明治30年代の竹島漁業関係資料の発見について 1.資料1について ・資料名:「家系永代記録 板屋」 ・資料作成年月:1977(昭和52)年1月 ・所蔵者:隠岐の島町 個人 ・大きさ:縦298mm×横205mm ・内容:隠岐の島町久見の八幡才太郎(1889~1979)が、生前に自分の来歴等を子孫の ために記録したもの。八幡才太郎は、五箇村収入役、五箇村議を歴任。1954年5月の竹 島での試験操業にも参加した。板屋は八幡才太郎の家の屋号である。 ・竹島との関連:高等小学校卒業後の記録のなかで、八幡才太郎の親戚石橋松太郎(1863 ~1941)【写真1】が明治30年頃に竹島へアシカ取りに出かけた様子が具体的に記録さ れている。 2.資料2について ・資料名:「竹島貸下海驢漁業」 ・資料作成年月:1905(明治38)年から1907(明治40)年 ・所蔵者:島根県公文書センター所蔵 ・資料1との関連:島根県庁は1905年竹島の漁業許可を認可する際に、1904年、1905年の 竹島での漁業実績を調査した。この竹島での漁業実績書のなかに、1904年、1905年の 石橋松太郎組の漁業従事者の記録や収支計算書等があり、竹島での漁業の実態が具体 的に記されている。 3.特記事項 (1) 隠岐の島町役場竹島対策室では、島根県庁総務部総務課竹島対策室の協力のもと、隠岐 の島町内で竹島に関する資料調査、聞き取り調査を継続して実施している。昨年9月隠岐 の島町内の関係者から、新たな資料についての情報提供があった。それが資料1である。 (2) 隠岐漁民による竹島でのアシカ猟は、1906(明治39)年3月の竹島・鬱陵島視察の報告 書にあたる、1907年の奥原碧雲『竹島及鬱陵島』によると、「海驢漁業の基因」として、 「商業または鮑採捕のため鬱陵島へ渡航の途中、本嶼に海驢の群棲するを実見せしは、 久しき以前の事なれども、該獣を捕獲して、内地に輸送するに至りしは、僅に8,9以前な るが如し。今を距ること8,9年前、隠岐国漁夫、鬱陵島にて難破せし漁船捜索のため、本 島に渡航せしに、海驢の群棲せるを見、五六十頭撲殺して内地に送り、相当の利益を得 しことを得たり」とあり、編入前の明治30、31年頃に遡ると考えられている。また、竹 島で本格的にアシカ猟を始めたのは久見の石橋松太郎といわれている。1966年の川上健 三『竹島の歴史地理学的研究』によれば、「(明治30年(1897年)という年には)同じ く隠岐の穏地郡五箇村在住の石橋松太郎および代春一も、小型漁船で竹島に出漁してあ しか猟を行なっている」、「石橋はその後も年毎渡島して同島に一定期間滞在してあし かの捕獲を行なった由である」とある。竹島でのアシカ許可漁業者一人である橋岡忠重 のメモによれば、「竹島で一番最初に行った人は私には判りませんが、話に依れば明治 三十六年頃に石橋松太郎や中村の井口と言ふ人と事業をされ」とある。1977年3月八幡才 太郎による福田首相への直訴状には、「明治三十年頃に久見地区故石橋松太郎村議がア シカ捕獲のため竹島に出漁、捕獲したアシカの表皮を塩漬け、肉より油を取り、阪神方 面に出荷して約十年間位、氏の事業を続けて居りましたが、何国からも抗議や干渉を受 けた事実はありません」とあり、石橋松太郎が竹島でのアシカ猟を開拓したとされるが 判然としなかった。また、隠岐の島町での聞き取り調査では、2013年石橋松太郎の孫佐々 木恂氏から、石橋松太郎の竹島での漁業の具体像について初めて確認することができた。 今回石橋松太郎による竹島漁業の具体像を示す資料が見つかったのは初めてである。 (3) 資料1の内容は以下の通りである【写真2、3】。 「一、高等小学校卒業後は何処かの書記か警察官志願を志して居りました処、大変な事 態に出合いました。