仏教 企画 偶感あれこれ 2 号 46 発行日│ 平成29年1月1日 発行所│有限会社 仏教企画 〒252-0113 神奈川県相模原市緑区谷ケ原2-9-5-5 Tel.042-703-8641 Fax.042-783-0989 発行人│21世紀の仏教を考える会代表 ㈲仏教企画代表 藤木隆宣 Email │[email protected] ぶ ん じ ん ぼ っ か く ひょう ひょう ひょう ひょう こ ﹁指を折って一人二人三人と 数えてみると、古くからの友 人は、亡くなった人の方が数 多くなってしまった﹂ 曹洞宗の僧であった良寛さ まは、文人墨客は言うまでも なく、一般の人びとからもよ く知られ親しまれた仏教者で ある。現に各種メディアにし ばしば出てこられる。 どうして良寛さまは現代を 生きる人びとの心を惹きつけ るのであろうか。いろいろな 見方があろうが、私が感じる のは何物にも何事にも囚れな い、実 に﹁ 飄 々 と し た ﹂生 き 方 で あ る。 人 を 評 す る の に ﹁彼の人は 飄 々 乎として生き ぬいた﹂などと表現するが、 ﹁飄々﹂は①﹁風が吹く音。風 に吹かれて翻るさま﹂や、② ﹁足下のふらふらして定まら ないさま。当てもなくさすら こうべ う ち か な り や うさま ﹂そして③﹁ 世俗にこ 方・感じ方は、言わば多くの だわらず、超然としてつかみ 日 本 人 の 人 生 観︵ 感 ︶の 基 調 どころのないさま﹂を意味す 低音のようなものではなかろ る︵﹃ 広 辞 苑 ﹄︶ 。 良 寛 さ ま は ま うか。 さに③の生き方であったとす ることに大方異論はあるまい。 ﹁夢﹂ が好きな日本人 良 寛 さ ま は 天 保 二 年︵ 一 八 三 一 ︶一 月 六 日 に 七 十 四 歳 で 遷化された。雪国︵新潟県︶に 良寛さまが多くの人に敬愛 生まれ雪国に死した良寛さま され続ける理由の一つは、師 は、当時としては長生きされ が 人 生 を﹁ 夢︵ の よ う な も の ︶ ﹂ た方であると言えよう。当時 と見ていたからではなかろう の日本人の平均寿命は五十歳 かと記した。そして日本人は 良寛さまの和歌から 前後であったろうからである。 夢が好きな民族と言えよう。 ﹁ 人 生 五 十 年 ﹂と い う 言 葉 は、 本当にそうであろうか。こ 昭 和 二 十 年︵一九四五︶頃 ま で れを証明するのはとても難し 手を折りて は常套句であった。七十歳を いのであるが、まったく手が 昔の友を数ふれば 超えた人の目に﹁なきは多く ない訳ではない。ここでは日 なきは多くぞ ぞなりにけるかな﹂と映った 本人の多くが好んで口にする なりにけるかな 良寛 のは、しごく当然であったで 流行歌、演歌を取りあげてみ よう。テキストは野ばら社刊 あろう。 良寛さまが多くの人に慕わ の﹃愛唱名歌﹄平成十七年︵二 れる理由の一つに、師が人生 〇〇五︶である。この本には明 を﹁夢﹂ ︵のようなもの︶ ﹂と捉え 治、大正時代から昭和時代ま ていたことを挙げることがで でに歌われた唄が曲を付して 掲載されている。 きるのはあるまいか。 私が幼児であった頃に、あ ﹁ゆめの世に かつまどろみ てゆめをまたかたるもゆめも んちゃんたちやねえちゃんた ︵ 本 来 夢 で ちが口にしていた実に懐かし それがまにまに﹂ あるこの世に在って、さらにまどろ いものが多い。明治から昭和 んで見る夢を語ること自体も夢であ までの時代は概して﹁戦争の 時代﹂であったが、本書には 残した。 るから、夢のままに生きよう︶ ちなみに野口の﹁黄金虫は ﹁六十四年、夢裏に過ぐ、世 言わゆる﹁ 軍歌 ﹂は載ってい 金持ちだ 金蔵建てた蔵建て 上の栄枯は、雲の往還﹂ ︵六十 ない。以下引用する歌の夢の た 飴屋で水飴買って来た﹂ 四年の人生は夢のように過ぎ去った。 字 に は﹁﹂を 付 し て お く こ と や北原の﹁雨は降る降る 城 世間の栄枯盛衰は雲の往き還りのよ にする ﹁うさぎ追いしかの山 小鮒 ヶ島の磯に 利久ねずみの うなものだ︶ 、そして西條の﹁唄 ﹁ 首 を 回 ら せ ば 五 十 有 余 年、 つりしかの川﹁ 夢 ﹂はいまも 雨が降る﹂ を忘れた金糸雀は 後の山に 是 非 得 失、 一 夢 の 中 ﹂ ︵振り返 め ぐ り て わ す れ が た き 故 ってみるとこの五十年余り、世間に 郷 ﹂ ︵ ﹃尋常小学唱歌︵六︶ ﹄ 、大正 棄てましょか いえいえ そ 起こるさまざまな出来事は、夢のよ 三 年︵ 一 九 一 四 ︶ 。 作 詞 高 野 辰 れはなりませぬ﹂は、今日で うなものである︶ 之・作曲岡野貞一で、高野は も名作とされテレビでもしば ﹁ 人 生 と は 夢︵ の よ う な も の ︶ 野口雨情や北原白秋、西條八 しば放映されている。重ねて に ほ か な ら な い ﹂と い う 見 十らとならんで多くの名歌を ﹁ ち な み に ﹂だ が、 駒 澤 大 学 通 信 佐々木宏幹 駒澤大学名誉教授 第46号 仏 教 企 画 通 信 平成29年(2017年)1月1日 1 せ ん だ ん り ん みなぎ 校歌の﹁新人立てり立てり 竹は波うつ 晴れたりこの空 こ の 我 駒 澤 漲 る 緑 は 光 と 渦く 旃檀林旃檀林 時代は 正しく飛躍し来たれり 捉え よ輝くこの現実 我等が校旗 は雲と起れり﹂は北原白秋作 詞、山田耕筰作曲である。 なんとも素晴らしい歌詞で あり曲ではないか。この歌詞 と曲には人をして深く感動さ せる力があると思う。自分の 母校の校歌だからということ 駒澤大学 昭和43年(1968)雪の日1・2号館(駒沢大学120年史より) ふ け ま ば もあろうが、それだけでは決 の時期は記されていない。こ 当しよう。 住んでいる横浜市青葉台はか んと長付合いを続けたことも してない。なぜならば、私は こでは﹁夢﹂は﹁ひととき﹂だ 勇 ま し い﹁ 軍 歌 ﹂の 時 代 が つて緑の多い静かなところで ある。現在、よく通ったそば 早稲田大学の﹁ 都の西北 ﹂や からこそ燃えようとしており、 終わって二年、日本人の誰し あった。いま高所に立って眺 屋は経営者が替わり、お寿司 明治大学の﹁ 白雲なびく ﹂を さきの分類の②と④に当たる もがホッとすると同時に食べ めると、その頃の風景はすっ 屋はどこかへ去り、I先生は 耳にしても同じような感動を だろう。 る物にも着るものにも事欠く かり消えてしまった。どこも 亡くなられた。 緑が多く人家も疎らであっ 覚えるからである。凄い作品 ︿ 3﹀ ﹁ 白 雲 な び く 駿 河 台 悲惨な日々であった。そうし かしこも家、家そしてビルで はやはり凄いのである。 ﹁夢﹂ ⋮⋮﹂明治大学校歌の三番に た辛く暗い現実を吹き飛ばす あ る。 こ の 状 況 を 目 に し て た静かな青葉台はこの五十年 に戻ろう。 ﹁時代の﹁夢﹂を破るべく 正 ように歌われたのが、明るく ﹁青葉台は発展した﹂と見るか、 間に大きく変わった。バブル ︿ 1﹀ ﹁ あ あ 玉 杯 に 花 う け て 義 の 鐘 を う ち 鳴 ら さ ん 明 て軽快で、未来への憧憬を籠 ﹁ 青 葉 台 は 住 み 難 く な っ た ﹂ 期 の 頃 に﹁ 高 級 住 宅 地 青 葉 と捉えるか、人さまざまであ 台﹂などとメディアが宣伝し ︵ 児 玉 花 外 作 詞・山 田 耕 筰 作 曲、 めたこの歌であったように思 緑酒に月の影やどし 治安 治 ﹂ の﹁ 夢 ﹂に 耽 り た る 栄 華 の 時期の記述なし︶ ろう。 たことも一因であると指摘す 。ここでの﹁夢﹂ う。 東急田園都市線が敷かれて る人もいる。バス通りの両側 巷低く見て 向が岡にそそり は④を指しているように思う。 唐突な話になるが、道元禅 立つ 五寮の健児意気高し﹂ 日 本 人 が﹁ 夢 ﹂の 語 を 好 む 師も﹁ 夢 ﹂について述べてお から、この地は徐々に、そし には点々と住居が建ち並び緑 られる。 ﹃正法眼蔵﹄に﹁夢中 てある時期から急激に都市化 に富んでいた地は、家々がぴ ︵ 矢 野 勘 治 作 詞・楠 正 一 作 曲、 明 治 という傾向は外国の詩や歌の ﹁ 夢 の 中 した。私が移り住んだ頃は、 ったりと接しているところと 三十五年︵一九〇二︶ ︶ 。有名な旧 翻訳にも表れている。たとえ 説 夢 ﹂の 巻 が あ る。 制一高の寮歌﹁ああ玉杯に花 ば シ ュ ー ベ ル ト の 子 守 唄 は で夢を説く﹂とは、一体どう 商店もレストランも病院も数 なり、道の両側に樹木や植込 少なかった。当然ながら人間 みはほとんどなくなった。私 うけて﹂である。この歌も凄 ﹁ 眠れ眠れ母の胸に 眠れ眠 いうことであろうか。 禅 に は﹁ 夢 幻 空 華 ﹂と い う 関係は密であった。商店の店 がかつてお付合いをし、立ち い歌であり、年輩の人は自分 れ母の手に こころよき歌ご ﹂ 語があり、意味は﹁存在する 主、そば屋やレストランの店 話をした人たちの多くはこの も歌ったか、他人が歌うのを えに 結ばずやたのし﹁夢﹂ 耳にしたであろうほど、よく であるが、ドイツ語の原文に ように見えるが、実際には存 員やマネージャー、病院の医 世を去り、存命していても老 在しないことのたとえ﹂とさ 師とは互いに知已の間柄にな 人ホームに入ったり、転居し 知られている歌である。ここ ﹁ 夢︵ ︶の 語 は ど こ に も Traum ﹁ 余 計 な 話 ﹂を す る 余 裕 たりで、散歩していても挨拶 での﹁ 夢 ﹂は良い意味で用い な い。訳 者 が 勝 手 に﹁ 夢 ﹂を れる。これにたいして道元禅 り、 師 は、 ﹁ 夢 ﹂も 尽 十 方 界 真 実 があった。駅近くにあった一 する人はほとんどいなくなっ ら れ て い る 訳 で は な い。 ﹁ 安 加えたのである。 定した社会にのうのうと生き アメリカ民謡の﹁峠のわが 人 体︵ あ り と あ ら ゆ る 世 界 は そ の 杯飲み屋の主人は話好きな人 た。病院も増えたが、どこも ていることを﹁ ﹁ 夢 ﹂に耽る ﹂ 家 ﹂は﹁ 角 笛 は こ だ ま す る まま仏の姿であり、仏性の顕現であ で、客が誰もいな として批判的に見ているから 山 の か な た に わ が﹁ 夢 ﹂は ること︶であり、真実の世界で くなっても相手を で あ る。 ﹁ 夢 ﹂は 多 義 性 を も 虹のごと きらめき揺れるよ あるとされた。仏教の悟りの してくれた。 I医院の院長さ つ語で、①睡眠中にもつ非現 あ あ 楽 し き わ が 家 ﹂ ︵ 藪田義 視座に立てば、現実世界の在 実的な錯覚または幻覚、②は 雄訳、時期の記述なし︶である。 りようはすべて仏の姿であり、 んには大変お世話 かない頼みがたいもののたと この歌にも原文には﹁ 夢 ﹂の ﹁ 夢 ﹂も 例 外 で は な い と 言 う になった。どこか 具合が悪くなると え、③空想的な願望、④将来 字は見られない、 ことであろう。 実現したい願い・理想などを ︿4﹀太平洋戦争敗戦︵一九四 表現の形式から見ると、か 訪ねるのはI先生 意 味 す る︵﹃ 広 辞 苑 ﹄︶ 。 さ き に 五、 昭 和 二 十 年 ︶後、 ま だ テ レ つて流行歌として大はやりし であったからであ 挙 げ た 旧 制 一 高 の 寮 歌 の ビがなかった頃に大流行した た﹁喜びも悲しみも、みんな る。先生を訪ねる ﹁ 夢 ﹂は ② ま た は ③ に 当 た る のが﹁ 山小舎の灯 ﹂であった。﹁夢﹂のなか﹂によく似ている と必ず口に出るの ﹁悟りの視座﹂と﹁世間の は﹁ 今 日 は ど う さ と言えよう。 