YMN004004

﹁石上布留﹂|
﹁歌枕さ テ マイレ﹂
|
実方歌の歌枕㈱
一
藤原実方の官歴を、﹁中古歌仙三十六人伝切は次のよヮ
,に記す。
藤原案万、左大臣節男公孫。侍従貞時男。母左大臣雅信 公立。
天禄 二一年正月
廿 四日任左近将監。故左大臣
検 呑吐之。 四 年正月 セ
日叙従五位下。︵中略︶正暦二年九月世一日任右近中将 。四年
正月セ日叙従四位上。五年九月八日転左近中将。長唾 万年正月
ている。
圧尾雅信
このように出自からも将来を嘱望きれた実方であるが 、長徳元
︵九九五︶
年陸奥守を兼任し、その年の九月二十セ日赴 任の由を奏
で没している。
万ロ論ノ事
上し︵﹁権記﹂︶、まもなく下向し、同四 九九八︶年 十二月任地
この人事の経緯が﹁古事談﹂二三二﹁行成、殿上二
ブラビ 二栄達 ノ事﹂八巻 一フ二二二
V︶に次のように記さ れている。
一條院御時、実方興行成於 殿上口論2間、実方政行成之 冠、
投棄小庭退散 尹 。行成無謬 気静喚主殿司、取寄冠、催 砂君之
十三日報陸奥寺。四年十二月草。
実方は、小一条左大目師尹男侍従定 ︵
貞︶時を父とし、 母は左大
云、左道 二イマスル公達哉 甘。主上、自小蔀御覧 ジテ、 ほ成ハ
実方は藤原行成︵九セ ニー一0二七後 ノ少将義孝男︶ と殿上で
万ラ バ歌枕ミテマイレトテ、被任陸奥守戸。放任国逝去 五ム
君位 ツベキ音也ケリトテ、板締蔵人頭、干時備前介前兵衛
、実
佐也
臣 涼雅信の女で、後に道長室となった鷹司殿倫子の姉 妹 である。実
﹁小一条
父定時が天徳三・四年頃侍従になって、間もなく没したため、実方③
は叔父済時 九四一| 九九五︶の養子となった。済時は
大将﹂と呼ばれ、正二位権大納言を極官とし右大臣の位を追贈され
召仕 ツベキ音也
っていた一条天皇は、冷静沈着に対処した行成を﹁
てず冠を取らせその砂を払いのけた。その光景を小蔀から御覧にな
口論となり、彼の冠を庭に投げ捨てて退散したが、行成は少しも慌
これは、実方の個人的な特質というより、むしろ、時代的
いるよ う に、実方は歌枕を詠み込むのを得意としていた。しかし、
も草さしもしらじな燃ゆる思ひを﹂にも﹁伊吹﹂の歌枕が 詠まれて
ロ百人一首口 にも採択されている﹁かくとだにえやは伊 次 のさし
れの中に位置すべきことである。中世の説話の世界では実方はこの
後撰集時代から歌枕を歌に詠むことが盛んになってきた和歌 典 の流
な 傾向で、
ケリ﹂と蔵人頭に抜擢し、実方を﹁歌枕 ミテ マイン﹂と陸奥寺に左
遷 なきったというのであ㍉。 司古事談口には更に、陸奥寺在任中の
よ う に歌枕と結びついた存在として意識されているが、
本稿ではこ
の事情を、大和の歌枕﹁石上布留﹂の詠まれ方を考察することによ
実方が﹁歌枕﹂を毎日見て歩き、ある日﹁阿古屋の松﹂0所で地元
られたとい
の ﹁老翁﹂から阿古屋の松を詠み込んだ﹁古歌﹂を教え
①﹁群書類従﹂︵第六五巻︶
って探ってみたい。
注
②内閣文庫本には﹁ 任 陸奥寺﹂と記す。
④古典文庫昭和 邱年
③岸上慎二氏著﹁清少納言伝記放 ﹂︵昭和魂 年
