Page 1 四 国 山 地 に お け る 蜂 賀 氏 入 はじめにー問題の所在 天正十

四 国山 地 に お け る蜂 須 賀 氏 入 部 反対 運 動
丸
山 幸
彦
だ 、 祖 谷 山 のみ 抵 抗 が つづ き六 年 間 に及 ん だ が 、 天 正 十 八
仁 宇 ・大 粟 ・祖 谷 山 一揆 ﹂ と いう 項 目 を た て、 つぎ のよ う
な し た 桑 田美 信 氏 が そ の著 ﹃阿 波 国 百 姓 一揆 ﹄ で [天 正 度
動 に つ い ては 、 阿 波 国 百姓 一揆 に つ い て の研 究 の先 駆 け を
天 正 十 三年 (一五 八 五 ) の蜂 須 賀 氏 入 部 に対 す る 反対 運
﹁是 ヨ リ 先 、 蜂 須 賀 家 政 、 阿 波 二入 ル、 是 日 、 国 内 ノ土 冠
本 史 料 ﹄ 第 十 一編 之 二十 が 公 刊 さ れ 、 天 正 十 三年 九 月 二 日
ず 、定 説 と し て定 着 し て い る。 二〇 〇 〇年 代 に 入 り ﹃大 日
説 に た いす る 批 判 的 な 検 討 は 管 見 の限 り では な さ れ てお ら
こ の説 が 提 出 さ れ て か ら八 十 年 近 く た つが 、 こ の間 こ の
年 (一五 九 〇 ) に は平 静 に帰 した 。
に 整 理 し て い る のが 研 究 の出 発 点 に な っ て いる 。 ① 天 正
ノ 平定 二奔 走 セ シ森 正 則 ・伊 澤 頼 綱 等 ノ功 ヲ褒 ス﹂ の 項 に
は じ め に 1問 題 の所 在
十 三年 八 月 に 那 賀 (仁 宇 谷 )・名 西 (大 粟 山 )・美 馬 (祖 谷
関係 史 料 が 整 理 さ れ て いる の で、 あ ら た め て これ に も とづ
山 ) の山 間 部 豪 族 が 反 乱 を 起 こ し た 。 ② 藩 主 家 政 は 仁 宇 谷
き 桑 田説 を み な お し てみ た い。
と 祖 谷 山 に使 を 派 遣 し た が 、 いつ れ も 抵 抗 さ れ 殺 害 さ れ
に区 分 さ れ る。 第 一のグ ル ープ は仁 宇 谷 ・大 粟 山 ・種 野 山
こ の項 に お さ め ら れ た 史 料 は基 本 的 に は 二 つのグ ル ープ
木屋平 (
美 馬 郡 種 野 山 ) の松 家 長 大 夫 が名 西 郡 上 山 村 (大
で の反 対 運 動 に か か わ る 由緒 書 ・系 図類 であ る。 こ のう ち
た 。 ③ 後 に 北 (喜 多 ) 六 郎 三郎 が 祖 谷 山 の土 民 を 説 服 し 、
粟 山 ) の 反 民 を鎮 め 、 山 田宗 重 が 仁 宇 谷 を 平定 し た 。 ④ た
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接 す る大 粟 山 (現名 西 郡 神 山 町 ) と 種 野 山 (
現 麻 植 郡美 郷
そ れ への鎮 圧 行 動 に参 加 し た と し て いる 。 ま た 仁 宇 谷 に隣
宇 谷 之 民 不 服 者 ﹂ ﹁仁 宇 谷 溢 者 一党 ﹂ が 蜂 須賀 氏 に 抵 抗 し 、
次第之事﹂ (
仁 宇 村 柏 木 氏 蔵 )、など が 収 め ら れ てお り 、﹁仁
し た 、 中 世 に さ か のぼ る 喜 多 家 の 由 緒 書 であ り、 ﹃大 日本
延 享 元 年 (一七 四 四) 年 に 祖 谷 山 政 所 喜 多 源 治 が藩 に提 出
下 ﹃奮 記 ﹄ と 略 記 す る ) の関 連 部 分 を 収 め る。 ﹃善 記 ﹄ は
其年 次 ヲ 詳 ニセ ズ 、姑 ク 左 二掲 グ ﹂と し て ﹃祖 谷 山 善 記 ﹄(以
は ﹁ナ ホ 阿 波 祖 谷 山 ノ 百 姓 抗 拒 シ、 家 政 之 ヲ 鎮 ム ル コト 、
さ ら に こ の第 一 ・第 二 のグ ル ー プ の後 に ﹃大 口 本 史 料 ﹄