その三番は﹁山小舎の灯は が、 ︿ 2﹀ ﹁ 都 ぞ 弥 生 の 雲 む ら さ 今宵も点りて 独り聴くせせ 視座﹂とは大違いであること れました﹂という きに⋮⋮その春暮れては移ろ らぎも靜かにふけゆく あこ には厳しく止目する必要があ 言葉であった。先 生は東大医学部出 う 色 の ﹁ 夢 ﹂こ そ ひ と と き がれは若き日の﹁ 夢 ﹂をのせ ろう。 の内臓外科医であ 青き繁みに 燃えなんわが胸 て 夕べ星のごと み空に群 消えゆく ったが、患者たち 想 い を 載 せ て ⋮⋮﹂ ︵ 横 山 芳 介 れとぶよ﹂ ︵米山正夫作詞・作曲、 とはよく話す方で 作詞・赤木顕次作曲 ︶ 。こ れ も 有 近江俊郎歌︵一九四七・昭和二十二 思い出の人と場所 あった。待合室で 名な北海道大学寮歌﹁都ぞ弥 年 ︶ ︶で あ っ た。 こ の 歌 で の 生 の ﹂で あ る が、作 詞・作 曲 ﹁ 夢 ﹂は ま さ し く ③ と ④ に 相 五十年近くなろうか、私が 知りあった患者さ お寺は地域社会の 核になれるか 混んでおり、先生︵医師︶と余 計な話などできる状態ではな くなった。平屋建てや二階建 ては姿を消し、代りに、コン クリートの五・六階建ビルが 多くなった。 私の目には青葉台は﹁住み 難いところ﹂となった感があ る。毎朝駅に向かうサラリー マンたちは颯爽としているが、 こちらはしょぼしょぼである。 去年、今年とこの世を去った 友人、同僚は少なくない。往 時を想うと寂しさがこみ上げ て く る。 こ れ を﹁ 無 常 感 覚 ﹂ と言うのであろうか。良寛さ まの気持ちがよく分かる気が する。再び冒頭に引用した歌 を記そう。 手を折りて 昔の友を数ふれば なきは多くぞ なりにけるかな 出雲崎の良寛さま う ち や ま たかし 内山 節 た地域通貨でいいのだろうか それは、それぞれ地域が特徴 ながら活動をしております。 きゅう ま た い こ う という問題意識を持った人た 的に持っている生活様式であ 年に一回、ローカルサミット 久間泰弘 ったり、豊かさの指標である というものをやっていまして、 ちです。 ひ ら こ た い こ う 自然とか、人々の関係性であ 今年は倉敷で第九回目を行い 平子泰弘 私自身も九八年に日銀を辞 よ し ざ わ や す ゆ き めたときの思いとして、どう ったり、そういったものをも ます。どうも政府の流れとは 吉澤保幸 も戦後の護送船団的な上から う一回よみがえらせることこ ちょっと違う世界を、きちん 司会・藤木隆宣 地域の中で地域をつなぐ場所として存在してほしいと、 目線の金融に対して、ある意 そが日本を変える動きになる と足元から見ていかないと駄 今、寺院としての役割が求められている 味では国民がそれでいいのか のではないか。それをわれわ 目だということで活動をして という問いを投げつけたとす れは﹁ 場所文化 ﹂と呼んでい いる、そんなことでございま う、そういう意味では極めて れば、もう一回金融というも るわけで、私もそういう地域 す。 藤木 今日は哲学者の内山先 思っています。 日本的な人間でございます。 のを自分の手に取り戻したい、 の活性化に半分かかわって、 生、地域の活性化ということ 中学は地元、高校も新潟で ボトムからもう一回金融をつ 十数年続いております。 でご活躍の吉澤さん、曹洞宗 地域に埋もれている 宗勢総合調査と したが、東大法学部を出て、 むぎ直したいなと、そうしな 場所文化ということでは、 総合研究センターの平子さん、 資源を掘り起こす 復興支援活動と 昭和五十三年に日銀に入りま いと日本の金融機関は駄目に 一番目に見えるものは食文化 同じ曹洞宗のなかで福島の復 興支援室分室主事を務めてお 藤木 吉澤先生はいろいろな した。ちょうど二十年勤めた なる、そんな問題意識もあっ といえます。そこで食文化を 藤木 平子さんは曹洞宗総合 られる久間さんという四人の 団体の役員をやっておられ、 ところで山一証券の特融とい たんです。お金が自分たちの 東京のど真ん中で体感できる 研究センターの研究員を務め 方 々 に お 集 り い た だ き、 ﹁ お あるいは市の政策参与なんか う、金融危機の最後の始末を 目の前できちんと自分たちの ような場所をつくろうと、二 ておられますが、そこではど 寺と地域社会﹂というテーマ も務めておられますけれども、 やったときに、大蔵省と日銀 ものとして回る、いわばお金 〇 〇 七 年 六 月 に﹁ と か ち ういうことを目指されている でお話合いいただければと思 その前は日銀におられた。日 をめぐるスキャンダルがいろ に命を宿すような、そういう の・・・﹂と い う お 店 を 開 き、 のか、また群馬県安中の桂昌 っております。早速ですが、 銀を中途退職されて、こうい いろあって、その責任を取っ 使い方がないものかどうかと 二 〇 一 〇 年 に は﹁ に っ ぽ ん 寺さんのご住職でもいらっし の・・・﹂と い う お 店 を 開 き ゃるので、今のお話の地域資 内山先生は群馬県の上野村に う活動に入られたわけですが、 て日銀を辞めました。そうし いうことですね。 お住まいになって、遠くは鹿 その辺のところ、自己紹介を て普通の社会人になると、何 そういうことを仲間たちと ました。これは都市と地域の 源ということでは、お寺には 児島とか、近くは高崎とか、 兼ねてお話しいただければと も手に職がついていないわけ 語 り 始 め た の が、 わ れ わ れ 相互がきちんと対等にかかわ 資源があるのかどうか、ある で、社会人の大学院に二つほ ﹁ 場 所 文 化 フ ォ ー ラ ム ﹂と い り合うような場所づくりをし いは資源があるとすればそれ いろいろなところで講演をな 思います。 さっておられます。先生に対 吉澤 私は昭和三十年、新潟 ど行きながら、税理士の資格 う任意団体を立ち上げるきっ たいと、それを補助金じゃな が活用されているのかどうか、 して、お話の内容ということ 県の高田に生まれまして、お を一応は取りました。ところ かけとなりました。今は一般 くて、自分たちのお金で支え 今日はそんなところもお話し で何か注文というようなもの 寺の宗派で申しますと浄土真 が、今ほとんど税理士の仕事 社団法人になりましたが、二 られるような、そんな仕組み いただければと思います。 はあるのでしょうか。 宗大谷派になります。ただ、 はしておりません。一つは雑 〇〇三年に発足した時は任意 づくりで活動しているという 平子 曹洞宗総合研究センタ 内山 僕の場合は、何でもあ 最近は高野山で私の関係する 誌・チ ケ ッ ト の﹁ ぴ あ ﹂と い 団体で、商工会議所の青年部 ことでございます。月の半分 ーというところは研究から実 、そ こ の 株 式 上 場 の の仲間たち、というのはいわ ぐらいは、関係する地域に行 践まで、何でもやっていると りみたいな感じですね。経済 団体の大会を行ったりして、 う 会 社、 問題から多少国際問題に近い 真言宗の方とのお付き合いも 手伝いをする過程でかかわり ば地域の中小企業の二代目と ったり来たりしながらやって ころでもあるのですが、私は 学生時代にインド仏教を専攻 もの、それから物の考え方み でき、また金峯山寺、修験道 はじめて、今もぴあの役員を か三代目になりますが、そう おります。 いう連中が全国の地域を元気 そうした過程で内山先生と していましたので、そちらを たいなものから環境問題があ の総本山ですね、その田中利 しております。 ったり。ただ今日の、地域を 典長老ともご一緒したりとい 一方で二〇〇二年ぐらいに、 にしようと、どうしたら地域 面識を得て、また別のNPO 専門としながら宗学もやり、 たまたま地域を元気 が活性化するかということに の活動でもご一緒することに また現代的な問題も課題とな どういうふうにつくるかとい なり、それこそグローバル資 りますので、いろいろなプロ にしたいという仲間 かかわっているわけです。 うテーマは、今かなり広くい たちと知り合いまし どうも東京というのは、札 本主義が抱えている問題をど ジェクトにかかわらせてもら ろいろな人たちの共通関心に た。その当時から、 束ですべて賄えると思ってい うやって解決していくかとい っています。その一つに、十 なっています。これからどう 地域通貨というもの るけれども、実は地域によっ うような議論もお話しさせて 年毎に行う宗勢総合調査があ いうふうに地域をつくってい が地域を活性化する て支えられているのであって、 いただいています。最近は大 ります。永く佐々木宏幹先生 ったらいいか、それは自分た 一つの手段になるん その一方で地域には何もない 学生や高校生とも少しずつ語 に指導していただいているも ちがどう生きていったらいい じゃないかといわれ と思われているけれども、地 り合いをして、教育といった のですが、曹洞宗の各寺院が かということに共通している ていましたが、でも 域に埋もれている、今の言葉 問題も、どうとらえていくか どんな状況にあるかというこ のかなという感じがしますが、 本当にその当時考え でいうと地域資源があります。 ということの問題意識を持ち とを調べ、そこから曹洞宗全 具体的なテーマはさまざまと 内山節 出席者(五十音順) 2 平成29年(2017年)1月1日 仏 教 企 画 通 信 第46号 第46号 仏 教 企 画 通 信 平成29年(2017年)1月1日 3 とだと思います。それぞれの 体が社会の中でどういう状況 ちらの復興支援室分室の主事 被災地または被災者の方々が 住職を見る目も変わ 今何を求めているのか、何が ってくると思います お寺の状況でできること、で にあるかということを分析さ を務めております。 宗 内 で す と、 寺 院 の 復 興 必要なのか、何ができるのか が、その辺どうでし きないことがあるでしょうし、 せていただいております。 等々は制度上の問題もありま ということについて、日々頭 ょう、平子さん、お それぞれの住職の資質もある 紹介いただいたように群馬 でしょうから、必ずどこの誰 県安中市にある寺院に生まれ すが、分室に限って言います を悩ませながら活動を続けて 感じになっていらっ しゃるところがあれ でもできるというものはない まして、そこの住職になって と、地域の復興について、一 いるということです。 伊達市は地震とともに放射 ば。 かもしれません。しかし、い 十年ぐらいになります。ただ、 般の方と一緒になって僧侶宗 ろいろな取り組みを知ること 平日は研究センターへ出て参 教者が復興支援活動に従事し 能被害が非常に大きくありま 平子 宗勢調査では で、うちでもやってみようか りますので、土日だけの住職 て い く と い う こ と に な り ま して、私の住職地もかなりの 住職に答えてもらっ 、私 た ち は 現 地 で 困 っ て 広範囲が特定避難勧奨地点に ていますので、住職 なと考えられると思います。 でして、檀家さんに理解して す。 もらいながらやらせてもらっ いる方々に対し、または何か 指定されて、今でも避難生活 の目から見たお寺の状況や意 との結果でした。さらにここ 最後はそれぞれの住職のやる ています。そこでの住職とし しら地域の復興に役立つよう をされているお檀家様がおり 識などのまとめになります。 に挙げたものが、寺院の持つ 気というか、その気がないと ての目線と、研究員としての にと、協力をさせていただい ます。ですから震災以前に比 それだけでは住職の目を通し 現在の役割であり、今後もそ 始まりませんし、続かないと べると、正直なところ寺院の た一方的、一面的なところし ういった役割を果たしてほし 思いますので、そういう意識 目と、両方に重点を置いて、 ているということです。 