ローマ帝国 と キリスト教

ローマ帝国
と
キリスト教
目
次
第1章:イエスの最期
第2章:世界宗教の誕生
A:ペテロの変身
B:パウロの変身
C:ネロの迫害
第3章:キリスト教とローマ帝国
A:キリスト教の国教化
B:保護を失ったキリスト教の運命
C:国王を凌ぐ教皇
第1章:
イエスの最期
時は西暦30年頃、場所はイスラエル。当時、ローマ帝国の支配下にあり、総督のピラト
が治めていたが、実際は、ユダヤの民のリーダーの祭司たちに政治を委ねていた。
当時のイスラエルは、神からの恩寵が一番届かない国だった。風すさぶ、荒野のあちらこち
らには、無念、息絶えて死んでいったのだろう、その者の死骸(むくろ)が転がっていた。
飢えで死んだのか、疫病で死んだのか?その死骸と化した死者の生肉を狙って、空を飛び交
うハゲタカ。特に、ナザレ地方は、荒涼たる有様だった。ゴツゴツとした岩肌を見せる山ま
た山。その麓に、拡がったすそ野。枯れた雑草以外には、何も生えてない。そんな中、人々
は、肥沃な土地を求め、集落を形成し、たくましく生きていた。その集落から少し離れた、
その原っぱの一隅。そこに、50人ぐらいの人々か、たむろしていた。
晩秋の夕暮。底冷えのする肌寒さのため、皆、長年の垢が浸みこんだ粗末なボロ着を、何
枚も着こんでいた。みすぼらしい身なりの人々の一群だった。小高い丘に座り、脚を投げ出
したり、寝そべったり、それぞれ、気楽な格好で、一人の青年の話に聴き入っていた。彼も
みすぼらしい身なりだった。
遠くで木枯らしの音が聞こえる。しかし、彼らの心は暖かかった。時折、夕日が青年の顔
を、紅く照らし出す。やつれてはいたが、慈愛に満ちた表情だった。そして、その青年の話
に、ウットリして、聴き入っている人々。安堵に満ちた顔、顔、顔。その中にペトロも居た。
ダビデ王、ソロモン王の治めた栄華の時代は、もう遥か 1000 年も昔のこと。ユダヤの民の
多くは、私利私欲のみに走る指導者の下、貧困と病苦に喘いでいた。青年は、語り続けた。
「『貧しき者は幸いなれ』と神様はおっしゃっています。だから、わたしたちは、貧しい事
を、嘆いてはいけません。神様は、わたしたちの心の中に、しっかりと、無上の宝物を、植
えつけてくださっています。ただ、富んでいる者は、外に僅かな宝を持っているため、心の
中に在る大きな宝物に、気がつきません。不幸なのです。しかし、私たち貧しい者には、貧
しいが故、それが見えるのです」
その青年は「イエス」と呼ばれていた。やがて、青年を中心に、12人の仲間が出来た。ペ
テロもその一員だった。彼らは、一団となり、ユダヤの民の中に入っていった。神の言葉を
告げるべく、布教の旅を続けた。病人が居れば、患部に手を当て、共に祈った。各地で、彼
らは、様々な奇跡を起こしながら、ユダヤの民を励まし続けた。共鳴する者も増え、イエス
の名声は、国中に広まるまっていく。
しかし、その高まる名声を喜ばぬ者が居た。大祭司カバヤを中心とする、ユダヤの指導者
たちだ。
ある日、イエスは大祭司カパヤの官邸に連行された。やがて、イエスに対する審問が始ま
った。早朝にも拘わらず、この審問には、多くの青年たちが、傍聴席につめかけていた。ペ
テロも、その一人であった。ただ、傍聴に来ていたのは、ペテロのようなイエスの共鳴者だ
けではなかった。パウロという青年は、ユダヤの民の中で、ローマの市民権を持つほどの裕
福な家庭に育ったが、指導者の腐敗ぶりには、批判的だった。しかし、同時に、イエスの説
法も、病人や貧乏人など、社会の底辺に属する人々には、熱狂的に支持されているものの、
そこに、彼は、いかがわしい物を感じ取りっていた。彼らは、将来、暴動を引きおこす!そ
う思い込んでいた。それ故、彼は、イエスを迫害する立場を取っていた。
審問は、傍聴する様々な人々の思いを乗せて、始められた。
「イエスと言うのはその方か?」
カバヤは見下した表情で言葉をかけた。
「はい」
「お前は、自分の事を神の子と言っているらしいが、神の子にしては汚い服装だな」
カバヤは、嘲る様な口調で、イエスを詰問し始めた。
その質問にイエスは答えようとはしない。
「答えたくなければ、答えなくてよい!ただ、お前は、魔法を使い、民の心を惑わし、ワシ
たちに背くように扇動しているというではないか」
「わたしは扇動などしていません。ただ、民が貧困に喘いでいるというのに、何の手も差し
伸べようとはしない、あなた方には、失望しているだけです」
イエスは声高々に言い放った。
カバヤは、その迫力に、一歩引きさがった。ペテロも驚いた。普段あれほど優しく語りか
けるのに、この怒気を含んだ、言葉はどこから出て来るのだろう?
