戦後日本における人的資本の計測*1 Ⅰ.はじめに

〈財務省財務総合政策研究所「フィナンシャル・レビュー」平成 28 年第3号(通巻第 128 号)2016 年 11 月〉
戦後日本における人的資本の計測*1
宮澤 健介*2
要 約
本研究では,高度経済成長期から近年までの長期的な人的資本の計測を行う。教育の普
及による人的資本の蓄積は経済成長において重要な要因であり,日本においても戦後に義
務教育の拡充や高校・大学進学率の上昇によって経済成長に貢献したと考えられることか
ら,この貢献度を定量的に評価することは重要である。また,現状の人的資本を推計する
ことで,今後の教育の拡大でどの程度経済成長へ貢献できるかを評価することも可能とな
る。本研究では,戦前世代からの就学年数の世代別の分布を推計し,これを戦後の就業者
の学歴の統計と組み合わせてその就学年数を推計し,非線形のミンサー型賃金関数から人
的資本に変換し,成長会計から経済成長への貢献度を求めた。その結果,特に高度経済成
長期においては人的資本の増加による経済成長への貢献度が大きいことが明らかとなっ
た。また,非農業部門でも同様の分析を行ったところ,非農業部門での人的資本の貢献度
が経済全体よりも急速かつ大きいことが判明した。一方,既に教育年数が上昇しているこ
とから,今度の教育普及の効果については限定的なものになることも明らかとなった。
キーワード:就学年数,人的資本,日本,高度経済成長
JEL Classification:E6, O1, O4, N3
Ⅰ.はじめに
本研究では,第二次世界大戦後の日本の経済
応させ,非線形のミンサー型賃金関数を用いて
成長において学校教育が及ぼした影響を分析
就学年数を人的資本に変換し,これを成長会計
し,将来的に教育政策が経済成長に与えうる効
に組み込んで分析する。本研究の分析結果から,
果を検証する。そのため,戦前世代からの就学
特に高度経済成長期と呼ばれる時期に就業者の
年数を推計し,これを就業者の学歴の統計と対
就学年数が急激に増加し,これが経済成長に大
*1 本稿作成に当たっては青木周平信州大学経済学部准教授,及川浩希早稲田大学社会科学部准教授,木村
めぐみ一橋大学イノベーション研究センター特任講師,田村正興京都大学大学院薬学研究科助教,田村龍
一一橋大学イノベーション研究センター特任講師,外木暁幸一橋大学経済研究所特任講師,楡井誠一橋大
学大学准教授,村尾徹士九州大学経済学研究院准教授から貴重なご助言を頂いた。また,フィナンシャル・
レビュー・コンファランス参加の先生方から貴重なコメントを頂いた。
*2 九州大学経済学研究院准教授
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戦後日本における人的資本の計測
きく貢献したことが判明した。しかし,この効
型のミンサー型賃金関数を用いて人的資本を計
果は現行の就業者の就学年数が高くなるにした
測した場合,就業年数の短い時期の上昇ほど人
がって低下し,将来的にはこの効果は限定的で
的資本への貢献度が大きくなる。例えば戦前の
あることも分かった。
経済停滞については,Hayashi and Prescott
戦前世代からの人口全体の就学年数を推計し
(2008)は家族制度や法律が農業部門に労働人
た研究として Goto and Hayami(1999)など
口を縛り付け,これが戦前の経済成長を抑制し
による研究が存在する。本研究では,就業者の
たとしている。いかなる原因であれ戦前の日本
就学年数を推計するためより詳細な世代別の就
において農業部門が大きな割合を占めたこと
学年数の分布のデータを構築した。この結果,
が,農業部門においては学校教育があまり生産
人口全体の平均的な就学年数に比べ,就業者の
1)
に貢献しないため ,就学年数の増加が高い経
就業年数が特に 1960 年代後半に上昇したこと
済成長率に結びつかなかったことに大きな影響
が判明した。
を持ったと考えられる。
高度経済成長期に人的資本の増加が経済成長
本稿では非農業部門の就業者の平均就学年数
に大きく貢献したという結果は,通常の日本史
を計算し,それを用いて非農業部門の成長会計
の知識と整合的である。高度経済成長が始まっ
を行った。その結果,非農業部門では高度成長
た 1950 年代中頃は,まだ義務教育が 4 年だっ
期において全体よりも早く就業者の平均就学年
た 19 世紀の世代が引退する代わりに,義務教
数が上昇したこと,非農業部門の経済成長にお
育が 9 年となり高校進学が容易となった生後に
いて人的資本が大きな貢献をしたことを発見し
