昭和63年ー 0月29日 (土) 発行 十二年ぶりの東西交流が実現し、 一 六

昭和63年10月29日(土)発行
<サロン。あべの>NO.28
助lナ合レ、
ふ才1あレ、
出会し−
サロン・あべの
叱∴ギヤ上もツワゼヽ≠髄一丸牲間㈱鳩蛾’『暖も閲■司k払t雅海
∧サロン・あべの∨九月の出会い
ルオリンピック。この日、昭和﹂ハ三年九月
の国と地域の参加で盛大に開会されたソウ
十二年ぶりの東西交流が実現し、〓ハ○
たので、いきおい少女の秋野さんにその役
おり、十分孫の世話が出来る状態でなかっ
の頃、母親は更年期に入って体調を崩して
の児を実家で面倒を見ることになった。そ
き蔓彗i電急呈蟄き電眉晋
十七日︵土︶に∧サロン・あべの>は、九
目がまわって来た。抱いたり、背負ったり
﹁私の歩いてきた道﹂
月の出会いを育徳コミュニティーセンター
児の重さと、自分の体重が相乗して股間節
者を夫に持つ肢体障尊書の秋野富美子さん
療ミスで、ギプスに巻かれた足は、神経マ
十八才の時、股間節の手術をしたが、医
に負担がかかり悪化した。
で持った。
一年前の九月の例会でも聴音障害者の結
に﹁私の歩いて釆た道﹂と超して話を聞い
ヒを起した。日にちが薬だろうと言われ退
婚について取り上げたが、今日は聴言障害
律氏︶
秋野さんは、十人兄弟の九人目として誕
兄はじめ、まわりの人たちは、両親の元
ら和裁を習い、それを仕事にしていった。
石田
生、元気に過していたが、五才の時先天性
気な内に結婚をと勧め、自分もその気にな
︵司会
股間節脱臼と診断された。しかし、とりた
り、大阪府と市の結婚相談所に申し込み、
た。
院したが、泊らなかった。当時老いた両親
て1不自由を感じなかったし、目立つ程で
お見合いをくりかえした。そして、六回目
と兄夫婦と住んでおり、リハビリをしなが
もないので治療をすることなくそのまま様
のお見合いで主人と出会った。‡人は、耳
が聞えない。足の悪い老同士ならいざとい
子を見ながら成長した。
十五才の時、実兄の都合で五ケ月の実兄
がなく助けてもらえるだろう。たとえ、
聴こえなくても四肢健常な人なら、不自由
う時、子供を抱いて逃げられないが、耳が
んたった。
じ︵意地︶が悪いので⋮﹂と伝わって大へ
先方へ伝えてもらうよう頼んだところ﹁い
当初、主人は紳士服の仕立をし、私はそ
の手伝いをしていたが四級︵主人︶と五級
まわりの人たちが障害があっても、立派に
親とは暮らしていけない。とも思い、また
フーン等使っている物の名前も知らなかっ ようになり生括は少し楽になった。
いた﹂とか言っていた。茶碗やコップ・ス
結婚当初は赤ちゃん言葉で、﹁おなか
す
主人は、相手の口の動きで言葉を読むが
息子は、高校卒菓後専門的勉強が必要と
なっており、共に基礎障享年金をもらえる
障者となり、主人も補聴塞が使用出来なく
もあった。いまは両松葉杖が必要な一級身
︵私︶では年金が付かず生活は苦しいとき
結婚生活を送っているのにはげまされ、刺
た。タバコを吸っていたが灰皿という名詞
自身手に職を持っていても、いつまでも両
激されて、東京オリンピック開催の年昭和
言うことで、現在はリハビリの学校へ行き
その息子が、障害者のことを学んで﹁耳
夜はアルバイトをしている。
も知らなかった。それからは丹念に、根気
言葉や物の名称を殖して
三九年に結婚。
よく一言、二言
いった。﹁たちつてと﹂は言いやすいが
﹁さしすせそ﹂は難しく、発声の時、ロに が聴こえないとうことは、言葉を言えない
主人は、生後一∼ニケ月頃の高熱が原因
で聴こえなくなったが、母親が仕事多忙の
手を当てて練習したりもした。
ないということや。一見アホに見える時あ
ことや。言えないことは、その腱が暗躍し
為、聴言障害者としての教育を充分に受け
られなかった。その為、言葉・単語の量が
笑えぬエピソードは、数えきれないほどあ
術が必要ということになり子供のおしめが
体重がかかって足が前より悪くなった。手
れてもしかたがないのに、よう解ってくれ
﹁なんで自分の両親は、障害者や﹂と言わ
ってくれるようになった。
るけれど、それも障害やと思ったり﹂と言
る。
取れるのを待って入院した。当時は買い物
る息子に成長してくれて嬉しい。
結婚してすぐに妊娠し、身重になった為、
結婚当初﹁いきろ﹂と言いながら、冷蔵
に不便な所に居たが、少しでも楽な方へと
少なく、結婚してからも、言葉にまつわる