⑤同様の話が﹁十訓抄﹂︵第八﹁可 堪忍 干 諸事事﹂︶ や ﹁源平
新生 社刊 ︶
ぅ説話︵ 一セ一﹁実方ト奥州 ァコヤノ松ノ事﹂八巻 一フ セ二Ⅴ︶も
収録されている。
編者涙顔兼が没しに建保温二二一五︶ 年近くに成立したと推定
きれている 司古事談口は、その事件より約二百年後に成立してい
る。この 司古事談口に記された一条天皇の﹁歌枕ミテマイレ﹂とい
参れ﹂
一条天皇が、殿上で争った藤原実方に対して﹁歌枕見て
盛衰記 仁 にも見え、このような説話が生じた理由等について
現代思潮社刊
と命令されたという﹁古事談日や﹁十訓抄﹂の記述は、 一条天
は拙稿﹁実方の説話 |陸奥左遷説話の発生原因憶測| ﹂ ︵口中
う左遷命令についての真偽について、片桐洋一氏は、
皇の言葉ではなく、この時代の記述であると見れば十分 に納得
古文学の形成と展望王朝文学前後ヒ平成7年和泉
刊 ︶を参照いただきたい。
⑥実方の現存家集には、陸奥に下向した実方が毎日歌枕を探訪
書院
できるのである。
と述べられ、実方の生きた時代ではあり得ないが、﹁古事謙三の成
立した時代であれば、そのような話が生じることの可能性を指摘し
ておられる。
三セ
﹁大伴の御注﹂・﹁磯城島の大和﹂と同様であ㍍。
﹁石上布留﹂と広狭の二つの地名が重なるのは﹁ささみ
なの上賀
か﹂
三八
したことは記されていない。又、﹁阿古屋﹂を詠み込んだ歌
歌 ことば辞典﹂︵昭和明年角川書店刊︶、滝沢貞夫
㈹石上布留の山なる 杉 わるの思ひ過ぐべき 君にあらなくに
われている。用法数の一番多いのは、
の歌である。表記としては﹁布留﹂の場合すべて﹁ 振﹂の文字が使
わさった﹁石上布留﹂を詠んだ歌は十五音 あ り、 歌の内容は殆ど 恋
司萬葉集﹂には、﹁石上﹂、﹁布留﹂、叉 はその二つの地名が合
﹁萬葉集﹂の﹁石上布留﹂
②コ時代別国語辞典上代縞し︵昭和 駆年三省堂 刊︶
①﹁石上神宮略記﹂
はこれらの脚高説の段尾 に付いて考察したものである。
日和子氏執筆﹁布留﹂・﹁袖振山﹂︵同︶に御論考が め るが、本
氏執筆﹁石上﹂︵﹁和歌文学大辞典﹂昭和鮭年 明治童日院刊
︶、
阪口和子
歌枕としての﹁石上布留﹂については、既に、片桐洋 一氏著﹁歌
もない。
⑦ コ歌枕欺 ことば辞典口 ︵昭和
謎 牛角川書店刊︶
﹁石上布留﹂
注
二
名帳上︶には﹁石上生布都御魂神社﹂と、又、﹁和名抄﹂廿
︵巻本︶
は国平けの神剣﹁市部御報大神﹂である。天孫降臨の際に国土を鎮
足し、天武天皇東征の折は邪神を平らげ建国の基礎を定めた。天皇
はその後功績を讃えて、物部氏の遠祖宇摩恵麻治に命じて宮中に奉
斎きせた。それを崇神天皇が物部氏の祖供香色雅に命じてこの石上
の高度に祀ったのが初めである。㍉枕直子ロ ︵二四三段︶にも﹁
社
は、布留の社﹂と讃えられている。叉、ここは、安康帝 の穴禰宜 や
仁賢帝 の広高宮の、二帝が治めた地でもあった。
布留は同市布留で、その名は崇神天皇が布留の霊宝を鎮座せしめ
たことに由来する。布留Ⅲは、その石上神宮の側を酉に流れ、初瀬
溝。布留の滝は、法皇の御覧じにおはしましけ