指摘をしたり、提案をしたり その前に、二〇一一年三月 いわゆる仏業とか檀務という か見えてこないだろうとの議 いとの声が一番多かったわけ を喚起していこうという動き ということができればいいな のときには、曹洞宗には全国 ものはだいぶ減少しつつあり 論になりまして、二〇一二年 です。これらの結果はある意 に今なっているところだと感 と思っています。現場からす 曹洞宗青年会という、北海道 ます。ただ、そういった中で に檀信徒さんがお寺や住職の 味、ありがたい声として受け じています。 れば、研究どおりには行かな から鹿児島まで、約三千人の も坐禅会とか、また梅花とい ことをどんなふうに思ってい 取らなければいけないでしょ 藤木 私なんかも曹洞宗の一 いという現実もあるので、そ 会員を集める任意団体の会長 うご詠歌ですね、そういった る か を ア ン ケ ー ト 調 査 し、 う。 員ですけれども、宗派を運動 んな現場と研究と、どっちつ を務めているときに大震災が 活動を、こういう時期だから ﹃曹洞宗檀信徒意識調査報告 こうした声に続いて寺院の 体として動かしていくために かずといわれるかもしれませ 起こったものですから、即時、 こそやめないで続けたいとい 書﹄としてまとめました。各 今後の役割として大きかった はそこに一工夫ないと、具体 んが、両方に足を置いてとい 伊達へ戻り、現地本部を立ち う方もおられますので、そう 地域の教区長老師にお願いし のが、地域の中で地域をつな 的になっていかないような気 う立場で務めているようなと 上げて、それから全国の仲間 いったところに月何回かの教 まして、檀信徒さんのいろい ぐ場所であってほしい、ある がします。 とともに活動を継続している 化活動を住職としてお務めを ろな年代、二十歳代から高齢 いは地域を代表する場所とし ころであります。 平子さんからご紹介いただ 藤木 ありがとうございます。 わけです。二〇一三年五月か させていただいているという の方まで、男女さまざまな人 てあってほしいとの回答でし いた﹃一寺院一事業の手引き に回答をお願いしたわけです。 た。地域の中において地域や ﹁生き生き寺院﹂入門編﹄です 具体的なお話はこれから伺う ら復興支援室は宗務庁本部の のが現状です。 住民を結び付け、あるいは地 が本を配るだけでは運動体に として、もうお一人、福島か ほうに全体的に移管されまし 今、端的におっしゃってい らおいでいただきました久間 たので、その後は支援室分室 お寺に求められるのは ただいたように、お寺として 域全体を引っ張っていってく は育っていかないと思います。 さん、現在、東北の復興支援 の現職にあるということにな の役割、お寺に何を求めるか れるような存在として期待さ 宗門にとって大事な事業であ 第一に仏事 でご活躍の一方、やはりお寺 ります。 というと、第一には仏事です。 れているということです。こ ればどのように展開するかま のご住職もなさっておられる。 分室の支復興支援活動とい 藤木 先ほど平子さんからお お葬儀、法事をきちんと行っ のような地域における今後の で企画して進めていただきた その辺の支援活動も含めて、 うのは常に受け身の姿勢でし 話があったように、曹洞宗で てほしいということ。その一 活動が求められていることを、 いと思います。 地域社会の問題点といったと て、その多くは地域住民や、 は十年に一度、宗勢調査をや 方で十年ぐらい前からでしょ 檀信徒さんからの声として確 内山先生からご覧になって、 お寺というのはどういうふう ころをお話しいただければと 行政・社会福祉協議会の方々 っております。これは佐々木 うか、寺院における社会的な 認できたと思っています。 からの要請で出掛けていくこ 先生からお聞きしたことです 活動への期待が、公益法人化 藤木 そういった宗勢調査で に映っているでしょうか。 思います。 久間 私は今お話があったよ とになります。今回の東日本 けれども、檀家さんのニーズ 改革の流れの中で論じられま 出てきたものを、どんなふう 内山 僕も祖父が曹洞宗の僧 うに、福島県の県北部に位置 大震災はこれまでの震災と大 というのは、しっかり仏事を した。そういったことも含め に具現化されていこうとして 侶でして、名古屋のお寺です ﹁ お 寺 に 求 め ら れ る 社 会 いるんでしょうか。 する伊達市で住職をさせてい きく違い、行政と宗教の垣根 務めてもらいたいというのが て、 けれども、永平寺で修行した ただいております。それに東 が非常に低くなったというか、 第一であると、供養をしっか 的 な 活 動 は 何 だ と 思 い ま す 平子 先日、宗務庁から配布 僧侶だったんですね。父が長 日本大震災の被災三県と言わ 言ってみるとボーダーレスと りしてほしいということだそ か﹂とのたずね方をしました された資料﹃一寺院一事業の 男でしたから跡を継ぐ話があ れ て い ま す、 岩 手・宮 城・福 いうより歩み寄り、融合を見 うです。しかし、これから時 が、それでもやはり、お寺に 手 引 き﹁ 生 き 活 き 寺 院 ﹂ ︵ 入 門 ったようですけれども、途中 島の復興支援活動、そのボラ せたというところがあると思 代が変わって、人もどんどん まず求めたいのは仏事であり、 編︶ ﹄でもご覧いただけるよう から違う方向に行っちゃって、 ンティア活動のセンターが福 います。そういったところで、 変わってくるでしょう。だか 葬儀であり、年回法要であり、 に、各寺院でさまざまな取り 父の弟に当たる、僕から見れ 島市の駅前にありまして、そ お互い提案をし合いながら、 らお寺を見る目も、あるいは あるいは仏教的な行事である 組みが可能でしょうというこ ば叔父さんが跡を取ったわけ です。ところが、そのまた息 村を出て、例えば東京に住み もあるでしょう。しかし、そ な、そういう発想だと思うん 子が跡を継がない、というこ つくとか、そういうことはあ ちらが先行したのではなくて、 です。 とでお寺は続いておりますけ るでしょうが、村にいれば何 地域のお寺として生きてきた そうすると忘れられてしま れども、私のうちとしてはつ があっても工夫しながら村で という、それが先だと思って うのは、そこの場所で生きて いる人たちがお寺を守ってき ぶれてしまった。それはとも 暮らすという努力をするわけ います。 かく、僕自身はお寺的な雰囲 です。ところが、お坊さんは 地域のお寺だったものが、 たということ、この世界は必 気は全くなく育ちました。も 割と簡単に逃げ出してしまう。 江戸期になるとどこかの宗派 ずしも教団でもないし、開祖 っとも祖父がなぜか僧侶にな 確かに経営が成り立つような に入らないと都合が悪くなっ でもない。上野村のお寺もそ りたくて、修行をしてお寺に 地域ではないというのはよく てきた。それからまた本山の うですけれども、天台宗のお ほうからすれば、ある程度教 寺があるといっても、その檀 入ったというので、代々のお 分かりますけれども。 勢も伸ばすみたいなことが試 家さんたちが最澄の何かを勉 寺ではないんです。 だから、日本はそういう地 域が結構多いと思いますが、 みられますので、一面では寺 強したなんていう話はあまり お寺をどうするかということ の取り合いもやるわけです。 聞かない。曹洞宗のお寺の檀 もともとお寺は は同時にその地域でどういう だけどその一方で、日本のお 家さんたちも、非常に熱心な 地域の核であった ふうに暮らすかとか、地域で 寺は宗旨替えが結構多くて、 檀家さんだったとしても、道 藤木 曹洞宗のお檀家だった どういうふうな営みをするの 結局それも地域のお寺、地域 元を読んでどうかしたという かということでしょうけれど の人たちのよりどころという、 人は少ないだろうと思う。そ んですか。 内山 うちはもともと三重県 も、そこにだんだんこだわら そういう形だったから、もし うであっても、お寺は自分た の桑名ですから、どう見ても なくなってきたお坊さんもい 今の本山との関係に不都合が ちにとっては大事なもので、 浄土真宗高田派の、しかも非 らっしゃる。一方で、都市部 発生すれば、簡単に宗旨替え 地域の生きるときのある種の 常に熱心な檀家さんだったら なんかですと、だんだんお寺 をする、そういうお寺も結構 核だった。それに応えていく のが住職さんたちの仕事で、 しい。ですから、なぜ祖父が の基盤自体が社会的に崩れて たくさんあったと思う。 曹洞宗に移ったのかもよく分 いくような、そういう時代で ですので、これからちょっ 時にはこの宗派でこんなこと かりません。僕が二歳ぐらい もある。ただ、そういうのを と考え直さなければいけない をしますかというようなこと のとき亡くなっていまして、 見ていて、僕自身は家として と思っているのは、僕らは仏 もやっていた。僕はそれが当 というのは祖父も父も結婚が は曹洞宗ですけれども、さっ 教という言葉を聞くと、まず 然だろうという気がするんで 遅かったもので、結構それな きの吉澤さんのお話と一緒で、 イメージするものは開祖です。 す。 りには生きていたと思います いろいろな宗派の方とお付き 例えば、釈迦という人がいる どうも近代人の発想だけれ けれども、実は僕は祖父のこ 合いをしていて、本当に日本 ところから始まったとしても、 ども、何か教義・教団があっ とをあまりよく知らないとい 人的というか、何とでもお付 文章的に読むというと、例え て、そして勉強しようと思う き合いしますという、そんな ば親鸞だったり道元だったり、 と、すぐ開祖のところに戻っ うことです。 そういう開祖がいます。開祖 ていく。この在り方自体がち 感じです。 僕は群馬県の上野村という 村の人間でもあるので、上野 そうしていろいろなところ の教えが今も守られているの ょっと間違ったかなという気 村は天台宗のお寺が一つと曹 とお付き合いをしていて、日 か、守られていないのかとか、 がしています。もちろん開祖 洞宗のお寺が三カ寺ですが、 本の仏教というのは教団が先 そういう式の議論が多い。だ 以降の勉強をすることはそれ お坊さんはみんな逃げ出して ではないなと思うようになり から、例えば真宗系だったら でいいですけれども、地域と しまった。すべて無住寺です。 ました。もちろんそれぞれの 親鸞に戻れと、そういう言葉 ともに暮らしたお寺なのだと お葬式があるとやってきて、 本山という意味では、かなり が使われていくし、また特に いう、そこの部分が二の次に お経上げが終わると帰ってい 古くからあるわけですけれど 親鸞について言えば、必ずし なっちゃうと、日本の仏教の く、当然、村の中では評判は も、地域の人たちにとって、 も浄土真宗ではない人たちか 在り方の根本を読み違えてし 悪いようです。村の人たちは、 あるいは地域のお寺を今まで らの親鸞人気みたいなのが絶 まうのではないかなという気 少々大変なことがあっても、 守ってきた人たちにとって、 えずあって、その人たちにし がします。 そう簡単には逃げ出すわけに もちろんあえて聞けば何々宗 ても親鸞は素晴らしいから、 はいきません。進学のために ですし、そうすれば当然本山 親鸞に帰るべきであるみたい 県の南砺市で集まりがあった ときのこと、ご存知のように、 復興活動の中で お寺の役割が分かった 富山県南砺市というのは浄土 真宗の、ある意味では一向門 吉澤 私の生まれた新潟の高 徒の聖地みたいなところです。 