CGK002705

学部時代の巌修とその周囲の人々
朱
本稿は、前稿﹁羅振玉と学部﹂﹁学部奏摺の研究︵付・学部奏摺分類リスト︶﹂に続くものである。中国清末期に
おける中央教育行政機関である学部の侍郎巌修︵範孫・一八六01一九二九︶を通じて、学部成立後、学部内の人
事関係を解明しようとするものである。なお、最修のプロフィルについては、すでに別稿で紹介したのでここでは
省くことにする。
︵
2
︶
一月六日︶、清末官制改革の任を担う督弊政務慮が学務大臣とともに、
れた学部設立の提案に対芯して行われたもので、学部の人事については、策慶を戸部尚書より学部尚書に転任、照
瑛を友侍郎、巌修を右侍郎にと提案した。この案は当日認可され、各位は勅命によって任命された。それまで翰林
院の編修に携わった巌修が、中央教育行政の実務を施行する学部右侍郎会一品京堂候補︶に抜擢されることとなっ
(1)
鳥
朗
全国の新式教育を統括する機関としての学部の設立を上奏した。これは、同年九月、山西学政賓照によって陳述さ
光緒三十一年十一月十日︵一九O五年一
巌修の交友範囲について
一
、
還里。蚕翁来談。
収信韮船。
恩旨。部曙蓉借費振甫来訪,一一一一口張継三五十九歳暮辰,本
傍線は筆者が付けたものであるが、ここにあげた﹁接京電,奉署学部右侍郎之
業を展開した清末の財閥巌信厚︵小肪︶、ほかに巌修が当時務めていた学務躍の職員と思われる郭鏡口、及び巌修
機生、それから天津地元の土紳である郎曙蓉、費披甫、さらに駿修の親族にあたり、上海を根拠地にして全国的事
報を受け取って、学部右侍郎の任命を奉じたということである。折しもこの日に、湖南、上海関係者の熊乗三、替
恩旨﹂の一文は、北京からの電
月廿一日偲。小肪叔公館嚢︵衆︶客,逝余往面,並告書扉,列余名。郭鏡口接電,一吉其母病危,擬十二日買車
飯後同参観公立女学堂。接京電,奉署学部右侍郎之
七鐘起,薙髪。八鐘半登楼治事。替機生正擬赴京。適熊乗三来,暢談。約乗三友李、繋、替三君飯於徳義楼。
月
︶
た。しかし、貴州提督学政の任を終え、故郷の天津で学堂の振興を図りながら、直隷学務慮の督婚として活躍中の
彼にとって、北京へ赴くことはけっして自ら所願ではなかった。
︵
3
ところで、この目、彼の日記には以下のようなことが記されている。
十
日
の親友華世套︵杢翁︶、後輩の華主船らと、訪ねてきた人々を細ごまと−記録したことによって、巌修の日常的な交
(2 )
十
友範囲を隙間見ることができた。巌修は、当時日常的に多数の人と行き来していた。後に侍郎就任後の学部におけ
る人事関係を考察するうえで、巌修が学部同僚との交際を主幹に、翰林院での同年や天津における学堂振興の協力
者をパックにして、原籍地である寧波及び上海の人的パイプを活用したことにこそ重要なポイントがあると筆者は
理解している。
さて、清末の学部について、筆者の前稿を含めて、近年、すでに幾つかの先行研究が発表されている。しかし、
学部内の人事関係については、護統年内閣印鋳局発行﹁職官録﹄のような人事リストのほか、さらにその詳細を究
明した研究は少ない。とくに巌修のような、地方教育の業績を作りながら学部に登用された人物をめぐって、彼の
局聞にどのような人々が存在し、また、その人的関係は学部の運営にどのような意味が持たれたかについては、不
明な点が多い。そこで本稿ではまず、巌修の学部就任後一年間の自筆日記を整理し、彼の日常にどのような人々が
関わってきたかを明らかにしたい。
では、再び上記の十一月十日の記録に戻り、そこに登場した主要な人物について確認していきたい。
適熊乗三来,暢談。約乗三友李、察、哲三君飯於徳義楼。飯後同参観公立女学堂。
ここには、熊希齢︵乗一二・一八七01一九三七︶の来訪が記されている。よく知られているように、光緒三十一
年十一月十日という日は、まさしく戴津、戴鴻慈、尚其亨、端方、李盛鐸五大臣海外政治視察のなか、戴鴻慈、端
C3 )
方の一行が北京を離れる前日であった。湖南出身の熊希齢は、語嗣同や梁啓超、唐才常とともに南学会を創設、維
新変法運動を積極的に推進していたことによって有名であるが、その五大臣の海外視察団に、彼は戴鴻慈、端方の
︵
5
︶
随員として任命されている。 一説によれば、彼は視察団に先立って、すでに同年九月上海に入り、病院で病気の治
療を受けて、この十一月二十三日に上海で視察団とはじめて合流して海外に出かけた、とされてきた。しかし、こ
の巌修日記に、巌修宅への熊希齢訪問が記されたことで上記の説とは異なる展開も考えられよう。現時点で、これ
