倫理的価値の普遍性と実在性: パトナム= ハーバーマス論争を手懸かりに

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倫理的価値の普遍性と実在性 : パトナム=ハーバーマス論
争を手懸かりに
堂囿, 俊彦
人文論集. 65(2), p. A1-A27
2015-01-30
http://doi.org/10.14945/00008092
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倫理 的価値 の普遍性 と実在性
― パ トナム=ハ ーバ ーマス論争 を手懸か りに一
堂
固
俊
彦
はじめに
倫理的な価値 は実在するのかとい う問いは、倫理学の一分野であるメタ倫理
学 において大 きな論争を呼んできた。素朴に考えれば、 この問いに対す る答 え
は否定的 になるだろう。例 えば、末期癌 が見つかった患者 に対 して、病状を隠
「彼 は誠実だ」 と肯定的に評価す るのに対
さずに説明した医師について、Aが 、
「
して、Bが 彼 はばか正直なだけだよJと 否定的 に評価 したとしよう。 このと
き彼 らは、あるレベルにおいて、す なわちその医師が包み隠さず説明したとい
う事実 において一致 しているにもかかわらず、それをどのように評価す るのか
に関 しては一致 していない。 こう考 えることはできる。そしてこの不一致を説
「誠実さ」
「ばか正直さ」とい う価値を、そのように判
明するありふれた方法 は、
「包み隠さず
断 した人の価値観 から説明することである。こうしてこの事態 は、
「ばか正直」 とい
言 ったJと い う事実 と、A・ Bが その事実 に付与 した 「誠実」
う価値評価 とに三分される。
しか しながらこの説明 は、われわれを困惑させ もする。例えば別の医師が、
患者の手術中に、治療 の上では不必要だが、学問上の理由からさまざまな処置
を行 い、 この行為 に対 してAが 「彼 は残酷 だ」 と否定的に評価 し、Bが 「彼 は
自分の仕事 に忠実なんだよ」 と肯定的 に評価 したとしよう。 このとき二人の対
立を、価値観の違 い」 キ付けることは難 しい。そ してこの困難を回避す る一つ
「残酷さ」といった価値を、事実のようなものとして扱 うことである。
の方法 は、
なぜならわれわれは、事実 は価値観 とは異な り、議論する ことができると考え
ているからである。
そして実際、価値には事実的な要素が含 まれているのだとい うことを示す こ
とにより、事実 と価値 の区分 を批判 し、それによって価値の実在性 を示 そうと
する試みは存在する。 とラリー・パ トナムは、そうした試 みを展開す る哲学者
- 1 -
の一人である。彼 は、後述するように、倫理的価値 (ethic」 value)の 中には、
事実 と価値 とが絡み合 った形で含 まれている「厚い概念」(thiCk COncept)が 存
在することを指摘 し、価値 に事実的な側面が存在する ことを示そうとする。そ
して彼 はこの試みの中で、われわれが事実 だと見 なしてい るものにも認知的価
値 (eplstemic value)が 含 まれてい ることをくり返 し指摘 し、価値 と事実 とが
絡み合 っていることを示そうとするのである。
しかしながらギパ トナムのこのような立場 は、ユルゲン・ ハーバーマス との
論争を生む ことになる。両者 の論争で間われているのは、価値 は普遍的である
のか、また普遍的であるとしても実在的であるのかとい うことである。 そこで
1の
本稿では、両者の議論を比較検討することにより、パ トナムの道徳的実在論
妥当性を検討する 具体的には、以下 の形で考察を進 める。第 1章 では、パ ト
2。
ナムにおける認知的価値 と倫理的価値を概観 した上で、両者の間には、大 きく
二つの相違 があることを指摘する。一つ 日は、概念 の厚 さに関す る相違、二つ
日は、概念の実在性 に関す る相違である。 これら二つの問題を、 それぞれ第 2
章および第 3章 において、ハーバーマスの見解 と対比させ ながら検討す る。
1.認 知的価値 と倫理的価値
ここでは、第一 に、認知的価値及 び倫理的価値の基本的特徴 および両者 の違
いを確認 し、第二に、両者 の間 に看過 できない違 いがあることを指摘す る。
:実 の ところパ トナムは、自らの立場 を明確 に実在論 と呼ばない。彼 はその理 由を「r実 在論Jは 、
ヽ
現在 きわめて多 くの形而上学的・ 言語哲学的論争 に巻 き込 まれてい る」(Putnam 1994 177)め
らとする。この ときパ トナムが念頭 に置いているのは、われわれの認識 を超越 した実在 を想定す
る立場 (イ ンフレ的存在論)で ある。つ ま リバ トナムは、自らの立場 が この意味での実在論 と混
同され ることを恐れているので ある。 しか し次のように語 るさい、彼 は明 らかに自らの立場 が別
種あ実在論であることを認めてい る。「道徳的事実 は認識を超越 した事実であぅ、あるいはあ り
うると想定することな く、メタ倫理学 における道徳的実在論者であることはできない、つ まり
『価値判断Jの 中には客観的事実の問題 として真であるようなものも存在すると考 えることはで
」(CD 108[1367])
きない一― このように想定することにはいかなる理由もない。
2筆 者 はすでに、パ トナムの議論 に依拠 しつつ、「人間の尊厳Jを 「厚 い概念」 として理解する可
能性を検討 した。Cl堂 回 2014 本稿の目的は、その論文の査読過程 において指摘 され、結局の
ところ十分に検討することができなかった問題を扱 うことにある。査読者の方から指摘 された具
‐
体的な問題に関しては、該当論文注53を 参照されたい。パ トナムの議論 に含 まれる重大な問題 に
気づかせて くれた査読者の方 に、 この場を借 りてあらためてお礼申し上げたい。
- 2 -
1-1
認知 的価値
パ トナ ムが認知 的価値 としてあげるのは、「単純性」(simplc,)、 「首尾 一貫
性 」(coherence)、 「 もっ とも らしさ」(plausibi■ り)、 「理 に適 って い る こ と」
(reasonableness)、 「美 しさ」(beauty)、 「自然 さ 」(naturalness)な どで あ る
(Putrlam 1981:135‐ 136[205 2061 CD:3033[35];EO:67[82])。
これ らが認苅
的 であるのは、われわれ が これ らの性質 を通 じて世 界 を認知 す るか らであ り、
これ らが価値 で あるのは、われわれがそ うした性質 をもった世界 は望 ましい、
あるい は世界 はその よ うにあるはずだ と考 えるか らである。 パ トナムは、認知
的価値 が重要 な役割 を果 たす ことを、次 のよ うな歴史的事実 によって説明する。
アイ ンシュタインの一般 相対1処 論 とアフル レ ッド・ノース・ ホフイ トヘ ッ
ドの重力理論 は ともに、 特殊相対性 につい て は一 致 し、 また、両 方 とも、
重力によって光 が曲げられること、火星の軌道がニ ュー トンカ学 とは異なっ
ていること、月 の正確 な軌道等 々、 よ く知 られてい る現象 を予波」していた。
しか し、 アイ ンシュタイ ンの理 論 が受 け入れ られ、ホフイ トヘ ッ ドの理 論
が拒否 されたのは、 二つ の うちいずれを選ぶ べ きかを決 定するような観測
方法 を考 えつ く人 が 出 る50年 も前の ことで あ った。明示 的 か どうかは とも
か く科学者 たちが下 した判断、すなわ ち、ホ フイ トヘ ッ ドの理 論 はあま り
に 「もっ ともらしさに欠 ける」 とか、真面 日に受 け取 るには 「ア ド・ ホ ッ
ク」す ぎるとい う判断 は、明 らかに価値判断であった (EO:6768[82-83])。
これに対 して、 ここでの科学者 たちの判断 は価値判断ではない と批判 され るか
もしれない。 なぜ な らどちらの理論 がよ り「もっ ともらしいJか 、よ り「ア ド・
ホ ックではないJか は、真 の世界 との一致 によって なされ るべ きであ り、望 ま
しいか どうか とは無 関係 であるよ うに思われ るか らである。だが、 このよ うな
形 で理 論選択 を説明す ることはで きない。 なぜ な らわれわれ は、理 論 の 「もっ
とも らしさ」 を判定す るために、理論 か ら離れて 「真 の世界」 を認知 す る視点
を持 ち得 ないか らである。 バ トナム はこのような世界 を 「形而上学的実在 Jと
呼 ぴ、 この ような形 の実在論 を首尾 一貫 して否定す る。
「われわれは観測 によって真 の世界 に接す ることがで きるので
しか しさらに、
あ り、 二つ の理論 の優劣 は後 に示 された観測方法 を通 じて決 まったのだ」 と反
「観測 Jと 「真 の世 界」 を結 びつ ける この考 え方
論 され るかもしれ ない。だが、
は、観測 されて い ない ものも事実 として受 け入れ られて きた ことを説 明 で きな
い (例 えば原子、電子、陽子 など)と 同時 に (CD:2227[2531])、 観測 自体 が
理論 と分 かちがた くか らみあって い ることを見逃 して い るとパ トナムは主張す
- 3 -
る。後者 を訴えるにあたってパ トナムが依拠す るのは、分析判断/総合判断の
区分 に対 してクフインが行 った批判である。 この区分 は、すべての言明 を、事
実内容 を欠 く (数 学や論理学にお ける)も のと事実 のみに関す るものに明確 に
区分できるはずだとい う想定 に基づ く。 しかしクフインはこうした想定を認 め
「物理的世界 に関するわれわれの言明 は、個別的 にではなく、一体 となっ
ない。
た組織体 としてのみ、感覚経験 とい う裁 きの場 に立つ」(Qunc 1953 41)3か ら
である。つ まり観測 とい う事実 に関わる言明の妥当性 も、価値 と絡み合 った理