抗 す る賊 の た め に 殺 さ れ た の で、 家 政 は援 軍を 送 り そ れ ら
村 ・美 馬 郡 木 屋 平 村 ) に つ い て は 、 [伊 澤 文 三 郎 系 図 ﹂ が
史 料 ﹄ に収 め られ て い る のは 、 蜂 須 賀 氏 入 部 直 後 の動 向 に
仁宇 谷 (
現 那賀 郡鷲 敷 町 ・
相 生 町 など )にか か わ って は ﹁湯
収 め ら れ て お り 、 天 正 十 三 年 八 月 国 中 の仕 置 き の た め に 目
つい て の記 述 、 す な わ ち ﹁私 先 祖 北 六 郎 三 郎 同 安 左 衛 門 美
逆徒 を平定したとする。
付 と し て兼 松 惣 左 衛 門 ・久 代 市 丘ハ
衛 ・黒部 兵 蔵 が 仰 付 け ら
浅 先 祖 相 伝 次 第 之 事 ﹂ (木 頭 村 湯 浅 氏 蔵 )、 ﹁仁 宇 先 祖 相 続
れ、 見分 し て いた と こ ろ、 仁 宇 山 ・大 粟 山 の 者 が 一揆 を 企
馬 郡 一宇 山 に 罷在 、 兼 而祖 谷 山 案 内 の儀 に 御 座 候 へは 、 悪
ど は 一揆 に 同 心 せ ず 、 伊 澤 ら と上 山村 の 粟 飯 原 源 左 衛 門 も
粟 の者 と 行 動 を と も に し たが 、 三木 村 (種 野 山 内 の村 ) な
が 蜂 須賀 氏 に し た が わ ぬ祖 谷 山 豪 族 を 鎮 圧 し 、 これ が 喜 多
斬 捨 或 搦 捕 罷 出 候 、 ⋮﹂ と し て蜂 須 賀 氏 入 部 直 後 、 喜 多 家
徒 謙 罰 奉 乞 請 、方 便 を 以、 過 半 降 参 仕 候 、 ⋮不 随 族 は 、 或
う て 、大 粟 山 で兼 松 惣 左 衛 門 が 殺 害 さ れ た 、 ま た 木 屋 平 も 大
久 代 ・黒 部 に加 担 し 一揆 を追 い払 い両 人 を 無 事 徳 島 に送 り
家 が 祖 谷 山 を 専 制 的 に支 配 す る契 機 な って い る こと を 述 べ
つ れ も 蜂 須 賀 家 由 緒 書 と も いう べ き も の であ るが 、仁 宇 谷 .
昌 之 事 ﹄ お よび ﹃蜂 須 賀 家 記 ﹄ の ■瑞 雲 公 ﹂ 項 であ る。 い
のま ま う け いれ てお り 、 ③ は ﹃
蜂 須賀 家 記﹄ と第 一グ ルー
田 説 の① ・② は 第 ニグ ル ープ の ﹃
蜂 須賀 家 記﹄ の記 述 を そ
﹃大 日 本 史 料 ﹂ 所 収 史 料 のあ り 方 を ふ ま え て み る と 、 桑
て いる 部 分 であ る 。
届 け た と さ れ て い る。
祖 谷 山 の賊 が 服 さ な か った の で、 家 政 公 は 梶 浦 与 四郎 を仁
プ の ﹃伊 澤 文 三郎 系 図 ﹄お よび ﹃善 記 ﹄を 接 合 さ せ てお り 、
第 二 のグ ルー プ は ﹃蜂 須 賀 家 政 公 阿 波 国 御 入 国 井 御 家 繁
宇 谷 に、 兼 松 惣 左 衛 門 を 祖 谷 山 に遣 わ し た が 、 いつ れ も 抵
一80一
い る。 そ し て こ の桑 田 説 に つ い ては 、 つぎ の 三点 が 問 題点
に任 命 さ れ た と あ る こと を も って祖 谷 山 一揆 の終 末 と し て
そ し て④ は ﹃藷 記 ﹄ に 天 正 十 八 年 十 二月 北 六 郎 三郎 が 定 使
拠 点 に活 動 す る在 地 豪 族 の存 在 を 前 提 にし な け れば 、 こ の
し てき て い る場 で起 こ って い る。 こ のよ う な 中 世 的 な 村 を
中 世 を 通 し て独 自 な山 の世 界 と し て中 世 村 落 が 豊 か に 展 開
領 であ ると いう 事 実 に し め され て い るよ う に、 反 対 運 動 は
ら と し て浮 かび あ が って く る 。
