白雲陶器の開発

第一次世界大戦後、近代デザイン運動のなかで、
ヨーロッパからアメリカに輸出される陶磁器のデザ
インが変化しつつあった。特に大衆品の変化が目
立った。当時、日本の輸出陶磁器は大衆品が中心
で、海外市場で受け入れられるよう新製品の技術と
デザインの調査研究を行っていた。そのため、農商
務省陶磁器試験所(現、産業技術総合研究所中部セ
ンター)所長の平野耕輔は、1931年、京大教授で建
築家の武田五一がヨーロッパ出張に出発したとき、
ヨーロッパで流行している実用的な陶磁器の見本を
収集してくれるように頼んだ。武田は百貨店で陶
器類102点を購入し、日本に送った。
白雲陶器の開発 独立行政法人産業技術総合研究所中部センター
"武田は「低価格、デザインが新鮮でシンプル、旧来
にない先端的なデザイン」と、そのとき集めた陶
器類について語った。武田は、日本からアメリカへ
輸出する装飾品は、高級品ではなく、当時のモダン
な大衆品を参考にするべきだと考えていた。 武田の
収集品を分析した平野は、重量が軽いため輸入税で
有利とされるドイツの石灰質陶器が大きなシェアを
占めていることに気づき、同様の素地開発を試すこ
とにした。 "
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"陶磁器試験所では石灰質陶器に注目し、素地と釉
薬の開発をはじめた。当初は石灰室粘土を手に入れ
ることにも苦労した。朝鮮、満州まで手を広げて探
したが、よい粘土がない。そんなとき、試験所の嘱
託であった九州帝大名誉教授の高壮吉から白雲石
(ドロマイト)の情報が寄せられた。 "
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"1933年、白雲石を使った、ヨーロッパの白いマ
ジョリカ風素地の開発に成功。今までにない新しい
タイプの低火度焼成用陶器として、平野耕輔、小川
新一郎、沢村滋郎によって、製法が発表された。こ
れは白雲石を25~35%使用していることから白雲陶
器と名づけられた。 白雲陶器は、素地、釉薬ともに
低火度で焼成し、色絵付けが簡単であること、軽量
でしかも締焼温度が幅広く、収縮率がごく少ないこ
と、普通の軽量石灰質陶器に比べて素地が丈夫であ
ること、さらに素地色が純白で、コストが安いとい
う、すぐれたものだった。 "
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"白雲陶器の開発を受けて、アメリカ市場の大衆品を
対象に、水町和三郎、日根野作三、内田邦夫らが参
加して、デザイン研究がはじまった。当初の試験に
参加した飯野利平は、京都から瀬戸試験場に移り、
量産化、応用試験を開始した。当時の試験品は、い
わゆるノベルティと呼ばれる室内用品で、灰皿、た
ばこセット、ロウソク立て、文房具、菓子器、花
器、カジュアル食器などが作られた。形も飾りもシ
ンプルで、幾何学的なことを特徴とした新製品は、
武田の収集品の影響が感じられた。試作品は海外の
輸出工芸展にも出品され、輸出の可能性が探られて
いたが、第二次世界大戦がはじまったことで研究は
中止された。 "
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"戦後、この白雲陶器に関心をもった人物がいた。大
竹産業の山内勇夫は、試験所の指導のもとで、ノベ
ルティの量産化に向けて試行を重ねて、工業化に成
功する。その後、白雲陶器は瀬戸の主要なノベル
ティとして生産され、最盛期には日本の輸出額の
1/5~1/7を占めるほどに拡大した。 "
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