旧祥雲寺客殿障壁画の復元研究

平成25・26・27年度助成研究
旧祥雲寺客殿障壁画の復元研究 とろろあおい
― 国宝「松に黄蜀葵及菊図」智積院蔵の想定復元模写を中心として ―
安原 成美(東京藝術大学大学院)
本研究は、智積院蔵 国宝「松に黄蜀葵及菊図」(以下本図と略す)について、旧祥雲寺客殿の障
壁画として制作された当初の画面構成と寸法で、想定復元模写を制作するものである。そして、本
図の想定復元模写と他の旧祥雲寺障壁画を合わせて、旧祥雲寺客殿内部における配置場所について
再検証を行う。この障壁画自体の復元から、それが収められている建造物の内部空間を検証する方
法は、実技を基盤とした研究で初めて可能となるものである。本研究は、祥雲寺客殿研究に絵画自
体の復元という立場からひとつの結論を提示しようとするものである。
< 祥雲寺と智積院障壁画の変遷 >
本図は、智積院の前身である祥雲寺客殿の障壁画として描かれた。祥雲寺は天正 19 年(1591)
愛児・鶴松(棄丸)の菩提を弔うために豊臣秀吉が創建した禅宗寺院で、その中核をなす客殿の規
模は、従来の禅寺のそれをはるかに超えていたが、天和
2 年(1682)7 月の護摩堂から発した火災で灰塵に帰し
てしまう。その際、幸いにも障壁画の主要部分は持ち出
され焼失を免れる。焼失を免れた障壁画は、再建された
客殿や大書院などの障壁画に転用された。その後、明治
25 年(1802)の盗難や昭和 23 年(1947)の火災で、更
にその一部が失われたと考えられる。
< 松に黄蜀葵及菊図 >
「松に黄燭葵及菊図」床貼付(宝物館)
本図は昭和の火災後に再建された大書院の南廊下に置
かれたが、現在は智積院の宝物館に収められている。床
貼付の形態であるが、画面右下方に引手の跡があること
から、本来は襖絵であったことがわかる。また、松樹上
部の金雲を境に、図柄が完全に分離しており、紙継ぎし
た後に金雲を上から貼り付けてあることが確認できる。
このことから、襖絵から床貼付に改変する際に、本来は
別々であった絵が上下に継がれてしまったことなどが想
像できる。宝物館の障壁画以外にも、本図の一部と考え
違棚貼付(宸殿)
られる障壁画が存在する。智積院の境内にある宸殿の違
棚に貼り付けられている障壁画である。松の根元に芙蓉などが群生するこの絵は、画題だけではな
く、その画質や図柄が本図と共通していることが認められる。
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< 先行研究 >
智積院障壁画復元研究は、昭和 38 年 1 月に「國華」第 850 号(以下「國華」)で、山根有三氏ら
によって行われた1 。智積院障壁画に関する研究では、現在までのところこれが最も詳細で、こと
に現状を可能な限り復元して旧祥雲寺の原状に近づける試みにおいて、研究の基礎を固めるもので
あった。平成 4 年に祥雲寺客殿遺構が京都府埋蔵文化調査センターによって発掘調査され、平成 8
年に発掘調査の成果と旧祥雲寺客殿の復元図が発表された2 。その後、旧祥雲寺客殿の部屋割りと、
それに対する障壁画の配置ついての復元研究も行われた3 。しかし、これらの研究はすべてが建築
平面に対する障壁画の復元研究であり、障壁画自体の復元研究は「國華」以降行われていない。遺
構の発掘調査から、客殿の規模についてはある程度判明しているが、母屋内部の部屋割や障壁画の
構成に関しても明確な結論が得られていない。これは、研究の基となる客殿障壁画自体に、寸法や
構図、枚数など曖昧な点が多いことに起因していると考える。
そこで筆者は、現存している障壁画自体の正確な復元を行い、それを基に再検証することで、祥
雲寺客殿障壁画の全貌を明らかにすることができるのではないかと考えた。
< 作品調査及び復元配置 >
本図の復元を進めるに当たり、
平成 25 年に智積院において、熟覧
調査と高精細撮影を行った。この
調査で、先行研究で指摘されてい
た改変跡を確認するとともに、新
たに複数の改変跡を発見した。
調査と想定復元模写を通して、
智積院に客殿衆入間床貼付絵と宸