﹁滝は、おとなしの
上布留の山なる彩 むらの﹂が同音の繰り返しにより﹁思ひ過ぐ﹂を
のように、序詞として使われるものである。この歌は、上三旬﹁石
︵養三四二二︶
んこそめでたけれ﹂と記された﹁布留の滝﹂がある。
Ⅲに合流する。この上流を布留野といい、 コ枕草子口宍 一段︶に
一
一
石上とは現在の奈良県天理市石上町であり、﹁延喜式 九﹂︵神
には﹁石上伊曽乃
如実﹂と記きれた石上神宮がある。石上神宮の祭神
穂 坂 各 枕
名高い石上神宮に対する崇敬、永久なものに見える杉 群などの関係
﹁古くより
詞 となり、二重の序となっている。㈲との類似歌が㈹である。
から﹁瑞垣の﹂までが﹁古い神社である為﹂に﹁久しき﹂を導く序
㈲は﹁をとめらが袖 ﹂が﹁ふる ﹂を起こす序詞となり、更に初句
導いている。石上の﹁杉 ﹂は、﹁神杉﹂㈲とも呼ばれ、
で捉へ﹂られたものである。序詞としてのこのような例 は、次の通
上二旬は﹁穂に出づ﹂を起こす序詞 である。﹁早稲田﹂は﹁万。 ふ
袖 ふる山の瑞垣の久しき時の 思ひき 我
となっている。
枕詞として使われているのは、
㈹石上ふるとも雨につつま
が ﹁降る﹂を
、更に﹁さざれ波﹂
めや妹に逢はむと言 ひてしものを
次の一例である。
を導き、それを含めた第三・四句か ﹁絶えむ﹂に掛かる二重の序詞
が﹁ 間 なく﹂を起こす序詞となり ㈲では、﹁石上袖﹂が﹁ふる﹂
﹁高々に﹂を 、㈲は﹁との曇り雨﹂
が﹁ 神 きぶる﹂を導いている。㈲ は ﹁石上布留の高橋﹂が同音の
㈹は﹁石上布留の神杉﹂が﹁神び﹂を、㈲も﹁石上布留の神杉﹂
う ち返し 君ぞ 恋しき大和なる 布留の早稲田の思ひ出でつつ
︵恋 一五一二請人知らず︶に も用例がある。
のように、慣用句的に用いられていたものであろうか。 司後撰集 L
巻セ一 三五三︶
︵
㈹石上布留の早稲田を秀でず とも無だに延 へよ守りつつ居らむ
斗よ
︶
﹂︵ 門八雲御抄L︶で、﹁山地で発育
ると三所の田賦。市人二名所 ①
が おくれる為に、早稲を作る﹂のである。﹁石上布留の早稲田﹂
りである。
㈲をとめらが
︵
巻四五 0 一︶
㈹石上布留の早稲田の穂には出でず心のうちに 恋ふ るこのころ
︵
巻九一 セ 六八︶
袖 ふる山の瑞垣の久しき時の思ひけり 我は
︵
巻十一九二 セ ︶
㈹石上布留の神杉神びにし 我 やさらさら恋にあ ひ に け
㈹をとめらを
セ︶
︵
巻十一二四一五︶
け石上布留の神杉神さぶる恋をも我はきらにするか
︵
巻 十一二四一
㈹石上布留の高橋高々に妹が待つらむ 夜ぞ 更けに け
︵
巻十二二九九 セ︶
我妹子や我を忘らす柱石上袖 ふるⅢの絶えむと 思 へや
︵
巻十二三 0 一し
㈲との曇り雨ふるⅢのさぎれ波間なくも君は思ほゆる
㈲
︵
巻十二三 0 一二一︶
三九
︵
巻 四六六四︶
序詞・枕詞として使われている他は、掛詞として使われている。
﹁両掛卸﹂と地名の﹁布留﹂とが掛けられている
先述の 、㈲・㈹・㈲では﹁袖振る﹂と地名の﹁布留﹂とが掛けられ、
叉、 ㈹ や妬乙は
乞の掛詞については後に詳述︶。
