abeyratne
1998: 90–92]。分配される利得には、支持者に対する希少な肥料の優先的分配から公営企業就職の
斡旋までさまざまなものが用いられた。ミック・ムーアの皮肉な表現を引くなら、
「政治とは、誰が
セイロン交通局に路線バスの車掌として雇用されるかをめぐるもの」
[Moore 1985: 225]と化して
いったのである。単純に図式化すれば、「政府→与党地方議員→村の与党支持者リーダー→村の支持
者」というパトロネージの流れを UNP、SLFP 双方が強固に確立し、これが村の分断を引き起こし
ていったということである[cf. Jayanntha 1992]。
1960 年代にシンハラ村落の調査を行ったロビンソンの民族誌には既に政党政治による村の分断
状況が記されているが[Robinson 1975]、1970 年の第 7 回総選挙で誕生した SLFP 政権下におい
て、分断は一層先鋭化していったとみられる。バリー・モリソンらが共同で行った村落調査報告 7)
[Morrison et al. 1979]を手引きに簡単に辿っておきたい。
モリソンらはとくに 1970 年代 SLFP 政権による村落の組織化の政治的側面を指摘している
[Morrison et al. 1979: 31]。これには村落レベルの政党支持基盤をめぐる若干の前史がある。独立当
初政権を担った UNP の支持基盤は、都市部では英語をあやつり、西洋的なライフスタイルを身に
着けた資本家層だった。UNP はまた農村部にも支持基盤を有しており、それは植民地期以来の村長
(village headman, āracchi)らを中心とする農村部エリート層だった。イギリス植民地政府は、こう
した者たちをそれぞれの地元における主要な地主でありかつカースト・ヒエラルキーの最上位にあ
るゴイガマからリクルートする仕方が一般だった[Morrison et al. 1979: 10–11]。UNP は植民地期
に中央の政治体制と連結していた農村部エリート層(=オーバーラップし合う経済、カースト、政
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鈴木:スリランカにおける村の政党政治とその変化
治の 3 領域の上位者[cf. Gunasekere 1994; 鈴木 2013: 246–247])をそのまま支持基盤として引き
継いだのである。
固定的な支持基盤を有する UNP を向うに回し、シンハラ・オンリー政策を掲げた S. W. R. D. バ
ンダーラナーヤカ率いる野党 SLFP は、1956 年の第 3 回総選挙に予想外の圧勝をおさめた。その際、
村落レベルではシンハラ語を話す学校教師、伝統医療アーユルヴェーダの医師、小商人らが支持拡
大のリーダーシップを取ったといわれる。だが、SLFP の勝利を支えたのはいわば「シンハラ仏教
徒ナショナリズムの熱狂」であり、農村部に確固たる組織的支持基盤が築かれていたわけではなかっ
た。その意味では、農村部で強かったのは UNP の方だったのである[Morrison et al. 1979: 31]。
1965 年に政権を明け渡した SLFP は、1970 年に政権を奪還すると、村落レベルにおける種々の経
済開発組織の設置ならびに関係役職を政府の任命制にするという方法を用いて、農村部の支持基盤
固めに注力した(村長職に関しては、SLFP 政権は 1963 年の段階で任命制の「村落行政役」(Grama
Sēvaka)に置換していた)。これを通じて SLFP は村落レベルの支持基盤の強化に成功し、村落生活
の政治化が一層進展することになった[Morrison et al. 1979: 33–34]。こうした役職任命が先に簡単
に図式化した政党支持のラインに沿ってなされたことはいうまでもない。村落レベルの分断はこの
時期に一段と強固なものとなっていったのである。
ロビンソンや 1982-83 年にシンハラ村落調査を行ったジョナサン・スペンサーの民族誌[Spencer
1990]には、二大政党政治が村を二分する当時の状況が細かく記録されている。だが 2000 年代以降
の筆者のフィールド調査記録と対照すると微細な変化を見出すことができる。以下、近年の村の政
治状況を対比的に描出してみたい。なお本文の事例を現在形で記すが、データは 2000‒2001 年の長
期滞在調査時のものに 2008 年以降の短期調査時のデータを補完する形で用いることをお断りしてお
く。時間の経過は伴うが、村の政治状況をめぐる大きな流れは現在に連なっている。
3. 村の政治状況の変化
3-1. 「強い分断」から「政治離れ」へ
村の政治状況をめぐる全盤的傾向の基調に見出されるのは、政党支持の違いによる村の「強い分
断」からある種の「政治離れ」へと向かう大きな流れである。
「強い分断」状況はこれまでの民族誌
が描き出している。例えばロビンソンは、
「私たちはかつてひとつの者たち(eka minissu)だった。
いまやふたつの連中だ(decay kattiya)」という村人の語り [Robinson 1975: 208–209]8)を記すと
ともに、村で起こる種々のもめごとの性質の変化に言及している。1960 年代前半の彼女の最初の調
査では、もめごとと支持政党の間に直接の連関はなかったが、1967 年の二度目の調査時には、発生
したもめごと件数の 94%が SLFP 支持者と UNP 支持者との間で生じていた[Robinson 1975: 238]。
さらに一歩踏み込んだ表現をしているのは、スペンサーである。村の政党政治は、
「あらゆる種類
の社会的、文化的な対立的衝動が表現され、処理されていくところの文化的アリーナと化していた」
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現代インド研究 第 5 号
という[Spencer 1990: 209]。スペンサーが挙げるのは、ある村人同士の喧嘩沙汰(「お前の水牛が
俺の作物を食った」
「食わない」をめぐる諍い)が、政党支持をめぐる対立として村人に語られてい
く事例などである[Spencer 1990: 242–243]。調査時期を異にする二つの民族誌には、村を二分す
るような強い分断状況が記録されている。2000 年代以降のあるシンハラ村の事例と対比してみたい。