庫を捜すが見当らない。秋野さんは、何ん
結婚して来年二月で銀婚式を迎える。こ
その後現在の王子神社近く︵阿倍野区︶
へ
のことか解らずじまいでそのときは終った。
こまでこられたのは、周囲の人に恵まれた
子供︵男子︶が小学六年生の時、悪い足
人と二人して文の里手話グループに入り、
引越して来た。
いきろ﹂とは﹁たくわん﹂だということが
をかばうため良い方の足蓮痛みだし手織が
多くの仲間に出会えたことは幸せだと思う。
後日市場へいっしょに行って、初めて﹁
解った。たくわんの黄色を言っていたのが
必要になった。一年ニケ月入院したが、そ
しを終えられた。
おだやかに今の幸せをかみしめながら話
おかげだと思っている。特に三年前より主
﹁きいろ﹂にならず、﹁いきろ﹂に発音さ
の間息子と主人は苦労しながらもよくやっ
てくれた。
﹁い
れていた。又、あるとき秋野さんは
︵胃︶が悪いので欠席する﹂と、ご主人に
(2)
めでと,サ第
福祉広報紙コンクール
﹁優良賞﹂受賞の報に接して
おおさか・行動する障害者応穣センター
美智子
大阪府社協主催の第十六回福祉広報紙コンクールで、表紙<サロ
に、事務局のお手伝いに来られる石田さん
中
ン・あべの>が優良賞に選ばれ、九月二一日、府立青少年会館文化
が、月一度は、協会の事務局にもあの優し
田
ホールで開かれた﹁昭和六三年度大阪府社会福祉大会﹂で表彰を受
い笑顔を見せて下さる。サロン・あべの紙
歌と蕃のハーモ
しています。
二七号のトピックニュース!
福祉広報
兼ねる様にして、昼食時に貧り読むことに
を届けて下さるのです。その日、私は待ち
けました。今回の優良賞の受賞は昨年につづいて二度目。
なお、同コンクールの﹁入賞紙誌集﹂に掲載された太紙に対する
﹁入賞評﹂はつぎのとおり。
ハワイ﹂、芦NNは﹁与謝野晶子
いつも一面の導入が魅力的なのが特色。芦N−は﹁車イスが
見た韓国
誕生までの生みの苦しみの日から今日まで
傍目ながら、サロン・あべのに関しては、
います。
ニー﹂。いずれもとても楽しく興味深い記事で、歯切れの良い 紙コンクール﹁優良賞﹂連続受賞、やりま
見出しと、余白を生かしたレイアウトが記事をひき立てる。
したね冨田さん。おめでとうございます。
﹁自立﹂や﹁出会い﹂など読者参加記事もイラストとよくマッ 当然、当然とひとり悦に入って陶然として
チして発しい。
ページ止めの編集手法、四だん組みの検討などが課題ではない
か
の、宮田さん達の情熱と、弛まない努力に
敬服し、大いに啓発を受けている老として、
ついでに、ずうずうしくも、皆様方のお膏
ルの優良賞に輝いた。それも、二年連続の
ベの﹂紙が、大阪府の福祉広報紙コンクー
都合で、サロン・あべのには発会式を含
受賓とうかがい、﹁おめでとう﹂の言葉を
びに 便 乗 さ せ て い た だ い て い る の で す 。
めて 二 度 出 席 し た た け の 私 で す が 、 当 紙 の
心からお贈りしたいと思います。
に考え、語り合える、肩のこらないサロン
いろな角度から取り上げ地域の人々と一緒
それと共に生活に密着したテーマをいろ
おか げ で ひ と か ど 、 会 の 活 動 に は 精 通 し て
おり 、 参 加 者 の 気 分 に さ せ て も ら っ て お り
ます 。
障害者の様々な日立の努力に、暮らしの
い情 報 源 と し て の 愛 読 欄 で す 。 岡 さ ん の エ
ティ ア の 需 給 調 整 を し て い る 私 に は 、 有 難
旭さんの手話についての連載は、ボラン
ロン。あべの﹂であり、ええカツコしない
これからも﹁ホンネ﹂で語り合える﹁サ
ことが大変大きなことだと思っています。
の﹂紙の紙面づくりへの努力が評価された
工夫などに、感動したり、参考にしたり⋮。 の雰囲気をそのまま伝える﹁サロン・あべ
ッセ イ か ら は 、 筆 者 の 優 し さ と 温 か き が 伝
でみんなの気持を素直に伝えあうことので
子
わる 思 い で 、 す っ か り フ ァ ン と し て 毎 号 が
雅
きる﹁サロン・あべの﹂紙であることを願
ってやみません。
レベルがちがう
川
紙面に
やさしさ、思いやり、ユーモアが
田 中 好一
このたび、大阪府福祉広報コンクールに
於いて、昨年に続き優良賞を獲得されたこ
とを知り、関係者各位に深甚の敬意を表し