注
四O
社刊 ︶
①窪田空穂 著 ﹁萬葉集評釈﹂︵昭和㏄ 年 東京堂出版 干
U︶
② 浬 清人 孝 氏著﹁萬葉集注程﹂︵昭和㏄年中央公論
③㈹の﹁ 異伝 ﹂︵ 注 ②︶
一四四︶
素性法師
同古ム﹁集目でも枕 詞や序詞
︵﹁
@
⑤滝沢貞夫氏は﹁万葉には布留とのかけ詞によって コ降る﹂に
かかる 例 ﹂は﹁一例﹂として、㈹のみをあげておられる
これらの修辞として用いられた他には、次の長歌のように﹁石上
布留の尊﹂と人名を表すが、これは﹁乙 麻呂の氏が石上であるが、
明治書院 刊 ︶。
散文学大辞典﹂昭和㎝年
の 一部として使われている。
コ
萬葉集 L のこれらの用法と同様に、
四八代集における﹁石上布留﹂
⑥ 注②
石上布留の尊とたはわれて名づけ﹂用 いたユーモラスな例がある。
︵
巻六一 0 一九︶
㈲石上布留の尊は手弱女の惑ひに よりて馬じもの縄取り付け
︵Ⅱ林下・波崎︶
次の例は、﹁石上﹂又は﹁布留﹂の地名を歌に詠み込んだだけの
側 である。
ひ ナむのこの古川清き瀬の青
ならの石上寺にて郭公の鳴くをよめる
石上ふるきみやこの郭公こゑばかりこそ昔 なりけれ
︵
立脊
七一一一一︶
う つせみの世の人なれば大君の台長み・・大磯城島の和の国の石
㈹いにしへもかく聞きつつかしの
㈲
︵
夏
.
ナ@
ハ
。
﹁ふるき都﹂とは、先述のように石上は安康・仁賢二市が治め
﹁石上寺﹂は良日 院 ともいい、この歌の作者素性が住持 してい
巻九一セハセ ︶
︵
ゆ直に見渡す都にぞいも 寝ず 恋 ふる遠からなくに
上布留の里に紐解かず︵以下略
㈹布留山
︵巻九一 セ 八八︶
﹁石上﹂は﹁布留﹂の枕詞であるが、この場合地名﹁
布 留 ﹂と
た地 であったのでこのように歌い、その旧都を懐古しているのであ
る。
の 掛詞﹁ 古る ﹂の枕詞ともなっている。同様な例は、
人セ 0
布留今道︶
日の 辻 やぶし ねかねば石上 ふりにし里に花も咲きけり
︵
雑上
ふ所にこ
一0 二三諦人知らず︶
石上 ふりにし恋の神さびてたたるに我は寝ぞ寝 かね つ
︵雑節
﹁日の光﹂の歌は、﹁石上並松が宮仕へもせで石上とい
﹁もとかしは﹂は
コ
萬葉集 口 ︵
巻十一・ニセ五九︶に﹁我宿の穂蓼
古幹摘み生ほし実になるまでに君をし待たむ ﹂とも 詠まれている
が、 古い老いた幹である。
0︶
先に引用した﹁萬葉集﹂㈲は 、 次に引用する長歌︵ 巻二一 四一一
に 対する反歌の一つである。
なゆ 竹のとをよる御子さ丹つらふ我が大君はこもりくの
て、よみてつかはしける﹂と詞書にあるように、﹁石上% 松 ﹂の 姓
込 めよ う に布留Ⅲの末は初瀬Ⅲにムロ流するからであるが
この長歌には﹁こもりくの初瀬の山﹂が詠まれている。
、﹁吉ム集
﹁﹂
これは 先
出 に神さびに斎きいますと玉梓の人ぞ 舌口ひっ
る ︵以下略
コ萬葉集目 一0 一九㈲と同様である。 叉 、前歌 と
もり侍りけ る を、にはかに 冠 賜はれ り ければ、喜び @ ひ つかは すと
を 歌に詠み込み、
様である。
︵
雑鉢一
石上の近辺
00 元請人知らず︶