3-2. 調査地 K 村
事例の調査地 K 村は、中央州キャンディ県北西部の丘陵地帯に位置する人口 400 人程のシンハラ
村である。山がちな地形の合間に水田がのぞく、この地域ののどかな農村風景が広がる。ただし見
た目の印象とは異なり、農業(水田耕作および換金作物栽培)で生計を立てている者を含めた実質
的な村内就業者数は 20%にも満たず、村人の多くは主な収入を近隣の被服縫製工場など村外就業に
よって得ている。「村では金を稼げない」というのが、K 村を含め周辺地域住民の一般的な感覚であ
り、最寄りの町へ向かう早朝の路線バスは通勤者でいっぱいになる。経済活動の村からの外部化(村
内経済関係の希薄化)と各世帯の独立性の高さが村の経済の特徴である。
K 村には「ゴイガマ」
、
「ワフンプラヤ」
、「ナワンダンナ」という 3 つのカースト9)が存在してお
り、人口構成比率はそれぞれ 45%、35%、20%である。本稿ではシンハラ村落生活におけるカース
トの在りようについて詳述できないが、概してカースト区別そのものが問題となる機会自体が、結
婚の際のマッチングを除いて相当程度少なくなっている状況がある。カーストを「過去の遺制」と
みる風潮は強く、いわば「最後の砦」としてのカースト・エンドガミーを残し、シンハラ・カースト
制度は全般的な瓦解傾向を示しているようにみえる[cf. Ryan 1993; Yalman 1960; 杉本 1998]。K 村
でも「カーストの区別なんて関係ない」という語りが一般的であり、伝統的職能に基づく分業やカー
スト集団が何らかの利害関心を共有し結束するような場面をみることはできない。経済活動も含め、
各世帯の個別化(ないし断片化)が村落生活の基調的傾向となっている[鈴木 2013: 240–296]。
3-3. K 村の「メンバル・マハッタヤー」
K 村には、SLFP と UNP それぞれの政党活動を熱心に行う中心的な人物がいる。SLFP 側のリー
ダーの A 氏はナワンダンナ・カーストの 70 代男性、副リーダー格の B 氏はワフンプラヤ・カース
トの 40 代女性である。他方、UNP 側のリーダーはゴイガマ・カーストの 50 代女性 C 氏が務め、こ
れをナワンダンナ・カーストの男性 D 氏(20 代)がサポートしている。なお A 氏は、D 氏からみ
て母方の祖父の平行イトコ(類別的な祖父(MFFBS))にあたっている。
SLFP と UNP リーダーたちのカースト横断的連携や、近い親族の A 氏と D 氏がそれぞれ別の政
党を支持していることにみる通り、村の特定のカースト集団と政党支持は一致しておらず、また 3
つのカーストそれぞれ内部に SLFP 派と UNP 派が存在している。スペンサーは、政党支持の違いが
「親族、友人同士そしてカーストの結びつきを分かってきた」と指摘している[Spencer 1990: 80]。
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鈴木:スリランカにおける村の政党政治とその変化
筆者の経験からもこうした状況は特別なものではないように思われる[cf. Jayanntha 1992]。
SLFP 側リーダー、A 氏についてとくに言及しておきたい。彼は村レベルの典型的な政治活動家で
あり、その政治スタイルは次節の議論、村の政治を捉える内在的フレーム考察のための鍵としたい。
小柄で痩身のどこか猛禽類を思わせる風貌をもつ A 氏は、村では「メンバル・マハッタヤー」
(member mahatmayā)と呼ばれていた。メンバル・マハッタヤーとは、村の種々の行政的な要職を
歴任した人物に対する一般的な敬称である。A 氏が政治活動に関わるようになったのは、SLFP 結
党直後の 1952 年に遡り、ホラゴッレにある S. W. R. D. バンダーラナーヤカの邸宅で直々に地区の
取りまとめ役の任命書を受け取った。
「バンダーラナーヤカ・マハッタヤーが私の肩に手をかけ、声
をかけてくださった」
。このことは彼の誇りでもある。
A 氏は、1960 年代、70 年代のシリマウォ・バンダーラナーヤカ(SLFP)政権時より、保健調
査 員(saukkaya parikshaka)、 職 業 調 査 員(weda parikshaka) か ら 村 落 レ ベ ル の 各 種 委 員 会 の
長(農業生産発展委員長(paladāwardena sabhāpati)など)
、村の葬儀に関わる互助的組織の長
(maranādala samitiye sabhāpati)まで 10 を超える役職を務めてきた。K 村では、村の重鎮として
一目置かれる存在となっている。
筆者はこの A 氏の家に寝泊まりさせてもらっていた。日々の雑談のなかで彼はしばしば、
「政治
は村人のために行うものだ」
、「政治とは公(podu)のものだ」と口にしていた。実際、村にささや
かな舗装道路ができ、また電気が開通したのも、1990 年代の SLFP 政権時に彼が地方議員を介して
行った陳情によるものだった。この地方議員に本当に信頼されているのは私だけだというのも A 氏
が折にふれて語る自負の言葉だった。
彼の「村人のため」、
「公のもの」といった言葉に筆者は違和感を覚えることもあった。村の SLFP
支持者に対する諸々の便宜の供与もぴったりと平行していたからだ。ある時「シリマウォの時代に
は週に 2 回はコロンボに通っていた」という A 氏に何をしに行っていたのかと聞くと、村人の職探
しという答えだった。むろん彼の言う「村人」とは村の SLFP 支持者を指していた。1994 年の第 10
回総選挙で SLFP が勝利した後にも、村の支持者の幾人かに国営製油所等の働き口が斡旋され、自
身の息子は 1995 年から始まったサムルディ・プログラムの K 村初代の担当官(samrudi niyāmaka)
に任命されていた。
反対に UNP 支持者を冷遇することは A 氏にとって当然のことだった。2000 年総選挙直前、A 氏
と二人でちょっとした票読み作業をすることがあった。村の選挙人名簿を広げ、筆者が順に尋ねて
いった。
「○○さんは?」「あいつは『青』だ」。「青」とは SLFP のシンボル・カラーのことであり、