と関わる他の記述についてまだ確認作業をしていないが、もしこの巌修の記録が事実であれば、熊希齢は上海では
なく、むしろ十一月十一日、天津で視察団と合流した可能性が高くなる。
周知のように、いわゆる五大臣の海外政治視察団は、本来同年九月に出発されるべきであった。しかし革命党の
爆発事件によって、やむを得ず延期。再度の出発には万全を期するため、清朝はこれを極秘に進めていた。このよ
︵
6
︶
うな重要な出発日の前日に彼が巌修宅を訪問し、また食事後、巌修の案内で天津の公立女学堂を見学した史実は興
味深い。ちなみに、会食した徳義楼は後に天津では有名なホテルの一つになったこともあり、巌修の彼に対する接
待ぷりは丁重であったことと推測する。
この場に同席したもう一人の人物は癌糠生︵鏡・一八七八j︶である。替機生は江蘇無錫の人、上海の南洋公学
に学を修めてから、日本に渡って早稲田大学で政治経済学を学んだ。光緒三十一年帰国後、天津にてしばらく教育
︵
7
︶
関係の仕事に従事した。その後、清朝の試験に合格して、上京。民国期には、神戸の総領事として勤務した。ほか
に外交部政務司長等の職に携わったこともあるという。清末の改革期において湖南、上海、天津など、南北地域間
の人的交流が多いなかで、直隷の天津における巌修宅はその情報交換の場の一つであったことがこの実例でも示さ
C4 )
れている。
さらに、ほかに注目すべき人物を二人取り上げよう。
巌信厚︵筏肪・一八三八i 一九O六︶、寧波慈諮の人、日記には小紡と記す。塩業の商売をはじめ、綿繰工場の
設立︵通久源機器乳花廠︶や中国通商銀行及び上海商務総会の代表職を務めて近代中国金融、工商業の振興に大き
4
な役割を果した有力者である。日記には巌信厚の邸宅に来客があって巌修に同席してもらう云々と 記されている。
巌修は祖先が寧波から天津に移住した経緯があって、巌信厚とは、同族の親族関係であったことにより、巌修の日
︵
8
︶
記には彼に関した記録が散見する。漸江慈鎗巌修一族関連の家譜は現在不明だが、巌修から彼はいつも叔父と呼ば
れている。ただ、巌修自身の珠巻履歴に記された本系の親族には、巌信厚あるいはその関係者の名前が見当たらな
︵
9
︶
いので、両者は必ずしも至近の血縁関係にあるとは思えない。しかし、巌信厚の源豊潤票号は天津に支店があるこ
と、また、巌修の父親との交誼が深いことによって、両系の接触が濃密にあったことは確かである。
このことと関連して、巌修の天津における学堂設立活動が随時上海の動静と関係していたことについて考えたい。
︶
叩
︵
たとえば、光緒二十八年日本教育視察の帰途に、巌修が上海にある澄衷学堂を見学したことや、後に巌信厚の子息
が土地を寄付し、族人と近隣の人々のために学堂をつくるところに、巌修が参与したことなど、巌修の上海におけ
る行動を見るうえで巌氏家族の存在は手がかりの一つであると考えられる。
華世歪︵時点臣・一八六四i 一九回二︶という人物については、日記には﹁歪翁来談﹂と、淡々と四文字しか記さ
れていない。実は巌修の日常交誼のなか、華世杢は最も交流の多い仲間の一人である。華は天津の人、家が塩業の
経営をして、厳修、越元種、孟震慧といった士紳とともに天津の清末民国期の有名な書家でもあった。華は光緒十
(5 )
五年から北京に入り、挙人から翰林院や軍機慮にて職を得、辛亥革命後の哀世凱政権にも重要なポストで働いた。
巌修は、清朝の漢人官僚のなかでは、科挙改革にいち早く日をつけ、経済特科を設立し、誼隷の学堂振興などを主
︵
U
︶
張し、西洋的な知識の流入に伴った教育制度の改革を唱えた改革派であるが、それと対照的に華世蚕は、民国以後
でも嬬髪に固持し、とくに教育改革に消極的であった、頑固な清朝体制の維持派であるという。このように両者は
一見西洋的な文化に対して異なった主義、主張を持っていたようであるが、 一九二七年二人は協力して天津で孔子
教の教化を繰り広げようとする崇化学会を結成、孔子廟の修繕に全力を注いだ。ここに伝統的な士大夫である巌修
の一面を伺うことができる。
では、巌修が学部侍郎に就任した後、どのような人々と交流し、またその交流が学部の行政とどう関連したかを、 6
﹃巌修日記﹄の解読を通して以下具体的に検証したい。
一二﹃巌修日記﹄からみた巌修周囲の人々
﹃巌修日記﹄︵全四巻︶は、天津図書館古籍部に所蔵されている本人の自筆日記を収録したもので、南関大学出
版社によって二OO一年に刊行されている。同書には光緒二年より民国十八年まで若干の欠巻があるにもかかわら
ず、巌修の合計五O数年間の日記が含まれ、なかには光緒二十年︵甲午︶から光緒二十四年︵戊成︶まで貴州学政
