大阪府埋蔵文化財調査報告2009-4 九 頭 神 遺 跡 府営枚方牧野東住宅建替第 5期 工事 に伴う調査 大 阪府教育委員会 九 頭 神 遺 跡 府営枚方牧野東住 宅建替第 5期 工 事 に伴う調査 大 阪府教育委 員会 巻 頭 図版 ﹁ 九 頭神 遺 跡 & 調査地周辺 の遠景 (垂 直 B北 が上方 ) 調査地 は右 中央・ 九頭神廃寺は左中央・ 下方 を流れ るのは穂谷川 巻 頭 図版 2 調査 地 周 辺 北から︶ 穂 谷 川と 牧 野車 塚 古 墳 を 望 む ︵ 南から︶ 穂 谷 川 と 男 山 丘陵 を 望 む ︵ L 巻 頭 図版 3 第 I調査 区全 景 ︵ 南 から ︶ 翠 南から︶ 第 Ⅱ調 査 区全 景 ︵ 一一 一 一 一 一 一 一 . L はじめに ││が 流れ、 大阪府枚方市 は大阪府 の北東部、京都府 との府境に位置 します。市域の西限には淀ナ 東南 に生駒山系 を望み、生駒山地か らのびる丘陵か ら淀川左岸 の沖積地 まで、さまざまな変化に 淀川 の水運を利用 して古 くか ら交通の要地 として栄え、 富 んだ複雑 な地形を呈 しています。また、 文化的 にも開けた長い歴史をもつ町です。 一方 で、大阪市の中心部まで 1時 間以内の通勤圏内にあ り、住宅地 としての開発 もすすみ、急 速な変化を遂げてきま した。今 回の調査 も老朽化 した府営住宅の建て替 えに ともない、平成 10 年度 か ら継続 してお こなわれてきた一連 の発掘調査 の最終工 区 にあた ります。 これまでの調査の 結果 か ら、弥生時代前期か ら中世の重要な遺跡である ことを確認できま した。今回の調査 におい ても、弥生時代中期 の方形周溝墓 がみつか りました。 今 回の調査成果 は、地域の皆様のよ り豊かで質 の高 い文化環境を積極的 に創出するための一助 として役立てていけるもの と信 じてお ります。 調査 の実施 にあたっては、枚方市教育委員会、住宅まちづ くり部、大阪府住宅供給公社、財団 法人枚方市文化財研究調査会、地元 自治会各位 をは じめ とする多 くの関係者 の方 々にご協力いた だきました。深 く感謝する とともに、今後 ともこの地における文化財保護行政に ご理解、 ご協力 をお願 いする次第であ ります。 平成 22年 3月 大阪府教育委員会事務局 文化財保護課長 野口 雅昭 例言 1。 本書は、大阪府教育委員会事務局文化財保護課が、大阪府住宅まちづ くり部 の依頼を受け平 成 19年 度事業 として担当・ 実施 した、府営枚方牧野東住宅建て替え第 5期 工事 に伴 う、枚方 市東牧野町所在、九頭神遺跡の発掘調査の報告である。調査番号は 07009で ある。 2.調 査は、文化財保護課 理 グルー プ主査 調査第一 グルー プ技師 小川裕見子が担当 し、遺物整理は、調査管 三宅正浩、副主査 藤田道子が担当した。 3.調 査に要 した経費は、大阪府住宅まちづ くり部が負担 した。 4.調 査 の実施 にあたっては、大阪府住宅まちづ くり部、大阪府住宅供給公社、枚方市教育委員 会、財団法人枚方市文化財研究調査会、地元 自治会をはじめ とする諸機関、諸氏 の協力を得た。 5。 本書 の編集 は、小川が担当 し、執筆は調査担当者及び参加者等が分担 した。文責は各々文末 に記 した。 6。 本書に掲載 した遺物写真 の撮影 は、有限会社 阿南写真工房に委託 した。また、航空写真測 量については和歌山航測株式会社に委託 した。 7。 本調査において採集 した土壌サ ンプルの観察 については小倉徹也氏 (財 団法人 財協会)に ご教示をいただいた。土壌サンプルの花粉・ 珪藻分析は、株式会社 に委託 した。 8。 本報告書は、300部 を作成 し、一部あた りの単価は 662円 である。 大阪市文化 パ レオ・ ラボ 目次 ………・……………。 …Ⅲ …・……………・…・…Ⅲ …・…………Ⅲ …………Ⅲ 第 1章 調査 に至 る経緯 第 2章 九頭神遺跡 の立地 と環境 1 5 ………………………………………… 5 …………・…・…………・………Ⅲ ………………………Ⅲ ………・…………………………………………… 6 …… … … … … … … … …… …… … … … …… … ……… 第 1節 地理的環境 第 2節 歴史的環境 第 3節 九頭神遺跡 の既往 の調査 … ……………………………………・…・…………… 16 ………………………………………・…………………………………… 19 第 3章 調査 の手順 と概要 第 4章 …… 21 ……………………………………………………………・…………Ⅲ 基本層序 ・…………Ⅲ 第 5章 枚方市域 の地質 第 2節 ……Ⅲ …。22 ……………Ⅲ ………………Ⅲ …・…………Ⅲ 基本層序 ・…………………Ⅲ 調査成果 ………………………………・……… 32 …Ⅲ …………・………・……………Ⅲ …… ……Ⅲ 第 1節 上層の遺構 …・…………………・…・……・………………………・…Ⅲ …Ⅲ ……32 …Ⅲ 第 2節 下層 の遺構 ………Ⅲ ……………………………………………………………………。36 第 3節 弥生時代 の方形周溝墓 第 6章 出土遺物 ……… 39 ……………………………Ⅲ ……………………Ⅲ …Ⅲ ………Ⅲ …… 43 ……………………………Ⅲ …Ⅲ ………… ……………… ………Ⅲ 第 1節 出土土器について 第 2節 出土瓦 について …Ⅲ …・………43 …………………………………Ⅲ ……………………Ⅲ …Ⅲ …………………・…Ⅲ ……………………… 47 …………………Ⅲ …………………………・……………… 49 ………Ⅲ …・………・―・………Ⅲ まとめ …………・…Ⅲ 第 7章 付論 … ……………………………・……………………………………… 21 第 1節 九頭神遺跡土壌サンプルの花粉 。珪藻分析について 写真図版 報告書抄録 ……………… ……・…・………… 53 挿図 。表 目次 府営枚方牧野東住宅建替第 5期 工事調査対象範囲 と既往調査区 1 図2 枚方市周辺 の地形模式図 5 図3 調査地周辺 の遺跡分布図 6 図4 第 I調 査区 北 。南壁断面図 図5 第 I調 査区 東壁 。第 Ⅱ調査区 図6 第 Ⅱ調査区 北 。南壁断面図 27・ 28 図7 第 Ⅱ調査区 確認 トレンチ断面図 29・ 30 図8 第 Ⅱ調査区 第 1遺 構面 図9 第 I調 査区北端 図 10 第 I・ Ⅱ調査区北端 図 1 SD 23・ 西壁断面図 24 ……………………………………… 25・ 26 ………………… 32 Ⅱ -04断 面図 ………・………………………Ⅲ 第 2遺 構面平面図 ………………………………………………………………33 第 1遺 構面平面図 Ⅲ …………・……Ⅲ ………………・33 H 第 2遺 構面 SD06断 面図 ……………………………………………・………………………………… 34 図 12 第 2遺 構面 柱穴断面図 ……………………………………………………………………………………34 図 13 第 I調 査区 第 2遺 構面鋤溝群平面図 … … ………Ⅲ …Ⅲ ……… ………… … ……… … 35 図 14 第 Ⅱ調査区 第 2遺 構面鋤溝群平面図 … ……………… ……………………………… … 35 図 15 第 I調 査区 図 …………………36 区画溝 SD07断 面図 ……………………………………………………Ⅲ 16 第 I・ Ⅱ調査区 第 3遺 構面平面図 37・ 38 図 17 第 1調 査区 方形周溝墓 l SD05断 面図 ………………………………………………………………39 図 18 第 I調 査区 方形周溝墓 1・ 3測 量図 …………………………………………………………… 40 図 19 第 I調 査区 方形周溝墓 3 周溝断面図 ……………………………………………………………40 図 20 第 I調 査区 方形周溝墓 1 周溝内土器出土状況図 …………………………………………… 41 図 21 出土土器 弥生時代 …………………………………………………………………………………………・43 ………… … …44 図 22 出土土器 古代 ……… ………………… … … … ……………………・…Ⅲ 図 23 出土土器 中世 ……………・…… … … … …………………… ………………………… … 45 図 24 出土瓦 ……………………………………………………………………………………… 47 図 25 調査地周辺地形復原図 ……………………………………………………………………・………………… 50 …… ………… 46 表 1 出土土器観察表 …………… … … ……………… …………… ……… …………Ⅲ 表 2 出土瓦観察表 … … … … … …… … … …… … … … … … … … … … … …… … … 48 …Ⅲ ………………………………… ……… 54 表 3 産出花粉化石一覧 … ……………… … ……………Ⅲ 図 第 1章 調 査 に至 る経 緯 本調査 は府営枚方牧野東住宅第 5期 建 て替 え工事 に伴 うもので、平成 19年 7月 か ら平成 20 年 2月 まで、約 3,500∬ の範囲にわたって埋蔵文化財の発掘調査をお こなった。 昭和 40年 代を ピー クに供給された府営住宅 の多 くは、建物 の老 朽化がすすみ建て替 え工事を 要する状態 にある。建 て替 え工事 は、平成 18∼ 27年 度を計画期間 とする大阪府住宅 まちづ く リマス ター プラン (平 成 18年 3月 改定)の 一環 として現在 も推進 される (註 1)。 牧野東住宅 において も、土地の有効利用、居住水準 の 向上及び住環境 の改善を はかる 目的で、老朽化 した 木造住宅 が耐火・ 耐震構造 の高層共同住宅 に建て替 えられ る運び となった。牧野東住宅の敷地 は約 88,000面 に及 び、本地区の工事は平成 9年 度よ り当初 4期 にわたって (途 中 5期 にわたる 工事 に変更)計 画 され、本調査の後 に着手される第 5期 工事を もって完了する予定である。 当 初第 4期 工事範囲 とされていた、本調査区か ら道路を挟んで北東に位置する地区は、旧木造住 宅が撤去された後に現況では未利用地 となってお り、住棟を建設する予定はない。 当該地は、周知 の遺跡である招提 中町遺跡及 び九頭神遺跡 の範囲内にあったため、平成 7年 度 か ら本府教育委員会事務局文化財保護課 は、建築部住宅建設課 (当 時)と 建て替 え工事 に先 立 つ発掘調査 の実施 について協議をお こなってきた。当時は周辺の既往 の調査例 が少なかった 幽 Ⅷ ため、本格的な全面調査 に先行 し、まずは建て替 え工事予定地 内における遺構 。遺物 の有無及 び発掘調査設計 のための遺構深度 の確認を 目的 として、平成 8年 3月 、文化財保護課 1卿 │ヨ │ │ 藩監詢朴 図 1 __‐ _→ 一一 +=乳 m懇 苺 府 営枚 方牧野 東住 宅建替 第 5期 工 事 調査 対象範 囲 と既往調 査 区 調査第 陣 萱 2係 主査 松村隆文 (現・故人 )を 担当として試掘調査をお こなった。 一辺 2mの 試掘坑を 6ケ 所設定 し、弥生時代 中期 ∼ 中世 にかけての遺構・ 遺物を発見 した。 この調査成果を踏 まえて協 議を重ねた結果、遺構面到達 までの掘 削深度が極めて浅 い こと、住棟建物の基礎のみでな く敷 地 内に設置 される管路・ 付帯施設、及び施工中の重機 による踏み荒 らしの可能性等を考慮 して 第 1期 建て替 え工事予定地 内約 15,000∬ の全面発掘調査が必要である と判断 した。平成 10年 度 4月 に建築都市部長か ら教育委員会教育長 にあて られた埋蔵文化財調査の実施 についての依 頼を うけ、同課 調査第 2係 技師 山上弘 (現 。同課 調査管理 グルー プ主査 )を 担 当 として 平成 10年 8月 に着手 し、平成 12年 3月 に終了 した (以 下、第 1次 調査 とする)(註 2)。 第 1次 調査終了後、第 2期 の建て替 え工事が計画 されるに伴 い、遺跡 の広が りを確認する 目 的 として平成 13年 度、同課 調査第 2グ ルー プ主査 小林義孝 (現・ 調査第 1グ ルー プ主査) を担当 として再度試掘調査をお こなった。 この結果、遺跡の広が りは第 2期 建て替 え工事予定 地において も範囲全体 に及ぶ ことが確認 された。発掘調査に必要な期間、住宅整備 のための工 事期間等 について協議を重ねた結果、住宅建設敷地範囲全体 に遺構を破壊 しない高さまで盛 り 土を施 し、発掘調査は掘削深度が盛 り土の範囲に収 まらない、住棟・ 新設道路・ 埋管設置部分 を対象 とすることで合意 した。また、続 いて平成 15年 度 にお こな う第 3期 建て替え工事予定地 内を試掘調査の対象 とした (以 下、第 2次 調査 とする)。 第 2次 調査は約 8,300∬ におよび、平成 14年 4月 に建築都市部長か らの依頼を うけ、同課 調査第 1グ ループ技師 井西貴子 (現 。大阪府文化財 センター技師)を 担当 として平成 14年 6 月 に着手 し、平成 16年 3月 に終了 した。 その後、諸調整 の不足等か ら、盛 り土を施すにあたって敷地周囲に擁壁 の設置が必要 とな り、 平成 16年 10∼ 11月 にかけて擁壁及び管路設置に伴 う立会調査を実施 した (註 3)。 続 く第 3・ 4期 工事 の範囲に関 しても、平成 17年 3月 に建築都市部長か らの依頼を うけ、平 成 17年 度 は同課 調査第 1グ ル ー プ技 師 横 田明 (現 。同副主査 )、 平成 18年 度は同技師 奥和之 (現・大阪府文化財 センター技師)を 担当者 として約 11,000∬ の範囲を調査 した (註 5)。 この調査は、平成 17年 5月 に着手、平成 19年 2月 に終了 し、調査報告書は本報告書 と併行 し て作成 してお り平成 21年 度中に報告予定である。 今 回の調査地を含む第 5期 建て替 え工事範囲内においては、第 2次 調査時 の試掘 トレンチが 5ケ 所 (内 2ケ 所 は北半部、 3ケ 所 は南半部 に)含 まれ、一 部 で遺 物包含層の存在を確認 して いたが、 目立 った遺構 。遺物はなかった。平成 18年 3月 に本府住宅 まちづ くり部長か らの依頼 を うけ、平成 18年 11月 20・ 21日 の 2日 間 にわた り、同課 調査第 1グ ループ技師 岩瀬透 を担 当 として再度、確認調査をお こなった。対 象地 のす ぐ西 には古代寺院跡 として周知 の九頭 神廃寺があ り、府営枚方牧野住宅建て替 え事業 に伴 う道路整備等によ り財団法人枚方市 文化財 研究調査会が平成 17年 度 に発掘調査をお こなった。調査が進むにつれて、寺院に伴 う極めて重 要な遺構・ 遺物群が顕著 に確認 されたため、急返、関係諸機関において協議をお こない、併行 士_ して平成 17・ 18年 度 の 2ケ 年 にわたって国庫補助事業 (重 要遺跡内容確認調査)と して遺跡の 内容把握 のための調査が実施され るに至 った (註 5)。 その近接地にあるため、当該地部分 にお いても関連す る遺構・ 遺物 の検 出が予想 された。第 5期 工事対象範囲内 に約 20Mの トレンチを 2ケ 所設定 し、地層の変化、遺構・ 遺物 の有無を確認 しなが ら、上層の現代盛 り土部分を機械、 その後は人力を用 いて掘削 した。その結果、対象地の北端部付近に設定 した Alト レンチにおい て、地表下約 0.4m付 近で遺物包含層 を確認 し、その下層上面 にあたる地表下約 0.7m付 近にお いて落ち込 みを検出 し、瓦器、瓦質土器、土師器、須恵器な どが出土 した。対象地 の南端付近 に 設定 した A2ト レンチでも同様に、地表下約 0.4m付 近 において包含層を確認 し、その下層上面 にあたる地表下約 0.7m付 近 においてピッ トを検出 したが、遺物は出土 しなかった。 それ らの調査成果を踏 まえて協議を重ねた結果、平成 19年 3月 に住宅 まちづ くり部長か らの 依頼を受け、第 5期 建 て替 え工事範囲内の うち、例況 の生活道路北側 にあた り確認 トレンチ Al を含む住棟建設予定地約 4,300Mを 本調査範囲 とした。確認 トレンチ A2を 含む工事範囲の南半 部 はプレイ ロ ッ トとして整備される計画 であ り掘削を伴 う工事が予定されないため、発掘調査 の 対象範囲を北半部 に限定 した。発掘調査範囲は当初、約 4,300∬ を予定 していたが、住宅整備に 伴 う生活道路 の付け替 えが予定 されてお り、現況で使用されている生活道路を当初 の調査範囲に 含んでいた。 しか しなが ら、地元住民の要望を うけた本府住宅 まちづ くり部 住宅整備課 との 協議 の結果、平成 19年 度 の調査予定時 に現況道路を封鎖す ることは難 しい と判断 したため、当 該地部分 に関 しては工事可能な時期に随時立会調査 として対応をお こない、現況道路を除いた約 3,500Mの 範囲を全面発掘調査す る運び となった (以 下、第 4次 調査 とする)。 第 4次 調査範囲は九頭神遺跡の東端にあた り、調査範囲の東端 に接す る道路を境 に西側には招 提中町遺跡が存在する。第 3次 調査以前 の調査範囲はこの招提中町遺跡内に位置する ことになる。 第 1次 調査では、弥生時代 か ら中世にかけての遺構・ 遺物がみつか り、中でも弥生時代前期か ら 中期 にかけての住居址 とともに、中期前半 の方形周溝墓を 40基 以上 も検出 したことは特筆 に価 する (註 6)。 第 2次 調査 では弥生時代か ら平安時代にかけての遺構・ 遺物がみつかった。弥生 時代 には第 1次 調査 で検出 した方形周溝墓群 の広が りが途絶え、円形竪穴住居 と穂谷川に向かっ て流れる自然流路 を検 出 した。 一方で、古墳時代初頭 と平安時代 の掘立柱建物・ 住居址 は続 い て確認 した (註 7)。 平成 18年 度 の調査範囲においても、古墳時代初頭 と推定 される竪穴住居、 平安時代 の総柱建物 な どを検出 し、 この 2つ の時代 の集落 はかな り広範囲にわたることを確認 し た (註 8)。 