Page 1 秋田県立博物館研究報告 第7号 37〜50ページ 1982年3月

秋田県立博物館研究報告第7号37∼50ページ1982年3月
大野地遺跡(縄文時代前期)の出土遺物とその意義
自然遣物を中心として−
磯村朝次郎・金子浩昌*・渡部展
Iはじめに
めて有意の情報をもたらす
ものと考えられる。
蝿文時代前期に属する遺跡は秋田県の八郎潟周辺に
八郎潟東方の大野地遺跡は,戦後開拓によって遺物
おいてもいくつか知られている(第1図)。これらの立
の埋蔵地であることが知られ,「秋田県遺跡地図」(秋
地とそれが包含する遺物は,考古学上のみならず,当
田県教育委員会,1976)に,No.453.円筒下層式土器片,
時の自然環境,なかんずく第四紀完新I"地史における
石匙,石箆の出土地として登録されていたが,自然遺
大きなできごとの一つである蝿文海進の解明に、きわ
物の出土は知られていなかった。しかし1980年6月に.
浜一井川
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矛−− ∼
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第1図大Wf地世跡の位ii'i (●印)
左下図のl∼6は周辺地域における罪1裂な純i文時代前期のj世跡
i:萱刈沢u塚2:打道坂遺跡3:角州崎
1 1 塚 4 : 坂 の │ 巡 跡 5 : < ¥ 山 遺 跡 6 : ノ 凸 桜 ¥ m w i地叫院発行2"5千分の1地形図「大久保」を使川
早.稲田大学毎・古学教室
−37−
磯村朝次郎・金子浩昌・渡部昂
第2図遺跡地遠景(西方より東方をのぞむ)
伊藤猛氏所有の畑地で土取り工事か行われた際,貝
殻を包含す
る断面が現れ,これを井川小学校郷土クラ
ブの児童が発見し,松田行政教諭が井川町教育委員会
に報告したのである。この地点からは貝殻や動物骨そ
れに人工遺物が採集されてお'),これらについて筆者
らも調査する機会を得た。ここにその結果をとりまと
めて報告するしだいてある。
W
II遺跡の位置と環境および概要
大野地遺跡は,国道7号線昭和一飯田川バイパス北
0
l田
端で国道285号線に入り,飛塚部落入口から井川小学
第3図a'投包念・屑断Ml
校前を経て「大野地」の標識を右折,約700inほど南下
I:表土II:土器包含mir:u機包含Ii
した井川町坂本字大野地305番地に所在する(第1図)。
m:潟西1両
標高は約40mであQI日八郎潟の湖岸線からは直線距離
にして約4kmて、ある。
このあた'Iは標高100m以下の丘陵地(井川丘陵)
で緩斜面が発達する。この丘陵は新第三系の天徳寺層
をj,';盤とした更新統の渦西屑からな')(長谷.平山,
1970),生産力劣悪とされる褐色森林土壌(大野地統)
紐Ll
Pu砦
h
I醤
忠
箭
におおわれる(秋田県,1974)。またこの丘陵地は小
愛
蕊ク
ド
,
.
候
一
支谷の密度が大きく,世跡地西方に舟底状谷かNEsw・NW-SE方向に深く入')こむ。なおこの谷の
一
対岸の丘陵東端にも遺物の包含地が認められる。
なお1981年11月,秋田県文化課によって本遺跡の範
囲確認調査が行われた。その際土鉱,焼土が検出され,
哩.!
