アン・ジフンさんの

脱サラ→学校の日本語教員→その次は留学?!
挑戦し続ける熱血先生、アン・ジフンさんの「んじゃめな!」
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日本語教師は韓国と日本の架け橋となる仕事
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◎会社を辞めて日本語教師に
子どもの頃から日本に興味があり、高校・大学で日本語を勉強し、日本に留学もしました。私
が知り合った日本の人たちは、よい人ばかりでした。でも、残念なことに、日本に対して偏見
をもっている韓国人は多い。子どもたちに、本当の日本の姿を伝えて偏見をなくしたいと考
え、日本語教師をめざしました。
ところが、大学卒業時に受けた教員採用試験に落ちてしまいます。恋人との将来を考えて、一
般企業に就職しました。1 年ぐらい経った頃、中学校の教員をしている友人から電話がありま
した。自分の学校で臨時の日本語教員を探している、と。ただし 1 年間の期限付き。迷ったけ
れど、恋人が「私が働いてもいいから、やりたいことをやって」と言ってくれました。その恋
人が今の妻です。
最初の授業が終わったときの感動は忘れられません。めちゃくちゃ楽しかった。
「一生の仕事に
したい」と思い、授業も試験勉強も必死でやりました。しかし、2 回目の採用試験も不合格。
ただ、生徒からの評価がとてもよかったので、特別に、もう 1 年、その学校で教えることにな
りました。
◎自分にしかできない授業をしたい
翌年、3 回目の採用試験にも落ちました。落ち込んでいる私に、1 本の電話がありました。私の
評判を聞いたある高校の校長先生が、臨時教員として採用してくれたんです。また 1 年間、が
んばりましたが、4 回目の試験にも不合格。夢をあきらめかけていたとき、再び運命の電話が
鳴ります。ソウルでも有名な私立中学校に仮採用されたんです。
私立なら、良い授業をすれば、教員採用試験に関係なく、本採用されるかもしれない。必死で
教え方を研究しました。ただ、本に書いてあることは、みんながやっている。自分にしかでき
ない「必殺技」を編み出そうと、一生懸命考えました。例えば、モノマネで授業をやる。大統
領とか、芸能人とか、韓国語を習い始めたばかりの日本人とか。それから「くじ引き」。くじに
はいろんなタスクが書いてあって、それを達成したらご褒美をあげる。
いちばんの思い出は、全国日本語演劇大会に出場したこと。6 人のメンバーを選ぶオーディシ
ョンに 70 人以上の応募がありました。毎日、夜遅くまで練習して、結果は 4 位入賞。中学校の
入賞は史上初でした。その後、6 人のメンバーのうち、3 人が大学で日本語を、1 人が演劇を勉
強しています。教師は人の人生に関わる素晴らしい仕事です。
◎教室は私のステージ
実は、演劇大会決勝の日と教員採用試験が重なっていました。たまたま大会の時間がずれたの
で、試験を受けたんです。なんと 5 度目の挑戦で合格。妻と 2 人で泣きました。中学校の教員
になった今でも、臨時採用だった頃の気持ちを忘れず、教え方の研究を続けています。「おもし
ろい先生がいる」と韓国のテレビ番組でも紹介されました。
今、研修で日本に滞在していて、授業で使える動画を 200 本ぐらい録りためています。生徒た
ちに、楽しみながら、生きた日本語を学んでもらいたいから。私は、日本語の先生になれなか
ったら、お笑い芸人になりたかったんです。だから、教室は私のステージだと思っています。
これからも生徒たちを笑わせ続けたいですね。