UNP は「緑」である。「××さんは?」「『緑』だ」。こうしたやり取りが続く中、名簿がある村人に
さしかかったとき A 氏が言った。
「あいつは今回『緑』に乗り換えると聞いている。今度話に行っ
てみるがね」。にやりと笑った A 氏が続けた。「乗り換えるのは一向に構わんよ。以降、私から何も
手助けを受けることができなくなる。それだけのことだ」。
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村の UNP 支持者の間では、A 氏に対する基本的な敬意の念とは別に、「あの男は『小狡い』
(kapati)
」といった評もあった。筆者自身、「政治は村のため」といった言葉と支持政党による差別
化に矛盾も感じていた。けれども、A 氏にはどこか一貫したところがあった。外出の度ごとに、丁
寧にアイロンがけした白い詰襟の国民服 10)に身をつつみ、険しく生真面目な表情で出かけていく姿
にそれが表れていたように思える。次節の議論であらためて取り上げる。以下、村の政治状況の変
化(と連続性)を 4 点にまとめて記したい。
3-4. 村の政治の変化
(1)政党支持のあいまいな態度
1 点目は村人の政党支持に関する態度である。スペンサーは、村人を支持政党によって同定する
傾向がスリランカ社会では極めて強いと指摘し、慣習のように村人が支持政党で言及される(
「彼は
SLFP の者だ」、「彼らは古い UNP の家族だ」)と記している[Spencer 1990: 211]。K 村でも村人の
支持政党をある程度同定できるのは、先述の「票読み」のエピソードでみた通りだ。だが、大多数
の村人には政党支持を強く表明することを避け、極力あいまいにしようとする態度が顕著にみられ
る。具体的には、「村でひらかれる政治集会には、必ず両方に顔を出す」、「立ち話などで支持政党を
宣言するような真似はしない」といったことに気をつけ、支持政党を強く同定されることを避ける
のである。
こうした態度は、K 村の人びとに限ったものではない。キャンディ市内で魚行商を営む男性の軽
妙な笑い話を引く。彼の得意先に SLFP の有力国会議員の自宅があった。議員の妻は UNP 政治家
の妹で、同党の有力支持者としても知られていた。ある選挙直前のこと、いつものように商いに訪
れると、奥から出てきた議員の妻にどちらに投票するつもりか聞かれたという。行商のおじさんは、
間髪入れず「そりゃあ Madam、『緑』です!あたしゃ、死ぬまで『緑色』!」と答えたというので、
私たちは、もし夫が出てきたら何て言うつもりだったのか問うた。
「そりゃもちろん、
『Sir! とこと
ん『青』です、Sir! 』と答える」という。「じゃあ、両方出てきたら?」「こう答えるに決まってい
るだろう?『どちらが勝っても私たちには素晴らしい 11)!』」
。
(UNP
政党シンボル・カラーを用いたシンハラの俗語表現に、熱烈な SLFP 支持者を「濃い青」
なら「濃い緑」
)と言い表すものがあるが、村ではごく一部の「濃い青」と「濃い緑」を除き、大多
数の村人はいわば「青と緑の、薄い中間色」である(行商のおじさんも「どっちつかず」である)。
こうした村人の態度の一端には次にみる便宜供与の問題が関わっている。
(2)便宜供与あるいは冷遇
政党支持に対する見返りとしての便宜供与(あるいは反対政党支持者の冷遇)の実態はなかなか
把握しづらい面があるが、ただ、村人の多くはこれに過度の期待を抱いていないという実情がある。
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総選挙を 1 ヶ月後にひかえた 2000 年 9 月、村の学校で開催された SLFP の政治集会で印象的な
場面があった。檀上に SLFP 議員らと K 村のリーダーが並び、近隣の村人を合わせ 120 人ほどが集
まった。議員のひとりはいかに SLFP が村の発展に尽力してきたかを雄弁に語った 12)。「誰がこの村
に電気をひいたか?誰が道をつくったか? UNP は何もしてくれない!そこのところをよく覚えてお
いてほしい!」。式次第が一通り済むと、檀上にちょっとした人だかりができた。息子に仕事を斡旋
してほしい、といった陳情の時間だった。だが会場には遠巻きに眺めていた村人も少なからずいた。
ひとりの男性(彼は「薄い青」である)が「どうせ口約束だけなんだからな。意味ないんだよ」と
言って笑った。陳情の場には初めからいわば見せかけの部分がある。議員らは熱心に聞いている風
だが、むろんすべてに応えられるわけではない。村人もそのことはわかっている。
村人一般の側からすれば、冷遇のリスクを避けることの方が相対的に高い関心事といえる。ただ
し、そのリスクも村を二分する程の効果を持つものでもない。村人にとってとくに具体性があった
政府の貧困削減プロジェクト、サムルディ・プログラムの生活補助金を例にとろう。このプログラ
ムには、所得水準と世帯人数に応じて月々の生活補助金が支給される仕組みがあり、その政治的利
用についてはこれまでも言及されてきた。例えば中村尚司は、受給者の基準は建て前に過ぎず、選
定は村の「担当官の裁量」次第とふれている[中村 2005: 163]。磯邉厚子も担当官任命や受給者選
定が支持政党によって決まるという問題に言及している[磯邉 2009: 28]。K 村の場合も、担当官は
SLFP の副リーダー格 B 氏の兄の娘で、本人も SLFP 支持の 20 代女性が抜擢されていた。この女性
に受給者名簿を見せてもらうと、明らかに受給基準を上回る村人の名前も含まれており、
「裁量次第」
ということも窺えた。ただ、名簿には SLFP 支持者と同じように UNP 支持者も多く含まれていた。
これは合点の行く話であろう。サムルディ・プログラムを政党支持拡大に活かそうとすれば、自ず
とより多くの村人にばらまくことになる。UNP 支持者も当然取り込んでいかねばならない。逆に
UNP 支持者の冷遇に用いるなら、受給者名簿からの削除という手立てはある。だが、対象者が「濃
い緑」で、よほどのことがなければ、これが行使されることはない 13)。村人の大半が「薄い中間色」
であるから繋ぎ止める意味でも行使しづらい。
便宜供与はさほど期待をかけられるものではなく、まずは何らかの冷遇のリスクを避けようとす