「あなたがたは、民に奉仕する身ではありませんか?神の、御心を政治に反映すべき身では
ありませんか?こんな思いやりのない政治が続けば、やがては、この国も亡ぶでしょう」
イエスはたたみかけた。傍聴席のどこからか、
『やっぱりイエス様は、神の子だ』との声が
沸き起こった。
しかし、その声を待っていたかの様に、カバヤが口を開いた。
「イエスとその仲間め!とうとう正体を現しよった。これで、お前が、
『神の子』と名乗り、
民衆を扇動していた事は明白だ。お前は、この国に対する反逆者だ、そして、
『神』に対す
る冒涜者だ」
「そうだ。そうだ。この男を死刑にしてしまえ」
傍聴席に居る、イエスを快く思わない者たちから、声があがった。
「オイ、オイ。そんな物騒な事を言うな。すべては、総督のピラト様が、決定される。ワシ
は、今日の審理の模様を報告するだけだ」
カバヤは落ち着きはらっていた。ただ、言葉とはウラハラで、もう既に、彼は、イエスの死
刑を決めていた。
審理を終えてから3日後。イエスは十字架を背負い、ゴルゴダの丘に向かっていた。ゴルゴ
ダの丘?それは、凶悪な犯罪者が極刑に処される刑場であった。イエスは、やがて、自分が
張りつけにされるであろう、重い十字架を背負い、ゴルゴダの丘までの長い道を歩かされた。
途中、幾度、よろけ、倒れたことだろう。
実は、イエスの処刑についての決定については、ローマ人の総督ピラトに任されたものの、
彼は、「十字架での磔」という極刑の執行には、躊躇した。イエスの主張にも一理あると思
ったからである。しかし、カバヤから、
「イエスは民衆を惑わし、暴動を企んでいる」と脅
かされれば、立場上、イエスの極刑を認めない訳にはいかなかった。
イエスの処刑が始まった。最初に、ゴルゴダの丘に十字架が立てられた。次に、イエスのや
せ細った身体が、十字架にくくり付けられた。そして、ローマ兵によって、容赦なく、イエ
スの身体に、やりが突き立てられた。身体から流れだす真っ赤な血。声をあげて号泣する者。
石を投げ込む者。見物の者たちの反応は、様々であった。かくして、イエスの処刑は、無事、
滞りなく終わった。
この成り行きを、2人の青年が、じっとみていた。ペテロとパウロである。
この瞬間、ペテロはイエスを見限った。あれほど慕っていたのに。イエスは神の子!死な
ないと思っていたからである。しかし、奇跡は、起こらなかった。イエスは、神から見放さ
れ、ただの、殉教者として死んでいったのだ。
一方、この瞬間、パウロは、イエスの死に、荘厳なものを感じた。今まで、あれほど、キ
リスト教徒(イエスを信奉する人々という意味で)を迫害してきたのに、
「この人は、私た
ちの罪を、一身に引き受けて、死んでいったのではないか」という疑問が、強烈に、パウロ
の心を貫いたのだ。
その刹那、天上では雷が光った。それに導かれるように、激しく、音を立てて、雨が降り
始めた。やがて、その雨は、残虐な光景を洗い流し、イエスの赤い血を吸収し、雨水となり、
刑場に来た人々全ての足許を、徐々に、濡らしていった。当然、ペテロの心にも、パウロの
心にも、深く、深く、浸みこんでいくのであった。
第2章:世界宗教の誕生
A:ペテロの変身
イエスが処刑された後、イエスを慕った者(今後、信者と呼ぶ)たちは、イエスの死をど
う受け止めたのだろうか?男性信者と、女性信者とでは、明らかに違っていた。
人間は考える時、脳の左側領域と右側領域をバランス良く使っているが、左脳は論理的な
思考に、右脳は情緒的な思考に適していると言われている。
男子信者は左脳を使って理解しようとしていた。彼らは、イエスは神の子であるという前
提に立っていた。イエスは神の子である⇒イエスは処刑されても死なない⇒だから、僕たち
は救われると信じていた。ところが、イエスは目の前で、ローマ兵にヤリで突かれ、血まみ
れになり、惨たらしく死んでしまった。イエスは神では無かった⇒僕たちを助けてはくれな
い⇒だから、僕たちは犯罪人として裁かれる。処刑前とは、正反対の結論を出したのだ。
男性信者の信仰は、打算的なものであったのだろう。あれほど熱心に布教活動をしていた
ペテロでさえ、信者の仲間たちから距離を置こうとした。イエスと一緒に布教活動していた
事実さえ隠したかった。
それに比べ、女性の信者は、右脳を使って理解しようとしていた。情緒的な思考だ。彼女
らは、先ず、イエスの惨たらしい最期に心を痛めた。お可哀そう!やがて、
「イエス様は、
私たちの罪を一身に背負われたのではないのかしら」と気持ちが芽生えた。そして、その気
持ちは、感謝の念へと昇華していく。
イエスが死ぬまでは、布教活動は、男性信者の方が、熱心だったが、イエスが亡くなって