熱
第4図u'股包含.状況
約13,000nfの区域内に細文時代前期を主体として,中
*高怖忠彦県文化財主liの教示による。
期大木8a期の遺物の包蔵が認められている*。
−38−
窓慰灘
E
9
猟
。
大Wi地世跡(細文時代前期)の出土遺物とその意義
19811年6月現在,土取│)のため遺跡は広範にわたっ
む。殻表には細い螺脈が密にある。
て破壊されたが,第2図A地点に遺物包含屑を残して
.4,s-s〃"mealuteaノaponicav.Martensカワザンシ
いた。B地点はすで・にいん減に近い状況で.あったが,
ヨウガイ(図版1-2,3)
ここにも貝殻の包含層が存在していた可能性がある。
ほぼ完全な個体が4個得られた。
A地点における残存遺柵のセクションは第3図のご
殻は小形。体層は大きく丸く,螺塔は円錐形。肩に
とくであ),土器包含層中に雄大幅35cm,最厚部ISnn
を測るレンズ状貝殻包含層の挟イ1か認められた(第4
鈍い角がある。得られた{│古│体すべてに2本の色帯が認
図
)
。
テシオカワザンショウガイ.4.septentrio"α〃sEms
められる。これらの個体は,肩角が弱いことなどから,
ここに報告する遺物はA地点のレンズ状貝殻包含層
というタイプと,思われるが,これはカワザンショウガ
直下の崩壊土中に含まれていたものである。以下,貝
イの異名とされているので(波部・伊藤,1965;岡田ほ
類,脊椎動物遺骸,人工遺物の順に記述する。
か,1967),ここではカワザンショウガイとしておく。
Ba〃〃αriacu",伽gii(Crosse)ホソウミニナ
Ill出土した貝類
(図版1-4)
本遺跡からは,第1表に示したように腹足類5種,
体I岡か欠批したim体がnられた。
二枚貝類3種,計8種の貝類か出土した。ここではこ
螺略は糸│││〈商い円抑形。各脚には全ifllに糸Illい螺1]ノノが
れら各種の出土状況や形態について簡単に記述し,貝
6∼7本ある。近緑のウミニナとは細いことと螺肋が
類群としてみた場合の特徴を述べ、それをもとに遺跡
Tillかい二とで、,またイボ「フミニナとは縦肋がないこと
付近の環境等について検討してみる。
などで1え:別できる。
1各種について
Rapa"α〃enosa(Varenciennes)アカニン(図版1
−6,7)
Fuiviocingulα"加ponicaKuRODAetHABEカワグ
殻口部分のみおよび体屑部分のみの個体がそれぞれ
チツボ(図版I-1)
1個と,本種のものと思われる破片がIll個ほど得られ
多少破損したl個体が得られた。
殻は微小。長卵形で殻口は卵形。各層はよくふぐら
た。
第1表大野地遺跡から出土した貝類
脈
'
│
:
.
lI
グヒ.0
場
↑
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j
ト
ァ 〃
布
腹 足 猟
カワグチヅボ
加Il-I・湾奥等汽水域,櫛猟上
北海道南部∼ノし州
カワーザンンョウガイ
M11等汽水域,湖I間州,泥上
北海過∼台湾・中圧|
ホ、ノウミニーナー
荊'間椛、泥∼砂瞭底(磯浜)
サハリンーノL州・朝鮮・中低I
アカニシ
内海・内湾,mmm∼水深20m,砂泥底
北海j曲南部∼ノL州・朝鮮・ll1lI1
ヒメギセル
陸|胃
奥小l∼│Ⅷ火・{i;趣地方
ニ枚11剛
ヤマトシジミ
汽水域,泥∼砂底
日本什地
ハマグリ
内湾,潮│川柵∼水深20in,砂泥底
北榔道南部∼束南アジア
コタマガイ
水深10∼50iii,砂底
北榔適1,脚ルM∼九州
生思場所と分布については.波部(1977)、波部・〃}膝(1965),肥後(1973),川IJ(1976),
黙inほか(1971),IS]IIIほか(1967),OY,ヘma(1973)等を参考にした。
−39−
磯村朝次郎・金子浩昌・渡部ル&
殻表には細い螺脈が全面にあ0,肩部には強い結節
体数が多い。ヤマトシジミ以外では,比較的保存状態
列がある。殻口は卵形で,水管溝は短かく,|淵〈。縫
がよく同定可能な個体すべてを総計しても,20個休職
帯はヒレ状になって重なり,刺│唇との間に謄孔がある。
度にすぎず,全体の1%に満たない。
b各械の生息場所からみて
