pdf - 神戸大学大学院人文学研究科・神戸大学文学部

研究論文
︽キーワード︾建築 マルセイユ アルジェリア ル・コルビュジェ
たのである。古代から海洋貿易などで旅する人々の交流により開花
惣 田 くみ子
マルセイユ国立高等バレエ学校に見る ︽ムーヴモン・モデルヌ︾
南仏プロヴァンスの白亜の殿堂
はじめに
していった多文化の中心地として名高いマルセイユは、今日では地
に溶け込むようにして古代をはじめ各時代の建築の数々が共存して
い太陽の下、紺碧の海が一面に広がっている。そしてその自然環境
市計画事業の性質により、建築家たちが自身の個性をのびのびと発
ているのは、古い町並みを守りながらも常に新風を受け入れる都
る。近年に建てられた建築物の多くが建築・美術専門紙面を賑わし
方都市における大規模な公共建築建設の舞台として注目されてい
いる。この土地では、様々な様式を取り入れた建造物がまちの歴史
揮できる場が与えられているからではないだろうか。
地中海を望む南仏プロヴァンス地方の一都市マルセイユには、眩
を物語っているのである。二十世紀を舞台に活躍したル・コルビュ
の最後の公共建築作品となったマルセイユ国立高等バレエ学校に焦
本稿では、アルジェリア出身のフランス人建築家ロラン・シムネ
史・文化的背景に溶け込むように、またある時は挑むようにして自
点を当て、彼がどのように周りの環境を考慮に入れながら独自の造
ジェをはじめとする近・現代建築家たちは、時にはこの土地の歴
身が提唱した建築概念を具現化していった。
フランス国内外の様々な建築思想を持った建築家たちの建物が姿を
1県庁舎、美術館、学校など−が次々と着手されるようになると、
てムーヴモン・モデルヌ ︵MOu≦ルmentmOderPe︶がどのようにと
証を交えた両者の建築対比をもとに、ロラン・シムネの建築におい
裏付けられたル・コルビュジェのサヴオア邸当初の彩色に関する検
形空間を創出していったかという点と、今回の調査・研究をもとに
現すようになった。時代の変遷の中で、未開発の土地や古い区画の
らえられていたのかを考察しようと試みる。
二十世紀後期に入り、都市整備と連携した大規模な公共施設建設
改革事業は、新しい建築表現の場として大いに触媒の役割を果たし
7
﹁ マルセイユの歴史的背景
に触発されてアルジェ市内に建設した集合住宅アエロ・アピタなど
も日頃から目にしていた。
者たちによって設立された街である。このような歴史的背景により、
徐々にすすめられた一九七〇年代を過ぎて、住宅問題が一段落して
を真似た一九六〇年代、そして古いマルセイユの町並みの見直しが
地元プロヴァンスの建築家たちが熱心にル・コルビュジェの作品
古代から現在に至るまで各時代に残された様々な建築文化を目にす
きた一九八〇年代からは、行政・文化・教育機関関連の公共施設建
マルセイユは、紀元六百年頃この土地に惹かれたギリシャの航海
ることができる。一九五〇年代からはル・コルビュジェをはじめ
切迫した住宅不足に関する問題がほとんどを占めていた。そのよう
された都市の代表格となった。第二次世界大戦後の都市計画では、
ちがマルセイユで活躍の場を得ることになり、近代建築理論が実現
ジェクトを応募するようになった。そのような時流の中で持ち上
ィションが行われ、次第に各国から多くの建築家たちが自分のプロ
きない問題だった。新しい建設企画案が発表されるたびにコンペテ
都市として歴史的建造物と新しい建築物との共存は避けることので
オ ー ギ ユ ス ト ・ ペ レ や フ エ ル ナ ン ・ ブ イ ヨ ン と い っ た 近 代 建 築 家 た 設への取り組みが飛躍的な発展をとげることになる。由緒ある文化
な状況下で、政府から建築法規の基準枠を脱してもかまわないとい
がったのがマルセイユ国立高等バレエ学校の建設企画である。
世界的に有名な舞踏家で振付師でもあるロラン・プティは、一九