からは、女性信者の方が熱心だった。ただ、この時の布教活動は、イエスの葬られたとされ
る墓に詣でては、イエスを偲ぶだけのものであったが。
そんなある日、ペテロの許に、
『マグダラのマリア』と呼ばれる女性信者から、
「イエス様
が復活された」という連絡が入った。まさか?驚いたペテロは、半信半疑。イエスが復活し
たと言う場所に駆けつけた。すると、どうだろう?先日、処刑された十字架の前に、女性信
徒たちに囲まれ、穏やかな表情のイエスが立っているではないか!肝をつぶした。処刑前の、
あの、やせ細った、弱弱しい姿ではない、処刑された時の、血を流してうなだれている、惨
たらしい姿ではない。まばゆいばかりの黄金の光に包まれた、堂々とした姿であった。
イエスはペテロの姿を見つけた。
「ペテロよ!遅かったではないか。私は、今から、神の許に参ります。今後は、お前たちだ
けで、神の言葉を、全てのユダヤの人たちに、いや、世界の人々に、伝えなさい!」
「分かりました!」
ペテロは恭しく頭を下げると、イエスの許へいざり寄った。そして、イエスの手に接吻をし
た。それは、周りの女性信徒が羨むほどの、神々しい光景であった。
B:パウロの変身
一方、パウロはイエスの死に大きな衝撃を受けていた。
確かに、イエスはローマ兵の槍を突きたてられ、真っ赤な血を流し、死んでいった。息絶え
る時の苦痛の顔も、はっきりと、この目で見た。全て、想定内だった。しかし、その後に続
く穏やかな微笑は何故だ?僕たち、イエスを迫害した者たちに対しても、その微笑は向けら
れているような気がしてならなかった。
僕がイエスたちに石を投げつけたのは、周りの者が、イエスを「神の子」と崇めているか
らだ。イエスは民の貧困に付け込み、民の無知を良い事に、国家に反逆する様、民を煽って
いると思ったからだ。神は「ヤーベ」以外になく、あの偉大なモーゼさえ、予言者だ。必ず、
いつかは、死ぬ運命の“人間”だったのだ。
だから、パウロには、イエスの存在は、あり得ない事であった。しかし、この頃、パウロ
のこの信念は、ぐらつき始めていた。
そんなある日の晩。不思議な夢を見た。
イエスが夢に現れたのだ。驚いた。あのやせ細ったイエスではない。重い十字架を背負い、
数回にわたってふらつき、倒れた、あの弱々しいイエスではない。逞しい体格をした、しか
も黄金の光を放つ、神々しいまでのイエスであった。
パウロは、その荘厳さに、思わず、その場にひれ伏していた。
「今まで、迫害をつづけて、申し訳ありませんでした」
パウロの口から意外な言葉が発せられた。
イエスは穏やかな表情でパウロを見ていた。
「地獄に落とされても仕方ありません。それだけの大罪を犯したのですから」
パウロは叫んだ。イエスは微笑を浮かべただけで、黙ったままだった。やがて、
「パウロよ!心配しないで良い。間違っていたなら、悔い改めれば良いではないか」
イエスが優しく諭した。
「イエス様!私は、今まで、あなた様を、ひどく、憎んでおりました。無知な人々を惑わす
元凶と思っていたからです」
「私を憎んでいた?」
「ハイ!」
「それは私たちの教えに強い関心を抱いていたからです。」
イエスは、しばし、黙った。そして言葉を継いだ。
「『憎しみ』は『愛』への一歩手前です。一番いけないのは『無関心』です。神の言葉は響
きません」
その言葉は、パウロには、おぼろげながらではあるが、理解出来た。
「パウロよ!お前は、神の言葉を受け入れようとはしない人々の気持ちは、よく分かるはず
だ。だから、弟子のペテロと共に、神の言葉を、弘めてくれないだろうか?」
その言葉は、パウロには、重かった。ペテロは信者を率いていくには十分なキャリアがある。
しかし、私は、今まで、迫害してきた立場だ。それは無理だ。
「イエス様!光栄な話ですが、私には、そんな資格はありません」
「パウロよ。よく聴いてくれ。お前も知っているように、私の信者は、この国の貧困とか病
気に苦しむ、底辺の人ばかり。無知の集団と嘲笑われて無理はない。信仰の喜びは知ってい
ても、信仰の素晴らしさを知っていても、それを、言葉に表して伝える術を知らない。それ
故、パウロよ!今まで培ってきた、お前の学識が必要なのです。
」
その言葉に、パウロは感動した。ここまで私に信頼して下さるのだ。パウロの腹は決まった。
C:ネロの迫害
西暦60年代。キリスト教の信者は、イスラエルという国境を超え、世界の中心であるロ
ーマにまで、神の言葉を弘めていた。中心人物は、ボス的存在のペテロ、それを教義の面か
ら支えるパウロであった。
当時のローマは、100万もの人々が住む大都市だった。ローマ人以外にも、世界各国の