平成 19年 度 には弥生時代 の方形周溝墓、古墳時代 ∼近世 にかけての谷や耕作 の痕 跡な どの遺構を検 出 した。本報告書はその平成 19年 度 に実施 した第 4次 発掘調査成果を記録、 報告す るものである。 また、第 4次 調査区の北西部 か ら東西に走 る生活道路は、前述の調査区西側の府営枚方牧野住 宅 の建て替え工事用地 につながる。その用地 も周知の埋蔵文化財包蔵地である九頭神遺跡範囲内 にあった ことか ら、平成 8年 7月 に本府教育委員会文化財保護課によって確認調査を実施 した。 そ こでみ つ か った古墳 時代 か ら中世 にかけての遺構 。遺物 の存在 は 当該建 て替 え工 事範 囲内 の全 域 に広 が る と推定 で きたため、 関係諸機 関 において協議 の うえ、本府建築都市部 (当 時)が 財 団 法人枚方市文化財研究調査会 に委託 を して発掘調査 をお こな った。計画用地 を南北 に分 断す る道 路 を挟 ん で北側 の 約 900∬ を平 成 12年 度、南側 の約 5,030 ては約 200∬ を建 て替 え工 事 と併行 して 平成 にわた る。 その結果 、平成 を平成 13年 度、道路部分 につ い 15年 度 に実施 し、合 計 で 6,000面 を超 える広 範 囲 12年 度調査地 の遺構 が集 中す る部分 は駐車場 として再活用 され る こ とが 決定 されて い たため 、協議 の上 、真砂土 で埋 め戻 して現地保存 され た (註 9)。 そ してその後、前述 の平成 17。 18年 度 の 2ケ 年 にわ た り国庫補助事業、重要遺跡 内容確認調 査 がお こなわれ、残存状況 の よい遺 構 が多 く発見 され た (註 10)。 大 阪府住宅 まちづ くり部 との 協議 を重ね た結果 、牧野住宅 は当初 の建 て 替 え設計 を変更 し、 用地 の 一 部 にあた る約 1,270面 は 史跡公 園 と して整 備 され る運 び とな った。枚方市 では、 この史跡整備 にあた り、平成 学識経験者 や地元 住 民 な どか らな る整備検討 委 員会 を設置 し、 平成 れ、 平成 21年 度 よ り整備工事 が着手 され る予定 であ る また、今 回 の第 19年 度 に 20年 度 には実施設計 が行 わ (註 11)。 4次 調査 区 の北西部 は駐 車場 とな り住棟 の建設予定 がないため、 関係諸機 関に おいて協議 の結果 、生活道路 と隣接す る角部分 に簡易 な九頭神廃寺 及 び九 頭神遺跡 の解説 ととも に両遺跡 の遺構 が存在す る位置 を示 す道路標識 ・ 案 内板 を建設 す る予定 であ る。 (小 川 裕見子 ) 1)大 阪府住宅まちづ くり部『大阪府住宅まちづ くリマスタープラン』 2007年 3月 (註 2)大 阪府教育委員会『招提中町遺跡―府営枚方牧野東住宅建て替えに伴う弥生時代墓域の調査』 (註 大阪府埋蔵文化財調査報告 2001-1 2002年 3月 3)大 阪府教育委員会『招提中町遺跡』 Ⅱ 大阪府埋蔵文化財調査報告 2004-1 2005年 3月 (註 4)大 阪府教育委員会『大阪府教育委員会文化財調査事務所年報』 11 2007年 11月 (註 5)財 団法人 枚方市文化財研究調査会『九頭神廃寺』一寺院地北西域の調査成果― (註 枚方市文化財調査報告第 54集 2007年 6)大 阪府教育委員会 2002年 3月 (註 7)大 阪府教育委員会 2005年 3月 (註 8)大 阪府教育委員会 2007年 11月 (註 前掲 前掲 前掲。詳細の報告は、大阪府教育委員会『招提中町遺跡』 Ⅲ (2010年 3月 刊行予定)を 参照されたい。 (註 9)財 団法人枚方市文化財研究調査会『九頭神遺跡』 H― 府営枚方牧野住宅建て替えに伴う九頭神遺跡 第 168次 発掘調査概要報告書 枚方市文化財調査報告第 44集 (註 (註 10)西 田敏秀氏 11)同 上 (財 団法人枚方市文化財研究調査会)の 2004年 ご教示による。 第 第 1節 2章 九 頭 神 遺 跡 の 立 地 と環 境 地理的環境 枚方市 は大阪府 の北東部 に位置す る。市域は、北か ら東にかけては京都府八幡市、京田辺市 と 接 し、南 は大阪府寝屋川市、交野市、奈良県生駒市 と接する。北西には大 阪府高槻市 が位置 し、 淀川が ほぼその境界 となる。 枚方市 の地形 は、下位 か ら沖積面、段丘面、丘陵面、山麓面の大き く 4つ に分け られる。枚方 市東南部 に答える生駒山麓か らは、北東へ 向か って男山丘陵が派生 し、反対の南西側では枚方丘 陵が北方向へ突出 して淀川近 くまで迫る。さらに東側 には長尾丘陵がのび、丘陵に囲まれた中に 標高 20∼ 30mの 台地地形が展開す る。 これが交野台地 である。 淀川 に注 ぐ。 天野川が交野台地上をほぼ北西方向に流れ、 生駒山地に源を発する船橋川、 穂谷川、 降雨時を除けば、 これ らの河川の流水量は概 して少ない。枯れ川 の状況を呈する ことが多 く、天 野川下流域以外 は河川による沖積平野 の形成 は未発達である。対岸の三島地域は、淀川へ 向か っ て徐々に標高を減 じているが、それに対 して交野台地側 は、 ところによっては崖面を形成するほ ど淀川近 くで急激に標高を減 じる。 この地形的特徴か ら、かつ ての淀川流路は現在 よ りも交野台 地近 くを流れていたもの と推測される。 九頭神遺跡は、その交野台地上の北西部に位置するど 穂谷川 と船橋川に挟まれ、地形は南北方向に緩やかに 傾斜す る。九頭神遺跡 は穂谷川を望む南側斜面に営ま れ、東西約 700m、 南北約 500mの 範 囲 に及ぶ。古 くか ら主要な交通手段であった淀川 も程近 く、遺跡の 形成過程 との関係性が想定される。 調査地 はこうした九頭神遺跡の範囲の中でも、穂谷 川 よ り北奥 に入 った標高 20∼ 21mの 中位段丘上 に ・「養父丘」 の小字 が示す よ うに、 位置す る。「宇 山」 交野台地 の うちでも標高 のやや高 い丘の上にあたる。 (野 島 図2 枚方市周辺 の地形 模 式図 財団法人枚方市文化財研究調査会 2006年 『小倉東遺跡』Ⅱより転載 5 智実) 第 2節 歴史的環境 枚方市域 には多 くの遺跡が存在 し、丘 陵部 においては古 くは旧石器時代 にまで遡 る ことができ るものもある。 ここでは本調査地が位置する交野台地周辺の遺跡を 中心 として、九頭神遺跡 の 当 時の周辺環境をふ りかえ りたい。 旧石器時代 枚方市域に所在する旧石器時代∼縄文時代の遺跡について、その存在は確認されてい るが、全 容を把握するに至る違跡はな く、未だ不明瞭な点が多い。 旧石器時代は、遺構か ら遊離 した遺物 の採集 によってのみ確認 されている事例が多い。旧石器 時代 の堆積層に相 当す る洪積層 か ら石器の 出土があった遺跡 は、穂谷川の北約 200mほ どの枚 方市東部、長尾丘陵の丘陵裾に位置する藤阪宮山遺跡 と、枚方台地の北端の淀ナ │1沿 い、男山丘陵 図3 調査地周辺の遺跡分布 図 の西麓 に位置する樟葉東遺跡の 2例 のみである。 どちらも調査面積 が狭 く、遺跡 の全容を把握す るには至 っていない。前者では、サ ヌカイ トとチ ャー ト製 の石器 100点 余 りが炉跡 と考 えられ る楕円形 の焼土 とともにみつかった。後者では、国府型ナイフ形石器を含 むナイフ形石器、削器、 尖頭器、翼状剥片な どをは じめ 800点 余 りの石器 が 出土 したが、遺構 はみつ かってい ない。 こ の他には船橋川の北側、低位段丘上 の船橋遺跡か らも比較的まとまった資料が出土 している。 交野台地上では旧石器時代の層位が確認 されておらず、石器 は後世の遺構や包含層 に混 じつた 状態で出土する。穂谷川を挟んで九頭神遺跡の南側に位置する小倉東遺跡か らは、サ ヌカイ ト製 の舟底形石器が採集 されてい る (註 1)。 その東、交北城ノ山遺跡 では、中世の包含層および弥 生時代の遺構埋土な どか らナイフ形石器や削器な どが数十点出土 したが、遺構及び旧石器文化層 の確認 には至 らなかった。本調査地の東に隣接する招提中町遺跡では第 1次 調査時 に、瀬戸 内技 法を用 いた ものを含む横長剥片素材 もしくは縦長剥片素材のナイフ形石器が後世 の包含層・ 土坑 な どから、 横長剥片素材の削器が弥生時代 中期前葉 の方形周溝墓か ら、計 5点 が 出土 した (註 2)。 縄文時代 縄文時代の遺跡は穂谷川流域 に限定 してみ られる。枚方市東部 の左岸 に位置す る穂谷遺跡 か ら は、近畿では最古級 となる早期 の押型文土器片や前期 の爪形文土器片な どが石匙や石鏃 とともに 出土 した。そ こか ら穂谷川をやや下 った津 田山麓の縁辺にある津田三ツ池遺跡 は旧石器時代 ∼縄 文時代前期の遺物散布地 として知 られる。すべ てがサヌカイ ト製 の 40点 を超 える石鏃 と 3点 の 石匙、垢増・ チャー トな どの石 くず片が採集 されたが、土器は伴わないため、時期な どの詳 細 に ついては不 明なままである。 九頭神遺跡の近隣では、前掲 の交北城 ノ山遺跡がある。 この遺跡 は旧石器時代 か ら中世にかけ ての複合遺跡であ り、縄文時代では、晩期前半 の埋甕遺構 とそれに ともな う遺物をは じめ、後期 か ら晩期 に属する土器類、石鏃・ 石棒な どとともに、 この付近では出土例 の少ない黒曜石が 出土 している。そ して穂谷川流域 の縄文時代遺跡は、概 して時期 が新 しくなるにつ れ、その立地 高度 を下げる傾向 にある ことも指摘 され る (註 3)。 また、交野台地上で も縄文時代の ものと考 えら れる石鏃の出土は数例あるが、 いずれ も明確な土器を伴わずに単独で出土 してお り時期を明 確 に 特定できない。招提中町遺跡 においては、縄文時代に属すると考 えられ る 2点 の土 器片が出 土 し たが、詳細を認識できるような残存状況 にはなかったようである (註 4)。 弥生時代 弥生時代の第 I様 式新段階∼第 Ⅱ様式 になって交野台地周辺を中心 に集落遺跡 が増加する。現 状では、第 I様 式古段階∼ 中段階 の遺跡はみ られず、弥生集落に関 しては、他の多 くの地域 と比 べ てやや遅れて出現 した と想 定 せざるをえない。 この地域での弥生 時代集落 の展 開は、招提中町遺跡か らは じまるとい える。第 I様 式新段 階か ら土器 とともに土坑・ ピ ッ ト・溝な どの遺構が確認 され、包含層か ら出土す る土器の量 も増 し、 '日 この地で生活が営 まれは じめた ことを示唆する。第 1次 調査 で検出 した これ らの ピッ ト群の 東側 には、墓 の可能性がある 3基 の土坑が主軸を同 じくして並び、集落 と墓域 の一部が合わせて検 出 された可能性がある。出土遺物は第 I様 式後半 ∼末 と推定でき、壷・ 甕・ 鉢 の 3器 種 の土器 に合 わせて、石鏃、太型蛤刃石斧 の未成品、砥石な どが出土 した。石器類 には、石鏃や石錘、石包丁 の未成品、原石や剥片 の石器素材等 も多数出土 してお り、 ここが単な る集落ではな く、石器生産 を営む集落であ った可含留性が高 い。Jヽ 規模なが らも、拠点集落的な機能を備えていた可能性 も指 摘される (註 5)。 この調査成果は、数少ない前期集落 の様相を うかが ううえで注 目される。 招提中町遺跡では この後、第 Ⅱ様式 の段階に入 って集落 は着実に発展する。中期前葉 において は、竪穴住居 とともに 30基 を超 える方形周溝墓がつ くられ る。穂谷川を挟 んで南側 の交】ヒ 城ノ 山遺跡でもほぼ同時期 の 円形堅穴住居群 とともに方形周溝墓 42基 、土坑墓 16基 以上 が検 出さ れた。加えて、多数 の溝状遺構や井戸状遺構 もみつか り、 この遺跡は中期前半∼後半 にかけて大 き く発展するようである。両遺跡 とも、現在の ところ畿 内第 Ⅱ・ Ⅲ様式 の土器を ともな う遺構 が 多数みつかっているが、畿内第Ⅳ oV様 式 にあたるものはみつかってお らず、当該時期には一 旦 集落が廃絶する と考 え られてい る。その一方 で、中期後半段階 になる と、穂谷川を東方 に 2km ほど遡 った長尾丘陵上 に集落遺跡が展開 しは じめる。田回山遺跡 と長尾谷町遺跡 は、わずか 1本 の谷地形をはさむだけでほぼ同時期に成立 し、 同一集落 として把握すべ きであるといわれる。 こ の廃絶 と新たな遺跡 の成立 については以前か ら連動が指摘 されるところであ り、弥生時代中期後 半 には台地上に形成 された比較的大きな集落 が前述 のよ うに一旦廃絶 し、集落は台地上か ら丘陵 上へ移動するとい う。そ して、庄 内式 に併行する弥生時代終末期か ら古墳時代前期 にかけて、集 落は再 び台地上 にもどって くる。招提中町遺跡や交北城 ノ山遺跡 も この例 にもれない (註 6)。 これまでに九頭神遺跡で明確な遺構が確認 されているの も この時期で、九頭神廃寺の下層では弥 生時代終末期以 降か ら竪穴住居址や掘立柱建物跡が検出されている。本調査 においては、 これ よ りやや遡る弥生時代中期の遺構を確認する ことができた。 この 中期後半における招提中町遺跡、交北城 ノ山遺跡 の 2遺 跡 の成立を契機 として、後期 には 長尾西遺跡、出屋敷遺跡、 ごんぼ う山遺跡、御殿山遺跡、藤阪東遺跡な ど長尾丘陵 に遺跡が爆発 的 に増加する。同 じ頃 になって、天野川流域でも丘陵上の星丘西遺跡、村野遺跡、藤田山遺跡 に 中期 の竪穴住居群が展開 しは じめ、星丘西遺跡では中期 ∼後期 の方形・ 円形周溝墓、藤田山遺跡 では人が飛び越 えられないよ うな規模 の V字 溝な どが住居址 とともにみつかった。星丘遺跡、村 野南遺跡、森遺跡、鷹塚山遺跡、山之上天堂遺跡、茄子作遺跡な どの諸遺跡は後期 に入 って成立 する。鷹塚山遺跡では分銅形土製品、山之上天堂遺跡では平面形が六角形を呈 した堅穴住居な ど が注 目される。 これ らの集落の多 くは、長尾西遺跡や出屋敷遺跡の一部な どを除いて、古墳時代 のは じま りとともに消滅する。 また、近年の調査 では、天野川左岸 の交野市境 に位置する上 の山遺跡 において、縄文時代晩期 か ら弥生時代前期 のものである可含旨隆の高 い ピッ トや土坑、第 Ⅱ様式 の土器を ともな う溝や土坑 な どが検出され、丘陵地における弥生時代前期か ら中期 に遡 る集落 の存在 が十分 に想定でき、今 後 のさらなる調査が期待される (註 7)。 そ して、弥生時代終末期か ら庄 内併行期 にかけて、枚方地域 の遺跡 は急増する。周辺では九頭 神遺跡を含め、招提中町遺跡、交北城ノ山遺跡な ど、一度廃絶 した台地上 の遺跡 においても集落 が復活する。招提 中町遺跡では第 1次 ∼ 3次 調査を通 して、堅穴住居群が検出された。 しか しな が ら、 この後 の古墳時代には集落に関係 した遺構 はさほど広 が らず、次 に府営枚方牧野東住宅工 事予定地において安定的 に集落が営 まれるのは掘立柱建物 が検 出される平安時代 になる (註 8)。 古墳時代 枚方市内の古墳時代 は、前期 には天野川流域を主体 に展開するが、現在 も残存す るものは少な い。下流域では、鷹塚山遺跡の楕 円形 マ ウン ドをもつ木棺墓、中宮 ドンバ墳丘墓群な どの墳 墓が 弥生時代後半∼庄内併行期 に築造 される。古墳時代前期には、前方後 円墳 であった といわれ る万 年寺山古墳が、現在 の意賀美神社 の境内、淀川を望む丘陵突端 に築造 された。埋葬主体であ る粘 土椰か らは、 8面 の鏡 が 出土 した。天野川左岸 の香里丘陵東端部 に立地 し、団地建設に先立 つ道 路工事 の際に発見され消滅 した藤 田山古墳では 3基 の粘土llFが みつ か り、内 1つ か ら画文帯神獣 鏡 1面 、銅鏃、鉄藝、鉄斧、鏃形石製品な どが出土 した。 天野川流域の前期古墳では、現状では石室を ともな う古墳がみつ か ってお らず、 この点 に つい ては時期的な問題だけではな く、被葬者である天野川流域を支配 していた豪族 を特徴 づける性質 である可能性 も指摘 され る (註 9)。 大規模な古墳では、禁野車塚古墳 において近年改めて再調 査がお こなわれ (註 金長約 10)、 従来 の所見を覆すような新たな知見 が加 えられている。天野川右岸 に は、 120mを 測 る北河 内最大級 の前方後 円墳 である禁野車塚古墳 が、西にのび る舌状台 地の 先端 に前方部を西 に向けて存在す る。 この古墳 については、出土埴輪や立地 か ら 4∼ 5世 紀 代 の いずれの時代 に築造 されたのか確定的ではなかったが、 上記の調査成果を うけた再検討によ って、 4世 紀初頭 もしくは 3世 紀代 におさまる可能性が高 い前期古墳である ことがわかった (註 11)。 その他にも上流域では、交野市 域 に北河内最古 とされる森古墳群、さ らに高所に築造 された鍋塚 古墳な どが展開する。 一方で同 じ頃の穂谷川流域 の様相 は、さほ ど明 らかでない。 しか しなが ら、やや遅れて穂 谷川 を挟んで九頭神遺跡 の対岸、河岸段丘北縁に前方部を東に向けて牧野車塚古墳が築造される 。 3 本の渡土堤を もつ鍵穴形 の周濠 をそなえ、全長 107mを 超 えるこの古墳 は 世紀代の中期古 墳 とされ る こ とが多 かった (註 13)。 (註 12)、 従来 は 5 しか しなが ら、平成 16年 度 の第 2文 調査 や平 成 19年 度 の測量調査の結果、 4世 紀第 2四 半期を くだらない前期後半 の古墳 であるこ とが わかつた (註 14)。 これ まで安 定的 に首長墓が築造されつづ けていた天野川流域か ら箱谷ナ 流域 │「 に、造墓活動の展 開地が移動す る。牧野車塚古墳 の南西一帯 には、赤塚、権現塚、子供塚、シ ョー ガ塚な どの陪家 の可能 ′ l■ もあ る一連の古墳が知 られるが、現在は消滅 している。 中期 になると、九頭神遺跡 よ りもやや西の穂谷川右岸に、 6世 紀代 にかけての 日置山古度 群や 牧野阪古墳が展開す る。