律君とは中学校の同窓
ます。小生は<サロン・あべの>の編集に
携わっている石田
生で、進む道は違いながらも何となく連絡
の途絶えることのなかった親友であります。
彼を親友と云える小生のロから石田君の
ことを誇るのは、どういう訳かむつかしい
のです。健常老の小生も昭和六一年十一月、
急性心筋こうそくで倒れ医師や妻の機転、
医学や薬学の進歩の御恵で三度の手術を乗
り越えることが出来ました。今も小生の心
臓は普通の人の﹂ハ五%しか動いていません。
いや、六五%も動いてくれているのです。
だけど健常者と云えるのかどうか・・・。
ならなかったのです。三年振りの同窓会に
ある様な、会ったことがある様な気がして
気がしました。ズッーと以前に見たことが
た<サロン・あべの∨を見て一瞬不忠誅な
新聞をいつも送ってくださって、ありが
平 なったとお礼の言葉をいただきました。レ
している力に先日見せました。大変勉強に
そんな小生が、ある日石田君の持って来
中
楽し み で す 。
私の心を捉えて離さない、サロン・あべ
龍
とう。楽しく読んでいます。学校の広報を
二
のに 集 る 人 々 や 、 綱 来 者 の 人 間 性 と 、 気 取
りの な い 手 づ く り の 味 を 届 け て 下 さ る 石 田
さん の 笑 顔 を 、 今 月 も 待 ち わ び て い ま す 。
光
評価された﹁サロン・あべの﹂紙
南
ほんとうに、すばらしい新聞です。
毎号毎号、身近な話題と生活にすぐ役立 ベルが違うとびっくりされました。
っ情 報 を 提 供 し て く れ て い る ﹁ サ ロ ン ・ あ
(4)
欠席せざるをえなくなった理由がバザーで
あり、仲間を語る代わりに∧サロン。あべ
の∨を持って来てくれたのだと理解した。
欠席することが患いと、同窓会の幹事長
をしていた小生に会いに会社まで訪ねて来
た彼を嬉しく迎え、梅田まで車で送りまし
た。彼が下車した席に∧サロン・あべの>
を置いてハッと気がつきました。見たこと
があり、会ったことがあるのはあたりまえ
律君が<サロン・あ
です。∧サロン・あべの>そのものが石田
律君であり、石田
べの ∨ で あ っ た の で す り 紙 面 に は や さ し さ
が随 所 に 出 て い て 、 思 い や り が 感 じ ら れ 、
ユーモアーが含まれているのが明るくてい
1。これは石田君だよ全く。本当のところ
障害者とⅤとで活動を盛り上げ会員間の連
絡と交流を進める為、﹁すたこらさん﹂と
は、 石 田 君 と は 呼 ば な い 、 五 〇 を 越 え て も
二年連続
いう機関誌を出しています。だから、月に
優良普†
やっ ば り 律 ち ゃ ん の 方 が い い 。 僕 も ロ ー タ
おおさか・行動する
助け合い﹂の<サロン。あ
機関紙∧サロン・あべの∨が二年連続し
障害者応援センター
一回、発行することの﹁よろこび﹂と﹁し
事務局長 大 友 章 三 んどさ﹂はよくわかるのです。
自分のことのようにうれしい気持でいっ
リー ク ラ ブ で い ま 青 少 年 奉 仕 委 員 長 と し て
頑張 っ て い る 。 連 続 受 質 で 弾 み を つ け て 益
ふれあい
々の御発展を祈念致して居ります。﹁出会
い
べの∨を通じて対話が出来るようになれば て、﹁大阪府福祉広報コンクール﹂で優良 ぱいです。これからもよりよいものをつく
賓を受賞されたことを聞き、心よりお祝い られることをお祈りすると共に楽しみにし
ております。そして、来年は﹁すたこらさ
い1なあと思います 。
とに角、関係者の皆様、読者のみなさん、を申し上げます。
・ます。
ん﹂が受賞できるよう、頑張りたいと思い
私共も<サロン・あべの>と同じように
北大阪の片隅から﹁おめでとうございます.本当におめでとうございました。
﹁がんばってくだ さ い ﹂
(5)
今年の春、ヨーロ ッ パ を 旅 行 す る こ と が
世紀がたつのだが、まだ徹底してこのよう
第二次世界大戦が終わって、そろそろ半
恐いひとびと
できたのだが、ベル ギ ー の ホ テ ル で 見 た テ
な番組が続いていることに驚きを感じたん
広島の原爆の目や終戦の日ほ別として、日
レビ番組のことを思 い 出 し て い る 。
ベルギーは西欧の 中 央 に 位 置 す る た め に