多種多様な民族の人々が住んでいた。しかし、彼らは、大人しく、ローマの風習に従ってい
た。というのは、彼らが住む、ローマ帝国は、建国以来、いろいろな神を崇拝する「多神教」
の国であったからである。
そんな中、ただ一つの神しか信じない、キリスト教徒は、ローマにとって、特に、皇帝に
とっては、異邦人、厄介な存在であった。
時は、皇帝ネロの時代。そんなある日、ローマで火事が起きた。町の大半が焼失するとい
う大惨事であった。普段から、キリスト教徒を快く思っていなかったネロは、
「この火事は、
ローマを滅ぼそうとしているキリスト教徒の仕業だ」と言い放ち、ローマ中に居るキリスト
教徒を捕まえた。そして、そのリーダーのペテロとパウロを、その企ての首謀者として、処
刑した。
ネロは、自分の力を誇示するため、ペテロとパウロの死体を、見せしめとして、晒した。
ペトロとパウロの惨たらしい骸(むくろ)は、師匠であるイエスの時と同様、公衆の面前に
晒されたのだ。しかし、イエスの時とは違っていた。嘗ては、権力者の恫喝に怯え、逃げよ
うとした“男性信者”も、今回は、逃げようとは、しなかった。それどころか、ペテロとパ
ウロを、名誉ある『殉教者』と、讃え、その屍を乗り越え、より力強く、前進を始めたのだ。
筆者は、この時を以って、キリスト教は、
『ユダヤの民族宗教』というカテゴリーを超え、
世界宗教になったと考えている。
ただ、それからも、キリスト教徒への迫害は続いた。クリスチャンは、闘技場でライオン
に食われるなど、様々な迫害と戦いながら、布教を続けたのだ。皇帝コンスタンチンの勅令
で、キリスト教が容認されるのは、まだ、200年も後の事であった。
第3章:キリスト教とローマ帝国
これからはキリスト教が政治権力とどう関わっていったかを検証したい。
A:キリスト教の国教化
イエスが処刑され時、
“マグダラのマリア”など一部の女性を除いて、信者のほとんどは、
不信に陥っていた。まさに、キリスト教は、絶滅せんとしたのである。その、キリスト教が、
イエスの“復活”により、新たに生命を得た。そして、キリスト教徒は、以前よりも、信仰
に厚くなり、各地に布教し、後に、世界宗教として、最大の団体になるまで発展する。
彼らは、イスラエルのエルサレムに信仰の拠点を置いていたが、やがて、ローマに、アレ
クサンドリアに、コンスタンチノープルに、アンチオキアに、“5本山”と呼ばれる、拠点
を構え、布教に励むようになる。
その中でも、ローマの拠点は、
“ローマ教会”と呼ばれ、後に、世界一の信者数を誇る、
カトリックの教会となる。
そのローマのキリスト教徒は、ペテロ、パウロなど多数の殉教者を出すなど、多くの迫害
を受けながらも、キリスト教は、広まっていった。でも、その歩みは、順調ではない
さて、新規の思想・宗教が定着していくのに、①無視②関心③嫌悪④承認という段階を経
て発展すると考えられている。具体的な例として、キリスト教がローマに広まったケースを
日本のケースと比較して検証してみたい。
①無視の時期
ローマ帝国の属国に過ぎないイスラエル。そこに住む下層の人々が、
“神の愛”という
新規の思想を、文化の中心であるローマの人に、説く。初めは、無視された。当然の事であ
ろう。辺境の地から来た“異教の神”なんて関心が無かったからである。
日本にキリスト教が上陸した時は、どうだっただろう?この時期は無い。先進国のヨー
ロッパから目を見張るばかりの文明と共にやってきたからだ。九州の戦国大名は、こぞって、
キリシタン大名となった。スタートは、日本の方が、はるかに良かったのだ。
②関心を持ち始める時期
ローマの人が、キリスト教徒の説く“神の愛”に関心を持つようになるのは、ローマの
社会構造の変化に因るところが大きい。元来、ローマは、質実剛健の気風を持つ都市国家。
徴兵制で集められた兵士は、“勇敢”で“愛国心”も強かった。王政を打破し、少数の貴族
と多数の平民から成る共和制の国だった。国の発展期であり、人々の心も充実していた。
ところが、その勇敢で愛国心に満ちた兵士による軍隊が、周辺の国であるカルタゴ(今
のチュニジア)
、エジプト、ガリア(今のフランス)
、ブリタニア(今のイギリス)などの国
を、切り従えていくにつれ、ローマの社会構造は変容していく。戦に勝つのに比例し、征服
した国からの様々な戦利品や奴隷たちがローマに流れ込む。
“すべての道はローマに通じる”
ではないが、ローマには、世界各国の戦利品で溢れかえる事になる。これが、ローマの人々
の欲望をそそった。ローマの質実剛健の気風は薄れ、享楽の消費文化に溺れる事になった。
更に、悪い事に、征服地から連れて来られた奴隷たちによって、ローマの生産は委ねら