る計算が働く。政党支持をあいまいにすることでそれは果たされる。ここに村人のあいまいな態度
のひとつの理由がある。加えて、便宜供与にせよ冷遇にせよ、村を二分するほどの効果を発揮する
ものとなり得ていない。ロビンソンらの記述した時代、それは若き日の A 氏がコロンボに通い、便
宜供与と冷遇といういわば二つのツールで村の政党政治をリードした頃でもあるが、その時代とは
ツールの威力に変質がみられる。
(3)もめごとと暴力
スペンサーらが指摘したような、村の種々のもめごとが政党支持をめぐる対立によって表現され
135
現代インド研究 第 5 号
るという事態を K 村でみることはなかった。村のもめごとは枚挙に暇がないが、異カースト同士の
ある若者の恋愛沙汰の発覚がここでは典型的な事例になる。というのも、一方は村で比較的「濃い
緑」で知られるナワンダンナ・カーストの青年であり、他方はワフンプラヤ・カーストで先ほどの
サムルディ担当官の妹だったからである。双方の親は激怒し、村はこの話題で持ち切りになった。
だが、それが政党対立の文脈に回収されることはなかった。SLFP の副リーダー B 氏(つまり当事
者少女の父の妹)ら、少女側の近い親族とこの話題をおしゃべりするうち、ふと「相手は『緑』だ
からねえ」と水を向けた。だが、B 氏は「そりゃ別の問題よ」と吹き出して言下に否定した。この
恋愛沙汰を政治と結びつけて語る村人もいなかった。
政党政治が危うい分断の空気を作りだすのは、基本的に選挙期間中だけであり、
「政治でもめるの
は選挙のときだけ」という村人の共通認識がある。投票日が近づくと、ほとんどの家屋は午後 6 時
過ぎには戸締りをするようになる。暗くなると村の「濃い色」の若者が近隣の村の若者らとつるん
で選挙ポスター剥がしを行うため、無用なトラブルに巻き込まれるのを避けるためだ。滞在中実施
された総選挙の投票日には、K 村でも事件が起きた。投票所となった村の学校に、SLFP のある若
手地方議員が不正投票目的で 50 名以上の取り巻きとともに乗り込み、阻止しようとした村の UNP
リーダーたちとの間で乱闘騒ぎに発展したのである。K 村の D 氏らはしたたかに打ち据えられて遁
走した。村には乱闘に打って出るほどの「濃い色」の者はごく少数であり、多勢に無勢であった。
ちなみに、この議員はひきつづき近隣の村で同様の行為に出たところを現行犯逮捕され、キャンディ
刑務所に収監された。
スリランカの選挙にまつわる暴力に関して、荒井悦代は選挙後の暴力行為は以前から存在してい
たものの、選挙中の暴力が常態化したのは 1990 年代以降と言及している[荒井 2003a]14)。選挙後
の暴力とは、敗者側への見せしめ的な行為が中心であり、K 村でも 1977 年総選挙の UNP 勝利の際
には A 氏の家が、1994 年の SLFP 勝利の際には C 氏の家がそれぞれ破壊されるという事件が起き
た。ただし、選挙にまつわる暴力は幾分影をひそめつつあるという印象を筆者は持っている15)。少
なくとも K 村では見せしめ的な家屋の破壊は 94 年を最後に起きておらず、大きな暴力沙汰も上述
の投票所の事件を最後に発生していない。
(4)議員と村のリーダーの絆
村人の大半が「薄い中間色」を決め込むのと対比すれば、村の支持者リーダーたちには地方議員
との絆を保ち続けようという姿勢が強くみられる。上述の投票所の事件で逮捕された SLFP 議員の
慰問のために、A 氏は足しげくキャンディ刑務所に通った。スリランカではこうした逮捕によって
政治生命が絶たれることは少なく、支持者さえいれば出所後すぐに政治活動を再開できる。議員の
苦境は村の支持者リーダーたちにとって信頼(viswāsaya)を深める重要な局面である。こうした慰
問とその後期待されるお返しが、どちらが先かわからぬほど連鎖した末に獲得される信頼は強度を
136
鈴木:スリランカにおける村の政党政治とその変化
もつ。A 氏はこんな風に村の政治を続けてきたのかもしれない。少なくとも村のリーダーたちと議
員との結びつきの強さは旧来通りと考えられる。
まとめておきたい。K 村の政党政治をめぐる現況は、1960 年代、1980 年代初頭の報告と対照す
るとき、つぎのような変化として表れている。第 1 に、村を二分するような明確な政党支持の態度
が希薄となり、一部のリーダーたちを除いて政党支持に関するあいまいな態度が際立つようになっ
ている。第 2 に、村レベルにおける便宜供与を介した政党政治の実効性に陰りがみられる。第 3 に、
日常の諸問題が政党支持をめぐる対立に置換されることがなく、対立的な空気が生じるのも選挙期
間中に限定されている。村の政治の微細な局面をつないでいけば、政党政治による村の「強い分断」
から「政治そのものとの距離感」の醸成へと向かう大きな流れが浮かんでくるのである。
こうした村の政治状況の変化は、ミクロレベルの比較研究によって広範に検証していく作業が必要
である。また予測される影響についても検討の余地がある。たとえば K 村を含むキャンディ県の G
選挙区(有権者数約 5 万人)では、直近の第 14 回総選挙(2010 年)において投票率が初めて 60%を
下回った(59.7%)。90 年代の第 10 回総選挙では 80.6%、前回の 2004 年の第 13 回総選挙でも 73.6%
を記録していたのである。キャンディ県全体でも 2004 年 76.5%、2010 年 63.6%と低下している16)。
これらの検討は、今後の課題としてひらいておきたい。本稿では、今後の検討の前提ないし準備と
しての、変化を捉えるためのフレームそのものについて議論したい。
4. 考察―変化を捉えるフレーム
4-1. 経済状況の変化との対応
村の政治状況の変化を捉える有力なひとつの仕方は、経済状況の変化との対応で説明することで
ある。スリランカでは 1977 年 UNP 政権誕生以降、開放経済路線に移行した。1983 年からの内戦の
影響も勘案する必要もあり簡単な議論ではないことは承知しているが、少なくともそれ以前の経済
停滞期との比較でみれば経済状況は大きく変化している。1970、80 年代に 15%前後で推移していた
失業率は、90 年代に漸次低下傾向を辿り、2000 年代を一桁で推移した後 2012 年時点で 3.9%にまで
低下している 17)。また 1990 年代以降には中東諸国への出稼ぎ者も増加の一途にあり、2012 年に海