論 と無関係 には成立 し得 ないのである。
しかし上記 の価値判断が、形而上学的実在 との合致によってなされるのでは
「その
ない とすれば、 どのようになされるのだろうか。パ トナムはこの判断を、
ためのアルゴ リズムがあるものではなく、つ まるところ『山勘Jで 判断す るし
かないもの」(Pu●latn 1981:132133[201])で あると言 う。 しかしここで言わ
れる「山勘」(seat of dle p狐 劇 cel)は 「当てずっぼう」 とい うことではなく、
「科学者 として成功するようになる
優れた科学者 のみがもっている能力である。
かどうか…は、 その人が学んでゆ く課程で、そのような判断能力を発達 させる
「正規の学習 も大
かどうかの問題Jで あ り、 こうした能力を身につける上では、
事だが、 それ以上に、本人 が実際 に科学 にかかわる経験を通 して学ぶほ うが大
事」(EO:69[74])だ とされる。このようにして育 まれる評価的な観点 (cvaluat市 e
oudook)を 通 じてこそ、科学 は実在す る世界 を描 くことができるのであり、 こ
ことは別 に真 に実在す る世界を想定す ることは意味をなさないのである。
1-2
倫理的価値
次 に、倫理的価値 を見ていこう。認知的価値が世界 の認知 に関わるのに対 し
「多 くの脚 に支えら
て、倫理的価値 ははるかに曖味である。パ トナムは倫理を、
れたテープル」(EO:28[32])に IIRえ る。すなわち倫理 は、日の前で苦 しんでい
る人への関心、原理への関心、人間の幸福への関心…といつた多様 な関心に支
えられているのであ り、 こうした関心 と関わるものが倫理的価値 なのである。
そして冒頭 で述 べたとお り、パ トナムが着 目す るのは、倫理的価値 の中でも、
「慈悲深 いJ「 粗野 な」
「勇敢 な」
「鈍感な」といった厚 い概念 である (CD:
「残酷 な」
3た だ しクフイ ン
自身 は、理論 と価値 の不可分性 に言及 しているわ けではない。パ トナムはこの点
を批判す るとともに、クフインが、分析判断 と総合判断の区分 にはいかなる意味 もない主張 した
点 (Ci CD:12[13141)、 そして物理学 によって描かれ る世界 を唯―の実在 として認めた点を批
判 してい る (Ci EO:83‐ 34[102])。
- 4 -
「正J「 不正」
「不正J
「公正」
これに対 して「薄い概念」 としては、
「義務」
「善」
「悪」
「権利」
「責務」 といったものが挙 げられる (EO:106[128])。
それでは概念の厚 さとは何であ り、 この概念 はどのような意味で事実 と価値の
22‐ 27[25‐ 31])。
区分 を批判す るのだろうかち
伝統的に、価値の実在性を疑 う論者 は、価値判断を、記述的意味と評価的意
味に区分 してきた。例えば「このコンピューターはよい」 とい う発言は、一方
において、そのコンピューターがもつ一定の性質――例 えば、処理速度 の速さ、
重量の軽さ、耐久性など―― を伝 えるとい う意味 (機 能)を もつ。他方でこの
発言 は、そのコンピューターを肯定的に評価 し、 さらには他人に購入を勧 める
「よ
とい う意味 (機 能)を 持 っていると考 えられる。 そして二つの意味の うち、
い」 にとって固有 なのは、評価的意味 とされる。なぜなら「よい」の評価的意
味が一定であるのに対 して、記述的意味によって伝 えられる性質 は、 どのよう
な種類の対象が 「よい」 とされるのか、誰 がこの言葉を使 うのかによって多様
だからである。概念 が 「薄い」 とい うときに意味されているのは、記述的部分
(の 内容)を 世界
の側 に帰属させる一方で、評価的意味を主観 の選好 に帰属させてきた。
これに対 して厚 い概念 は、 自らの内に記述的意味をもつ。 なぜならわれわれ
は、対象を記述す るために厚い概念を用 いることができるからである。例 えば、
「ティベ リウスは
歴史学者である秀村の著作 には以下のような記述が見 られる。
のこの空虚 さである。そして反実在論者 たちは、記述的意味
グルマニアに歴戦 した練達の将軍で、統治 の才もあ り、義務観念の強い人物だっ
たが、明朗さと温かさに乏 しかった。元老院 との間 は表面的にはうまくいった
が、じっさいにはしっくりせず、民衆 にも人気がなかった」(秀 村 196■ 23)、 あ
るいは「物質的幸福 と名利 に心を煩 わされず、摂理 と運命への達観を説 くス ト
ア哲学を修 めた彼 [セ ネカ]も 、粗野 なコルシカ人の間での、孤独 な生活 には
耐え られなかったのであるJ(秀 村 1967・ 38)。 これらの文章 において、ティベ
リウスや コルシカ人は非難されているのではない。ティベ リウスの明朗 さと暖
かさの欠如 は不仲・ 不人気の原因として、 コルシカ人 の粗野 さは生活の耐 えが
「よ く
たさの原因 として記述されているのである。引用文 にお ける傍点箇所を、
「悪かった」 とい う薄い概念 に置 き換 えた場合 に、対象の記述 が不十
なかった」
分になることからも、 これらの概念の厚 さは明らかだろう。
しかしこれだけでは、二分法の崩壊 には至 らない。 なぜなら厚 い概念 の記述
4以 下の部分 は、董回
,2014第 2節 の記述 を圧 縮 したものである。詳細 についてはそちらを参照 し
ていただ きたい。
- 5 -
的意味 を通 じて伝 え られ る記述的性質 が、倫理 的価値 とは関係 ない、明確 な事
実 に還元 され るな ら、依然 として事実 //価 値 の二分法 は維持 されて いるか らで
「残
ある。 しか しパ トナムはこれを不可能 とす る。彼 が挙 げる例 を用 いるなら、
酷 なJを 「多 くの痛みを与 える」 とい う事実 によって説 明す る と、麻酔 が開発
され る以 前 の医師は残酷 で あ り、苦痛 を与えず に、才能 ある若者 を堕落 させ る
者 は残酷 ではない とい う奇妙 な事態 に陥 る。(も ちろん これは、音痛 を与 える行
「
『残酷 な』 の「記述
為 が時 に残酷 だ とい うことを否定 しない。)結 局の ところ、
的意味Jと は何 で あるかを『残酷 な』 とい う語や その同義語 を用 い ず に述 べ る
「酷 い」
「惨 い」
「残酷 な」 を、
ことがで きないJ(CD:38[45])の である。実際、
とい う価値 を含 んだ表現 を抜 きに、一般的 に説明す ることは困難 ではない だろ
うか。 そして この よ うに事実 と価値 が分 かちがた く絡み合 って い る以上、事実
/価 値 の三分法、 さらには記述的意味 によって示 される一定 の性質 に、主観 が
価値 (観 )を 書 き加 えるとい う枠組 み 自体 が疑問視 され るのである。
そ して倫理的価値 とは関係 ない、明確 な事実 によって厚 い概念 を説明 で きな
い とい う事態 は、 アル ゴ リズムのよ うな機械的 プロセス によって概念 を適用す
ることが不可能 であることを意味す る。 も し可能 であれ ば、 そ う した事実 を基
準 として、法則やアル ゴ リズムを作 ることが可能だか らである。それゆ え認知 的
価値 と同 じように、厚 い概念 を適用す る上でも、評価的 な観点 を持 つ ことが極 め
て重要 になる。(倫理 に関す る場合、パ トナムはそれをい、
間知」KM― encrkcnntllsu
い
とも呼ぶ 。
)「 もし適切 な倫理的観点 を かなる点で も共有 しえない とすればt厚
「そうした概念 を
い倫理的概念 を獲得 する ことは決 してで きないで あろう」 し、
洗練 された仕 方 で使 い うるため には、 その観 点 と (少 な くとも想像 の 中で)一
体化す る持続的 な能力 が必 要 J(CD:37-38[44])な のである。 そ してわれわれ
「経験 が
が この観点 を学 ぶの も、科学 と同 じように、経験 (実 践 )か らで ある。
増 え、経験 がもっ と洗練 されたものになると、価値 の色調や 陰影 も増 え、価値
はもっ と洗練 されたものになる」(CD:103[130])。
1-3
二つの価値 の相違
冒頭 で述 べ た ように、 パ トナ ムは、倫理 的価値 と認知的価値 の類似性 に訴 え
「事実言明 その もの も、何が
ることによ り、道徳的価値 の実在性 を訴 えてい る。
事実 で何 が事実 でないかを決定す るためにわれわれ が よ りど ころ とす る科学的
探求 の実践 も、価値 を前提 として い るがゆえに、先 の [事実 と価値 の]区 別 は、
非常 に控 えめに言 って も、絶 望的 なまでに曖昧J(Putnam 1981:128[1941)で
- 6 -
「倫理的 な価値評価 に対 していっさいの客観性 を認 めない過激 な『 自然主
あ り、
義J5は 、 その主張の一貫性 を保 とうとする限 り、方法論的 [認 知 的]な 価値評
価 に対 して もいっさい の客観性 を認 めるわけにはゆかない」(EO:73[89])の で
ある。 しか し本 当に、両者 を類似 したもの として扱 うの は適切 だろ うか。む し
ろ両者 の間 には、無視 しえない相違 があるように思われ る。
認知的価値 と倫理的価 値 の一つ 目の相違点 は、前者 が薄 い概念 であるのに対
して、後者 が厚 い概念 だ とい うことである。認知 的価値 が 自 らの うちに伝 える
「あれ は単純だ」 と言 われても、 われわれに
べ き記述的性質 をもたない ことは、
思 い浮 かべ られ るものがほ とん どない ことか ら明 らかである。 そ して ここか ら
示唆 され るのは、倫理 に関 して も、 む しろ薄 い概念 に着 日して こそ、 その普遍
性 を保てるのではないか とい うことで ある。ハーバーマス はそ うした試みの代
表 的論者 であるが、彼 は 「規範」 とい う薄 い概念 に普遍性 を認 める と同時 に、
厚 い概念 も含 めて価値 を総 じて相対的 なもの と見 な して い るよ うに思われ る。