田は親鸞が流されてきたとこ そこで地域づくりをやってい ろでもあるので、子供のころ るリーダーがいわゆるお檀家 からいつもお寺さんがうちの を持たない、道場を持ってい 実家に来て、うちのおやじと らっしゃる浄土真宗のお坊さ おふくろはずっと仕事をして んで、大谷大学卒で仏教史が いたものですから、一人っ子 ご専門という、そういう方が の私はばあちゃん子で、だか 地域づくりのリーダーなんで らお寺さんが来てお経を上げ す。そこの市長も毛坊主でい ているところに、ばあちゃん らっしゃって、息子さんも得 と二人、横に坐ってそれを聞 度されています。その南砺市 いているというのが日常茶飯 の地域づくりをやっていると 事でした。お寺さんも月に一 き、それを支えているのは、 回ぐらいは来られたので、非 実はあそこの門徒宗が毎月や 常に身近な存在だったんです っているお講という会だった。 お講の文化が今でも脈々と根 ね。 付いています。 たまたま今年はうちの親の 三十三回忌でした。数年前に それぞれの在所ごとに必ず お寺の住職が脳梗塞で倒れて、 月に一回集まって、悩み事や まだ息子さんが若かったもの 苦労話などいろいろお話をさ ですから、今年の法事はどう れるようです。私がうかがっ なるだろうと思っていたら、 たときには、そこの住職に頼 ちょうど去年その息子さんが まれて、二十人ぐらいのお講 得度されて二十五代目を継が の人たちを前に初めて別院の れて、ささやかな仏事をつな 中で、地域活性化のお話をさ げていただいたことには本当 せていただいた。その後、庫 にほっとしたわけです。です 裏でみんなで酒を飲みました から、個人的なものとして見 が。南砺の人たちに聞いてみ ると、きちんと仏事を伝えて ると、お講を仕切るのはおじ いただきたいということ、宗 いちゃんおばあちゃんの役割 勢調査の結果はよくわかりま だそうで、若い世代は口出し すね。それからいろいろ聞い できない。それは一カ月順番 てみると、本当にお寺さんも で回ってくるので、それを励 後継者がいらっしゃらなくて、 みにしながらやっているとい そういう中で今後どうなって う。ですから地域共同体をつ いくのか、田舎で見ていても くっていく上でのお寺の役割 ちょっと心配なところがあり と言いますか、お講という集 まりが脈々と残る格好で息づ ます。 特にお寺というものの存在 いている、そのことを実感し をまじめに考えたのは、富山 たのが一番ですね。 久間泰弘 4 平成29年(2017年)1月1日 仏 教 企 画 通 信 第46号 第46号 仏 教 企 画 通 信 平成29年(2017年)1月1日 5 して供養したい人たちのため いったところで、多くの仲間 活動でも全く変わることなく、 藤木 お寺の社会活動という が、なかなか世代交代がうま 二番目はさっきの久間さん のお話で、私もたまたま南相 に、お寺を開いていったらい が何かをしなければならない。 地域社会とともに一緒に考え ことですが、地域の人たちを くいかず、維持していたお年 馬と関係があって、南相馬の いんじゃないですかと言った 結局それはお寺から出て、実 られるということが大事なの いかに仲間として取り込んで 寄りも少なくなっていく中で いくか、あるいはお寺を場所 衰退してしまっています。そ 復興アドバイザーをさせてい ら、そうですねと、縁台のと 際の現場に行くということで だということです。 ただいています。これも実は ころでも寄り集まってやると すよね。 あとメンバーシップ、共益 として使ってもらえるように れをうまく現代の人々のニー 南砺とのご縁で、旧中村藩に か、そういうのは少しずつや 今回のテーマのお寺と地域 というところを私たちはずっ していくか。平子さん、いか ズに合わせた形でまた復活で 砺波の移民が一七八〇年代か ろうと思いますと、そんなこ 社会ということでは、お寺と と意識してきたわけですけれ がですか、曹洞宗の取り組み きないかとの思いで、彼は試 行錯誤しています。 ら二万人ぐらい行ったわけで とを言っていました。地域の いうのはイコール僧侶だと、 ども、本来宗教というのは公 となりますと。 すけれども、そのご縁もあっ 中で心のよりどころを、ある 私は思っています。お寺のあ 益的であるべきで、その辺を 平子 今の皆さんのお話を聞 今でも多くの梅花講が活動 て、結構砺波から移民が行っ いは語り合う場をつくるのが り方と僧侶のあり方、そこの この震災でお檀家さんにお話 いていて、人と人とのつなが し、各地には地蔵講やさまざ ていた。移住者ですね。それ お寺の大きな役割なんだろう 乖離があるからいろいろな問 しすることが増えました。震 り、お寺とのつながりという まな講は残っていても、だん もみんな門徒衆ですけれども。 なと、地域づくりと絡めると 題が起こってくるわけで、例 災復興も寺檀ともに取り組ん のが何より大事だというとこ だん下火になっているといい えばお寺は私自身だ、私自身 でいきましょうと。寺院と社 ろが共通しているのではと思 ます。強制的な参加ではなく、 そんなようなこともあって、 強く感じますね。 はお寺であり、地域とつなが 会活動のイメージがあまり判 います。私自身も同じ考えで、 人と人とのつながりが適度に 南相馬と南砺市というのは非 っているという一体感。そこ 然としないとすれば、それは 卑近な例ですけれども、夏休 保てる、そうした活動が地域 常に関係が深い。それで南相 お寺イコール僧侶 のところ整合性を持って活動 地域社会で共有されていない みに近所の子供たちをお寺で の中で大きい力を持っていく 馬の復興アドバイザーをやっ ということの意味 していくことが大事だと、震 からだと思う、僧侶としても、 一泊させるということをやっ 可能性は、今までの講が展開 て、南相馬みらい創造塾とい うのを市長の肝いりで立ち上 藤木 久間さん、どうですか。 災のときも感じました。私は 地域の一般市民としても。そ ています。私の子供もまだ小 してきた歴史からも大いにあ げて、その講師をさせていた 復興支援の主事というお立場 永平寺で修行をさせていただ の辺を共有して、共通言語で さいので、子供どうしのつな ると思います。現代に合った だいたこともありますが、そ で、三・一一が境になって、 きましたが、そのときに百八 考えていかないと、それは動 がり、地域のお母さんたちの 講といいますか、現代の人た のときに会った若いお寺の住 お寺側としても考え方がだい 歳の禅師様という、宮崎奕保 いていかないなというところ つながりがあって、何年か続 ちに合った形でそれを提供で 職が、復興活動の中で初めて ぶ変わってきたのではないか 禅師がおられました。宮崎禅 は常に感じています。そこに けることができています。こ きれば、また地域の中でつな お寺の役割が分かりましたと と思いますが、その辺、今や 師がよくおっしゃっていたこ ずれがあっては駄目なんです。 れを例えば一方的にこちらが がる力を持っていけるのかな 言った。 っておられることと重ね合わ とです、私が永平寺なんだと。 例えば、社会活動をお寺と 開催すると企画するだけでは と感じています。 これは禅師が常におっしゃっ か僧侶に求めていくときに、 多分集まらないでしょうし、 藤木 講というと浄土真宗系 要するに、お寺はいかに人 せて、どうでしょうか。 何でリアリティがないのかな 住職の思いだけでは空回りし 統の印象がどうしても強くて、 が集まる場所であるか、いわ 久間 そうですね。非常に大 ていましたね。 ば外に開いた存在であるとい きい災害でしたので、一万六 そのことは修行していると というところを考えますと、 てしまうように思います。地 それは継続は力なりといいま うことをどうも忘れていたよ 千人からの方が亡くなられて、 きには、あまり意味合いを体 それはどちらか一方が実行す 域の人たちとのつながりの中 すか、本当に大きな力になっ うに思いますという。それま まだ行方不明の方も多いわけ 感できることはできなかった るべきだという考えがあるか で、活動が出来上がっていく ていくということは今でも思 で檀家さんとのつながりだけ です。被災地に行けば、一般 んですけれども、地元に帰っ らだと思っています。吉澤さ というのが一番自然というか、 いますね。曹洞宗でそういう だったけれども、本来はそう のボランティアの方もだいぶ て副住職、住職をさせていた んのおっしゃる講ですね、と そこでお寺の存在価値という ものをつくっていくというよ じゃないですねと。もっとも 減りましたけれども、まだお だく中で、また地域社会、お もに活動することによって、 のが生きていくのではないか うなことは⋮⋮。 っと、どこでもいいから祈り られます。僧侶が足を運べば、 檀家様とのお付き合いの中で、 つながりが持てますし、癒し と、そんなふうに思っていま 平子 曹洞宗としては、これ を、いわば亡くなった方に対 僧侶に求める声というのも現 例えばいろいろな喜びもある の場ができたりする。その辺 す。 までの既存の存在として認識 実的にあるわけです し、いろいろな悲しみがある、 のところ、やはりずれたまま そういう意味では、講の力 しているでしょうが、全体と ね。そういったとき 苦しみがある。そういったと 議論を進めても、形としては というのは、今までの曹洞宗 して講の持つ力という視点は に、私たちは教えを ころで、お寺に来てお話をし なかなか動いていかないとい の歴史の中を見ても大きかっ まだ持ち得ていないのではな 説くのではなくて、 てくださることであったり、 うのは、震災の活動を通じて たと思います。青森県むつ市 いかなと思います。 被災されて本当に大 泣いたり笑ったりということ もより強く実感するところで で、寺を通じて町おこしをし 藤木 梅花流のほうも一時は ている友人がいますが、彼は 二十万人とか、今は十五、六 変なところにおられ を共有することによって、お す。 まさに講の力というものに着 万人くらいでしょうか。 る方々に、逆にお話 寺の役割と僧侶の役割が一体 目しています。かつてはお寺 平子 規模は大きいんですけ しをお聴きするとい になる。禅師のおっしゃった 講の力を の門前の地蔵堂などを通して、 れども、中身は減りつつある うことが当然ながら 意味はこういうことかと体験 現代に生かしたい 講活動が盛んだったわけです という話ですね。 あるわけです。そう したわけです。それは震災の 藤木 その辺も伺っています い方のご紹介ということとか、 体験するとか、あるいは最近 いコミュニティをどうやって ば南アメリカのどこかの国の は、まさに地元の人間同士の が、梅花流は、何とか育って あるいは何かを感じられて自 ですと意外なことに中学、高 つくっていくかと、いろいろ どこかの村に教会があっても、 つながりであり、自然とのつ いってもらいたいところでは 分で入ろうと思われたとか、 校で一つの教育手法として動 話しているわけですが、一つ 場合によってはローマのほう ながりもあり得る。人間とい そういう方がおられます。そ き始めているのは演劇とかダ の心、あるいはご先祖様とか、 で、その考えは間違いだとか、 うのは自分の生きている世界 ありますね。 平子 その問題は曹洞宗だけ れは他宗でも曹洞宗でも関係 ンスとか、要するに表現をど すべての神仏を含めて一つの 異端だということがいえます。 みたいなものにある種の安心 ではなくて先日、参加させて がない。そういったところの うしていくかということです。 祈りみたいなものとつながる ところが仏教では、そういう を感じるとか、ある種の充足 いただいた智山派での研修会 共有といいますか、その辺を ある意味では、お経も一つの ような形、それには、コミュ 意味での本山がない。