殿違棚貼付絵として伝わってきた
本図は、制作された当初は 6 枚以
上で構成された襖絵であり、その
うちの 3 枚を中心として改変され
たものであることが明らかになっ
た。また、床貼付の中には残り3
枚の一部も含まれていた。
国宝「松に黄蜀葵及菊図」の改変前の画面配置復元
本図のそれらの調査を基に、当初の画面構成の復元を試みる。
床貼付絵の画面が分離している高さ 225㎝のところまでと、向かって右端から中央の合わせ目までが、
一枚の連続する画面の最大であり、これが制作当初の襖一面分のおおよその寸法であると推測される。
1 昭和三十八年一月発行の「國華」第八五〇号において、『智積院障壁画の研究』を編集し、田中一松、米澤喜園、吉沢忠、山根有三、 水野比呂志、辻惟雄からなる障壁画研究会が中心になって調査研究を行い、その共同意見を発表した。
2 梶川敏夫「祥雲寺客殿発掘調査の成果から見た智積院障壁画」『障壁画の視点』仏教美術研究上野記念財団、1996 年
3 小沢朝江・田口紗央里「祥雲寺客殿の平面と障壁画の復原検討-智積院障壁画と発掘遺構を中心とした検討-」(日本建築学会計画系
論文集 第 597 号) 2005 年
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違棚貼付の部分であるが、右端 6.6㎝が不連続であり、その部分を切り離してみると 166.6㎝にな
るので、襖 1 枚の幅と一致する。更に、この切り離した部分を先程の床貼り付け左手の不足してい
る箇所を補うように配置すると、芒の葉、芙蓉の花の図柄が連続するので床貼付と違棚貼付は隣り
合った襖絵である可能性が高いと判断できる。不足する違い棚の上部に来るものとして、床貼り付
けの中央金雲より上部が考えられ、本研究で判明した後補である右上の金雲と松に絡みつく蔦の幹
並びに改変時に切り継がれた松の枝葉を取り除いた図像を配置すると、襖 1 枚の寸法の中に自然な
繋がりをもって収まることが確認できる。更に復元した図を見ると、松の幹だけでなく違棚の左上
と中央の薄が、床貼付上部であった部分の左下と中央下方に僅かに見える薄がきれいに繋がること
がわかる。以上のことから、改変前は違棚貼付と床貼付上部が一枚の同じ襖絵であったことが明ら
かである。
復元をより正確に行うために注目したのが箔足である。箔足を揃えて配置すると、図像の方も完
全に繋がることが判明した。これにより、それぞれの画面の位置関係が高い精度で明らかとなり、
復元位置を確定することができた。
本図には、紅葉した蔦の葉が多く描き込
まれているが、今回の調査でそのすべてが
床貼付上部
後から貼り付けられていることが判明し
た。1枚1枚の切り抜かれた蔦の葉が描か
れた紙を、絵の上から貼り付けていたので
ある。
本来は金地に松の葉や草葉の緑色と芙蓉
違棚貼付
や黄蜀葵の花の白を基調とした画面であっ
たことが明らかになった。
画面左手に伸びる松の復元
床脇小壁貼付
違棚貼付
< 想定復元模写 >
調査結果を基に想定復元模写を行った。復元された本図の右寄り3枚は、二股に別れた巨大な松
が画面の天地を貫くように描かれており、廻りには、黄蜀葵、芙蓉、菊の花が咲き乱れ、芒が大き
くその葉を伸ばしている。向かって左に伸びる松の奥には群青で描かれた水面が見える。水面は向
かって右から左にいくほど広がっており、失われた左寄り 3 枚の下方には、この水面が更に展開し
その廻りには草花が生い茂っていたと想像される。水面の手前に描かれている芒の葉のうち半分あ
まりは隣の画面から伸びてきているため、左寄り 3 枚目の画面には多くの芒が生えていたことがわ
かる。
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国宝「松に黄蜀葵及菊図」の想定復元模写
< 祥雲寺客殿室中障壁画の構成 >
さらに想定復元模写を制作したことで、旧祥雲寺客殿の内部構成と障壁画の配置位置について具
体的な検証が可能となった。本図の配置されていた部屋の問題であるが、先行研究では 8 室形式で
復元した山根案と 6 室形式で復元した小沢案があるが、両案とも本図を「松に秋草図」とともに、
