「江戸始図」の学術的意義について/千田嘉博教授(PDF:722KB

松 江歴 史 館 所 蔵「 江 戸 始 図」 の 学 術 的意 義 に つ いて
千 田嘉 博 ( 奈 良大 学 )
1.「江 戸 始図 」発見 の意 義
「 江戸 始 図 」は 、徳 川 家康 が 慶 長 8−19 年(1608−14)に か け て 築 いた 創 築 期 の近 世 江
戸 城の 縄 張 り (城 の 平 面 設計 ) を 描 いた 絵 図 で 、 謎 に 包 ま れて い た 家 康の 江 戸 城 を明 ら か
に する 資 料 で す。本 絵 図 の発 見 は 、画期 的 な 意 義を も ち ま す。
「江 戸 始 図」が 描 いた 江 戸 城
は 、記 載 さ れ た大 名 ・ 旗 本の 名 前 ・ 官職 等 か ら 、慶 長 12−14 年 (1607−09)頃 と 比 定さ れ
ま す( 徳 川 美 術館 ・ 原 史 彦 学 芸員 の 分 析 によ る)。
近世 江 戸 城 は徳 川 家 康 の創 建 後 、元 和8 年( 1622)に 本 丸を 拡 張 し 天守 を 新 た に建 設 し
( 元 和 度 天 守 )、 寛 永 14−15 年 (1637−38) に 新 た め て 本 丸 の 改 造 と 天 守 の 建 設 を 行 い
( 寛永 度 天 守)、明 暦 3 年( 1657)の 大 火で 天 守 や本 丸 御 殿 が焼 失 し て 、再び 天 守 台 を築 き
直 すな ど 、 大 改修 が く り 返さ れ ま し た。 こ の た め徳 川 家 康 が築 い た 創 築期 の 江 戸 城の 詳 細
は 不明 に な っ てい た の で す。
近世 江 戸 城 の創 築 期 を 描い た 資 料 とし て は 、 東京 都 立 中 央図 書 館 所 蔵「 慶 長 江 戸絵 図 」
が 知ら れ て い ます 。松 江 歴史 館 所 蔵 の「 江戸 始 図 」は、
「 慶 長江 戸 絵 図 」と 同系 統 の 絵 図で
す。
「 慶 長江 戸 絵 図」は 、本丸 内 の 御 殿な ど を 描 きま し た が、石 垣 な ど の描 写 の ゆ がみ が 大
き く、 ま た 石 垣と 建 物 と の描 き 分 け も 明 確 で な いた め 、 江 戸城 細 部 の 評価 を 難 し くし て い
ま した 。
松江 歴 史 館 所蔵 の「 江 戸始 図 」は、
「 慶長 江 戸 絵図 」よ り も描 写 が 正 確 で 、石 垣 や堀 、城
の 出入 口 な ど の城 郭 構 造 を細 部 ま で 明快 に 描 い てい ま す。
「 江 戸始 図 」に よ っ て 、徳 川 家 康
が 築い た 江 戸 城中 心 部 の 詳細 を 、 は じめ て 的 確 に把 握 で き るよ う に な りま し た 。
2.「江 戸 始図 」で明らかになったこと
(1)
家 康の江戸 城は本 丸に詰 丸(天 守曲 輪 )を備えて姫 路城 のようになっていた
「江 戸 始 図 」は 、 江 戸 城本 丸 の 内 部に 大 天 守 と小 天 守 を 多聞 櫓 で 連 立し た 詰 丸 (天 守 曲
輪 )を 備え て い た と描 き まし た 。
「 慶長 江 戸 絵 図 」も 、同様 の 詰 丸 を 描 きま し た が 、ゆ がみ
が 大き く 、 明 確に は 読 み 取れ ま せ ん でし た 。
「 江 戸 始図 」によ っ て 家 康の 江 戸 城 は 複 雑 な 連 立天 守 で あ った こ と が 確実 に な り まし た 。
大 天守 は 詰 丸 南東 隅 に あ り、 北 側 に 付櫓 を 備 え 、 櫓 門 で つ なが っ た 外 枡形 を 経 由 して 、 北
東 隅の 小 天 守 とつ な が り まし た 。 北 東の 小 天 守 から 西 側 に も多 聞 櫓 が 伸び 、 の ち の本 丸 西
側 二階 櫓 の 位 置で 多 聞 櫓 が南 側 に 折 り返 し 、 南 西の 小 天 守 につ な が り まし た 。
南西 の 小 天 守と 大 天 守 との 間 に は 、も う ひ と つの 外 枡 形 があ っ て 、 ここ も 出 入 口の 石 塁
開 口部 を 越 え た櫓 門 が あ って 、 大 天 守と 連 立 し たと 考 え ら れま す 。 こ のよ う に 江 戸城 本 丸
の 中に 、 さ ら に石 垣 で 囲 った 詰 丸 ( 天守 曲 輪 ) があ っ て 、 この 詰 丸 は 大天 守 と 小 天守 が 多
聞 櫓で 連 立 し てい ま し た 。現 存 す る 城郭 で は 、 国宝 姫 路 城 の 連 立 式 天 守が 近 い 例 です 。