れることになった。つまり、ローマの人々は、生産という面倒な事は、全て、奴隷たちに任
せ、自分たちは、それを消費する事だけに参加しようとしたのである。モラルが低下したし
たのは、必然の結果であった。
最後のとどめは、広大な領土を守る、即ち、ローマによる平和(パクスロマーナ)を守
るために、ローマは、広大な領地に、軍隊を駐留させねばならなかった事。(現在のアメリ
カ合衆国と酷似していると思いませんか?)これは、国としても大きな経済的負担でもある
が、大多数を占める平民の生活をも圧迫する事になる。元来、彼らは、自作農であるが、徴
兵制のため、兵士として子供たちを、国に差し出していた。しかし、子供たちは、自国の防
衛のため、征服地から戻って来ないのだ。それ故、耕筰しない土地は荒れ放題、多くの平民
は、多くの奴隷を抱える貴族たちに、土地を売ることになり、没落してゆく。逆に、貴族は
豊かになる。かくして、ローマの社会は、領土が拡大するにつれ、国全体の経済は大きくな
っても、所得格差は拡がり、“持つ者”と“持たない者”の2極分化が進んだのである。
それ故、
“持たない者”にとっては、この現実世界には、希望が持てなくなる。そこに、
キリスト教が、入りこむ、素地が出来たのだ。ローマ帝国の領土拡大と共に、国自体の経済
は良くなっているのに、自分たちの生活は悪くなる。得をした貴族階級(今でいうエスタブ
リッシュメントか?)と比較して、特に、そう感じられたに違いない。そこに、「神の子で
あるイエスを信じ、善行を積んでいけば、最後には、“神の愛”で天国にいけますよ」とい
う『布教』は、何と魅力のある、
『誘惑』でしょう。キリスト教徒の教えは、先ず、
“持たな
い者”から広まっていったのです。
一方、日本では、ヨーロッパの先進国の文明を入れる事が出来るという、信仰的理由と
いうよりは、経済的理由で、“大友”とか“有馬”という地方(主に九州)の支配層が、先
ず、キリスト教を受け入れた。彼らは、キリシタン大名となり、その保護の下、キリスト教
は、その領民に広まっていった。何の苦労も無く。
③嫌悪を生む時期
キリスト教も信者数が僅かな間は、ローマ帝国の権力者は、それほど、気にはしていな
かった。しかし、徐々に増えてくるにつれ、不安を感じて来るようになる。“持たない者”
たちは、
“不満を持つ者”になり、キリスト教徒と手を組んで、反乱を起こすのではないか
という不安だ。イスラエルで見られた迫害の構図が、このローマでも現実となる。
皇帝ネロの時の事は、既に、触れたが、紀元3世紀には、皇帝ディオクレティアヌスもキ
リスト教徒を迫害している。その当時は、軍人が勝手に皇帝を建て、一番武力を持った者が、
皇帝になるという“軍人皇帝”という時代であったが、ディオクレティアヌスが皇帝になる
や、彼は、自分を“神”として国民から崇拝させる“専制君主”に成ろうとした。それ故、
彼は、自分ではなく、イエスを神の子として崇める、キリスト教徒の存在を認める事は出来
なかったのである。
しかし、キリスト教徒は決して怯まなかった。ペテロなど、殉教者の屍を乗り越え、弾圧
のたびに、より一層、信仰は、強靭になり、布教を続けたのである。
日本の場合の場合はどうだろう?
日本では、一部のキリシタン大名の許で、キリスト教徒が、何の苦労もなく、増えた。
しかし、豊臣秀吉が、日本を統一した時、やはり、イスラエルやローマの権力者が、そうで
あった様に、日本の権力者も、キリスト教徒の増加に不安を覚えた。まして、キリスト教徒
のバックには、イエスキリストという異国の神が居り、キリスト教徒を操って“日本の植民
地化”を目論むスペイン国王が居た。異国の神と異国の国王に、乗っ取られるのではないか
と心配した“秀吉”は、異国人である宣教師を追放した。更に、江戸時代になってからは、
徳川幕府は、島原の乱を契機に、キリスト教を禁止し、キリスト教の誘惑を断ち切る様に、
鎖国までしてしまったのである。それにより、日本では、キリスト教は、ローマとは違って、
広まらなかった。上から広まった物は、深く、根を張れなかったという事かも知れない。
④承認の時代
専制君主ディオクレティアヌスの死後、ローマ帝国は、分割して統治される事になるが、
やがて、コンスタンチヌスがローマ全土を武力で制圧し、皇帝となる。その頃には、キリス
ト教徒は、彼の母をキリスト教に帰依させるまでの勢力になっていた。それ故、313年、
ミラノの勅令により、コンスタンチヌスは、キリスト教を公認する事となる。そして、皇帝
テオドシウスの治下の382年、キリスト教はローマ帝国の国教となるのである。
(何故?コンスタンチヌスはキリスト教を公認したのか?)