教育を受けた世代が労働市場に参入した時期に
た。これは,特に戦後に教育を受けた世代の多
あたる。また,高度経済成長が終わったと考え
くが農村地域から都市に移動した結果だと考え
られる 1970 年代前半は,義務教育が 6 年だっ
られる。また,Esteban-Pretel and Sawada
た 1900 年代の世代が引退する一方,高校進学
(2009)は高度成長期において非農業部門の高
が当たり前になった戦後生まれ世代が働き始め
い TFP 成長率が農業部門から非農業部門への
た時期でもある。こうした,労働者の教育の改
労働人口移動を促進したとしているが,本稿の
善が戦後の日本の経済的発展に大きな役割を果
結果は部門間の人口移動自体が人的資本の貢献
たしたと考えられる。
度を増加させたという逆の因果関係,あるいは
しかしこうした議論には,高度経済成長期と
別の部門間人口移動を促進する構造的な要因が
同様かあるいはそれ以上に就学年数が上昇した
重要であったこと,を示唆している。
戦前になぜ高い成長率が観察されなかったのか
本稿は,次節で戦前の日本の教育の実態を確
という疑問がある。特に,本校で用いたような
認し,その次に分析を行う。将来的な教育政策
限界的な就学年数増加の効果が逓減する非線形
については,最後の節で本研究の含意をまとめる。
Ⅱ.日本の学校教育の実態
日本の学校教育の制度的な変遷については,
では,就学年数やそれを用いた人的資本の計測
既に文部省編(1972)など多数存在する。ここ
に関する学校教育の実態を紹介する。具体的に
1)Huffman(2001)参照。
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〈財務省財務総合政策研究所「フィナンシャル・レビュー」平成 28 年第3号(通巻第 128 号)2016 年 11 月〉
は,統計上の就学者数が実際に学校教育を受け
務教育が 4 年から 6 年に延長されたが,既にこ
ていたかどうか,今日的な視点からしても学校
の年齢を対象とした高等小学校が普及していた
教育の質が確保されていたか,が重要になる。
こともあり,出席率は 90% 以上,教員一人当
また,学校統計のほとんどは生徒の年齢ではな
たり生徒数も 40 人台を維持した。また,1886
く学年や入学年度の情報しかないため,いわゆ
年の「教科用図書検定条例」によって,文部省
る留年があったかどうかや入学者の実際の年齢
が教科書の編纂・検定を行うことで教科書の質
も確認されなくてはならない。全体の傾向を先
の向上と平準化も進められている。
にまとめると,出席率や教育の質,留年という
小学校の就学におけるもう一つの大きな課題
点は,少なくとも我々が主な分析対象とする
は,「原級措置」,いわゆる留年である。当初は
1900 年頃以降においては重要な問題ではなく
小学校の進級には試験をパスしなければなら
なっていたと考えられる。一方,入学者の年齢
ず,実際に留年はかなりあったものと推測され
については 1900 年以降においても中等・高等
ている。しかし,これも 1892 年世代が小学校
教育で低下傾向が見られる。これは,初等・中
に入学する頃に改善され,1900 年には進級は
等教育の出席率や教育の質が改善することで,
試験ではなく「平素の成績を考査」して決めら
上級の学校への進学がより容易になったことが
れることになっている。本稿の計測では学年と
考えられる。このことは,先行研究と比べ本研
年齢を対応させているが,これは本稿の対象と
究がより世代別の就学年数をより正確に計測で
する世代に関しては大きな問題ではないと考え
きていることを意味する。
られる。
Ⅱ-1.初等教育
Ⅱ-2.中等教育
明治期の学校教育の最大の課題は,義務教育
上記のような課題・問題は中等教育において
とした小学校に就学をしない児童をいかに減ら
も考えられる。例えば中学校においては,当初
すかという点にあった。当初は授業料は自己負
は教育の質が低く留年・退学も多かったと考え
担であり,また農村社会においては子供は貴重
られている。しかし,1880 年以降にカリキュ
な労働力であったため,就学拒否が多く出席率
ラムや教員資格・施設設備の基準が明確にされ,
も低かった。そこで政府は,徐々に授業料の地
1886 年に税金で負担する中学校は一県一校に
方自治体の負担を認めてゆき,1900 年にはほ
するという改革がなされ,教育の質はその後に
ぼ無償化が達成された。また,1886 年の「小
改善していったと考えられる。留年・退学の原
学校令」によって就学が納税・兵役とならぶ国