二、マルセイユ国立高等バレエ学校建設に向けて
う特別な許可付で依頼されたのがル・コルビュジェのユニテ・ダピ
タシオン二九四六∼一九五一︶ である。型枠から外された打ち放
しコンクリートが特徴的なこの集合住宅は、当時最先端の建築技術
を駆使して施工され、新しい生活形態にあわせた ﹁モダン﹂な快適
さを備えた実験的な集合住宅としてその名が世界中に知れわたった
ようとする激しい動きもあり、賛否両論の白熱した論争の末、実現
輩たちの育成に専念することが、彼の長年の夢だったからである。
にバレエ学校の設立を持ちかけた。環境の良い落ち着いた土地で後
七二年、マルセイユ市長で二十年来の友人ガストン・ドゥフエール
された。ここに以前から存在していたマルセイユの伝統的な建造物
動きは徐々に進められ、一九八一年、当時のフランス共和国大統領
いしかし建設への道は険しく、当初はこのプロジェクトを阻止し
とは違った新しい時代の幕開けを見ることとなったのである。
た学生時代からル・コルビュジェの著書を読み、彼の建築作品に深
ルセイユ国立高等バレエ学校の建設を強く促した。時がたち新しく
の肩書きを認め、即日中にガストン・ドゥフエールは大統領に、マ
ヴァレリー・ジスカール・デスタンはマルセイユ・バレエ団に国立
い興味を抱いていたっ そしてルイ・ミッケルやピエール・ブルリ工
大統領に就任したフランソワ・ミッテランの時代になってからは、
ロラン・シムネはアルジェの国立美術学校で建築学を専攻してい
といった建築家たちが、ル・コルビュジェのユニテ・ダピタシオン
8
公共施設建造事業1グラン・プロジューの大波がパリに一気に押し
に囲まれた静かな場所に建造場所が移ることになったのである。
が改善されると見込まれたのである。こうして町中でありながら縁
呼びかけにより国を挙げて行われ、一九八五年十月、厳選された九
体した形の建築設計案を募るコンペティションがマルセイユ市長の
まれた。早速バレエ学校とロラン・プティバレエ団の稽古場が合
だった。一九八四年には建設費用として約三千万フランの予算が組
当初の建設予定地はマルセイユのサン・ジユスト旧兵舎の敷地内
ラン・シムネの建築作品の中では特異な部類であり、彼自身これは
考え出された形状だったのである。このような排他的な設計は、ロ
のような造りだが、それは建物内に静かな環境をつくりだすために
包みこんでいた。開口部が極めて少ない外観は、さながら﹁船舶﹂
ン・シムネの当初の設計案では、大きく厚く白い壁面が建物全体を
行きかう人々の雑踏と車の騒音から逃れる配慮が施された、ロラ
三、施工時の諸問題
寄せる。その余波は地方都市にも広がり、一九八二年三月、フラン
ソワ・ミッテランは、彼の七年間の任期内に成すべく﹁大建造計画﹂
の中にマルセイユに拠点を置く国立高等バレエ学校の名を登録し
つの設計案の中から最終的にロラン・シムネのプロジェクトが採用
﹁内面に向かったプロジェクト﹂として一種の挑戦だったと回顧し
た。
された。そして新しくマルセイユ市長となったロベール・P・ヴィ
ている。
変わった。細かい見直しはしたものの、ロラン・シムネは、当初の
建設場所がアンリ・ファーブル公園に移り、周りの環境は大きく
グルーは一九八九年四月に、マルセイユ国立高等バレエ学校の建設
をマルセイユ市における優先的に取り組むべき事業の枠内に記入し
た。
レエ教育の場としてふさわしくないと判断した市議会はマルセイユ
模な商業施設やロック会場等も併設するという話が持ち上がり、バ
騒然とした立地条件は決して良いとは言えなかった。まもなく大規
だと、必ず立ち止まって見学する人が現れ、生徒たちが練習に集中
とはなかった。それは、バレエ学校内が外部から見えるような造り
2︶。落ち着いた自然の中に建つことが決まっても、窓を増やすこ
ての学校は、他の場所への着岸が可能だった﹂からである ︵図1、
設計図を大きく変更することはしなかった。なぜなら﹁⋮船舶とし