外出稼ぎのために出国した者はおよそ 28 万人に及ぶ[cf. 鹿毛 2014]。端的に言えば、賃金稼得機
会の増大が旧来の政治的パトロネージの意義の相対的低下を引き起こし、それが村の政治状況全般
の変化をもたらしているのではないか。大きくみれば、福祉国家主義的モデルからネオリベラリズ
ム的成長モデルのへ移行に連動した現象が、村の政治シーンに現出しているのではないか。こうし
た説明は村の状況をかなりの程度よく捉えるものと見込まれ、本稿の筆者もこの方向での整理を考
えないわけではない。とはいえ、これだけでは事態の一面的な把握に留まってしまうことになる。
ナーラニ・ヘンナーヤカの指摘に着目したい。
ヘンナーヤカは、スリランカの開発政策に関する説明、それこそ「福祉国家主義的モデルからネ
137
現代インド研究 第 5 号
オリベラリズム的成長モデルへの移行」といったラベリングに不満を表明している。こうした説明
が看過してきた事実として彼女が指摘するのは、経済構造の変化と国家の開発言説との間にみられ
る不一致である。その主張を要約すれば次のようになる。経済自由化以降も、国家の開発の言語は、
「世界経済へのアジャストメント(普遍的 / 経済学的言説)」から、
「黄金の過去の再現(特殊的 / 文
化的言説)」を掲げた「固有(indigenous)18)の開発ヴィジョン」まで、幅を有してきた。この固有
のヴィジョンが、政治エリートと地方のシンハラ村民を結びつけ、その具現化という物語が、国家
と村人たちとのコラボレーションによって紡がれ続けてきた。つまり、国内における諸政策の文脈
に内在する視点を採るとき、上述のような説明の仕方とは異なる理解の仕方があり得るということ
である[Hennayake 2006: 1–22]。
ヘンナーヤカの指摘を受けるなら、村の政治状況の変化もまた別様に捉えられねばならない。
「村
人の目からみえる政治」19)が問題となってくる。彼女の議論のフレームに目を向けてみたい。ただ
しそこには欠けているものがある。それを補うことで変化を内在的に理解するためのフレームを示
してみたい。
4-2. 「固有のヴィジョン」
ヘンナーヤカが着目する経済構造の変化と国家の開発言説との不一致は、独立以降のスリランカ
国家が遂行してきた二重のタスクを反映している。国家は近代的西洋型開発を引き受ける一方で、
国民の支持を取り付け、ヘゲモニーを維持するために国内向けの「固有のヴィジョン」を再生産し
続けてきた 20)。
この固有のヴィジョンは独立以降の支配階層の手になる新たな創作だったわけではなく、ヘンナー
ヤカは、それが 19 世紀後半の仏教復興運動と連動したシンハラ仏教ナショナリズムの昂揚のなかか
ら生成してきたものであり、シンハラ村民たちに浸透し共有されてきたものだったと指摘している
[Hennayake 2006: 19, 63–66; cf. Gombrich and Obeyesekere 1988]。
固有のヴィジョンの言説的編成は、相互に絡み合う三つの基盤を有する。第 1 にシンハラ仏教徒
イデオロギー、第 2 に「黄金の過去」
、第 3 に仏教思想である。第 1 のものは、シンハラ仏教徒こそ
島の主とする政治信条であり、その歴史的論拠は『大王統史』
(Mahāvamsa)に遡及されるととも
に、翻って独立以降の政治の在り方を規定する諸点、例えば、
「支配者は仏教徒、あるいは仏教を保
護する者でなければならない」
、「農民を経済的に保護し支援することが国家の義務である」が導か
れる。第 2 の黄金の過去とは、国家政策が目指すべき未来のモデルである。その物質的論拠は高度
な灌漑技術で繁栄した古代都市遺跡群に求められる。社会の基礎は自己充足的、持続的な農村であっ
たとされ、村は「平等」や「調和」といった語彙で表象される。この村の平等性や調和をもたらし
ていた精神的な礎が、第 3 の仏教思想とされる。とくに布施(dāna)の精神と実践が、調和の礎に
据えられ、現代の文脈においては再分配政策へと翻案される。約言すれば、固有のヴィジョンとは、
138
鈴木:スリランカにおける村の政党政治とその変化
シンハラの手による、仏教思想に根差した、黄金の過去の再生である[Hennayake 2006: 47–59]。
こうしたヴィジョンは、1960 年代に創始するマハヴェリ河開発事業、本文でもふれたプレマダー
サ大統領による農村開発プロジェクト、さらに 2005 年の M. ラージャパクサ大統領のマニフェス
ト「マヒンダ・チンタナ:新しいスリランカのヴィジョン」
(Mahinda Chintana)の下地に至るま
で、繰り返し掲げられ、語られてきたものである[cf. Tennekoon 1988; Wickramasinghe 2009; 鈴
。ヘンナーヤカは、国家がこのヴィジョンを掲げることの戦略的重要性をよく認識してき
木 2000]
たと指摘し、ヴィジョンが村人の生活に深く根ざしたものであるがゆえに、つまり、村人の文化
的 / 宗教的背景の存在こそスリランカの福祉国家主義的態度を裏書きしてきたのだと論じている
[Hennayaka 2006: 59]。
固有のヴィジョンの言説的編成内部、およびその具現化としての諸政策との関係は複雑に絡まり
合っているが、彼女の議論の本筋自体はシンプルである。すなわち、開発の諸政策は固有のヴィジョ
ンの裏付けを伴い、固有のヴィジョンは人びとの生活に根差している。開発諸政策は、国家と村人
とのいわば共同の物語として生きられてきたのだ、ということになる。ヘンナーヤカはエドマンド・
リーチ[Leach 1961]の古典を引きながら述べている。「黄金の過去の理想化されたイメージは、多
くのシンハラ人に生きられるリアリティである」[Hennayake 2006: 52]。
ヘンナーヤカの指摘する、固有のヴィジョンに依拠した政治経済モデルが独立後の国家政策を内
在的によく説明する、と述べてしまえば循環論法に陥るが、少なくともこれ抜きにスリランカの政
治や経済を捉えることはできないという彼女の議論の主意はよく理解できるものだ。しかし、その
議論のフレームには欠けているものがあるようにみえる。素朴な疑問が、それを指し示す。固有の
ヴィジョンが生活に根差しているという割には、村の政治はずいぶんと生活を分断してきたではな