しか し 家 康 の慶 長 江 戸 城の 詰 丸 は 、天 守 群 で 囲い 込 ん だ 詰丸 の 面 積 が よ り 広 く 、江 戸 城
大 天守 の 建 築 とし て の 高 さは 約 67m に 達 して い まし た (『 愚 子 見 記』)。 これ は 現 存 する 姫
路 城 大天 守 の 31.5m を し の いだ だ け で な く、 推 測 され る 豊 臣 大 坂城 天 守 の高 さ お よ そ 33
m を圧 倒 的 に 上回 り ま し た 。
いか に 家 康 の江 戸 城 中 心部 に あ っ た詰 丸 と 天 守群 が 巨 大 で厳 重 だ っ たか が わ か りま す 。
江 戸城 本 丸 の 詰丸 は 、 そ れだ け で ひ とつ の 城 と して 機 能 し 、豊 臣 秀 吉 が贅 を こ ら して 築 い
た 豊臣 大 坂 城 をも 越 え る 堅固 な 城 で した 。 家 康 が江 戸 城 の 築城 に か け た思 い が 伝 わっ て き
ま す。
(2)
江 戸城 本 丸の南 側に、強 力な軍 事 機 能を発 揮した連 続外 枡 形があった
現在 見 る こ とが で き る 寛永 期 江 戸 城で は 、 改 修の た め に 失わ れ て い ます が 、 家 康が 築 い
た 慶長 期 江 戸 城の 本 丸 南 側に は 、城 壁 を 外側 に 張り 出 し て 互い 違 い に した 出 入 口 を 5 重 に
連 続さ せ た 連 続外 枡 形 を 備え て い た こと が 「 江 戸始 図 」 で 、は じ め て 判明 し ま し た。
東京 都 立 中 央図 書 館 蔵 の「 慶 長 江 戸図 」 も 部 分的 に 外 枡 形を 描 き ま した が 、 描 写を 省 略
し た上 に 、 石 垣と 建 物 を 同じ よ う に 描写 し た の で、 連 続 外 枡形 の 詳 細 はわ か り ま せん で し
た。
外枡 形 は 、 出撃 を 意 識 した 積 極 的 な出 入 口 の 形態 で 、 織 田信 長 の 安 土城 、 豊 臣 秀吉 の 豊
臣 大坂 城 や 肥 前名 護 屋 城 も大 手 門 に 用い ま し た 。ま さ に 家 康の 江 戸 城 が天 下 人 の 城の 格 式
を 継承 し て い たと 読 み 取 れま す 。 さ らに 家 康 の 江戸 城 の よ うに 外 枡 形 を連 続 さ せ た出 入 口
は 、現 存 す る 城郭 で は 加 藤清 正 が 築 いた 熊 本 城 など に 見 る こと が で き 、天 下 人 の 城を 継 承
し 、発 達 さ せ た織 豊 系 城 郭で あ っ た と評 価 で き ます 。
まとめ
「江 戸 始 図 」に よ っ て 明ら か に な った 家 康 の 慶長 期 江 戸 城は 、 戦 い を意 識 し た 強力 な 要
塞 機能 を 最 大 限に 備 え た 城で し た 。 豊臣 氏 と の 決戦 に 備 え て万 全 を 期 した 家 康 の 意志 が 伝
わ って き ま す 。本 丸 の 中 にさ ら に 設 けた 詰 丸 、 そこ に そ び えた 連 立 天 守、 本 丸 南 側に 開 い
た 連続 枡 形 な ど、 家 康 の 慶長 期 江 戸 城は 、 信 長 ・秀 吉 の 安 土城 や 豊 臣 大坂 城 を 圧 倒的 に 上
回 る当 時 最 強 の城 で し た 。
こう し て 家 康が 心 血 を 注い で 築 い た慶 長 期 江 戸城 で し た が、 豊 臣 家 を滅 ぼ し て 幕府 の 政
庁 とし て の 役 割が 重 視 さ れる よ う に なる と 、 詰 丸の 複 雑 な 連立 天 守 や 、連 続 枡 形 など の 軍
事 施設 は 破 棄 され 、 殿 舎 空間 へ と 姿 を変 え て い きま し た 。 本丸 詰 丸 の 天守 群 が 寛 永期 江 戸
城 では 御 殿 と なり 、 本 丸 南側 に 備 え た連 続 外 枡 形が 能 舞 台 にな っ た の は 、 戦 い の 城か ら 宮
殿 へと 姿 を 変 えて い っ た 江戸 城 の 変 化を 象 徴 す ると い え る でし ょ う 。
つま り 「 江 戸始 図 」 は 、今 日 に つ づく 東 京 の はじ ま り の 再発 見 で あ ると と も に 、家 康 が
築 いた 「 戦 う 江戸 城 」 の 再発 見 と い える の で す 。
( 千田 嘉 博 : せん だ よ し ひろ / 城 郭 考古 学 者 、 奈良 大 学 教 授 )