ある日、コンスタンチンは夢を見る。その夢に、イエスが出て来て、“お前の軍旗に十字
架を掲げなさい”と言ったというエピソードがある。しかし、これは、後に、ローマ教会が
作った物語であろう。彼は、そんなに、純粋な人ではない。全て計算づくだった。
コンスタンチヌスは、自分の政権を安定させるために、宗教を利用した第一号の政治家だ
った。キリスト教徒を自分の勢力に取り込んでしまおうという腹づもりだったのだろう。武
力と宗教の両面で、ローマの民を抑え込もうとしたのだ。
(何故?テオドシウスはキリスト教を国教にしようとしたのか?)
そして、381年、皇帝テオドシウスは、キリスト教を国教と定めた。勿論、粘り強いキ
リスト教徒の布教活動という純粋な信仰的理由もあるだろうが、この場合も、テオドシウス
の『皇帝という地位を宗教的権威で支えよう』という政治的野望があったと考えられる。
自分を神としして崇拝させようとした“ディオクレティアヌス”と、同じ穴のムジナだ。
テオドシウスがキリスト教を国教と定めた時、キリスト教は、
“イエスを神の子として認
めるか?”とか、
“キリスト教徒に宿る聖霊に神性を認めるか”について、様々な解釈があ
り、いろいろなグループに分かれていた。そこで、テオドシウスは、
“自分は神から王権を
与えられた者”である事を、認めさせようという、政治的理由により、そのグループを一本
化する必要に迫られていた。そこで、ローマ帝国内では、
“父なる神と、神の子のイエスと、
聖霊は一体である”という“三位一体”説を唱えるアタナシウス派を正統とした。そして、
それ以外のグループを“異端”として排除した。それ故、アタナシウス派以外は、ローマ帝
国の外のゲルマン人に信仰されることになる
その結果、アタナシウス派に属する、ローマ教会は、今後、ローマ帝国という強大な政治
権力によって、手厚く保護される事になる。
しかし、それは、同時に、権力者の勢力争いにも巻き込まれることになる。
B:保護を失ったキリスト教の運命
キリスト教はローマの国教になって、その国の権力者から保護される事になるが、その国
は、東西のローマ帝国に分裂される。それからというものは、キリスト教徒は、数奇な運命
をたどる事になる。
アタナシウス派以外のグループは、異端とされ、ローマから締め出され、周辺の属国に移っ
ていく。その結果、神の子のイエスに人としての性格を認める“アリウス派”は、ゲルマン
民族に信奉される事になる。
コンスタンチノープルの教会は東ローマ帝国の手厚い保護で生き延びるが、あくまで、皇
帝の支配下に置かれた。やがて、エルサレム、アレクサンドリア、アンチオキアの3つの教
会に属する、キリスト教徒は、イスラム勢力に屈してしまう。
西ローマ帝国のローマに拠点を置いたローマ教会のみが、西ローマ帝国の力が弱かった
ため、皇帝の支配は、受けなかった。しかし、自力で生き延びなければならなかった。
(西ローマ帝国滅亡後も、どうしてローマ教会は生き延びたか?)