因の一つは中学入学者の学力不足であり,その
民の三大義務の一つとされ,就学の免除や猶予
ため中学校では入学試験が行われた。その結果,
が制度的に難しくなっていった。
制度的に想定される初等教育六年修了・満十二
本稿の就学年数・人的資本の計測という点に
歳で中学校に入学するものは少数派であり,例
おいては,「就学者数」のデータの精度,つま
えば 1907 年になってもそれは 18% にしかなら
り就学者とされたものが実際に出席して学業を
なかった。入学者の年齢で見ると,最も古いデー
行っていたかどうかが重要である。出席率は
タである 1898 年の公私立中学校では平均入学
1898 年において 80%,1906 年において 90% を
者年齢が 14 歳 1 か月であったのに対し,1939
超え,この問題が解消されていったことが分か
2)
年には 12 歳 4 か月まで低下している 。また,
る。この時期には,教員養成が進み教員一人当
天野(1983,ch.8)は中学校と高等教育に「聯
たり生徒数が 40 人台となると同時に,1886 年
(連)絡」がなかったことも中学校の中退が多
以降に教員免許制度も整備されるなど,教師の
かったことの原因の一つに挙げている。1890
量と質の向上が進められた。1908 年からは義
年頃までは,高等中学校(後の高等学校)の入
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戦後日本における人的資本の計測
学においては中学校の卒業は必要とされておら
こととなったが,この結果として教育の質は必
ず,また通常の中学校の勉強では高等中学校の
ずしも高くなかったと考えられる。また,主に
入学試験に不十分だったため,地域の中学校を
夜間に開講されていており,農村部においては
中途退学して東京の予備校に「遊学」する者が
農業の閑散期において開講されるものも多かっ
多かった。しかし,この後に中学校の卒業が高
た。週の就学時間は 10 時間未満のものも多く,
等中学校の入学の条件となると,高等中学校へ
就学年数も学校によって大きく異なっていた。
の入学目的の中退は減ったと考えられる。留年
青年訓練所は 1926 年に設立された軍事教練を
についてはデータがないため分からない部分が
行う学校であり,実業補習学校と並行して受講
多いが,中学校については進級試験で成績が悪
する学生も多かった。両者の重複が問題視され
いと退学という規則を持つ学校が多かったこと
るようになったため,1935 年に両者を統一し
や,実際に中退者が多いことから,この問題は
た青年学校が設立されたが,その授業の多くが
深刻ではないと考えられる。
夜間に行われた上に,軍事教練や修身といった
入学者の年齢の問題は,他の中等教育機関で
科目が中心であり,さらに太平洋戦争開戦後は
も考えられる。1899 年には高等女学校規程が
職業科目という名目で勤労動員が行われた。
改められ高等女学校が中学校から制度的に独立
したこともあって,学校数と生徒数が急速に増
Ⅱ-3.高等教育
加していった。また,同じ年に実業学校令が公
制度的に想定される進学経路と実際のそれの
布され,実業学校も制度的に整備されて学校数
ギャップは,中等教育と高等教育の間でも見ら
と生徒数が急増した。このことは,当初は制度
れた。前節でも書いたように,当初は中学校を
的に入学可能な年齢や学歴であり,その他の金
中退して高等諸学校の入試のために予備校に通
銭面等でも条件を満たしていた学生が,学校が
う者が多かった。また,国家公務員・弁護士・
ないために入学できなかった可能性を示唆して
医師・教師など国家資格も高等教育修了が条件
いる。実際,公私立高等女学校の本科の入学者
ではなかったため,国家資格のための予備校も
平均年齢は 1898 年の 13 歳 8 か月から 1939 年
多かった。
の 12 歳 7 か月まで低下している。戦前の教育
こうした状況の中で,学校制度間や学校と職
システムにおいて,中学校・高等女学校と並び
業資格の接続関係は徐々に確立されていった。
中等教育の柱であった実業学校についても,公
まず,既に書いたように,高等中学校について
私立の甲種のものについては,男子の入学者平
は中学校の卒業が必要となった。また,1903
均年齢が 1914 年の 15 歳 4 か月から 1939 年の
年の専門学校令によって,中学校・高等女学校
14 歳まで低下している。
の卒業が専門学校(帝国大学・高等学校・(高
一方,実業補習学校や青年訓練所,青年学校
等)師範学校以外の高等教育機関)の入学の条
には教育機関としての機能に疑問がある。実業