お こな わ な い ま ま に 、 そ の 記 述 に 全 面 的 に依 拠 し て しま っ
か れ て い る に も か か わ らず 、 そ の記 述 に つい て史 料 批 判 を
祖 谷 山 に お け る 動 き に つ い て、 ﹃奮 記 ﹄ が 由 緒 書 と し て書
に し ては そ のま ま で は使 えな いと いう こと を ふ ま え て 、本
る 天 正 祖 谷 山 豪 族 一揆 の記 述 に つ い ては 、 史 料 批 判 を ぬ き
第 一点 に つ い て、 ﹃善 記 ﹄ に お け る蜂 須 賀 氏 入 部 に 反対 す
本 稿 は こ の 三点 から 桑 田説 の見 直 し を お こな う 。そ の際 、
運 動 は 正 当 に評 価 でき な いは ず であ る。
て いる 問 題 であ る 。 これ は 桑 田 氏 以 降 も 同 様 であ り 、 上 記
稿 で は分 析 対 象 か ら は 除 外 し、 祖 谷 山 に つ いて は ﹃善 記 ﹄
第 一点 は 入部 反 対 運 動 のな か で重 要 な 位 置 を 占 め て いる
の記 述 が そ のま ま事 実 と し て 使 わ れ 続 け て い る。 第 二点 は
反 対 運 動 の 二 つ の段 階 ー 南 家 由 緒 書 を 中 心 に ー
以 外 の史 料 か ら み ると いう 方 法 を と る 。
第 一章
入部 反 対 運 動 が 長 宗 我 部 元親 の 秀 吉 への降 伏 、 そ れ に つづ
く秀 吉 の 四国 国分 の結 果 と し て 阿 波 国 に 蜂 須 賀 氏 の入 部 が
な さ れ た こと に た い し て起 こ って いる こと を 見 落 と し て い
る 問 題 であ る。 入 部 反対 運動 は 阿 波 一国 内 の動 き と し て の
伊 予 四 国 ま た が る 四 国山 地 全 域 で の 動 き の 一環 と し てと ら
本 家 に あ た る 一宇 山 の南 (小 野 寺 )家 の由 緒 書 が あ る。 ﹃
奮
わ らず 埋 も れ てし ま って いる 史 料 の 一つに 祖 谷 山 喜多 家 の
天 正年 間 の祖 谷 山 に つい て言 及 が な さ れ て いる に も か か
え る 必 要 が あ る。 第 三点 は 反対 運 動 を 近 世 の百 姓 一揆 の初
記 ﹄ 以 外 の史 料 か ら 反 対 運 動 を み る と いう 点 では 興味 深 い
み と ら え る こと は でき な い の であ り、 阿 波 ・土 佐 ・讃 岐 ・
発 と し て と ら え 、 中 世 から の連 続 面 に つ い て の分 析 が な い
内 容 を も つ の で検 討 す る。
と いう 問 題 であ る。 大 粟 山 ・種 野 山 ・祖 谷 山 ・仁 宇 谷 な ど
は平 安 時 代 末 以 来 高 度 な 展 開を とげ て き て いる 中 世 の山 所
一81一
安 右 衛 門 其 外 一族 数 多 召連 出 向 、山 上 β 大 石 を 穿 懸 及 一戦 、
略 ) ⋮ 夜 通 二落 行 候 処 、 右 源 六 並 俸 八 蔵 、 右 六 郎 三 郎 並 俸
之 出 城 御 追 罰 被 為 遊 候 二付 、 右 軍勢 一宇 山 江 馳 入 、 ⋮ (中
正十 三年 乙 酉 中 春 、 瑞 雲 院 様 御 入 国被 為 遊 、 長 宗 我 部 所 々
備 中 守 嫡 子 小 野 寺 源 六 二男 六 郎 三郎 住 居仕 罷在 候 。 然 所 天
土 州 長 宗 我 部 元 親 ト 及 合 戦 、 朽 田 ヲ 一宇 山 へ引 籠 罷 在 候 。
領 地 仕 彼 所 二住 居 仕 罷 在 候 処 、 其 後 小 野 寺 備 中 守 代 二至 、
正 平 七 年 後 村 上 院 御 論 旨 頂 戴 仕 阿 州 阿 波 郡朽 田 五 ケ庄 数 代