ローマ帝国は、テオドシウス以降、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂する。西ローマ帝国
は、領土に多くのゲルマン民族を抱え、それらの民族を支配するには、力が弱かった。従っ
て、ローマ教会は、皇帝からの保護はあっても、多くを期待できなかった。だから。自力で、
アリウス派を信奉している“ゲルマン民族”にも布教をしなければならなかった。
そういう事情もあって、ローマ教会は、教父アウグスチヌスの時、教会こそ“神の国”だ
と主張し、教皇を頂点としたヒエラルキーを組織し、皇帝の権力とは一線を画した。
それに比べ、東ローマ帝国の方は、スラブ民族の南下を恐れるだけで、皇帝の領土に対す
る支配権は強かった。それ故、コンスタンチノープル教会は、皇帝による保護は厚かった。
しかし、それが為、教会のトップは、皇帝から任命されるなど、皇帝の権力に服さねばなら
なかった。
(西ローマ帝国の滅亡)
ローマの防衛は、兵役を忌避する市民を背景に。その頃までには、外国人の傭兵に委ねら
れていた。476年、西ローマ帝国は、ゲルマン民族の大移動の結果、帝国の傭兵の裏切り
により滅亡する。保護を失ったローマ教会は、生き延びるために、2つの事をしなければな
らなかった。
その一つは、西ローマ帝国に変わる政治権力を探し出し、その国にすすり寄る事。西ロー
マ帝国の滅亡により、多くのゲルマン民族の国家が建てられたが、ほとんどは、“ローマ帝
国が異端として排除した”アリウス派を信奉していた。その中で、唯一、フランク王国のみ
が、アタナシウス派に改宗していた。それ故、ローマ教会はフランク王国にすすり寄るのだ
が、このフランク王国が、ヨーロッパの大部分を制覇する大国になる。神のご加護か?歴史
の不思議である。
もう一つは、
“目に見えない物は信じられない”というゲルマン民族の“科学的”な性格
に合わせて、本来は禁じられている、“偶像崇拝”による布教をも、認めた事である。これ
によって、ローマ教会は、ゲルマン諸国家に勢力を伸ばす事に成功する。しかし、東ローマ
帝国皇帝の怒りを買い、コンスタンチノープル教会とは絶縁状態になる。
(フランク王国の躍進)
フランク王国とローマ教会は、
“相思相愛”の関係になり、共に、勢力を広げていく。
751年に即位した、フランク王国の国王、ピピンが、北イタリアを領土にした時、その一
部を、ローマ教会に寄進する。ここが、今で言うバチカンで、今後、ここから、ローマ教皇
は、世俗の権力者と肩を並べ、中世の歴史に、大きな影響力を与えていくことになるのであ
る。
800年、ピピンの息子、カールは、イベリア半島と南イタリアを除く、全ての西ヨーロ
ッパを征服。ローマ教会のトップである“ローマ教皇”レオ3世により、
“ローマ帝国の後
継者”と認められる。
“フランク・ローマ帝国”の“カール大帝”の誕生である。そして、
それは、同時に、ローマ教会の、東ローマ帝国からの自立の時でもあった。
(神聖ローマ帝国の躍進)
カール大帝の死後の843年、フランク王国は、西フランク王国(現在のフランス)
、東フ
ランク王国(現在のドイツ)、イタリア王国の、3つの王国に分裂。その後、その内の一つ、
ドイツ地方を地盤とする、東フランク王国が、躍進。オットーの時、そのイタリア王国にア
ジア系のマジャール人が侵入。ローマ教皇領の“バチカン”が危機に晒された時、教皇の要
請で、東フランク王国の国王のオットーは、イタリアに遠征。マジャール人を撃退。その功
績で、962年、オットーは、ローマ教皇より、“ローマ皇帝の後継者”と認められ、初代
の“神聖ローマ帝国”の皇帝となる。
やがて、皇帝不在の“大空位時代”を経て、“ハプスブルグ家”が、その皇帝の位を世襲に
至る。1519年に即位した、カール5世の時には、ベネルクス3国、スペイン、ドイツ、
ポーランド、オーストリア、ボヘミア、南イタリア、ハンガリーなど、多民族を含む、大帝
国になる。
(東ローマ帝国の滅亡)
東ヨーロッパを勢力圏にしていた東ローマ帝国は、異民族のロンバルド王国により、北イタ
リアを奪われ。バルカン半島に移る。その後、ササン朝ペルシアとの戦いに疲れた東ローマ
は、イスラム勢力にシリア、エジプトも奪われ、1453年には滅亡する。
(十字軍はなぜ起こった?)
11世紀に入り、東ローマ帝国の東方の領土である、小アジア地域(今の中近東)に、イ
スラム系のセルジューク朝が進出。東ローマ帝国は、スラブ民族の南下以外にも、東方の防
衛にも、力をいれなければならなくなっていた。
この時、自力だけでは、この東方のイスラム勢力と戦うのは不利と考えた、東ローマ帝国皇
帝のアレクシオス1世は、フランク王国などの西ヨーロッパの国々の力を借りようと思っ
た。そこで、考えたのが、キリスト教徒の信仰心を利用する事だった。それ故、彼は、先ず、
“キリスト教の聖地”の“エルサレム”がイスラム勢力の支配下に入って、キリスト
教徒が、イスラム教徒に迫害されていると言うデマを流した。次に、ローマ教会のトップの
ローマ教皇のウルバヌス2世に、聖地奪還を呼びかけた。上手い、政治家の宗教利用である。