赴任中の﹃蝿香館使斡日記﹄︵九巻、 一九三五年既刊︶も加わっている。清朝の伝記史料のなかで、日記類は重要
な位置を占めており、とりわけ、日記のなかに記された家族・交友の人間関係及び、毎日の生活に関する記録は、
作者自身のことはもちろん、作者に関わる社会情勢をも細やかに示してくれる点で、重要視されている。巌修日記
の特徴は、個人的な主張が比較的少ない代わりに、毎日の行動内容、往来人物に関して比較的詳細に記されている
点だと考えられる。
巌修の学部在任期間は、通算四年四ヶ月である。それは大きく分けて大よそ二つの時期に分けることができる。
一つは、学部事務処理の専念期であり、もう一つは国内外の外遊期である。前者は、光緒三十一年十一月十日︵一
九O五年二一月六日︶巌修が学部就任、それから宣統元年八月︵一九O九年十月︶までの間であり、ほとんど毎日
のように出勤し、設立された学部の学務事務処理に専念した時期である。後者は、宣統元年八月二十一日張之洞が
死去した後から、宣統二年三月四日に辞表が受理されるまでの間を指す。この期間中、時に合わせて宣統元年九月
二十七日から慈稽太后の葬式に参列し、その後久しぶりに天津に帰郷して、宣統二年二月二十八日辞表作成までに
彰徳、開封、漢口、九江、湖口、上海、寧波、杭州、蘇州などへ外遊した。
巌修は光緒三十一年十一月十日︵一九O五年一二月六日︶から右侍郎、光緒三十二年三月二十三日︵一九O六年
四月二ハ日︶から在侍郎兼左侍郎、光緒三十二年六丹十五日︵八月四日︶から宣統二年一一一月五日︵一九一 O年四月
一四日︶まで、左侍郎を専任した。こうしてみると、右侍郎の専任期間は四ヶ月ほどで、それ以後ほぼ四年間は左
侍郎の任を担っていた。
学部﹁左侍郎﹂という一局書きは、清朝の官制においては正二品とされ、学部長官である尚撤回の第一補佐官にあた
るような立場である。学部の存在した六年間、照瑛、張仁縮ら計六名がその職を担当したが、学部の奏摺に示され
たとおり、学堂振興と関わる請奨摺や中央・地方制度設立の制度摺及び人事摺など、いずれも巌修の在任期に作成
(7)
︵ロ︶
されたものが多い。本稿はとりあえず巌修就任後の一年間の交友関係に着目する理由も、それはとくに学部設立後、
たとえば﹁奏定宣示教育宗旨摺﹂﹁政務慮会奏議請裁撤学政設直省提学使司摺﹂﹁奏擬本部官制壁帰併国子監改定額
快摺﹂﹁遵議各省学務詳細官制排事権限並勧学所章程摺﹂﹁櫨部会奏学纏両部耕事界限摺﹂や﹁考試遊学畢業生片﹂
﹁附奏撰擬提学使司提学使停﹂などのように、制度、人事に関わる多方面にわたる基本的な法規がこの期間に集中
的に作成されたことによるのである。
巌修の身辺にいる人々
巌修にとってもっとも身近に存在した人々について考えるとき、基本的に以下のような背景を考えておきたい。
巌修は、貴州学政を退官したあと、戊成年郷里の天津に一戻って、家族内の塾である家館を開いた。この家館は巌
修が天津において新式学堂教育を繰り広げる出発点となるが、その構成は教師が張伯苓、生徒は巌修の子女、甥及
び友人の子息たちであった。その後まもなく、これらの人々は留学などを経て、誼隷天津の学堂振興事業の主要な
メンバーとなっていった。このあと、巌修は学部の職に就くため上京し、学部の日常業務を展開していくが、天津
との交流はけっしてそれによって途絶えたわけではなく、むしろいつも密接に連絡を取り合っていた。
まず、こうして巌修と深く関係している人々には、後に南関大学の総長を務めた張伯苓を筆頭に、長男の巌智崇、
次男の巌智恰及び甥の巌智慢︵約敏︶、ほかに巌智関、巌智静らがいる。いずれも身内の子女であるので日常的に
連絡を取り合うのが当然であるが、特徴となるのは、面会という形ではなく、書信のやり取りが中心とされたこと
である。とくに巌修の兄巌振の長男である巌智慢︵約敏︶との手紙の往来が最も頻繁にあり、光緒三十一年末から
(8 )
二十二年にかけた一年間、百通をも超えていた。
巌修の交友のなか、天津の地域学堂関係でもっとも頻繁に付き合われた人物を羅列してみると、越元禅︵幼梅
・一八六八i 一九三九︶、張伯苓︵官官官呑・一八七六i 一九五一︶、拐玉孫︵家棋・一八七01?︶、劉潜︵芸生・一
八七回i?︶、張一裏︵仲仁・一八六七i 一九四三、江蘇の出身︶、華学調︵瑞安・一八六Oi一九O六︶、林墨青
︵兆翰・一八六二i 一九三三︶、劉嘉深︵幼樵・一八六一 i 一九三六︶、李金藻︵芹香・一八七一 i 一九四八︶の順
となる。彼らの特徴は、天津の出身或いは天津を活動の拠点としたことにあり、年齢は巌修より年下かまたは科挙