北イン 感を感じるというのは二つの でも話題にあがっていました。 感じて、とらえていく必要が 心の表現の仕方というふうに ニティの中にお寺さんがある ドに発生したといっても、北 つながりが必要で、一つは今 講活動をどうやって維持し発 あると思っています。それが 読み替えると、仏式の作法と という形でとらえていくのが、 インドにバチカンのようなと 言った横のつながり。もう一 展させていこうか、どうして 個人の僧侶から、例えば県単 か所作というものは一つの形 地域から見たときにすっと入 ころがあるわけではないし、 つの縦のつながりというのは、 も会員が減ってきているなど、 位の活動にしていくとか、結 であり、お寺が子供たちに教 っていけるような感じがする つまり仏教は伝播していった 先祖とのつながりだったり、 その場所その場所で再確立し あるいは先祖よりもっと昔と そのあたりのことが現場の声 果的には教団に上がっていく。 えることのできる、文字によ んです。 ていくという性格が強いんで のつながりだったり、その昔 として出てきているようです 教団から下に下りるのではな らない非文字の教育だと思う。 とのつながりを感じるから、 が、具体的な解決策がなかな くて、個人から教団にそうい そういう日常教育みたいなも お寺は縦横のつながり す。 未来とのつながりも感じると か見つからないようなお話で ったことを共有していくため のを教える場にお寺がなれば、 が結びあう場所 インド仏教はインド仏教、 中国仏教は中国仏教だし、日 いうことだと思うんです。 した。そのあたりは各宗派と に、意識と情報を集めていく それが地域づくりと連携して もに摸索し続けているところ 必要があるなというように思 いくと、僕は結構力になって 藤木 いろいろな会合の中で 本仏教は日本仏教です。ある ですので、縦のつながりと いますね。お寺が活性化して いくだろうと思っています。 よく耳にする話ですが、われ 種の共通性は持っているとは 横のつながりみたいなものの のようです。 いくための一つの基本的なア 僕らは今、都会の暮らしと われが常識と思っているとこ いいながら、それは土着化す 結節点というか、両方持って コミュニティの中心に プローチの仕方というか、視 いうよりも、かなりローカル ろが今の子供たちに伝わって るといってもいいし、土着の いる場所というのはお寺だっ 点だなというふうに思うんで な話をしていますので、都会 いない、例えば挨拶とか礼儀 ものが受け入れるというふう た。だから一時期、今のお寺 お寺がある形 すが。 は都会でもうちょっと違うの とか、畳の上の生活というも にいってもいいでしょう。日 は葬式仏教だというので、え 久間 講にしても、梅花講に 吉澤 先ほどの話と関連しま かもしれませんけれど。ただ、 のも一般家庭からなくなりつ 本の国内でいえば、もちろん らい非難を浴びました。確か しても同様と思いますけれど すが、通常の暮らしの中にい そういう意味でのお寺の役割 つあるようです。そういうも 宗派ごとに本山があってとい に、あこぎな葬式仏教という も、地域の方とどういうふう ろいろな学びを組み込んでい というのはすごくあるなとい のは結構、お寺が持っている うことではあるけれども、ま のがないでもないけれども、 にお寺がつながっていくかと くというやり方が当然あるだ うことです。さっき久間さん 資源になるのではないか。と たそれぞれのお寺がお寺のあ そういう極端な話はいくら何 いうところが一つの視点だと ろうと思うので、自然とどう がおっしゃったように、田舎 なりますと、それをいかに子 る場所で土着化するという、 でも考え直してくださいとい 思うんです。私自身、梅花流 やって触れ合うかというとこ ですと宗派というのは実はあ 供たちに伝えていくかという あるいは土着の人たちに受け うことですけれども、僕自身 ﹁おれ、何宗だったか﹂ ことですね。 入れてもらうということでも はお寺は法事とか、お葬式と の師範を務めさせていただい ろを、例えば昔の自分のこと まり、 ﹁ 確 吉澤 子供たちは何らかの行 あるわけです。そうすると、 かむしろやっていくべきだと ていまして、講員をどうやっ を考えると、昔はお寺の境内 み た い な 人 が 結 構 い て、 て増員しようかという話がい で大体遊んでいて、住職にい か仏教だよ﹂という世界です 事の中で覚えていったんでし 一応本山とのつながりは持っ 考えています。というのは、 ていても、それ以上に地元の それを通して縦のつながりを つも出てきます。じゃあ、ど つも﹁おまえ、何やっとんだ﹂ ね。一方で、葬式になると、 ょうけど。 ういった人がどういったとき といって怒られた。お寺に行 うちはどうも神道でしたみた 内山 そこにお寺さんが絡ま 土地とのつながりのほうが強 確認していく場所になる、そ い。本来、仏教というのはそ れが仏教の教義にあるのかな に自分で入ろうという意志を くと怖いけれど、時々何かお いなことをおっしゃる。 なくなっちゃった。 もつのか、そういうところの 菓子をもらえると、そういう そういう意味で、復興支援 吉澤 それが寂しいと思いま ういうものだったと思うんで いのかどうでもよくて、そこ で生きている人たちが縦のつ すね。 議論が足りない部分があると 一つのたまり場だったわけで のとき久間さんも感じられた す。 いうことは思います。私のと すね。一つのコミュニティの と思いますが、神社の禰宜さ 内山 例えば、仏教とキリス それともう一つ、地域の人 ながりを感じ、横のつながり んとか、ああいう方々がすご ト教というふうにした場合に、 たちのよりどころという話に を感じ、そこに安心感もあり、 ころもそうですし、近くのお 中心だったわけです。 寺でもそうですけれども、曹 自然とのつながりをどう取 いリーダーになっていました もちろん考え方も違うし、違 なると、よりどころというの 自分の生きる場所を持つこと 洞宗のお檀家さんだけが入っ り戻すかとか、それをどうや ね。あれは一つのコミュニケ いはいっぱいあるけれども、 はつながりがあるからよりど になるわけです。 ているわけではないんですね、 って子供たちに、若い世代に ーションの取り方といいます 一つ大きな違いとしてキリス ころになるわけで、そのつな 日本の仏教の場合、明らか 実は。 伝えていくかと、そういうこ か、ああいう取り方が一つの ト教には本山があります。カ がりというのは、横のつなが に縦横のつながりを人々は求 他宗のお檀家さんでも近し とを考えると、例えばお寺の 求心力になったのかなと思う。 トリックだったら依然として りと縦のつながり両方あるわ めてきたわけで、そこでお寺 い人を亡くされるとか、親し ご住職が一緒になって自然を 内山先生とも今ずっと、新し ローマが本山ですから、例え けです。横のつながりとして はそれに応えていた、それで 平子泰弘 6 平成29年(2017年)1月1日 仏 教 企 画 通 信 第46号 第46号 仏 教 企 画 通 信 平成29年(2017年)1月1日 7 ように、南砺にはお しれませんね。 多いことに興味を持たれたそ こに持っている宗教的な思い 僕はいいと思っています。む 講がある。つながり 吉澤 それは本当にニーズと うです。それをきちんと研究 というのでしょうか、死んだ しろ自信を持って縦のつなが 合うということがず して高まっているし、それが しようと、東北大の宗教学研 らどうなるだろうかという思 りというのを考えなければい っと歴史的に積み重 ないと本当の意味での地域の 究室から社会学の研究者を職 いにちゃんと対応する、そう けない。そのときに自分のう なっているわけです。 包括医療・ケアとか、地域医 員として病院に入れて、その いうことの必要性をお話しに ちの法事やお葬式だけじゃな それは内山先生のお 療というのが成り立たないと 研究はまだ続いていると思い なったので、とても印象に残 くて、地域の縦のつながりと っています。宗教者が医療の っしゃる横のつなが 思うんです。どちらかという ます。 かいろいろあるわけで、そう 現場へ入っていく、そういう りであり、当然縦の と、僕らの仲間のお医者さん いうものがある種、行事とし 岡部先生は、現場に宗教者 つながりもつくれる。 で地域医療をやっている人は がかかわらなければ駄目だと 時代にだんだん変わっていく て行われてきたと思うんです そして、そこにはや 半分お経めいたことを言って、 の思いがあり、東日本大震災 のではないかと期待していま ね。そうすると、その行事を どういうふうに維持するか、 まま霊安室に行って、そのま っぱりお寺さんがいらっしゃ 亡くなる前のじいさん、ばあ の契機も重なり、そこから東 す。 あるいは消えちゃったものを ま車に乗せられて、葬儀場の るということですね。 さんの遺言みたいなものを聞 北大で始まった臨床宗教師養 藤木 そうですね、結構お檀 どう復活するか、同時に横の ところで柩に入れられ、そこ 久間 私も県の医師会の方と きながら、ターミナルのとこ 成へと展開してきているわけ 家さんが医院や病院を経営さ つながりのところで、人々が に親戚の者が集まってという、 か、市の医師会の会長さんと ろをやっている。だから今お です。 れている場合は連携しやすい お寺に行くと安心するという そういう世界になっちゃうわ 日ごろお付き合いさせていた っしゃったような、本当に実 それとは別に最近お聞きし 状況になっているという気が ようなものをどうつくるか、 けです。僕も死んだばあさん だいていますけれども、看取 践的な学問としてのそういっ た話なのですが、歯科では最 しますね。 多分課題はこの二つだと思う のときを考えると、親族がみ る形で終末期の方を引き取っ たニーズはすごくあるので、 近、高齢者を対象にした訪問 内山 僕は毎年一、二回はお んな集まって足をさすりなが て最後、臨終として送るとい その看取り方も地域によって 歯科のニーズが多くなってい 医者さんの集まりから講演を んです。 ら、ごっくんとして息を引き うようなときに、私どもと医 全然違うでしょうから、そう るそうです。最期を看取る場 頼まれます。どうしてかとい 取っていく、そこには確か坊 師の方それぞれの役割が明確 いう知恵というのを地域で共 面において、身体に新たな治 うと、久間さんがおっしゃっ 地域の包括医療・ さんがいましたね。今のお話 化してきて、言われてみると 有していくことは大事ですね。 療は必要なくなっても、食べ たとおり、お医者さんたちは ケアにお寺の参加を の、安心できる暮らしがロー 当り前ですが、医者は基本的 そういう気が最近特にします。 ることは最後までケアが必要 治すことしか知らないわけで となりますので、最期を看取 す。だけど、いくら治しても 吉澤 お葬式ということで思 カルを支えていたというのは に治すのが仕事なんですね。 る立場として歯医者さんのニ 最後は死ぬという、そこの部 いますのは今、少子高齢化の そういうことだと思って、そ だから患者が﹁これから私、 人が死んでいく場所 ーズが増えてきているとの話 分には全く対応できない。ど 中で、どうやって地域で看取 こでまた地域の包括医療・ケ どこへ行くんですか﹂なんて、 としての地域 でした。