結婚について マルコの福音書9章1節~12節 2016年11月6日(日)礼拝説教 皆さん、お早うございます。 先週は、内郷教会との、講壇交換、ということで、皆さま、いかが でしたでしょうか。とても良い、メッセージを、笠川先生から、お聞 きすることが出来て、良かったと、私は、伺っております。 私にとりましても、12月25日(日)のクリスマス礼拝での、感謝 の郷の、フルート・ピアノ・トリオの演奏の、度胸・試しを、させて いただき、また、内郷教会の、昔からの友人の方々に、ご挨拶 を、させていただく、とても良い、機会となり、感謝いたしており ます。 今日は、最初、‶離婚について″という、やや衝撃的な説教題 を、先週の週報に掲載いたしましたが、結論は、正しい結婚観 についてでありますので、急遽、‶結婚について″という説教題 に、変えさせて、いただきました。 私たちの日常生活の中で、結婚や離婚の問題が、日常茶飯事 に、なっている、昨今、イエスさまと、律法学者との間のやりとり を通して、聖書は、結婚について、どう、語っているのかを、 マルコの福音書10章1節から12節までを紐解きながら、ご一緒 に、考えてまいりたいと、存じます。 最初に、ひとこと、お祈りさせていただきます。 父なる神さま、御子イエスさま、聖霊なる神さま。11月の最初の 聖日に、私たちを、このように、礼拝に招いてくださり、私たちが、 あなたに、礼拝を献げることが出来ます幸いを、心から、あなた に感謝いたします。 今日は、結婚、離婚、という、私たちの人生にとって、極めて 重要なことについて、聖書は、何を、私たちに語っているのかを、 学びます。どうぞ、あなたが、ご一緒してくださり、解りやすく、 私たちに、教えてください。感謝して、イエスさまの、尊い御名前 によって、お祈りいたします。 アーメン。 マルコの福音書10章1節。 イエスは、そこを立って、 ユダヤ地方と ヨルダンの向こう に 行かれた。すると、群衆が また みもとに 集まって来たので、 また いつものように彼らを教えられた。 それまでのイエスさまは、ガリラヤ湖から北の方面、ガリラヤ 地方を中心に、宣教して、来られました。 しかし、ヘルモン山からの美しい雪解け水が集まって、ガリラヤ 湖に注ぎ込まれている、ヨルダン川の上流、ピリポ・カイザリヤ 地方で、これから、エルサレムのゴルゴダの丘の十字架を目指 して歩み始めるために、弟子たちの特訓を終えられたイエスさま は、いよいよ、ガリラヤ湖の南、ヨルダン川中流の東側の土手 の道路を歩いて、ユダヤ地方に、入って行かれました。 その地方でも、ガリラヤ地方と同様、大勢の群衆が、イエスさま を、取り囲み、イエスさまは、それらの群衆のために、病気の 方々の癒しや、心の病や、悩みなどを、解決して、おられました。 マルコの福音書10章2節。 すると、パリサイ人たちが みもとに やって来て、 夫が 妻を 離別することは 許されるか どうかと 質問した。 イエスを ためそうと したので ある。 パリサイ人というのは、旧約聖書に記されているモーセの律法 の、番人のような、人々で、細かくて、分厚い、律法の解釈書を いつも、丁寧に、調べ上げていた、人々でした。 ‶ためそうとした″という言葉には、イエスさまの敵であるサタン が、荒野で、イエスさまを試みた時の言葉と、同じ言葉が使われ ておりますので、パリサイ人たちは、悪意を持って、イエスさま を、陥れてやろうとして、この質問を、しに、やって来たのでした。 彼らの悪意には、主に、二つの悪意が、あったようです。 一つは、当時、離婚の正当な理由について、パリサイ人の間で、 様々な説が、ありました。この質問をして来たパリサイ人たちは、 イエスさまの答えを聞いた上で、結局、イエスさまも、パリサイ 人の、或る特定の派閥に属する人間であるのに過ぎないのだ、 ということを、論証すること。 もう一つは、当時の領主であった、ヘロデが、犯していた、離婚、 再婚、近親相姦の罪について、どう、断罪するのかを聞いて、 領主ヘロデに、告訴してやろうという、もので、ありました。 マルコの福音書10章3節。 イエスは 答えて 言われた。 「モーセは あなたがたに、 何と 命じて いますか。」 パリサイ人たちの悪意を見抜いておられたイエスさまは、逆に、 パリサイ人たちに、質問を、いたしました。 