パ トナ ムに よる認知的価値 と倫 理 的価値 の並 列 が有効 であるためには、規範 と
価値、 さ らには薄 い概念 と厚 い概念 の関係 を明確 にす る必要 があるだろ う。
二つ 日は、認知 的価値 と倫理的価値 では、前者 が実在的で あるの に対 して、
後者 が間主観 的 とい う点 で違 い があるのではない か とい うことで ある。両者 と
も確 かに、価値 か ら完全 に独立 した客観 (形 而上学的実在 )に 関わ ることのな
い客観性 を、す なわちパ トナムが言 うところの「客観抜 きの客歓 lL」 (o● ect市 iw
宙 thout obJect)を もつ と言 えるか もしれない。 しか しここか ら、科学 と倫理 の
客観性 が同 じであると言 えるのか。 この点 について も、 ハーバーマス との対比
が有効 に思われ る。彼 は規範 の普遍性 を認 めるが、 この普遍性 は実在性 ではな
く間主観性 を意味す る。 ハーバーマ スの この立 場 が適切 な ら、両者 の対比 か ら
倫理的価値 の実在性 を主張す るパ トナム の立 場 はや は り疑わ しい ものになる。
2
薄 い概念 と厚 い概念
厚 い概念 に着 目す るパ トナ ムは、薄 い概念 とい う 「貧弱 な語彙」 で倫理学 上
「哲学 が陥 っている盲 目」(EO:73[89])と
の争 点 を語 り尽 くそうとす る傾 向 を、
批判す る。 そ して この批判 は、 その まま規範 と価値 (あ るいは正 と善 )を 厳密
に区分する、現代 において主 流 をなす立場 へ の批判 につながる。 なぜ ならこの
5パ トナムは
自然主義 とい う用語 を、物理主義、すなわち世界 そのものは価値中立的な第一性質か
ら構成 されている とす る立場 と同一視す る。CI Putnam 19951 39[53]
- 7 -
立場に与す る論者 は、薄い概念を用いて規範 を捉えると同時に、価値 を総 じて
倫理学の中心から排除す ることを試みているからである。それゆえパ トナムが、
規範 と価値 の区分 を重視するハーバーマスを批判 したのは当然のことであつた。
ここでは、ハーバーマスにおける規範 と価値の区分 を確認 した上で、 この区分
に対するパ トナムの批判、 そしてパ トナムにおける薄い概念 と厚 い概念 の関係
を検討 し、最後 に討議倫理の中にも価値 の普遍性を認める余地があることを示
す。
2-1
規範 と価値
一般的 に、規範 は行為の評価 に関わ り、価値 はそれ以外のもの (例 えば、人
「たとえ
柄、結果、理想など)の 評価 に関わるとされる。例 えば殺人 に関 して、
犯人の人柄がどうあれ、殺人 によって彼が目指 した理想がどうあれ、さらには
殺人 によって生 じた結果 がどうあれ、殺人を為すべ きではない (殺人 は不正で
ある)」 と言 う人 は、 この区分を前提 としている。そしてハーバーマスの討議倫
理も、 この区分 を重視 している。以下、規範 と価値 の区分 を中心に、彼 の立場
を概観する。
ハーパーマスによれば、われわれはコ ミュニケーションの場面において、三
「適切 な
つの妥当性請求 (Geltungsanspruch)を 掲げている。(妥 当性請求 とは、
)一 つ 目は、
ことを認 めるように主張する」 と言い換 えることができるだろう。
「客観的世界 (事 実である、 もしくはありうるものの総体 としての客観的世界)」
に関わる確然的真理性 (asseionsche wtt■ eit)。 これを通 して発話者 は、 自
らの発言が客観的世界 にもとづいた真理であることを主張 している。二つ 目は、
「社会的世界 (正 当に規則づけられた間人格的関係 の総体 としての社会的世界)」
に関わる規範的正当性 (llorma歯 e Rchtke■ )。 これを通 じて発話者 は、自ら
の発言が社会的規範 に照 らして正 当であることを主張 している。そして最後 が、
「主観的世界 (彼 が特権的 な通路をもっているところの、表明 しうる体験の総体
としての主観的世界)」 に関わる主観的誠実性 (su● ekdVe wabrhattgkeit)。 こ
れを通 じて発話者 は、自らの発言が自分の気持 ちや意図に誠実であることを主
張 している (MB:33[43])。 例 えば日本 の社会 において一人の男性 が、愛 し合
う他の男性 と一緒 に生 きてい くかどうか悩んでいるとする。この男性 に対 して、
兄が「お前のことを愛 している女性 と生 きてい くべ きだ」と言 うとき、兄 は「お
「男性 は女性 を
前 と相思相愛 の仲 になれる女性 がい る」 とい う確然的真理性、
パー トナー として生 きてい くべ きである」 とい う規範的正当性、 そして 「自分
- 8 -
は心からそう考 えているJと い う主観的誠実性 を掲げてい るのである。
すでにこの区分 から明らかなように、規範 は規範的正当性 に関わる。 しかし
もし弟が兄の妥当性請求 に疑間を呈 したらどうか。ハーバーマスは、そのよう
な状況から妥当な規範を導 き出すには、実践的討議 (prakischer Diskurs)力 `
必
「規則 が妥当ならば、各人の利
要であると述べ る。 この討議において参加者 は、
害関心のために、その規範 を一般的に遵守することから生 まれて くると思われ
る成果や副次的結果 は、すべての人に強制 なく受け容れられなければならない」
(ED:12[18])と い う普遍化原則 (Un市 cお aliserungsgmndsatz)に 従 う必要が
ある。 この原則 の名称からも明 らかなように、規範 は 「すべての人 に受け入れ
られる」 とい う普遍性 と結びついている。 なぜなら「妥当性 をもつ道徳的命令
は、特定の個人 に関係 しない普遍的な性格を持つ」(MB:731105])か らである。
そしてこの普遍性は、原則の内実 から明らかなように、各人の利害関心、各人
「討議倫理学 は、内容 に関す る
の同意を公平に考慮することによって成 り立つ。
十分な前提を備えた手続きを、すなわち公平性 0理artdLchkci0
方向付けではなく、
を保証すべ き手続 きを提案する」(MB:132[193])の である。手続 きとしての
公平性 こそ、討議倫理の核 と言えるだろう。
それでは討議倫理 において、価値 はどのように扱われるのだろうか。すでに
述 べたように、ハーパーマスは規範 と価値を明確 に区別す る。実践的討議 を通
「日常 の実践 は、規範 と価値 に、すなわち厳密 な道徳的正当化の要請 に従
じて、
う可能性 のある、実践的なものとい う構成要素 と、個 々人や集団の生活様式 に
統合されてい る特殊な価値志向を含 んでいる、道徳化されえない もうひとつの
構成要素 とに、分離する」(MB:H8[170‐ 171])の である。 この引用から明らか
なように、ハーバーマス にとって価値 とは、道徳 に必要 な普遍性 を欠 いてい る
ゆえに、規範 とは区別 されなければならない。ハーバーマスは、規範 と価値を
「道徳」 と「倫理Jと い う形で区分 した上で、 よ り直接的 に次 のような形で述 べ
る。
日常 の実践のなかに具体化 してい る文化的価値、あるいはある人物 の自己
理解 を形作ってい る理想的なものといつたものは、確 かに問主観的 な妥当
性への要求を伴 っている。 しかし、 そういったものは、集団的 なものであ
れ、個人的なものであれ、特殊な生活様式の全体 ときわめて密接に折 り合
わ されてい るので、規範的妥当性 などはじめから厳密 な意味で要求 される
ことはない (ED:35[31])。
「男性 は女性 をパー トナ ー として生 きて い くべ き
先 ほ どの兄弟の例 で考 えよう。
- 9 -
である」 とい う規範が、仮 に兄が抱 く理想的な生き方 に、あるいは兄が属する
文化 に特有 な価値に依拠 しているなら、普遍性 を持ち得 ないことは確 かであろ
「様 々な局所的な
う。 しかし価値の中には相対的なものがあるにせ よ、同時 に、
「生活世界Jの歴史がもつ偶然以上の何かが、価値 には存在するJ(CD:H7[147])
のではないか、パ トナムはこう問 うのである。
2-2
薄い概念と厚 い概念の結 びつき
パ トナムの批判は、ハーバーマス における「普遍的 な規範/相 対的な価値 」
とい う区分 に向けられる。すでに見 たように、ハーバーマスは規範 の普遍的妥
当性を、討議 を通 じた合意から導 きだ していた。 しかしパ トナムはこれに反対
す る。F色 々な意見 は、たとえわれわれ全員 が、 どれが正 しくてどれが誤 ってい
るのかに関 して一致 した見解 に至 らない ときでも、正 しくまた間違 ったもので
ありうる」(Putnam 2002● 319)。 すなわち彼の反論の主旨は、合意 は規範 の妥
ヽ
とぃぅ点にある。以下具体的に見てい
卦産た[ら そ必要ネ苛欠な条件ネ慮を」
こ う。
「ある父親 力S、 彼 の子 どもをか らか う こと
パ トナムは次 のような例 を挙 げ る。
によって心理的に虐待 して い るのだが、彼 は (鈍 感 さのためか、サデイズムの
傾向 をもつせ い なのか)そ の子 の涙 が本当 に深刻 なものである ことを否定」 し、
「彼 は我慢す ることを学 ばなけれ ばならないJ(CD:127[160])と 主張す る。 そ
して これをきっかけに、親子の関係 に関す る規範 を、 この父親 と周囲 の人 々が、
三 つ の妥 当性請求を掲 げ、普遍化原則 に従 って討議 した としよう。 しか しそれ
「泣 いている子 どもをか らか うべ きではないJと い う規範 の合
にもかかわ らず、
意 に至 らない とする。 この とき、討議 倫理 の観点 に従 えば、 その規範 は合意 を
欠 くゆえ に、妥 当性 を欠 く。 しか し合意 の有無 とは別 に、 この規範 は妥 当 なの
ではないか。
それで は、 この討議 に欠 けて い るもの は何 か。 パ トナ ムは問題 を次 のように
指摘す る。