いか。村を二分するような政党政治は、
「調和」とも「平等」ともおよそかけ離れたものだったので
はないか。
この矛盾を、前節でふれた K 村のメンバル・マハッタヤーが体現している。彼が外出時に必ず
纏った「白い国民服」には象徴的な意味がある。スリランカにおける白色のシンボリズムの検討の
中で、早川恵理子はこの国民服を「シンハラ仏教徒を体現する重要なアイコン」と表現している[早
川 2010: 153]
。同時に、この白い国民服には「政治家の正装」といったニュアンスがある(現大統
領はこれに赤い肩掛けがトレードマークである)
。すなわち白い国民服は固有のヴィジョンの衣装に
おける表現形態といってよい。彼自身、敬虔な優婆塞(upāsaka)だったメンバル・マハッタヤーは
この衣装に身を包み、
「政治は村人のため」と語りながら、とても平等とは思えない便宜供与的な政
治実践を当然のように行ってきた。だが筆者は、どこか一貫した印象を受けていた。おそらくここ
に矛盾はないのである。同様に、ヘンナーヤカの議論も村の政党政治の実態と矛盾しない。という
のも、言説的に編成された固有のヴィジョンとは別にもうひとつ、実践的に形成された「固有の政
治実践」のハビトゥスが、固有のヴィジョンと村の政治の実態との間に介在している。それが、ヘ
139
現代インド研究 第 5 号
ンナーヤカの議論では隠れた形で、言説体系としての固有のヴィジョンと村の政治とを接続してい
ると考えられるからである。これを彼女の議論に補いたい。
4-3. 「固有の政治実践」
固有の政治実践を浮かび上がらせる手がかりは、本文でも参照したモリソンらの調査報告書とこ
れにコメントを寄せたジェームズ・ブロウ[Brow 1981]とのやり取りのなかに直接表れている。
モリソンらの調査の主眼は独立期から 1977 年までの間に起きた村落社会の変化を記録すること
だった。変化を語るためには基準点を設定しなくてはならない。黄金の過去のイデオロギー性に自
覚的な彼らは、まず先行する 1950 年代のある調査報告 21)から次の一節を引き込み、彼らの「伝統
的村落」モデルの中核に据えている。
往古のセイロンにおける地方経済の基盤は稲作だった。社会的なもろもろの信念、慣習、制度
は稲作システムに密接に統合されたものだった[Morrison et al. 1979: 3, 15]。
この一節を掲げた上で、モリソンたちは彼らの「伝統的」の語の指示する時代レンジを、植民地支
配終了前後の時期、とくに島人口が爆発的増加をはじめる 1940 年代後半より以前の時期と設定し
[Morrison et al. 1979: 15]、「伝統的村落」像を次のように記している。
(伝統的な稲作中心の村は)必ずしも平等主義的で調和のとれた、あるいは貧困や搾取から自由
な村だったわけではない。実際そんなことは稀だったろう。だとしても、それは確かにある種
のコミュニティを形成していた。そこには共有された利害関心があり、相当程度の相互依存関
係があり、ほぼ全ての者が、何らかの生計の手段を得ていた。
(…中略…)それぞれが何らかの
居場所を持ち、コミュニティの一部であるという感覚を持つことができていた[Morrison et al.
1979: 16–17, 丸括弧内筆者 ]
この描写は、カースト間分業と、とりわけ土地保有、地主-小作関係(派生する社会的地位)
、共
同労働慣行といった稲作にかかる経済的基盤と実践の諸観察に下支えされたものだ[Morrison et al.
1979: 16]。先述のヘンナーヤカは、固有のヴィジョンが生活に根差した論拠のひとつとして、こ
のうちの共同労働慣行の一種である互恵的な労働交換(attam)のみ例示しているが[Hennayake
2006: 59](シンハラ農村の労働交換の分析は[足立 1988])、ここでいう村の固有の政治実践のハ
ビトゥスは、むしろ彼女がふれなかったもの、モリソンらが措定する伝統的村落像を構成する生業
的基盤と諸実践に埋め込まれている。それを直接指摘するのはブロウである。モリソンらが、資本
主義の浸透や村落の政治化により旧来の「パトロン-クライアント関係が衰退した」[Morrison et
140
鈴木:スリランカにおける村の政党政治とその変化
al. 1979: 38]とするのに対し、ブロウはミスリーディングだとしてこう指摘している。「(モリソン
らの指摘とは裏腹に)かつて稲作とカースト間分業に結びついていたパトロン―クライアント関係
は、今や政治的パトロネージの装いでその姿をより明瞭に表しているようにみえる」
[Brow 1981:
183, 丸括弧内筆者]。
ブロウの指摘の意味は明瞭だろう。UNP、SLFP 問わず、国家政策が固有のヴィジョンという言
説編成の具現化として展開してきたとすれば、村の政治は固有の政治実践、すなわち「持てる者」
と「持たざる者」との間に結ばれる、
「不平等」を伴った相互依存的な社会実践の変奏として遂行さ
れてきたと考えられるのである[cf. 鈴木 2013: 315]。生業を基盤としたハビトゥスが、二大政党制
に依拠する民主主義の実践的運用の母体を提供してきたと言い換えてもいい。
この固有の政治実践と固有のヴィジョンは矛盾しないものである。両者は過去において接続する、
むしろ一貫して寄り添ってきたとさえいえるかもしれない。モリソンらと同じく黄金の過去のヴィ
ジョンを退けるスペンサーは、国家と農民の関係が物質的-モラル的構造を有し、それが植民地期
以前から現代まで通底していると指摘している[Spencer 1990: 11, 211–212]。物質的資源の与え手
と受け手とが形づくる物質的-モラル的構造(とそれを再生産するハビトゥス)は、固有のヴィジョ
ンの言説編成の描き出す過去に強く書き込まれている。
「国家の経済的役割」
、あるいは「布施の精
神」を想起されたい(蛇足ながら、生活の場の布施の実践に理念的平等は体化されていない。与え
ることができる者が、与えられる分、与えるだけである)。
固有の政治実践と固有のヴィジョンが矛盾しているようにみせているのは、むろん「平等」や「調
和」といったイディオムである(それは如何にも「後から」
、
「外から」この言説編成に繰りこまれ
てきたかのようだ)。白い国民服のメンバル・マハッタヤーに矛盾を感じたのも、同様に、「村人の