保存の完全な個体は得られなかったが,以上の特徴か
各種を生息場所からみると,|崖上,汽水域.海水域
らアカニシに同定される。
Vitγ加haedusα加』cropeas(Moerrendorff)ヒメ
にわけられ,異なる生息環境をもつ種が混合している。
すなわち,
ギセル(図版1-5)
I陸上の極:ヒメギセル
ほぼ完全なl個体と,破損したM体が10個ほど得ら
汽水域の極:カワグチヅボ,カワザンショウガイ,
れた。
ヤマトシジミ
殻は小形。細長い紡錘形で左巻。殻口は楕円形であ
海水域の枕:ホソウミニナ,アカニシ,ハマグリ,
る
。
コタマガイ
CorbiculαノaponicaPrimeヤマトシジミ(図版1
で、あり,さらに海水域の種は,
−8∼10,II-1.2)
きわめて多量の個体が得られた。
内湾にすむ種:アカニシ,ハマグリ
殻は卵三角形でふくらむ。殻表には弱いが明らかな
外洋に面した浅海の砂底にすむ種:コタマガイ
外洋に面した潮│洲帯の主として岩礁底にすむ種:ホ
輪脈がある。3主歯があり,長い前後側歯の上は細か
く刻まれる。套線は湾入しない。
ソウミニナ
Meretrはlusoria[RoDING]ハマグリ(図版11-
の三つに区分される。
4,5)
c個体の大きさからみて
ほぼ完全な殻片が3個,かなo破拙した殻片が2個,
アカニシ,ハマグリ,コタマガイの各種は得られた
そのほか本種のものと思われる破片が約10個得られた。
イ│古1体の大きさからみて,おそらくすべてが成貝である
破片となっているものは,完全であれば図示した個体
が,ヤマトシジミは殻長20niiii以下から40iiim以上に達す
より大きいと思われるものが多く,中には2倍近い大
る個体まであって,さまざまな成長段階のものを含ん
きさと推定されるものもある。
でいる。ハマグ'ノにはかなo大型の個体が認められ,
殻は卵三角形でよくふくらむ。前後背縁は直線的で,
成育状態が良好であることを示している。
腹縁は強く湾曲する。殻表は平滑で,褐色の斑紋が残
d地理的分布からみて
っている。套線は浅く湾入する。近縁のチョウセンハ
ハマグ'ノは秋旧県では現在その分布が確認されてい
マグリとは腹縁の湾曲が強い点や,やや薄質である点
ない。カワグチツボ,カワザンショウガイ(テシオカ
で、区別される。
ワサンショウガイ)は干拓前の旧八郎潟に多量に生息
Gomphina(Macridiscus)γ"eianaegisRomekコタ
マガイ(図版II-3)
していた(井上,1965)。それ以外の種は秋田県に現
在も生息している(渡辺,1976)。またホソウミニナ
ほとんど完全な左右の殻片が1個ずつ得られた。こ
れらは完全に合わさるので,同一個体のものである。
以外は,現在北海道よ')南に分布する種であり,いわ
ゆる北方系の種は存在しない。
殻は三角形でふくらみは弱く,厚質である。前後背
3貝類群からみた当時の環境など
縁は直線的で,前端は丸く,後端はやや尖る。殻表に
先に述べたように,この遺跡から出土した貝の中で
は弱い成長脈があるがなめらかである。套線は小さく
ハマグリは秋田県沿岸では現生が確認されていない種
丸く湾入する。
である。本極は現在の日本海側の分布の北限が北緯43
2貝類群の特徴
度とされている(Oyama,1973)ので,秋田は本種の
a各種の個体数からみて
分布範囲内にある。にもかかわらず生息していないの
ヤマトシジミは推定2,000個体1殻片を0.5個体と
して)以上得られておI),他の種に比べて圧倒的に個
は,本郁の生息に適した内湾が現存していないことが
最大の理由と考えられる。
−40−
大リj地遺跡(測文時代Ⅲm)の川1遺物とその愈筏
出土したハマグリが他地域との交易の結果としてこ
これは角間I崎貝塚における出土傾向と大きく異なる点
こにもたらされたものでないとすれば,遺跡の近くに
でもあり,この点は今後検討しなくてはならない問題
内湾か存在していたことになる。そのような環境があ
で、ある。
ったか否かは本遺跡の遺物のみでは判断できない。し
かし八郎潟をはさんで対岸にある角間1吋貝塚(細文時
Ⅳ脊椎動物遺存体
代前期)からは,内湾に生息する貝が枕・個体数とも
貝殻とともに,第2表に示したような脊椎動物骨が