国立高等バレエ学校建設地の移転を決定した。新たに選ばれた場所
できない状態に陥ってしまうからである︵図3︶。
しかし高速などの道路網が入り組み、日中の交通量が非常に多く
は、市の整備区画に入っていたマルセイユ市八区にあるアンリ・フ
は、幾何学的な立方体を組み合わせた白い壁の中庭と、青い空のコ
西に開いた建物正面の中央に伸びる長いスロープ ︵図4︶ の先に
れた。以前から存在していた公園だったが非常に荒れており、夜に
ントラストがある ︵図5︶。ピエール・シャローの ﹁ガラスの家﹂
ァーブル公園となり、一九九〇年八月に建設場所の変更案が認めら
は治安面の問題も出ていたが、学校建設により公園が整備され環境
9
において﹁マスト﹂のような印象を与えている。稽古場およびバレ
リl
J
エ会場にもなる広間にはブートル・エシェルと呼ばれる、ロラン・
の外壁に通じる半透明のガラスブロックでできた壁がやわらかく明
るい太陽光を採りこむ玄関ホールの両脇には、一階に通じる ﹁咽喉
は外への開口部はない。壁面と天井には大・小そして幅広・幅狭い
シムネ建築にしばしば見られる梁がある︵図6︶。建築構造上絶対
建物は東部に丸みをおぴた ﹁U﹂字形で、中庭をはさみ、一方に
ろいろな形の穴があけられており、一見単純な壁面装飾に見受けら
U﹂と称される一対の階段がある。玄関は共同で使用されているが
﹁国立高等バレエ学校﹂ 二、九一三平方メートル︶ があり、もう一
れるが、実際は高低さまざまな音を吸収するための装置である。こ
不可欠な部位だが、この箇所が彼独自の造形空間を生み出している
方に ﹁ロラン・プティ マルセイユ国立バレエ団﹂ ︵一、四〇七平方
こでは実用的な機械装置は全て壁面の裏側に隠されているのであ
バレエ学校とバレエ団はそれぞれ独立しており、各々の階段で階下
メートル︶ がある。両者の稽古場およびバレエ会場は全て一階に配
る。現代社会に必要な配線機器類の処理についてロラン・シムネは
ともいえる。壁面上部の細長い窓から自然光が差し込んでくる以外
置され、プロフェッショナルのバレリーナやバレエ学校の生徒たち
以下のように語っている。
に位置するそれぞれの稽古場やバレエ会場へと向かう。
が練習時に互いの騒音に悩まされないようになっている。バレエ学
校専用の七つの稽古場は十二メートル×十二メートルの正方形 ︵百
っています。長年、壁面や空間は技術的な部品があっても支障が
﹁究極の目的は造形的なものですが、それは機能の上に成り立
立バレエ団は一番奥のスペースを占め、会場 ︵三百八十平方メート
きたされるわけではなく、建築はそれだけで事足りていました。
四十四平方メートル︶ で、教育プログラムに分けて使用される。国
ル︶ と稽古場 ︵二百二十平方メートル︶ −グラン・スチエディオと
パのバレエ施設における規格水準の実例となっている。この二部屋
としては新しく開発されたものを使用しており、現在ではヨーロッ
運動の衝撃を効率よく吸収する一種の ﹁浮床﹂となっている。構造
問われるからです。導管が多すぎるというような言い訳はできま
家の仕事となります。このような技術上の問題を解決する技量が
取り沙汰されるわけではありませんが、これこそがまさしく建築
内︶ 空間に加わるようになりました。そのことにより各種計算が
もっぱら今日になって電気・空調やその他の設備が壁面や ︵室
の間には上部への収納が可能な可動式遮音間仕切壁が考案され、必
せん。これらは全て機能し、そして建築内に組み込まれなくては
呼ばれる−を備えている。床板は舞踏家たちの足の腱を守るため、
要に応じて屋上部に移動させることができるようになっている。二
建築家にとって姿形を変貌させる作業は重要です。例え多くの
なりません。
る。この大きな間仕切壁は天井部分を突き抜けて建物の外部に設置
機械設備がはためいていたとしても、空間はシンプルに、殆どア
つの部屋をつなげると六百平方メートルの大会場になる仕組みであ