﹁後撰集﹂︵罷旅一 三五八伊勢歌の詞書
初瀬の精進はじめて、その日京 をいづるに︵中略︶そこ
を立
そのかへる年の十月村五日、大嘗会の御旗とののしるに
﹁更級日記﹂
初瀬へ詣づとて、山辺といふわたりにてよめる
-
の道を通ったらしく、次のような例が見られ、後述の実万集 棚 6 回
初瀬川と共に詠まれた例がある。長谷寺参詣の折には、
る杉
初瀬Ⅲ ふる№のへに二本ある杉年を経てまたも めひ見 む 二本 あ
こも、
︶
も 古いもののたとえとして石上が使われている。
セ九貫之
石上布留の中道なかなかに見ずは恋しと思はましやは
︵
恋四六
又 、﹁ コふるL には 昔 なじみの 、
な
は、﹁石上﹂が﹁布留﹂の枕詞となり、更に﹁中道﹂が同 土日の﹁
かなか﹂を導く序詞となっている。
﹁中道﹂には二人の仲とい, ヮ意が掛けられて﹂使われて いる。
古﹂と地名﹁布留﹂との街 詞 で、﹁石
雑上八八六議人知らず︶
︵
石上ふるから小野のもとかしはもとの心は忘られなく
これも、﹁ふる﹂が古幹の﹁
上﹂がその両方に掛かる枕詞の働きをし、更に、 ﹁もとかしは﹂が
﹁もとの心 ﹂の﹁もと﹂を同音で舌ロ い起こす序詞とな っている。
四一
山辺
ちて、東大寺に寄りて拝み奉る。石上もまことに古り にける
ことと思ひやられて、むげに荒れはてにけり。その夜、
といふ所の寺に宿りて
叉、僧正遍昭の母が住んでいた荒廃した布留の家が 詠まれてい
る。
仁和の帝、親王におはしましける時、布留の滝御覧ぜむと
ておはしましける道に、遍昭が母の家に宿り給へりける 七寸
に、 庭を秋の野に作りて御物語のついでによみて奉りけ
僧正遍昭
︵
秋 上二四八︶
里は荒れて人は古りにし宿 なれや庭もまがきも秋の野らなる
荒れた﹁石上﹂の例は、
セ
藤原範 永 ︶
見しよりも荒れ ぞし にける石上秋は時雨の降りまさり つつ
︵﹁後拾遺集目秋千三一八
一八八四能因法師︶
石上古りにし人を尋ぬれば荒れたる宿にすみれつみけ
﹂雄牛
集
︵﹁新古 ム﹁
の詞書
﹁仁和の
遍昭は布留に住んでいたので、このように布留にきつね る歌が多
い。﹁布留の滝﹂は兼芸法師の歌︵離別三九お
帝、親王におはしましける時に、布留の滝御覧じにおはしまして、
帰り給ひけるによめる﹂にもある。
四二
このように口舌 ム﹁集目では コ
萬葉集 Lと同様の、﹁布留﹂と﹁ 古
にあった、﹁ 布
る﹂との掛詞とか、﹁石上﹂が﹁布留﹂と﹁白8﹂との 枕詞になる
という修辞が用いられている。しかし、同萬葉集目
@
留﹂と﹁降る﹂・﹁振る﹂との掛詞の用例は見られなⅠ
僧正遍昭
﹁後撰集しの用法は、﹁ 古る ﹂との掛詞、﹁早稲田﹂を用いた 歌
萬葉集目・コ舌ム﹁集 口の域を出ない。ただ、
で、 コ
大和の布留の山をまかるとて
石上布留の山辺の桜花ぅゑ けむ時をしる 人 ぞな き
︵奏申四九︶
のように、布留の山に咲く桜が詠まれ、初めて春の部立 に登場す
春四
0
藤原範 永 ︶
散る花もあはれと見ずや石上ふりはつるまで階 しむ 心
る。桜が詠み込まれる例は、
︵﹁詞花集﹂
や、日新古 ム﹁集しの八八︵後に引用︶・九六に受け継がれる。