枚方台地が淀川に向かって西方に突出 した傾斜地 に築 かれた牧野阪 古墳 は、直径約 15m、 高 さ約 4mの 円墳 とされる。内部構造や築造年代を確定するような詳細 は確 認されてい ないが、頂上 に凹みがある ことと円筒埴輪片がみつ かっていることは確認されてい る (註 15)。 船橋川流域 では、男山丘陵の西麓 に並んで埋 葬 された箱式石 棺 と埴質円筒棺を主体 と する樟葉古墳がある。 5世 期前半 に築造 された直径 後に消滅 して しまい現存 しない (註 20m程 度 の 円墳 と考 えられているが、調査 16)。 枚方市域の後期古墳 は、主体部が明 らかでない もの も多いが、概 して横穴式石室墳は少な く、 目立 った ところではすでに消滅 して しまった白雉塚古墳があげられるのみであろう。直径 30m、 高さ 4mの この古墳は、淀川 と天野川を望む丘陵地 に 6世 紀後半 に築造 された。花南岩が積 まれ た片袖式 の横穴式石室 は、内部が真 っ赤 にぬ られていた とい う。須恵器・土師器をは じめ、鉄 刀、 鉄鏃、馬具類な ど多数の副葬品が出土 した。後期古墳の内部主体 としては一般的 に普及 していた 横穴式石室が枚方市域 にはほ とん ど認め られない こ とは、地質 的条件か ら石材の調達が困難な地 域 であることもあげ られる (註 17)。 牧野車塚古墳の周辺 には木棺直葬を主体 とする低墳丘墓群、小倉東古墳群が展開する。その他 にも、交野台地上では北縁部に養父 。比丘尼塚古墳、宇 山古墳群な どが築造される。 2体 合葬 の 木棺直葬を主体 とする直径約 14mの 円墳、宇山 2号 墳 の周溝内の土坑か らは素環鏡板付轡が出 土 した。6世 紀前半∼ 7世 紀代 に営 まれた小倉東古墳群 の一部 のものや、銀象嵌鍔付大刀が副葬 された横穴式木室 と木棺直葬が並列する直径約 13mの 円墳である宇山 1号 墳な どは飛鳥時代初 頭、 7世 紀 に入 ってか らの築造 と考 えられる (註 18)。 古墳時代の集落は、前期では穂谷川流域の台地上 には招提 中町遺跡、丘陵上では津田 トッパ ナ 遺跡、藤 阪南遺跡、田口中島遺跡な どがあ り、竪穴住居等が検出された。藤阪南遺跡 の古墳時代 前期に属する竪穴住居 には火災にあった と見 られる住居が 1棟 みつかった。後期 のものでは、倉 庫 と考えられる 2棟 の掘立柱建物が直角に並んでみつかった。数箇所 の柱穴 には柱根 も残 り、柱 の表面に手斧による加工痕が確認できるものもあった。 この 2棟 の建物跡 の遺構は、藤阪小学校 北側の校庭の下に今 も保存されている (註 19)。 また、弥生時代後期か ら継続する茄子作遺跡 は、 古墳時代中期 までつづ き、多数 の韓式土器 の出土が注 目された。他にも、九頭神遺跡、星丘遺跡、 藤田町遺跡な どでは後期 の掘立柱建物跡がみつ かっている。 府営枚方牧野住宅工事予定地 の九頭神遺跡においては、古墳時代後期末∼飛鳥時代前期にかけ ての造 り付けカマ ドを もつ竪穴住居や掘立柱建物な どの遺 構 か ら、集落の存在が うかがえる。 古墳時代後期、 6世 紀後半以降は、前掲のように交野台地北縁部 に古墳な どの墓 域が展開 し、 台地中央部か ら南斜面 に集落遺跡が広がる。生活適所である南側斜面が居住空間 として利用 され た可含留陛とともに、土地利用の変遷を推察する上でモ デル となるような、周辺遺跡間の密接な関 連性を示す ことが考 え られる (註 20)。 飛鳥時代∼平安時代 飛鳥時代前半に下 る可能性 のある古墳は前項で上げたが、その うち小倉東遺跡では 8世 紀後半 10 と推定され る合 口甕棺や 9世 紀後半 ∼ 10世 紀前半 の埋甕な ども検出され、古墳時代以降 も葬地 として利用 されていたことがわかった (註 21)。 同時期 の集落 は九頭神遺跡、招提中町遺跡 な ど か ら堅穴住居址がみつ かっている。生産遺跡では、京都府八幡市 との市境にまたがる八幡丘陵西 麓に位置する楠葉平野山瓦窯跡があ り、四天王寺に供給 された素弁八棄蓮華紋軒丸瓦を焼 いたこ とで知 られる。 7世 紀初頭か ら操業 された と考 えられるこの窯跡群 は 8基 か らな り、瓦陶兼業窯 として 12世 紀 まで継続する。枚方市域 での須恵器生産 は 6世 紀代か ら本格的に始 まった と考 え られ、山田池 の南北両岸か ら藤 阪地区 にかけて多 くの須恵器窯がつ くられた (註 22)。 近年 の調 査では藤阪宮山遺跡か ら、 6世 紀後半 ∼ 7世 紀、 7∼ 8世 紀 の操業 と考 えられる 2基 の登 窯 がみ つ かった (註 23)。 その他にも飛鳥時代 の瓦窯や平安時代 の上器生産遺跡 を含む楠葉東遺跡、奈 良時代末 ∼平安時代前期に男山丘陵西斜面に築かれた楠葉瓦窯な どが知 られる。周辺では九頭神 遺跡のす ぐ西北に位置する牧野阪瓦窯が平安時代前期 に操業 していた。平安京西寺 に屋根瓦 を供 給 したことで知 られるが、九頭神廃寺にも供給 していた。 枚方市域では、飛鳥時代前半の創建 に遡 る古代寺院は知 られていないが、 飛鳥時代後半 (白 鳳期) は、男 山丘陵南斜面 (現・ 八幡市域 )に は西 山廃寺、九頭神廃寺、奈良時代 に 中山観音寺 、百 済寺な どが創建 された。百済寺跡 は国特別史跡 に指定され、例在 は創建当時 の主 要堂塔の遺構が 史跡公園 として保存・ 整備されてい る。百済王氏一族 の氏寺で、東西 に塔を並列す る薬師寺 に類 似 した伽藍配置を もつ が、両塔を囲 う回廊が北に位置する金堂 にと りつ くのが特徴的である。ま た、白鳳期に遡 る瓦 も数点 出土 してお り、その地に百済寺以前にも古代寺院が存在 していた とい われ る (註 24)。 『続 日本紀』 による と、 771(宝 亀 2)年 の光仁天皇を は じめに、光仁天 皇 1 回、 桓武天皇 13回 、嵯峨天皇 14回 の交野行幸がお こなわれた。百済王氏の血をひ く桓武天皇 や、 嵯峨天皇の行幸 に際 しては、 この百済寺を訪れた記録 もあるが、 これは 844(承 和 11)年 の仁 明天皇 の行幸を最後 にとだえる。 九頭神廃寺 については、古 くか ら周辺地域において多量の古瓦が出土す ることが知 られ、「金 。 ドン ドン山」な どの小字名が残 る ことや、明治 20年 代 に茶畑か ら銅造誕生釈迦仏立像 (枚 堂」「 方市指定文化財 )が みつかった ことな どか らも寺 院の存在が想定されていたが、伽藍配置/■―どの 寺域 については長 らく不明な ことが多かった。次項で既往 の調査 の詳細 を述 べ るように、近 年 に なって塔基壇や門 。区画溝 。外郭施設な ど多 くの遺構が検出され、その全容 が 明 らかにな りつつ ある (註 25)。 この時期 に発展する集落遺跡 は、穂谷川 流域 ではアゼクラ遺跡、田口中山遺跡 な ど、天野 川1流 域では禁野本町遺跡な ど多数ある。飛鳥時代後半はその南の百済寺遺跡、奈良時代 に入る と禁野 本町遺跡 において掘立柱建物が展 開 し、百済寺を造営 した百済王氏の居住集落 であった可育陛性が 古 くか ら指摘 され る (註 26)。 飛鳥時代後半∼平安時代 にかけての集落遺跡 において、大型 柱穴 の掘立柱建物が検 出されたものの多 くが古代寺院周辺に位置 し、九頭神遺跡・ 招提 中町遺跡 と九 頭神廃寺、百済寺遺跡の一部・ 禁野本町遺跡 と百済寺な ど、古代寺院 とその寺院 の造営・ 維 持 に 11 携わった有力氏族の集落に比定される可能性が指摘される (註 27)。 律令制下、 本調査地周辺 の九頭神遺跡、 招提中町遺跡な どは当初、茨田郡 内に編成されていたが、 大宝律令施行時に、河 内国 の最北端 に茨田郡か ら分割設置 された交野郡に属す るようになった。 『倭名類衆抄』によると、交野郡 には三宅・田宮・園田・岡本・山田・葛葉 の 6郷 、茨田郡 には幡多・ 佐太・三井 。池田 。茨 田 。伊香 。大窪・ 高瀬 の 8郷 が知 られる。 この交野郡には、片野 (埜 )神 社 と久須 々美神社 とい う 2座 の式内社があった。現在は、久須々美神社 も京阪牧野駅近 くの片埜 神社に合祀されているが、当初 は九頭神廃寺寺域 のす ぐ西側 に鎮座 していた。 また、平城遷都後 には古代官道が整備 され、 711(和 銅 4)年 に楠葉駅 が新設 された。山陽道 と南海道は木津川を 北進 し、八幡・ 楠葉周辺で方向を変え、山陽道は楠葉 もしくは牧野付近で淀川を渡 り、南海道は 生駒西麓を北河 内か ら南河 内へ と南下する。都が藤原京か ら平城京 へ移 された こ とによ り、都城 との距離が格段 に近 くな り、人の往来が増す とともに、交通 の要所 として文化 。政治的重要性 が 増 した と考 えられる。そ して長岡京、平安京へ と遷都され るにつ き、さらに都城 との距離が近 く なる (註 28)。 平安時代 には、枚方・交野市域 の大部分 は交野 ケ原 とよばれ、貴族 の猟遊地 として禁野 になる。 小倉東遺跡 の 自然科学分析 による植生復原 では、大阪平野 の他地域 と比較 して照葉樹林 が長 く残 存 してお り、 これは この地が禁野 として植生管理されていた ことの裏づ け となる可能性が指摘さ れる (註 29)。 禁野化 とともに、 中期以降 になると律令期 の郡郷制が解体され荘園が成立する過 程 で、多 くの集落や寺院が廃絶 していった。 この時期 に、九頭神遺跡では遺構が減少する一方で、東接する招提中町遺跡では遺構が増加 し 多数 の掘立柱建物な どが検 出され る。第 1次 調査区の東 にある平野小学校 の調査で検 出された 10棟 を超 える掘立柱建物や大溝、多量 の瓦な どは概ね平安時代前期に属する (註 30)。 その一 方で、第 1次 調査 でみつか った掘立柱建物群は 9世 紀後半頃が中心 となる (註 31)。 牧野東住宅 の建て替えにともな う招提 中町遺跡 の調査では、前章でも触れたよ うに第 1∼ 3次 調査を通 して 建物跡が検出されている。 また招提中町遺跡 か らは、嵯峨院 と共通する大山崎瓦窯で焼かれた屋 瓦が多 く出土 した。網伸也氏 によると、観察 し得た軒瓦 の うち 7割 強 の資料が大山崎瓦窯で生産 されたことが確認され た (註 32)。 これ らの軒瓦 とともに、平安京北産 と考えられる緑釉陶器や 越州窯系の青磁壷片な ども出土 してお り、交野 ケ原遊猟の際に拠点 とした行宮な ど、嵯峨朝の皇 室 との密接な関連性を もつ施設が存在 した可能性が高い (註 33)。 また、九頭神遺跡 の廃絶 と招 提中町遺跡 の成立 は連動 してお り、山背遷都による南海道の再整備がその背景にあることも指摘 される (註 34)。 そ して、台地上 の他地域 における集落 の大規模 な発展は中世 にはいるまで待た ねばならない。 中世以降 鎌倉時代に入 り、 交野台地上 に廃絶 していた集落が再び形成され は じめる。招提中町遺跡では、 第 1次 調査 において 13世 紀前半 の瓦器椀を伴 う掘立柱建物跡 1棟 と土壌墓を、第 2次 調査 にお 12 いても瓦器椀を伴 う掘立柱建物 1棟 を検出 した。九頭神遺跡 では、府営枚方牧野住宅建て替 え工 事予定地 内にお いて、 13世 紀後半∼ 14世 紀代を中心 とする掘立柱建物 6棟 以上、井戸、大溝、 土 坑、土躾墓 な どが確認 されている。 この時期 の掘立柱穴 は直径 30cm程 度 の 円形 を呈す るも のがほ とん どで、隅丸方形を呈する飛鳥∼奈良時代 の もの とは明 らかに形態が異なる (註 35)。 穂谷川をやや遡 る日置山遺跡では、 古墳 を破壊造成 して中世の集落が営まれている。 日置郷 は、 中世には高野街道の往来で賑わ うが、南北朝の動乱 で戦禍を こ うむ り灰儘に帰 した。穂谷川対岸 の交北城 ノ山遺跡では、区画溝に囲われた方形の壇状地形を検出 し、溝内か らは瓦器椀、青磁椀 な ど鎌倉時代 の遺物が出土 した。壇上か らは数時期 にわたる柱穴群が検出されたが、時期 の 特定 には至 らなかった。 しか し、井戸 もしくは水溜施設 と考 えられる遺構 か ら、溝 と同様 に鎌倉 時代 の遺物が出土 してお り、周囲に溝をめ ぐらした壇状 区画 に居館的 な性格の建物が存在 してい た可 能性が指摘 され る。他 にもここでは、掘立柱建物群、耕作 の痕跡 を示す遺構、 12∼ 13世 紀 の 木棺墓な どが検 出され、平安時代以降か ら中世に至 る土地利用 と集落構造の変遷を考 える上 で重 要な遺跡である といえる (註 36)。 また、本調査地 の北西、船橋川 に望む標高 20mの 台地上 には宇山遺跡 がある。 古墳時代 後期 ∼近世にかけての複合遺跡 であるが、遺構 の削平がはげ しく詳細 には不明な点が多い。 13∼ 14 世紀 に属す る瓦器・ 土師質土器 。青磁な どの遺物 は確認 されたが これ も 2次 堆積 と考 えられ る。 数百点に及ぶかわ らけの集積 が検出されたが、中には近世以降 の陶磁器類 も含 まれ、近世 に は当 該地 も片埜神社境 内にあった とい うことか ら、その関連性が考 えられる (註 37)。 さらにJヒ 側 の 男山丘陵では、平安時代か ら続 く楠葉東遺跡の黒色土器・ 瓦器、補葉野田遺跡 の瓦器な どの 生産 遺跡が展開す る。 そ して この 中世以降、本調査地周辺では建物の遺構 な どがほ とん ど見 られな くなる。 これ は、 台地上で も用水 の確保ができるようにな り、耕作地 としての展開が始まったか らであろう。 本調 査区でも鋤溝・ 畝、井戸な ど耕作の痕跡を検 出 している。その後、 16世 紀 ごろには招提寺 内 町、 枚方寺内町な どが生 まれ、京都 と大阪を結ぶ交通 の要所 に位置す るこの地は重要な位置を 占 める ようになる。近世 には大阪・ 京都を結ぶ京街道に枚方宿が設置 され、宿場町 として発展 して い く ナ のである。 (註 (/Jヽ ││) 1)財 団法人枚方市文化財研究調査会『小倉東遺跡』 Ⅱ一北方鉾町地 区土地区画整理事業及 び防災 公 園整 備等 に伴 う小倉東遺跡第 (註 32次 発掘調査概要報告書一 枚方市文化財調査報告第 48集 2006年 2)大 阪府教育委員会『招提 中町遺跡』 一府営枚方牧野東住宅建 て替 えに伴 う弥生時代墓域 の調査 大阪府埋蔵 文化財調査報告 (註 3)財 2001-1 2002年 3月 団法人枚方市文化財研究調査会『九頭神遺跡 ―府営枚方牧野住宅建 て替 えに伴 う九頭神遺跡 第 168 次発掘調査概要報告書』 Ⅱ 枚方市文化財調査報告第 枚方市教育委員会 1991年 4)大 阪府教育委員会 2002年 (註 5)大 阪府教育委員会 2002年 (註 44集 2004年 『文化財 ハ ン ドブック 枚方 の遺跡 と文化財』 3月 前掲 3月 前掲 13 6)大 阪府教育委員会「庄 内式併行期 における招提中町遺跡」『招提中町遺跡』 Ⅱ 大阪府埋蔵文化財調査報告 2004-1 2005年 3月 8592頁 (註 7)財 団法人枚方市文化財研究調査会 2004年 前掲 (註 8)大 阪府教育委員会 2005年 3月 前掲 (註 9)枚 方市教育委員会 1991年 前掲 8892頁 (註 10)平 成 18年 度 には枚方市教育委員会 によ り、禁野草塚古墳の範 囲確認調査がお こなわれた (註 育委員会『史跡禁野車塚古墳 年)。 また、平成 平成 18年 度範 囲確認調査概要』枚方市文化財調査報告第 (枚 方市教 52集 2007 20年 度 には禁野車塚古墳の再調査のため、財団法人枚方市文化財研究調査会 をは じめ、 関西大学 。京都橘大学・ 京都府立大学の 3大 学 とともに調査団が結成 され、測量調査・ 研究 がお こなわ れた。詳細は、京都橘大学文学部 『京都橘大学 文化財調査報告 2008 -牧 野車塚古墳・禁野車塚古墳・ 宮道古墳 。大宅廃寺瓦窯跡 ―』 2009年 、一 瀬和夫他「禁野車塚古墳 の墳丘測量調査結果」『 日本考古学 協会第 75回 総会研究発表要 旨集』 2009年 (註 (註 (註 (註 68-69頁 を参照 されたい。 11)京 都橘大学文学部 2009年 前掲 「第 3章 禁野車塚古墳墳丘測量調査」 913頁 枚方市教育委員会 2007年 前掲 12)京 都橘大学文学部 2009年 前掲 「第 2章 牧野車塚古墳墳丘補足測量調査」 3-8頁 13)枚 方市教育委員会 1991年 前掲 14)前 掲の禁野車塚古墳同様 に、牧野 車塚古墳 において も、平成 16年 度 に財 団法人枚方市文化財研究調 査会 による第 2次 調査がお こなわ れた (財 団法人枚方市文化財研究調査会『史跡牧野車塚古墳 一第 2次 調査 ―』 2005年 )。 そ して、平成 19。 20年 度の 2ヵ 年 にわたって、財 団法人枚方市文化財研究調査会 をは じめ、関西大学・ 京都橘大学・ 京都府立大学の 3大 学 とともに調査 団が結成 され、測量調査 。研究 がお こ われた (京 都橘大学文学部 「第 2章 /A― 牧野草塚古墳測量調査」『 京 都 橘 大学 文化 財 調 査報告 2007-牧 野車塚古墳・ 熊 ケ谷 3・ 4号 墳 ―』 2008年 4頁 、京都橘大学文学部 2009年 前掲 「第 2 章牧野車塚古墳墳丘補足測量調査」 3-8頁 、一 瀬和夫・ 西田敏秀・ 菱 田哲郎 。米 田文孝 「牧野草塚古墳 の墳丘測量調査結果」『 日本考古学協会第 74回 総会研究発表資料』 2008年 )。 (註 (註 (註 (註 15)枚 方市史編纂委員会『枚方市史』第 1巻 1967年 337頁 16)枚 方市教育委員会 1991年 前掲 17)北 野耕平氏が指摘する。枚方市史編纂委員会 1967年 前掲 317-326頁 18)財 団法人枚方市文化財研究調査会『小倉東遺跡』 Ⅱ一北方鉾町地区土地区画整理事業及び防災公園整 備等 に伴 う小倉東遺跡第 32次 発掘調査概要報告書一枚方市文化財調査報告第 48集 2006年 19)枚 方市史編纂委員会『枚方市史』第 12巻 1986年 (註 20)西 田敏秀氏が指摘する。