「モーセは、あなたがたに、何と、命じて、いますか。」 マルコの福音書10章4節。 彼らは 言った。 「モーセは、離婚状を 書いて 妻を 離別することを 許しました。」 法律は、善悪の判断が、人間では、図りかねる問題に関して、 法律という、ルールを、便宜的に利用して、とりあえず、判断す るための、道具に、過ぎません。 ですから、絶対的な、善悪の判断を、法律に求めることは、筋 違いのことであると、言わざるを得ません。 パリサイ人たちが用いた、‶許しました″という言葉は、典型的 な、法律の規定を盾にとって、自分に都合のいい結論を、引き 出そうとする時に、用いる言葉です。 ‶離婚状″とは、当時、弱い立場にあった女性を守るための、 文書でした。 ‶離婚状″があれば、たとえ、男性から離縁されてしまったと しても、別の男性と、結婚することが、出来たのです。 また、家庭内で、弱い立場にあった、女性を、夫のDV(ドメステ ィック・バイオレンス)から、守ってくれる、女性にとって、貴重な 文書であったのです。 明治時代の日本では、‶足入れ婚″とか、‶子無きは去れ″とか が流行しており、現代以上に、離婚が、一般的であったようです。 マルコの福音書10章5節。 イエスは 言われた。 「 モーセは、 あなたがたの 心が かたくな なので、この命令を あなたがたに 書いたのです。 」 モーセは、離婚を命じたのではなく、人々の心が、かたくななの で、やむを得ず、離婚を認め、その際、離婚状を書いて、弱い 婦人の立場を、保護しようとしたのです。 人間が犯している罪の結果として、より深い罪へと、陥ってしま うことのないように、条件付きで、離婚が、許されたのです。 ところが、最近の傾向を見ていると、中には、離婚歴三回目、 四回目というのも、そんなに、珍しいものでは、なくなって来て いるような、気が、いたします。 マルコの福音書10章6節。 しかし、創造の 初めから、 神は、人を 男と 女に 造られた のです。 創世記の初め、1章27節を開いてみますと、そこには、‶神は 人を ご自身の かたちとして 創造された。神の かたちとして 彼を 創造し、男と女とに 彼らを 創造された。″と、記されて おります。 このことから、神さまは、私たち人間を、男女両性から成る人類 として、創造されたことが、解ります。 神さまが、人類を創造された時、初めから、‶男″と、‶女″と いう、二種類に、分かれていたのです。 両者の相違は、優劣にはなく、類別に、ありました。 女性の脳は、男性の脳より、ずっと広いのだと言われております。 それで、女性の方が、会話や、伝達能力に優れているようです。 それに対して、男性の脳は、女性の脳より、ずっと細いのですが、 深く、また、長いのだと、言われております。 それで、男性は、物事のプロセスよりも、解決策を求め、深く、 考え込むことが出来るのだと、いうわけです。 この、男性と、女性とが、共に、相働いて、人類は、ここまで、 発展して来たのです。 マルコの福音書10章7節。 それゆえ、人は その父と 母を 離れ、 ここで、イエスさまは、どうしたら、離婚成立が可能かという話題 から離れて、結婚とは、本来、何なのか、ということに、観点を 移しておられます。 創世記2章18節を開いてみますと、そこには、‶人が、ひとりで いるのは 良くない。わたしは 彼のために、彼に ふさわしい 助け手を 造ろう。″と、記されております。 ‶人が、ひとりで いるのは 良くない″とは、‶人が、孤立して いるのは、良くない″ということなのです。 次の創世記2章20節には、‶しかし、人には、ふさわしい助け手 が 見つからなかった。″と、記されております。 さらに、創世記2章21節には、‶神である主は、深い眠りを、 その人に、下されたので、彼は眠った。そして、彼の あばら骨 の一つを取り、その ところの 肉を ふさがれた。″と、記され ております。 ここから、私たちは、二つのことを、学びます。 一つは、私たちには、自分では埋めることの出来ない、欠けが、 ある、ということです。 もう一つは、私たちには、私たちが深く眠っている間に、すなわち、 自分では、意識していない間に、自分のパートナーである、 配偶者が、育まれている、ということです。 そして、何か、超越的な力によって、その配偶者が、自分の目 の前に、連れて来られる、ということなのです。 