春季見学会の見どころ紹介 ※ゴシック体は『日本史用語集』(山川出版社)収録の用語を示し、東京都教育委員会『江戸から東 京へ』テキスト(教科書)掲載の史跡には☆印をつけています。 ○午前 武蔵五日市方面 【☆深沢家屋敷跡】(東京都指定史跡) 深沢家は江戸時代中期に名主に就任し、江戸時代後半からは土地集積を行い、山林地主として成長 した。幕末には同心株を譲り受け、江戸幕府唯一の郷士集団である八王子千人同心に就き、村内鎮守 社の神官も務めた。明治維新を迎え、深沢家を継いだ名生は深沢村の戸長に就任し、息子の権八は村 用掛に任ぜられ、ついで神奈川県会議員に当選した。名生・権八親子は3町14か村から40名近い 会員を集め、学習会・討論会・研究会などを行っていた民権結社「学芸講談会」の指導的立場にあり、 また五日市地域の自由民権運動の中心的な人物でもあった。屋敷は江戸時代後期の名主屋敷の旧態を とどめ、土蔵は三多摩自由民権運動を象徴する「五日市憲法草案」発見の場所で、五日市地域で民権 運動の中心的役割を果たしていた豪農の生活様態を知る上で貴重なものである。深沢権八を中心に結 成された五日市学芸講談会の有志と、宮城県出身の五日市勧能学校の教師千葉卓三郎が中心となって 起草した私擬憲法草案「五日市憲法草案」がこの土蔵から発見されている。 【☆五日市憲法草案の碑】 憲法草案を記念して、1979(昭和 54)年に千葉卓三郎の生地および墓のある宮城県志波姫町と仙台 市および五日市町(現あきる野市)の3か所に記念碑が建てられた。憲法草案から抜粋された6か条 が碑面に彫られており、副碑には記念碑建立の経緯と学芸講談会参加者名が記されている。 【あきる野市五日市郷土館】 五日市地域で発見された「五日市憲法草案」のレプリカや、関係資料である学芸講談会の開催通知 や討論の題目を記したノートなどを展示している。 ○午後 町田方面 【☆町田市立自由民権資料館】※2016 年 10 月に展示をリニューアル 1986(昭和 61 年)開館。自由民権運動や町田の歴史に関する資料を中心に展示・保管している。 元々は、自由民権運動に係わった村野常右衛門が私財を割き、1883 年(明治 16 年)2 月に建てた文 武道場「凌霜館」の跡地で、村野の子孫から町田市に土地が寄付されたのを受けて、施設が建設され た。現在の町田市域をはじめとする多摩地区は、自由民権運動が盛んだった時期、神奈川県に属して いた。神奈川県は、武蔵国6郡と相模国9郡から成り立っていたため「武相」とも呼ばれた。武蔵と 相模に分かれて活動していた運動を一つにまとめようとしたのが町田市域の民権家で、1881(明治 14) 年に武相懇親会を開き、その後も武相の自由民権運動をリードしていく。常設展では、町田市域の民 権家たちの動向を中心に、武相地域(旧神奈川県域)の自由民権運動の経過と、運動が地域社会にも たらした影響を学ぶことができる。 【☆村野常右衛門宅】 村野常右衛門(1859~1927)は多摩郡野津田村に生まれ、野津田村戸長時代に自治運動に取り組み、 中堅的な民権運動家として活躍した。文武道場である「凌霜館」を建てて若手民権家の育成に取り組 む一方、大阪事件に参加、県会議員にも当選している。その後は衆議院議員となり、1914(大正 3) 年には立憲政友会の幹事長になった。 【☆自由民権の碑】 多感な青年時代に自由民権運動に参加した北村透谷は、ロマン主義文学の母体となる雑誌『文学界』 を創刊したことで知られる。25 歳 4 か月の短い生涯での文学活動の原点には、彼の自由民権運動への 参加や離脱体験、多摩の人びととの交流、石阪昌孝の長女美那との恋愛があった。自由民権の碑は北 村透谷と美那の出会いの地であったことを記念して、1985(昭和 60)年 11 月 3 日に建てられた。 - 1 -
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