された収納壁内に納まるようになっており、その形状が建物の外観
10
ルカイックともいえる姿に落ち着かなければならないのです。﹂
は日差しが強いほどより濃い影を落とし、白い壁とのコントラスト
を生み出す。グウロット ︵排水用の溝︶ ︵図8︶ の垂直な線が単調
会場や国立高等バレエ学校の稽古場がある一階には、他にも体操室、
ン・シムネが長年築き上げてきた探求の集大成ともいうべき造形空
まるでアルジェの古い町並みのような光景が繰り広げられ、ロラ
になりがちな壁面にアクセントをつけている。簡素でありながらも、
音楽室、更衣・シャワー室などがあり、その大部分には間接的な外
間が、そこには創出されている ︵図8・9︶。
ロラン・プティ マルセイユ国立バレエ団専用の稽古場兼バレエ
光が使われている。船でいえばこの階は、いわゆる﹁船倉﹂部分に
高等バレエ学校の稽古場上部にはこの階につながる内窓が取り付け
こには自然光を取り入れる比較的大きな窓が設けられている。国立
の気候条件によりその印象を刻々と変えるという大変面白い特色が
海沿岸地域で見られる塗料が使用されている。この塗料には、日々
ッゾラン ︵puzNO−ane︶ という石灰乳を主体とした、古代から地中
白い外壁には、アルジェのカスバの建築にも用いられているピユ
られているが、生徒たちからは鏡にしか見えないマジック:、﹁ラー
ある。含有物の性質上、快晴の日には白く明るく輝き、雨天など湿
あたるといえよう。二階には事務関連の部屋が配置されており、そ
となっている。二階からは通常の窓ガラス状態なのでこの場所から
気が多い日には壁面全体が灰色に変色するのである。よって建物の
ぽく重い﹂という全く異なったものになる。石灰乳の塗料は北仏の
見学に来た者の意見は天候に応じて ﹁白く鮮やか﹂または ﹁灰色っ
教師たちが生徒の練習風景を観察することも多い。
四、PrO∃e⊃adearchitectura一?﹁建築的散策﹂という概念
つくつたという。それは、彼のル・コルビュジェに対する敬愛心を
移転とそれに伴う立地条件により、ロラン・シムネはこの展望台を
初の設計案ではこのような展望台は存在しなかったが、建設場所の
るようになっている。サン・ジユスト旧兵舎の敷地内を想定した当
れた外壁からル・コルビュジェのユニテ・ダピタシオンが展望でき
部で伝統的に使用されている彩色法であるらしい。一九三一年に
いわれているが、いずれにしても北アフリカの地中海沿岸地域の一
る。それは、顔料に含まれる原材料にハエを避ける効果があるとも
色に彩色され ︵図7︶、同様の色使いはカスバの中庭でよく目にす
設計されたテラスのスロープに沿って立つ高い壁面は、一部淡い水
ただし、外壁は自一色に塗装されているわけではない。路地状に
LJ
ような弱い日差しの中ではなく、地中海の強い日差しを浴びてこそ
具体的にあらわしたものであった ︵図7︶。ひらけた視界には、公
ル・コルビュジェによってパリ郊外に建てられたサヴォワ邸は、彼
本来の特性が発揮され、その白亜の美しきが増すのである。
園の縁の木々や南仏特有の澄み切った青い空、そして白く鮮やかな
が提唱した ﹁新建築の五原則﹂を具現化した建築作品として名高
二階大広間の脇にあるスロープから屋上に出ると、大きく開けら
壁面の調和が織り成す空間が広がる。屋上に林立する立方体の数々
−1ト一一一
れており、そこでは当初はどこされていた色彩を確認することがで
館︵MuseumOrMOdernLgt︶にはサヴォア邸の建築模型が展示さ
残念ながら現在その面影はない。しかし、ニューヨークの近代美術
が、近年の修復工事後に屋上部分全ての壁面は白一色に塗装され、
い。この建物の屋上壁面にも以前は同様の彩色がほどこされていた
する探求も含まれており、ル・コルビュジェがアルジェのカスバを
ている。一九三一年に完成したサヴォア邸には﹁建築的散策﹂ に関