に多量に出土している(西村,1957)。このことから
検出された。ここでは魚骨と獣骨にわけて述べること
みて内湾の存在は確実であ'),その位悩は現在の地形
にする(図版Ill参照)。
等から判断して八郎潟域以外には考えられない。当時
1魚骨について
この地域は,いわゆる潟ではなく,大きな内湾状を呈
魚骨は小椎骨及び断片的な鰭その他の疎が主たる標
していたものと思われる。このことに関しては,西村
本で,充分な同定をするまでに至っていない。第2表
(1957)もそのように推定していることであ'),角田
にあげたのはその一部であって,他にも2ないし3種
(1975)が述べている秋田砂丘地帯の発達過程からみ
類は含まれるものと,思われる。それらについては今後
の調査に待つとして,ここでは概要を記すに止める。
ても妥当なことである。
今回得られた標本の中で比較的大型の魚としてはタ
一般に内湾は貝類採取に適した場である。本遺跡か
ら出土した貝のうちハマグリやアカニシは上述の内湾
イ科のものであるが,これは僅かに臼歯1個をみたの
から採取されたものであろう。
みで,他に確かな標本は含まれていなかった。これに
出土した個体数が圧倒的に多いヤマトシジミは,中
次ぐのは,アジ科としたもののなかに含まれるブリ類
ないし貧峨性汽水域の種である。このことは遺跡の近
近似の椎体が,椎体長5∼6mm位までのものを含む。
くに海水が淡水によって希釈されている水域があった
しかしこれらも成魚ではなく,ごく若い年齢のもので
こと,そしてその水域が貝類採取の主要な場になって
ある。成魚になると思われる椎骨その他は含まれてい
いたことを意味する。この水域は,内湾の奥の,河川
なかった。
その他のサバ類も同程度の小さいものであったし,
が内湾にそそぎこむ部分に,おそらくは小規棋なラグ
ハゼ類はもちろん椎体長が2.5∼3.0mm程の個体のもの
ーンとして形成されていたものであろう。
カワグチツボ,カワザンショウガイおよび.ヒメギセ
である。ギギ科のものも,鋸歯をもつ小鰭疎と椎体が
ルはいずれも微小な貝で.あり,食用の目的をもって意
図的に採取されたとは考えがたい。前二者はヤマトシ
第2表大野地迩跡から出土した脊椎動物
ジミの生息するような汽水域に生息する種であり,藻
などに付着している。したがってヤマトシジミを採取
仔椛肋物Vi、!、“brate
したおり,偶然いっしょに採取された可能性もあI),
またこれらの貝が付着していた藻を,何らかの目的を
f;li・魚綱Chondrichthves
エイ|│の一純Rajiformesfani・indcI.
もって採取した可能性もある。
(.ii;鋤綱Osteicluyhes
ヒメギセルは秋田県においては山地に普辿な陸貝で
ある。本種はゴミ捨て場などにも多いといわれている
ニシン目の一純Clupeiformesfam.indet.
ギギ科の一靴Bagridaegen.et.sp.indet.
ので,当時形成されつつあった貝層にたまたままぎれ
タイ料の一神St》mridaegen.etsp.indet.
こんだものであろう。
アジ料の一徹Carangidaegen.etsp.mde1,
ホソウミニナとコタマガイは外洋に面した浅海の種
であることから,これらの産地は湾外と考えるのが妥
サバ類5comルァRl]、
ハゼ科・の一純Gobiidaegen.etsp.indet.
当である。もしこれらの貝の採取を11的として湾外ま
ででかけたとすれば,よ})近いところで採取できるは
lll孔綱Mflmmillia
ニホンジヵ(Vノ・'1〃.¥〃〃)pひ加
ずの内湾の貝の出土量が少なすぎるように思われる。
−41−
磯村朝次郎・金子浩昌・渡部ル&
お,標本の骨には前而に大きな円孔があくが,新しい
出土している。
男鹿半島南岸の大畑台遺跡のフラスコ状ピットから
破拙孔と思われる。
は,ブリ・サバ類を主として10数種の魚種が検出され
大腿骨:右MIIの破片てある。骨は全体のほぼ4分の
ている(金子,1979)が,本遺跡での魚類骨も基本的
1位の'幅にたち制れたもので.,これも骨髄食のための
にはこれと一致するもののように思われる。ただ大畑
加工である。
台遺跡に知られたカンダイや大型サメ類などが,本遺