はじまった日に、日本でそれに関するテレ
いろいろな国のテレ ビ 放 送 を 見 る こ と が で
ダ、イギリス、フラ ン ス 、 ド イ ツ 、 イ タ リ
ビ番組が組まれたことはまずなかったので
や、あるいは韓半島︵朝鮮半島︶の支配が
ア等のテレビ番組が 一 度 に 見 ら れ る テ レ ビ
ほないだろうか。披寄老ではなく、加害者
本が中国と戦争をはじめた彊滴椿事件の日
を前にして、深夜ま で 飽 き す に そ れ を 見 て
の立場から戦争をふりかえることを日本人
きる。その夜、ばく は 、 ベ ル ギ Ⅰ 、 オ ラ ン
いた。
の夜は、ナチスの特 集 を や っ て い た 。 あ と
ベルギーでも、そし て 本 国 ド イ ツ で も 、 そ
に気がついた。イギ リ ス で も フ ラ ン ス で も
設けてあるのである︵もちろん執筆者はド
の教科書に、ナチスの犯罪を扱った一章が
イツ語を習っているのだが、その一番初歩
助している半官半民の語学学校で、いまド
そういえば、ぽくは西ドイツの政府が援
は避けてきたのだろう。
でベルギー人の友人 に 間 け ば 、 そ の 日 は 、
イツ人である︶。それを見たとき、ばくほ
ふと、ナチスの映 像 が よ く 出 て く る こ と
だったそうだ。
ナチスがオーストリアを侵略しはじめたH
ひどく感心してしまったらそこに西ドイツ
人たちの﹃良心bを見たような気がした。
それに対して、外国人が使う日本語の教
科書に、日本軍の残虐な行為が扱われるこ
とがあるのだろうか.おそらくないのでは
ないか。日本の子供たちが使う教科書にさ
のだから。
え、日本軍の残虐な行為は隠されつつある
こんなことを書くのは、この夏、韓国や
オーストラリアを旅行したときにも、同じ
シドニーで偶然知りあったシンガポール
ようなことを考えさせられたからだん
人の青年は﹃日本人を見ると、ほじめは本
当に恐かった﹄と二二日っていた。彼は親族や
さんの人を殺し、拷問にかけたかを聞きな
地元の人たちから、日本人がどれほどたく
釜山で知りあった大学生は﹃﹁ハイツ﹂
がら育ったのである。
という日本人の声を聞くと恐ろしくなる﹄
と言っていた。披は、日本の憲兵が上官の
答、え、そして次々に韓国のひとたちを日本
命令に対して﹁ハイツ!﹂と緊張した声で
刀で切り、殺していく︵ドキュメンタリー
的な︶映画を何度も見てきたのだった。
その恐怖はわかるような気がする。ぽく
自身、西ドイツで列車を間違えたとき、駅
員に大声で注意されたが、そのドイツ語の
響きに、ヒットラーの演説を思いだしてし
まった。そして、日記を書いたアンネが、
どんなにか恐ろしい思いで、この言葉の響
きを耳にしただろうヒ思い、背筋が寒く
(6)
なってしまったので あ る レ
日本人が金に物を言わせて、外国の土地
を買い占めたりして、外国人から姥われて
いるのは知ってい た 。 し か し 、 ア ジ ア の 人
かった。過去の行為の残虐さのために、日
びとから恐がられているとは考えもしな
本人は恐怖の対象となっているのだろう
か。ただ単に戦争の相手国だったというだ
けではなく、捕虜を虐待したということ
で、オーストラリア に さ え 日 本 人 を 憎 ん で
いる人が大勢いる の で あ る 。
ソウルのオリン ピ ッ ク で 、 日 本 の 応 援 団
のひとたちが陽気 に 大 き な 日 の 丸 を 振 っ て
︵ナチスの放︶を振るようなも
いたが、あれはユ ダ ヤ 人 た ち の 前 で ハ ー ケ
ンクロイツ
のだ。あの放の前 で 、 多 く の 韓 国 人 た ち が
虐殺されたのだ。日 の 丸 を 振 っ て い る 日 本
人には全く悪気はな い の だ ろ う が 、 そ の 放
からアジアの人たち が 連 想 す る の は 、 血 と
暴力と虐殺だけかも し れ な い 。
そして、その恐 怖 の 中 核 に あ っ た 人 が 現
在、重病であるとい う 。 そ の 状 況 を め ぐ る
テレビや新聞の報 道 ぶ り を 見 て い る と 、 日
本には実は限られた 範 囲 の 報 道 の ′ 自 由 、 言
論の自由しかなかっ た の だ と い う こ と に 気
づかされ、ぼく自身 も な ん だ か 恐 く な っ て
しまった。
日本は恐い国だと 言 う ア ジ ア の 人 び と と
