名医と呼ばれた養父の「やぶ医者」

名医と呼ばれた養父の「やぶ医者」
養父市教育委員会社会教育課
平成 29 年1月 10 日
1、養父の「やぶ医者」
落語では、人が風邪をひいた時に気楽にみてもらえる医者を薮(やぶ)医者と
いったようです。
「風がふくと薮が揺れる」ということから「風邪をひくと薮医
者にいく」という意味をかけた洒落です。このため、やぶ医者は風邪が流行す
るとお客さんが増える医者という意味で使われました。落語では、薮の下にあ
るような医者を土手医者、薮に飛んでくるような医者を雀医者とも呼んでいま
す。しかし、いつしか薮医者という言葉が「へたな医者」の代名詞になりまし
た。
江戸時代に活躍した松尾芭蕉の門
人に、森川許六という俳人がいます。
この許六が編纂した『風俗文選』とい
う書物があります。その中に汶村(ぶ
んそん)という人が書いた「薮医者の
解」(薮医者の解説)という記事があ
ります。
この書物によると「やぶ医者」とは、
本来名医を示す言葉であって、今言わ
れているようなへたな医者のことではない。
いずれの御時にか、ある名医が但馬国の養父(やぶ)という所にひっそりと住ん
でおり、土地の人に治療を行っていた。死にそうな病人を生き返らせるほどの
治療を行うことも少なくなかった。その評判は広く各地に伝わり、多くの医者
が養父の名医を見習うようになった。養父の医者と言えば、病人もその家人も
大いに信頼し、薬の力も効果が大きかった。
そして、
「養父医者」は名医を示すブランドとなった。しかしこのブランドを
悪用する者が現われた。優れた技術がないのに「自分は養父医者である」とい
って信用をえる者が続出し、
「養父医者」の名声は地に落ち、いつしか「薮」の
字があてられ「薮医者」となり、
「やぶ医者」は「へたな医者」を意味するよう
になった、というものです。
2、将軍徳川綱吉に採用された奥医師長島家
『風俗文選』によると但馬国養父の里に、名前は不明ですが名医がいました。
そのモデルにあたると思われる人物が実在しています。
江戸時代のはじめ、第5代将軍徳川綱吉によって将軍家の奥医師に取り立て
られた長島瑞得(ずいとく)という旗本がいます。瑞得は、養父市八鹿町九鹿村
に生まれました。父の長島得元(とくげん)は九鹿村の医者でした。得元は息子
の祐伯(ゆうはく)と瑞得の兄弟をつれて江戸に出て、江戸幕府の大老(たいろ
う)酒井忠清の知遇を得て、大名を診察する医者として活躍しました。祐伯の子
孫は、酒井家にゆかりのある横浜市金沢区に住んで泥亀新田を開発しました。
また、瑞得の子孫は江戸幕府の旗本となって幕末まで務めました。
江戸幕府が大名や旗本(はたもと)の事跡をまとめた『寛政重修諸家譜』とい
う書物があります。この中に旗本長島家の初代として「長島瑞得、家督 300 俵
10 人扶持」という記録があります。瑞得は江戸幕府の典薬頭(てんやくのかみ)
である半井(なからい)家で医学を学び、半井家の推挙で将軍徳川綱吉によっ
て奥医師に採用されました。奥医師は 16 名で江戸城に詰め、将軍などの医療に
あたりました。武士は世襲することが当たり前の時代ですが、優れた技術によ
って奥医師として新規に召し抱えられたと考えられます。
3、養父市に残る旗本長島家の足跡
長島瑞得には、丈庵と的庵(秀世・道仙)という二人の子どもがいました。
兄の丈庵は江戸で旗本の息子として育てられました。弟の的庵は父の出身地で
ある但馬国養父郡の九鹿村で養父母に育てられました。養父は湯浅元友という
九鹿村の医者で、的庵は成人して医者を継ぎました。
しかし、的庵 38 歳の時、
兄の丈庵が病弱であったこ
とから、父瑞得によって江
