その人らしい生活とは? 取手市立永山中学校 「 お は よ う ご ざ い ま す 。」 一年 尾 お だ 田 は 隼 や と 都 僕が朝ごはんを食べていると、祖母が車イスに乗って起きてくる。祖母と のあいさつが、僕の一日が始まる合図になっている。 祖母は、手足が思うように動かず、一人では歩けない。ふだんはデイサー ビスに通っていて、日中を過ごしている。部活が終わり、僕が学校から帰っ てくるころには、ヘルパーさんの介護を受けて、もうベッドにいる。僕は祖 母と一緒におやつを食べる。そして、今日学校であった出来事などを話す。 夕 飯 を す ま せ 、歯 み が き 、ト イ レ な ど 、母 が 祖 母 の 身 の 回 り の 世 話 を す る 。 「 お や す み な さ い 。」 「 今 日 も お 世 話 に な り ま し た 。」 と言って、祖母はベッドに入る。これが一日の流れだ。 祖母が取手の僕の家にきたのは、去年の一月だ。それまでは、下館の家で 一人で暮らしをしていた。下館にいた時には、僕のおじさんが世話をしてい たが、介護サービスを利用していなかったから、昼間もうす暗い部屋に一人 で布団に寝ていて、誰かと話をすることもほとんどなくて、時間の感覚がわ からなくなっていた。 だんだん弱っていく祖母を、父と母が心配して、一緒に暮らそうと話をし たが、僕や父などに、迷わくがかかると言って、取手に来ることをきょひし ていた。 そんな中、祖母との暮らしが始まったのだが、最初はあまりしゃべること がなかった。というよりも、祖母は寝たきりだったため、手足が動かないば かりでなく、声もうまく出せなくなっていて、何と言っているかわからない ことがよくあった。 「え、何?」 と僕は何回も聞き直していた。時間がたつにつれて、少しずつ、祖母の声 が大きくなってきた。僕にもよく聞こえるようになった。今では、祖母と僕 のやり取りを、 「 ま ん 才 を 見 て い る よ う だ 。」 と言われるくらい、スムーズに会話ができている。それに、デイサービスに 通ってて、いろいろな人と話すことで笑うことも増えてきている。 「 今 日 、 デ イ サ ー ビ ス で 、 こ の ブ ラ ウ ス 、 素 敵 だ ね っ て ほ め ら れ た よ 。」 と、祖母はうれしそうに話すことがある。とび職人の嫁だった祖母は、働き 者で、いつもこざっぱりとした、おしゃれな女の人だったそうだ。 歩 け な か っ た 祖 母 が 今 で は 、母 が 介 助 す れ ば 何 歩 か 歩 く こ と も で き る 。皆 、 祖母の回復力に驚いている。 祖母がここまで回復することができたのは、母のおかげだと僕は思う。母 は仕事から帰ると、休む間もなく、祖母のトイレ、介助をしてから夕飯作り に取りかかる。 祖母は母のお母さんだ。そんなせいもあって、母は祖母に結構厳しい。 「 や れ る と こ ま で 、 自 分 で や っ て ね 。」 と、歯みがきや着替え、車イスでトイレまで移動することなど、いろいろな 場面でがんばる祖母がいる。 僕の家に来ることを遠りょしていた祖母は全面的に介助されることをとて も恐縮するだろうから、 「 自 分 で や れ る こ と 」を 少 し で も 増 や せ る よ う に 、祖 母らしい暮らしが続けられるようにとの母の願いも込められている。 「その人が、その人らしい生活を送れること」こそ、人権を守る基本である と思う。 時々、ケアマネージャーさんや、デイサービスのしせつの人たちが、僕の 家 に 来 て 、担 当 者 会 議 を 聞 く 。祖 母 が 祖 母 ら し く 生 活 す る こ と が で き る よ う 、 みんなで話し合いをするのだそうだ。 また、祖母の世話をする母にも、母らしい生活をしてほしいと思う。 そのために、僕たち家族がみんなで助け合っていきたいと思っている。
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