財団法人枚方市文化財 研究調査会 2004年 前掲 82頁 (註 21)財 団法人枚方市文化財研究調査会 2006年 前掲 (註 22)枚 方市史編纂委員会 1967年 前掲 350頁 (註 23)財 団法人枚方市文化財研究調査会『ひ らかた文化財だよ り』第 65号 2005年 10月 15日 (註 24)枚 方市教育委員会『特別史跡百済寺跡』平成 17年 度確認調査概要 枚方市文化財調査報告第 51集 (註 20064千 (註 25)財 団法人枚方市文化財研究調査会『九頭神廃寺』 一寺院地北西域 の調査成果 一 告穿,54集 2007と手 枚方市史編纂委員会 1986年 前掲 14 枚方市文化財調査報 26)大 阪府教育委員会『禁野本町遺跡』2007年 3月 (註 27)財 団法人枚方市文化財研究調査会 2004年 前掲 『歴史シンポ│ジ ウム (註 23)菱 田哲郎「考古学にみる古代の交野 ヶ原」 (註 ・ 交野 ヶ原二その歴史 と文学 ―』 2008年 発表資料より。 (註 29)財 団法人枚方市文化財研究調査会 2006年 (註 30 枚方市史編纂委員会 前掲 「自然科学的調査の成果」 148頁 1986年 前掲 31)大 阪府教育委員会 2002年 前掲 (註 32)網 伸也「大山崎瓦窯の操業 と交野」 『明 日をつなぐ道』―高橋美久二先生追悼文集- 2007年 (註 33)網 伸也 2007年 前掲 (註 2008年 前掲 (註 34)網 伸也 2007年 前掲 菱田哲郎 35)財 団法人枚方市文化財研究調査会 2004年 (註 36)枚 方市史編纂委員会 1986 前掲 ― (註 37)枚 方市史編纂委員会 1986 前掲 (註 前掲 15 第 3節 九頭神遺跡 の既往 の調査 九頭神遺跡の東南部付近では、古 くか ら古瓦が採集 されていることや 「 ドン ドン山」、「金堂」 といった字名な どか ら、寺院の存在 が予想 されていた。 明治 20年 代 には「 ドン ドン山」付近で 銅造誕生釈迦仏が発見 され、昭和 8年 には大阪史蹟會によって「 ドン ドン山」付近は部分的に調 査された。その ときに焼けた土壇 とともに鉄釘、青鋼製品な どが 出土 し寺 院の存在が確認 された。 『河 内志』 の「久須 々美神社」所在を述 べ た記事 に従 えば葛上廃寺 とな り、字名の明治初年の九 頭神をあてれば九頭神廃寺 となる。 この神社 は村社 として近代 まで字九 頭神 にあった といわれて い る延喜式内社 である。明治 42年 3月 11日 に大字阪字一 ノ宮の延喜式 内社「片埜神社」 に合 祀 され、その後は荒地になった といわれている (註 1)。 石田茂作、 大脇正 一 、 藤澤一夫な どによっ て出土瓦 の研究 は進め られたが、寺 院跡 の探求は進展せず、伽藍配置な どは全 く不明 のまま付近 は宅地化されてい く。 こうした状況の下、昭和 58年 以降 になると個人住宅などの再開発 に伴 う発掘調査が行われる。 九頭神廃寺を含めた九頭神遺跡の究明を 目的 とした悉皆調査が実施され、長期 にわたって断続的 に利用される九頭神遺跡 の姿が少 しずつ解明されつつ ある。 九頭神遺跡の形成は、弥生時代後期末 頃 には確実 に始 まっている。枚方市 による第 111次 調 査 (註 2)で は縄文時代中期 に比定 される土器 の 出土はあるが、遺構は検 出されていない。弥生 時代後期末 ∼古墳時代前期初頭 にかかる遺構は、竪穴住居、掘立柱建物、土坑な どが主に九頭神 廃寺の下層で検 出されている (第 1・ 37。 98次 調査 )。 しか しなが ら、古墳時代の遺構 はその 他 にはあま り確認されてお らず、古墳時代後期末 まで空 白期 となってい る。古墳時代後期末以降 の遺構 としては、第 19・ 53・ 58次 調査な どで、遺跡北西部 において造付 けカマ ドを もつ竪穴 住居や掘立柱建物が検出されている。第 84次 調査では九頭神廃寺 の寺域 内でも 6世 紀末葉 の鍛 冶関連遺構が検出されてお り、掘立柱建物を基本 とした集落 は継続的 に営 まれてい く。 さ らに、第 58次 調査では真北方 向へ平行 して走 る 2条 の溝が発見 されている。間隔が約 12 mに 復原される ことか ら、道路側溝である可能性が高い。道路状遺構 は 93mに 渡 って検出され、 溝 内か らは飛鳥Ⅳ∼平城宮 Ⅱ期 に相 当する土器群が出土 した。 同 じく真封ヒ 方向に主軸を とる掘立 柱建物群 も検出されてお り、8世 紀段階 には真北方向を指向する地割を基礎 とした集落形成が進 行 していたことが うかがわれる。 また、第 19次 調査では平安時代初頭 に廃絶 した と考 えられる 井戸が検出された。隣接する招提中町遺跡では平安時代前半 の掘立柱建物群が存在 し、官衡 の可 能性 も指摘 されているな ど、関係を考 えてい く上で興味深い。 九頭神廃寺に関 しては第 25・ 33・ 35。 56・ 59次 調査 において、寺域 の東西を画す ると考 え られる溝や、北限を示す瓦溜 りな どが検出され、寺域は約 1町 半四方 であると推定されるに至 っ た。寺域 内では、第 4次 調査 で 回廊状 の掘立柱建物が、第 2・ 37次 調査 では東西方向 に主軸を もつ大型掘立柱建物群な どの遺構が検 出されたほか、塑像 の螺髪 な どが 出土 してい る。 さらに 第 77。 98次 調査では真北方 向 に主軸を もつ瓦積の建物基壇が検出されて い る。一辺約 10.5∼ 16 11.Om規 模 の塔 の基 壇 と思 われ る。基 壇 築 成 に伴 う整 地 土 層 の 存 在 も確 認 され、 多量 に 出土 し た屋 根瓦 の検討 な どか ら、基 壇 は 7世 紀末 ∼ 8世 紀初頭 に創 建 され た もの と考 え られてい る。 ま た 、第 206次 調 査 で は西 大 門か ら東 方 に伸 び る寺 院地 内道 路 の 北側 に、築地 に よって整然 と区 画 され た 2つ の 付 属 院地 が検 出され る とともに、寺 院地 の 北 西 角 が 確 定 され た。第 168次 調査 では、寺院地及 びそ の周辺 で寺 院建立以前 の集落や大型掘 立柱 建物群 で構成 され る豪族居館 な ど が 検 出されてお り、寺 院地 とそれを 取 り巻 く地域 の 具体 的 な姿 が 明 らか にな りつつ あ る。 平安 時代 中期以 降 の遺 構 は 検 出 され てお らず、 その様相 は不 明 で あ る。 しか し第 53。 58・ 168 次調査 な どでは 、鎌倉 時代 ∼ 室 町時代 に属 す る掘立柱建物群 や木棺墓群 が検 出 され てい る。木棺 墓 には瑞花双鳳 八稜 鏡 や青磁 碗、瓦器碗 な どが副 葬 され て お り、屋 敷墓 といわれ る ものであ る。 また第 111次 調査 で は、現 在 の墓地 と一 部重複 す る形 で室 町 時代 に属 す る蔵 骨器 としての土製 羽釜 な どの埋 葬遺構 が確認 され てい る。 また、 本 調査 と併 行 して 第 206-5。 6次 。218次・ 225次 調 査 がお こなわ れ た。第 206-5 次調査 では寺 域 の 西 門を構 成 す る大型柱穴 2基 が検 出され、西 門が掘立柱 の四脚 門 であ った こと が 推定 され る。 また柱 の 抜 き取 り穴 か らは、 基壇化粧 に用 い られ た ものか どうか はわか らな い が、 凝灰 岩片 が 出 土 した 。 206-6次 調 査 で は、倉 垣 院 内 の 倉 庫 で あ る と思 われ る総 柱建物 SB7や 築 地 の 雨落溝 な どが 検 出 され た 。 218次 調 査 は前述 の 延 喜 式 内社 「久 須 々美 神社 」 の跡地 にあ た る といわれ て きた場 所 で 調 査 が行 われ た。 調査範 囲 の 北 端 で東西 方 向 の 推定 幅 2,0∼ 3.5m、 深 さ 0.8mの 断面 が U字 状 の 大溝 S D 101が 検 出 され、大 溝 か らは廃棄 され た九 頭 神廃寺 の瓦 が 出土 した。 この 溝 は、 218次 調 査 の 東 側 で 既 に検 出 され て い る南 北 方 向 の 大 溝 と直交す る可 能性 が 高 く、重要 な施 設 を 区画 す る溝遺構 の一 部 であ る とも考 え られ る。 その他 に も、 14∼ 15 世紀代 に埋 め られ た素掘 りの井 戸や溝 、古代 の もの と思 われ る複数 の柱穴、弥生 時代後期 の 落 ち 込 み とそ こか ら出土 した土 器 な どがみ つ か った。 225次 調 査 は 、本 調 査範 囲 の す ぐ北側 に 位 置 す る、関西 医科大 グラ ウ ン ド跡地 でお こなわれた。サ ヌカイ ト石核・ 石鏃 。須恵器 ・ 瓦器を は じ め とす る様 々な 遺物 が 出土 した。主 だ った遺構 としては、江 戸 時代 ∼ 昭和初期 にか けての耕 作 の 痕跡 がみつ か り土地 利用 の 様 子 が詳細 にわか り、本調査範 囲 で 検 出 した井戸や鋤溝 な どの耕 作 の 痕跡 との関連 も考 え られ る。 また、風倒木 痕跡 も本調査範 囲 において も北半部 を 中心 に複数 検 出 してお り、両調 査範 囲 に またが って広 が る ものであ ろ う こ とが確認 で きた。 (野 島) 1)財 団法人枚方市文化財研究調査会『枚方市文化財年報』29 2007年 度分 2008年 11月 (註 2)以 下、調査次数の記述があるものはすべて同様に枚方市による調査次数を引用した。 (註 参考文献 宇和田和生・桑原武志 1984「 九頭神遺跡」 『枚方市文化財年報』V 大竹弘之 1986「 九頭神遺跡 (第 1・ 財団法人枚方市文化財研究調査会 2次 調査)」 『枚方市文化財年報』Ⅵ 財団法人枚方市文化財研究調査 会 財団法人枚方市文化財研究調査会 『枚方市文化財年報』29 2008年 11月 竹原伸仁編 1997『 九頭神遺跡』一九頭神遺跡一 枚方市教育委員会 17 西田敏秀 ,菱田哲郎 1987「 九頭神遺跡 鰺,3,4豫爾⇒ J晦 防 市文化財蜘 WILナ難囃騨繭虜1市真化露研 鶴 1西 闘観秀 1995「 九頭警遺嚇 (第 531舞 聴鍛 J嚇 闘囃婢瀬 997け 酵器轄跡 9孝 111殉 隷動」嗽 オ就期ヒ財攀駒 茜田1効鶏 2004Fヵ 麟榊鋤 I荊 西日鰺 2007F九 藪雑辮 鶴 級鯛鰤 鰤 1山 簾 fFkf蜘 業化財年報』lS i財 蝉 13財峨 薦 螂萌 立期朗 醍期 罐蔭 査虔藉 =』 会 190イ f枚 方市1勁 第 1巻 鰤 上弘編 2002嚇 勢訓田機動葡 1大 阪癖 舞奉鵡会 18 赫 査会 文fB醐 期 鋒 第 3章 調 査 の 手 順 と概 要 調査区の設定は、残土置 き場を確保するため調査範囲を東西 に 2分 し、約 9× 第 I調 査 区、約 8× 13mの 東側を 12mの 西側を第 Ⅱ調査 区 とした。各 々の調査区内には、遺物 採集地点 の 確認等 のため、便宜上 の地 区割 りを、東か ら西 に 5m毎 に A∼ I、 北か ら南 に 5m毎 に 0∼ 6 と表 して用いた。調査 に際 して、まず東側第 I調 査区か ら先行 して約 3ケ 月間の調査 を行 った。 続 いて約 3ケ 月間、残 る西側部分、第 Ⅱ調査区の調査を実施 した。 側清 は、調査 区の排水を兼ね、調査区平面の人力掘削に先行 して、調査範囲全体 の四周 を囲 うように掘削 した。第 I調 査区は東・ 北 。南 の 3方 向 に、第 Ⅱ調査区は北・ 西 。南 の 3方 向 に 設定 した。 調査 の過程 において、20分 の 1の 縮尺 による遺構全体 の平面図、出土遺物 の残存状況が良好 だった場合 には出土状況を示す 10分 の 1の 縮尺 による詳細図な ど、記録のために遺 構 の特徴 に 応 じて必要なものを作成 した。また、20分 の 1の 縮尺 による調査 区全体 の側溝壁断面 図を作成 した。 写真撮影 は、必要 な個 々の遺構検 出状況及 び完掘状 況、遺構あぜの 断面、遺物 の 出土状況、 調査区の東西南北 の側溝断面、調査 区の全 景等を撮影 した。全景写真 は、第 I・ Ⅱ調査 区 とも に各々第 1・ 2・ 3遺 構面 と 3回 ずつ、足場 の上か ら撮影 した。 両調査区共 に第 3遺 構面 にお い ては、ヘ リコプターを用 いた航空写真測量を行 った。各 々の撮影 に先行 して 3級 基準点各 1点 、 4級 基準点各 2点 を作成 した上で、世界測地系 に準 じた国土座標値 に基づ く 5m四 方 のグ リッ ドを測量の基準に用いた。 この座標値は、本報告書において全景の遺構平面図 (図 16)│こ 記載 した。撮影 は 20分 の 1の 縮尺を用 い てお こな い、 100分 の 1の 縮尺 による遺構平 面 図を作 成 した。 本報告書 は上記 の調査成果 の記録をまとめたものである。 以下 に参考資料 として調査 日誌 の概要をまとめる。 7月 10日 ∼ 調査範囲の現況測量、第 I・ Ⅱ調査区の範囲設定。 7月 17日 ∼ 第 I調 査区内の地区割設定 (東 西 10m毎 に A∼ E、 南北 10m毎 に 0∼ 6)。 第 I調 査区機械掘削。 A-2区 側溝を人力掘削。 7月 23日 第 I調 査区 A-1・ 7月 24日 ∼ 第 I調 査区北壁断面を分層。 第 1調 査区側溝を人力掘削。 7月 27日 ∼ 8月 17日 第 I調 査区を人力掘削。 第 I区 の北壁、東壁、南壁の断面図 (縮 尺は 1/20)作 成及 び土層注記 了。 19 8月 17日 ∼ 8月 27日 第 I調 査 区 の人 力掘削継続。 第 I調 査 区輪郭及び攪乱範囲の平板測量図 (縮 尺は 8月 24日 第 I ttC-4地 区 (た だ し攪乱 )よ り軒丸瓦片 (図 1/50)を 作成。 24-1)出 土。 9月 3日 ∼ 9月 4日 第 I調 査区第 1遺 構面にお いて検 出 した遺構 (主 に ピ ッ ト)を 掘削。 9月 5日 ∼ 9月 6日 第 I区 調査 区第 1遺 構面 において検出 した ピ ッ トの遺構断面図を作成。 9月 10日 ∼ 9月 13日 第 I調 査区第 2遺 構面の精査を行 い、終了後 に全 景写真を撮影。 9月 17日 第 I調 査 区第 3遺 構面 の航空写真撮影。 9月 18日 第 1調 査 区第 3遺 構面、清 SD05に おいて土器群を検 出。 出土状況実測 図 (縮 尺 は 9月 24日 1/10)を 作成 した後、検 出状況写真を撮影。 第 I区 南側 において、 9月 14日 検 出の SD05か らの続 き となる溝を検出 東半部で同様 の上器群を検出。方形周溝墓 であることを確認するに至 る。 9月 26日 ∼ 第 I調 査 区溝 SD05に おいて検 出 した土器群下層の土器 出土状況図 (縮 尺は 1/10)を 作成。 24日 に確認 した方形周溝墓の東側 に、さらに 1基 の方形周溝墓を検 出。 10月 3日 方形周溝墓周辺 の平板測量図 (縮 尺は 1/20)を 作成。 10月 9日 ∼ 第 I調 査 区埋戻 し。 10月 22日 ∼ 第 Ⅱ調査区内の地 区割設定 (東 西 10m毎 に F∼ I、 南北 10m毎 に 0∼ 6)。 第 ■調査区機械掘削後、側溝を人力掘削。 10月 31日 第 Ⅱ調査 区西壁断面図 (縮 尺 は 1/20)作 成及び、写真撮影。 11月 7日 第 Ⅱ調査 区西壁断面図追加作成及び、土層注記。 H月 8日 ∼ 11月 14日 第 Ⅱ調査 区表面 の撹乱土層を人力掘削。 H月 15日 ∼ 11月 26日 第 Ⅱ調査区南壁側溝掘削及び、南壁断面 図 (縮 尺は 1/20)作 成。 12月 10日 ∼ 12月 17日 第 Ⅱ調査区第 2遺 構面遺構実測図を作成。 1月 10日 第 Ⅱ調査区第 3面 遺構面の航空写真撮影。 1月 30日 ∼ 2月 4日 確認 トレンチ 05、 06の 平面図及び、断面図 (縮 尺は ともに 1/20)を 作成。 2月 18日 ∼ 2月 19日 調査範囲周辺地形の平板測量図 (縮 尺は 1/100)を 作成。 第 Ⅱ調査 区埋戻 し。 2月 26日 調査終了。 (山 田 20 昌恵 ) 第 第 1節 4章 基本層序 枚方市域の地質 大阪湾やその付近 には新世代 の第二紀末か ら第四紀の中ごろまで海や湖がひろがってお り、枚 方市域周辺 には、大阪湾 。河内・ 山城 。大和平野 までつづ く淡水湖があ った。 この ころに堆積 し た地層を大阪層 群 とよぶ。大阪層群は、大阪盆地・ 奈良盆地・ 京都盆地 。播磨盆地 と淡路島 に分 布す る鮮新・ 更新統 である。 同層群 は、丘陵地 と台地 。段丘 の基 部 に露 出 してい るにす ぎな い が、堆積盆地 の低地下や海底下 に、厚 く、広 く伏在す る。丘陵地では、数百 m以 上、低地 下・ 海底下では最大 1,500∼ 2,000m以 上 もの厚さになる。 また、おもに湖沼成層 。 河成層 か らな り、 12層 の海成粘土層 と多数の火 山灰層をはさむ。古 い地層 と新 しい地層の 2つ に分 け られ、枚方 地域において、古い地層を伊加賀層、新 しい地層を香里互層 とよぶ。 枚方市域 にひ ろがる地形 の大部分 は低い丘陵であ り、 これを枚方丘陵 とよぶ。 この地域 の地質 構造は、 同丘陵西縁をほぼ南北 に走 る西落ちの枚方断層 と片町線の南東側を北北東 に走 る西 落 ち の打上断層 によって、その枠組みがつ くられている。大阪層群研究 グルー プが大阪層群 の命 名 に あたつて、同層 群 の模式地 とした千里山丘陵 とは淀川 をはさんで向かい合 う位置にある枚方 丘陵 に分布 し、一 般 に東南東 にゆるやかに傾斜 し、層厚が 110m以 上で陸水成 の砂礫層 と 7層 の海 成粘土層の互層 である と定義 した。その他、寝屋チ il以 北 の枚方断層沿 いでは、地層 は西に 30° 内 外か らそれ以上傾 斜す る。 また、生駒断層の延長 とみ られ る打上断層沿 いでは、地層 は直 立 し、 同断層 以東 では 、地層 は東西ない し北東 の走向を もち、北ない し北西に傾斜す る。 