件となった。官僚については,法科大学卒業者
補習学校は,当初は初等教育の補助機関として
は行政官僚試験では予備試験を免除されたし,
位置づけられていたのだが,1899 年の実業学
中級官僚については公立中学校卒業者に無試験
3)
校令によって中等実業教育機関とされた 。こ
任用資格が認められた。医療系の専門的職業に
れに伴い,修業年限・教科目・教授の時期・教
ついては,1905 年の医師免許規則の改定によ
授時間数等に関する規定が大幅に緩やかにな
り文部大臣の指定した私立医学専門学校にも無
り,地方の実情に合わせてこれらが定められる
試験免許が認められるようになった。中等教員
2)制度としては 1920 年から小学校五年修了で中学校への入学が認められたが,その割合は常に 1% 未満であ
り,本校の議論に定量的な影響はほとんどない。
3)実業補習学校については佐藤(1984)を参照。
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〈財務省財務総合政策研究所「フィナンシャル・レビュー」平成 28 年第3号(通巻第 128 号)2016 年 11 月〉
については,従来の帝国大学・官立高等諸学校
中等教育の時と同様に,本稿の観点から重要
に加え,1899 年に一定の条件をみたす公私立
なのは入学者の実際の年齢,教育の質,および
学校の卒業生にも無試験検定が認められるよう
留年の問題である。まず教育の質については,
になった。その他に,専門学校令によって専門
文部省によるコントロールがなされたことが確
学校学生に徴兵制上の特典も認められた。こう
認された。また,入学者の実際の年齢について
した権利が認められるに伴い,その教育機関に
はある程度の情報が存在し,どの教育機関にお
ついての入学資格や試験方法,卒業試験などが
いても 1900 年頃から 1940 年頃の間に 1 歳から
文部省によってコントロールされ,教育の質の
2 歳程度の入学者平均年齢の低下が観察され
向上と平準化が進められた。例えば 1903 年の
る。留年についての情報は少ないが,戦前の高
専門学校令以前の私立の専門学校は,専任教員
等教育機関には研究科や専攻科といった制度が
がおらず授業がパートタイムであるものが多
あり,これらが留年生を吸収したものと考えら
く,複数の学校に所属する学生も少なくなかっ
れる。
4)
た 。
Ⅲ.人的資本の計測
Ⅲ-1.就学年数の推計
という点で大きなメリットを持っている。成長
就学者の人数の計算においては,(日本帝
会計を始めるのは 1956 年からであり,就業者
国)文部省年報および学校基本統計の各年版を
として最大で 74 歳までを考慮するため,成長
用いた。戦前の教育制度については,盲唖学校・
会計に人的資本を通じて影響を与えるのは
尋常小学校(国民学校初等科)・高等小学校
1882 年(明治 15 年)生まれ世代からである。
(国民学校高等科)・実業補習学校・青年学校・
ただし,65 歳以上の就業率は大きく低下する
実業学校・中学校・高等女学校・師範学校・高
ため,定量的な影響を持つのは 1892 年世代か
等師範学校・専門学校・高等学校(高等中学
らである。後で見るように,1900 年頃から文
校)・大学・大学院・および各制度の予科(予
部省年報の様式が安定化し,性別・学年別の情
備科)・実科・別科・専修科・選科生・高等科・
報が多くなっている。1892 年世代が中等教育
専攻科・補習科・研究科等を対象とした。戦後
に進学するのは 1904 年からで,彼らについて
については,小学校・中学校・高等学校・高等
の統計はかなり整備されている。Goto and
専門学校・短期大学・大学・大学院・および各
Hayami(1999)は各学校制度の合計学生数を
5)
制度の専攻科・別科を対象とした 。文部省年
人口比で配分しているが,戦前の中等・高等教
報や学校基本統計においては日本人とその他を
育での中退率を考慮すると,より新しい世代の
区別している場合があるが,後の労働統計との
就学年数を過小評価することになり,就学年数
整合性のためこれらを区別していない。
の世代間での上昇率を過小評価することにな
既に書いたように,本稿が人的資本の分析対
る。制度的にも,1900 年の小学校令により就
象を戦後に限定していることは,データの精度
学義務を課せられる対象年齢が厳密に規定され
4)天野(1983, pp. 239-240; 1992, pp. 121)を参照。
5)西日本では戦後の新制高校においても一部で補習科が置かれている学校が存在する(した)が,データが