以上のように,獣骨として検出されたのはすべてシ
跡でみられなかったのは,遺跡の立地環境によるもの
カの骨のみである。そのいずれもが,断片的な骨であ
か,あるいは人々の行動領域の広さによるものか検討
った。前述したように下顎骨はまだ若い個体のもので
してみる必要があるであろう。
あ'),これに対して大腿骨はかなI)大型のfl内1体のもの
本世跡において知られた主体貝種がヤマトシジミで
あることからみて,同時に検''1された魚類もまたヤマ
のようである。おそらく数個体の骨が混在しているの
であろう。
トシジミの多棲するような河口部あるいは内湾の比較
V人工遺物
的奥で採捕されたことが予測されよう。比較的多くの
骨を出土したハゼ類,アジ,サバ類がこうした水域で
1土器片(図版Ⅳ)
捕れている例は東京湾,仙台湾岸の貝塚でみるところ
拓影としてかがげた18点をつぎのごとく分類した。
であるし,また大型の魚の骨が極めて少なかったこと
a口頚部に棚文を施文するもの(1.2.3.5)。
も,遺跡の近くが浅い海であったことを示すものであ
ろう。
1は口縁部わずかに外反する。縦位の棚文,胎土に繊
維を含まない。色調は褐色。3はほぼ直立気味の口縁
2獣骨について
で異条蝿文か。繊維を含み,灰色を呈する。5は外反
検出された獣骨は10数点であって,うち歯は臼歯2
する口縁で口唇部をへう調整する。斜位の棚文,繊維
点があったのみである。骨はすべて破批していたが,
を少並含む。
次のような部位のものであった。
b撚糸文を地文とするもの(4.6∼9.12
下顎骨および歯:同一個体のものである。歯は}〕,で
4はほぼ直立気味の口縁で横位に撚糸文,胴部に連
ロ交耗がほとんどみられず,出根もみじかく,完成され
続して斜位の撚糸文を施す。9.12は胴部破片で縦位
ていない。顎骨はこのI'.と「おとがい孔」の間の部分
に施文。この類はすべて繊維を含有する。
であって,埋蔵時すて、にこの部分に分断されていたも
のと思われる。
c羽状純文を地文とし,口縁部横位に数条の撚紐
w捺文を施文し,胎土に繊維を含むもの(10,11,13,14,
肋骨:5ないし6個の断片的なものになっているカミ
2個分位の肋骨になるであろう。この二つとも肋骨上
15。ただし11は微降帯をなし,14は押捺文を欠くかも
知れない。
部の肋骨角とよばれる付近で折1)とられるような形に
d結本の図!'砿で横位に数条の綾絡文を残すもの(16)。
なっている。
e二本の隆'附上に連続指虹状文を施文し,繊維を
肩甲骨:左側肩甲骨である。関節嵩および肩甲頚の
含むもの(18)。
部分は破損しながらもほぼ原形をとどめているが,肩
甲疎と疎下嵩の部分は大きく破捌しており,原形をと
f束線文を施文するもの(17)。底部直上の破片で繊
維を含まず,色調は黄褐色を呈する。
どめていない。このうち肩甲疎は発掘時の破損のよう
以上,土器片の様式は編年的に円筒下層A∼B式期
に思われるが,練下嵩の部分は埋没前にそぎとられる
に相当するものとして把えることができると思われる。
ような加工が行われていたかも知れない。ただ骨の古
ただし、17は早期末に位置づけされるかも知れない。
い骨面がよく観察できなくなっているので,砿かなこ
2石器(図版VI
a石鍬(1,2)。いずれも硬『t頁岩製,基部に快入
とはいえない。
桃骨:右側近位端から中間部分の破!'「で.骨体部は
のある無茎鋤。2はルーズだが凹基無茎雛,
完全に折られている。骨髄食のためであったろう。な
−42−
b石匙(3∼11。石衝はすべて硬蘭r〔岩。3,
入りり地世跡(棚文II,卜代前期)の川i迩物とその懲筏
4は有柄横型,主刃部の作')だしがつまみを軸に直角
湾期にかけての海退を想定させる。Raeta湾期には三
あるいはそれに近い角度で付される。5∼1(1は刃部が
位(1960)が図示しているように,八郎潟南部と北西
主軸と並行につけられた有柄縦型。IIは縦型石匙の欠損
部の砂州がすでに部分的に形成されてお'),それか海
品か。
・退とあいまって海水の交換をさまたげる大きな要│州に
c石槍(12∼16)。硬『'i貞器。13はI'央で折描して
なったと考えられる。
いる。いずれも打剥による粗末なつ<')である。