私の母のイトコに石橋松太郎がありました。明治二十五六年頃に高 利貸を初めました。当時は道路もなく山道でありましたので、馬に乗って島内を廻って 居りました。又明治三十年頃にランコ島(竹島)にメチ(アシカ)取りに人を雇って行 きました。火縄銃で打死し、皮を塩漬けとし油を取り、大阪方面へ送りました。船長は 島前別府、米屋、性は近藤、私宅の近所に妻と長男久蔵と暮して居りました。メチの皮 や貝類、魚等を沢山貰います。石橋は竹島より船の帰る度に部落の有志を集めて、肉、 魚貝類を集めて酒盛を致します。家も新築しました。新築祝には島後旦那様を集めて盛 んな祝いを致しました。部落民は皆殿様暮しとほめておりました。」竹島での漁業の実 態が具体的に記されている。 (4) 資料1のうち、石橋松太郎が馬に乗って、島内をまわっていたという話や竹島での漁業 が非常に儲かったという話は、石橋松太郎の孫佐々木恂氏さんが同様の証言をしている。 竹島でのアシカ猟のため、人を雇ったという話は、資料2の1903、1904年における竹島漁 業の実績報告書において石橋松太郎組の従業者の一覧が出ている【表1~4】。火縄銃で アシカを打死したという話は、同じく、資料2の1903、1904年の竹島漁業の実績報告書の なかの石橋松太郎組の収支計算書において、銃、鉛が出ていることが確認できる【表5、 6】。アシカの皮を塩漬けし、油をとって、大阪方面へ送ったという話は、同じく1903年 の石橋松太郎の収支計算書において、皮(塩漬)は大阪、肉(乾肥)は隠岐、油(石油 空缶)は大阪、隠岐へ販売されたと記されている。船長の西ノ島町別府の屋号米屋や苗 字近藤は、1903年の石橋松太郎組の従業者に、別府の近藤安太郎と米屋、1904年石橋松 太郎組の従業者に、別府の近藤安太郎と近藤謙八が出ている【表1~4】。このように、 八幡才太郎のメモによる竹島漁業は、島根県庁所蔵の記録、隠岐での聞き取り調査の結 果により裏付けることができた。 (5) 八幡才太郎のメモは、これまで明らかでなかった、明治30年代の隠岐漁民石橋松太郎に よる竹島漁業の具体像を示す資料として重要である。資料の内容は明治30年代の島根県 庁の記録により裏付けることができることから、信憑性が高いといえる(一方韓国側で は、韓国側研究者及びわが国の一部研究者により、1962年の新聞記事に掲載された韓国・ 巨文島住民の証言、すなわち、1900年前後にイカダで鬱陵島から竹島に向かい、アシカ 猟を行ったという証言をもとに、韓国人も竹島で漁業をしていたことを史実として捉え ているが、沿岸漁業で使用するイカダで、竹島へ移動して、アシカ猟を行うという部分 は極めて信憑性に欠けており、とても史実として捉えることはできない)。竹島でのア シカ猟は、明治30年代の時点で、猟のための従業員、小舟、銃、鉛、網の確保、アシカ 皮や肉の加工のための塩の確保、従業員が生活するための米、味噌、醤油などの食料の 確保、それらの運搬のための輸送船の確保など、多額の資本の要する企業的な漁業であ った。韓国人が竹島のアシカ猟に参画するのは、早くて1904年、山口県人で鬱陵島在住 日本人の岩崎組の従業者として出かけるのが初めてであり【表7】、竹島でのアシカ猟に おいて日本人と韓国人との競合は起きていなかった。石橋松太郎による竹島での漁業経 営が、西郷の中井養三郎によるアシカ猟につながり、1904年の竹島編入願の提出、そし て1905年の編入の閣議決定、島根県告示につながっていったのである。 4.その他 隠岐の島町久見の竹島問題の調査研究施設「竹島資料収集施設」(愛称「久見竹島歴 史館」)では、今後資料1のコピーの展示を検討しています。
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