その高齢歯科を指導 んなに頑張ったって二百歳も るか、あるいは地域の医療と アみたいな話になったときに、 ふと聞かれたときに非常に困 ケアをどう結び付けるかとい 最後まで行ったときに出てく ると、そういうときにあなた 平子 今のお話に関連して、 されていて実際に医療にかか 生きないわけですから、最後 うのは、いろいろな地域の課 るのは、きちんとその地域で たちはどういうふうに話すの もう亡くなられてしまいまし わっている先生の話では、現 は必ず亡くなる。そのことを 題になっています。従来型の 看取れるかどうかという問題 かと聞かれる。だから、そう たが、宮城県の名取に岡部健 場において患者さんから、来 医者はどういうふうに考えて いったことを共有、意見交換 先生がいらっしゃいました。 世のことなど宗教的な質問を いったらいいのか、自分たち すべて施設に頼るということ なんです。 例えば、お坊さんとお医者 ができればということはあり ﹁ 坊さん、もっと医療現場に いろいろされるので困ってし の中に持っていたらいいのか は当然できないので、例えば また南砺の話になりますが、 さんが一緒になって、ペアを ます。 来い﹂と私も厳しい励ましを まうとおっしゃっていました。 ということなので、大体頼ま どうやって一人暮らしの認知 組んで最期を看取る、そうす ﹁ で も、 それでは、どう答えていら れ る テ ー マ は﹁ 死 と は 何 か ﹂ 今、臨床宗教師とか臨床仏 い た だ い た の で す が、 症の人を、自分のところの地 るとそこにいる孫たちもじい 教師という研鑽の場ができて、 先生、なかなかこの格好で入 っしゃいますかと聞きますと、 というものです。 域で看取るかというのが、今 ちゃんが死ぬってこういうこ あの方たちはターミナルの現 っ て い け ま せ ん よ。 法 衣 で 私は嘘はつかないようにして ただ言えることというのは、 の市長の一番の、最後の課題 とだね、ばあちゃんが死ぬっ 場に行って、実際にいざそう は ﹂と い う と、 ﹁ い い ん だ よ、 いますと、自分の分かること 近代以前というふうに言って なんですね。それは市長自身、 てこういうことだねというこ いう時代が来たときに、自分 どんどん入っていけば﹂と言 は分かる、分からないことは もいいでしょうけれども、そ じいさんを看取ったときの原 とで引き継がれていく。こう たちが存在価値を発揮して社 ってくれる先生で、介護で最 分からないと答えますと、そ の時代は、死んでからのほう 体験を感じているが故だと思 した地域包括医療・ケアのい 会に貢献できるというような 期を看取るという在宅医療を うおっしゃいました。また、 に永遠の世界があって、生き いますけれども、そのときに う話をNPOの先端医療の先 ところを見据えて活動されて ずっとやっておられました。 その先生は鶴見大学で学んだ ているということは、そこま お寺さんというか、宗教者の 生方に紹介しますと、たいて いるようです。これからひょ 先生が最期を看取っていると、 ので、学生のときにもっと宗 で生きているだけの話という 役割というのはすごく大きい いはどうして富山の南砺でそ っとしたら、そんなに遠くな 多くの人が﹁ああ、お迎えが 教のことを勉強しておけばよ か、大体世界中そういう感覚 ういうことができるのかとい い将来に各地で、そういった 来た﹂と言うそうで、医学だ かったとしみじみおっしゃら を持っていたわけです。近代 だろうなと思う。 う反応です。さっきお話した モデルケースが出てくるかも けでは説明しきれない部分が れていました。日本人が根っ 以降になると、死んでからは 今、病院で看取ると、その 内山 お寺さんはいや応なく 死という旅立ちの部分にかか わるわけですから、それをや りながら、社会を少し直して どうでもよくなって、生きて いくという試みをしてほしい そうすることで、お互いの社 人のことをきちんと認めると すよ。ですから、極楽往生し ど、死後の世界を怖がったり いることが絶対になった。た わけで、それはいわゆる社会 会づくりというか、地域づく いうか、きちんとそれを話し たいだの何だのという気持ち 心配したりするのも、仏教を だ、近くの者が亡くなってみ 変革とかいう話よりも、地域 りということが、目に見えな ていくということが求められ そのものもどうでもよくなっ 研鑚してきた人たちだったら、 ると、どうでもよくもなくて というのは生き物が亡くなっ い形かもしれませんけど、共 ているのではないかと思いま て初めて、仏教という言い方 それはちょっと違うんじゃな いですかと言えるかもしれな 何か気持ちがすっきりしない。 ていく場所ということをちゃ 同し合える部分があるのかな す。先ほどの吉澤先生のお話 もできるわけですよね。 い。なので、こんなものは別 の死んでいける町といいます だから慌てて、お坊さん来て んと意識して、これからをつ と思います。 に理論的な統一なんか全然要 か、この町で死んでいきたい くださいなんて話になるとい くっていこうねと。そういう 吉 澤 そ れ は あ る と 思 い ま す 仏 教 は 理 論 的 統 一 の らない世界なんです。そうい うことだと思うんです。生き ことが意識できるようになる ね。特に久間さんがいらっし と思える町というのはやはり 必要がない世界 うものをちょっと近代以降、 ている間はひたすら生きるこ と、社会の雰囲気はうんと変 ゃる福島とか、仙台、宮城、 魅力的だと思いますね。 とに専念した、それは今でも わっていくはずです。今、本 岩手の首長方は、その都度向 藤木 正木晃先生からうかが 藤木 矛盾は問題ではない。 だんだん踏み違えてしまった。 当に死を遠ざけてしまったと き合って、まちづくりをして ったお話ですが、宇井伯寿先 内山 矛盾したものをどっち だから、いい意味でどうい 続いています。 いうことだと思うんです。 いくんだということを必死で 生に始まった霊魂観の問題と かに統一する必要なんか全然 うふうに伝統回帰していくの 例えば、町づくりでもそう ですけれども、生き生きとし 吉澤 生きとし生けるもの、 考えておられる。かなり皆さ いうのはかなり仏教界で間違 ないわけです。本当に家族が かということが今問われてい た町をつくろうとか、若者が ともに生きる、だけじゃなく ん、本当に心ある人は半分宗 ってとらえられて来た歴史が 亡くなって極楽往生を願って て、お寺もある意味で伝統回 活躍できる町をつくろうとか、 て、ともに死ぬということを 教者っぽい語り口になります あると聞いているので、それ いるという人がいたら、それ 帰する。ただし、社会が変わ 全部生きる世界の話をしてい 考えなくてはいかんというこ よね。 を元に戻さなければいけない を手助けしてあげて何の問題 っていますから、昔とそっく るわけです。だけど、本当の とですね。先生がおっしゃる 久間 実際よくある話ですけ と、また霊魂の問題をそのま もない。だけど、仏教の研鑚 り同じことをやったら伝統回 町というのは、実は町は人が ように、死生観と言いますか、 れども、あの世観ということ まにしておくのではなく住職 をしてきたという人間である 帰というわけにもいかないの 死んでいくところ、人だけで 死というものにきちんと向き が被災地ではよく語られてい としての見解を言わなければ ならば、自分の極楽往生を願 で、そこでは新しいお寺さん はなくていろいろな生き物が 合う世界を取り戻さないとい ます。被災者の方だけじゃな いけない時代にもなってきた っているんじゃ、ちょっと違 の試みをしていかないと、縦 死んでいく場所です。それが けない。さっきの南砺の総合 くて、支援者とか町の職員さ と思います。だからお坊さん うんじゃないですかというの 横のつながりの世界の中のお 町だったり村だったりするわ 戦略の一つですが、家で看取 んとかが普通の会話で、例え がそういうことを把握して、 が出てきたりもするわけです。 寺にならないということはあ けで、そうするともちろん生 れるまちをつくるということ ば仮設とか地域の集会場で集 お檀家にきちんと伝えていく そういう世界こそが仏教の世 ります。考え方としては、昔 きている間は生き生きやって が、今の市長の大きなスロー まりがあると、南相馬の話が べきなのですが、どうもその 界だと僕は思っているんだけ のお寺に戻る、ただ、やり方 いればいいけれども、絶えず ガンです。そういうのは少し 出たりする。その辺、ちょっ 返ぐらついているところがあ ど、どうも近代以降になって を新しく考えていくというこ いろいろな人たちが亡くなっ ずつ地域づくりの中で言わざ と冗談ぽく言う方もいますし、 るように思うんですね。 くると、西洋から入ってきた とだと思うんです。そうする ていく、あるいは鳥も虫も亡 るを得ないというか、ある意 本当に真剣にうちの主人はど 内山 それは妙に理論的に明 合理的理論みたいなものに悪 と、考え方も理論だけでは説 くなっていくわけで、そのと 味ではそれにちゃんと真正面 こ行ったんだろうとか、息子、 確にしてしまおうとするとこ い意味で惑わされてしまって、 明できない世界を抱えて人々 きにみんなが穏やかに亡くな から向き合わないと地域づく 娘はどこ行ったんだろうねと、 ろがあって、それがいけない 仏教も妙にちゃんとした理論 は生きているわけですから、 っていけるというのが、本当 りにならないということに、 あるいは孫はどこ行ったんだ のであって、仏教というのは、 体系でなければいかんという それでいいわけで、そこにお 寺さんも寄り添う必要がある の地域というものだと思うん 心ある首長というか、本当に ろうと話されるときに、しっ 一面では矛盾したものを語り ことになった。 ですよ。生きている間は頑張 地域を守ろうという首長方は かり答えていくことの重要性 得ることによって、実は矛盾 人間たちの生きる世界とい という、それもまたちょっと ったけど、最後は崖っぷちに 気が付いています。当たり前 が人の命をつないでいくこと がなくなるというか、そうい うのは矛盾を抱えながら生き 方向を元に戻そうと、いろい なってしまうというのは、本 と言えば当たり前ですが、そ になると思う。地域のそれこ うものなんです。例えば、極 ているわけで、それをある意 ろな意味で伝統回帰が必要と 当の地域の在り方ではないん れをやるしかないというふう そ未来というか、そういった 楽往生という場合も多くは、 味で許しながら展開してきた いうことです。 ですね。 になってきている。 ことにもつながっていく部分 自分の話じゃなくて近親者が のが本当は日本の仏教なので、 吉澤 われわれは今年のロー 久間 私たちはどうしても役 があるというのも感じます。 亡くなったりすると極楽往生 だから真宗なんかでもそうで カルサミットを倉敷でやりま 政治と宗教が共同して 割上といいますか、死から生 平子 今の社会では目に見え してほしいという、人に対す すけど、死後の世界はないと すが、倉敷も結構いろいろな をつくり上げていくというか、 るものだけを対象とし、目に る思いだと思うんですね。そ 言い切ったりするけれども、 宗教があって、金光教もあり 地域作りを ここから思考を立ち上げてい 見えない世界を語ることはあ れはそれで大事にすればいい そんなことも全然必要ない。 お寺さんも多いんですけれど く立場にあると思うんですけ やしいものとなってしまって わけですが、だけど極楽往生 死後の世界って何ですかと聞 も、みんなで問おうとしてい れども、首長さんができない いるような気がします。