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第2回:モリタ製作所の誕生と初期の歩み
森田晴夫
(株式会社モリタ代表取締役社長)
ネーションユニットで外国製品に遜色のない製品を
本格的国産ユニット第1号を製作
一式980円*₂で売り出し,驚かれたそうです.
森田歯科商店が歯科器械製造工場を開設するきっ
優秀な国産品を次々と製作
かけは,1921(大正10)年に始まります.当時取り
扱っていた東京の製作会社の国産治療台(治療用昇
1930(昭和
降イス)は,故障するたびにメーカーから時間をか
東京医科歯科大学)教授の長尾 優先生*₃が創案し
けて出張修理にきており,不便に感じた京都店では
た歯科医学生向け実習用ユニット「ワドント」を製
1921年,自転車の販売と修理を営む知人の店に修理
作.同校に納品の200台は,昭和20年頃までご使用
を依頼し始めます.やがて,先方からの「歯科器械
頂いたそうです.戦前戦後を通じて人気を博した二
の小物製造や修理を専属でやらせてほしい」という
段昇降治療台「シオン
申し出に応え,京都市中京区にあった工場にボール
それら製品の売れ行きの上昇とともに1933(昭和
盤などの工作機械を設置し,専属工場としました.
)年
その後,大型器械製造にも挑むようになり,1927
(昭和
)年には,東京高等歯科医学校(現
号」も同年同工場製です.
月,京都市右京区西院に移転し,本格的に
歯科器械全般の国産化に乗り出します.手始めにリ
)年,リター社のトライデントユニット*₁
ター社最高級品をモデルとした「J. M. ユニット B
をモデルに国産第 号となる「J. M. ユニット A 型」
型」を製造.この製品は,オプションで,患部を照
が完成します.電気エンジンはリター社製,扇風器
らすシャンデリア型の
はウェスティンハウス社製で,木目マホガニー仕上
の後,本体などの基本形はそのままに逐次改良をし
げの本体とその他は森田製という和洋折衷のコンビ
つつ,実に20年間ものロングセラーとなりました.
つのランプを装備でき,そ
附属病院に歯科器械・ユニットを多数納入
ユニット:治療台の横に設置される機器のことで,電気エン
ジンやエアーシリンジなどの治療機器やテーブル,ベースン(う
がい鉢)など治療に必要な機器を一つにまとめたもの.ユニット
が誕生する以前は,それぞれ単体で設置され使われていた.
*₁
新工場稼動に希望を抱くも束の間,1934年
月の
*₂
外国製品ユニット価格:1930(昭和 )年発行の『日本歯科
医籍録』に掲載された広告に2,288円の記述がある.当時,大学卒
初任給が約60円.
室戸台風により,西院の工場は甚大な被害を受けま
長尾 優(まさる)先生:東京高等歯科医学校時代に歯科理
工学講座を新設,歯科材料研究室を設置した.東京医科歯科大学
初代学長,鶴見大学歯学部初代学部長などを歴任.
和10)年
す.必死の努力で業務再開できたのが,翌1935(昭
*₃
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THE NIPPON
Dental Review
月.同年
月,大阪歯科医学専門学校
(現 大阪歯科大学)附属病院が大阪市東区(現 中央
Vol.75 No.5(2015 -5)
昭和18年に完成した伏見工場
所の五千坪の跡地に1943(昭和18)年
J. M. ユニット B 型
シャンデリア付き
月新工場を
完成させ,工作機械部門専門の「株式会社森田製作
所」とし,優秀な技術専門家も迎えフル稼動します.
区)へ移築の際,
「シオン
号」150台,特注実習用
一方で歯科部門を独立させ,従来の西院で乏しい資
ユニット「大歯」120台,スタンド水道スピットン
材と人力ながら「有限会社森田医器製作所」として,
30台などの機器を完納できた時には,携わった全員
歯科器械の製造を続けました.
が,まさに感無量であったと思います.
こうした体制で,終戦の日を迎えます.同日から
月に
伏見も歯科器械製作へと転換すべく,森田二郎(創
月
業者森田純一嫡男・当時社長)
,長谷川俊夫(後に
に朝鮮の京城歯科医学専門学校(現 ソウル大学校
社長)らが奔走.幾多の努力の甲斐あり,準備が整
歯科大学)附属病院,10月に九州歯科医学専門学校
いますが,工作機械技術者にとって歯科器械は未知
(現 九州歯科大学)附属病院へと順調に器械類の納
の世界.綿密な設計の基に製造した治療台は,卓越
明るい兆しが見え始め,1936(昭和11)年
神戸の川崎病院歯科(現 医療法人川崎病院),
月に,大阪帝大歯科(現
した職人の西院製品の足元にも及ばない,という辛
大阪大学歯学部)教授ご一行が工場見学の折,優良
酸をなめる結果となりますが,やがてアルミニウム
品製作のためには,それを製作する機械の設計製作
製鋳物の軽量な“S型ユニット”など,独自発想的
まで徹底し実行していることに感嘆されたそうです.
製品を開発します.そして,1950(昭和25)年,西
入が続きます.また翌年
リター社との交流復活!
院は伏見工場に統合され,
「株式会社森田製作所」と
して再スタートを切ります.
1939(昭和14)年12月,それまでの合資会社から,
熟練の勘と科学的根拠が融合した相乗効果はすぐ
組織変更して株式会社森田製作所となりますが,す
に現れ,当時考えうるあらゆる機能を満たし,かつ
でに日中戦争戦時下にあり,歯科器械製作に必要な
斬新的デザインの“L型ユニット”,戦前からの技
資材入手も困難を極め,かねてから研究していた工
術の蓄積で完成した X 線装置“グリント”と“ポ
作機械,万能フライス盤分野に着手するも軌道には
ニー”は高評を得ます.そして,リター社の G 型ユ
乗れずにいました.ところが1941(昭和16)年太平
ニットをヒントに製造された“レックス”ユニット
洋戦争に突入し,戦線の拡大とともに,軍需製品の
は,リター社に品質を認められ,ついには,1961(昭
生産に追われるメーカーからフライス盤の注文が舞
和36)年,技術提携が実現し,
“リター・モリタ”ユ
い込み,受注増に対応するため,急遽,京都市伏見
ニットの誕生となります.これは森田製作所にとっ
区(現 モリタ製作所本社地)の京都電燈火力発電
て,大きな自信に結びつく出来事でした.
日本歯科評論(通刊第871号)
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