﹁拾遺集﹂も、﹁ 古る ﹂との掛詞、又、石上が﹁古る ﹂ にかかる
枕詞とか、又、
諸人知らず︶
石上布留の社の木綿裡 かけてのみやは 恋 むと思ひし
︵
恋四八六 セ
のように序詞の一部乞の場合﹁かけて﹂を導く︶ とな っている。
詞花集 口は 、﹁古る ﹂
司徒拾遺集 L は前掲の一百三六 セ ︶のみ。 コ
使 詞 の
と
席
0
詞 、又、枕詞として使われ、
@、
千載集 L では、それと 共 こ
コ
して使われている。これらは何れも﹁萬葉集﹂・﹁古ム﹁隼@
の域を出ていない。
古今集﹂も同様である。
上 ふる き都を来て見れば 昔 かざしし花咲きにけり
︵奉上八八請人知らず︶
0 コ後撰集 L ︵四九遍昭︶を受けている。
、 先のコ舌ム﹁集目︵一四四︶等を受けている。
ることを考察されている︵﹁奈良の石上﹂同文学口 ㏄ 巻 2 号
柏槙葉二にも﹁ 良因 といふ寺にて、ふる め やしろ
コ
昭和㏄年 2 月︶。
②この寺は
のもみぢを見る﹂とある。
③竹岡正夫氏著﹁古今和歌集全評釈﹂︵昭和明年右文 書院 刊 ︶
④﹁ふるⅢ﹂については、
初瀬川を古い川という意で呼んだものか、古い河流のあっ
たところの 意か 、それとも布留を流れて初瀬Ⅲにムロ流す
布留Ⅲ︵古川とも- をき すのか明らかでない。三つめの意
なら、﹁初瀬Ⅲの上流の古川﹂と解すべきである。︵小
他 ﹁早稲田﹂二七一・九九三︶、﹁神杉﹂︵五八一
小学館刊︶
正夫氏校注﹁日本古典文学全集古今和歌集﹂昭和 駐 年
が
等も詠まれているが、これらも﹁萬葉集﹂・﹁古ム﹁集 ﹂ と同
一O
又 、石 上 の桜
る﹂との掛詞となり、﹁古き都﹂が安康・仁賢両天皇の旧都
石上﹂が﹁ふる﹂にかかる枕詞であり、﹁ふる﹂は﹁布 留 ﹂
述し古
先指
をとも
「 「、
様 二
形 むら。 桜。いそのかみ﹂︵
四三
年三
コ八雲 御 ゆ ﹂︶。
﹁布留﹂の桜を詠んだ早い何としては、次の﹁延喜十三
⑥﹁ふるの
は 荒れたる所にっ む なり﹂ コ八雲御抄 L︶とも理解でき る 。
の女の宿が荒れていてそこの董を摘んだ︵﹁すみれ1町また
⑤﹁新古今集﹂の歌は、﹁石上が荒れていた﹂というより、 そ
杉 ﹂ の歌
との三つの説があり、存疑である。この一・二本ある
であ
れている。
る。
一セ
九六女御 徴 子女王︶
は、 コ源氏物語 口 ︵﹁五%﹂・﹁手首﹂︶で引歌として 使わ
︵靴下
と 自晦気味に詠んだものである。
地点の﹁なら﹂がこの﹁ならのいそのかみ﹂の﹁なら﹂
この﹁なら﹂について、奥村垣哉氏は ﹁石上郷﹂に隣接 した
の社の身﹂︵古の身︶
は、伊勢神宮に斎宮である規子内親王と仕えている我が身を
留 れ
な人の背き果てぬる世の中に布留の社の身をいかにせ
みあで八こ
)の
注 「
布こ
月十三日亭子院 歌ムロ﹂是
の則の歌がある。
石上布留の社の桜花こぞ見し春の色や残れる
⑦﹁大和物語﹂︵四十六段︶にも同様の例がある。
白露の起きふしたれを恋ひつらむ我は聞きおはず石上
正実方集の﹁布留﹂
首 ある︵引
実万集には、﹁石上﹂又は﹁布留﹂を詠み込んだ歌が三