の功名︵コウメイ︶、官途としては巌修の後輩にあたる。巌修の新式教育の協力者でありながら、 一部はその学生
でもあった者である。彼らの巌修との交流は、基本的に天津にて、巌修が天津を立った後の興学状況を、書信など
を通して彼に報告することを中心としている。なかでも劉潜、胡玉孫、李金藻は巌修の初回日本訪問後、光緒二十
九年に、東京の宏文学院に巌修が推薦して日本に留学した者である。劉潜は宏文学院に留学した後、天津、北京で
一O年国立南関大学の理事として務めた。胡玉孫も同
一
九
活動し、民国後の一九一七年黒龍江省の教育長に就任、 一
じく宏文学院で一年間速習師範科の教育を受け、帰国後、天津府中学校の監督を担当、光緒三十三年天津議事会副
会長に就任して、民国後は直隷の教育長となった。李金藻は巌修の民立第一小学堂の教員として勤務したことがあ
り、宏文学院留学後、直隷学務慮の視学を務め、後にも天津の教育関係機関で働いた。
北京にいる巌修にとって、天津出身者のうちに、何人か特別な存在があった。それは、華世套︵壁臣・一八六
i 一九四一︶、慮木斎︵靖・一八五六i 一九四八︶、王守陶︵仁安・一八六五i 一九三六︶、徐世畠︵菊人・一八
一
一
五五i 一九三九︶である。前述したように、華世杢は同じ時期に軍機躍に勤め、北京に在住している。とくに巌修
(9 )
の子女との聞に婚姻関係があるので、巌修との交流が非常に頻繁であった。ただ、それは甚接に学部の日常業務と
はあまり関係なく、むしろ、家族聞の付き合いとして理解した方が正確である。慮木斎は、湖北の出身者で、二九
歳で挙人、李鴻章に委託され、天津武備学堂の算学総教習を経て、光緒二十九年誼隷学務慮督締兼保定大学堂の監
督をした。学部が成立して、巌修が北京に出向いたことによって、麗は巌に代わり、光緒三十二年から直隷提学使
になって天津の教育を率いる立場となった。彼は基本的に天津におりながら、時には北京に出向き、直隷の教育に
関して、巌修と直接意見交換をした。王守悔は、劉嘉環、巌修とほとんど同年代の人物である。劉嘉環と巌修は光
緒二十一年に進士及第の同年であるが、王守陶は光緒二十四年の進士で、﹁天津政俗沿革記﹄﹁天津県誌﹄の著作者
としてとくに有名であった。刑部主事、刑事・法務及び内務官僚関係の役を得ながら、同じく北京に居をかまえて、
時々巌修宅を訪問した。
︵
日
︶
2、学部職務期における巌修の主要な交友関係
策慶︵華卿・一八五五i 一九一二︶、モンゴル人で、光緒十二年の進士。内閣学士、軍機・政務大臣、種部尚書
などを経て、光緒三十一年十一月十日︵一九O五年十二月六日︶から宣統二年二月二十二日︵一九一 O年四月一日︶
までの問、尚書として学部を統帥した。
活源廉︵静生・一八七五j 一九二七︶は、湖南の人、光緒二十四年長沙の時務学堂にて勉学し、梁啓超の弟子で
あったが、変法維新後、日本に亡命し、大同学校、東京高等師範学校に入学した。光緒三十一年学部に入り、学部
(10)
主事、員外郎、参事として働いた。
練費泉︵筏荘・一八七四i 一九三七︶、天津の人、巌修家塾の教員であった。上述した劉潜、胡玉孫、李金藻と
同じように、光緒二十九年、巌修の推薦によって日本留学、東京の宏文学院速習師範科に一年間在籍した。後にさ
らに一度渡日、その後巌修とともに学部に入り、学部主事、郎中の職に励みながら巌修にとっては学部行政におけ
る身近な協力者であった。その後、北京高等師範学校の創立に関わり、現在は北京師範大学の創立者として仰がれ
ている。
喬樹栴︵茂軒・一八五Oi一九一七︶、西川の人、光緒二年の挙人、戊成維新政変時の義挙で有名となり、光緒
一十二年学部左永一を務め、巌修の部下にあたる。
張仁締︵劫予・一八四八i 一九O八︶、河南の人、光緒二年の進士、編修兵部右侍郎を経て、光緒三十一年十二
月二十六日︵一九O六年一月二十日︶から光緒三十二年六月十五日︵一九O六年八月四日︶まで学部左侍郎を携わ
って、巌修にとっては学部の先輩にあたる。
孟慶楽︵紋臣・生卒年不明︶、直隷河北の人、光緒十六年の進士、学部左参議及び右丞を務め、巌修を補佐した。
C11)
徐坊︵梧生・一八六四j 一九一六︶、山東臨清の人、戸部主事を経て、光緒二十七年祭慶の推薦で因子丞、後に
宣統皇帝の師となった。
張元済︵菊生・一八六七1 一九五九︶、漸江海塩の人、光緒十八年進士、翰林院庶吉士より刑部主事、総理各国
事務街門章京を歴任。戊成変法活動に積極的に関わった。上海の南洋公学総理を務め、光緒二十七年から商務印書
舘に入り、長く印書館を主宰した。