得られなかったため考慮していない。
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戦後日本における人的資本の計測
て おり6), こ の こ ろ に は 小 学 校 が 4 月 入 学 と
する必要がある。本来であれば年別・性別・年
なっているが,これらも就学年数の分布の計測
齢別・就学年数別の死亡率が必要であるが,そ
の精度を高めることが期待できる。学年別の
うした詳細なデータは戦前については存在しな
データがない場合,一年を入学者で,最終学年
いため,文部省編(1969)から年別・性別・年
を卒業者数で代用し,その間については一定の
齢別の死亡率を計算し,就学年数別に死亡率が
退学率を仮定するなどして対応した。また,
変わらないと仮定した。
1899 年の実業学校令,1903 年の専門学校令な
どで,これらの教育機関の教育内容・方法が法
Ⅲ-1-1.小学校・国民学校
令によって管理されるようになっている。
尋常・高等小学校については 1919 年から性
学生の実際の年齢の問題については,本科や
別・学年別のデータが存在する。それ以前につ
一部の予科・実科については「入学者従前の教
いては,1902 年から性別と学年別のデータが,
育」を用いて対応した。文部省年報では 1900
それ以前については性別のもののみが存在す
年頃より各学校制度の本科・実科や予科の入学
る。1902 年から 18 年までは,各学年の学年別
者が直前に所属していた学校種類ごとの入学者
のデータを尋常小学校就学者全体の性比を用い
7)
数が報告されている 。これと各学校種類の平
て男女に分けた。
均卒業年齢を組み合わせ,学生数を入学年齢ご
とに按分した8)。ここで用いた各学校種類の平
Ⅲ-1-2.中等教育機関
均卒業年齢が妥当なものであることを確認する
旧制中学校にも補習科が存在するが,就学年
9)
ため,「入学者年齢」と比較した 。前節に書
数は一年以内であるため,生徒を全員第一学年
いたように,学校の普及課程においては入学者
とした。実業学校については,1923 年頃以降
年齢の低下が観察されるが,これを無視した場
は性別・学年別のデータが存在する。それ以前
合にはより古い世代の就学年数を過小評価する
の時期についても,性別,学年別の別々のデー
ことになり,これは就学年数の世代間での上昇
タは存在するため,学年別学生数を全体の性比
率を過大評価することになる。選科・別科等に
で按分した。
ついては制度的に想定される標準的な入学年齢
を仮定した。研究科・専攻科・補習科・高等科
Ⅲ-1-3.高等教育機関
等については,当該学校制度本科の制度的に想
旧制専門学校に関しては,医学部等以外でも
定される標準最終学年に対応する平均年齢に 1
3 年制と 4 年制が混在していたため,研究科等
10)
年を加えた年齢で就学したと仮定した 。
の扱いは医学部等とその他を区別していない。
Goto and Hayami(1999)などにもあるよう
また,旧制医学系高等教育機関の「入学者年齢」
に,特定の時点における特定の世代の就学年数
を他と比べても大きな違いはなかったため,区
の分布を計算する際には,人口の死亡率を考慮
別せずに扱っている。
6)「学齢児童ノ学齢ニ達シタル月以後ニ於ケル最初ノ学年ノ始ヲ以テ就学ノ始期トシ尋常小学校ノ教科ヲ修了
シタルトキヲ以テ就学ノ終期トス」と定められた。
7)例えば中学校入学者については,尋常小学校卒業,高等小学校第一学年修了,高等小学校卒業,その他,
といった分類である。
8)「入学者従前の教育」,「入学者年齢」のデータがない古い年代については,データが存在する直近のものを
仮定した。「入学者従前の教育」は,1940 年から 42 年は高等教育機関のみ,1944 年は全ての教育機関で報告
がなく,1945 年から師範学校を含む大学高等専門学校のものが復活している。
9)「入学者年齢」は 1940 年(高等師範学校・女子高等師範学校は 1941 年)以降は調査が行われていない。
10)帝国大学の専攻生(京都帝国大学では専修生)には専門学校卒業の者が一定数いたことが知られているが,
系統的なデータを得ることができなかったため全て当該学校卒業者と仮定した。山本(2014)参照。
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〈財務省財務総合政策研究所「フィナンシャル・レビュー」平成 28 年第3号(通巻第 128 号)2016 年 11 月〉
戦時中は学徒動員の名のもとに学生の勤労が