五原則﹂といったムーヴモン・モデルヌの中枢を成す概念を提唱し
年に・すなわちサヴオア邸の建設注文を受ける一年前に ﹁新建築の
が多数見られるのは非常に興味深い。ル・コルビュジェは一九二七
して、人間の動きをもとに生み出した独自の尺度システムである。
ない。モデュロールはル・コルビュジェがアルジェのカスバを調査
際にカスバから受けた影響が非常に大きかったことも忘れてはなら
ギリシャ・ローマ建築が引き合いに出されるが、アルジェを訪れた
ていたが、メートル法を使用することはなかった︵︶ それは、人間
された尺度システム ﹁モデュロール﹂を常に用いて設計図を作成し
を通して取り組んできた主題である。彼は人間を基準として生み出
アルジェ都心にあるマイエディンのスラム街を調査した時から生涯
人と建築空間とのつながりは、ロラン・シムネが二十五歳の時に
調査した時に感銘を受けた、人間の自然な動線から生まれた生活空
彼の建築理論は、ロラン・シムネの建築理論と通じるところが多い。
自体に則さない尺度システムでは人と建築空間の間に快適な調和を
0︶。
﹁建築的散策﹂とは、ル・コルビュジェがカスバについて述べた概
もたらすことは不可能だと考えたからである。若い頃からムーヴモ
きるのである︵図1
念である。両者の建築は、モデュロールを軸として考案されている
ン・モデルヌに触発され建築家になったロラン・シムネの晩年の作
間を持つ建築が霊感源になっていたことが確認できる。
が、彼らは建築が、ただの﹁箱﹂に陥ることのないよう、﹁道程﹂
品となるマルセイユ国立高等バレエ学校においては、ただ外見的な
ル・コルビュジェが大きく霊感を得た建築物としてしばしば古代
﹁空間的連続性﹂﹁驚き﹂﹁休息﹂﹁発見﹂といったテーマを常に念頭
部分にル・コルビュジェの建築作品との関連性が見られるわけでは
ではないだろうか。
なく、その思想の根底にこそつながりを見て取れると考えられるの
におきながら、快適な造形空間の創出を試みていたのである。
おわりに
﹁住宅は住むための機械である﹂というル・コルビュジェの有名
め、独創的な建築作品によって二十世紀のフランス建築史上に名を
し実際は人間と建築空間の調和を探求し続けたからこそ余分なもの
を追及した実に無機質な建築概念だと連想されることが多い。しか
な言葉から、ムーヴモン・モデルヌといえば、しばしば機能性だけ
残した建築家である。前者のマルセイユ国立高等バレエ学校と後者
が削ぎ落とされた、実に血の通った建築概念なのだと改めて認識さ
ロラン・シムネもル・コルビュジェと同様に独学で成功をおさ
のサヴォア邸において、主にアルジェのカスバを源泉とする共通項
−12一
せられるのである。
註
︵1︶ 本稿はパリ第四大学大学院博士課程美術史学科在学中、二〇〇一年九月の博
士号取得のために提出した博士論文﹁建築家ロラン・シムネ 二九二七∼一
九九六︶︰作品とその影響力﹂ ︵知Q訂さ乱哲30g莞叶−PrCだ訂C訂こりbYh波長こ
莞§r現叉r83莞33こ の一部を翻訳・加筆したものである。
い意味において使われる語彙だが、ここでは主にル・コルビュジェの建築概
念を軸に考えることとする。
︵7︶一九九一年にマルセイユは、フランス共和国の規定により﹁芸術と歴史のま
ち﹂の称号を与えられている。
︵8︶Au習StePerret二八七四∼一九五四︶。フランス人建築家オーギユスト・
ペレは常に兄弟のギユスターヴ・ペレ、クロード・ペレと共に活躍した。代
表作にパリ・フランクラン通りの集合住宅二九〇三︶やノートルダム・デ
ユ・ランシー聖堂二九二三︶がある。当時としては新しい資材だった鉄筋
コンクリートを使用した建物を多く建設している。
ら一九五五年にかけて航空関連会社社員の社宅として建設された。
ジョゼ・フエレール︰フロー︵JOSかFerrer・La−Oe︶によって一九五二年か
︵13︶ルイ︰、、ツケル︵LOuisMique−︶、ピエール・ブルリエ︵PierreBOur−ier︶、