戸に呼び戻され武士になり
ました。元禄 13 年
(1700)、長島的庵 54 歳
の時、将軍徳川綱吉にお目
見えし、第2代旗本長島家
を相続しました。
九鹿村の龍蔵寺の墓地に
は、「毅節(きせつ)先生之墓」
「叔慎嬬人(しゅくしんじゅじん)之墓」などと刻んだ7基の墓石があります。
そこには「孝子官医的庵長嶋氏子文建」
「宝永二乙酉年建」の文字が刻まれてい
ます。これは、
「親孝行な息子である官医(江戸幕府の奥医師)長島的庵の子で
ある文が建てました」
「宝永 2 年(1705)に建てました」という意味です。長島
文は、第3代旗本となる長島秀明だと考えています。
毅節先生とは、長島的庵の養父である湯浅元友のことです。医者や儒学者と
して九鹿村で生活しました。叔慎嬬人は養母になります。当時の長島的庵は湯
浅元友の跡を継いで、湯浅的庵という名前で九鹿村の医者となっていました。
つまり、但馬国養父郡の九鹿村で農民の病気を治していた村の医者が、後に、
江戸城に勤務するようになって将軍の主治医になったという物語です。長島的
庵は「天下一の名医」と呼ばれるまでに出世しました。その証拠が、的庵が長
年生活した九鹿村で、養父母のために建立した墓石です。
4、森川許六と長島的庵
『風俗文選』には、
「薮医者」とはもともと「養父の里にいた名医」のことで
あり、
「しばしば死にそうな病人を生き返らせた」と記しています。そして、や
ぶ医者の語源は、養父の名医のことだと解説しています。江戸時代に実在した
養父医者は名医でした。
森川許六は明暦 2 年(1656)から正徳 5 年(1715)まで、長島的庵は正保 4
年(1647)頃から享保 8 年(1723)まで生存しています。つまり、森川許六と
長島的庵は同じ世代を生きた人物です。
江戸時代の九鹿村に長島得元や湯浅元友などの医者がいました。長島的庵は
湯浅元友の跡を継いで近郷の人々に医術を施し、後には将軍徳川綱吉の主治医
になりました。しかし、『風俗文選』には「いずれの御時にか」「なにがしの良
医」と書いているだけで、時代や医者の名は明記されていません。
将軍の奥医師という経歴をおもんばかって、今の時代ではなく名前も分から
ないという設定で書いた風聞であり、そのモデルは長島的庵であったと推定し
ています。
5、養父市は名医「やぶ医者」の発祥地
九鹿村の高台に龍蔵寺があります。龍蔵寺の裏側にある山の斜面に湯浅元友
など湯浅家の墓地があります。九鹿村には「道仙(的庵)さんの屋敷跡」とい
う場所があります。
龍蔵寺にある湯浅家の墓地を探っていくと、長島的庵・徳川綱吉・松尾芭蕉
などにつながる人々が存在し、
「やぶ医者」は名医だったという物語があります。
将軍徳川綱吉の主治医になった長島的庵は、名医「やぶ医者」のモデルと呼ぶ
に相応しい人物です。
江戸時代のはじめに活躍した理想的な名医は、但馬国養父という所にひっそ
りと住み、死にそうな病人を生き返らせるほどの地域医療に取り組んだ人物の
ことです。人々は尊敬の念をこめて名医である養父に住む医者のことを「やぶ
医者」と呼びました。
松尾芭蕉の門人である俳人の森川許六が編纂した『風俗文選』をみると、昔
は名医のことを尊敬して「やぶ医者」と呼んでいました。300 年以上も昔の養父
市でおこった出来事です。養父市は名医「やぶ医者」の発祥地です。
参考文献
1、岩波文庫『風俗文選』 伊藤松宇校訂 昭和 3 年 10 月 15 日発行
2、吉盛智輝『但馬の殿様』神戸新聞総合出版センター 平成 22 年 11 月 19 日
発行
3、永島加年男『泥亀永島家の歴史』永島加年男遺稿集刊行会(横浜市金沢区
洲崎町、龍華寺内)平成 27 年 7 月 8 日発行