一方,本適跡や角間崎貝塚から出土した貝類からみ
。箆状石器(17,18)。硬np端。頭部が尖り,両
面打剥で下ノァにやや広がる。
て,III-3で述べたように,当時の八郎潟域は部分的
に汽水域をともなう内湾的環境であったと推定される。
e不定型打器(19∼20)。硬質頁岩。不定剛な剥牙
西村(1957)によれば.メ'jmil崎貝塚から出土した内湾
の一部に調悠剥離を施し,刃部をつく’)だしている。
性貝朔は発育状態がきわめて良好であるとのことであ
19は有柄の石匙に入れるべきか。
り,本遺跡出土のハマグリやアカニシもまた同様で、あ
f喫石錘(21,22).21は流紋岩,22は泥岩,いず
れも長軸の上下両端を打ち欠いている。
る。このことは当時の内湾が,これらの貝賊が生息す
るうえで非常に良好な環境にあったことを意味してい
おI),広域にわたって一時的にせよ水の停滞をともな
Ⅵ出土した貝類と八郎潟の地史
うような環境であったとは考・えにくい。
八郎潟の地史については三位(1960)や喋岡(1965)
したがって,縄文時代前期にあたる本遺跡や角間崎
などの,主として地形・地質学的観点からの研究かあ
貝塚に内湾性の貝を供給した内湾は,八郎潟の地史の
る。ここではこれらに述べられた地史と,辿跡出土の
中ではMac(〕",α湾に相当すると考えるのが妥当であろ
う。このことはOstreα湾期堆積物中のマガキのル℃年
遺物(主として貝類)との関連について考察する。
三位(1960)は八郎潟の沖積世を"s〃“油.Maco"'α
代か806()±30y.B.P.とされ(牛島ほか,1962)純文時
湾,Raetα湾およびCorbiculα湖の4時期に区分して
代早期にあたることや,いわゆる純文海進の頂期か純
いる。これは堆積物に含まれる貝瀬遺体の特徴種によ
文時代liU期にあるといわれていることと調和する。
る区分であり,各期の環境については概略述べられて
なお,八郎潟周辺の維文時代前期の遺跡は,20m以
いるが,ここではまずその環境をやや詳しく検討して
上の標高の段丘上や丘陵中に限定されている。これは
みよう。
細文海進頂期における海水準が,広くいわれているよ
OsZγeα湾期の堆積物基底にはマガキが密蝶して含ま
うに現在のそれよI)高かったことを意味すると思われ
れているということであ'),これはきわめて浅い内湾
るので,Macomα湾は,藤岡(1965)がいうように
であったことを示している。その上位のMaromo沌期
かなり広範囲に広がっていたものと推定される。
の堆械物にはゴイサギガイやウネナシトマヤガイなど
純然たる内湾性の種も含まれている反1(11,ツイタガイ
Ⅶまとめ
やサルボウガイなど必ずしも内湾性とばかI)はいいき
l大野地適跡はレンズ状の貝殻包含層をともない,
れない種も認められるので,この時期には外海との水
この中から8極の貝が検出された。内訳は腹足類5種,
の交換がかなりよく行われていたようである。Raeta
二枚貝瀬3種で,生息環境からみるとi窒貝1種,汽水
湾期の堆械物中にはチヨノハナガイが鯉嬬にみられる。
域の柿3種,櫛水域の極4種で、ある。
本靴は一時停滞的強内湾性の指標種で・あ')(」州越・菊
2貝殻に保謹されて道存した脊椎動物遺体は,軟
池、1976)、前のMacotna湾期とちがって外海との水
骨魚類1種,砿骨魚類6R,n甫乳類1種である。この
の交換が行われにくくなったことを示している。次の
うち魚類は,八郎潟形成初期の内湾若しくは河口域で
Corbiculα湖1りIの堆積物はヤマトシジミを含んでお0.
採捕された小刷の魚を主とするもので、ある。
当水域の蛾度が低下したことを示している。
3m土した土器I'lは細年上円筒下層A∼B式期に
以上のような環境の変化はOstrea湾1りlからMacoma
湾期にかけての海進,そしてMacomα湾期からRa“a
相当するものと思われ,本遺跡は純文時代の前期前半
に位置づけられる。
−43−
磯村朝次郎・金子浩昌・渡部ル吃
郎潟学術調盃会,31-51.
4出土した貝類からみて,当時の八郎潟域は汽水
域を部分的にともなう内湾であったと推定される。こ
井J靖夫(1965):八郎潟の沿岸及び湖沼の生物.同
上,282-335.