史料 一
付 帰 陣 仕 候 、 ⋮ (後 略 ) ⋮
退申 候 二付 、 猶 亦有 瀬 口相 堅 メ 居申 候 所 相 引 可 申 旨 御 意 二
時 山 上 右 矢 先 ヲ 揃射 立 候 。 ⋮ (
中 略 ) ⋮土 州 勢 不 井 し て引
付 奉 畏 罷越 候 処 、土 州勢 祖 谷 山 御 境 目 へ出 張 罷 在 候 二付 此
も 御 状 ヲ 以右 御 出 陣 之 趣 被 仰 下 候 上 猶 亦 御 人 数 之 御 先 被 仰
院 様 御 出 陣 被 遊 旨 御 書 被 為 下 井 稲 田小 八 郎 殿 牛 田掃 部 殿 β
一、 天 正十 四 丙戌 年 初 冬 土 州 勢 不 相 鎮 奉 御 敵 対 シ付
略) ・
与 無 相 違 為 下 置 候 、不相 降 族 ハ斬 捨 或 ハ搦 捕 出 申 候 、⋮ (中
計 略 ヲ 以、 過 半 降 参 仕 セ 則 降 人 之 者 共 召 連 罷 出 持 懸 名 職 申
瑞雲
⋮ (中 略 ) ⋮
一、 美 馬 郡 岩 倉 山 曾 江 山 之 住 人 往 古 乱 々 と 落 籠 居 申 士 族 共
被 為 遊 御 召 候 得 共 、 不 奉 応 御 国 命 奉 御 敵 対 候 二付 、 ⋮ (中
一、 美 馬 郡祖 谷 山 往 来 名 主 共 ⋮ (中 略 ) ⋮瑞 雲 院 様 御 入 国
(中 略 ) -
余 一族 召連 彼 地 江 立 越 、 方 便 ヲ 以 討 亡 無 異 儀 奉 入 御 手 候 ・
.
・
源 六 ヲ被 召出 相 鎮 候 様 被 為 仰 付 奉 畏 、 弟 六 郎 三郎 並 俸 共 其
の嫡 男 小 野 寺 源 六 、 次 男 六 郎 三 郎 ら も 一族 を ひ き つれ土 佐
2
親 と 合 戦 し 、 一宇 山 に 籠 も った 。
波 郡 朽 田庄 に居 住 し た 。 小 野 寺 備 中 守 の時 代 に長 宗 我 部 元
1
ようになる。
史 料 一は 天 正 年 間 ま で の部 分 で あ る が ま と め る と つぎ の
略 ) ⋮其 時 源 六 六 郎 三 郎 被 為 召 右 悪 党 等 征 伐 可仕 旨 被 仰 付
に敗 退 す る長 宗 我 部 を 攻 撃 し た 。
瑞 雲 院 様 御 入 国 被 為 遊 候 得 共 、 御 下 知 相 背 御 敵 対 候 二付 、
奉 畏 則 一宇 山 二罷 在 者 隣 山 之 儀 、 兼 而案 内 之 事 候 得 者 、 源
3
美 馬 郡 岩 倉 山 ・曽 江 山 の住 人 は 蜂 須 賀 氏 入 国 に敵 対 し
天 正 十 三年 に蓬 庵 が 入 国 し 元 親 を 追 討 す るが 、 備 中 守
小 野 寺 八 郎 蔵 人 は 村 上 天 皇 よ り 給 旨 を 頂戴 し、 以後 阿
六 並 俸 八 蔵 六 郎 三 郎 俸 安 右 衛 門 其 外 一族 数 多 召連 彼 地 立 越
一82一
た 。 源 六 が 召 し だ さ れ 相 鎮 る よ う仰 せ付 け ら れ 、 弟 の六 郎
三郎 や 俸 を 引 き 連 れ て討 ち 滅 ぼ し た。
九 月 二十 九 日
貞 光 谷 ・弥 谷 宛 秋 長 催 状
ま ず こ の付 属 の 三 通 に つ いて み て おく 。
史 料 ニ ー①
急 度 申 遣 候 、 伍 近 々 土 佐 へ出 陣 付 而、 其 元之 者 共 彼 表 案
祖 谷 山 の名 主 は 御 召 に応 ぜ ず 、 追 罰 の 人数 を 差 し む け
た が 悪 党 ら に 抵 抗 さ れ た 。 こ の時 源 六 ・六 郎 三 郎 ら に 悪 党
内 者 也 、 事 候 間 、 口 ■ 兵 糧 相宛 可 召連 候 、 得 其 意 、 早 々可
4
討 伐 を 仰 せ つけ ら れ た 。 源 六 は祖 谷 山 の事 情 に 通 じ て いた
秋長御印判
致用意候、為其如 此候也
九 月廿 九 日