角本文は宮内庁書陵部蔵 ﹁実方朝臣
集﹂一五 0. 五ハ0 広本、適
よそながみ
ら消
消え
えず みあは雪の布留の社の神をこそ思へ
同じ敗に、宮の内侍といふ人、男に髪きられたりと聞 きて
宜仮名を漢字に直し、叉、濁点を付しこ。
ib
﹁同じ殿﹂とは、前歌の詞書にある﹁小一条殿﹂、即ち先述の実
四四
同じ女に、大将すみて、きらにあはせざりしを、から,
てものなどい ひて 、つとめて
パ石上ふる き道 とは知りながらまどふ ばかり ぞム﹁日は恋しき
っじ
﹁大将﹂とは的の済 時 であり、﹁同じ 女 ﹂は糊の﹁ う ち に侍りし
人﹂を指している。実方の通っていた女に済時も通うよう になり、
逢 う ことが叶わぬよ う になったがやっと話すことが出 来るよ う に な
﹂は﹁ふる﹂
栗脇 晶子氏が指
道﹂の両方 に掛かり 、﹁古き道 ﹂
った、その翌朝、女に﹁恋しき﹂思いを訴えた。﹁石上
にかかる枕詞で、﹁布留﹂と﹁古き
は 実方が通い慣れた道を意味している。この歌は、
摘 しておられるよ う に、﹁石上布留の中道なかなかに見ずは恋しと
思はましやは﹂︵日吉ム﹁集ヒ恋四貫之 ︶を念頭に置 き、その 会
心ぞ わびしかりける﹂︵﹁吉ム ﹁隼@
恋 一一
情 をも含んでいる。 又、後藤祥子 氏は 、これと共に﹁ わ が恋は知ら
ぬ山路にあらなくに迷ふ
貫之 ︶も踏まえることを指摘しておられる。
初瀬にま ぅ でⅠ、おぼつかなかりし事などいひて、女
方の養父済時を指す。その溝時に仕えていた﹁宮の内侍﹂が何か不
れ石上布留のせがはの水絶えて妹に逢はずてはどぞ へにける
実方が長谷寺に参詣した折、女に逢いたい旨を送った歌 である。
都合をしでかし、男に髪を切られたと聞いて実方が詠んだものであ
﹁ふる﹂
る。歌の第三旬までは﹁ふる﹂を導く序詞となり、﹁かみ﹂には切
長谷寺は、奈良県桜井市初瀬にあり、古来より参詣人が 多く、平安
られた女の﹁髪﹂と布留の社の﹁神﹂とが掛けられ、又
には﹁あは雪﹂が﹁降る﹂ことと﹁古る﹂や地名の﹁布留﹂が掛け
時代の女性の崇拝を集めた寺である。﹁布留のせがは﹂
は 布留川で、
られている。﹁あは雪﹂は、 ﹁おそらく眼前の夷
景 で、髪を切られ
長谷寺へ参詣する途中にある川。﹁石上﹂は先の引用歌 と同様﹁ 布
のせがは﹂に掛かる枕詞であるが、その布留Ⅲの水が絶えたよ,っ
あなたに会えずに随分年月が経ったと、その苦しい胸の内を吐露
留
たものである。ここでは﹁枯渇した布留Ⅲを見て、 長ら く 恋人に
に
わないでいたことを思いおこして、嘱目の景を比楡 とし て﹂使っ
し
か
宗里一セ 六五大伴石見︶
かきくもり 雨 ふるⅢのささら 浪間 なくも人の恋らるる
宗仰五九五六人膚︶
両首 とも、作者が 高英歌人であり、類似 歌が第二章で引 用 したよ
萬葉集し︵㈹・㈲︶にある。従ってこの二官は ﹁萬葉集﹂ か
うに コ
年 7 日ハ
︶
3
年回
口第十一号昭和 ぬ午
後に﹁平安朝文学成立の研究韻文綿﹂平成
コ
新古 ム﹁巣ロの次の例を待たなけれ
ばならない
後鳥羽院