この大阪 層群 の堆積 の後、幾度 かの氷河期 を経て、 高位段丘堆積層 (新 旧長尾礫層)、 中位段丘堆積層 (枚 方 層)、 低位段丘堆積層 が 形成 されてい くのである。 調査 区周辺 は 中位段丘上 に位置 し、周辺地域の中位段丘堆積層 は枚方層 とよばれる。 これ は、 枚方市 内中宮付近 に もっ ともよ く発達 し、標高 30m内 外 の平坦な中位段丘面 (枚 方面)を 形成 す る。枚方層 は 、 模式地 とされ る枚方市別所 山 と枚方市宮之阪 。星丘をのぞけば、層厚 7m以 下 の砂礫層か らな る。本層の風化は高位段丘堆積層である長尾礫層 に くらべ て弱 く、堆積面「か ら 2∼ 3mま でが や や赤色土 化 を うけてい る過程 である。 この状態 は調査地 においても一 部 確認 することができた 。 く か照・引用文献〉 2004「 九頭神遺跡 の位置 と環境」『九頭神遺跡』 Ⅱ 財団法人枚方市文化財研究調査会 市原実 1993『 大 阪層群』 倉J元 社 片山長三 1970『 枚方台地 の形成 とその前後』 枚方市 高谷好 ―・ 市原実 1961「 枚方丘陵の第四紀層 ― とくに新香里層・ 枚方層 にみ られる気候変化 について 一 」 西 田敏秀 『 地質学雑誌』第 枚方市史 編纂委 員 会 67巻 1967『 枚方市史』 日本地質学会 枚方市 宮地 良典・ 楠利夫・ 武 蔵 野賞・ 田結庄良昭・井本伸広 2005『 京都西南部地域 の地質』 21 地質調査総合 セ ン ター 第 2節 基本層序 府営枚方東牧野住宅に伴 う基礎や配管による撹乱によって、全体的 に削平 。撹乱が著 しく、遺 構 の残存状況 は良好 とはいえない。そ のため、撹乱 された層 の直下 に地山が存在 してお り、基 本層序が確認できる箇所が限 られていた。原地形は南西方向に下 る傾斜をもち、調査区の 250m ほど南を流れる穂谷川に向けて谷地形が存在すると考えられる。調査区のなかでも、北側は比較 的遺構 の残存状況が良好で、主に 3面 の遺構面を確認することができた。 残存状況が良好な北側部分の基本層序をみると 8層 に分け ることができ、さらに細分可能なも のはアルファベ ッ トで枝番号をつ けた。遺構が存在するのは 3∼ 7層 であ り、 4層 よ り下は地山 に相 当す る。主 だった遺構面は合計で 3面 存在 した。各 々、第 1遺 構面 は 3が 層上面、第 2遺 構面は 3c層 上面、第 3遺 構面 は 4b・ 5、 あるいは 6層 上面で検 出 した。 現代盛土 の層は、府営住宅基礎等の破棄 の際の埋め込みによ り部分的に深 く掘 り込 まれてお り、 5∼ 25cmの 礫及び現代遺物を含む層である。 この盛土の下にある 1層 は、耕土であ り、 la 層 としたものが茶褐色を呈する細粒砂 の現代耕土である。さらにその下に lb・ lb'層 があ り、 これ らは暗灰色細粒砂の旧耕土 である。 2層 は 2a・ 2b層 に分かれ、 2a層 はオ リー ブ味を帯 びた灰褐色細粒砂である。 この層 には、 少量 のマンガン粒が含 まれ、上面が赤色化 していることか ら酸化を受けていると考 える。 2b層 はオ リー ブ灰色の細粒砂である。 3層 は細分が可能であ り、 この層 のなかに 2面 の遺構面が存在する。 3a層 は、マ ンガン粒を 少量含むオ リー ブ褐色粘質細粒砂 で、床土である。その下 の 3a'層 は 3a層 に比べ て灰色 味が強 い色調を呈 した床土であ り、遺構面の第 1面 に相当する。 この遺構面は調査区の北端で確認でき るのみである。 ここでの遺構 としては鋤溝、清及び ピッ トが検出でき、遺物 としては主に陶磁器 片や瓦器片が出土 している。 3b層 では、マンガン粒を少量含む暗オ リー ブ灰褐色砂質 シル トの 層があ り、その下の 3c層 に第 2面 遺構面に対応するマンガン粒を少量含 むオ リー ブ灰褐色の細 粒砂 の層がある。 ここでの遺構 としては溝、細溝 (隅 溝 )及 び柱穴 の可能性がある ピ ッ トを検 出 しているが、遺物 の 出土は極端 に少なかった。そ して、 この 3c層 はさらに 3ご ・ 3c"層 に分 ける ことができ、それぞれマンガン粒を含 む暗オ リー ブ灰褐色細粒砂であ り、 Sc"層 の方が 3c' 層 に比べ てマンガン粒が多 く見 られる。 4層 か らは地山 となる。攪乱直下 にみ られる地山で、調査区全面を通 じて厚 く広が り、一部第 3遺 構面 に相当する。 4層 も 3層 同様 に、計 6つ に細分 した。 4a層 は砂・ 細礫混 じりの明黄褐 色砂質シル トであ り、 4a'層 では、 4a層 に自灰色 の砂質 シル トが混ざる。さらに、 4が '層 では 明黄褐色 の砂質土 とな り、上部に礫が混ざる。 4層 の 中でも異なる様相を呈 しているのが 4b・ 4b'層 であ り、 これ らは第 3遺 構面 に相 当する。 4bと 4b'は 4a層 よ り赤味を増 した明赤 褐色 シル トである。 4bで は細礫を、 4b'で はそれよ り大 きい礫を含 む。また、同様の地山で 明黄褐色砂質土で礫を多量に含む 4c層 がある。 北壁断面 図 W E E34m E33m E32m E31m I E30m E29m E28m E27m E26m E25m E24m E23m E22m E21m E20m E10m E18m E17m I │ │ i TP+21000m TP+21000m W │ 11 田 . │ I ︰ . I l l I I 怖 ︰I E10m Ellm m 5 m 7 8 E E16m E17m │ 丁 P+21000m TP+21000m ⑩ ⑤' p生 ‐ ヽ― 一―― ―― 一―f二 十 _____― ― ―― ― 2 南壁断面 図 m E O I I E W 輛 ll 飾 II E10m Ellm i I E12m I E13m I E14m E15m E16m E17m │ │ │ i TP+21000m TP+21000m E W E17m [19m E18m │ │ │ E21m E20m │ E22m I │ E23m I E24m l E26m E25m I E27m i E28m E29m i i │ E30m E31m E32m I i i E33m E34m i i TP+21000m TP+21000m ) 0現 代盛 土 (部 分 的に深 く掘 り込 まれ て いる・ 直径 5∼ 25cmの 礫及 び現代遺 物 を含 む ) (直 径 5mm4度 の礫 を3%程 含 む・ 現代耕 土 ) la茶 褐 色細粒砂 lb暗 灰色細粒砂 (耕 土 ) 第 I調 査 区 リー ジ褐 色粘 質細粒 砂・ マ ンガ ン粒 少量含む (床 土 ) (床 土 )(1面 上面 ) 3b暗 オ リー プ灰褐 色砂 質 シル ト・ マ ンガ ン粒少量含む 3a' 3aよ り灰色味が強 い 3cオ lb' lbよ り薄 い灰色 (耕 土 ) 2a灰 褐色細粒砂 ・ オ リー ブ味・ マ ンガ ン粒 少量含 む・ 上 両赤褐色 化 2bオ リー プ灰色 細粒砂 図4 3aオ (酸 化 ) リー ブ灰褐 色細粒砂 ・ マ ンガ ン粒 少量含む (2面 上 面 ) 3c' 晴オ リー ブ灰褐 色細粒砂 ・ マ ンガ ン粒若干含む 3o'' 3c'よ リマ ンガ ン粒 多 く含 む 4a明 黄褐 色砂 賢 シル ト・ 砂 、細礫混 じり (地 山 ) (地 山 ) 4a' 4aに 自灰色 混 じる・ 砂 質 シル ト 4a'' 明黄褐 色・ 4aよ り砂 質土 ・ 上面 に礫混 じり (地 山 ) 4b明 赤褐 色 シル ト・ 細礫 3%位 含 む (地 山 (遺 構面 )) 4b' 明赤掲 色 シル ト・ 4bよ り礫 大 きめ 4o明 責褐 色砂 質土・ 礫 を多量 に含 む (地 山 (遺 構 面 )) (地 山 ) ト (下 にい くは ど白さが増 して粒子 が細 か くなる )(地 山 ) (地 山 ) 5b白 灰色粘 土・ 明赤褐 色 、赤褐 色含む ・ 粘性大 きい (地 山 ) 5白 灰色粘 質 シル 5' 5よ り砂礫 多 く含む G明 褐 色粘 質 シル ト (地 山 8赤 褐 色砂 賞土・ 黄褐色粘 上含 む・ 上 面 に一部耕 作土が混入 ) 8' 8ほ ど粘 土 を含 まな い 。灰色味 北 日南壁 断面 図 23 24 1 2m I区 東壁 断面 図 S N16m N15m N141n TP+21000m TP+21000m ① I i │ パイプ 撹乱 え ― /― ― ―イ ‐ 窒韮学生 ヽ十 ④と ' ― ―ヽ 一 =一 ―― i S曲︲ N N17m N16m TP+21000m I i i 2 N18m N20m N19m i │ N27m N26m i │ i i N25m N24m N22m N21m TP+21000m │ i │ i N29m N28m プ 「 ゼ │ Ⅱ区西壁 断面図 N S N48m N47m i I N32m N31m N30m N29m H28m N27m N26m i │ │ I I │ i N25m H24m N23m N22m N21m N20m i i │ i │ i N19m N18m N17m │ I │ P+21000m TP+21000m N S N16m N15m N14m N13m H12m Nllm N10m i │ i i │ │ │ I NIm │ ― 解 ④a' TP+21000m (部 分的 に深 く掘 り込 まれ て いる・ 直径 5∼ 25cmの 礫 及 び現 代遺物 を含む ) (直 径 5山 程度 の礫 を3%程 含 む・ 現 代耕土 ) la茶 褐 色細粒砂 lb暗 灰色細粒砂 (耕 土 ) 第 I調 査 区 東壁 日Ⅱ調査 区 リー ブ褐 色粘質細粒砂 ・ マ ンガ ン粒少量含む (床 土 ) (床 土 )(1面 上面 ) 3b晴 オ リー ブ灰褐色砂 質 シル ト・ マ ンガン粒少量含 む 3a' 3aよ り灰色味 が強 い 3cオ lb' lbよ り薄 い灰色 (耕 土 ) 2a灰 褐色細粒砂 ・ オ リー プ味・ マ ンガ ン粒少量含 む・ 上面赤褐色化 2bオ リー ブ灰色細粒砂 図5 3aオ (酸 化 ) リー プ灰褐色細粒砂・ マ ンガ ン粒 少量合 む (2面 上面 ) 3c' 暗オ リー ブ灰褐色細粒砂・ マ ンガ ン粒若 干含 む 3o'' 3c'よ リマ ンガ ン粒 多 く含む 4a明 費 褐色砂 質 シル ト・ 砂 、細礫 混 じり (地 山 ) (地 山 ) 明黄褐色 ・ 4aよ り砂 質土 ・ 上面 に礫混 じり (地 山 ) 4a' 4aに 自灰色 混 じる 。砂資 シル ト 4a'' 4b明 赤褐色 シル ト・ 細礫 3%位 含 む (地 山 (進 構面 )) 4b' 明赤褐 色 シル ト・ 4bよ り礫 大 きめ 4c明 黄褐 色砂質土・ 礫 を多量 に含 む (地 山 (遺 構 面 )) (地 山 ) 5白 灰色粘 質 シル ト (下 に い くほ ど白 さが増 して粒子 が細 か くな る )(地 山 ) 5' 5よ り砂礫 多 く含む (地 山 ) 5b白 灰色粘 土・ 明赤褐 色 、赤褐 色含む ・ 粘性大 きい ) 8' 8ほ ど粘土 を含 まな い 。灰色味 西壁断面図 25 (地 山 ) 6明 褐色粘 質 シル ト (地 山 8赤 褐色砂 質土・ 黄褐色粘 土含む・ 上 面 に一部耕 作上が混入 26 2 =噌 Om 4 + 0現 代盛 土 師 II N17m 北壁 断面図 E W 9 2 5 3 E32m E31m E30m │ I i i │ E28m E25m E24m E23m E21m E22れ E20m E19m 1 i E33m i E34m I E36m E37m 1 I i │ │ │ I I i i TP+21000m TP+21000m E E18m E16m E15m E14m E13m E10m │ i │ │ i i I 輌 ・ II W E19m EOn │ TP+21000m TP+21000m 2 南 壁断面図 E 輸 II 飾 li M II TP+21000m W El m E10m 000m l TP坐 i E10m TP+21 000m l Ellm E12m E13m E14m E15m E16m E17m E18m E19m E20m E21m E22m E23m E24m E25m │ i i │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ ヽ \ __ォ _一 ―― ―=‐ ④ a'白 灰色 多め 粘土 (部 分 的に深 く掘 り込 まれ て いる・ 直径 5∼ 25cmの 礫及 び現代違 物 を含 む ) ) ) 3aオ リー ブ偶 色粘資細 粒砂 ・ マ ンガ ン粒少量含 む 3oオ ) (酸 化 ) (床 土) 土 )(1面 上面 ) 3b晴 オ リー ブ灰褐 色砂 質 シル ト・ マ ンガン粒 少量含 む 3a' 3aよ り灰色味が強 い (床 リー プ灰褐 色細粒砂 ・ マ ンガ ン粒少量含む (2面 上面 ) 3c' 暗オ リー ブ灰褐色細粒砂・ マ ンガ ン粒若千含む 3c'' 3c'よ リマ ンガ ン粒 多 く含む 4a明 黄褐色砂 質 シル ト・ 砂 、細礫 混 じり (地 山 ) (地 山 ) 明黄褐色 ・4aよ り砂 質土 ・ 上面 に礫混 じり (地 山 ) 4a' 4aに 自灰色混 じる .砂 質 シル ト 4a'' 4b明 赤褐色 シル ト・ 細礫 30/6位 含 む (地 山 (遺 構面 )) 4b' 明赤褐色 シル ト・ 4bよ り礫 大 きめ 4c明 黄褐 色砂 貨土・ 礫 を多量 に含 む (地 山 (遺 構 面 )) (地 山 ) 砂礫 多め 1 5白 灰色粘質 シル ト (下 に い くほ ど自 さが増 して粒 子が細 か くな る )(地 山 ) 5' 5よ り砂礫 多 く含 む (地 山 ) 6b白 灰色粘 土・ 明赤褐色 、赤褐 色含む・ 粘性 大 きい (地 山 ) 1 6明 褐 色粘質 シル ト (地 山 8赤 褐 色砂 質土 ・ 黄褐 色粘 土含 む・ 上面 に 一 部耕作 上が混入 ) 8' 8ほ ど粘土 を含 まな い 。灰色味 猛1盛 図6 第 Ⅱ調査 区 北 日南壁断面図 27 4 + la茶 褐色細粒砂 (直 径 5mn程 度の礫 を3%程 含 む・ 現代耕 土 ib暗 灰色細粒砂 (耕 上 1『 lbよ り薄 い灰色 (耕 土 2a灰 褐 色細 粒砂 ・ オ リー ブ味・ マ ンガ ン粒 少量 含む・ 上面赤褐色 化 2bオ リー ブ灰色細粒砂 TP+21000m ④a ―― ‐ ― ―― _二 __、 0現 代盛土 m 6 il W2 E 激 E 28 I区 確認 トレンチ 刊 W E TP坐 節 II Elm EOm 000m i E7m E10m I │ i ´ ⑤ _=__ Ellm E12m I │ Eヽ 3m E14m E15m I i i E17m lTP+21000m ' 黎 礫 多め ― ―学 ④a' !一 壁 白灰 → 費褐・ 赤褐 色含 む砂質土 暗茶褐 色粘土含 む ③'自 灰色砂質土 明黄褐色 W E E17m E18m E19m E20m E21m E22m E23m E24m E25m i i │ i │ i │ i i 0現 代盛 土 E26m i E27m l E28m E29m E30m E31m E32m E33m E34m I i i I i │ │ 現 代の遺 物 を含 む 3b暗 オ リー ブ灰褐色砂質 シル ト マ ンガ ン斑 を少量含 む 3oオ リー ブ灰褐色細粒砂 マ ンガ ン斑 を少量含 む 3c' 暗 オ リー ブ灰褐色 マ ンガ ン斑 を若千含 む リマ ンガ ンを多 く含 む 4a明 黄福 色 砂礫 混 じり 4が 4aに 白灰色 混 じる 砂 質 シル ト 5自 灰色粘 質 シル ト 5' 5よ り砂礫 を多 く含む 3c'' 3c'よ 2 確 認 トレンチ 2(谷 の肩 ) S N 姉 ︱︱ Nlm │ TP+20000m TP+20000m lcオ リー プ灰色 マ ンガ ン少量含む 上面赤色 2a灰 褐 色 (オ リー ブ味 )細 粒砂 マ ンガ ン沈着 3aオ リー ブ褐 色 粘 質細粒砂 マンガ ン斑 少量 3a' 3aよ り灰色味 が 多い 3b暗 オ リー ブ灰色 マ ンガ ン斑少量 4a地 山 明黄褐 色 砂 、細礫 1%程 度含 む 4b地 山 明褐色 シル ト 砂礫3%程 度含む 4c明 黄褐色砂 賢土 (礫 をあま り含 まない ) 5地 山 白灰色粘質 シル ト 7暗 灰色砂 質土 マ ンガ ン斑 多 く含む 図7 第 Ⅱ調査 区 0 1 2m 上面赤色 (遺 構面 ) 確認 トレンチ断面図 29 30 5層 も上面が第 3遺 構面 に相当する部分を有する地山であるが、 4層 とは異な り白灰色を呈す る粘質 シル トである。下 へ い くほ ど白さが増 し、粘性が強 くなる特徴を もつ。 5'層 は 5層 よ り 砂礫を多 く含んでいる。 5b層 では同 じ白灰色 の粘土だけでな く、明赤褐色 と赤褐色 の粘土を含 み、粘性の強 い層である。 6層 も、 4・ 5。 6層 同様 に上面が第 3遺 構面 に相当す る明褐色の粘質シル トの地 山である。 7層 は、第 Ⅱ調査区内確認 トレンチ 2で 検出 した谷 の肩 でのみ確認 できたマンガン斑を多 く含 む暗灰色 の砂質土 である。上面 が赤色化 していることか ら酸化を受けている ことがわかる。 8層 は黄褐色粘土を含む赤褐色 の砂質土で、上面の一部 に耕作土が混入す る。 また、 8'層 で は 8層 に含 まれていた黄褐色の粘土をさほ ど含まず、灰色味をおびる。 以上のように、基本層序を大き く 8層 に分ける ことができたが、第 I・ Ⅱ両調査区を通 じて南 側 は著 しく攪乱を受けているため、攪乱土を除去す るとす ぐに地山である 4層 が露出する部分が 全体的に薄 くまば らにのびるのみで、 ほ とん どであった。耕土をは じめ とする地山でない地層は、 安定 して一定 の広が りを確認できたものは少ない。