んでいる。
四五年の入学当初は絵画を専攻していたが、すぐに建築を学ぶ方向へとすす
︵2
1︶パリの国立美術学校を母体として、姉妹校のような形で存在していた。一九
の建物はバクボ︵paquebOt︶と呼ばれ、大型客船のように考えられていた。
︵H︶建物内には商店などがあり、屋上には保育園やプールがつくられていた。こ
ている。
アンスキー︵≦adimirBOdiansky︶はエンジニアとして建設にたずさわっ
キー︵AndrmWOgenSCky︶は共同制作者として、ヴラディミール・ボディ
が認められる住居施設として高い評価を得ている。アンドレ・ヴオーガンス
合住宅は、一方で﹁あほう住宅﹂とも呼ばれていたが、今日では建築的価値
テ・ダピタシオンは居住単位のこと。﹁輝ける都市﹂と名付けられたこの集
︵10︶LeCOrbusier︵Char−es・EdOuardJeanneret︶一八八七∼一九六五︶。ユニ
知られている。
宅二九四九∼一九五三︶やアルジェで建設した数々の住宅群によって名を
とイランで建設した。主にマルセイユの再建の際に建てたトウーレットの住
︵9︶﹃ernandPOui−−On二九一二∼一九八六︶。フランス国外ではアルジェリア
︵2︶ ウィリアム・アルソップ ︵WiEiamA−sOp︶ とジョン・リアル・ストルマー
︵JOhnLyaE St晋mer︶ によって建設されたブゥーシユ・デユ・ローヌ県庁
舎 二九九三︶ など。
︵3︶ ピエ・ノワール ︵独立以前のアルジェリア在住ヨーロッパ人の総称︶ の五世
であるロラン・シムネ ︵RO−and SimOunet︶ ︵一九二七∼一九九六︶ は、近
代建築の父と呼ばれるル・コルビュジェや日本の安藤忠雄と同様、独学で成
功をおさめ、自身の作品とその個性によって現代建築史上に名を残した一人
である。代表作に、アルジェのジエナン・エル・ハサン仮設集合住宅 二九
五六∼一九五八︶ やアルジェリアのティムガツド都市計画 ︵一九五八∼一九
六〇︶ があげられる。アルジェリア独立後はフランス国内で手掛けた主に三
つの美術館・ヌムールのイル・ド・フランス先史博物館 ︵一九七六∼一九八
〇︶、ヴィルヌーヴ・ダスク北仏近代美術館 二九七九∼一九八三︶、パリ・
ピカソ美術館の改築・内装整備 ︵一九七六∼一九八五︶ によって一躍脚光を
浴びた。
︵4︶ この後も公営住宅などは建設しているが、大規模な公共施設という意味では
マルセイユ国立高等バレエ学校が彼の最後の建築作品となっている。
︵5︶ パリ郊外、POi設y︵ぺくe−ines︶ に個人の邸宅として建てられた。近年の修復
工事の後、壁面は自一色に塗られている。
︵6︶ ムーヴモン・モデルヌ ︵MO亡くement mOderne ︵近代運動︶︶ は建築史で広
−13一
︵22︶ この可動式遮音間仕切壁は百平方メートルで、重量は十二トンある。
で使用されている半透明のガラス壁にも通じるところがある。
を建設するというコンペティションに応募している。
︵23︶ 梯子のような形をした梁のこと。
︵14︶一九九二年にロラン・シムネはサン∴ンヤンの要塞内にカルチャーセンター
︵15︶現在、ウィリアム・アルソツプ︵WiEiamA−sOp︶とジョン・リアル・スト
︵24︶ Sy−くieChirat︶︿人Leくaisseaude−adanse﹀Yu CS監rg訂330計r莞︶n。宗︸
trOisiかmetrimestre−淫芯
ルマー︵JOhnLy巴−St旨mer︶によって建設されたブゥーシユ・デユ・ロー
ヌ県庁舎二九九三︶がある。
︵61︶予算は、Minist町ede−aCu−tureetde−aCOmmunicatiOn︵
︵文
2化
5・
︶コ
ミ
ルュ
・ニ
コルビュジェは一九二五年に出版された著書﹁今日の装飾芸術 ︵トドr叶