… この討議参加者 たちが間違 っている点 は、彼 らが討議倫理 の規範 に従 っ
て い ない とい うことで はない。何 が間違 って い るかは、個 々の倫理的問題
に適 した厚 い倫 理的ポキャブラ リー を用 い ることによって述 べ ることがで
きる。彼 らは 「F鈍 感』(人 間知 をもっている ことの反対物 )で あ り、彼 ら
は『サディズ ムの傾 向』 をもつJ、 等 である (CD:127128[161])。
問題 は、討議 に参加 してい る人が、価値 を適切 に捉 えることので きる評価 的観
-10-
点 を欠 いてい ることにある。 そ うした観点 をもって いるな ら、 その父 親 の主 張
が誤 ってい ることを見 て取れ るはずなのである。 もちろん全ての人がそ うした
視点 をもって い るな ら、規範 に関す る合意 は成 り立 つ だろう。 だが、 この とき
規範 の普遍性・ 妥当性 を支 えているのは合意 自体 ではな く、適切 な視点 を通 じ
て見 い だされた価値 で ある。 そ うである以上、規範の普遍性 を支 える価値 の普
「価値 の表現 に関す る相対主義 は、 どの よ
遍性 を想定せ ざるをえないので ある。
『規範 Jの 客観性 に影響 を与 えず たはおか ないJ(Putnaln
うな形 のもので も、
確 かに価値 の 中 には、個 々人 が抱 く望 ましい生 き方 な ど、相
対的 なものも存在す る。 しか しここか らすべ ての価値 が相対的 であると判断す
2002●
308‐ 309)。
るのは早計 である。以下、パ トナ ム に対 して提起 され うる批判 を二つ検討 しよ
う。
一つ 日は、普遍化原則 は泣 いてい る子 ども 自身 の利害関心や同意 を考 慮す る
ように求 めて い る とい う批判である。か りに子 どもが まだ十分 に話す ことがで
きない としよう。 この とき討議倫理 が求 めるのは、 その ような行為 が 「すべ て
の人 に よって拒否 され る」(ZN:79[7月 )か どうか を想定で きるか どうかで あ
「父親 の ような行為 は誰 によっても拒
る。 しか しこの討議 に参加 してい る人 が、
否 され る」 と想定す るとは考 え られ ない。 さらに、 か りに本人 が討議 に参加 で
きた としても、事態 が変 わ るわけで はない。子 ども 自身 が当該 の規範 が妥当で
あると主張 した ところで、周囲 が合意 しなければその規範 は妥当ではない 二
6。
つ 日は、欠 けてい るのは価値ではな く規範 であるとい う批判 で ある。すなわち、
ま「人 を残酷 に扱 うべ きではない」 とい う行為 の規範 であ り、「鈍
欠 けてい るのり
感」や 「サディズム のlrI向 」 といった価値 ではない のだ と。 しか しこの批判 の
内 に こそ、規範 に とっての価値 の重 要性 が示 されて いるのでは ないか。 これ ま
で見 て きたように、 パ トナ ムは倫理的価値 の事例 として しばしば 「残酷 」 を挙
げて きた。 そ して この概念 は、人、意図、帰結 を評価す るために用 い られる以
「泣
上、価値 と規範 の 区分 を受 け容れるな ら「価値 Jで ある。だが この価値 は、
いてい る子 どもをか らか うべ きで はないJと い う規範 を支 える根拠 として、 さ
`も ちろん検討 される規範 を「父親 は泣 いてい る子 ともをうヽらガ,ら そ も1じ ヽ
Jに 変更す るなら、そ
して子 とも自身が討議 においてノーを言 うのであれは 事態 は変わ つて くるだろう。 しかし討議
に付 されるものは、すでに社会 に■いて適用 している規範 である。 その点で は、
「か らか うべ き
ではない」 力ζ
「み なが納得 で きるも
討議の俎上 に載 る可能性 が高 い。ハーパーマスの枠組 みは、
のではないJと い う理 由で古 き志 しきものを排除で きる一方 で、同 じ理 由か ら古 き書 きものをも
容易 に″1除 で きて しまう。パ トナムが問題 にしたのは、討議倫理 が排除す るものと思 しきもの と
の このズンなのである。なお、筆者 は拙稿 において、パ トナムにおける客観性 を収東性 に結 びつ
けたが、 それは全 くの誤 りであった。Ci堂 回 201418
-11-
らには 「人 を残酷 に扱 うべ きではないJと い うよ うに、規範 の一部 として も用
い られる。む しろこの批判 は、規範 を考 える上で、 いか に価値 が不可欠 なのか
「人間 に関す る多様 な価値 がなければ、規範が その中で述 べ られ
を示 して い る。
るべ き語彙 は存在 しない」(CD:119[150])7の である。
最後 に、薄 い概念 と厚 い概念 の関係 について確認 しよう。規範 と価値 の関係
をめ ぐるパ トナ ムの考 えか ら、われわれ は、薄 い概念 と厚 い概念 も密接 に関連
「泣 いている子 どもをか らか うべ きではな
してい ると言 うことがで きるだろ う。
「この
い」 とい う規範 が 「残酷Jと い う価値 を根拠 としているよ うに、例 えば、
「誠実」や 「快活 Jと いった価値 に
国 の人たちは本 当 によいねJと い う発言 は、
8。
い
い
この
ことは
、薄 い概念 が記述的意味 をもたない
支 え られて るかもしれな
とい う先 の説明 と矛盾 しない。薄 い概念 は、 それ自身 の内 に記述的内実 をもつ
のではない。 あ くまでも他 の概念 とのネ ットワー クを通 じて 自 らの記述的意味
を得 るのであ り、厚 い概念 もその中に存在す るのである。 それゆえその都度用
い られ る薄 い概念 の意味を適切 に理解す るためには、厚 い概念 を適切 に理解 し
ている必 要 がある。 ハーバ ーマス は、討議 における根拠 の重要性 を強調す る。
「なぜ その規範が規範 の受取人 (あ るいは関
われわれが妥当だ と考 える規範 は、
係者)の サ ークルの中で承認 を得 るのかを説明する ことがで きる」(ED:144[169-
170])も のである。 そしてパ トナ ムが問題 にしているのは、価値、 とりわ け厚
い価値 を抜 きにして、 そうした説明 が可能 なのか とい うことなのである。
2-3
討議倫理 と価値の普遍性
ハーバ ーマスはパ トナ ムヘ の応答 において、従来 の立 場 を繰 り返 して い るよ
うに思われ る。彼 は明確 に、パ トナムのよ うに価値 を実 在 として捉 える立 場 は、
7ハ ンス・ ヨアスは、 この論争 を りあげた論文 において、価値 の普遍性 を否定す るハーパーマス
と
を批判 しなか らも、パ トナムにも問題 があるとす る。なぜならパ トナムは、価値 と規範 を区分す
るからこそ価値 に客観性力認 められない と考 えているが、 この区分 は実際 に必要であ り、 この区
分から価値 の主観性 は帰結 しないか らである。だが、 ヨアスが規範 と同一視す る道徳、すなわち
「われわれを行為の可能性 とい う点 で制限 し、特定の目的を禁止 し、手段 を禁 じるJ(Joas 2002:
267)も のの中 に、価値 は含 まれないのだぢ うか。ちなみにパ トナムは、ハ ーパーマスのように
価値 と規範 を区分することに反対す るが、 だか らといって この区分 が無意味なのだ とは考 えな
い。CI Putnan1 20112■ 312パ トナムにお ける 「哲学的二元論」 と「哲学的区分」 に関 しては、
稿 を改めて論 じることにしたい。
8パ トナム 自身、 そうした概念 のつなが りに言及 している。
「債例上 『事実 Jと 見 なされて いるも
「価値Jと 見 なされているものに対す る探求であろうと、 その探求
のに対す る探求であろ うと、
の結果 を判断するさい、われわれは、その探求 において疑間 に付 されない価値判断 と記述 の膨大
なス トックを利用す る。J(CD:103104[1311‐ 131])
-12-
「倫理的な知識 [価 値 ]が 文化 に特有 の妥当性 しかもたず、その知識 が属す る伝
統や生活形式 の外 では、方向付 ける力 を失 う」(Habemas 2004 287)と 述 べて
い るのである。 しか し こ うした 「公正 とい う普遍主義的な道徳 Jと 「生 き方 と
い う個別 主義的な倫理 」 とい う区分 は、別 の面 か ら見れ ば価値 の区分 でもある。
われわれは、 自分 たちの社会 につい てだ けでな く、 どこで も、人 に苦 しみ
を与 えることを 「残酷Jと 呼ぶ 。 しか しわれわれ は、奇異 な感 じを抱 かせ
る教育実践や結婚儀式 に、 したがって他所 の文化 のエー トスの核 となる構
成要素 に異議 申 し立てをす るのが正 当である とは感 じない。 もちろん こ う
した構成要素 が、 われわれの道 徳的基準 に、すなわち、普遍主義的 な妥 当
性請求 を通 じて、他 の価値 か ら区別 され る中心的 な価 値 (zentrale werte)
Habcrrnas 2004:290)。
に反す る場合 は別 である 〈
「
ここで 目を引 くのが、 中心的 な価値」 とい う表現 である。 この価値 は どの よう
なものか。 ハ ーバーマス は それを、 きわめて抽象的 な仕 方 で説明す る。すなわ
『社会的絆』 の解体、 したがって普遍的 な公正基 準 の裏面
ちそ うした価値 は、「
に過 ぎない、社会 的連帯 にお ける最低 限 の ものの損失 」(Habemas 200■ 290)
に関わ るものである。 それで は連帯 とは何 か。 ハ ーバーマス によれ ば 「連帯」
「間主観的 に共有 された生活形式のなかで結 びついた仲間 の福祉 を目指すJ
とは、
「個人 の平等 な権
(ED:70[761)も のだが、 これが公正基準の裏 面 であるのは、
利 と自由 は、隣人 とその隣人 が属す る社会 の福祉 がなければ守 ることがで きな