出会うなかで、ぼく 自 身 も 、 ど う や ら 日 本
︵知︶
の人を恐いひとびと だ と 思 う よ う に な っ て
しまったようなので あ る 。
〆
上
平 幸
また、この記念誌演のあと引き続き、パ
と、残念でした。
動の息吹をもっと感じられたのではないか
第三回︽わいわいふぇすていばる︾に参加して⋮
われら人権派〃と超さ
浪速区の大阪府同和地
わいわいふぇすていばるが、
〃世界にうねれ
れた、第三回
九月十五目︵祝︶
害者自立センター えーぜっとの全会長で、
雄
副所長︶の記念
入部香代子氏と、一年間アメリカでご研究
ネルディスカッション﹁日東の障害者の自
マン氏︵世界障害研究所
アメリカと日本﹂
区総合福祉センターで、開催されました。
講演﹁障害者の自立生活
の後、帰国されたばかりの、大阪府立大学
立運動の課題﹂が、行われました。パネラ
でした。アメリカでの障害者の自立運動の
社会福祉学部助教授 定帝文弘氏の三人。
たくさんの障害者やボランティアが、集っ
歴史を中心に、ヒューマン氏自身の体験な
それぞれに、障害者の自立運動への熱い思
ーには、ジュディ・ヒューマン氏のほか障
ども語られ、たいへんに興味深いお話を聞
いを語りあっておられました。
た中で、今回の目玉は、ジュディ・ヒュー
くことができました。
障害者の目立生活という点で、日本より
一歩も二歩も進んでいるはずのアメリカで
さえ、そこに到達するまでには、ものすご
い闘争の歴史があったことを聞いて、日太
の障害者運動も、もっとがんばらなければ
と思ってしまいました。ただ、通訳を介し
てのお詣でしたので、学生の頃に英語をし
っかり勉強していればアメリカの障害者運
(7)
’1∴∴■‥ =■’’■■:∴ナ ̄ノ ∴ノ■∴∴′廿・・ケ・・・グ∼プウヶグJノノ†一■ノ′√∴′7∴・■■り・・・,∴ク′.ケ一∴γ∴り‥‥∴・・∴・・■・∫J
一’∴’イ’■■…・=‥∵リー’∵∵ナ’−ユ ー 、
l
選一紺混肋肋骨娼Ⅷ・■ム椚闇耶脚
m川II相川Ⅶl日日I川Iu‖‖=l
手話通訳をめぐる問題点︵四︶
手話通訳者がろうあ者に対してどう
いう立場から接するか、そしてまた、
通訳者や手話学習者の集団とろう団体
との関係について考えてみたい。
﹁全日本聾唖連盟﹂は.﹁手話通訳﹂
について次のような方針を提起してい
る。
一.手話通訳活動は聴覚障害者の傾
いに応えるものでなければならない。
る興味本位、趣味活動として考えて、
代表的に述べているともとれるが、ろ
うあ運動の一部として自身の手話活動
を位置づける健聴者がいる反面、単な
が話題を呼び、マスコミ
ろうあ問題や運動に目を向けない手話
学習者も増えており、そのことへの警
経ともとれる。たとえば、最近、﹁手
話コーラス﹂
﹁手話コーラス﹂
で報道されたことによって、まるで胴
りを踊るような感覚で
を覚える人々も増えた。それは手話の
普及という面でろうあ者問題の啓発に
﹁ろうあ者問
﹁ろうあ者への理解﹂
につながるも
が眼底にない手話の普及は、決し
なるのかもしれないが、
て
題﹂
﹁手話のひと
﹁手話のひとり歩
にすぎないと思う。
のではなく、単なる
き﹂
﹁手話ブーム﹂
の中で生まれた現
り歩き﹂現象は国際障害者年を契機と
した
従手話通訳者の公的保障と手話奉仕員
を以って充実させる。両者共に固有の
じたことであろう。これはまた、ろう
にそのような現象を発見して不安を感
二.手話通訳の制度化については専
意義があり、各々集団的、雑損的な討
象であるが、ろうあ者は、健聴者の巾
議、研修が必要。
、つ。
習者集団とろう団体との結びつきを考
える上において重要な牡となるであろ
手話適訳活動とろうあ運動との関係
をどの様に考えるかば通訳者、手話学
ねない。
あ者の健聴者に対する反発を招き、信
頼関係にひびを入れる原因ともなりか
三.手話サークル活動については、
ろう団休との協力関係が必要であるこ
と、また手話サークルは手話通訳がろ
うあ者のためのものである以上、ろう
団体の意見を尊重し、その指導は正し
これらの方針は、ろうあ者の立場を
く受け入れることが必要。
し
まりノ せ
−二−二−二■二−二●二■二lニー二■二■
お
昭和六三年十一月十二日︵土︶
−ニ■サロン・あべの十一月の出会い
日 時
午後一時三〇分∼三時三〇分
場 所 阿倍野区役所二階区民ホール