の年齢を考慮したこと実業補習学校を学校教育
行われた。勤労が行われた日数分だけ就学年数
機関としていないこと,この三つが影響してい
を減少させた。
る。図 2 は 5 つの世代の男性の就学年数の分布
図 1 は本校と先行研究の 15-64 歳人口の平均
を示しているが,この結果の特に興味深い側面
就学年数を比較したものである。本校の結果は
を示している。これらの世代のうち最初の 4 つ
Goto and Hayami(1999)に比べて初期の就学
は,高度経済成長が始まった 1956 年頃に労働
年数が低く,その後の成長率が高くなっている
市場に参入・退出した世代と,それが終わった
ことが分かる。これは,太平洋戦争中の就学期
1973 年頃の参入・退出世代の就学年数を表し
間・時間の短縮を考慮したこと,入学者の実際
ている。まず,1891 年世代については就学年
図 1 平均就学年数の比較
図 2 就学年数の分布
(出所) 著者作成
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戦後日本における人的資本の計測
数 4 年が最も多くなっているが,これは 1901
テゴリーを用意している。就業者の就学年数は
年の義務教育が 4 年だったためである。一方,
下記のように推計した。まず,学歴のデータが
1936 年世代は就学年数 9 年が最も多くなって
ある年については,各学歴に対応する性別・世
おり,これは戦後に中学校教育が義務化された
代別の平均就学年数を用いた。就学者の学歴の
ことが原因である。また,この世代が 15 歳に
データがない年については,性別・世代別・就
なる 1951 年には高校進学率が 50% に近づいて
学年数別に直近・直後のデータがある年の加重
おり,大学進学率は 10% 程度に達していた。
平均を用いた。
この 2 つの世代間で就学年数が約 6 年延びてお
り,これが就業者の平均就学年数の増加に大き
Ⅲ-3.就業者の就学年数と推計
く寄与したことが分かる。1908・1953 年世代
Bils and Klenow(2000)に従い,下記のよう
の比較でも同様のことが見て取れる。1908 年
な非線形のミンサー型賃金関数を用いた。
世代は 6 年と 8 年に 2 つのピークが来ている
が,これはそれぞれ義務教育とこの時期に普及
α
lnXt = ― sit1-ψ
1-ψ
した高等小学校に対応している。一方,1953
ただし,Xt は人的資本,st は平均就学年数,
年世代は 9・12・16 年に 3 つのピークがある
t は年である。パラメータとのベースラインの
が,この世代の高校進学率は約 75% に達し,
値はそれぞれ 0.32 と 0.58 となっている。パラ
さらに大学進学率も約 25% となるなど高等教
メータの値は限界的な就学年数の増加が賃金の
育の大衆化が進んだ時期に遭遇している。ここ
上昇率に与える影響を決めるものであり,これ
でも,この 2 つの世代間で就学年数が約 6 年延
が 1 未満ということは限界的なリターンが減少
びている。しかし,この就学年数の増加は徐々
することを意味しているが,これは多くのミン
に低下していく。1981 年世代では高校進学率
サー型賃金関数の推計結果と整合的である。ま
は既に 95% 程度に達しており,また 90 年代の
た,ベースラインのパラメータの値は,例えば
大学進学率の再上昇の結果として就学年数 16
大卒(就学年数 16 年)と高卒(同 12 年)の賃
年がピークになっている。だが,2001 年頃の
金比が約 28% になるが,これは日本のデータ
参入・退出世代である 1936 年世代と 1981 世代
と近い値になっている。比較のため,より線形
を比べてみると,平均就学年数の増加は 3 年程
に近い場合としての値が 0.28 の場合も考慮し
度に低下してしまっている。更に,1994 年以
ているが,これは Bils and Klenow(2000)の
降は少子化の影響で参入世代の数が急速に減少
点推計値から二標準偏差分だけ低い値である。
(1)
していくため,就業者全体の平均就学年数への
Ⅲ-4.成長会計
貢献度も低下している。
成長会計を行うため,本稿では下記のような
Ⅲ-2.就業者の就学年数と推計
コブ・ダグラス型生産関数を仮定した。
就 業 者 の 学 歴 の デ ー タ と し て, 国 勢 調 査
(1960,1970,1980,1990,2000 年) と 就 業
θ
1-θ
Yt = AtK(X
t ht Et)
t
(2)
構造基本統計調査(1968 年から 2007 年)を用