いJ(ED:70[77])か らである。 つ ま り 「個人 の平等 な権利 と自由」 の維持 に
とって不可欠 なものが連帯であ り、 その存否 に関わ るものが 中心的 な価値 なの
である。迫害 のような残酷 な行為 が福祉 とは相反 す ることを考 えれば、「残酷」
を中心的価値 と見 なす ことはで きる。(す べ ての残酷 な行為 が連帯 を破 壊す るも
のではないにせ よ。
)ハ ーバーマスが残酷 を「道徳的に含みのある表現」(Habermas
2004290)と 呼ぶ 背景 にはこうした繋 が りが ある と思われ る。
そして ここで言われ る 「中心的 な価値 」 は、普遍的 な価値 とのつ なが りをも
「倫理 に関 しては 自由 な、道徳 に関 して
つ。ハーバーマ スの討議倫 理 に とって、
は平等 な、規範 と根拠 に合 わせ る生物」(ZN:74[69])と い う人間 の あ り方 は、
重要 な意味をもつ。す でにこれ まで見 て きたように、討議倫理 は、討議参加者
が、一人 一 人多種多少 な人生 の 目的 (す なわち彼 が言 う価値・ 倫理 )を 選 ぴ取
ることを認 め る一 方 で、普遍化原則 にもとづ き自分 と他 者 を公平 に考慮 し、間
主 観的 に承認 され た根拠や規範 に従 う ことを前提 としている。 そ してハーバー
マス は、 こ うした人間のあ り方 を、普遍的な価値 として語 ろうとす る。 なぜ普
-13-
「さまざまな文化 が人間『 とい うも
遍的なのか と言 え │よ この人間 のあ り方 は、
の』 について もってい る像、 どこへ行 っても一一人間学 的な普遍性 とい う意味
で―一 同 じである像 J(ZN:72[68])だ か らである。そしてなぜ価値 なのか と言
「私 たちは どうあ りたい か」 とい う自己理解 の
え │よ ここで語 られて い るのは、
「私 は何 をなすべ きか」 とい う問 いでは ない か らである。(こ の区分
問 いで あ り、
はここで もまた、かな り疑わ しい ものであるが )そ して ここにお いて、道徳
9。
と価値の位置づけは逆転する。 これまで見た討議倫理では、規範 は価値 に優先
する。なぜなら討議 において重要なのは、特定の個人や文化 に特有 な価値では
なく、誰にでも公幸た隻み入れられる連島だからである。しかしこの優先関係
「先行する、すべての道徳的人格によって共
にもとづ く人間や社会のあり方は、
有されている、人類の倫理的自己理解にその支えを持っているJ(ZN:74[69
701)の である
10。
まとめよう。 ハーパーマスは、討議倫 理 が想定す る人間 のあ り方 を、人類 が
共有 して い る一 つの望 ましい (価 値 あ る)人 間 のあ り方 として提示 して い る。
それゆえ、 そ うした人間 のあ り方 と密接 に関わ る 「中心的価値 Jも 、普遍的 な
もの と見 なされ る可能性 は十分 にあるし、 その中 にパ トナム が強調 した 「厚 い
倫理的価値 概念」 が含 まれ る余地 はあるだろ う。 こ う して見 る と、両者 の違 い
はそれほ ど大 き くない ように思 える。 それにもかかわ らず両者 の間 には、依然
として大 きな隔た りが、す なわち価値 の実在性 を認 めるか どうかに関 して、大
11。
きな隔た りがある
ハーバーマス にとって、規範 や価値 は普遍的 なものであ
「道徳全体 の評価 は、 それ 自体道徳的な判断ではな く、倫理 的な、類倫理的 な
'ハ ーバーマスは、
判断であるJ(ZN 124[1221)と 述べ ることで、人間像 の問題 が価値 の問題であることを強調す
「私や私の文化力河 を望むのかにかかわ らず、私
る。しか し望 ましい人間のあ り方 を問 うことは、
は何 をなすべ きか」 とい う問い と本当 に切 り離せ るのだろうか。
10こ こで
確認 で きるのは、少 な くともハーバーマス とパ トナムの間では、普遍的価値 の存在 に関 し
て一致できるとい うことだけであ り、実際 にそのような価値 力落 在す るとい うことではない。た
「普遍主義的な価値 システムは論理的に可能であ り、経験上現実IISで あるJ
だ しヨアスは明確 に、
(Joas 2∞ 2:275)と 述 べ る。 この点 に関 しては今後の課題 とする。
11マ ー
ティンは、ハーバーマス とバ トナムが、同 じようにパースの真理概念 か ら出発 しなが らも、
異なる仕方で距離 を取 り、 それが どの ように両 者の間の諭争 に反映 されてい るのかを描 き出す。
パースは真理 を、探求の究極 において正当化 される見解 とした。つ まリパースにおいて、真理 と
は理想的条件の もとで正 当化 された意見 なのである。 しか しパ トナ ムは後 にこの立場 を放棄す
「真理 は時 には理想的な場合です ら検証 可能ではないかもしれないJ(CIl:1231%[156])か
る。
らである。そしてハーパーマス も後 にパ トナムの この考えを理論的知識 に関 しては受 け容れなが
「道徳 的正当性 [道 徳 における真理]の 概念 を、理想的な正当化 とい う認知 的用語 によつ
らも、
て説明す る」(Marth 2009 85)こ とを止 めなかった。 なぜ なら正 当化 と真理 の結 びつ きを維持
することによって、規範 を「いか なる疑わ しい道徳 的事実 ない しは形而上学的性質 からも解放す
るJ(Martln 2111,80)こ とがで きるか らである。両者の究極的対立 は、道徳の実在性 にある。
-14-
り客観的なものと言 える。 しかしこの客観性 は間主観性 を意味す るのであり、
「平等主義的な普遍主義 は近代の偉大な成果 とし
実在性 を意味するのではない。
て広 く一般 に承認 されている」(ZN:155[1倒
)か らこそ、上で述べた人間のあ
り方は普遍的で客観的なのである。
3.実 在性 と客観性
パ トナムはハーバーマスからの応答 に対する再反論の冒頭、
「ハーバーマスは
彼 の立場 に対す る私 の主要な批判に、 どこでも答 えていない」(Pumam 2002a
306)と 苛立ちをあらわにしている。確かにハーバーマスは、規範 と同 じく価値
も普遍的ではないかというパ トナムの問いかけに対 して、 ほとんど語 ることは
なかった。 しかしすでに見 たように、ハーバーマスにとって価値 の普遍性は一
― その価値 がパ トナムと同様 のものであるかどうかはともか く――受け容れら
れてお り、む しろ問題 はその価値を実在 として語 ることが適切か どうかであっ
たのではなかろうか。その意味で、ハーバーマスが 自らの応答 の中でパ トナム
の実在論を主題 にしたのは適切である。 ここではまず、ハーバーマスがパ トナ
ムの立場を批判す る背景、それに対するパ トナムの応答を確認 し、最後 にパ ト
ナムにお ける討議の位置づけを明らかにしたい。
3-1
規範 と事実
ハーバーマスのパ トナム批判は、先 に言及 した確然的真理性 と規範的正当性
「何 が事実
とい う妥当性請求の区分に基づいている。 2-1で 確認 したように、
であるのかを述べ る確然的判断 は、何 が定言的拘束性をもつのかを述 べる道徳
的判断 とは別 の妥当性意義をもつ。道徳的認識 は、経験的判断 とは別の意味で
『客観的』
J(Habennas 2004 285)な のである。 しかしパ トナムは、事実 と価値
「われわ
との絡み合い を、さらには規範 と価値 の絡み合 いを訴えることによ り、
…
べ
れの文法的な直観 に反す る点で奇妙な [す なわち、 しを合意す る]事 実を
要請する」(Habcrmas 2004 284)事 態 に陥 ってい る。 これがハーバーマスの批
判の骨子である。以下、 この点を詳 しく見ていこう。
経験判断 〈
事実的言明)と 規範的判断 (規 範的言明)の 違 いを.la明 するため
に、ハーパーマスは次 のような例 を挙げる (MB:63[90])。
①
この机 は、黄色い。
② 適切な事情 で嘘をつ くことは、正 しい。
-15-
文 の形式 のみでは類似 したもの に見 えるが、 ハーバ ーマ スは、 メタ言語 を使 う
ことで、両者 の述語表現 の違 いが明 らかになると言 う。
③
<① >と い うことは、真 である 〈事実である
)。
④ く② ≧とい うことは、正当である (命 じられている)。
そしてさらに彼 は、両者 の違 いを正 しく認識す ることによ り、われわれは、そ
れぞれの妥当性 を支える手段の違 いにも目を向けることができると述べ る。
道徳的真理 を捉えようとす る直覚主義の試みが失敗せざるをえなかったの
は、 そもそも、規範的文 とい うものが立証された り反証 された りせず、 そ
れゆえ記述的文 と同 じルールによっては検証 されないからである (MB:64
[91])。
すでに見 たように、アインシュタインとホフイ トヘ ッドとの理論上の争いを解
決する上では、観測が一定の役割を果た していた。 しかしある規範が正当か ど
うかを観測 によって立証/反証す ることは困難 であるように思われる。それゆ
「確然的話法が主張 された事態の実在 によって説明されるよ
えハーバーマスは、
うに、義務論的話法 は、命 じられた行為が、すべての可能な当事者 によって同
じように関心をもたれるものであることによって、説明 される」(ED:130[153])
と述べ るのである。 しかしすでに見た ように、すべての可能な当事者 によって
関心をもたれ るかどうかは、基準 として不十分 である。 この問題 は 3-3で 考
察することとし、 ここでは、以上の立場 とハーバーマスの生命倫理上の立場 と
の関係 を確認す る。
ハ ーパ ーマス が生命倫理 の 問題 として取 り上 げ るの は、着床 前診 断
12。
まず
(Praimplan● お ns山 町nos■ 、以下PID)や 優生学的介入の問題 である
確認 しておかなければならなぃのは、討議倫理の枠組みにおいて、 ヒ ト胚 は人
間の尊厳 の主体、すなわち人格 とは見 なされないことである。 なぜなら討議 を
