「井上円了哲学塾で学んだこと」 塾生登録番号 7700160008 東洋大学

「井上円了哲学塾で学んだこと」
塾生登録番号 7700160008
東洋大学文学部哲学科
山本 慶紀
私が円了哲学塾に入ろうとした理由は、円了の言う「真怪」に共感したからである。円
了は言います。
「人もし活眼をもって宇宙に達観し来たらば、春花も不思議なり、秋月も妖
怪なり。自己の一笑一語、一挙一動に至るまで妖怪不思議ならざるなし。」〔井上円了「続
妖怪百談」井上円了記念学術センター編『井上円了選集第十九巻』
(東洋大学、1991 年)三
〇一頁〕と。
私は高校で「私は誰であるのか」という問題をずっとひとりで考えて、大学に入ってよ
うやく同じような難問を考えている円了に出合ったのであった。そして、この難問をわか
るところまで行かなくとも、自分のなかで明らかにしたいと願い、この塾に入塾志望書を
書いたのである。
本講義は第1・2・3回で哲学教育をし、第4回以降はプレゼンテーション・ディスカ
ッション能力やアジアで連帯する意識をもつこと、国際社会への対応力などといった実に
幅広い範囲の講義であった。
「真怪」を求めるつもりの私にとって予想外なことであったが、
振り返ればこの幅広く、様々なテーマを扱った講義は大いに私の刺激となり、広い視野を
持って考えることは哲学において非常に大切であると考えるようになった。一分野を極め
ることでなんらかの道が開けるという、かつて私が抱いていた期待は、今に至って勘違い
であったとはっきり言える。
なるほど、一つのことに傾くことも悪いことではない。実際、私は小林秀雄という人の
本だけを何回も繰り返し読むので、彼の思想が手に取るごとくよくわかってくるのである。
ほかの著者の本を何冊も読みながらという場合と比較してみれば、一つの本に集中して読
んだほうが、明らかに理解が深いのである。また、今日、先進国が高度な文化・文明にな
って発展したのは狭い視野でものを探求した結果とみてよい。科学者はこころ・精神など
という抽象的な問題は考えずに、ひたすら物理現象のみを分析・解明することで急激な文
明発展をなし遂げることに成功した。このように視野を狭くして、ものを追求することは
私たちに恩恵を与えることにもつながっている。しかし、わたしは広く視野を持った方が
より良いと考える。
第七回に学外授業があり、ボランティアによって運営される保育所『さきちゃんち』に
行った。そこには元気にはしゃぎまわっている子や、おもちゃと遊ぶことに夢中な子もい
て、子供向けの本やたくさんのおもちゃも充実していた。それは一見、普通の保育園の様
子であった。しかし、自然<nature>がないことに気づいた。私は静岡県藤枝市の葉梨幼
稚園に通っていて、辺りは山や川であった。泥団子を作って友達と競ったことも、外でか
けっこをして遊んだことは私にとっては当たり前だった。だがここの保育園は当たり前の
ことではなかったのである。そもそもそのような遊びをする場所がない。子どもは小さい
頃に自然を観察し、いろいろな興味を持つことができるのに、そういう環境がない。こう
いう深刻な問題を、私は今まで真剣に考えたことがなかった。というより、気づかなかっ
た。哲学の問題をただ真っ向から考えてもこのような問題には突き当らない。だが、先の
問題のように、私を取り巻く環境がどのようにして私を形成したのかを考えることは、自
分の存在を考えることと同じではないだろうか。そうだとしたら、視野を広く持つことは
やはり大切なことだ。
もう一つの例を挙げたいと思う。第五回に「交渉」という授業があった。とくに印象的
だったのは、けんかをして話の決着のつかない場合の解決方法である。そこに第三者を介
入させるか、もしその方法がうまくいかなかったら、黒板に言いたいことを書く(!)と
いうことであった。私が驚いたのは、こういう誰もが思いつきそうな発想を言われて初め
て気づいたことである。私の中にそういう発想はあったのかもしれないが、そういう発想
23
が学問として言語化されていなかった。すなわち、私はこの授業を受けて自分の持つ可能
性を知ったのである。交渉学は単なる思いつきを集めた偶然的方法論ではない。キューバ
危機でなんとかソ連との戦争を避けた米国大統領 J・F ケネディの知恵であり、また、
「戦
わずして勝つ」という戦争術を見つけた孫武の緊張した人間洞察力の結果でもあるのであ
る。そういう直接的で、人間の知恵からできた交渉学を学ぶことは自分を知ることになら
ないだろうか。哲学だけが世界を明らかにするわけではない。ケネディであれ、孫武であ
れ、彼らは人間であり、私たちと変わらないもあるはずである。ただ彼らが一線を画すの
は、非凡な日常の観察力であり、その観察による経験を見極めようとしたところにある。
私たちが彼らの努力に共感できれば、それは自分を知ることになろう。以上のように、学
外授業の『さきちゃんち』や『交渉学』などを通して、私は広い視野を持つことの重要さ
を学んだのである。
さて、ではこれから広い視野をもつことで、どのように私が社会に貢献してゆくかを明
らかにしたい。現代で問題なのは、ものをよく見ないという美に関する問題である。この
問題は小林秀雄も取り上げている。例えば、道端にピンク色の美しい椿があったとする。
それを見てなんと言うだろうか、またはなんと思うだろうか。多くの人は「なんだ椿の花
か」と思ってその花を見ることをやめてしまうでしょう。その花を美しいと思ってじっと
見つめる人は非常に少ないと思う。しかし、だからといって美しさを言葉に置き換えるこ
とはできない。美は言葉ではないからである。こういった言葉の問題と美の問題が混同さ
れていることが現代における大問題だと私は考えている。
では、どのようにして視野を広く持つことと美の問題とを結びつけることができるのか。
視野を広く持つこととは広く視野を持ったように空想することではない。実際に自分の知
覚を使って身をもってわかり、自然と辺りをはっきりと見渡せるようになる状態のことだ。
例えば、私は『交渉学』に出合って、それを実際に用いることで前よりもコミュニケーシ
ョンがうまくできるようになった、つまり私は一つ辺りをよく見渡せるようになったとい
っても差し支えないのである。従って美の問題と共通して言えることは、まず自ら経験す
るということが重要である、ということだ。椿の花を「椿」という知識で処理してはなら
ない。自分の目でしっかりと見つめてみるべきだ。現代人はこの自分の目を使ってものを
見ないというそのことこそまず何よりも改善されるべき問題なのだ。私はこの問題に対し
て社会に強く発信したいと考えている。はじめに円了の言葉を引用した中に「活眼」とい
う言葉があった。円了は触れてないが、
「活眼」とはおそらくこのような美に関する心眼の
こと言っているのではないだろうか。私たちには関係ありませんなどと言わないでほしい。
この問題は誰にも開かれているのである。
この哲学塾で学んだことはこれからの社会問題を考える上での準備が整ったと考えてよ
いでしょう。半学期であったが、志の高い仲間と時間を共にできたことは私にとって幸せ
であった、心からお礼を申したい。
以上、
24