071-23 無窮 (23)

 ﹁ 恐 れ 入 り ま す ﹂
﹁ 康 弘 が ね 、 言 っ て い た ん で す よ 。 遠 山 さ ん は 警 視 庁 一 の カ リ ス マ 性 を 誇 る と ﹂
案の定、片手で頭をつるりと撫で、照れたように笑った。
﹁ ご 一 緒 に 如 何 で す ? ﹂
則技だ。
遠山はちょっと首を傾げ、相手を見つめながらコップを傾ける仕草をした。大抵はそれをやられると断れないという反
﹁ 私 ? ﹂
﹁ 住 職 は ? ﹂
﹁ お 食 事 は 六 時 に お 部 屋 へ お 持 ち し ま す ﹂
いたずらっ子のように微笑む。
すが、明日はそれをサボろうと思いまして﹂
﹁ そ れ に 、 呪 詛 祓 い を す る と 私 も 体 力 を 消 耗 し ま す し ね 。 宿 坊 に お 客 が あ る と 朝 の お 勤 め を ご 一 緒 さ せ て い た だ く の で
住職が笑う。
﹁ 大 切 な 客 人 で す か ら ﹂
﹁ ま さ か 、 私 の た め に ? ﹂
﹁ ま ず は 散 策 を な さ る な り 、 風 呂 を お 召 し に な る な り お 好 き に な さ っ て く だ さ い 。 本 日 、 宿 坊 は 貸 切 で す ﹂
に濃藍色の宇曽利湖が一望できた。
通された部屋は十畳ほどの和室だった。床の間には薄い青紫の紫陽花がひと房活けられている。障子を開けると、眼下
め、本尊は釈迦如来。山号は吉祥山。宿坊吉祥閣の名はそこから取ったのか。
恐山菩提寺・曹洞宗釜臥山。八六二年、天台宗の僧円仁がこの地を訪れ創建したと伝えられている。本坊は円通寺が勤
678
遠山がそう言うと、住職はニヒルな笑みを浮かべた。
﹁ そ れ か ら 、 警 視 庁 一 の 男 前 だ と 。 悪 霊 に も 好 か れ て し ま う ほ ど に ﹂
残念ですが、と住職は申し訳なさそうな顔をした。
﹁ 呪 詛 祓 い の 前 は 酒 を 飲 ん で は い け な い こ と に な っ て い ま す 。 同 様 に 、 食 事 も 。 い え 、 あ な た は 大 丈 夫 で す 。 精 進 料 理
ですが﹂
口を開きかけた遠山を住職はやんわりと制した。
﹁ そ の 代 わ り 、 終 わ っ た ら ふ く 食 べ ま す 。 お 酒 も お 付 き 合 い し ま す よ ﹂
なまぐさ坊主です、と言いながら笑い、住職は部屋を出ていった。
遠 山 は 一 休 み し た あ と 敷 地 内 の 散 策 に 出 か け た 。 白 岩 石 が ご ろ ご ろ と 転 が り 、と こ ろ ど こ ろ か ら 水 蒸 気 が 上 が っ て い る 。
無数の地蔵尊に風車。平らな丸い石を積み上げたものがあちこちに見えた。ここは古くから死者への供養の場として崇敬
を集めてきたと聞く。遠山には全く無縁の世界だったはずが、ここ数年、異次元の存在を認めざるを得ない事象が多発し
た。その極め付けが村地の件だった。
送り続けられる呪いのメールは返信することのないまま増える一方だった。科捜研ももはやお手上げ、非科学的な現象
を解明する手立てもなかった。内容は﹁呪ってやる﹂の一言だけのときもあれば、宮城に対する切実な思いを長々と書き
連ねていることもあった。それらは決まって遠山が一人でいる時、もしくは、宮城が寝入っている夜中に着信するのが常
だった。あれから黒い人影が家に現れたことはないが、誰もいない大部屋の隅や自販機の前、トイレの鏡越しに薄汚れた
骸骨を見ることがあった。それとなく宮城に探りを入れてみたが、宮城の方は以来まったく村地の幻覚を見なくなったと
あおかち
言っていた。やはり狙いは俺なのだ、と遠山は思った。村地の最終目的は、俺を呪い殺すこと。
火山性ガスが充満しているのか、特有の硫黄の臭いが鼻を突く。目の前に青褐色の宇曽利湖が拡がる。近付いて見てみ
ると水は恐ろしく透明だった。空の暗さを映しているのか。荒涼とした景色に極彩色の風車がくるくると回るさまは異様
679
何かがそこにいる。村地なのか。俺を追ってきたのか。
襟足を生温い風が撫で、遠山は振り返った。誰も見当たらないが、空間が一部水に落とした油のように歪んで見えた。
ない。
えない。亜硫酸ガスの影響だろう。死の静寂が延々と横臥する場所。ここはほんとうに黄泉に一番近い土地なのかもしれ
な光景だった。誰もいない。地蔵の前に供えられた賽銭はひどく腐食している。草木も生えておらず、鳥の鳴き声も聞こ
680