ケーション省︶∵呂inist野edesGrandsTraくaG舛︵土木建設省︶﹀COnSei− 訣cQr已斗乱がミ○§軋、計已︶﹂内で、石灰乳で塗装された建築物の美しきについ
リック・ゲリエ氏と同学校理事補佐ジョヴアンナ・サルズ氏とのインタビュ
︵26︶一九九七年九月十五日、マルセイユ国立高等バレエ学校建設時の現場監督エ
r加温Ona−PrOくenC?A−pes・C賢ed﹀ANur︵プロヴァンス・アルプス・コートダ て記している。
ジュール地方議会︶︶くiEedeMarsei−−e︵マルセイユ市︶によって出資され
ることが決定した。
︵17︶個人とグループでの応募が残った。Archipe〓G.etM.AntOnietti︶いJ.ーより ︵マルセイユ国立高等バレエ学校にて︶。
ィi
、n
屋e
上t
庭園、自由なプラン、水平連続窓、自由なファサードのこ
Ripau−tこFchitectureStudiOいPh.Des−andesいM.GOSm︵
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i︶
\ Lピ
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Cテ
ab
とs。
GetecいAUA︵PerrOttetet﹃abre︶\CCD⋮Bui只ienQuOC\B.De
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P.UrbainMROEandE且0−ras\FOuinい﹃ran召is\J.・M.Bat︵
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s︶
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i九
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九D
七.
年く
のi
塗E
装a
修復工事では既に白い壁面となっていた。
と呼ばれているのに対し、ロラン・シムネはマルセイユ国立高等バレエ学校
ネの建築作品をまとめた書類を三時間程注意深く見た後、ル・コルビュジェ
アンドレ・エムリーを介してル・コルビュジェに会っている。ロラン・シム
︵29︶ ロラン・シムネは仕事上幸い時期を過ごしていた一九六〇年頃、ピエール・
を人へnaくire﹀﹀︵船舶︶と呼んでいた。ル・コルビュジェは客船のポスターを
は ﹁何を嘆いているのですか?あなたは、私が夢見たものの一部をすでに実
︵18︶ル・コルビュジェのユニテ・ダピタシオンが<人paquebOt﹀﹀︵大型貨客船︶
用いてユニテーダピタシオンの構造を説明している。
ムネにとって生涯忘れることのない貴重な思い出となっている。彼のアトリ
しn
て。
い謡る
︵9
1︶Sy吉.eChirat:Leくaisseaude−adanse﹀﹀﹀CO宏等莞訂330札内現
⊇♪
︶で は あ り ま せ ん か 。 ﹂ と 言 っ て い る 。 こ の 日 の こ と は ロ ラ ン ・ シ
trOisiかmetrimestre−遠い︵ロラン・シムネ談より︶
エに入って直接教わることはなかったが、生涯を通してル・コルビュジェの
︵30︶一九五三年にフランスのエクス・アン・プロヴァンスにて開催された第九回
︵20︶一九九七年九月十五日、マルセイユ国立高等バレエ学校建設時の現場監督エ
ーより︵マルセイユ国立高等バレエ学校にて︶。エリック・ゲリエ氏は﹁洪
現代建築国際会議で、アルジェグループが発表する主題として、アルジェの
ことを自身の ﹁師﹂ と慕っていたのである。
水のおそれがあるため地下室がつくれず建物の下に一・八〇メートルの空間
中心部にあるマイエディンのスラム街に関する調査報告書の作成をロラン・
リック・ゲリエ氏と同学校理事補佐ジョヴアンナ・サルズ氏とのインタビュ