の で 、 一族 を 引 き 連 れ て彼 地 に いき、 名 主 ら の過 半 を 降 参
さ せ 、 し た が わ な い者 は切 り捨 て た。
貞光谷中
天 正 十 四 年 初 冬 、 土 州 勢 が 鎮 ま らず 敵 対 す る に つき 、
5
南 源六 ・同 八蔵 宛 稲 田小 八郎 書
弥谷中
九 月三十日
へ被 成 御 着 舟 候 、 就 其 近 々 ± 佐 へ御 働 可被 成 由 に候 、甘ハ
ロ
状
史 料 ニ ー②
土 州 に 秋 長 (蓬 庵 ) 様 が 出 陣 す る旨 の御 書 が 下 さ れ た 。 稲
田 小 八 郎 ・牛 田掃 部 両 人 か ら も 出 陣 の 旨 を 仰 せ く だ さ れ 、
源 六 ・八 蔵 も 人 数 に 召 さ れ た 。 ± 州 勢 は 祖 谷 山 境 目 の 山 に
ま で押 し 寄 せ てき た が 八蔵 ら は そ れ を く いと め 、 さ ら に有
こ の由 緒 書 のう ち ー∼ 4 の内 容 は ﹃
善 記﹂ と 大 枠 で同 じ
よ り御 人数 被 遣 候 は ん 条 、 随 分 才 覚 候 へ、 尚 々意 に少 々談
態 以被 参 候 、 無 何 事 夕 部 に は 着城 候 、秋 長様 も昨 頃猪 山
であ る 。 た だ し 、 5 で記 述 さ れ て いる 長宗 我 部 氏 と の戦 い
合 申 儀 候 間 、 此 者 参 着 次 第 父 子 な か ら 御 下 地何 事 も 面 に て
瀬 口をも固めた。
に つ い て ﹃奮 記 ﹄ で はま った く ふ れ ら れ て お ら ず ﹃南 家 由
可 申 入候 、 と 如 此 候 、 八 蔵 ハす く こ いの 山 御 見 廻 二被越 候
■■ (
花押)
稲 田小 八 郎
緒 書 ﹄ のみ に あ ら わ れ る事 項 で あ る 。 し か も 、 5項 の末 尾
三十日
用意 可然 候 、 か し こ
九
に ﹁右 の御 書 一通 、 稲 田小 八郎 様 の御 状 一通 、 牛 田掃 部 様
の御 返 書 一通 三通 あ り ﹂と さ れ 関 連 文 書 も 添 付 さ れ て いる 。
従 来 の 研 究 史 で 取 り あ げ ら れ て こ な か った も の であ る が 、
一83一
南
源六殿
谷 山 ・ 一宇 山 など 貞 光 川 流 域 の山 間 部 土 豪 への動 員 命 令 で
史料 三
と み て よ く 、 三通 は 一連 の文 書 と み な す こと が でき る 。
であ る。 二通 とも 日付 か ら み て同 ① を う け てだ さ れ て いる
郡 脇 城 の城 代 であ り、 同 ③ の牛 田氏 は 三好 郡 池 田城 の城 代
該 当 す る。 同② の稲 田氏 は 蜂 須 賀 氏 配 下 の有 力 武 将 で美 馬
あ る。 本 文 5 項 で いう 秋 長 公 の土 州 への出 陣 命 令 が これ に
南 源 六 宛 牛 田掃 部 書 状
八蔵殿
十月十 日
同
史料 ニー③
尚 尚 ± 佐 へ御 働 之 其 口 は [ 無 之 間 其 御 心 得 可 有 候 、
先 々急 可 申 談 候 也
預御状候、具拝見候、傍土佐表御働付 而、其方もにろう
口 よ り 出 候 由 承 候 、 尤 大 儀 候 、 尚 々我 等 儀 海 部 へ可 参 候 由
猶 々木 頭 中 召連 可 罷 越 候 、 次 其 方 拍 高 指 遣 者 也
申 上 候 へ共 、 是 非 共 山 分 よ り 罷 出 候 へと の、 阿 州 よ り 口 候
間 、 大 略 山 分 よ り 可 参 候 、 左 候 者 我 等 儀 は 有 瀬 ロ へ可 参 迄
彼 表 案 内 者 之 事候 問、 丘ハ
根相宛可召連候、得其意早々可致
急 度 申 遣 候 、 傍 而 近 々 土 佐 へ出 勢 に付 而 、 其 元 之 者 共 、
讃 岐 衆 迄 相 触 事 候 、 両 国之 衆 口 口 ■候 、 や か て土 州 へ御 働