唐邦治︵子均・一八七五j 一九五三︶、江蘇の人、光緒三十二年江蔭南著書院を卒業、南京学堂の招鴨で国文、
経学を教授した。
意嘉穀︵樹五、樹圃・一八七二?i 一九三七︶、云南石障の人、光緒二十九年経済特科の進士、それで翰林院編
修を授けられ、後に日本視察を経て、学部図書局で教科書の編集に携わった。漸江提学使、布政使を歴任。民国後、
参議院議員、清史館協修、雲南塩運使を務めた。
張一塞︵仲仁・一八六七i 一九四三︶、江蘇の人、 一九歳で挙人及第。光緒二十九年︵一九O三︶経済特科の廷
試を受け、後に嚢世凱の幕僚となった。 一九一五年教育総長を務めた。
(12)
李家駒︵榔渓・一八七一 i 一九三八︶、漢軍正黄旗の人、光緒二十年進士、湖北学政を経て、京師大学堂監督、
学部右丞を歴任した。後に清朝の駐日大使として百本駐在、また、憲政視察大臣、内閣学士をした。宣統元年巌修
退職後、学部左侍部となって、右侍郎にも携わった。
羅振玉︵叔報・一八六六i 一九四O︶、断江の人、 一五歳秀才に合格。光緒二十二年他の人と農学社を創立、続
いて光緒二十四年に東文学社を創立。一一一十二年に学部諮問官、宣統元年同参事官を就任。辛亥革命後日本に渡った。
民国後の一九一九年帰国、 一九二四年薄儀とともに天津に移住、満州事変後、日本の策略した満州国の創立に参与
した。
﹀
日
︵
林瀬深︵朗渓・生卒年不明︶、闘の候官。光緒二十一年の進士、学部左参議を歴任。宣統三年、慶親玉突勘弼徳
院の参議を務めた。
李士偉︵伯芝・一八八三1 一九二六︶、直隷の人、早稲田大学政治経済科を卒業。光緒三十二年帰国、北洋師範
学堂監督などを歴任して、 一九一二年民国以後大総統財政部顧問を務めた。 一九一四年中国銀行総裁になった。
以上、巌修日記のうち、特に目立っているものを列記した。彼らを通して、この時期における巌修の交友関係に
ついて、若干説明を加えたい。
(13)
まず、楽慶、張仁齢、林瀬深、李家駒、喬樹栴、孟慶楽らは、学部の中核にある人物である。策慶は学部の統帥
者であるため、重大な案件があるごとに、巌修は祭慶と密接な連絡を取っている。この二人の交流が最も緊密であ
った。張仁輔は学部成立時の左侍郎で巌修の先輩にあたるが、病気で間もなく退職し、徐々に交流が少なくなった
ように見受けられる。学部内でこの二人を除いて他の人たちは、いわば学部事務処理関係上の部下にあたるもので
ある。そのうち、喬樹栴のほかはすべて進土の獲得者で、清朝の体制に最も近い存在である。巌修にとって彼らは
政策決定時の重要な同僚であった。
そのほかは、活源廉や陳賓泉、張元済、意嘉穀、張一塁、羅振玉、李士偉らの存在がある。彼らは、ほぼ巌修の
後輩にあたり学部のなかでは中堅的な存在である。とくに特徴として注目すべきは、彼らが、おおよそ日本での留
学や視察などの経験を持ち、ほかに衰嘉穀や張一塞のように、巌修の主唱した科挙改革後の経済特科によって功名
をおさめた者であることである。また、戊成変法運動と何らかの関係を持った人もいた。彼らの巌修との間柄は、
形式的な訪問、挨拶関係にとどまることではなく、学部事務処理の関係における具体的な議論の相手でもあった。
そのうち、とくに沼源廉、陳賓泉、喬樹栴との付き合いが多い。
一一一、学部の日常業務と巌修周囲の人々
あくまで、日記にそって関連記録を検出したものであるが、以下、幾っか実例を取り上げよう。
(14)
左侍郎任命と関連する件
巌修は、学部の右侍郎として就任後、翌光緒三十二年、前左侍郎張仁輔が病気の関係上、定侍郎の兼職が命じら
れた。巌修にとって、もともと学部への就任はけっして本意ではなく、さらに本格的な重い責任を担うことに対し
︶
時
︵
ては受け入れ難く、悩んでいた。これに関して、巌修は周囲の人々とどのような動きをもったかを確かめるために、
巌修の日記にみえる交流の跡を追ってみたい。
毘亦来共議。
訪華卿告以明日擬具摺請齢。壁臣将奏摺排定乃去。約秦口蓄来繕摺,至十一時乃畢,十二鏡後
六鐘起。到六項公所逓謝恩摺,八鐘帰。仁安来。潤生、梯一一一去、益孫来,留早飯。
壁毘来重策,無策。栄華卿来。タ壁臣去。摺稿送煩秦口蓄繕寓。
思摺稿。始知今震所逓摺未蒙食允。
四鐘起。先到菊仁︵人︶慮示以摺稿,到六項公所逓摺。候至九鐘帰。仁安来,朗渓来,示以謝
睡
(15)
三月二十三日 官付笈東京曾舘信。未半,接壁臣信。知奉補授学部右侍郎兼署左侍郎之命。約仁安来商草奏,壁
三月二十四日
三月一
日
この三日間は辞令が下された後の流れを示している。まず、いち早くこの件の情報を受けたのは、当時、軍機慮