ため」あるいは「公」(podu)といった彼の言葉に私たちの馴染み深い「平等」を重ね合わせていた
からに他ならない。メンバル・マハッタヤーのいう「村人」とは抽象的匿名的な村人一般ではなく、
常に具体的な村の「誰某」であり、
「公」とは固有の政治実践が形づくる、同様に具体的な物質的-
「緑」に乗り換えようとす
モラル的ネットワークを意味していたはずである[cf. 鈴木 2013: 291]。
る村人に対する彼の態度は、何ら不自然なものではないのである。
村の政治状況を内在的に理解するためには、ヘンナーヤカの提示した固有のヴィジョンと、対に
なる固有の政治実践とを合わせたフレームが必要となる。それが、
「村人の目からみた政治」の総体
に接近する手立てとなる。ヘンナーヤカの固有のヴィジョンに、本稿の固有の政治実践を補完した
フレームで村の政治を振り返るとき、かつてロビンソンらが記した村の強い分断は別様にみえてく
る。本文でも引いたロビンソンの記述、
「村はひとつの者たちだった、いまやふたつの連中だ」とい
う語りは、
「平等」に引きずられた固有のヴィジョンが促す読み 22)では、
「
『平等で調和のとれたひ
とつの村』が政治によって引き裂かれた」となる。だが「固有のヴィジョン-実践」フレームでみ
れば、持てる者と持たざる者とが形づくる物質的-モラル的構造が「ひとつ」から「ふたつ」に分
141
現代インド研究 第 5 号
裂したということになる。語りに表れる「者たち」、「連中」とは、その個別具体的なつながりの相 23)
を示している。UNP と SLFP がそれぞれ構成したパトロネージのライン(それは固有のヴィジョン
から下ってくる)と、それに沿ったひとつひとつの政治実践(村の生活に根差したハビトゥスを母
体に立ち上がる)が、村にふたつのつながりの束を作り上げてきたということである。この意味で、
ロビンソンらが記した村の政治状況は、それ以前との間に連続性を有していたと捉え返すことがで
きる。そして、いまやそれが大きな変化の兆しをみせているのである。
5. おわりに
本文で用いてきた「固有」の語は、不変の孤絶した実体を意味していない。いわば内在的な文脈
を浮かび上がらせるための便宜である。換言すれば、経済状況や予測される投票率の変化の意味を
考える文脈がここにあるということである。本稿で断片的ながら記述した村人の政党支持の態度を
はじめとする村の政治の変化は、固有のヴィジョン―実践が構成する内在的な文脈の大きな変動の
兆しとして浮かんでくる。ここから先は、本稿の材料だけでは十全に議論することはかなわず、そ
れこそ多面的な実証的検討がいま求められている 24)。村の政治をめぐる微細な変化は、現代スリラ
ンカの広範な社会変動を捉えていくための糸口ともなるはずである。
本稿は、スリランカの民主主義の具現形態としての村の政治に接近を試みた。最後に次のことを
付記して終えたい。黄金の過去の表象そのものに平等や調和といった語彙と並んで「民主主義的」
の語が用いられることがある[Morrison et al. 1979: 15]。しかしヘンナーヤカの議論を敷衍した本
稿のフレームで約言すれば、それは持てる者と持たざる者との相互依存的な社会実践という「かた
ち」を有してきたのである。黄金の過去に理念的な民主主義を投影するなら、またしても人びとが
生きるその「かたち」を捉え損ねてしまう。内在的文脈、とくにそのミクロの実践の場に繰り返し
立ち至って変化を検証していく意義は高まっているのである。
註
1) 南アジア諸国間の対比において、スリランカは民主主義的な制度や手続きが比較的安定的に維持されて
きたと指摘されることがある[cf. 近藤 2002; 三輪 2007, 2012]。村の政党政治を扱う本稿の趣意は、ス
リランカの民主主義を、その具現の「かたち」において捉えていくことにある。二大政党による政党政
治は、スリランカにおける民主主義の一つの具現の「かたち」に他ならず、村はそれが生きられる場の
一つである。シンハラ語で「民主主義」を ‘prajāthanthrawādaya’ というが、この語が村の日常会話で用
いられるのが稀であるのに対し、「政治」を意味する ‘dēsapālanaya’ の語は頻繁に用いられ、村人が生
きる政党政治を直接指示する。すなわち村の政党政治への着目は、民主主義の生きられるかたちへの着
目となる。なお、本研究ノートでは 1971 年の JVP 武力闘争や約四半世紀に及んだ内戦状況などマクロ
の政治状況を直接スコープに入れることがかなわないが、今後の展望のためにアベイラトナ[Abeyratne
2001]の議論にふれておきたい。アベイラトナは、内戦と JVP 闘争とを、本稿で取り上げる福祉デモ
クラシー(‘welfare democracy’)が生んだ「双子の政治的コンフリクト」
(‘twin political conflict’)として
位置付けている。すなわち福祉デモクラシーによる高い教育水準達成と経済構造改革の遅れとのギャッ
プが、主流社会からの疎外感を強める若者層による二つの暴力の噴出の土壌を成したという議論である
142
鈴木:スリランカにおける村の政党政治とその変化
[Abeyratne 2001: 22–23]。この議論を受けるとすれば、本稿で詳述する村レベルの分断・対立をこれと同
根とした「三つ子のコンフリクト」とみる理路が浮上する。この展望は経済還元論ではなく、この三つ
組の同時代的構図(主に 1970 年代)を仮設した上で、シンハラ仏教ナショナリズム、タミル・イーラム
分離独立イデオロギー、そしてマルクス主義的イデオロギーの相互の布置(その「受け皿」としての政
党間関係、村落レベルへのイデオロギーの浸透と「村の政治実践」に対する影響等)を探求する余地が
あるということである(地理的対象を広範に設定した比較研究が不可欠となろう)。本稿より展開する大
きな課題として記しておきたい。
2) ただし筆者の感覚でいえば、ごくふつうの村人たちが両党の政治思想の違いを明瞭に意識しているよう
にはなかなかみえない。本文の事例でもふれる通り、村の政治集会の主題も「党がいかに村を手助けし
たか」である。
3) 例えば日本の外務省ホームページにはこうした区分の記載をみることができる(参照 URL <http://www.