の内湾は,八郎潟の地史の中ではMacomα湾にあたる
金子浩昌(1979):大畑台j遺跡出土の脊椎動物遺体.
ものと思われる。
大畑台世跡発掘調盃報告書、日本鉱業株式会祉船
謝辞:本調査の機会は井Ill町教育委員会によI)与え
られたものであり,同委員会の各位に感謝申し上げる。
M1製油所.251-258.
川I」洋治(1976):秋Ill県の│塗貝秋田自然史研究会,
また,男鹿市の西村正氏には貝類の同定に際してご
指導いただき,|嶋田忠一(当館主事)・田口郁(秋
46p.
黒Ⅲ徳米・波部忠亜・大山桂(1971):椛棋湾産貝
田市教育委員会)の両氏には遺物の悠理,実測,写真
搬影等でご協力いただいた。以上の方がたに厚くお礼
頬.メL*s7411489p.121pls.
三位秀夫(1960):八郎潟の沖積層.東北大学理科報
申し上げる。
告(地使),(4),590-598.
西村正(.1957):県内貝塚の貝について.秋田考古
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文 献
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s
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岡田要ほか糊(1967):新日本動物図鑑(中).北
北太平洋糊,保育社.176p.
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長谷紘和・平山次郎11970):五城卜│地域の地質.地
角田滴美(1975):日本海および東シナ海沿岸の主な
域地質研究報告(5万分の1図I1llil.地質調査所,
砂丘地州の形成期と固定期について.第四紀研究,
46p.
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牛島信義・パカIll挺郎・三位秀夫・木越那彦(1962):
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堀越噸興・菊池泰二(1976):ベントス.海洋科学基
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渡辺浩記(1976MS):秋田県海産貝類目録.
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藤間一男(1965):八郎潟の地史.八郎潟の川究,八
−44−
大野地世跡(細文時代前期)の出土迩物とその意義
図
説 明
版 説
図版1
殻 高 殻 長
1FlmノiocingulanipponicaKuRODAetHabe
129.6mm32.4mm
カワグチツボ(×4)
殻径2.1mm,殻高S.Smm
220.2mm22.0mm
3Gompノi血a{Macridiscus)melα"αegisRomer
2,3.4ssmmealuteajaponicav・Martens
コマタガイ(×1)
カワザンショウガイ(×3)
殻高(右殻132.6mm,殻長(右殻)43.7iimi
殻径殻高
24.0mm4.9mm
殻幅(合殻)17.9inin
45Meretrixlusoria[Roding]
34.2m5.7mni
ハマグリ(×1)
4Ba〃〃αriacuノ"jngii(Crosse)
超し-x4fjj又1両〕
ホ、ノウミニナ(×1.5)
殻長
436.7ram42.6nini+
殻径7.9mm+.殻高20.0nim-│-
538.3mm+46.6miii+
5V〃γiphag血Sα〃licropeas(Moeli.endorff)
ヒメギセル(×3)
殻径2.9mm,殻高10.Omm+
6−7/fα”"αUenosa(Valenciennes)
アカニシ(×1)
殻径
図版Ill
1シカ右撲骨近位端片
2シカ大腿骨片
3シカ?肢骨片
4,5シカ左肩甲骨近位端片
645.5mm+
6シカ肋骨片
753.1mni-l-
7シカ左下顎骨片a:頬側,b:舌側)頗孔部分
8−10CO『6j“jαノaponicaPrime
ヤマトシジミ(×1)
殻高殻長
8シカ左Pi(a:頬側、b:舌側)
9シカ臼歯破片
10-13ブリ類椎体(10.13:腹椎,11.12:尾椎)
818.4mm20.2mm
14,15サバ類椎体(14:腹椎,15:尾椎)
926.8mm30.9mm
16エイ類椎体
1036.1mm40.6mm
17ギギ類練
図版II
図版Ⅳ出土した土器片
1,2Coγ師cⅧ/αノαponicaPrime
ヤマトシジミ(×1)
図版V出土したイi器
−45−
磯村刺次郎・金子浩昌・渡部ル世
図版I
⑮
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同一
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−46−
10
大野地世跡(蝿文時代liliffl)のta土遺物とその怠義
図版II
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磯村朝次郎・金子浩昌・渡部辰
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大野地辿跡(純文時代前期)のm土遺物とその恵義
図版Ⅳ
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磯村朝次郎・金子浩昌・渡部肢
図版V
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