に勤務している巌修の天津の知友華世套︵壁臣︶であった。華からの連絡を受けて、早速、同じ天津の友人、内務
府官僚の王守陶︵仁安︶を呼び出し、人事任命を断ろうとする上奏原稿を検討した。その時を合わせて華世杢が駆
け付けてきて、三人で相談したうえで作成した上奏文を、さらに直接上司の柴慶︵華卿︶に申し入れ、任命を断る
意向を伝えた。華世歪は最終的に案を決め、それをもって巌修が上奏原稿の清蓄を手配した。翌朝早く、同じく天
津の人で、当時の軍機大臣、督耕政務大臣である徐世田回︵菊人︶の家を訪ね、上奏文を示して確認をとったうえ、
六項公所にて上奏した。念には念を入れたうえでの作業であった。ちなみに徐世昌は、もともと河南で書記や家塾
の教師をしたものであるが、光緒五年衰世凱と知り合うことになり、衰の資金支援によって挙人及第、光緒十二年
進士に合格した。光緒二十三年蓑世凱の推薦によって天津の小姑に派遣され、いわゆる嚢世凱の新建陸軍で参謀に
就任。それ以後、意世凱を補助する重要な官僚となった。巌修の学部就任は衷世凱の推薦によるもので、上述した
華世室、王守拘とともに、意世凱、徐世昌の庇護のもとにあった。巌修の人事任命という重要な案件がもちあがっ
た際に、天津出身者の連携はこのように極めて緊密であったことが示されている。
2、学部施策に関して
ところで、光緒三十二年には、学部は中央から地方まで各種の重要な教育法規を作成する繁忙期に入った。この
時期に﹁奏定宣示教育宗旨摺﹂のような教育方針に関わる法規のほか、従来の学政制度撤廃、各地に提学使司を設
けることと関連して、提学使の任命や学部自身の運営制度の作成、纏部との管理権限の規定、地方教育行政運営の
(16)
仕方及び留学生の資格認定など、新式教育の振興に関わるすべての法規、政策の確定が求められていた。ここにお
いて、これらの関係原案の作成者やその提出方法に関した巌修日記の文言を検出して上げておく。
1︶教育宗旨摺について
︵
教育宗旨摺は日本の教育勅語を手本にして、清朝の学部によって作成された近代中国最初の教育方針を示したも
のである。ここに示された人物は必ずしもすべて﹁奏定宣示教育宗旨摺﹂に関与しているとはいえなくとも、劉潜
︵芸生文学部在職の陳賓泉︵後十壮・小荘︶とともに原稿に関して議論したことが見受けられる。ほかに直隷天津
から北京に訪問している貌梯雲、石目、幼展、伯寅︵学部の陳清震︶との交流もあった。上奏文が提出された前日、
在侍郎の張仁繍︵勘予︶と相談して案を確定した。なお、原案は巌修が作成したものと考えられ、光緒一一一十二年三
丹初一日、﹁奏定宣示教育宗旨摺﹂として上奏し、当日公和された。
一一月初六日 七鏡起。芸生、小荘来商訂文稿。
一一月初七日 七鐘起。芸生、小荘拘来商訂文稿。午末到署,改文稿。
一一月初八日七鐘起。何改文稿。
一一月初十日 の改文稿。芸生、小荘倶来。
一一月十七日 晩約梯雲、石臣、幼展、芸生、小荘、伯寅便飯。飯後議教育界事。
一一月二十九日 午前到署,輿劫公校閲摺稿。築相未至署。
(17)
三月一日
五時半起,七時至六項公所。是日本部逓封奏三件。候至九時膳牌殻下,輿劫公同至国子監祭記。
︵
2︶直隷学務官僚人事について
前述したように、巌修が北京赴任後、虚木斎︵ここで木翁︶が天津の新式学堂振興活動を統帥した。以下の文は、
慮木斎が教科書選定や提学使司設立直前の天津の学務官僚の確定などについて巌修と相談したことに関する記述で
ある。ここでも孟慶策︵紋臣︶、劉嘉疎︵幼樵︶、劉潜︵芸生︶、陳清震︵伯寅・一八八二i 一九一五︶、陳賓泉︵筏
荘︶という天津関係者の名前が上がっている。
三月三日 六時半起。輿木翁談。紋臣、幼樵、芸生、伯寅、小荘前後来。周君鴻文来。午後到署,楽慶因感冒日
未至。閲到文,看諸君所審定之書籍。到北洋小学堂閲学生成績。六時帰。
三月四日 六時半起。輿木翁談,並為酌定査学人数。朱班伯来,並送到代買之濡子歌。木翁中車回津。
午到署,将集議慮所交各件分別粘簸,趣築相護行。五時四寓。歩訪壁臣輿智野話。
︵
3︶提督学政制度の撤廃について
従来の提督学政制度を撤廃して地方に提学使司を設けることは、清末の教育行政において大きな改革である。下
記の文に記されているように、ここでは学部右参議の戴展誠をはじめ、学政制度の撤廃に関して、一ニつの改革原案
が提示された。ところが、策慶と張仁齢︵酌予︶がそれぞれ体裁上の問題や表現上の問題を理由に修正を求め、最
後に左参議の林瀬深︵朗渓︶によってまとめられた。奏摺は光緒三十二年四月初二日、﹁政務慮会奏議請裁撤学政
設直省提学使司摺﹂として上奏された。