宗教 したいとか極楽往生させたい かれたら、先に亡くなられた るのは、政教分離についても ことを私たちが地域で積極的 者の役割を考えた場合、見え というのも、いわば私欲なわ 知り合いが行っている世界で う一回問い直そうと思ってい に語っていく、伝えていく。 ない世界のこと、亡くなった けで、それもまた煩悩なんで す、でいいわけですね。だけ ます。暮らしの中に宗教とか 吉澤保幸 8 平成29年(2017年)1月1日 仏 教 企 画 通 信 第46号 第46号 仏 教 企 画 通 信 平成29年(2017年)1月1日 9 命というのをどう取り戻すか っしゃるように、仏教という んでもない間違いということ 離みたいなことをやってしま からすると、下から積み上げ というテーマで、少し分科会 のはもともと矛盾を含みなが なんです。ところが小さな世 った故に、末端の地域社会が ていく中でもう一回、今の政 で議論してみようという話が ら了解していく世界だという 界になってくると、権力者と ものすごくつくりづらいもの 教分離というものを自分たち 持ち上がっているんですね。 ふうに考えれば、理論的科学 被権力者が分離しない。それ になっているということなん の手で変えていかないと、地 それも含めて、最近ちょっと 的という世界をも包含するよ は僕のいる上野村だと、たか です。 域づくりが多分難しいのかな 思っているのは、政教分離の うな世界なんですね、だから、 だか人口は千二百人ですから、 うちの村でも、何とか宗で というふうに思いますね。 理屈というのは、当然のこと そこにこだわること自体、非 そうすると分離が起きないと なくても、山の神信仰から水 久間 政教分離ということで ながら西洋の基準で、特に戦 常に近代的なイデオロギーに 言いますか、多少意思決定す の神信仰まで行政は手を出せ は、今回の震災の復興支援活 後の世界を中心とした、神道 拘束されちゃっているのかな る人がいたりしても、それも ないんです。これはやっぱり 動の中で、今までは厳密に駄 との関係も含めた歴史的なも と、そんなふうにも思うんで またみんな知り合ってやって 間違っているわけで、山の神 目だといわれていたような活 のですけれども、それを原理 すが。 いる世界なので、だから誰も 信仰で権力と被権力なんて発 動が、逆に行政の要請だった 的に少し考えてみようという 支配されていないし、誰も支 生しませんのでね。 り、社協とか地域から求めら 配していない世界なわけです 吉澤 それは今、地域をつく れて融合していった部分があ ことです。 政教分離が末端まで よね。 っていくときに、妙な足かせ るんですね。本当に内山先生 行きわたった不都合 僕なりにやや無理やりちょ っと理屈っぽくいかと思いま もともとお寺と檀家さん、 になっています。行政も動け がおっしゃったようなところ すが、整理すれば、宗教とい 内山 ちょっと古い言葉を使 あるいは地域の世界もそうで ないし、ローカルな連中もち が現実にあって、これまでは うのはどちらかというと死の うと、権力と被権力、あるい すが、別に誰が支配者でもな ょっと引いちゃうみたいなと 行きづらかったのが、被災し 世界を扱う。世のまつりごと は支配と従属でもいいんです いし、つまり分離しない世界 ころもある。今おっしゃった た地域が、また被災者があま というのは、人間の欲望を肥 けれども、そういうものがあ です。多少発言力の大きい人 ような世界をどうお互いが了 りにも大変過ぎるので、そん 大化して、それを現世で実現 る程度分離してしまわざるを がいるかもしれませんけれど 解できるか。これまではどっ なこと言っていられないとい していこうとするものですか 得ない世界があると思うんで も、別にそれは支配者ではな ちかというと、まつりごとと うことになった。一人一人の ら、宗教というのは余計もの す。それが例えば国なんてこ い。そういうところというの いうのは全体のパイを広げて、 世界観とか、宗教観とか、人 だ と 考 え る。 、そ う い う こ と とになると、いくら主権者は は、内部にある祈りの世界と それをどうやって上から下に 生観とか、そういうものを大 から政教分離がある。また、 国民だといっても、われわれ か、人々の思いの世界とか、 すとんと落としていくか、そ 切にしながら、復興を一緒に 宗教というのはどうも非科学 はそうそう口出しもできない そういうものがとても重要な れを合理的にやるのがまつり 歩んでいかなければならない だとすると、まつりごととい わけで、結局権力を持ってい 役割を果たしていくわけです。 ごとだったわけです。僕が学 と、そういうところに気付か う現世の科学的な世界に持ち る人たちがある程度やらざる だから、それをちゃんと大事 んだ政治学というのはそうい されたと思うんです。 込まれると困るというような を得ない。そうすると、僕ら にすることが地域にとっても う世界でした。 こともあって、宗教者と一緒 は結果的に従属する人間とい 重要なんですね。 復興にみる人間の 今はそんな世界はあり得な にそれが逆に言うと、宗教者 う形になっちゃうわけです。 ところが日本の場合、戦前 いわけで、どうやって地域の 営みのはかなさ にとって何か妙な格好で、皆 だから、権力を持つ人間とそ の国家神道とのつながりの問 中で地域のコミュニティなり で日常の暮らしの中にもう一 れに従うことになってしまう 題があったものだから、戦後 を、地域や自分たちの意思決 吉澤 僕も南相馬の市役所に 度一回祈りだとか、そういう 人間という、分離が発生する になると、末端に至るまで全 定で地域をどうお互いにつく 勤める若い知人がいますが、 ものを取り戻すの嫌がられる。 世界では、権力側が特定の宗 部宗政分離となったわけです っていくかということからす お父さんからじいさん、ばあ ﹁宗政﹂の﹁政﹂というの れば、そこでは、本 せない。そうしたことが、そ 教と結び付くというのはとん よ。 は、権力を発生させるような 当に権力関係という れがコミュニテイーの中で、 でもない誤りといえます。 まつりごともあるけれども、 のが足かせになる。 仮にハードルになっていると ヨーロッパで言えば、中世 すれば、それをどうやって解 の王様がキリスト教の名にお みんなして物事を決めていく それを逆にいうと、 き放つかということが、政教 いて支配をするとか、日本で ぐらいのまつりごとというの 権力を振りかざして 分離を問うということの一つ 言えば、戦前の国家神道とい があるわけですね。それが地 まつりごとをやろう の意味合いではないかかなな うのは位置付けとしては宗教 域の世界だったし、檀家さん とすると、多分その んて、そんなことをつらつら じゃないということになって の世界でもあるし、集落の世 首長の二期目はない 仲間たちと話しています。 いるけれども、事実上、宗教 界でもあるし。ところが、そ というような世界で ういうところまで全部宗政分 すね。そういうこと そういう意味で、先生がお と政治がつながる。これはと 司会・藤木隆宣 23 11 花一輪咲けばいい さんまで亡くしたけれど、そ れでもほとんど家に帰らず一 カ月間、市役所で頑張った。 彼は本当に人生観を問い直し ながら、そういうことを、ど うやって行政のがんじがらめ のくだらない枠組みからを抜 けられるかということを必死 にので、市長と一緒になって やったのだと思いますね。だ から三・一一は、近代の枠組 みというものを、上からのト ップダウンの世界を切り崩し て復興に当たらないといけな いわけですから、それをつむ ぎ直して、おのずと久間さん がおっしゃるような世界に踏 み込んでいった。でも、それ がまた少しずつ元の世界に戻 ろうとしているところもある ので、それをもう一回ちゃん と拮抗しながらやっていかな いといけないという構図にな っていると思うんですね。 久間 その辺、明らかに風化 してきていると私も思います。 この間の熊本地震もあって、 向こうも大変な状況にありま すけれども、被災地各地は今 どういう状態なのか、そこに 生きている人たちは一人一人 どういう状態にあるのか、そ れを伝えていく責任があると いうことは強く感じているん ですね。今日、先生方に教え ていただいたことも、自分の 言葉として伝えていきたいと、 伝えていかなければいけない なと思います。 吉澤 熊本でも、知事が創造 的復興を目指すと言っていま すが、そこでも結構足かせに なっているのは、三・一一の ときにもあったような国の枠 女性。3年後の春、父の大切 これが臨床に於ける宗教者の 組みで、復興というのは現状 をやっている環境省のトップ な花壇に、一輪の花が咲く。 姿だ。 復帰の世界ですから、そこに の部長が僕らの仲間で、一方 私達の姿を、己の生死と向 潮を被り花は咲かないと諦め 創造的という言葉は出てこな で九州の経済産業局長も僕ら ていた。その場所に花が咲い き合いながらじっと見つめて いわけです。それをどうやっ の仲間ですので、今のような たのだ。それを見ながら、 ﹁私 いた医師がいた。故岡部健医 てやるか、実は知事がちゃん 現状は、改めて伝えますけれ 臨 床 宗 教 師 の 役 割 ここで父と一緒に生きていけ 師だ。彼は、看取りの現場か とイニシアチブを取れれば動 ども、本当に法律の枠組みは る﹂そう確信したという。一 ら 立 ち 上 が っ て く る 多 様 な けるんですね。その一番逆の 単なる現状復帰の世界ですか 輪の花が未来への物語を動か ﹁ 物 語 ﹂と 向 き 合 っ て き た。 悪い例が宮城県のような場合 らね。お金は出ても、結局無 やがて公共空間で他業種と協 したのだ。 で、巨大防潮堤ができたりし 駄なお金になっちゃう。 人には未来への物語を創造 働 出 来 る﹁ 臨 床 宗 教 師 育 成 ﹂ ている。そういうことからす 内山 おっしゃるように宮城 する能力、大きな命の源に繋 の想いへと向かっていく。 ると、首長が主体的に従来の の辺り、巨大な防潮堤ができ 岡部医師に賛同し、被災地 がる能力を持っている。その 枠組みをどう変えていけるか ています。以前から知り合い 能力をひたすら信じ、それぞ で同じ想いを抱えながら立ち というときに、久間さんのよ の内藤廣さんという二、三年 れの物語が動き出すまでじっ 続けた宗教者が集まる。そし うなお立場で、いろいろな格 前に東大を定年退官した建築 と待つ。宗教者には物語が展 てそれが宗教界や医療界を巻 好でそういうのを伝えていく、 家がおられますが、この間、 開 し て い く﹁ 場 ﹂の 創 造、そ き込む大きなうねりとなり、 問い掛けていくということは 彼と公開の対談みたいなのを の﹁ 場 ﹂に 留 ま り 続 け る﹁ 耐 各地の大学に臨床宗教教育プ 大事なことなんじゃないかな やって、彼自身は防潮堤には 性﹂ 、そして個々の人生に添 ログラムが立ち上がる。大き というふうに思いますね。 反対なんですね。しかし、現 って創造される物語を受け止 なうねりを確かなものにする 久間 熊本地震から一カ月ほ 実にはどんどんできている、 日本臨床宗教師会 副会長 めるレンジの広さが要求され た め に﹁ 日 本 臨 床 宗 教 師 会 ﹂ どたった五月の半ばに現地に その写真を見ながら彼が言っ 金田諦應 る。悟りや救いを饒舌に説く が発足した。教育プログラム ﹁ ま あ、 い い か ﹂と。 行って、いろいろな調整と活 た の は、 事は、教義の自己満足になっ や、そしてなにより臨床宗教 動をさせていただきましたけ というのは、コンクリートの れども、県の対策会議も夜七 固まりで最大限のメンテナン 平成 年3月 日午後2時 て未来への物語が少しずつ動 ても、一人一人の救いにはな 師 が 遵 守 す べ き﹁ 倫 理 綱 領 ﹂ らない。