「本の思い出」 ペンネーム 咲さん 思い出はいつも桜吹雪。 今は亡き父母を瞼に思うとき、二人はいつも寄り添っている。そうして私を慈 愛に満ちた瞳で見つめる。 あの日も。小学四年生の春のかけっこ競争は、体が小さくて足の遅い私にとっ ては地獄のようだった。母が、入賞したら動物園に行こうと言ってくれた。で も休日に父が練習してくれても、ちっとも上達できなくて。 迎えた当日、嫌々ながら走ってみると私はビリから二番目。でも途中で後ろの 子が転んだ。 私はとっさに足を止めてその子の手を取った、知恵遅れの子なのを知っていた からだ。 結局私はその子とふたりでビリになった。校庭に父母を探せば、手を取り合い こちらを見つめる二人の姿。ひらひら、桜が舞っていた。 ダメだったと母に伝えると、母は泣いていて、「いいえ咲が一番よ。だからみ んなで、動物園に行くのよ」と言った。父も頷きながら頭を撫でてくれた。 翌日行った上野動物園は、やはり桜吹雪。 お昼ご飯の後に父母が私に贈ってくれたのが、「かわいそうなぞう」という本 だった。戦時中、国政のために殺められた上野動物園の哀れな動物たちのお話 だ。 私は泣いて、泣いて、でも母が、そういう気持ちを持つ咲だから贈ったのよ、 たくさん泣きなさい。それでいいの。そう言ってその日の晩は、添い寝をして くれた。 そんな思い出の詰まった一冊を、私のふたりの子供たちがもう少し育ったら、 読み聞かせてやりたいと思う。
© Copyright 2024 ExpyDoc