ただし,Y,A,K,h,E はそれぞれ生産,
11)
いた 。1960 年の国勢調査は戦前の学校制度
生産性,資本,労働時間,就業者数である。こ
も考慮し,8 つの学歴のカテゴリーを用意して
れ ら に つ い て は,Hayashi and Presocott
いるが,1970 年はそれが 5 つに減っている。
(2002)と Miyazawa and Yamada (2015)の
また,就業構造基本統計調査は 3 から 5 つのカ
ものを用いた。また,パラメータの値として 0.33
11)国勢調査は 1950 年のみ就学年数を調査している。
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〈財務省財務総合政策研究所「フィナンシャル・レビュー」平成 28 年第3号(通巻第 128 号)2016 年 11 月〉
を用いた。
しており,またミンサー型賃金関数の限界的な
表 1 は成長会計の結果である。高度経済成長
リターンが逓減的なこともあり,人的資本の貢
期にあたる 1956 年から 73 年までは,日本の
献度が低下することとなっている。パラメータ
GNP は平均 9.3% と非常に高い成長率だった。
の値が 0.28 の場合も基本的には同様な結果と
このうち,資本・労働の投入量の増加が説明す
なっている。
るのは 4.0% であり,残りの 5.3% が従来説明さ
れない部分だった。非線形ミンサー型賃金関数
Ⅲ-5.非農業部門の分析
のパラメータの値として 0.58 を採用した場合,
ここでは構造変化と呼ばれる農業部門から非
このうち 1.8% が人的資本の増加によって説明
農業部門への労働人口移動の経済成長への影響
されることが分かった。一方,高度経済成長期
を分析するため,非農業部門の就業年数・人的
以降はこれらはいずれも低下してゆき,1990
資本の計測と成長会計を行った。生産関数や人
年から 2003 年の期間において人的資本の GNP
的資本関数は先ほどと同様である。
への貢献度は年平均 0.4% となっている。既に
図 3 は経済全体の就業者の平均就学年数と非
みたように,就業者の就学年数の増加率は低下
農業部門のそれを比べたものだが,高度成長期
表 1 Growth Accounting
Yt
At
K
X1
E1
t
t
t
t
= 0:58
1956{1973
1973{1990
1990{2003
9.3%
3.8%
1.3%
3.5%
0.9%
0.5%
3.1%
1.9%
0.9%
1.8%
0.6%
0.4%
0.9%
0.7%
0.1%
0.0%
-0.2%
-0.6%
= 0:28
1956{1973
1973{1990
1990{2003
9.3%
3.8%
1.3%
4.0%
0.6%
0.2%
3.1%
1.9%
0.9%
1.7%
0.9%
0.7%
0.9%
0.7%
0.1%
0.0%
-0.2%
-0.6%
1
(注) Y = AK(XhE)
; = 0:33
図 3 平均就学年数の推移
(出所) 著者作成
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h1
戦後日本における人的資本の計測
において非農業部門の方がより早くに就学年数
データを用いて,今後政策的に就業者の就学年
が上昇していることが分かる。これは,戦後特
数を増加させた場合の経済的な効果を見てみよ
に中学校が義務教育化され高校進学率が急速に
う。図 4 は,2007 年時点での各教育機関への
上昇する中で,これらの教育を受けた人たちの
進学率等が今後も続いた場合と(Prediction),
多くが非農業部門に参入したことによると考え
2007 年以降に参入する就業者全員の就学年数
られる。地理的には,これは農村から都市への
が 16 年の場合(Counterfactural)を示してい
若年者の人口移動に対応している。
る。前者の場合は長期的には就業年数は 15 年
表 2 は成長会計の結果だが,経済全体に比べ
強の値に収束するが,後者の場合は 16 年にな
て生産量もそれに対する人的資本の貢献度もと
る。この図からも明らかなように,現状の進学
もに大きくなっている。これは,経済全体で起
率でもすでに就学年数の増加は頭打ちになって
こった変化が特に非農業部門で集約されて起
おり,仮に新規の労働者が全員大学を卒業した
こったことを意味している。
としてもその効果は限定的である。仮に式(2)
においてベースラインの値を採用すると,この
Ⅲ-6.将来的な就学年数の増加の政策的評価