用 意 候 、 為其 如此 候 也
存 申 候 、 先 々 洩 可 申 談 候 、 就 其 御 働 候 其 日 の儀 承 候 、 伊 予
可 在 候 、 我 ら か た よ り 両 国衆 之 儀 へ左 右 可 申 上 と の御 口 之
九 月廿 九 日
在 し (現 海 部 郡 木 頭 村 )、 国 境 を は さ ん で土 佐 国香 美 郡 槙
いる 軍勢 催 促 状 で あ る。 木 頭 は那 賀 川 上 流 域 の山 間 部 に所
雲 院 様 土 佐 出 勢案 内 書 ﹂ と いう 題 名 を 付 し てお さ め ら れ て
関連 し て 史 料 三 を み て おき た い。﹃阿 波 藩 民 政 資 料 ﹂に [瑞
近藤助左衛門
秋長
間 、 御 承 遣 来 相 定 候 、 海 部 へも 人 を付 置 候 間 、 御 左 右 旨 可
ま いる
■■ (
花押)
掃部
申 入 候 、 恐 々謹 言
牛
十月十 口
南源六殿
いず れ も 欠 年 文 書 で あ り 、史 料 ニー ① は 蜂 須 賀 蓬 庵 の祖
一84一
境 を め ぐ って 蜂 須 賀 氏 と 長 宗 我 部 氏 の 間 で緊 張 関係 が 生ず
長 宗 我 部 氏 は 九 州 で の島 津 氏 と の戦 いに参 加 し て お り 、 国
者 の 間 で 比 定 に 一年 のず れ が で てく るが 、 天 正 十 四年 に は
る こ と を み れ ば 、 天 正 十 四年 のも の と いう こと に な る 。 両
三通 が ﹃南 家 由 緒 書 ﹄ 5項 の付 属 文 書 と し て 収 め ら れ て い
正 十 三年 欺 ﹂ と 注 記 し てお り 、 史 料 ニ ー① に つ い ては こ の
てま ち が いな い。 し か し 、史 料 三 に つ い て ﹃民 政 資 料 ﹄は ﹁天
之 出勢 (
陣 )﹂ で 共 通 し て お り 、 同 時 にだ さ れ た も の と み
史 料 三 と 史 料 ニ ー① は 同 一日付 で あ り 、 内 容 も [± 佐 表
と の 国 境 に出 陣 し た こと は後 に ま で 語 り 伝 え ら れ て いた 。
乱 国 仕 に 付 ﹂ と あ る のが 上 記 の動 き を 指 し 、 近 藤 家 が 土 佐
能 被 為 ⋮ ⋮ 在 所 之 者 共 召 連 罷 越 彼 地 ⋮﹂ と あ る が 、 ﹁土 州
意 彼地御加勢 二罷越様 にと御書 被為成下、其上拍高拝領可
併諸事改役被為仰付 置候処 、土州乱国仕 に付、蓬庵様為御
書に ﹁
私先祖 五代 已前之近藤 助左衛門義、土州境目お さえ
山に接 して いる。 同じ近 藤家所蔵 の近藤家八代孫兵衛 の控
す る阿 波 国 西 部 の山 間 部 を さ す 。
要 な 道 路 の 一つに な って いる 。 ﹁山 分 ﹂ は ± 佐 と 国境 を 接
豊 永 郷 岩 原 ) に抜 け る道 は古 く か ら阿 波 と 土 佐 と を 結 ぶ 主
祖 谷 山 村 有 瀬 を さす 。 有 瀬 か ら高 知 県 大 豊 町 岩 原 (近 世 の
ろ う 口﹂ であ る。 つぎ に ﹁
有 瀬 ﹂ は土 佐 と国 境 を 接 す る西
あ り (徳 島 県 側 か ら は 笹 越 え と 呼 ば れ て いる )、この 峠 が ﹁に
か のぼ り東 祖 谷 山 村 阿佐 に抜 け て いく道 にあ る国 境 の峠 で
峠 が あ る。 土 佐 側 か ら いう と物 部 村 大 栃 から 上 韮 生 川 を さ
て い る山 間部 地 域 で 、韮 生 と東 祖 谷山 を結 ぶ 峠 と し て矢 筈
指す。上韮生 (
藩 政 時 代 の韮 生 郷 ) は東 祖 谷 山 と 境 を 接 し
こ の う ち ﹁に ろ う ﹂ は 現 高 知 県 物部 村 上 韮 生 (に ろう ) を
し、そ の際 は ﹁有 瀬 口﹂ へ いく こ と にな る、と 述 べ て いる 。