重視する彼 にとって、人格 とは「言語能力・ 行為能力 をもつ諸主体」(ED:219
[2631)だ からである。 しかし人格 のように「不可侵 (unantastbar)」 とい う絶
」
対的保護ではなくても、L卜 胚は「好き勝手 に取 り扱つてはならないKunve』
=baう
(ZN:59[56])存 在 として保護 されなければならない とハーバーマスは述べる。
「主体的 なもの・ 自然発現的なもの」 と「客体的 なもの・ 製作 され
彼の議論 は、
ZN:85[80])を 出発点 としている。 この区分
たもの」とい う「直観的 な区分」〈
は、対象の側 の区分 に基づ くのではなく、対象 に対するわれわれの態度に根差
′ ハーバーマスは本書 においてもう一つ、 と卜胚研究を扱っている
際 に考察の中心 になって
^実
である。
まれて
くる事態
ともが生
いるのは、遺伝子を操作 された子
-16-
している。前者に対する態度 は「実践的・ 臨床的」(praktiSChAInisch)、 後者
に対する態度 は 「技術的」(technisch)と 呼 ばれる。植物を例 にすると、伝統的
な農耕 の場合、人 は 「自己調整をする自然の独 自のダイナ ミズムを尊重する」
(ZN:81[76])。 つ まりここでは、植物 の主体性 。自然発現性 が一定の役割を果
たしてい る。 しかし植物 の遺伝子を改変す る場合、 もはや 「自然 の独 自のダイ
ナミズムヘの順応 とい う臨床的様相」(ZN:83[781)は 見 られないのである。
しかしヒト胚 に対する介入を広 く認 めることによ り、上記 の区分は混乱 して
くる。なぜなら「胚 を扱 う人 にとり、胚 に見 られる、 いわば主体的な自然は、
外的な、客体化された自然 と同 じパースペクティブヘ と移動す る」(ZN:89[841)
「このような見方 は、人間のグノムの構成 に影響を
からである。 そしてさらに、
与 えることと、成長 しつつある人格を取 り巻 く環境 に影響を与 えることとの間
には本質的 に違いはない とい う考 えを示唆するJ(ZN:89[84)。 だがこのよう
にして遺伝子 に操作を加 えることは、人類が共有す る価値 を損なう可能性 があ
る。第一 に、 この操作 は、子 どもの 自由を奪 うかもしれない。 なぜなら子 ども
は自分 自身を「製作 されたもの」と見なす ことになってしまい、結果 として「自
らの行為 と要求の原著者であるとい う意識」(ZN:103[100])を 持ち得なくなる
「[プ
かもしれないからである。第二 に、不公平 な関係 を生み出すかもしれない。
ログラムによる]産 物 は、自分 の側 でデザイナーをデザインす ることはできな
「子 どもが大人 にな り、世代が
いJ(ZN:1121109])。 通常の親子の従属関係 は、
交代することによって解消す る」(ZN:110[107])が 、優生学的介入 によって生
「彼 らの社会的位置を交換することが原理的 に排除されてい
じる従属関係 では、
るJ(ZN:112[109])の である。それゆえわれわれは、普遍的価値 を守 るために
こそ、 ヒ ト胚 を保護 しなければならないのである。
それでは、以上のようなハーバーマスの議論は、パ トナムとの論争 にどのよ
うに関わるのであろうか。すでに述べたように、ハーバーマスにとってパ トナ
ムの問題点 は、確然的判断 と規範的半J断 、理論理性 と実践理性 の違いを見損 なっ
「主体的なもの・ 自然発
ている点 にあった。そしてこうしたパ トナムの立場は、
「実践的・ 臨床的態
現的なもの」 と「客体的なもの・ 製作 されたものJの 区分、
「
つ
度Jと 技術的態度」の区分を軽視することに なが りうる。 なぜなら規範的
判断 は、その妥当性 の根拠を、主体的 に、実践的に討議 をする人 々の うちにも
つが、 この判断を確然的判断 と同一視することは、他者 を含めすべてを客体的な
エ してよいものと見 なす ことにつ なが りうるからである。
もの、技術によってカロ
-17-
3-2
実在の多様性
それではパ トナムは、 こうしたハーバーマスの批判・ 危惧 に対 して、 どのよ
「議論 にさいして、一定
うに答 えるのだろうか。パ トナムは、ハーバーマスが、
の前提、すなわち私 [パ トナム]が 受け容れていない前提を自明なものとして
前提 している」(Putnam 2002■ 309)と 述べ、 この前提を批判す ることでハ ー
バーマスに応えようとす る。
「すべての具体的な経験的言明は同 じ妥当性 をもつ」(Putnaln
一つ 目の想定 は、
2002と 310)と い うものである。パ トナムにとってハーバーマスの問題点 は、彼
が経験的言明として科学的なものだけを想定 している点 にある。 この場合、経
験的言明の妥当性 は 「科学的 に真」 を意味する。そしてこのような同一視 は、
「H20は 水
経験的実在性 も科学のみに限定する結果をもたらしかねない。だが、
「
「
ー
である」といつた科学的言明以外 にも、 猫 は鼠を捕 まえる」 メアリ はジョン
を愛 してい る」 といったさまざまなものが経験的言明として妥当でありうるの
「経験的言明…であると同時 に、価値判断である」(Putlam
であり、その中には、
2002a:312)よ うなものも含 まれるのである。パ トナムカ判 として挙げるのは、
「ヨーロ ッパの入植者 による原住民 の扱 いはしばしば残酷であった」 とい うもの
である。経験的言明 は多種多様 であ り、その多様 さに応 じて妥当性や実在性 を
語 ってもよいのではないかとい うのがパ トナムの主張である。
「概念 の多元性」(conceptual pluralsm)
パ トナムのこうした反論の背景 には、
とい う考 え方がある。 この多元性 は、ある事態を記述する二つの仕方が両立 し、
なおかつ「一方または両方 を、基礎的で普遍的なただ一つの存在論へ と還元す
「部
るように要求されることもない」場合 に成 り立つ。パ トナムが挙げるのは、
屋の内容物 の一部を記述す るさいに場や粒子 にかかわる専門用語を用 いること
があるとい う事実 と、同 じ部屋 の一部を記述す るさいに机 の前 に椅子があると
語 ることがあるとい う事実」(EO:48‐ 49[58])で ある。ある事態 は、机や椅子
によっても、粒子によっても語 ることはできる。 しかしこのことは、一方を他
方 に置き換 えなければならないことを意味しない。そして実際、机や椅子をす
べて物理学 の用語 に置 き換 えてわれわれが生 きてい くことは不可能 であろう。
「われわれが日常 において数多 くの異 なった種類の語 り方…を採用 していること
「語 『存在す
には、それなりの必然性 があ う」(EO:2122[24‐ 25])の であ り、
る』 には、何 らかの方法で与えられた、ただ一つの『真 なる』意味、 ただ一つ
の「字義通 りの』意味が・¨存在す る」(EO:84‐ 85[103])と い うのは誤 りなので
-18-
13。
ある
道徳 に関す る語 り方 と科学 に関す る語 り方 とが異 なることは、倫理的
判断が個別 の人や行為 な どを対象 とす るのに対 して、認知的価値 が理 論 を対象
とす ることか らも明 らかである。 そして この相違 は、 一方 は存在す るが他方 は
存在 しない とい う ことを意味 しない。 む しろこの事態 が意 味す るのは、存在 は
多様 に語 られ るとい うことなので ある。
「科学的言明 に言及 したのはあなたが科 学 における認
しか しハーバーマスは、
知的価値 を語 ったか らであ り、私 も経 験的言明 の多様性 を受 け入れて い る」 と
述 べ た上で、 それで も道 徳的言明を経験的言明 か ら排除す るか もしれない。 な
ぜ な ら道徳的事実、 しか も「べ し」 を合意す るような道 徳的事実 が存在す ると
考 えるのはあ ま りにも奇妙 とハ ーバーマ スは考 えるか らで ある。道徳的事実 の
奇妙 さに関 してパ トナムは、別 の論文 で次 の ように述 べ ている。
あるものが多 くの痛みを伴 うとい う知識 は、特別 な状況 の場合 には、私 が
それを望 む ことを、もしくはそれ をしようとすることを妨 げないであろ う。
しか し「他 の事情 が同 じであるな ら」
、あるものが多 くの痛みを伴 うとい う
知識ゆ えに、私 は それを是認 しない し、 それ を勧 め ない ようにす る等 々で
ある (Putnam 1994:157158)。
1-2で 述 べ たよ うに、痛み
(が 生 じること)そ れ 自体 は、倫理的価値 とは区
分 され る一つの事実、 しかも 「物理 学 の世界観 と両立 しない こ とな どまった く
ない」(Putnam 1994:157)一 つ の事 実 である。 それゆえに 「
『べ し』 を合意す
る事実 な ど奇妙 だ」 と主張 す るマ ッキ ー さえも、痛 み とい う事実 は認 めるだろ
う。 そ して痛 み とい う事実 は、通常 「それ をさけるべ きだ」 とい う仕方で、行
為 を導 くのである。 パ トナ ムの妻、 ルース・ ア ンナ・ パ トナ ムが指摘す るよう
「物 理 学 の見方 はおお よそ正 しい だけにとどまらず完全 であると想定 してい
に、
る場合 にのみ、行為 を導 く性質 は存在論的 に奇妙 で あると推論 で きるJ(Putnaln
2002231)の で ある。 しか し概念 の多元性 が示 してい るのは、物理学 の完全性
「実在 のすべ てを記述 する ことがで きる、 たっ
とい う発想 自体 の奇妙 さである。
た一種類の言語 グームがあ りうるなどと考 えることは、幻想 に他 な らない」(EO:
22[24‐ 25])。
「机 や苦痛 に関 しては、
それ で もなお、次 のよ うに批判 され るか もしれない。
人 々が (あ る程度 は)合 意す ることがで きるの で あ り、 それゆえそ うしたもの