宗教・宗派的な文脈 を共有する。それは﹁政教分 時から毎日やっているという スをやって百年持つそうです。 分東日本大震災発生。大津 き出す。 夫を失った女性。津波は、 で語られる﹁ 救い ﹂ではなく、 離﹂の印籠によって、宗教を ので参加しました。その中で 逆にいうと、百年以上は無理 波は多くの命と財産、そして あった話で、壊れた家電など で、メンテナンスをやらなか 思い出までも奪い、あとには 避難誘導している夫を海の底 その人の物語の文脈で語られ 公共空間から排除してきた日 の震災ゴミが街中で溢れてい った場合、大体五十年でおか 生と死の狭間で苦悩する人々 へと引きずり込んだ。一緒に る﹁ 救い ﹂が自然に落ちてく 本 社 会 に、 宗 教 の 役 割 を 復 お地蔵様を作る。メガネをか るまでじっと待つ事が求めら 権・実装する為に必須の事で るのに、リサイクル法の問題 しくなってくるという。 が残された。 ある。 今後五十年間、日本にちゃ があって行政の職員は法律上 生とは!死とは!答えので け、微笑んでいる夫のお地蔵 れるのだ。 会の組織化や資格認定制度 傾 聴 活 動 は﹁ 自 他 ﹂の 境 界 んとしたメンテナンスをやる ない問いが突きつけられる。 様に向かい、心の奥底から叫 あつかえませんと。 ﹂ ﹁場﹂ は、様々な弊害を生み出す可 ﹁ あ ん た は い つ も 人 の こ 線を越える作業である。 吉澤 それで終わっちゃう。 だけの資金があるとは思えな 生き残ったことには必ず意味 ぶ。 久間 ごみ捨て一つ、がれき いので、多分五、六十年で風 がある、そう言い続け、その とばかり考えている、私のこ は 悲 し み を 引 き 寄 せ る﹁ 磁 能性がある事も承知している。 一つ、市の職員が扱うことが 化し始める。だから、彼の気 意味を考えながら共に歩む覚 ともすこしは考えて!﹂人目 場 ﹂と な り、 そ し て﹁ 慈 場 ﹂ 乗り越えなければならない事 をはばからず泣き出した。今 へと変化する。しかし﹁慈場﹂ が多い。志を同じくする、あ できないので、それをボラン 持ちとしては﹁まあ、いいか﹂ 悟を決める。 ﹁慈 らゆる立場の方々の参加を切 私達の使命。それは破壊さ まで心の奥底に閉じこめてい は同時に﹁悲場﹂なのだ。 ティアに丸投げしているよう となる。だから、あれを造っ な状態だったんです。こうい ていいのかどうかという話は れ、凍り付いた時間と空間を た想いが吐き出された瞬間だ。 悲﹂は厳しい言葉。切に他を に望むところである。 う状況のときには超法規的に 別として、人間が造ったもの 再びつなぎ合わせ、共に未来 人知れず泣く事と、人前で泣 想う心は同じ強さで己に返る。 臨 床 宗 教 師 の 役 割 は﹁ 風 ﹂ 対処しないと、いつまでたっ など所詮五十年、長くて百年 への物語を紡いでいくこと。 く事のとは大きな違いがある。 そ こ か ら﹁ 覚 悟 ﹂が 問 わ れ、 かもしれない。風はどこから 瓦礫の中にほっとする空間 彼女の悲しみの物語は、私達 その覚悟を支える﹁ 戒律 ﹂が ともなく吹き、花一輪を咲か ても復興のふの字も進みませ で滅んでいくわけです。そん せ、人知れず去っていく。そ んよと、喧々諤々になった。 なものに血道を上げていて、 を 作 る。 そ こ に 心 を 動 か す の物語へと繋がり、背負って 命の奥底から湧き起こる。 揺れ動く現場からは、常に して人々は風の存在を忘れて 法律といのは平常時を想定し なんと無駄なことをしている 様々な仕掛けを置く。人は位 いる悲しみの重さはほんの少 自己の信仰が問われ続ける。 しまう。 てのものですから、その辺の のかと、そのあたりの感覚を 牌の前で命の繋がりを語り、 しだけど軽くなった。 父との折り合いが悪いまま 信仰は、問いと答えが循環す ﹁花一輪咲けばいい﹂それで 僕らは忘れてしまったんです お地蔵様の前で奥底にこびり 意識変革が必要です。 ね、現代社会は。 ついた感情を吐き出す。そし お別れしてしまった事に悩む る事によって深まっていく。 いいのだ。 吉澤 今ちょうどがれき処理 46 10 平成29年(2017年)1月1日 仏 教 企 画 通 信 第46号 第46号 仏 教 企 画 通 信 平成29年(2017年)1月1日 11 150円 *『仏教企画通信』を10部以上購読希望の方は一部100円で頒布致します。 同封はがきの空欄にその旨をお書きください。(消費税、送料別) 光厳寺 岩手県 円城寺 愛知県 小島璋允 山形県 長應寺 神奈川県 青木義次 岩手県 廣徳寺 青森県 大乗寺 千葉県 宗胤寺 東京都 泉岳寺 群馬県 泰寧寺 静岡県 可睡斎 東京都 天寧寺 静岡県 宿蘆寺 ①仏事について︵準都会地︶ 運営内容概略─────── 家族葬の新しい形︵キャッ チコピー︶ 基 本 は﹃ 家 族 葬 の コ ー デ ︵ 仏 画 を 描 き そ れ を 仕 立 て、 ・ ・ 1. 3 2. 3. 10 写仏 精進料理教室 なぜ葬式が大事か 正木 先生 形だけのお葬式 にしない 哲学 内山節先生 写経 高橋先生 子育て支援の場を作る モ デ ル 事 業 と し て﹁ 子 供 茶堂﹂ ④地元目線での活動 子供プログラム 夏に始 動。宿題をみる、工作を つくる、天体観測など など︶ 自宅に小さな床の間を作る ②精進料理レストラン ィネイト﹄ 家族だけのささやかだが、 心のこもった仏事をする 宗教全般 正木晃先生な ど 山水画 特別プログラム を組んでみる 11. 12. 13. ・ ・ 遅い子供のために︶ 子供文庫 子供食堂の提供︵親の帰りが 子育て中のお母さんが集ま る場にしたい ﹁ 子 供 茶 堂 ﹂と は い ろ い ろ な人が行きかう場 目的 子供の居場所作り 小学生だけでなく、中学 生にも場を提供してあ げる 親が出来ない子供文化応 援の場をつくる 美大生にアルバイトに来 てもらう︵紙や葉っぱなど 日 庭 寺 に 行 け ば 遊 べ る、 悩みを解決できると思 われるようにする 子供が来れば親もくる 沢山準備して︶ : 60 30 ・・ 記 円通寺 ・ 後 秋田県 ・ 集 本覺寺 ・ 編 地福寺 ・ 曹洞宗檀信徒必読『葬儀のすべて』 霊元丈法著 宮城県 4. 5. 8. 7. 6. 10. 9. ・ ★ 140円 正信寺 50 20 計 ・ 佐賀県 神奈川県 300円 神奈川県 多摩美や造形の学生にギャ ラ リ ー を 企 画・運 営 し て もらう 学生が世にでるためのきっ かけとなれば良い 実力のある学生は日庭寺ギ ャラリーでデビュー ⑤学生にギャラリー提供 ・ 40 僧侶、お寺、本山、包括 ないです。日常生活でお寺 法人曹洞宗いずれも取り巻 さんとほぼ関わりはないし ③講座︵講師は予定︶ く社会があって、そのお陰 子供達への負担を少しでも お寺ならではの内容を優 で私達は成り立っています。 減らしたいからです。ただ 先する 今、私達を支えているそ 年齢を重ねれば気持ちが変 いろんな年代の人が出入 の社会が急速に変わろうと わるかも 知れないとは思 りするのが良い ﹂ しています。いや、すでに っています。 地 域 性 を 生 か し た 企 画、 この方のように考える年 変わってしまったのかもし 例えば人気引率者のウ 齢層は 歳∼ 歳以下でお れません。 ォーキング企画など 現代は日本の人口形態が 寺との縁が普段ない方でし 逆三角形になり、毎年人口 ょう。特に都会地ではこれ 俳句 津久井湖では 名 が減少し、家庭が崩れ、地 から 年から 年後にはお 以上の予約で屋形船に 域社会が崩れ、仕事も安定 葬 式 は お 坊 さ ん に と 思 う 時間くらい乗ること しなくなると日本を支える 方々がさらに少なくなると ができる 力が弱くなります。 予想できます。 山あり谷ありで吟行で このことは私達を支えて 私は、お寺にとって今こ きる。都内では出来ない くれた基盤も弱くなりつつ そ仏事以外にも地域の核に ことができる あると言えるでしょう。 なる働きをするべき時代が 地 域 の 歴 史︵ 仏 教 文 化 と 地 さて、私達お寺はどうあ 来たと思います。 域の風土をメインに︶ 松 るべきなのでしょうか。 日本の社会は自然と生き 本先生 知り合いの 代女性の話 る人と亡くなった人との社 タ ー ゲ ッ ト リ タ イ ア で す。 ﹁ 両 親 は 曹 洞 宗 を 信 会として作られていました。 している男性︵この層は行 今こそお寺は地域社会の 仰しお墓もあるので、お葬 き場所が少ない︶ 式は菩提寺の住職にお願い 求めにこたえることが大事 禅による瞑想 キラース したいと思っています。で です。 トレスを減らす。坐禅し それぞれのお寺の立ち位 も自分のお葬式はお寺さん なくても瞑想だけでも にお願いする気持ちは今は 置は違いますので、それぞ 良い れの立ち位置で取り組みが 写真 石原先生 写真を 違うことは当然です。 撮ることによって自分 たまたま、わたくしは神 の心を開放する 奈川県相模原市緑区に新し 歌 木村先生 みんなで いお寺を建てたく計画をし 歌 う 事 は 脳 に 作 用 す る。 ています。 歌うだけで認知症を予 その計画は次の通りです。 防できる 271,000 合 ※ご寺院名後の番号(3 桁もしくは 4 桁)がお客様番号(コード)になります。 お申込みは ①ご寺院名 ②お客様番号 ③電話番号でも可能です。 仏教企画 〒 252-0113 神奈川県相模原市緑区谷ケ原 2-9-5-5 TEL: 042-703-8641 FAX: 042-783-0989 Email: [email protected] お申込み ★ 曹洞宗檀信徒必読『供養のすべて』 霊元丈法著 5,000 20,000 10,000 3,000 15,000 5,000 10,000 8,000 10,000 5,000 10,000 10,000 10,000 50,000 50,000 20,000 10,000 20,000 ★ 須田道輝解説 『曹洞宗檀信徒経典』 青木義次 1部 200円 200円 150円に割引 135円に割引 130円に割引 120円に割引 110円に割引 100円に割引 90円に割引 ★ 9部以下 10部以上 20部以上 50部以上 100部以上 200部以上 300部以上 500部以上 神奈川県 1,800円 学 り ま 金額 須田道輝著 高昌寺 500円 寺院名(個人名) 『わが心の釈尊伝』 愛媛県 須田道輝著 所在地 30円 『まんが問答一期一話』 妙徳寺 修証義読本『生老病死』 寄附者御芳名 H28.8.1∼9.30 長井龍遺著 手 発行日 長田暁二・ ★ 1,200円 西舘好子共著 文 平和宏昭 ★ 1,200円 まんが 垣内敬遠 福井県 2,200円 『道元禅より見たる般若心経解説』 長井龍遺著 23,000 計 曹洞禅グラフ 『うたい継ごうよ、子守唄』 正信寺 10,000 3,000 10,000 所在地 神奈川県 金額 丸山劫外著 寺院名(個人名) 園 『葬送のしおり』 2月20日 5月30日 8月30日 10月30日 春 彼岸号 夏 お盆号 秋 彼岸号 冬 正月号 合 ★ 1,400円 『修証義』解説 ご支援寺院名 H28.8.1∼9.30 仏教企画発行の刊行物 ( ★ 部数により割引があります) すべて税別価格です 信 通 画 企 教 仏 12 平成29年(2017年)1月1日 仏 教 企 画 通 信 第46号
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