そのため、本調査では、第 1遺 構面 は調査区 第 3遺 構面 は複数 の異なる層の上面にまたがっ 北端にのみ、 第 2遺 構面 は中央部 にのみ検 出でき、 て検出 した。 (大 向 智子) 00 第 第 1節 5章 調査成果 上層の遺構 今回の調査では、第 I・ Ⅱ調査区 ともに、主に 3面 の遺構面を検出した。 しか しなが ら、第 1 遺構面及び第 2遺 構面 は調査区全域 に広 がるものではな く、一部 のみに しか存在せず、 ここで図 示する以外 の地区では後世の整地により削平 されたようである。それ らの箇所では、機械掘削で 例代盛土を除去後す ぐに、第 3遺 構面 が露出する。 ここでは、第 1・ 2遺 構面に相当する上層遺 構 について述べ る。調査 区全域 に及 ばない とはいえ、 これ らの上層遺構 の検出によ り、当該調査 地内における一定 の土地利用パ ター ンを推測する ことができた。 まず、第 1遺 構面は 3a層 上面で検出 した。tt I・ Ⅱ両調査区にまたがって存在 し、遺構 の継 続 も確認できたが、調査区の北端 にしか存在 しない (図 10)。 東西方向よ りわずかに南へ ふれる 細溝群であ り、耕作に ともな う鋤溝の痕跡であろう。I区 の範囲では、 ピッ トもい くつ か検出 し ているが、建物 と確認できるものはなかった。 Ⅱ区内では、ゴヒ 端 に区画溝 の可能性を有するやや 大きな溝を検出 した (SD Ⅱ-04)。 この溝 も鋤溝 と同方向にのび、Ⅱ区の中程で調査区外へ 向か う。 溝 の中央は、調査前に存在 した府営住宅 にともな う埋管によって攪乱を うけて欠失する。 第 I・ Ⅱ調査区 ともすべ ての遺構面を通 じて、出土遺物が極めて少な く、またさらに残存状況 も良好ではないため、出土遺物による遺構の年代決定は難 しい。 しか しなが ら細片ではあるが、 ここでは陶磁器片及び瓦器片が少量出土 した。図化 し得たものは次章の第 1節 にある、図 23- 5の 瓦器椀、同 9の 白磁椀がそれにあたる。 9の 白磁椀は概ね 13∼ 14世 紀 の年代が推定でき るが、図化 し得ない破片 には、当該時期 よ りもさらに新 しい様相をもつ陶器や、す り鉢の細片が 出土 してお り、 これ らの遺構 は概ね中世末頃∼近世にかけての遺構であると考 える。 ただ、区画 溝 (SD Ⅱ -04)に 関 しては、 第 2遺 構面 においても土地割 りと遺構の方向が変化 しない ことか ら、 第 1遺 構面 の時期 よりも古 くに造 られ、長期 に渡 って踏襲 して使用された可能性 も考えうる。 第 2遺 構面 は、両調査区 ともにおいて 2つ の地点に分かれた位置で検 出 した。 3c層 上面にあ たる。lヶ 所めは、第 1遺 構面同様 に調査区北端である。第 1遺 構面の下層 よ り、同様に耕作 に SDコ ー04 NTP+2070m TP+20 70m s / 1灰 自色 1灰 白色 砂 質土 2責 褐 色 砂 質土 砂礫 ま じり 3茶 褐 色 砂 質土 マ ンガ ンを少量 含む 4明 赤褐 色 粘 質上 灰 白色粘土 ・植 物遺 体 を含む 5黄 白・ 赤褐 色 極細砂 図 8 第 Ⅱ調査 区第 1遺 構 面 0 SD Ⅱ -04断 面 図 32 砂 質土 マ ンガ ン・細礫 を含 む I“巾∞剖∞〇 I一や∞﹃ヽ〇 + P幹 ♂ 《 亀 + 十 I一時∞﹃ヽ〇 0 図9 5 第 I調 査 区北端 図 10 第 二 日Ⅱ調査区北端 33 第 2遺 構 面平面図 第 1遺 構面平面図 ともな うであろう清及び細溝群 (鋤 溝)を 検出 した。茶色味がかった灰褐色を呈するやや粘質の 細粒砂 に黒色 のマンガン斑が多 く混 じる層をベー スに、たい ていの細溝は青味がかった明灰褐色 の粘土を埋土 としていた。図 9に あるのは I区 にあたる部分 のみであるが、西 の Ⅱ区では鋤溝 を検出 した。上層の SD Ⅱ -04と ほぼ同規模で同方向へ平行にのびる 2条 の溝 SD04と SD06は 、 上層遺構同様 に埋管 にともな う攪乱によって途 中で削平される。 これ らの溝 に加えて、I区 内で は柱穴 の可能性がある ピ ッ トをい くつ か検 出 した。特 に、 P37・ 32・ 38・ 26は 等間隔で地割 りに沿 って並び、掘立柱建物 SB01の 存在が推定できる。その他 にも、 P22と 24な どのよう に対 になる柱穴を検出 した。第 2遺 構面では、 Ⅱ区内にあたる西側は耕作地、I区 内にあたる東 側は居住域 として利用された。建物は耕作地に隣接する ことか らも、住居 とい うよ りは倉庫的性 質を備 えたものだったのか もしれない。 もう lヶ 所は、I区 では調査区東端中央 (図 13)、 Ⅱ区では調査区南西部 (図 14)│こ あたる。 ともに、東西方向よ り南にふれる角度でのびるが、 Ⅱ区の鋤溝群 の方がふれ幅が大き く、ほぼ北 東か ら南西方向にのびる。I区 東端 の一群は、前述の一群 と同一方向であ り、同時期のものであ ることを想定す る。 ここで も、第 1遺 構面 と同様 に出土遺物 は少ない が、少ない 中か らも概ね 中世 にあたる ことがわかる。各 々、鋤溝群 と直 交か ら平行 に L字 型に屈曲する区画清を ともな う。区画溝 に囲まれた地区が一段低 い位置にあ り、そ こに鋤溝が集中する。区画溝の屈曲する位 置 には、素掘 りの井戸を ともな うが、 これは溝の完掘後に下層に ともな う遺構 として検出 したた め、詳細は後述する。 Ⅱ区の一群 は残存状況が極めて良好で、溝だけではな く畝 の隆起部分 も明 SD06-1 瞭 に確認できた。 この遺構に NIP+2080m ともな う遺物はほ とん ど出土 していないため、時期 の同定 は難 しいが、 これよ り下層か ら、 白磁や土師器な ど中世 の 遺物が少量ではあるが出土 し (註 1) て い る た め、 13∼ 14世 紀 図 11 第 2遺 構面 SD06 P37 をさかのぼることはない。た 断面図 P32 だ、前述 の I区 の遺構群 とは P26 溝 の方向が異な り、整地区画 T P +20 80m の主 軸方向も異なるため、同 時代 のものではない可能性が γ ―計 高 い。遺構は淡 いオ リー ブ灰 褐色 の砂をベー ス とし、 この 1 3c下 層 マ ンガ ン多 い 23cマ ンガ ン少 な い 図 12 第 2遺 構 面 土 も この鋤溝群のみに限 られ 柱穴断面図 た特徴である。 34 一 4 〇〇い0﹃I+ 〇〇ΦO﹃I+ これ ら上層の遺構群 は、ほ ぼす べ てが 耕作 に ともな う と想定できるものであ り、中 世以 降 は この 地域 が 耕作地 として継続 的 に利 用 され て いた ことがわかった。出土遺 物 が極端 に少 な いの もそ の ためであろう。 キー128750 (註 1)図 中 の地 層 注記 にお いて、層序番号・ 記号 のみの記述 は第 4章 基 本層 序 を参 照 され た い。 図 13 第 二調査 区 第 2遺 構 面鋤溝群平面図 14 第 Ⅱ調査 区 第 2遺 構面鋤溝群平面 図 35 〇ぐΦO[︱ ︲ T 〇蛉ΦO﹃I︲ す OΦΦO﹃I︲ す 図 …128750 第 2節 下層 の遺構 第 3遺 構面は、主に地山である 4・ 5層 及び 6層 上面に存在 したが、攪乱が著 しく第 1・ 2遺 構面が削平されていた I区 の中央 か ら南半にかけては、機械掘削 の後す ぐに露出する地区もあっ た。 ここを調査最終面 とし、全面 に渡 って遺構を検出 した。 I区 では、第 1・ 2遺 構面が存在 した北部 は、明褐色粘質 シル トを埋土 とする谷間 とな り、 こ の谷 は Ⅱ区へ続 く。 この谷 の埋土は、粘度が極めて高 く人為的に撹拌 された痕跡 は見 当た らな かった。ただ、 Ⅱ区では、 この埋土か ら須恵器 の壺や甕の細片が出土 してお り、谷の埋没時期 は古墳時代 ∼平安時代 にかけてであった と考 える。谷 の肩 に近 い ところでは、同色 の土がやや 粗 く砂状 にな り浅 くで谷の底を検 出 したが、 Ⅱ区では極端 に深 くなるため全域の完掘はできな かった。攪乱を うけた位置をのぞき調査区内において検出できた範囲では、最 も深 い ところで、 TP+19.00mを 下回 り、穂谷川へ 向か って北東 か ら南西方向へ下 る。調査区を斜め に横切 る谷で あ り、 Ⅱ区の北端では、白っぱい灰色粘土 の肩を検出 した (註 1)。 I区 内の東側 の肩では、谷 の埋土 と同色を呈するが砂粒が粗 くな り、堅 く締まる。 Ⅱ区は大半が この谷 の中にあた り、主だった遺構は区画溝の角にあたる位置 の底 にあった素掘 りの井戸 と隣接する溜め池状 の長方形土坑 のみである。I区 でも前述 のよ うに、 L字 状を呈する する区画溝の交点に、 径 2m前 後 の素掘 りの井戸を検出した。井戸内か ら遺物は出土 しなかった。 この L字 の南北方向部分 に切 られた状態の区画溝 SD07が 存在 し、さらに平行 して SD08が 走る。 この 2条 とはやや距離をおいて、さらに 5mほ ど西 にもう 1条 の溝 (SD09)が 平行 に走 る。 こ れ らの溝に切 られた状態で、 2基 の方形周溝墓を検出 したが、それ については別途次項で詳細を 述べ る。 また、炭状の堆積物を有する土坑を検出 したが (註 2)、 これは地山直上 にのる遺構で はあるが、そのす ぐ上層 まで現代の攪舌と が達 していたため、新 しい時期 のものである可能性 も高 い。その他 に、I区 の 中央部では多 くの風倒木 の痕跡を確認 した。平面では L字 もしくは コの字 に近 い形状を呈する溝に見えるが、掘削すると、片側には肩が検出できるが、反対側 も平行に斜 SD07-2 SD07-4 E TP+2060m E TP+2060m 1明 褐色 粘 質土 中礫 を少量含む 2褐 色 粘 質土 細礫 を極 少量含む 3褐 色 粘質土 極細礫 を極 少豊 含む 4赤 褐色 粘質土 細礫 を極 少量 含む 5赤 褐色 粘質土 中礫 を極 少量 含む 6赤 褐色 粘質土 明褐色 プ ロ ック を極 少量含 む 図 15 第 I調 査 区 1攪 乱土 2褐 色 粘 質土 灰色 の大 プ ロ ック を少量 含 む 中礫 を少量 含む 3褐 色 粘 質土 灰色 の大 ブ ロ ック を少量 含む 4赤 褐 色 粘 湿度 灰色 の大 プ ロ ック を多 く含む 5赤 褐 色 粘 質土 灰色 の大 プ ロック を少豊 含む 6明 赤褐 色 粘 質土 明橙色 の大 プ ロック を多 く含む 区画溝 SD07断 面 図 36 128730 + ‐ 128740 + ‐ 128750 + 岸 盈十 笙 民コ ■28760 + 判28770 + 十 oお 駕 ‘ ♀ ♀ │ ♀│∵ 図 16 第 I日 Ⅱ調査 区 ! 1:250 如 m 第 3遺 構 面平面図 37 38 め に壁 が食 い 込 み、溝 の肩 の体 をな さな い 。 ただ 、埋土 の砂粒 に含 まれ る長石 に新鮮 な ものが ほ ぼな く、摩耗 して 自 く濁 った ものが大半 であ る こ とな どか ら、かな り古 い 時期 に形成 され た風倒 木 の痕跡群 であ る可 能性 は うかが える。 1)第 4章 の図 7-2確 認 トレンチ 2を 参照されたい。 (註 2)巻 末 の写真図版 4下 段を参照されたい。 (註 第 3節 弥生時代 の方形周溝墓 第 I調 査区の南半の一部で、方形周溝墓を 3基 検 出 した。 3基 とも墳丘本体 の上部 はほ とん ど削平されてお り、溝 の下半 が残存す るのみであった。また、一部 は攪乱 の著 しい地 区 と重な り、 完全な形状 で検出できたものはない。 その中で も、最 も残存状況が良好であったのは方形周溝墓 1で ある。攪乱 によ り南北の全長 は不明 であるが、東西長 は約 8.5mを 測 る コの字形 の溝を検 出 した。溝 の底部 は U字 に近い形 をなすが、屈曲部では幅がひろが り不整形 になる。検出 した墳丘西側 の南北溝 の南端部 の底で、 長さ約 1.87m、 幅約 0.8m、 深さ約 0.4mの 平面形状が楕円形を呈する掘 り込みを検出した (註 1)。 溝を完掘す るまでは検出できなか ったため、溝 の底 にほ とん ど土が堆積 していない状態か ら掘 り込んだものであ り、中か ら遺物は出土 しなかったが墳丘築造時か らそ う時間をあけないでつ くられたであろう。周溝内埋葬であろうと考 える。東西長を もとにほぼ正方形 に近 い形を想定 して墳丘の復原 を試みると、墳丘西側の南北溝の中央よ りやや南隅近 くに位置する ことになる。 墳丘上で、 2ケ 所 の平面形状 が長方形 の掘 り込みを検出 し、主体部 の痕跡 の可能性を想定 し て掘 削を したが、出土遺物 も痕跡 も全 く確認できず、主体部 の痕跡 である とは断定 できない。 性格不明の土坑であ り、後世のものである可能性 も残される。 墳丘東側 と西側の周溝内 2ケ 所 において土器が出土 した。特 に東側 に集 中 してお り、土器は 摩耗 した破 片 ばか りであるが、図化 し得 た ものはすべ て ここか らの出土である (次 章図 21)。 それ らは溝の中にあったが、底部 に密着 していた訳で はな く中層あた りにあった ことか ら、本 SD05-E Secl SD05-E Sec2 E TP+2070m w A A′ s TP+2070m A 1灰 褐 色 粘 質土 細 礫 を少最含 む 資灰色 の砂 質 プ ロ ック を少量含 む 2灰 褐 色 粘 質土 極細礫 を少量含む 炭化粒 を微量含 む 3赤 褐 色 粘 質土 極細礫 を少量含む 4赤 褐 色 粘 質土 極細 礫 を少量含む 3よ りやや固 い 5暗 赤褐 色 粘 質土 極細礫 を少量含む 炭化粒 を微量含 む (1次 崩壊 土 6赤 褐色 粘 質土 明責褐 色の ブ ロ ック を少量含む 1に ぶ い褐 色 シル ト 極細礫 を多 く含む 2暗 褐 色 粘 賞上 極細礫 を少量含む 3暗 褐 色 粘 質土 極細礫 を少量 含む 炭化粒 を少量含 む 4赤 褐 色 粘 質上 極細礫 を少最含む 5赤 褐 色 粘 質上 細礫 をやや 多 く含 む (1次 崩壊土 ) ) 0 *Sec l・ 2と もに Aが 墳丘側 にあた る。 図 17 第 I調 査 区 方形周溝墓 l SD05断 面図 39 05 来は墳丘上 に置かれていた ものが、ある程度溝が埋没 した時点 で落下 した と考 える。口縁端部 の 破片 か ら、少な くとも 3個 体は存在 したことがわかる。すべ て弥生時代中期 に属するものであ り、 口縁端部の形状、櫛描き文や壼 の頸部 のプロポー ションな どか ら、畿内 Ⅱ様式∼ Ⅲ様式 にあた り、 これを周溝墓の築造年代 とみてよいであろ う。周辺では、南東 200mほ どの場所でお こなった 招提中町遺跡 において、 Ⅱ様式 にあたる方形周溝墓が 42基 以上 も集 中 して見つ かってお り (註 2)、 これ も同様の時期か らわずかに新 しい時期 にかけての間に属するであろう。 周溝墓 1の 北西約 10mの ところで、 同様 に底部が U字 に近 い形状を した溝を L字 型 に検 出 した。 これを方形周溝墓 2と す るが、残存状況は検 出 した 3基 の 中で最 も悪 く、溝の底部か ら さ だ 図 18 第 1調 査 区 方形周溝墓 1・ 3測 量 図 周溝墓 3 TP+2080 N― ――…………… s A' 1機 乱 2赤 灰色 粘質土 3赤 灰色 粘質土 極細礫 を多 く含 む 4薄 黄灰色 粘質土 中礫 を微豊 含む 5茶 灰色 中礫 を含む 6薄 茶灰色 粗砂 を少量 含 む 図 19 第 I調 査 区 7赤 褐色 8茶 灰色 9責 灰色 粗砂 を少量含 む 方形周溝墓 3 粘 質土 粗砂 を多 く含 む 粘 質土 中礫 を少量含 む 灰色 ブ ロッ クを少量含む 炭化物 を上面付近 に 多 く含む 粘 質土 10黄 灰色 粘 質土 土器 片 を含 む 11赤 褐色 粘質土 中礫 を多 く含 む 12薄 黄 白灰色 粘質土 中礫 を少量 含む 周溝 断面 図 40 Tレ 配国 コ早躍 I窮 L章 撃日外軍 国懸粘T昭 器 T印 黎日 琲慧ヨ部肌 工 糾奎Ш部 軒慧 週 離 鵬 ユ 遡 灘 静 川 当 10cmに も満 たない部分 が残 され ていたのみであ る。遺 物 も周辺 か らは出土 していない 。 また さ らに、 も う 1基 、周溝墓 1の 東 に 隣接 して 、 L字 に近 い 鈍 角 に屈 曲 した溝 を検 出 した。 方形 周 溝墓 の 南西 隅部 にあ た り、 これ を方 形周 溝墓 3と す る。 検 出 した溝 は、残 存 長 で 南北約 2.5m、 東 西約 2.5m、 幅約 0.6∼ 2.5mを 測 る。墳丘 西側 の南北周 溝 は、 区画溝 SD07に 完全 に 切 られ てお り、 SD07は この西側周溝 を再利用 し、伸延 して つ くられ た可能性 が あ る。 あ るい は 招提 中町例 の傾 向を見 る と、西側周溝 は最初 か ら掘 削 されていなか ったのか も しれない 。墳丘南 側周溝 の東端 隅近 くで、数点 の弥生 土器 の破片 が 出土 した。土器 は どれ も摩耗 してお り、 図化 し 得 る もの、時期 の特定 につ なが る ものはないが、周溝墓 1と は重 な らず に隣接す る位置 関係 か ら、 先行 関係 は不 明なが らも 2基 はそ う時間をあけず に築造 され た と考 える。角 の部分 で溝斜面 の傾 斜 が緩や かにな り、溝幅が広 くな る特徴 は周溝墓 1に も極 めて類似 す る。 これ ら 3基 の方形周溝墓 は、 い ずれ も調査 区中央 か ら南 半 にか けての微高地状 の 地形 を呈す る 地 区 に 限 って造 られ てい た。周溝墓 2よ り西及 び北 にはな く、 これが西 限 であ る。周溝墓 1の 北 側 も区画溝 を検 出 したのみで 、 これ も北 限 にあた る。 それ よ り東 の 周溝墓 3で は南東角 を除い た 大半 が攪乱 によ り削平 され てお り、墓域 の 限界 が 明 らかで な い 。