があり、さらにその下には杭が一八メートルにわたり打ち込まれている﹂こ
シムネとスイス人の友人が担当した。
SimOunet﹀﹀︶ト琵琶Cだ訂C旨的監訂訂C計已登♪Minist野ede−︸茸u−pementdu
︵31︶ くirginie PicOn・Le訂b∃eu CyriEe SimOnnet:Entretien a諾C RO−and
とも説明している。
︵21︶ピエール・シャロー︵PierreChareau︶二八八三∼一九五〇︶によってパ
リに建てられたメゾン・ドゥ・ヴェール︵ガラスの家、一九二七∼一九三二
−14 】
ーOgement deS tranSpOrtS et de−amerV AssOCia−iOngrenOb−Oise de
recherchearchitectura−eVロ○くembre−悪道
︻追記︼
本稿執筆の際には、ロラン・シムネと親しかったイヴエツト:フングラン氏な
らびに彼の友人だったエリック・ゲリエ氏、マルセイユ国立高等バレエ学校理事
補佐ジョヴァンナ・サルズ氏に大変お世話になった。末筆ながら深甚の感謝の意
を表し、お礼申し上げたい。
惣田くみ子 ︵そうだ・くみこ︶
一九九二年九月 国立ルーヴル学院卒業
一九九五年九月 パリ第四・ソルボンヌ大学大学院卒業︵修士号取得︶
二〇〇一年九月 パリ第四・ソルボンヌ大学大学院卒業︵博士号取得︶
二〇〇二年九月から 神戸大学大学院文化学研究科在学 ︵研
究生︶
二〇〇三年四月から 阪神・淡路大震災記念 人と防災未来
センターの震災資料専門員として勤務
15
図1 ロラン・シムネ、マルセイユ国立高等バレエ学校(1985・1992)、マルセイユ、フランス
1階及び2階平面図(ArchivesRolandSjmounet)
図2 ロラン・シムネ、マルセイユ国立高等バレエ学校(1985−1992)、マルセイユ、フランス
断面図(ArchivesRolandSimounet)
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図3 ロラン・シムネ、マルセイユ国立高等バレエ学校(1985−1992)、マルセイユ、フランス
外観(右側が東正面)、1997年撮影
図4 ロラン・シムネ、マルセイユ国立高等バレエ学校(1985−1992)、マルセイユ、フランス
外観(西正面)、1997年撮影
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図5 ロラン・シムネ、マルセイユ国立高等バレエ学校(1985−1992)、マルセイユ、フランス
正面玄関前中庭、1997年撮影
図6 ロラン・シムネ、マルセイユ国立高等バレエ学校(1985−1992)、マルセイユ、フランス
クラン・ステユディオ
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図7 ロラン・シムネ、マルセイユ国立高等バレエ学校(1985−1992)、マルセイユ、フランス
展望台(屋上階)、1997年撮影
右手奥に見えるのがル・コルビュジェのユニテ・ダピタシオン。
壁の内側は淡い水色に彩色されている。
図8 ロラン・シムネ、マルセイユ国立高等バレエ学校(1985−1992)、マルセイユ、フランス
白い壁とグウロット(屋上階)、1997年撮影
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図9 ロラン・シムネ、マルセイユ国立高等バレエ学校
(1985−1992)、マルセイユ、フランス
屋上願のテラスから見る2階事務室と
屋上隋の部屋、1997年撮影
図10 ル・コルビュジェ、サヴオア邸(1929−1931)の建築模型、ニューヨーク近代美術館蔵
彩色されている壁面が確認できる。
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