このことを、教会では、‶摂理″とか、‶導き″とか、呼びます。 創世記2章23節には、‶人は言った。「これこそ、今や、私の 骨からの骨、私の肉からの肉。″と、記されておりまして、自分 から奪われて、欠けていたような存在、‶私の骨からの骨、私の 肉からの肉″が、回復されたことを、神さまに向かって、喜び、 感謝し、叫んでいる、様子が、記されております。 しかも、この喜びは、自分の自由な選びと決断の結果、配偶者 が、与えられたことを喜ぶ、表現となって、いるのです。 マルコの福音書10章8節。 ふたりは 一体と なるのです。 それで、もはや ふたりではなく、 ひとり なのです。 夫と妻とは、心と身体の全体をもって、お互いに、参与し合い、 結婚を通して、神さまの創造の、みわざを、完成させるのです。 結婚において、二人が、ひとりとされ、その新しい、‶ひとりの人″ で、すなわち、ふたりの一致協力によって、神さまが、望んで おられることを、信仰をもって、受け留め、新しい家庭を築き上 げて、行くのです。 マルコの福音書10章9節。 こういう わけで、 人は、神が結び合わせたものを 引き離しては なりません。 」 神さまは、男だけを、人として 造りたもうたのではなく、女だけ を、造りたもうたのでもなく、男と女とが、合わさって、人間となる ように、人を、造りたまいました。 それゆえ、男と女との、真実な、全人格的な、全生活的な結合 が、必要なのです。 ふたりは、もはや、ふたりではなく、‶ひとつの肉体″なのです。 だから、神さまが、結び合わせたものを、人は、引き離しては、 ならないのです。 マルコの福音書10章10節。 家に 戻った 弟子たちが、 この 問題について イエスに 尋ねた。 その日の、パリサイ人たちと、イエスさまとの、やりとりを聞いて いた、イエスさまの弟子たちは、その夜の、ねぐらに戻った後で、 イエスさまに、昼間の、あの、やりとりは、一体、どういうことで あったのかを、イエスさまに、尋ねました。 イエスさまは、このようにして、弟子たちを訓練していたのです。 マルコの福音書10章11節。 そこで、イエスは 彼らに 言われた。 「 だれでも、妻を 離別して 別の女を 妻に するなら、 前の妻に 対して 姦淫を 犯すのです。 奥さんと離婚して、別の女の人と結婚した場合には、その男の 人は、前の奥さんに対して、姦淫の罪を、犯したことになるの ですよ、と、イエスさまは、弟子たちに、教えられました。 イエスさまの時代には、こんな、離婚と結婚が、大流行していた ようです。 日本の明治時代にも、大流行しており、今でも、そんなに、珍し いことでは、ないのかも、しれません。 どうして、イエスさまは、こんな、厳しいことを、仰って、おられる のでしょうか。 マルコの福音書10章12節。 妻も、夫を 離別して、 別の男に とつぐなら、 姦淫を 犯しているのです。」 現代は、このようなケースが、結構、増えていると、先日、或る 行政書士の方が、仰っておられました。 女性が、自立して、自分で生計を立てることの出来る社会が 到来している、という、良いケースなのかも、しれません。 或いは、男性側に、生活費を稼いで行く、自信が失われつつ あることの、現れであるのかも、しれません。 しかし、最も重要な、問題点は、配偶者を選ぶ時点で、私たち には、自由意思が、与えられていることに、起因しているのかも しれません。 自分の自由意思、すなわち、自分の好みや趣味に合った、配偶 者を選んでいると、このような、危険が、含まれていると、私たち は、警戒しておいた方が、良いのかも、しれません。 イエスさまが、私のために、自分の知らないところで、用意して おいて、くださっておられる、配偶者は、一体、誰なのか。 そのことを、真剣に、イエスさまに、祈り求めて行く、必要性を、 強く、感じます。 お祈りさせていただきます。 父なる神さま。御子イエスさま。聖霊なる神さま。 みことばを、ありがとうございました。 あなたの、ご栄光を、賛美いたします。 私たちに、与えられている、配偶者、或いは、私たちに、与えら れようとしている配偶者を覚えて、祈ります。イエスさまの、尊い 御名前によって、お祈りいたします。 アーメン。
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