︵阿倍野区文の里一−一−四〇︶
映画﹁たくさんの愛ありがと
十一月二日迄。
なし。
う﹂観賞後文科会で話会い。
会
内 容 第三回阿倍野区ボランティア交流
会 費
申し込み
堅学童T−ON訪.冨田慶子へ。
昭和六三年十二月三日︵土︶
≡■サロン・あべの十二月の出会い︵子定︶
日 時
午後一時∼四時
場 所 育徳コミュニティーセンター二階
研修室︵阿倍野区阪南町五−十五
−二八、地下鉄西田辺駅北西五分︶
内 容 クリスマスの集い
十一月二五日迄に冨田へ。
下さい。
プレゼント岩〇.・程度の品ご持参
会 費 一〇〇〇円
申し込み
mO6−691−1028
(8)
純愛なる冨田きんへ
お手紙とお写真をどうもありがとう
ございました。いまでは私は以前より
もいっそうあなたを想像することが出
来ます。あなたは少女のようにみえま
すね、おおきなお嫁さんがいるように
はとても思えません。
ところで岡ざんがドイツで写された
写真の焼き増しは受け取られましたか?
もしまだでしたら、私の写真を次の手
紙にいれて送ります。わたしたちのグ
ループの写頁や紹介資料はないのです○
どうしてなのかわからないけれど、た
ぶん活動がスポーツに集中しているか
らでしょう。わたしたちのグループの
結束はあなたのグループほど強くはな
いのかもしれませんね、というのもこ
れまでメンバーがよく入れ変わりまし
BrlglttO Ehごenber古
m18refStr.1
47うCIJm
Ve3tJニe工m⊥e
:lrs.ヱ▲elko で0皿⊥ta
うー2(;,且皿−CnO6cnotコe
たから。
Abeno一九じ,Os叫ユCity
わたしたちが温泉を訪れたのは大成
功でした。飲めない塩水ですが、とて
も楽に泳ぐことが出来ます。この水は
普通の水より体を浮かせてくれますか
ら。でもそれほど深くありません。私
の休には支障はなかったのですが、み
んな住にさわらないかとこわがって、
水に入ったのはメンバーのごく一郎で
した。わたしたちは泳いだ後、ケーキ
を一緒にいただきました。とても素敵
う4うJⅧ1n
JuれelOth198a
⊃ear触.℡0【巳1ta,
enlg皿1爪acIvoぷ.3otohp・工0≠y d皿a rette1■止lOy■=of nCm yreVllOy K1むht
JOuごperヨOrェmCn t)etteごthan befo工・e・Yo−ユaI・elooklnglik8a y〇u堵glご1:
ニュon■t th⊥d【yOu CO111d have a畠TOⅥ1−up dat堵nter.
You doo’t vriてe vhetheご甑.Dka h叫絶glVen yOu COple80r the photo旦ne
皿姐elnじe工mny・Ir notエーll13end you a pェ:OtO8r皿ein on¢0】■ny next
letters・Photo80rin∫0=髄】・tlOn一皿aterlalo上■ouごgrO11p一皿emberBニュOnlt
e工1St・工don●tェnov vny th13i3 SO,but perhap8aCtlvltleslare COneentmt‘≧d
ニ00山Cnつn3pOrtS・∼ernapB also the eonneGtion or olⅡgrO甘p19nlt aB
ごごeat a81:1yOt止8アO11plbecau5e tbe memDer80f■ten chngedi皿paSt・
な一日でした。
わたしたちのミーティングは5月2
4日で終わり、9月11月までお休み
です。このことばとても残念です。9
月になればサファリバーケぺいく予定
です。これは動物園の一種ですが、檻
の中に動物は入れられていなくて自由
に動くことができます。そしてわたし
たちが公閣内をバスに乗って移動する
のです。
the bony Detteごtl以nO皿1vater・Beヨ⊥delt13nlt very deep・Ⅰ仁aV8nO
pでOble血8】itb皿y bealth▼ b11t Only a∫ev血emb(ゝrs or ow gTOup Ventlnto
the vater.becaus巳theyソere arごald ofね11山Ig doⅥl.A∫ter9Vltmng ve
eat8ak8 tOgether・工t va8a nlee d且y.