このローマ教皇も、したたかな男だった。ここで、東ローマ帝国の皇帝に恩を売っておけ
ば、コンスタンチノープル教会よりも、今後、優位に立てると考えた男は、フランク王国を
はじめとするゲルマン民族国家の人々に、
『我が同胞のキリスト教徒を邪悪なイスラムの手
から守ろう』と、
“キリスト教徒の決起”を呼びかけた。この男も、教会の発展という、利
己的な目的のために、キリスト教徒の純粋な信仰心を利用したのですネ。こうして、結成さ
れたのが十字軍でした。決して、純粋な信仰目的ばかりでは、無かったのです。
その結果、聖地エルサレムは、キリスト教徒の手に奪還されるのですが、これ以降、この
地では、キリスト教徒(もしくわユダヤ教徒)とイスラム教徒の因縁の戦いが、現在まで続
くことになります。
C:国王を凌ぐ教皇
ヨーロッパにおいて、ゲルマン民族の王国のトップたちは、ローマ教会の“偶像崇拝”を
認めた布教により、徐々に、アタナシウス派に改宗。その国を支配する権利を、神から与え
られたものと『国民に思わせる』ため、神の代理人と称するローマ教会のトップである教皇
から、王冠を戴くという儀式を取るようになる。これも、政治の宗教利用ですネ。一方、武
力を持たないローマ教会側は、その国の国王によって保護される。宗教の政治利用である。
そして、両者は win-win の関係の蜜月状態で繁栄していく。
①カノッサの屈辱
アタナシウス派のローマ教会は、
“父なる神”、
“子なる神のイエス”、そしてキリスト教徒に
降り注ぐ“聖霊”は一体である、という“三位一体”説を採っていたが、その聖霊は、“ロ
ーマ教会”にのみ、降り注ぐとしていた。それ故、全キリスト教徒は、ローマ教会で、“神
のこの世での代理人”の聖職者の手で、出産の際は洗礼を受け、結婚の際は祝福され、死亡
の際は葬られた。それが、
“神の国”というものであり、その国の実現に、ローマ教皇⇒大
司教⇒司教⇒司祭と言った、聖職者階層組織(ヒエラルキー)がフル回転したのであった。
それ故、王権のトップである皇帝、それに連なる封建領主も、キリスト教徒である以上、こ
の習慣に従わねばならなかった。
ところが、やがて、この蜜月状態も、破綻。ローマ皇帝とローマ教皇の間に、封建領主の
支配をめぐって、対立関係になる。1077年、ローマ教皇は、キリスト教の信徒のトップ
であり、且つ、王権のトップでもある“神聖ローマ帝国の皇帝”を、
「お前は、
“キリスト教
徒”とは認めない」、つまり、
“破門”という暴挙に出る。それ故、困った、時の皇帝は、
“破
門を解いてくれ”と、ローマ教皇が滞在する“カノッサ城”の門前で、雪の降る中、三日三
晩ローマ教皇に懇願し続けた。これが、カノッサの屈辱と呼ばれる事件だ。これを境に、教
皇の権力が王権を凌ぐようになる。
十字軍の遠征は、その事を象徴するものと言えまいか?これについては、面白いエピソード
がある。最初、ローマ教皇が、十字軍の決起を促した時、スローガンは“東ローマ皇帝を助
けよう”だった。しかし、この時、十字軍は結成されなかった。2回目のスローガンは“聖
地を奪還しよう”だった。すると、容易に、十字軍が結成されたと言われる。
(宗教改革)
ところが、ローマ教皇の力が強くなるにつれ、その聖職者組織も、純粋な“信仰的”使命感
も忘れ、華美な生活に溺れていく。本来の目的である、
“神の国”の実現どころではなくな
っていった。本来、
“神と信徒の架橋”たるべき、
“神の代理人”の聖職者の中には、妻帯す
る者まで現れた。
そんな中、営利目的で、
“免罪符”なる物を売り出す聖職者まで現れた。
元来、“免罪符”なるものは、キリスト教の信仰で救われた信者が、その感謝の思いを持っ
て、今までにしてきた様々な“悪い行い=罪”に対して許しを請う。と、言う、純粋な信仰
目的な、お金の社会への還元のための、道具であった。ローマ教会の一部の者は、信仰的に
は堕落した華美な生活を維持するため、その“免罪符”という“神聖な”道具を使い始めた
のだ。
ドイツでそれはヒドかった。それに対し、立ち上がったのが、ルターだった。
彼は、更に、ローマ教会の、“神の国”達成のための組織が、信徒からの搾取組織に成り下
がってしまっていた、ヒエラルキーについても疑問を呈した。神と信者を繋ぐものは、本来、
“聖書”である、何も聖職者を通じて教えてもらう必要はない。神の代理人を自称する、聖
職者は不要と言うのだ。これも、グーテンベルグな活版印刷の発明により、“聖書”が容易
に、信徒の手に渡るようになったからだろうネ。
この動きは、ドイツ以外でも、見られる様になる。彼らは、“プロテスタント”と呼ばれ
るようになる。
(最後に)
近代に入り、ローマ教皇の世俗的な地位は落ちた。
一つは、
“国家意識”が芽生え、国の権力者の地位が上がった事。もう一つは、国の権力者
は、その権力の基盤を“神の権威”に求める事なく、“国民の意思”に求めるようになった
からであう。
ローマカトリック教会も、政治権力との直接な関わりはなくなり、本来の姿に戻ったとい
うべきであろう。グローバルな問題の“平和”
、
“人権”こそが、ローマ教会が解決すべき問
題だ。