月十六日 午前﹁到署﹂,寓信。裁学政摺稿口口,戴、呉、楊各一。築相謂戴稿非会奏体裁,劫公謂呉稿太
弱。因擬交林朗渓合両稿為一稿。
4︶各省師範学堂の設置に関して
︵
改
削
各
省
学
務
綱
要
各省学務官制摺稿。
(19)
筆者の前稿﹁羅振玉と学部﹂を参照。
5︶各省学務綱要について
︵
各省学務綱要、いわば後に上奏した﹁遵議各省学務詳細官制難事権限並勧学所章程摺﹂︵光緒三十二年四月二十
日︶のことと思う。各省の教育行政に関して詳細な規定を作成したものである。原案は巌修の手によって作成され、
之
羅振玉も関わって、最終的に祭慶と巌修が案を確定した。
四月十四日
1
四月十八日 途遇紋臣。適車胆不進。目封。談許久。十一鐘回寓早飯。飯後詣築相。看朗渓寓学使名単,萌酌
略
︵
6︶提学使人事について
提学使司に関する規定及び提学使人事の原案も巌修によって作成されている。提学使人事についての具体的な案
出方法は、﹁先将衆所保薦者列為一表,又按人注相宣之省分。又依品級列一清単﹂と記されているように、学部内
の推薦を受け、巌修が被推薦者の宮品位を参考にして妥当と思われる赴任先を決めるというのである。直接関係の
ある奏摺は﹁謹保直省提学使人員摺﹂︵光緒三十二年四月二十日︶、﹁附奏撰擬提学使司提学使停﹂︵光緒三十二年間
四月二十日︶、﹁続擬提学使難事章程摺﹂︵光緒三十二年六月初六日︶であろう。
四月十七日 五鐘半起。七鐘到署。貼名到五十五人。是日試史学、口学図書輩。
擬奏簡提学司摺稿。程顔生、家口見訪。十一鐘訪華府,款早飯。
擬学使単。先将衆所保薦者列為一表,又按人注相宜之省分。又依品級列一清単。至暮乃畢。李先
余歪。将散時,茂萱至。又談片刻。
四月十八日 途遇紋臣。適車阻不進。目封。談許久。十一鐘回寓早飯。飯後詣築相。看朗渓寓学使名単。商酌
各省学務官制摺稿。
7︶学部官制について
︵
学部の運営方法及び国子監を併合することに関する法規︵﹁奏擬本部官制聾帰併因子監改定額敏摺﹂・光緒三十二
年四月二十日︶である。巌修と柴慶とともに原案を検討することや、張元済︵菊生︶によって学部内の規定を作成
(20)
四月十八日
四月十六日
︵前略︶明日擬逓摺件
本署難事章程前署菊生酌擬十九日栄相復催菊生速擬。
︵前略︶輿築相関本部宮制稿護繕。
する云々と記されている。
四月十九日
学部官制一摺
附学部官制清単一件
附改定国子監官制清単一件
四月二十五日 晩輿小荘、芸生、伯寅酪悟菊生所擬部司耕事章程。
閏四月初二日 十鐘到署,看叔韓所擬各省学務綱要,批改張菊生所擬本部難事章程。
8︶女学堂章程及び地方教育会章程について
︵
︵﹁酌擬教育会章程摺﹂・光緒三十二年六月初八日︶
羅振玉が作成したと記されている。
四月二十四日 叔韓所擬女学章程集議虞祭注数条,余携回寓。
間四月初四日 覆関叔韓所擬教育会章程、女子小学章程。
(21)
︵
9︶張元済の学部辞任について
張元済と学部との関係には不明な点が多い。というのは、学部の人事名簿には管見の限り、彼の名前が見当たら
在穣卿来欲辞差回内閣。飯後擬各司分配人員単。時点臣来,留飯。
ない。しかし、学部の提案には彼が関与しているようである。また、日本との関係一五々で学部を辞任したと記され
ている。
四月二十二日
両鐘後去,余遂到署。見仲孜前輩、陳子嘱、劉幼雲、孟紋臣諸公。
曹東寅諌約日本人講教育学。張菊生辞差。因中華報及京話白報誌商務印書館為日人所開設,菊
生運動学部審定云々。恐累及全部也。築相慰留之。
閏四月初七日 樹五、小荘以張菊生癖明書見視。
看羅、張諸君所擬外国留学章程。
︵叩︶留学生章程について
四月二十八日
この時期、学部によって作成された留学生関係の提案がいくつかあるので、この﹁外国留学章程﹂の詳細につい
ては不明だが、ここの羅は羅振玉のことを指していると考える。
(22)
四おわり
清末から民国の初めにかけて学部の存在はわずか六年ほどであった。この六年という期間は長かったか、それと
も短いものであったかという形式的な問いかけはあまり意味がないものの、従来では、清朝最後の延命期に設けら
れたこの一過性の機関に対して研究の視点が確かに定まらない訪復があったように思われる。
ここで問題にしたのは、この実質的に短命な機関でありながら、確実な影響があったこと、また、中国にとって
最初の近代的教育行政機関でありながら短命であったこと、この限定的な期間に出来上がった歴史的な事項に対し
て、清朝の学部が残した糸筋をさらに明らかにしなければならない作業があることである。それこそ本稿で取り上
げた人的構成の整理である。すなわち清朝からの伝統的な教育体制は、どのような担い手によって近代的︵西洋的︶
