夏目君と大学

夏目君と大学︵談︶
明治三十六年一月末︑夏目君は英国留学から帰朝し︑
その春から東京帝国大学講師及び第一高等学校講師とし
それぞれ
て帝大及び一高へ夫々出ることとなった︒元来夏目君の
英 国 留 学 は 恐 ら く 留 学 前 ま で 勤め てい た熊 本 高 等 学 校 教
授の資格で行ったのであるから︑順序から云えば帰朝後
は 熊 本 高 等 学 校 へ 勤 め る の が 本 当 で あ る が ︑ 当 時夏 目君
は余り熊本へ行くことを欲しなかったし︑それに親友の
狩野亨吉氏がその時一高の校長であり︑又︑菅虎雄氏も
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一高の教授であった関係上︑狩野氏菅氏などの尽力で一
円満に辞任したので︑しばらく後任者がなく︑その後任
な事は決してなかったと信ずる︒ハーン氏は都合により
やめさしたのだなぞと取沙汰するものもあったが︑そん
入ったのであるが︑夏目君たちが入るためにハーン氏を
任し︑その後へ上田敏氏︑ロイド氏などと共に夏目君が
当 時帝大では小泉 八雲氏のラフカジオ・ハーン氏が辞
ある︒
坪井氏へ私が推薦したことなどで出ることとなったので
高へ出ることとなり︑尚帝大へは当時の文科大学の学長
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として夏目君などが入ったので︑前々から夏目君などを
入れる予定があったわけではなく︑従って夏目君などを
入 れ る た め に ハ ー ン 氏 を やめ さ し た と い う よ う な 事 情 は
全然なかったのである︒当時の帝大の同僚中夏目君と懇
意 な 人 と し て は ド イ ツ 文 学 講 師 の 藤 代 禎 輔 氏 ︑ 私な ど で
あった︒
夏 目 君 の 大 学 に 於 け る 講 義 は︑ 最 初 の 二 年 間 は 今 ﹃文
学論﹄として出版されているものであったが︑非常に評
判がよかったように思う︒又︑後その講義を整理して﹃文
学論﹄として出した際︑私も一本を寄贈されたが︑それ
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を読んで新聞紙上にその印象を書いたところ︑それを見
夏 目 君 が 大 学 を や め た の は ︑ 朝 日 新 聞 社 へ 入 る ため で
て︑当時の夏目君に大いに同情するに至ったのである︒
後私も神経衰弱に罹っていろいろ苦痛を嘗める様になっ
どうも夏目君も近頃少し変だな位に思ったのであるが︑
っ た ︒ 私 は 神 経 衰 弱 の こ と は よ く も知 らな か っ た の で ︑
はひどい大神経衰弱の絶頂で︑いかにも苦るしそうであ
屢々千駄木町の御宅に訪ねて行ったが︑その時分夏目君
しば しば
あ る ︒ 尚 当 時夏 目 君 は 千 駄 木 町に 住 ん で い た の で ︑ 私 も
た夏目君からありがたいと感謝した手紙を貰ったことも
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あ っ た と 思 う が ︑ 当 時 私 は 夏 目 君に 教 授 に な っ て ︑ 大 学
のために尽くして貰いたいと思って︑夏目君にもそんな
話 を し た の で あ っ た が ︑ そ の 時分 夏 目 君 は す で に ﹃ 吾 輩
は猫である﹄や﹃坊つちゃん﹄や﹃草枕﹄等を書いて創
作方面にも進んでいたので︑教授になったからと云って
創 作をやめ るというこ とは承 服しないだろう と思い︑当
分創作と教授と両天秤でゃって貰いたいと思ったが︑そ
れには大学当局の承 認と夏目君の承諾を得なければなら
ぬと考えて︑先ず大学当局へその話をしたのであった︒
当時大学総長は浜尾氏であったが︑いろいろ考慮すると
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のことで中々急には進捗せず︑大分たってからようやく
なが
足を与えるようになるので︑夏目君が創作一方に努力す
とは︑結局両方共不十分な結果をもたらし︑双方に不満
ある︒併し乍ら創作と教授と一人の力を両天秤に使うこ
しか
にきまってしまったと聞いて少し失望したようなわけで
が︑そう急には運ばないだろうと思っていたのに︑すで
夏目君の新聞社へ入るということは前々から聞いていた
目君は朝日入社に決定してしまったあとであった︒尤も
ろへ行ってその具体的な話をしたところ︑すでに晩く夏
おそ
それではということになったので︑急いで夏目君のとこ
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るために大学をやめたのも止むを得ない至当なことだと
あきらめ︑夏目君の精進を祈ったような次第である︒
︵﹃漱石全集﹄
︵昭和三年版︶月報第九号︵昭和三年十一月︶︶
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