出 撃 す べ き で あ る と の こと であ る ので 、 そ の よう にな ろう
部 ﹂ の方 に 行 く べき で あ ると 申 し あ げ た が 、 ﹁山 分 ﹂ よ り
こと に つ い てそ の労 を ね ぎ ら った 上 で、我 々 (
牛 田)は ﹁
海
ニ ー ③ に よ る と 、 前 半 で源 六 が ﹁に ろ う 口﹂ よ り出 陣 し た
問 題 は こ の ﹁± 佐 表 ﹂ が ど こを 指 す のか であ る が 、史 料
争 は 天 正十 三年 の 四 国 国 分 に か か わ って起 こ って いる 紛争
外 考 え ら れ な い。 つま り ﹃南 家 由 緒 書 ﹄ 5 項 の 阿土 国境 紛
木 頭 と ± 佐 国 槙 山 は 四 つ足峠 で境 を 接 し て いる 。 ﹃長 宗 我
が 木 頭 の近 藤 氏 に あ て てだ さ れ て い る こ と に 注 目 し た い。
そ し て [海 部 ﹂ は海 部 郡を 指 す が 、 史 料 三 の軍 勢 催 促 状
る と す れば 、 天 正 十 三 年 に な さ れ て い る 四 国 国分 の段 階 以
で あ り 、 史 料 二 の 三 通 は そ の関 連 史 料 と み る べ き で あ る 。
一85一
堂 ﹂ が 現存 す る 四 つ足 堂 であ ると 考 え ら れ、 この 峠 も 境 の
部 地 検 帳 ﹄ に ﹁阿 波 大 堺 ハ傍 二峯 堂 限 ﹂ とあ り、 この ﹁峯
る と し て い る のが 妥 当 であ ろ う 。
城 谷 村 史 ﹂ の著 者 であ る近 藤 辰 郎 氏 が 十 三 年 に 起 こ って い
後 に そ れ への抵 抗 と し て起 こ った と み る べ き で あ り 、 ﹃山
由 緒 書 ﹃大 野 素 性 記 ﹄ に、 ﹁天 正 十 三年 家 政 公 御 入 国 の砺 、
す る のは 由 緒 書 と 口碑 の み で あ るが 、 まず 大 野 名 大 野 氏 の
に お いて も 入 部 反 対 運 動 が 起 こ って いる。 史 料 と し て存 在
さ ら に 、 祖 谷 山 に隣 接 し 同 じく 土 佐 に接 し て いる 山 城 谷
二段 階 に わ け る ことが でき ると いう こと であ る。す な わ ち、
地 を 舞 台 に し て起 こ って い る反 対 運 動 は 時 間 的 ・地 域 的 に
こ って い る と いう こ とが あ き ら か にな った 。 これ は 四国 山
入 部 反 対 運 動 お よび そ れ と 密 接 にか か わ った 国 境 紛 争 が 起
よ び 南 部 の木 頭 山 な ど 阿 土 国 境 沿 い の地 全 域 を ま き こん で
化 し た 直 後 の九 ∼ 十 月 段 階 に、 西 部 の山 城 谷 と 祖 谷 山 、 お
以 上 、 仁 宇 谷 ・大 粟 山 ・種 野 山 で の入 部 反 対 行 動 が 沈 静
地 と し て紛 争 の焦 点 の 一つと な って お り、 そ れ故 に 近 藤 氏
り 被 為 召 候 得 共 、 不 奉 応 御 国命 、 ⋮ 此 時 大 野 左 兵 衛 、 御 下 知
が 出 陣 を命 ぜ ら れ て いた 可 能 性 が 高 い。
に 従 い罷 出 、 右 悪 党 之 内 へ方 便 を 以 て 、 人 質 を 取 り 、 降 参
第 一段 階 は 入部 直 後 か ら は じま り 九 月 初 頭 には 沈 静 化 を み
召 し だ さ れ 一揆 対 策 に あ た って いる 。 さ ら に藩 政 期 初 期 に
は九 月末 か ら 十 月 に か け て 顕在 化 し て い る、 阿 土 国 境 紛 争
て いる仁 宇 谷 ・大 粟 山 ・種 野山 で の動 き であ り 、 第 二段 階