なものに移り変わったか、という問題である。その意味で短期間にせよ、清末のこの数年間は極めて重要である。
さて、学部運営には巌修をはじめとする維新派、そして張仁繍をはじめとする保守派、及び楽慶の折衷派が存在
したという説︵羅継祖︶がある。しかし、以上述べてきた学部の施策を辿ってみれば、策慶のことはさておき、張
仁輔は病気で早々に退職した故、巌修が実質的に中心的な存在であったことは間違いない。そして、この巌修を中
心としたグループに焦点を当てれば、確かに嚢世凱、徐世田回がパックに存在しながら、学部組織外には軍機慮の華
世室、内務府の王守悔というような相談相手がおり、学部内には孟慶策、陳賓泉らの人物がいた。彼らは直隷の学
堂振興という背景から出発して、学部全体の運営には、巌修のもとで積極的に関与してきた。
C23)
注
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1
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7
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︵
拙稿﹁羅振玉と学部﹂﹃中国文化研究﹄第二十五号︵二OO九年三月︶、﹁学部奏摺の研究︵付・学部奏摺分類リス
ト︶﹂﹃中国文化研究﹄第二十六号︵天理大学中国文化研究会、ニO 一
O年三月︶。
﹁本日政務属学務大臣会奏。議覆費照等篠陳一摺。前経降旨停止科挙。亙臆振興学務。震育人才。現在各省学堂己
次第興嫌。必須有綿麗之区。以資董率市専責成。著即設立学部。柴慶調補学部尚書。学部左侍郎照瑛補授。翰林院
編修巌修。著以一一一品京堂候補。署理学部右侍郎。国子監即古之成均。本係大学。所有該監事務。著即帰併学部。其
齢未毒事宜。著該尚書等即行妥議具一奏。﹂朱喜朗編﹃光緒朝東華録﹄光緒三十一年十一月己卯、中華書局出版、一
九五八年一二月、第五冊、第一六一頁、組五四四五貰 0
2厭修日記﹄第二巻、吋巌修日記﹄編輯委員会、南聞大学出版社、二OO一年一一一月、第一二九二頁。
戴鴻慈﹃出使九国日記﹄湖南人民出版社、一九八二年五月、第四O貰i第四八頁を参照。
周秋光著﹃熊希齢惇﹄百花文芸出版社、二O O六年一月、第一七一頁i第一七二頁を参照。
甘眠羊編﹃天津新指南﹄緯雪斎書局、一九二七年。
第七五頁。
8 ﹃清代科挙人物家停資料品購編﹄第九八巻、学苑出版社、二OO六年一二月、第四九一頁1第五一二貰。
9 上海図書館蔵﹃巌氏蕎芝山荘公臆章程葉録﹄巌義彬記、宣統元年二月、巌修践を参照。
︵
叩
︶ 向上掲書を参照。
︵
日
︶ 羅樹偉編著﹁天津的名門世家﹄天津古籍出版社、二O O四年八月、第九八頁i第九九頁。
︵
ロ
︶ 拙稿﹁学部奏摺の研究︵付・学部奏摺分類リスト︶﹂﹃中国文化研究﹄第二六号、ニO 一
O年三月を参照。
︵
日
︶ ここに取り上げる人物の基本資料に関して、陳玉堂編著﹃中国近現代人物名号大辞典﹄漸江古籍出版社、一九九三
年五月、江慶柏編著﹃清代人物生卒年表﹄人民文学出版社、二O O五年一二月、察鴻源主編﹃民国人物別名索引﹄
吉林人民出版社、二O O一年九月、天津市文史資料研究委員会編吋天津近代人物録﹄天津市地方史志編修委員会総
編輯室、一九八七年一二月などを参照した。
C24)
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日
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︶
日
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︶
日
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。
中国第一歴史柏案館、福建師範大学歴史系編﹃清季中外使領年表﹄中華書局、 一九八五年一 O月
銭賓甫編吋清代職官年表﹄第四冊、中華書局、一九八O年七月による。
巌修日記の引用にあたって、すべて上掲の南関大学出版の﹃巌修日記﹄︵第二巻︶ のなか、﹁丙午北京日記﹂︵光緒
三二年︶に依った。以下はとくに注記することを省く。
附記、本稿の作成にあたって、中国人民大学清史研究所張永江教授、天津社会科学院歴史研究所張利民教授、同劉海岩教
授より貴重な資料を提供され、また重要なご指摘を頂戴したことに対して、心より御礼を表したい。
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