南部 も同様 であ り、 この墓域 は 本調査 区で検 出 した 3基 を北西 限 とし、おそ ら くここか ら南東 にひ ろが るであ ろ う。 (/Jヽ ││) ナ 調査に際 しては、藤澤真依、三宅俊隆、一瀬和夫、西田敏秀、大竹弘之、井西貴子、菱田哲郎、小倉徹也、 若林邦彦、市川 創、松浦暢昌、田村隆明、田村美沙、前田俊雄、野島智実、大向智子、堂ノ本智子、江藤 梓、 北川正人、下堂文寛、山口 巧、山田昌恵 (敬 称略)他 諸氏にご指導 。ご協力を賜 りました。 ここに記 して厚 く謝意を表 します。 (註 (註 1)巻 末 の写真図版 6を 参照されたい。 2)大 阪府教育委員会『招提中町遺跡』 一府営枚方牧野東住宅建て替えに伴 う弥生時代墓域の調査 大阪府埋蔵文化財調査報告 2001-1 2002年 3月 42 第 第 1節 6章 出土 遺 物 出土土器 について 今 回の調査 では弥生時代か ら中世にかけての幅広い時期の遺物が出土 した。 ここでは時期 ご とに出土遺物の うちでも主に土器類 の説明を中心 にお こな う。 弥生時代遺物 (図 21-1∼ 11) 当該期 に相当する遺物 には弥生土器および石器 がある。1∼ 10は 弥生土器 である。器種 の判 明するものはいずれも長頸 の広口壼 であ り、出土部位 には口縁部、頸部、肩部な どが確認 できる。 1∼ 3・ 7は 壷 の 口縁部である。1∼ 3は 口縁部 が大 き く外反 し、 3は 回縁部をわずかに下方 に拡張 させ る。 7は 端部 までは残存 していないものの、口縁部である と考 える。 4は 壷の頸部 である。外面 には櫛描直線紋 が施 される。 5。 9は 壼 の肩部 である。 5は 外面 に櫛描直線紋が 施される。 9も 壺 の肩部 と考 えられるが、 こちらには櫛描直線紋はみ とめられない。 6は 底部 のみが残存する個体 で、径は 6.Ocmで ある。 8・ 10は 弥生土器 の体部 の破片である。 いずれの外面 にも櫛描直線紋 がみ とめ られる。他の資料 との比較か ら、 この破片 も壷である可 十 四 , I山口nHH出日I日︱日四山﹁, =ⅡnHj I︱ 出= 〃 ︱ ︲ ︱ ︲ 訥 ゝ I ︱ ︱ N F M I I I I I I = u 陛J6 図 21 出土土器 弥生時代 43 I I I I ` ヤ 能性を考 える。 これ らの弥生土器 はすべ て、第 I調 査区第 3遺 構面で検出 した方形周溝墓 1の 周溝内 (SD05)か ら出土 したものである。 11は 第 Ⅱ調査区の北側溝か ら出土 したサ ヌカイ ト剥片である。横長の剥片であ り、刃部の形 成 はみ とめ られない。 これ ら出土遺物の時期 については、いずれ も摩耗が著 しく細 かな時期 の 同定は困難であるが、 弥生土器 の器種、器形、紋様な どか ら弥生時代中期 中葉 である と考 える。なお既往 の調査で も 弥生土器 の 出土がみ とめ られているが (枚 方市教育委員会 2004)、 今 回の 出土資料 とは時期 に 大きな差異はない もの と考えられる。 古代遺物 (図 22-1∼ 5) 当該期 に相 当する遺物はいずれ も須恵器 である。1は 蓋で、端部のみの小破 片 であ り、つ ま みの有無やその形状 は不明である。 2は 壷の頸部か ら体部にかけての部位である。 3∼ 5は 甕 である。 3は 口縁部で、ナデによって口縁端部 に屈曲を作 り出 している。 4・ 5は 体部 の破片 であ り、 いずれ も外面にはタタキが施 され、 内面 には同心円文 の 当て具痕が残 されている。 4 には外面 に、 3・ 5に は内外面、 さらに断面 にも自然釉 の付着がみ とめ られる。 これ らの出土遺物 は蓋の形状な どを勘案する とおおよそ飛鳥 Ⅳ∼ V期 か ら平安時代に相 当す るもの と考 える。1の 蓋 は端部形状 か らやや新 しい時期 に属する可能性がある。 しか しなが ら 当該期 に相 当すると考 えられる出土資料は少な く、時期の断定をお こな うのは困難であ り、古 代を中心 として一 定 の時期幅をみるのが妥 当であろ う。 これ らの須恵器類 はすべ て第 Ⅱ調査区 内か らの出土であ り、調査地内の西半に集中する。 中世遺物 (図 23-1∼ 11) 当該期 に相当する遺物 には土 師質土器 。 瓦器・陶磁器な どがある。1∼ 3は 土 師質小皿である。 いずれ も口径 10cm以 下 の小型品 であ り、内外面 ともにナデによる調整がなされている。1は よ り新 しい様相を示すが、 2・ 3は 伊野編年 (伊 野 1995)の Dタ イプにあた り 13世 紀頃のも の と考 える。 4∼ 6は 瓦器椀である。 4・ 5は 回縁部で、 6は 高台部である。 口縁端部 はやや尖 り気味に 丸 く納め、外反 しない。 このよ う 鰻 IⅧ ニ な特 徴 は、樟葉型椀 の 特徴 であ る。 5は 第 I調 査 区第 1遺 構 面 の P14か ら出土 した。 6の 高台 ― 【 ヽ ‖ ¶ は断面 が三角形ではな く、四角形 で しっか りと足の張 ったものであ 訂 る。なお 出土 している資料 はいず れもだヽ 破片であるため、 ミガキな 10cm 図 22 出 土土 器 どの痕跡 は確認できない。 これ ら 44 古代 4 の瓦器椀 の時期 であるが、資料に V l k 制限があるため時期を特定す るの ′ ユヤ は困難 である。ただ し 6の 高台形 2 ― 状か らは 11世 紀末 とい う年代が 考 えられる。 7∼ 11は 磁器であ り、7∼ 9・ 11は 白磁、 10は 青磁である。 7 9 \〔二旦 」 ″ 一 10 「 3 丁 75瓦 ラ 74瓦 ヽ4_≡≧三型雪r吃 瓦 は蓋で、 8∼ 10は 碗である。 い ずれの資料 も小破片であるが、 8 学 図 23 出土土器 中世 は第 I調 査区第 2遺 構面 の遺構内 (SX02)か ら出土 した。9。 10の 高台 はいずれ も削 り出 しによっ て成形 されてお り、高台断面は 9が 三角形 で、 10は 四角形である。 Hは 高台をもつ底部である が、径 が 11.2cmと 大き く碗 とは考 え難 い。 これ らの磁器の年代は資料に制約があるために特定 は困難 であるが、おおむね 13∼ 14世 紀 と考 える。 これ らの土器類・ 石器 に加えて、焼土塊が出土 した。 (前 田 俊雄) 〈引用・ 参考文献〉 伊野近富 尾上 西 1995「 土師器皿」『概説 中世 の土器・ 陶磁器』 中世土器研究会編 真陽社 実・ 森島康雄 。近江俊秀 弘海 1995「 瓦器椀」『概説 中世 の土器・ 陶磁器』中世土器研究会編 真陽社 1978「 土器の時期区分 と型式変化」『飛鳥・ 藤原宮発掘調査報告 Ⅱ』奈良国立文化財研究所 枚方市教育委員会 2004『 九頭神遺跡』 Ⅱ 森田克行 1990「 摂津地域」『弥生土器の様式 と編年』近畿編 Ⅱ 木耳社 山本信夫 1995「 中世前期 の貿易陶磁器」『概説 中世 の土器・ 陶磁器』中世土器研究会編 真陽社 ︱︱ ︱ ︱ ︱ I L 45 ‖ 十 表2 出 土土器観察表 生代 弥時 生代 弥時 生代 弥時 生代 弥時 生代 弥時 器高 (cm) (cm) 調 整 四 ロ 色 底部 調 外面 内面 断面 盛成 (224) (50) ナデ ナデ 赤褐色 赤褐色 赤褐色 密 駐筑 240 (51) ナデ ナデ 赤褐色 赤褐色 赤褐色 密 良凋 (21) ナデ ナデ 赤褐 色 赤褐色 赤褐色 密 良痴 (133) ナデ ナデ 赤褐色 褐色 赤褐 色 密 罠痴 (72) ナデ ナデ 褐色 褐色 褐色 密 艮凋 (15) ナデ ナデ 褐色 褐色 褐色 密 艮凋 ナデ ナデ 赤褐色 赤褐色 赤掲色 密 良勇 ナデ ナデ 褐色 褐色 褐色 密 良勇 ナデ ナデ 赤褐色 赤褐色 赤掲色 密 良堀 ナデ ナデ 淡褐色 淡褐色 褐色 密 艮凋 (10) 回転ナデ 回転ナデ 灰色 灰色 密 良凋 (28) カキメ 回転ナデ 灰色 灰色 灰色 密 良力 回転ナデ 回転ナデ 青灰色 青灰色 褐色 密 良痴 当て具痕 オリーブ灰色 灰色 灰 白色 密 良痴 当て具痕 青灰色 灰色 黄灰色 密 良 痴 E5 (60) 王代 勢時 蛋代 動時 ナデ 生代 I区 底径 (cm) 生代 弥時 2 Ⅱ区 須恵 器 口径 写代 一 望 1 SD■ ‐ 07 須恵器 生代 弥時 蓋 Ⅱ区 C3∼ H3 須恵 器 5 生代 弥時 須恵 器 3 Ⅱ区 差 望 剥片 巨区 G4∼ H 4 一 望 Ⅱた 石器 2 口区 トレンチ06 士 望 O G溝 区側 Ⅱ北 ] 工器 跡土 1 伍器 勢土 9 生器 弥土 8 一 望 7 士 電 6 士 璽 5 士 璽 4 時代 〓 璽 3 種類 士 霊 面 2 生器 生器 生器 生器 生器 生器 生器 弥 土 弥土 弥 土 弥 土 弥 土 弥 土 弥 土 1 器種 〓 霊 E E蜘 E蜘 E蜘 E蜘 E 離触 E E蜘 E E 5]D 5 5 S 5 5 5 5蜘 5 5蜘 蜘 蜘 0 0 0 0 0 O 0 0 0 0 D D D D D D D D D S S S S S S S S S S 出土 地 点 二代 カメ j代 カメ 腱鳥∼ 写代 タタキ ナデ タタキ、 ナデ R鳥 ∼ 須恵器 カメ 土師器 Ill 中世 ζイ t 紫灰色 (1 ナデ ナデ ナデ 赤褐色 赤褐色 赤褐色 密 良角 暗褐色 密 良凋 土師器 皿 中世 (74) ナデ ナデ ナデ 暗褐色 暗褐 色 3 I区 2面 A2 土師群 皿 中世 (100) (42) ナデ ナデ ナデ 淡褐色 灰 白色 灰 白色 密 良角 4 I区 2面 El膏 瓦器 椀 中世 0) 回転ナデ 回転ナデ 灰色 灰色 灰 白色 密 良獨 瓦器 椀 中世 (195) 回転ナデ 回転ナデ 暗灰色 暗灰色 灰 白色 密 良痴 (1 回転ナデ 回転ナデ 灰色 灰色 灰色 密 良痴 5 I区 1面 (■ 6 Ⅱ区 瓦器 椀 中世 7 履区 3面 H3 自磁 蓋 中世 (15) 回転ナデ 回転ナデ 灰 白色 灰 白色 灰 白色 密 良痴 白色 白色 灰 白色 密 良痴 8 9 1 谷 1区 2面 EO (88) 回転ナデ SX02 白磁 碗 中世 (1 7) 回転ナデ 回転ナデ 「 区 1面 E2 自磁 碗 中世 (1 回転ナデ 回転ナデ ナデ 褐色 灰 白色 掲色 密 良角 Ⅱ区 青磁 碗 中世 (19) 回転ナデ 回転ナデ ナデ 淡緑 色 淡緑色 灰 白色 密 良角 I区 2面 A2 白磁 碗 中世 (32) 回転ナデ 回転ナデ ナデ 灰 白色 /褐 色 灰 白色 灰色 密 良角 ※ 46 ( )内 数値 は反転復 元後 の数値 第 2節 出土瓦について 今回の調査 で出土 した瓦の うち、形状を明確に識別する ことができたものは、軒丸瓦の破片 点 1 (1)と 平瓦 の破片 1点 (2)で ある。 軒丸瓦 (1)は 第 二調査 区第 1遺 構面 の 1層 、耕作土 中よ り出土 した。内区の複弁 の花弁 の 一 部分 と外区 の剣頭文状 の文様 の一 部 が残 り、中心部分 は欠失す る。約 25%の 残存率であ り、 軒丸瓦 の方向は確定 できなかった。 この文様 の瓦は他所での出土例がな く、九頭神廃寺特有 の軒 丸瓦 として知 られる。 また 1の 破片 は、九頭神廃寺 出土瓦 の KZM22、 もしくは KZM21の いず れかである ことまでは確認できたが、瓦当面 の摩滅、及 び残存状態 の悪さか らそれ以上の特定は できなかった (註 1)。 しか し、九頭神廃寺 ではこの軒丸瓦の瓦版は どち らも一版ずつ しか確認 されていないので、同疱 であると推定できる。検討の参考 とした九頭神廃寺出土の瓦当 (3)は 、 複弁八弁蓮華文 を有するもので瓦当面径が 19cmで 、直径 3.8cm程 度 の小さめの 中房内には 1+ 6の 蓮子を配する。1は 、九頭神廃寺例 と同様 に、内区の花弁が盛 り上が り、弁端 に薬状 の文様 を付加するようだ。重弁蓮華文を意識 したもの といわれている。外区に残 る文様は立体的に剣頭 文状 の文様を重ね ている。九頭神廃寺 では、「花弁文」 と呼ばれる (註 2)。 これ らは遺構内か ら出土 したものではないため、本調査区で検出 した遺構の年代特定にはおよ ばないが、瓦の製作年代はいわゆる白鳳期にあたる。 この九頭神廃寺出土資料 と同型式の軒丸瓦 (1)は 、寺 の廃絶後 に整地や耕作 といった後世の生活行為 な どによ り運ばれた土 とともに、本 ︲ ∼ 中 . 切 中 一 一 一 ´ 守 (参 考資料 9 ︲ ︱︱匠 図 24 出土瓦 47 20om )3 調査 区 まで持 ち運 ばれた可能性 表3 出土瓦観察表 がある。 番号 1 灰色 を呈 し、 凸面 の斜格子模様 登録 出土地点 腫類 028 1面 上層耕作 土 全長 厚さ 丸瓦 トレンチ 5攘 周 平 瓦 17 難 効 2の 平瓦 は、焼成が良好 で青 凸面 凹面 色調 胎土 焼成 ナデ 灰白 硬軟 良 布目 青灰 硬 農 タタキ が明瞭 に残 った もので、残存長 が縦 9.5cm、 横 10cm、 厚 さ 1.7cmの 破 片 であ る。 おそ ら く広端辺 であ る と考 え る。裏 面 には 糸 切 り痕 と布 目が確認 で きる。 4.3cmの 桶 の 幅 が確認 で きる ことと側面形態 か ら、桶巻 きつ くりと 考 える。側面 と端面 の両側 を丁寧 に面取 りして い る。 凸面 には 2種 の タタキ を確認 でき、九 頭神 廃寺 の他 の平瓦 には見 られ ない特徴 であ る。 タタキをナデで 消 した痕跡 も確認 でき る。 北面 の建 物や 中央伽藍 か ら主 だ って 出土 す る ものではない。 こち らも撹 乱 か らの 出土 であ るため、遺 構 の 年代特定 にはお よばないが 、瓦 の製作年代 は軒丸瓦 同様 に 自鳳期 であ る。 また、残 存状態 が悪 く図化 しえなか ったが 、 1と 同様 に耕作土 中 か ら 1点 、谷 の埋土 か ら 1点 平瓦 が 出土 してい る。 どち らも表 面が摩 滅 し、 タタキ は判別 で きないが 、谷 の埋土 か ら出土 した ものは裏 面 に布 目を残 す。 (堂 ノ本 (註 1)九 頭廃寺出土瓦の型式名については、竹原伸二氏 (註 2参 照)に よる分類に準拠する。 実際の瓦の観察と型式の同定については、狩野美那子氏 (註 (枚 方市教育委員会)に 2)枚 方市教育委員会『九頭神廃寺』一九頭神廃寺- 1997年 :参 考文献 〕 財団法人枚方市文化財研究調査会『九頭神遺跡』 Ⅱ 2004年 3月 財団法人枚方市文化財研究調査会『九頭神廃寺』2007年 3月 枚方市教育委員会『九頭神遺跡』一九頭ネ 申廃寺- 1997年 48 智子 ) ご教示をいただいた。 第 7章 ま とめ 平成 19年 度 の調査 では、弥生時代か ら中・ 近世にかけての遺構が見つかった。調査地 には府 営住宅 が建て られていたため、建物基礎や埋管な どによ り攪乱を受けている箇所が多か った。そ のため、調査区全域 に広が り得 るような遺構において も、一部分 のみ しか検出できない ところが 多 くあった。 まず、中世以降の耕作土の堆積が残存 していた調査地 内の北部 では、中世 か ら少な くとも 2面 の耕作 の痕跡を確認できた。東西方向 よ りやや南にふれる鋤溝群である。主に 2面 の畑 の痕跡を 検出 したが、少な くともさらに 2面 には細分 できた箇所 もあった。調査区の北部では、 これ らの 耕作土の下 に、地山あるいは谷 の埋土が広がる。加 えて、第 I調 査区では調査区中央部東端に、 L字 型の区画溝 とその屈曲点 にある井戸 に囲まれる形 で、南北約 10m× 東西約 13mの 範囲 に おいて同様 に鋤溝群を検出 した。 この耕作域 の東限及び南限は各 々調査区の端 と攪乱に切 られて 確認できていないため、さらに広がる可能性は高い。第 Ⅱ調査区でも西部 に同様 の区画溝 に囲わ れた耕作痕を検出 した。 こち らは幅 40∼ 80cmの 単位で、溝だけではな く高 さ 10∼ 20cmほ どの畝 も明瞭に残る良好な残存状況であった。溝 と畝 の方角 は、 第 I調 査区よ りさらに南 にふれ、 ほぼ北西 か ら南東方向にのびる。 この耕作土 の下層は谷 にあたる。 調査地 の中央部 は、耕作土の堆積があった場所ではそれ らの下層 に、また耕作土が削平 されて いた場所では現代盛土 の直下 に、谷 の埋土あるいは地 山が広がる。第 Ⅱ調査区の大半 は谷 にあた り、第 I調 査区では、谷は西端 の一部 にかかるのみである。 この谷 は、穂谷川 に向かって南に下 降す る。調査地 内において谷底 が確認 できた位置の水準値及び周辺の地形測量をもとに、図 25 のよ うに谷の復原を試みた。埋土 にさほ ど多 くの遺物が包含されているわけではな く、また年代 決定 の指標になるような出土遺物 もほばないため断定はできないが、調査地内か ら出土 した須恵 器 のほぼすべ ては この谷 の埋土か ら出土 したものであ り、また奈良∼平安時代 のもの と推定でき る須恵器 も含 まれるため、平安時代前後 にこの谷の埋没時期 を想定 したい。 とすれば この谷 は、 本調査地 よ り 200mほ ど西 に位置 している こ とが近年の調査によ り明 らかにされつつ ある九頭 神廃寺 の寺域 の明 らかな東限にあたるであろう (註 1)。 その他、谷の東外にあたる地山の上面では、第 I調 査区中央部か ら北部にかけて風倒木の痕跡 を多数検出した。 これ らは耕作土を除去 した後 の調査区北部 でも検出 し、さらに道を挟んで北側 の枚方市 による調査地 (218次 )内 においても同様 に検 出される (註 2)。 これ らの風倒木の痕 跡 は埋没状況や、いったん埋没 した後 に中世 の区画溝 に切 られている状況か らみて、後述の方形 周溝墓 と同時代、あ るいはそれ以前 とい うようなかな り古 い段階 に形成 されたものである可含旨l■ が高 い。 そ して、第 I調 査区の南部では弥生時代 の方形周溝墓 3基 が存在 した。やや黄色味を帯び赤褐 色の地山上面に、赤褐色 のシル ト∼粘土 の溝埋土を検出 した。