室中に配置することで一致している。筆者も両案に同意であるが、今一度、再確認を行う。
室中の画題としては当時の方丈建築の多くがそうであるように松が相応しく、本図が収まる可能
性は充分にあるが、松を描いた旧祥雲寺客殿障壁画は、本図以外にも「松に秋草図」
「松に立葵図」
「雪
松図」が現存する。
本図が室中に収まっていた根拠として注目すべきは、描かれている草花の種類である。鶴松の死
去とその3回忌が旧暦 8 月 5 日に行われており新暦で 8 月 29 日にあたるこの時期に開花する草花を、
主要な部屋である室中には描いていると考えるからである。本図に描かれている草花は、黄蜀葵、
芙蓉、薄、菊であり、開花時期は黄蜀葵が 8 月から 9 月、芙蓉が 8 月から 10 月初め、菊が 10 月か
ら 12 月、薄が穂をつけるのが 8 月から 10 月と、法要の時期と一致する。「松に秋草図」の草花も
黄蜀葵が描かれていないこと以外は本図と共通する。
それでは、本図と「松に秋草図」は室中にどのように配置されていたのであろうか。配置箇所の
特定のために先ず注目すべきは襖の幅である。復元した祥雲寺客殿室中の平面4 をもとに割り出し
た襖の寸法によると、室中には幅の違う 3 種類の襖が使用されていたと推測され、そのうち本図の
4 「方丈建築は一般的には 6 室形式であるが、同時代の大規模方丈建築との比較、構造の安定性、障壁画との関係から祥雲寺客殿は 8 室
形式である可能性が高いと考える。特に、祥雲寺建立の 5 年前に同じく豊臣秀吉により建立された天瑞寺客殿が、幕末期の指図によれ
ば 8 室形式であるので、本研究においては 8 室形式の客殿として復元を行った。」
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幅である 166.7㎝のものは室中と東西の部屋を間仕切るものであり、そこに収まっていたことは間
違いない。
それぞれが東西どちらに収まるかであるが、両者は寸法と引手の位置が全く同じであるので、図
柄により判断するしかない。本図の印象的な特徴として、画面の左から右に向かって吹いている風
の存在がある。本図は左から右に向かって風が吹いている。「松に秋草図」は、その逆に向かって
風が吹いているので、向かい合って配置した場合には、風は一方向に吹くことになる。そこから、
室中西面に本図、東面に「松に秋草図」を配置し、室中に入った人々の視線を風の表現によって仏
壇の間に誘うように演出したと考える。風の方向の他に配置位置の手掛かりとなるのと考えるのが、
土坡である。本図と「松に秋草図」の画面下方には、土坡が存在するが、それぞれ形の特徴が異なる。
本図の土坡は、向かって右端が徐々に下がっていく。それに対して、
「松に秋草図」の土坡は向かっ
て右端が急激にせり上がっていく。仮に「松に秋草図」を西面に配置すると、室中北面の襖絵は土
坡が不自然に高い位置にある画面構成になる。
以上のことから本図は客殿室中の「松に秋草図」と向かい合うように西面に配されていたことが
明らかである。
< 本研究を通して得られた成果 >
本研究により、失われた祥雲寺客殿の室
中障壁画が視覚的に復元された。長谷川等
伯が狩野永徳の巨大樹による大空間の構成
に、草花の四季の変化や風などの自然現象
を巧みに利用した場面の展開など、独自の
表現を加え建物内部を障壁画により壮大に
演出している様が示せたものと考える。こ
こまで詳細に、祥雲寺客殿障壁画自体の復
祥雲寺客殿の平面図
元研究が行われたことはなく、祥雲寺客殿
だけでなく桃山期の障壁画研究における大
きな成果となった。
謝辞
本研究に際し、貴重な調査と撮影の機会
を与えてくださった真言宗智山派総本山智
積院の皆様に心より御礼申し上げます。ま
た、ご指導・ご鞭撻賜りました東京藝術大
学大学院美術研究科文化財保存学専攻の諸
先生方に、この場をお借りして感謝申し上
げます。
祥雲寺客殿室中の障壁画配置図
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