mofa.go.jp/mofaj/area/srilanka/kankei.html>)。UNP の農村政党化についてムーアは、おそらく 1970 年代初
頭、第 1 回大統領選挙の 1982 年以降は確実に進行したと分析している[Moore 1994: 4]。
4) 少数政党との連立(ないし連合政党としての選挙戦)が一般的だが、ここでは「政権の中心」という
意味で大枠の変遷を記した。なお第 10 回、11 回総選挙では SLFP は連合政党の「人民連合」(People’s
Alliance: PA)として、また第 13、14 回総選挙では同じく「人民自由連合」
(United People’s Freedom
Alliance: UPFA)として第一党の座を獲得、第 12 回総選挙では UNP が連合政党「統一国民戦線」(United
National Front: UNF)として第一党の座に就いている。各選挙の詳細については、スリランカ政府の
Department of Elections ホームページを参照されたい(参照 URL <http://www.slelections.gov.lk/index.html>)。
5) スリランカの選挙制度および議会の仕組みは、2 度にわたる新憲法の制定(1972 年、78 年)と数次にわ
たる憲法改正を受けて形を変えてきた。議会は当初の二院制から 1972 年に一院制に移行して今日に至
る。選挙制度は 1978 年に小選挙区制から比例代表制に移行した。同じ 1978 年には議院内閣制から執行
大統領制に移行し、現在では議会選挙と大統領選挙が政治的重要性を持っている。詳細は三輪の整理を
参照されたい[三輪 2007, 2010, 2012]。
6) UNP 支持者であれば専ら敬愛のまなざしでこれを語るものである。SLFP 支持者もこのことを否定する
者は少ないように思える。ただしこれをネガティブに表現することもある。
「彼は汚職にまみれた」と。
つまり便宜供与的な、いわば「バラマキの政治家」として認識されていることには違いなく、社会福祉
政策を削減したとは捉えられていない。
7) 調査地はキャンディ高地地方、中央北部ドライゾーンのシンハラ入植地、南西部ウェットゾーンの低地、
ジャフナのタミル・コミュニティから 6 村が選抜されている。
8) 不恰好な日本語で訳出したが、ここでは ‘minissu’ と ‘kattiya’ の使い分けは顧慮する必要はない。ポイン
トは「ひとつ」と「ふたつ」の意味である。この語りは本稿の最後にあらためて取り上げる
9) ゴイガマは「農民カースト」
、ワフンプラヤ、ナワンダンナはそれぞれ「椰子蜜つくり」、「鍛冶工」カー
ストである。
10)「白い国民服」には「敬虔な仏教徒」ならびに「政治家の正装」という象徴的意味がある。本文次節で言
及する。
11) 芝居がかった身振りでひとしきり笑わせてくれた行商のおじさんは、つづく私たちの最後の質問に絶妙
なオチをつけた。
「選挙の後、どっちに投票したか二人に聞かれたらどうするの?」
「そしたら、こう言
うのさ。
『いやぁ実は選挙カードが届かなかったんですよ、まったく困ったものです!』ってね」
。蔓延
する不正選挙(投票のための選挙カードの収奪は日常茶飯事だった。本文でふれる地方議員の不正投票
もこうして収奪した投票用紙を大量に投じるものである)を軽く皮肉る趣向だった。
12) こうした政治集会のパフォーマンスをスペンサーは、国家による祝福を個人化し、
「私たち=政治家」
を「あなたたち=資源の受領者」との間の有力なチャネルに仕立てていくものと指摘している[Spencer
1990: 217]。
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現代インド研究 第 5 号
13) 2000 年総選挙で SLFP が勝利した直後、担当官の女性は、UNP リーダーの C 氏ともうひとり支持者を名
簿から外すつもりだと話していた。「選挙で大騒ぎしたんだから、当たり前よねえ」と屈託なく笑ってい
た。反対政党支持者に対する確信犯的見せしめだったが、削除には表向きの理由も必要ということで、
彼女が考え出したのはこの二人の「シュラマダーナ」(shramadāna)(無償の労働奉仕活動。受給者は村
の草刈りといった共同労働に参加する義務がある)への参加率の低さだった。
14) 荒井は背景に 1980 年代後半の JVP 武力闘争の影響を指摘している[荒井 2003a, 2003b]。
15) キャンディ市内の聞き取りでも、暴力沙汰の発生が昔ほどではないという印象をもつ人びとは少なくない。
統計数値が手元にないため推測は控えるが、村落レベルの政治状況の変化との連関は検討の余地があろう。
16) 参照 URL <http://www.slelections.gov.lk/pastElection4.html>。
17) Department of Census and Statistics, Sri Lanka(参照 URL <http://www.statistics.gov.lk/>)。ただし荒井は若年
層(15‒24 歳)の失業率が依然 15%を超えていることに注意を促している。筆者も必ずしもスリランカ
経済が順風満帆というつもりはない[cf. 荒井 2014]。
18)「固有」の語は荒井の訳に従った[荒井 2008]。本文でも記す通り、ヘンナーヤカは「固有のヴィジョン」
がシンハラ仏教ナショナリズムの昂揚の中から生起してきたことを指摘する。この点に深く関連する課
題を二つ記しておきたい。第一に、ヴィジョンの成形過程を歴史的展開において把捉すること(例えば、
1956 年「仏陀入滅 2500 年祭」や 1971 年「JVP 闘争」、1983 年~ 2009 年「内戦」といった史的出来事の
文脈の中でそれを捉え直すこと)、第二にこうした出来事の村落生活への影響の一つとして同ヴィジョン
の浸透プロセスを辿ることである。約言すればナショナリズムの大衆的興隆の史的展開のなかに、村落
レベルへのヴィジョンの浸透を捉え直すことであり、今後精査されるべき課題となる。
19) スペンサーの民族誌から部分的に引いた[Spencer 1990: 209]。なお引用箇所(「村人」は原文では
‘peasant’ だが文意に変わりはないため「村人」と訳した)は、
「都市部の政治学者のトップダウン的視線」
との対比で記されている。
20) 荒井がヘンナーヤカの著書に対する書評のなかでふれているように、具体的には IMF や世界銀行の財政
赤字削減要求に一方で応えながら、国民に対して福祉政策を提示しつづける(こちらが本文でみる「固
有の開発ヴィジョン」が反映している)という矛盾がこの幅に表れている[cf. 荒井 2008]。
21) N. K. サルカールと S. J. タンバイヤーによる 1957 年の村落社会調査報告書(The Disintegrating Village,
Part I )である。
22) ちなみにスペンサーは、ロビンソンが調和的な黄金の過去という読みに引きずられているとみている
[Spencer 1990: 11]。
23) 鈴木はスリランカの「ジャーティヤ」を題材に集団を「括りの相」と「つながりの相」で捉える分析を
広範に展開している[鈴木 2013: 27–28, 332]。この箇所の本稿の議論もそれを敷衍している。固有のヴィ
ジョンに紛れ込んだ「平等」は近代の主的同一性の論理(括りの論理)が転倒して古代に投影されたも
のと捉えられる[cf. 鈴木 2013: 355–356, 368]。
24) 南アジア他地域との比較研究のためにも必要なことである。田辺明生のオリッサ地域社会を舞台とした論
考とは、派閥政治からの転換の流れに部分的に平行するものもあり[cf. 田辺 2010: 460–463]、得られる
インスピレーションは大きい。スリランカの民主主義の現在をめぐるボリュームある論考が必要である。
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