︵
冬、五八一︶
藤原長刀
︵
冬
﹁雨 ﹂ が
ハハ0 ︶
っている。
︵五八一︶、
雨﹂、㈲も﹁ 雨 降るⅢ﹂と、
新古 ム﹁巣口では﹁時雨﹂
コ
棚の以前の作品では、次の例である。
四五
石上布留の歌で﹁降る﹂と掛けられた歌は、第五章で述 べた実方 歌
﹁初雪﹂︵
八一0
八︶が降ることが詠まれ、降る主体が異な
降ることを詠んでいるが、
﹁萬葉集﹂のは﹁降るとも
籾車ョのふるの神杉埋もれてしめゆふ 野辺は冬ごもり せ
冬の歌あまたよみ侍りけるに
深緑あら そひ かねていかならむ間なく時雨のふるの神 杉
冬の歌の中に
三人とも﹁新古 ム﹁集 ﹂時代の歌人である︶。
るのは、勅撰集では
以外には少なくとも三代集にはないことになる。この街 詞 が出てく
は ﹁萬葉集﹂
ら 採られた歌である。つまり、﹁降る﹂との掛詞の用例
②﹁藤原案 万 歌の特色﹂︵﹁ 請文﹂第五十五宿昭和郎
岩波書
⑤ 注①
六
石上ふるとも雨にさはらめや逢はむと妹にいひてしものを
は、次の コ拾遺集日二百が初めてである。
八代集において﹁布留﹂が﹁降る﹂との掛詞として用いられるの
﹁降る﹂との掛詞
所出版刊に再録︶。
Ⅱ月
︵﹁清少納言と藤原実方﹂﹁並木の里
④増淵勝一反はこの﹁ 女﹂を清少納言かと推定してお られる
店刊 ︶
③岩波新日本日興文学大系﹁平安私家集﹂︵平成6 年
①竹島 績氏著 ﹁実万集注釈﹂︵平成 5年貴重木刊行 ムム
皿Ⅱ︶
注
いる。
会
て
﹁寛和二年六月十日内裏 歌ム二︵十六番友好恵︶
初時雨ふるの山里いかならし住む人きへ や袖のひづら
﹁
曽禰好忠集 ﹂
春雨のふるのみやまの花見ると三笠の山をさしてのみ こそ
しかし、この二例も﹁初時雨・春雨﹂が﹁降る﹂歌で ある。﹁ 雪 ﹂
﹁金椀 集 ﹂
自由ョのふるの 山 なる 杉 わるの過ぐるほどなき年の暮 か
﹁後 鳥羽 院 何集﹂
ひ かずを空にまか
を がや 原うら がれにけり冬の雪ふるから小野の曙の空
﹁拾遺愚草﹂
石上ふるのは雪の名なりけり っもる
﹁順徳院集 ﹂
になり、
﹁石上布
﹂の﹁ 田﹂
ョ がその歌枕の一誌法 として定着していった こ とが窺え
、平安時代末期から鎌倉にかけて詠まれるよう
帝ョ
とのみ ふるの山辺は埋もれて青葉 ぞ花のしるしなり ける
せて
白 ゆふを 生 よりたれか た むくらむ ム﹁
朝初雪のふるの神 杉
﹁北陣御室楓葉﹂
ひきかたのあまぎる雪に石上ふるの道もまどひ ぬるか
﹁摂津 集 ﹂
﹁降る﹂歌は 、
が
と
留
四ハ
コ百事 談﹂の中で実方 と 歌枕 と が結 びつく
る。これは、この時代の歌人が前引の実方の歌からその よう な 掛詞
を 学んだからであろう。
のもこの辺に原因があったと思われる。このような用例は他 にもあ
るが、稿を改めて述べたい。
①コ授納言葉 口 にも同じ歌が収録きれている。
注
②萩谷村氏編著﹁平安朝歌合大成一二
の本文により、適宜仮名を漢字に改めた。
③私家集の本文は特記しない限り、明治書院刊 ﹁私家 集 大成口
④群書類従︵ 巻 第二六五︶
⑤ 続群書類従︵ 巻 第四二四︶