が存在す ると考 えることはで きる。だが、倫理 はお よそ合意 とは無縁 なのだか
拍
概念の多元性 は、ツィ トグンシュタインによる意味の使用説 に基づいている。Cf E0 41 148]
19 -
ら、存在 に関 して語 ってい るので はない。」 2-2で 述 べ た よ うに、パ トナ ムに
とって合意 は道 徳 の客観性 に必 要不可欠 なもので はなかった。 しか しお よそ存
在 について語 ってい るな らば、 ある程度 の一 致 は存在す るはずで はないだろう
か。倫理上 の不 一致 に関 して、 パ トナムは次 のように述 べ る。
最初 に、倫 理上 の争点 の中には、お よそ倫理的 な生 に身 を置 いている人 な
ら誰 もが合意 する倫理的問題 がある。例 えば、無実 の相手 を殺 めた り、詐
欺、 強盗、等 々を働 い た りす ることの是非 を問われた ら、 しかるべ き倫理
感覚 を備 えた人 な らどこで も これを不当 と見 なすであろ う。 しか し [第 二
に]… 倫理 にかかわ る問題 は、現実 には実践的 な問題 の一種 であ り、実践
的 な問題 には、価値評価 のみな らず、哲 学 上・ 信仰上 の信念、 さ らには、
事実 に関す る信念 までもが複雑 にか らんで くる。 …・妊娠 中絶 の正 当化 を
め ぐる問題 が仮 に解決 不可能 である として も、 そこに示 されてい るのが倫
理的な論争 の 「解決 不可能 さ」 だ と頭か ら決 めつ けるのは明 らかに筋が通
らない。例 えば、 それが示 してい るのは、形而上学的 な論争 の解決不可能
さではない、 となぜ 言 えよう (EO:75-76[92])。
すなわ ち、第 一 に、倫理 に関 しても合致 で きる場合 はあ り、葎 二 に、合致 を妨
げてい るのは、価値以外 の要因 かもしれない とい う ことである。例 えば妊娠 中
「いつ胎児 は人 になるか」 とい う形 で議論 が設定 され、受精、
絶 をめ ぐっては、
快苦 を感 じる能力 をもった時、 自己意識 をもつ ようになった時 … といった様 々
な基準が提示 されて い る。 しか しこれ らの立場 はいずれ も、人格 とい う価値概
念 を、倫理的判 断 とは関係 ない、明確 な事実 によって説明で きる と考 えている
点 で、不適切 な (そ の意味 で形而上 学的 な)前 提 を共有 して い る。彼 らの対立
は、解決不可能 な形而上学的な論争 なのである。問題 の扱 い方 が不適切 であれ
ば、不 一致 が生 じるの は当然 であろう。
ずいぶん回 り道 をして しまった。 あ らためてパ トナムによるハ ーパーマスヘ
の応 答 に戻 ろ う。 ハーバ ーマ スが批判 にさい して前提 としてい ることの二つ 目
「F真 』 とい う言葉 は、 この種類 [経 験的言明]の 妥 当性 に対す る名前 で o
は、
るJ(Pumm 2002a:310)と い うものである。 3-1で 確認 した ように、 ハ ー
バーマスは、規範 とは区別 された経験的言明 に確然的真理性 とい う妥当性請求
「道徳的正当性 の妥当性 概念 は、正当化 を超
を認めていた。 そして同時 に彼 は、
越す る真理概念 にある存在論的な含意 (ont01o」 sche Konotauon)を 失 ってい
るJ(Habermas 2004 291)と 述べることで、確然的真理性 をもつ経験的概念 に
のみ実な性を認めようとしているのである。 なぜなら「真理概念 には実在 との
- 20 -
接触 とい う、言語共同体 の正当化 を超える意味合 い力治 まれる」(カ ロ
賀 2009:196)
か らである。
しか しパ トナ ムは、実在 と結 びつ ける形 で 「真 理 」 とい う概念 を用 い ること
に反対す る。彼 は次 の ような推論 を例 として挙 げ る (Put“ 雌 2002● :315)。
① ジョンがもっと一生懸命練習すれば、今よりも上手く演奏できるだろ
う。
ジョンはもっと一生懸命練習した。
③ ジョンはいまやもっと上手 に演奏す る。
この推論 には記述文 も含 まれていれば、帰結のように価値 と記述 とが絡み合 っ
②
た文 も含 まれている。そしてこの推論 が全体 として妥当であるのは、① から③
すべてが真だからである。われわれは様 々な種類 の言明を組み合 わせて推論を
行 う。 それゆえ「ゎれわれは、認識論や形而上学的など様 々な種類の判断 に適
用できる唯一の種類の真理概念を必要 とするのであり、規範 に適用できる概念
と、経験的言明に適用できる他の概念 と、数学的概念 に適用で きる第二の概念
「倫理的言明とい
を必要 とするのではない」(Putnam 2002α 315)。 だからこそ、
う一つの思考活動は、他のあらゆるかたちの認知活動 と同 じように、真理なら
びに妥当性 の二規範 に完全に支配されている」(EO:72[88])の である。
3-3 討議の意義
2-2で 見 たように、パ トナムのハーバーマス批判 は、「倫理 には討議倫理以
上のものが存在 しなければならないJ(CD:134[169])と い う点 にあった。そし
てこの 「以上のものJ力 S、 客観的 。実在的な価値なのである。だが、すでにこ
の発言からも明らかなように、パ トナムは、ハーバーマス同様 に討議 の意義を
認 めて い る。 しか もそのさいに、討議倫理 に言及 しさえす る。 それで は彼 は、
どの ような点 に討議 の意 味 を認 めて い たのであろ うか。 ハーバーマス との違 い
に留意 しつつ、最後 に この点 を確認 して い きたい。
パ トナ ムは、 デ ュー イにならい14、 「価値 あ りとされて い るもの」(valued)と
「価値 あ るもの」(valuable)を 区分す る。価値 あるとされて い るものが、真 に価
15。
そ して価値 をもつ ものを明確 にす るために
値 を持 つわ けではない のである
`パ トナム もハーバーマス も、古典的 プラグマ ティズム、す なわち前者 は主 としてジ ェームズ と
デューイか ら、後 者は主 としてパース とミ‐ ドか ら大 きな影響 を受 けてい る。こうしたプラグマ
ティズム思想家内部 での相違力ヽ パ トナム とハ ーバーマスの対立 にどのように影響 を与 えている
のかに関 しては、今後 の課題 としたい。
お ハーバ ーマス 「
も、 間主観的 に承認 されているとい う社会的事実Jと 「承認 に値す るものJと の
-21-
必要 とされるのが批判 である。
客観的価値 は、特殊 な「感覚器官」からではな く、われわれの価値判断を
「科学的」活動 を
批判す ることから生 じる。価値判断は絶 え間なくなされ、
含め、われわれの活動の全体 と分離不可能である。 しかし、ある価値判断
が保証されている、他 の価値判断は保証 されていない、 とわれわれが結論
す るのは、われわれの価値判断 に対す る知的反省… によってである (CD:
103[130])。
それではどの ようにすれば批判が可能であり、ある価値判断を客観的なものと
して保証できるのであろうか。パ トナムの答 えは、探求の民主化 (demOcrattatbn)
である。そ してここにおいてこそ、ハーバーマスの討議倫理は重要な役割を果
「ハーバーマス主義者たちが『討議倫理学』 と呼んでいるものの原理に従
たす。
「科学 と同 じく、倫理学や法学 において も、見解 が無責任 に
う」探求 によって、
擁護 されてい ることを見定められ る」(CD:105[132];Ci Putnam 1995 71 72
[99])の である。 そして この 「批判」 は、 3-1に おいて棚上 げにした問題、
すなわちどのようにして判断の妥当性 を保証するのかとい う問いに対す る答 え
でもある。
以上を見る限 り、一見す ると両者共 に、客観性 を支えるものとして討議 を理
解 しているように思われ る。 しかし表面上の類似にもかかわらず、両者 の間 に
は無視 しえない違 いがある。一つ 日は、討議 と合意の関係 である。ハーバーマ
スにとって、討議 と客観性 との間には普遍的な合意が想定できなければならな
い。 しかしパ トナムに とって討議 が客観性 にとって重要なのは、経験 を通 じて
「正
そのように学んできたからである。われわれは経談を反省することにより、
当性…は、適確に機能するエッート支配に存し、被統治者の同意とは無関係」
「アプリオリな、言い換 えれば、独
(EO:96[116])と す るプラトン流 の思想や、
断的な論証 を企ててしまう」(EO:100[120])カ ン トのような思想、さらには
「感覚論からこしらえられた心理学を想像上の科学 としてでつちあげ、現実の社
会現象に関する真の科学的知識の拡張をなおざりにしてしまう」(EO:100[1201)
古典的経験主義が望 ましくないことを学んで きた。つま り誰 もが対等に、 どの
「実験が可能 なところでは実験を強
ような知識も誤 りであ りうるとい う前提で、
調 し、実験 が可能 ではない ところでは、観察 および観察の綿密な分析 を強調」
(CD:105[132])し ながら、議論す ることが大切であると学んできたのである。
区分を指摘する。ただし彼の場合 に問題 になるのは「規範」である。C'MB:71[102]
22 -
二つ 日は、討議 の レベ ルお よび原則 がもつ重要性 の違 いで あ る。す でに述 べ
たように、倫理的価値 に関 わ る判 断 は、認知的価値 とは異 な り、個別 的 に行 う
16。
それゆえハーバーマ スの よ うに、規範 を基礎 づ け る討論 よ りも、
必要がある
臨床 の場 でのスタ ッフ ミー ティ ングや倫理 委員会 における討議 が重み をもって
くる。 もちろんハ ーバーマス も、個別性 に対す るIIE慮 を怠 っているわ けではな
い。彼 は、規範 を適用す るには 「実践的賢慮」 に加 え、適用 の討議 が必 要 であ
「現実問題 の解決 に向 けた指針
ると主 張する。 しか しパ トナ ムにおいて原則 は、