政策による経済成長率への貢献度は年平均
ここまでで推計した就学年数と人的資本の
0.05% にしかならない。
表 2 Growth Accounting of Nonagricultural Sector
Yt
= 0:58
= 0:28
At
K
X1
E1
h1
t
t
t
t
1956{1973
9.8%
2.5%
3.2%
2.4%
2.0%
-0.3%
1973{1990
3.9%
0.6%
2.0%
0.6%
0.9%
-0.2%
1956{1973
1973{1990
9.8%
3.9%
3.1%
0.3%
3.2%
2.0%
1.8%
0.9%
2.0%
0.9%
-0.3%
-0.2%
1
(注) Y=AK(XhE)
; =1 = 3
図 4 就学年数の政策評価
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〈財務省財務総合政策研究所「フィナンシャル・レビュー」平成 28 年第3号(通巻第 128 号)2016 年 11 月〉
Ⅳ.まとめと将来的な研究・政策含意
本研究では,第二次世界大戦後の日本の経済
究の結果は,部門間の労働人口移動が経済発展
成長において学校教育が及ぼした影響を分析
に影響を与える重要なメカニズムの 1 つを定量
し,将来的に教育政策が経済成長に与えうる効
的に示唆していると思われる。また,初等教育
果を検証した。このため,戦前世代からの就学
が普及した戦前の日本ではなく中等教育が普及
年数を推計し,これを就業者の学歴の統計と対
した戦後の日本で高度経済成長が起こったとい
応させ,非線形のミンサー型賃金関数を用いて
う時系列的な分析の結果は,Barro(1991)以
就学年数を人的資本に変換し,これを成長会計
降のいわゆるバロー・リグレッションで初等教
に組み込んで分析した。本研究から,特に高度
育よりも(男子)中等教育の方が経済成長に貢
経済成長期に就業者の就学年数が急激に増加
献するというクロス・カウントリー分析の多く
し,これが経済成長に大きく貢献したことが判
結果と整合的であり,非ミンサー型人的資本の
明した。しかし,将来的にはこの効果は限定的
関数形も含め従来の研究を別の観点から支持す
であることも分かった。
るものであると考えられる。
本研究の結果は,特に戦後の日本経済の成長
本研究にはいくつかの限界も存在する。例え
について大きな意味を持つとともに,今後の研
ば,近年では幼児教育の重要性が指摘されるこ
究の方向性も指し示している。日本の高度経済
とが多くなっているが,就学年数と人的資本の
成長に人的資本が大きな役割を果たしたとし
関係式として用いたものがこれを考慮していな
て,なぜそれが戦前の早い時期の日本で起きな
いため,本研究でも幼稚園・保育園を除外して
かったのだろうか。また,なぜ同じ時期に同様
ある。この他にも,就学年数といった教育の量
に経済成長ができなかった発展途上国があるの
的な側面だけでなく,学習達成度といった質的
だろうか。戦前との対比でいえば,教育を含め
12)
な側面も考えていない 。また,経済の発展に
た制度・政策や経済環境が大きく異なるが,教
伴って労働者に求められるスキルが上昇し,こ
育費用の私的負担が問題だったのか,それとも
れが大卒・大学院卒への需要を増やし,若年労
別の要因が重要だったのか,特に定量的な分析
働者において学歴間賃金格差が広がる可能性が
はほとんど行われていない。他国との対比につ
ある13)。本研究では,時間を通じて一定の賃金
いて考えると,教育が重要であることは十分す
格差を仮定しているため,こうした効果はとり
ぎるほど理解されているにもかかわらず,これ
いれられていない。また,本研究では学校教育
が上手く進まない国も多い。
の便益として経済的なもののみを分析している
そこで本研究では非農業部門の就業者の就学
が,現実の政策過程では非経済的なものも考慮
年数・人的資本の計測と成長会計を行ったが,
されなくてはならない。
経済全体にくらべて人的資本の貢献度がより大
きいことが判明した。古くは Lewis(1954)よ
り,経済発展における農業部門から非農業部門
への労働人口移動の問題は扱われてきた。本研
12)Hanushek(2009)参照。
13)Kawaguchi and Mori(2008),野呂・大竹(2006)参照。
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戦後日本における人的資本の計測
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