各 々の周溝墓 については第 5章 で 述 べ た通 りであるが、 ここでは墓域につい て若干の考察を試み たい。今 回検出 した方形周溝墓 は 3基 であるが、調査地内においては各 々の周溝墓が攪乱 によ り削平されていて、完全な形で 検出できたものはない。 また、墓域の東限及び南限は確認できていない。北限及び西限は限定 が可能 であ り、谷に沿 った方向に微高地上 に広がる ことが推定できる。図 25の 様 に東方向 と南 方向には、墓域はさらに広がる可能性を推定する。図 25の 南東角にみえる、府営牧野東住宅建 て替 え工事 に伴 う第 1次 調査地 内において も、招提 中町遺跡 内で北東方向か ら南西方向にのび る範囲で弥生時代の方形周溝墓を約 43基 検出 している (註 3)。 こちらも、墓 域 の南限 は、本 調査地内においての墓域を限定 している谷 と同様の谷によって限定されるようにみえる。 この 2つ の方形周溝墓群は、 ともに弥生 時代 中期 のほぼ 同時期 に形成 された。招提中町遺跡 の 43基 では、わずか に畿内 I様 式末 もしくはШ様式に属する土器 も出土 したが、大半 の墓か ら は畿内 Ⅱ様式 の弥生土器が出土 した。本調査 での出土土器 は量 も少な く摩滅 も著 しいが、それ でも口縁部及び頸部 の形状や櫛描 き文か ら畿内 Ⅱ∼ Ⅲ様式 に属す るとい うことまでは限定でき □□ 日□ □ 國 清香学 園 第 1幼 稚 園 府営枚方牧野東住宅 斡 o ク/rギ れ 露き 織盈 ゴ 200m 図 25 調査地周辺地形復原 図 50 る。また、招提中町遺跡では、方形周溝墓が単独で築造されたもの と、列をなす周溝墓群が周溝 を共有 して築造されたもの との 2タ イプが存在するが、九頭神遺跡の本調査では、 3基 とも周溝 な どが重複する ことな く、各 々単独で築造されていた。また、招提中町遺跡では単独 のものの方 が時期が比較的新 しい とされている。 この ことは、本調査で検出した周溝墓 には I様 式末 に属す るものはな く、 Ⅱ∼ Ⅲ様式を推定 しているもののみであることと矛盾 しない年代である。各々の 周溝墓 の規模 についても、本調査地内の 3基 は溝 の幅な どか ら招提中町遺跡では比較的大規模に あたる単独 のもの と同等 であろう。 加 えて、本調査 の方形周溝墓 1と 招提中町遺跡 の 12号 方形周溝墓 の 2基 において共通 して、 周辺他遺跡 の方形周溝墓群ではあま りみ られない周溝内埋葬の痕跡を確認 した。どち らも幅 0.8m ほ どの土坑状を呈する。前者は長 さ約 1.8mで 楕 円に近 く、後者は長 さ約 1,3mの やや角ばった 隅丸長方形 に近い平面形状 をもつ。中か らは副葬品や供献土器の類いはみつかってお らず、木棺 な どの痕跡 も確認できなかったが、周溝の完掘後に底面で検出 したものであ り、方形周溝墓本体 と時期差はほばない もの と考 える。 招提 中町 12号 墓 は、9,Om× 7.5mの 長方形 の墳丘を もち、周溝 内埋葬 の可能性を もつ土坑 は短片 の隅近 くで検出 した。 コの字形 にめ ぐらす周溝 と 1号 墓の南東集溝を残 る北側 の一辺に利 用 して方形に区画 し、その 1号 墓 との間には 2ケ 所 の陸橋部を掘 り残す。南東周溝は 13号 墓 と 南西周溝 は 14号 墓 と共有す る。九頭神遺跡 の方形周溝墓 1の 墳丘規模 は、東西 では約 8.5mで あるが、南北では攪乱 によ り確認できない。残存 しているのは約 6∼ 7mで 、周溝 内埋葬 の痕 跡 は残存長約 7mの 西側周溝 の南端 に位置する。 こち らも長方形の墳丘を もっていた とすれば 短辺 にあることになる。 ほぼ正方形 に近い墳丘を復原 したとしても、南隅近 くである ことかわ り はない。 このよ うに数多 くの際立 った特徴を共有 し、 ほぼ同時期 に形成された墓域であ りなが らも、第 1次 調査地内においては墓域 の北西限を確認 してお り、 2群 は同一の墓域 としてつながるのでは な く、両者間に居住域な どを挟んだ別途 の墓域 である。ただ、特徴や墓域の稼働時期な どの類似 か ら造墓集 団は共通 していた可能性が極めて高い といえよう。 この他 にも枚方市域 では、補葉野田西遺跡 で Ⅱ様式 の方形周溝墓 が 9基 、アゼクラ遺跡では Ⅲ様式 に属するものが 2基 、天野川右岸 の星丘西遺跡では Ⅲ∼ Ⅳ様式 の ものが 13基 、天野川上 流域左岸 の茄子作遺跡では V様 式 のものが 1基 みつかってい る (註 4)。 中でも、穂谷川を挟 ん で九頭神遺跡・ 招提中町遺跡 の向かい、南側 に位置する交北城ノ山遺跡では多 くの特徴を共有す る大規模な方形周溝墓群 が形成される。 枚方台地 の北縁 に位置す る この遺跡 は、旧石器時代 か ら中世 にわたる複合遺跡 であるが、弥 生時代集落の消長は招提中町遺跡 と呼応する (註 5)。 42基 検出された方形周溝墓はすべ て弥生 時代中期前半 に属 し、それ以降のものはない。42基 中には、一辺が 7∼ 10mを 超 える大型 のもの、 8mほ どの 中型 のもの、 5m前 後 の小型 のものの 3群 に大別される。 これ らのほ とん どは、 51 互いに数基ずつ溝を共有 して群をな して築造されてお り、 単独で築かれたものはわずかであった。 このよ うな墓域内における周溝墓の築造時期 と分布状況は、招提中町遺跡例 と極めて類似する。 九頭神遺跡では単独で築かれたようにみえる方形周溝墓のみを検出 したが、完存するものはな く検出数 も少なかったため、同遺跡 の墓域内において も、同様に群をな して築かれた中・ 小規模 のものが存在 した可合留14は 高い。周溝墓 1は 残存状況及び墳丘規模からしても単独で築かれた大 型のものである可能性 が高 いが、 他 の 2基 については規模 の推定 が可能な残存状況ではない ため、 削平されていた溝を他 の中 。小型周溝墓 と共有 していた可能性 もある。 そ してその後、弥生時代後期には当該調査地周辺での集落 。墓域遺構はみ られな くな り、穂谷 川流域では上流 の 田口山遺跡周辺へ移動する ことは以前か ら指摘される。招提中町遺跡のその後 の調査では庄内期に属する竪穴式住居を検出 しているが、それまでの弥生時代後期に属す る遺構 は今 回を含めた近年の調査でもみつ かってお らず (註 6)、 弥生時代後期における当該地域の空 白期間が立証されるのか どうか、さらなる調査成果が今後 も期待される。 ナ (/Jヽ ││) (註 1)財 団法人枚方市文化財研究調査会『九頭神遺跡』 Ⅱ 2004年 3月 財団法人枚方市文化財研究調査会『九頭神廃寺』 2007年 3月 枚方市教育委員会『九頭ネ 申遺跡』 一 九頭神廃寺- 1997年 (註 2)財 団法人枚方市文化財研究調査会による発掘調査 中に幾度か見学をさせていただいた。 (註 3)本 章における招提 中町遺跡 の方形周溝墓 に関する記述は、大阪府教育委員会の報告 (2001『 招提中町遺跡』 大阪府埋蔵文化財調査報告 2001-1)に よる。 (註 4)西 田敏秀・ 荒木幸治「淀川左岸地域における弥生集落の動 向」『みずほ』第 32号 45-57頁 2000年 による集成を参照 した。その後、北河 内では寝屋川市域な どにおいて 国道 1号 線 バ イ パ ス・ 第 二 京阪道 路建設 に伴 う調査 によって、新 しく方 形周清墓がみつ かっているが、枚方市域 においては前掲の集成時 か ら大 きな変化はない。 (註 5)本 章における交北城 ノ山遺跡に関する記述は、財 団法人枚方市文化財研究調査会『枚方市文化財報』 Ⅲ 1982年 、及び枚方市教育委員会『枚方の遺跡 と文化財』 1985年 による。 (註 6)大 阪府教育委員会『招提 中町遺跡』 Ⅱ 大阪府埋蔵文化財調査報告 同『大阪府教育委員会文化財調査事務所 年報』 11 ︱︱︱︱︱や︱︱IL 52 2007年 11月 2004 1 2005年 3月 付論 九頭神遺跡土壌サ ンプルの花粉・ 珪藻分析について 一九頭遺跡 の花粉化石 鈴木 1. 茂 (パ レオ・ラボ) は じめに 九頭神遺跡 の発掘調査 の際、 トレンチ断面よ り土壌試料が採取された。以下に この土壌試料 に つい て行 った花粉分析結果 を示す。なお、同試料を用 いて珪藻分析 も行われている。 2.試 料 と分析方法 試料 は③下層試料 とその上位の④試料の 2試 料 である。試料 について、 3下 層および④試料 と もに褐色の レキ混 じり砂質 シル トである。花粉分析は これ ら 2試 料 について以下 のよ うな手順 に したがって行 った。 試料 (湿 重約 10g)を 遠沈管 にとり、 10%の 水酸化カ リウム溶液を加え 20分 間湯煎す る。水 洗後、0.5mm目 の飾 にて植物遺体 な どを取 り除き、傾斜法を用 いて粗粒砂分を除去す る。次に、 46%の フッ化水素酸溶液を加え 20分 間放置す る。水洗後、比重分離 (比 重 2.1に 調整 した臭化 亜鉛溶液を加え遠心分離)を 行 い、浮遊物を回収 し、水洗する。水洗青、酢酸処理 を行 い、続け てアセ トリシス処理 (無 水酢酸 1:1濃 硫酸 の割合 の混酸を加 え 3分 間湯煎)を 行 う。水洗後、 残湾 にグリセ リンを加え保存用 とする。検鏡はこの残澄 よ り適宜プ レパ ラー トを作成 して行い( その際サフラニ ンに染色を施 した。 3.分 析結果 検出された花粉 。胞子 の分類群数 は、樹木花粉 8、 草本花粉 5、 形態分類で示 したシダ植物胞 子 2の 総計 15で ある。 これ ら花粉の一覧を表 1に 示 したが、えられた花粉化石数が非常に少な かったことか ら分布図 としては示す ことができなかった。なお票 においてハイフンで結んだ分類 群はそれ ら分類間の区別が 困難な ものを示 してお り、マ メ科には樹木起源草本起源のもの とがあ るが各 々に分ける ことが困難なため便宜的 に草本花粉に一括 して入れてある。 観察 の結果、得 られた分類群は、樹木類ではマ ツ属複繊維管束亜属 (ア カマ ツや クロマツな ど のいわゆるニ ヨウマ ツ類)、 マツ属 (不 明)、 スギ、イチイ科―イヌガヤ科― ヒノキ科 (以 後 ヒノ キ類 と略す)、 コナラ属 コナラ亜属、トチノキ属ツタ属、イボタノキ属、草本類 ではイネ科、マ メ科、 セ リ科、 ヨモギ属、他 のキク亜科およびシダ植物単条型 と三条型 の計 15分 類群 であった。 これ ︱︱︱︱︱︱︱IL らの うち③下層試料科ではツタ属 とマ メ科が、④試料ではスギがやや 目立 って観察された。 4.分 析結果について 上記 したように得 られた花粉化石数は分類群数 とともに非常に少ない結果 となった。同試料を 用いて珪藻分析 も行われているが、 こちらも珪藻化石 は少な く、堆積物は水成堆積ではない こと 53 が推察 されている。一般 に陸域 に落下 した花粉は紫外線や土壌バ クテ リアな どによって容易 に分 解され消失 して しまう。一方溝や池、海な どの水域 に落下 した花粉 は上記紫外線や土壌バ クテ リ アか ら保護され、 良好な状態 で保存される。今回の分析試料は珪藻分析か ら水のつい た環境 では ない ことが推察されてお り、 花粉 の多 くは分解消失 している可能性が高 い と思われる。そのなか、 ③下層試料 においてはつる植物 のツタ属やマ メ科の産出が特徴的である。 表3 産出花粉化石一覧 和名 ③下 学名 ④ 樹木 マツ属複維管束 亜属 Pinus subgen Dlplox5710n 1 マツ属 (不 明 ) Pinus lUnknown) 1 スギ Cryptomeia,aponICa D DOn イチイ科 ―イヌガヤ科 一ヒノキ 科 T― C コナラ属ヨナラ亜属 QuerCus subge■ ′ トチノ キ属 Aesculus ツタ属 PanhenOcissus 5 イポタノキ属 hgusttum 2 イネ科 Grammeae 2 マメ科 Leguminosae セ リ科 Umも cIIIFerae ヨモギ 属 Artemisia 他 のキク亜科 other Tubuhユ orae 3 単条型胞子 Monolete spore 2 三条 型胞 子 Tdete spore 4 2 Lepidobalanus l 1 I 草木 2 1 シダ植 物 1 樹木花粉 Arboreal pollen 5 草木花粉 Nonarboreal po■ en 1 シダ植物胞子 Spores 花粉 ・ 胞子総数 Total po■ en&Spores 不 明花粉 UnkコDWn pOnen 3 *T― Cは Taxaccao一 Cepha10taxaceattCupresaceacを 54 0 6 6 示す 4 判 図 “ イ 上 r 電 ■● ︱ , ・ ・ 一 .ォ t ・ 一 一 ・・ ・ ね滸 ︱ 4Ь , 〕 ヤ 一 ヽ │ ヽと,/ aガ ≫ _ ジ 1 巖 鬱 ゝ I ″ ・ ■ ― ― T‐ 十 iな ・ き調 k │ ギ 一 \ , _ ) 図 版 2 第 二調査 区第 2遺 構面 全景 (南 か ら) 第 I調 査 区全景第 2遺 構面 全景 (西 か ら) 図版 3 ・一 一 一 一 一 一 一 一 . ・ ・ ・ ・ ・・ . . 一 謗 一 一 , 第 I調 査 区第 1画 遺構 (南 か ら) 第 I調 査 区全景第 2面 溝群 (西 か ら) 遺構 第 二調査 区全景 第 2面 遺構 井戸 と区画溝 (南 東か ら) 第 I調 査 区全景第 2面 遺構 井 戸 半裁状況 (南 東か ら) 版 第 I調 査 区第 2面 細溝群 第 I調 査 区第 2面 方形周溝墓 司と 区画溝 SD007 (南 か ら) 第 I調 査 区第 2面 炭堆積 土坑 L │ザ 粋 T口 噛 脚 「 マ ィ 、転湛■く 工i t■ ■イー │ ― 図 版 = 摯 5 fr! 1:TE■ 甲翻甲轍咎守々■ 式 (ヽ イト` /′ ラ P― ′ ■ ︼ ■■ ′ 方形周溝墓 刊 周溝 内土器 出土状況 方形周溝墓 1周 溝断面 iれ― ,工 │ 奮義│ 手 義 │ 解 攀ダ 孝 珪 一 ヽ 義 一蟄 ■ 一 4 が │サ オ:す │ │∵ 職i lィ ゛,│ 方形周溝墓 1 周溝 内埋葬 図版 6 だ■ 1 ヤ t● │ 図版 フ 第 I調 査 区第 2面 方形周溝墓 2 方形周溝墓 2 (南 か ら) 周溝 断面 (南 東か ら) 第 I調 査 区第 2両 方形周溝墓 3 方形周溝墓 3 (東 か ら) 周溝東西 断面 (南 か ら) 図 版 第 Ⅱ調査 区 第 2遺 構 面 中央部 (東 か ら) 第 2遺 構 面北端 (南 東 か ら) 第 Ⅱ調査 区 十! │ i ヽ ,母よ 二 【 手 靴鶴 雄1轟 船 IⅢ 女 F押 図版 9 =(t 第 Ⅱ調査 区 第 3遺 構面北半 (東 か ら) ?√ 韓 図 版 10 ド ・テ │_: i ´ ′ i 二 丁 ! 争:魂i i孝 守IⅢ Ⅲ 第 I調 査 区東壁断面 (西 か ら) 1 図版 1 第 亜調査 区北壁断面 (南 か ら) 2 図版 1 第 Ⅱ調査 区南壁断面 か ら) (ゴ ヒ 3 図版 1 を 墟 ド ■ │.子 │ド 1第 Ⅱ調査 区確認 トレンチ ヽ ■iⅢ 谷肩確認 (北 西か ら) kヽ 第 Ⅱ調査 区確認 トレンチ 谷確認 (北 束か ら) 第 Ⅱ調査 区 L字 区画溝 第 3遺 構 面 断面 =郵 国 針引 国 鮒Ⅶ 国 報 ふ り が 書 副 書 巻 告 書 抄 な くずがみいせき 名 九頭神遺跡 名 府営枚方牧野東住宅建替第 5期 工事に伴う調査 録 次 シ リー ズ 名 大阪府埋蔵文化財調査報告 シリーズ番 号 2009-4 編 著 者 名 小川裕見子・前田俊雄・野島智実 。 大向智子・堂ノ本智子・山田昌恵 編 集 所 機 在 文化財保護課 関 大阪府教育委員会 地 〒5408571 大阪府大阪市中央区大手前 2丁 目 TEL.06-6941-0351 発 行 年 月 日 2010年 3月 31日 コ ー ド 】ヒ 緯 市町村 重跡番号 枚方市東牧野町 27210 九頭神 調査原 因 2007年 7月 2日 ひらかたしひがしまきのちよう くずがみ 調査期 間 東経 査積 調面 な地 ヵ在 り ふ所 ふ りが な 所収遺跡名 28 34・ 50115‖ 府営枚方牧野東 135° 40f30‖ 3500∬ 住宅建替事業 ; 2008年 2月 26日 所収遺跡名 九頭神 種 別 集落 。 方形周溝墓 主な時代 弥生時代 主な遺 構 方形周溝墓 。 風倒木 代 世 世 古 中 近 溝、ピット、谷 溝、ピット 溝、ピット 要旨 主 な遺物 特 記 事 項 調査区南東部の 微高地上 に、弥生時 代中期の方形周溝 墓群。 調査区中央部か 土師器、須恵器、 ら西部 に古墳時代ヘ 黒色土器、瓦 古代 に埋没 した谷。 古代∼ 中・近世に 土師器、須恵器、陶磁器、 かけて耕作痕跡の 井戸、 析 溝、区画溝、 瓦器 立柱建物。 陶磁器、他 土器 耕作地及び居住地として利用されていた。耕作地は、区画溝 と井戸を伴う区画がある。調 古代∼ 中・近世にかけて、 調査区南東部の微高地域では、 弥生時 藝区西部は、古代までは穂谷川へ 向けて下る谷間が存在 した可含旨性が高 い。 墓域はさらに南東に広がった可育P性 が高い。 攪乱を受けているが、 代中期の方形周溝墓を 3基 検出した。 大阪府埋蔵文化財調査報告 2009-4 九 頭 神 遺 跡 府営枚方牧野東住宅建替第 5期 工事に伴う調査 発 行 大阪府教育委員会 〒540-8571 大阪市 中央 区大手前 2丁 目 TEL06 6941-0351(代 表 ) 発行 日 平成 22年 3月 31日 印 刷 株式会社 中島弘文 堂 印刷所 〒5370002 大阪市東成 区深江南 2丁 目 6番 8号 Osaka Prefecture Buried Cultural Property Report Series 2009-4 KuzugaH Site March,2010 0saka Prefectural Board of Education
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