それ も、 ときには誤 りうるよ うな指針― 」(EO:144h7[注 26頁 ])と い
―
うゆるやかな拘束力 をもつ に過 ぎない。それゆえパ トナムは、討議倫理 の前提、
すなわち二 つ の妥 当性請求 を掲 げて語 ることさえ、絶対的 なものではない と言
「誠実 であることや真実 を語 ることは、倫理的生 を送 る上でわれわれが とき
う。
として負 わなければな らない義務 に含 まれ るJ(Putnaln 1989 1686)の である。
例 えば、進行性 のがんに侵 された患者 が、 自 らの病状 の告知 を受 けることな く
医療 ス タ ッフと今後 の治療方針 に関 して協議 をす ることは、 ハ ーバーマスか ら
すれ ば、相手 を操 作 しようとして い ることになるだろ う。 しか しその ような協
議 をすべ て 「戦略的態度」 で括 って しまうことは適切 だろ うか。
三つ 目は、討議 に参加す るメンパーの要作 で ある。す でに述 べ たよ うに、価
値 を適切 に とらえ る上では、評価的観点 を身 につ け る必 要 がある。 もちろん こ
れ は不可謬で はない。誰 もが何 について も誤 りうるのである。 しか し息子 をか
らか う父親 の事例 か ら明 らかなように、 単 に討議 がで きれ ば よいので はない。
例 えばク ック は、 ただ合意 のみ を目的 とした倫理委員会 と、客観性・ 実在性 を
「単 なるコ ンセンサス
目指す倫理委員会 とでは、構成員 の要件 が異 なると言 う。
とい うよ りも、客観性 が倫理委員会 の目的であるなら、単 なるコ ミュニケー シ ョ
ンス キル以上の ものが必要 とされるJ(Cooke 2003:647)の で ある。具体 的には
「誠実性、委員会 の決定 によって影響 を受 ける人 々に対す る心 か らの関心、合理
性 とい った徳 お よび性格」(Cooke 2003 647)が 挙 げられている。 どの よ うな徳
が重 要 であるのか、 また、 それ を育 むには どの ようなプロセスが必 要 で あるの
か、今後 よ り詳細 に検討 してい く必要 があるだろ う。
四 つ 日は、討議 の主題お よび扱 い方 である。 この点 に関 して もク ックの指摘
「もしプラグマ ティズムが善 の問題 に、あ るい はパ トナムが倫理
は示唆 に富 む。
16も
ちろん この ことは、一貫 していない とい うことを意味 しない。一貫性 をアル ゴ リズムあるいは
法則 のようなもので しか測 ることがで きない とい う発想 自体 が問題 なのである。 この点 について
は拙稿 を参照 されたい。 Cl堂 回 2014:1315
-23-
における厚 い概念 として言及 したものに向 か うなら、 プラグマ テイックな探求
は、生命倫理 にお いて 困難 な決定 に直面 してい る人 々にとって、 一層多 くの情
報源 になる」(Cooke 2003 647)と 述 べ る。具体的 には、健康、病 気、生命、死、
QOL、 自然 などが挙 げられ て い る。 もちろんハーバーマスの枠組 みで も、 ヒ ト
胚 とい う生命 の価値 を語 る可能性 は あ つた。 だが問題 は、 その語 り方 である。
ハーバーマスの枠組 みに基 づ くヒ ト胚 の保護 は、 自由で公平 な存在 とい う人間
像 を守 ることに主眼 が置 かれている。 その意味 で ヒ ト胚 の保護 は間接的である。
しか しこうした論証 に対 して、 シ ュペーマ ンは疑間 を呈す る。 なぜ な らこの議
「い まだ生 まれてい ない子 どもの胎動 を感 じて いる母親 にとっては直観 に
論 は、
「お母 さん は私 を堕 ろそうとしたJ
反 したもの として受 け取 られ る」 のであ り、
(Spacmann 2002 107)と い うわれわれが用 いる語 り方 にも合 致 しない か らであ
る。 む しろヒ ト胚 は、 それ 自体 で何 らかの価値 を担 ってい ると考 えるべ きでは
ない だろ うか。 そして この概念 が記述 のためにも用 い られ ることを踏 まえるな
ら、生命 を厚 い概念 として位置 づ ける ことが必要であるように思われる。
おわ りに
。
本稿 の出発点 は、 パ トナムが倫理的価値 の普遍性 実在性 を訴 えるさい に言
及す る、認知的価値 とのアナ ロジ ー にあった。 なぜ な らこの並 列 は、 パ トナ ム
の意図 に反 して、倫理的価値 の普遍性・ 実在性 を疑わ しい もの にす ると思 えた
か らである。 だが、本稿 を通 じて、次 の ことが明 らかにな った。す なわ ち、 パ
トナムは、薄 い概念 と厚 い概念 とを密接 に関連す るもの と考 えて い た。 そして
規範 を含 め、薄 い概念 が普遍性 をもち うるのは、 この概念 と結 びつい た厚 い概
念 が普遍的 であることによってなのである。ハーバーマスの ように価値 と規範
を区分する ことによって、道徳 の普遍性 を守 ろ うとする立場 は、大 きな問題 を
抱 えて い ると言 えるだろう。
確 かにハーバーマスも普遍的 な価値 を示唆 してはい る。 しか し彼 に とって価
値 はあ くまで も間主観的に承認 され るものであ り、決 して実在す るものではな
「概念 の多様性 Jと い うパ トナムの考 え方 が示 して いたのは、道
かった。だが、
徳 と科学 にお いて、われわれ は違 う仕方 で実在 に関 して語 って い るとい うこと
なのである。 そ して以上 のような両者 の違 いは、討議 の理解 にも違 い を生 じさ
せ る。 パ トナ ムにおいて討議 は、合意 と必 ず しも結 びついた ものではな く、原
理 よ りも個別 の判断 に重 きを置 いて い る。 そして また、討議 に参加す る人 の要
- 24 -
件を設 け、価値 と事実 とが絡み合 った概念 について論 じることを可能にするの
である。
価値 に関わる問題 を、すべて個人や文化 の 自己決定 の問題 に還元するなら、
答えを出す ことは容易 になるだろ う。 しかしそれは、現実 からの逃避でしかな
い。われわれが解決するべ き 「実践的な問題 は、哲学者 たちの理想化された思
『ごちゃ ごちゃJし ているのが普通」(EO:28[33])で ある
考実験 とは異 な り、
以上、楽ではないのは当然なのである。ハーバーマスは、自らの直観 に依拠 し
「なにか猥褻な事態に対す
理論を構築す る。例 えばヒト胚の利用に際 して彼 は、
る嫌悪感」(ZN 72 168])を 出発点 とする。この直観 自体 を共有する人 は多いに
しても、彼 がそこから構築する理論は、 その直観 を捉え損ねているのではない
だろうか。患者 を傷 つけまい と告知をせ ずに患者 と向き合 う医療従事者 に、生
命 の重さと研究 によってもたらされ うる病 の克服を比較考量する倫理委員会に、
ハーバーマスの討議倫理は多 くを語 ってはくれない。
もちろんパ トナムの理論がハーバーマスの理論 より優れたものであると述べ
ることは、前者 に問題がないことを意味するのでも、後者から学ぶべ きことが
ないことを意味するのでもない。両者 をさらに比較する中で得 られるものは数
多 くあるだろう。例 えば今回は、法律 の役割 に関 して扱 うことがほとんどで き
なかった。パ トナムは個別性を重視す る立場 から、法律 についてほ とんど語 る
ことはない。 しかし現代 の社会 を考える上で法律 を無視する ことはで きない。
それは今回両者 の比較ケースとして用いた生命倫理の問題群に関しても同様で
ある。そして法律を見据えた上で倫理学を展開しているとい う点 において、ハー
バーマスはパ トナムに先んじてい る。今後 は、ハーバーマスの枠組みを踏まえ
なが ら、パ トナムの視点から法律 と道徳 の関連 に関 して、両領域 において重要
な役割を果たす人間の尊厳を中心に、考察を進める予定で ある。
*こ の論文 は、平成26年 度静岡大学人文社会科学部若手研究者奨励費 による研
究成果の一部 である
几例
・
引用文献 の うち、翻訳のあるものについては、原著頁 の後 に角括弧 を付 し
て翻訳 の頁を併記 した。解釈 の相違や文体の関係 から、訳文 は適宜変更 し
ている。綿密な解釈 にもとづ く優れた翻訳がなければ、本稿 を書 き上げる
- 25 -
ことはで きなかった。 この場 を借 りて訳者 の方 々に謝意 を表 したい。
本稿 にお いて 引用頻度 の高 い以下の著作 に関 しては、引用 の際 に略号 を用
い て い る 。 Habermas(1983)→ MB,Habermas(1991)→ EQ Habermas
(2002)→ Zヽ Putnam(2002b)→ CD Putnam(2004)→ E0
引用文 中、下線 は原著 のもの、傍点 は引用者 によるものである。
参考文 献
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″′グ
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π′彫 赫
レ 激 滋´α
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鰍
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笏
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助 ″
″
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7ag″
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Иィンb● Suhrkamp Venag[三 島憲一訳 『人間 の将来
とバイオエシ ックス』
,法 政大学出版会,2004年 なお、増補版 で加 えられ
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