0じrla3t皿eet⊥ng vaさ1皿県ay24th,nOV七山汀e are r.011day8 tilSepte皿berlltr:.
工a皿Veごy SOrq■abo11t tbis fact.b S¢ptember ve vlllmak(!anOthe工・tril)
to a Safary−par亡;t′1i3i8a k⊥nd of zoo.bじt the anlma18are nOt⊥n e粥や8,
tlley Cユn mOVe rreely封1d ve vllldrlve vlth a b11S thmu劇Itbe卿C.
工hope工ca点画ielpate⊥n thi8trlp,bee8u88Imu9t gO tO h09pitalin
June2Cth・工hop(、IT mじ8t n(⊃t9tay there ror al〇ng ti∫屯e・
リ1tiltnel】eStl−1ぬe3for yo11and your groじp
わたしもこの旅行に参加できればい
いなあと思っていますが、6月20日
に病院へ行かなければなりません。病
院には長くいたくはないですね。
では冨田さんとグループの幸福を折
りつつ・・・
ブリジットより
(9)
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〇
藤
孝
文
はものすごく、僕なんかに比べたら雲泥の
差。とても体力的についていかれない感も
あるのです。
これ一つと▲つても、自立は不可能に近い
し、かと言って施設に入るのは、とても嫌
だし、ジレンマから、自分白身に﹁なんと
かしてユ∼な﹂という題を付けました。
萱ttl︻lll象ll■■一夏r
▼ ボランティアのつどい
秋雨降りしきる九月二四日
土︶午後、
﹁ボランティアのつどい﹂が、阿倍野たん
ぽ作業所で開かれました。
社会福祉法人聖フランシスコ会理事長の
ライムンド・W・チネカ神父を講師に迎え、
﹁地域社会における作業所の役割﹂につい
てお話を伺った。ドイツ出身のチネカ神父
は、在日三一年。生野区に建設した教会を
拠点にして、保育所、子供の家、生命の電
話、作業所、航すきの家、旅立ちの家等の
設立括動や運営に関わってこられた方です。
今は、地域に根ざした障害者の職場と家
作nソ・人間関係作n■を目的に活動されてい
ると温かい笑みで語られた。
その後、たんぽぼ作業所の仲間たちがし
ている﹁手作りクッキー﹂ ﹁組立作業﹂の
仕事ぶりを見せていただいた。
最後に出していただいた、焼きたてのク
ッキーと熱いお茶のおいしかったこと。
ごちそうさまでした。サロン。あべのか
らは、六名が参加しました。
(10)
●●●●●●●●●●●●●●●
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し竜㌃窃
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●
ワンタッチで閉じる傘ありますよ
前号の﹁窄める時もワンタッチ﹂を読ん
で小川氏から、この秋発売のワンタッチ傘
を紹介した新聞の切り抜きを送っていただ
なぜ、こんな趣を付けたかといえば、き
ごました。その記事によりますと、
存じの人もおられるかと思うけれど、僕の ﹁閉じるときもワンタッチでサッとできる
親は、もう年老いていて、おやじの年齢は 便利な傘がこの秋、登場。これはアイデア
かぞえで七七才。おふくろは、﹂ハ八才ル
。が開発した﹃マイフレン﹄で、開くとき
もうそんな年なのに、僕は、経済的目立 と同じボタンをチョイ押せば、シャバッと
′、▲1111ll
室−一一書■l−竜■▼竜−一−竜一tl竜一
lWl▼lll押▼tltltl
はおろか、身辺自立も出来ないありさまで 閉じる。一〇年前にすでに開発していたが
す。それで、いつも親は、僕の世話で明け 重くて実用的ではなかった。今回はぐ∼ん
値段は無地が三八〇〇円、プリント物は
暮れるせいもあって、早く施設か自立して と軽量化に成功。﹂
欲しいと言うのです。が、よく自立してる
人の家に泊りに行きますが、その人の体力
四〇〇〇円。
川11h血仙■■仙■■川Il■如曲l■l州II■■
山
木
篤
江
私の京都国体︵4︶
いよいよ近づいて来ましたハ毎日猛練習
﹃あぅちゃん
ガンバレ﹄
旭
純
﹁実は国体に出ることになったんヨ﹂
おめでとう!﹂
子
思わず大声をあげた私に、﹁あんまり大
﹁ユーツ、ホンマに?
正直いってスピードは練習量によって云々
きな声で云わんといて⋮。これからが大変
にはげんでいます。電動のことですから、
ということはありません。前回書きました
やねんから﹂はにかむように答えた彼女。
それから、練習が忙しいようで、しばら
ように、テクニック面ではずいぶんちがっ
てくるでしょう。
観衆を前にして、プレッシャーを感じての
ら意外に元気そうで、いつもにも増してオ
九月の〃出会い〃の時に久しぶりに会った
くサロンでも顔を合わしてなかったけれど、
キンチョウとCP特有のアテトーゼによる
シャレな雰囲気†。
それより気がかりなのはキンチョウです
キンチョウが出る心配があるのです。この
三年。サロンの運営委員会では、時のたつ
彼女とのお付き合いは、もう、かれこれ
ものともせず、大会では、その実力を充分
ましさを秘めた彼女のこと、厳しい練習も
髪ふり乱して、目つきまで変わってるの
これが重なったキンチョウも出ないで、レ
のも忘れて障害のこと、精神的な自立につ
に発揮されることでしょう。
では⋮との想像はみごとに外れてしまいま
ースが出来れば最高です。一生懸命練習す
いて⋮e七C、色々なことを話し合い、そ
ソウル五輪の女性走者
ふたつのキンチョウが増幅することも、な
ることで、キンチョウを消去しようとがん
のたびに彼女の思慮探さに感心させられて
きにしもあらずです。もちろん、あがりか
ばっているのです。これだけ猛練習してい
ばりのオシャレでファッショナブルなレー
した。
るのたから負けない。キンチョウしない。
きました。その思慮深さが、﹁これからが
スを期待しています。
らくるキンチョウも、CPのキンチョウも、
キンチョウは出ない。一種の自己臆示をか
大変やねんから⋮﹂と云わしめたのでしょ
ガンバレ !
〃サロン・あべの の星〃あっちゃん
ジョイナー選手
けるために練習しているところもあるので
が⋮﹂という無鉄砲とも思えるようなたく
うが、反面、﹁雨が降ろうが、槍が障ろう
︵談︶
す。 大 丈 夫 で す 、 安 心 し て 実 力 を 発 揮 し て
来ま す 。
(11)
④平 和 案 の ﹁ み ん な あ つ ま れ ⊥
第二回﹁みんなあ つ ま れ ! ﹂ の バ ザ ー が
﹁盲児施設平和寮﹂の主催で十月一六日
︵日︶日大ヘレンケラー財団平和案で開か
れた 。 こ の バ ザ ー は 、 同 案 が 地 域 に 理 解 さ
れる 施 設 を め ざ し 、 昨 年 か ら 施 設 を 開 放 し
て寮 生 と の 交 流 を 目 的 と し て 企 画 さ れ た も
ので 、 あ ん ま 、 マ ッ サ ー ジ 、 居 † 店 、 さ を り
︵Ⅰ︶
織り 、 バ ザ ー 、 陶 芸 、 盲 人 機 器 展 の ほ か 、
々のよろこび 添 え て
こど も た ち の 作 っ た 作 品 も 展 示 さ れ て い た 。
日
三〇〇〇円
∧サロン・あべの∨に贈る〃灯〃
九月のカンパ合計
ありがとうございました。
J=/ヽわさき ちひろJJの
カレンダー
文の里にあります、どろん
こ共同保育所では、保育所の
運営資金不足のため、バザー
編 集 後 記
等の物品販売を行なってきて
おりますが、今回、JJいわさ
き ちひろJJのカレンダーを
販売することになりました。
一部1200円です。
お部巨のインテリアとして
も、ぜひ、お買い求めくださ
い。くわしくは、ウエヒラ迄
琶事06−621−4365
<サロン・あべの>第28号
発行日 昭和63年10月29日(土)
発行・編集<サロン・あぺの>運営委員会
【大阪市阿倍野区阪南町6−3−26
電話(06)69ト1028冨田慶子]
印 刷 セルフ社 電話(06)652−0337
[阿倍野区阿倍野筋4−18−19】
定 価
¥60.
いっも太紙をお読みいただきありがとうご
ざいます。陰になり、日なたになって、お力
添えくださるみなさま方のお陰で、昨年に続
いて今年も優良賞をうけることが出来ました。
これを扱に、なお一居紙面の充実をはかろ
うと、一同カブトの佑をしめています。そこ
で、本紙では「連続 入宜おめでとう」を今
号と次号に掲載いたします。第一部−みな
さまから寄せられたおことばを今号に特集。
第二部一次号では太紙ならではの編集渾を
予定しています。
この二号にわたる特集で、太紙へのこ難
がより深まれば…と願っています。 (石)
九月のサロンヘ小川氏、金子様よりお茶受
けをいただきました。ありがとうございまし
た。
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