ロ 仕 ら せ 、 ⋮﹂ と あ り、 山城 谷 の ± 豪 に 抵 抗 さ れ 、 大 野 氏 が
は 山 城 谷 の 一部 に な って いた 三 名 村 の西 宇 氏 (西 宇 名 )・
土 佐 と 直 接 国 境 を 接 す る地 で の動 き であ る。
反対運動 の基盤としての中世惣村と 一両具 足
つぎ に入 部 反 対 運 動 が 起 こ って いる 四 国 山地 と いう場 の
第 二章
と 一体 と な って進 行 し て いる祖 谷 山 ・山 城 谷 ・木 頭 山 な ど
大 黒 氏 (上 名 )・藤 川 氏 (下 名 ) も 蜂 須 賀 氏 入 部 に 際 し 蜂
ぼ む
須 賀 側 に 組 織 さ れ た 豪 族 であ り、 三 氏 と も 由 緒 書 が あ り 、
いつ れ も 反 対 派 豪 族 の 切 り 崩 し へ の参 加 が 記 述 さ れ て い
る。 そ れ が 起 こ って いる 年 に つ い て、 ﹃大 野 素 性 記 ﹄ は 天
と と し 、 西 宇 氏 由 緒 は 触 れ て いな い。 し か し、 こ のよ う な
特 質 に つい て み てお き た い。 こ の場 の特 質 と し て 二点 を あ
正十 三年 の こと と し 、 大 黒 氏 ・藤 川 氏 の由 緒 は十 四年 の こ
行 動 は ﹃大 野 素 性 記 ﹂ が の べ て いる よう に蜂 須賀 氏 入 部 直
一86一
げ る こと が でき る。 そ の第 一点 は こ の場 では 中 世 山 村 が 豊
物 成 之 儀 は 依 年 之 風 儀 共 給 人 と 相 対 可 有 納 所 候 、依如件
天 正 十 七 年 十 一月 二十 五 日
武 藤 口 口 (花 押 )
か に 展 開 し て い る こと で あ る 。 第 一段 階 の運 動 が 展 開 し て
いる 種 野 山 は 鎌 倉 末 期 に は東 山 ・戸 山 ・三 木 な ど お お むね
高 木 口 口 (花 押 )
いう 同 一日 付 の合 計 三通 の藩 主 感 状 が ふ く ま れ て い る。 こ
地 に か か わ る 史 料 であ り 、 宇 山 孝 人 氏 は ﹁中 世 以来 の年 貢
これ は 種 野 山 を 構 成 す る山 の 一つ別 枝 山 の天 正十 七 年 検
別枝山惣中
後 の藩 政 村 に継 承 さ れ て いく 名 に よ って 構 成 さ れ て い る
が 、 こ の種 野 山 に つ い て、 ﹃大 日 本 史 料 ﹂ に 収 め ら れ て い
の う ち 住 友 彦 兵 衛 ・住 友 五郎 右 衛 門 ・伊 澤 志 摩 宛 、 お よ び
量 を勘 案 し な が ら 、 領 主 と 有 力 農 民 と の相 対 に よ り村 高 が
る 第 一段 階 関 係 史 料 の な か に 、 (天 正 十 三 年 ) 九 月 二 日 と
み つき ・か し 原 名 主 ・百姓 中 宛 の 二通 は ﹁仁 宇 ・大 粟 百 姓
確 定 し て い った も の﹂ と す る 。 こ こに に み ら れ る検 地 に際
状 に つ い て、 ﹁み つき ﹂ は 三木 山 、 ﹁か し 原 ﹂ は 柏 原 山 と も
映 と み て よ い。 三木 山 名 主 百 姓 中 と 柏 原 山 名 主 百 姓 中 は 、
高 を定 め て いる のは 、 中 世 以 来 の惣 村 の自 立 性 の高 さ の 反
け 共 、 非 儀 之 働 ﹂ に対 す る鎮 圧行 動 に 加 わ った こと への感 状
し て領 国 支 配 者 を 直 接 村 内 部 に は いら せず 両 者 の折 衝 で村
よば れ て お り 、いつ れ も 種 野 山 を 構 成 す る山 (
村 )であり、
と も に 種 野 山 を 構 成 し て いる 山 (村 ) であ り 、 別枝 山惣 中
め で あ る 。 こ のう ち ﹁み つき ・か し 原 名 主 百 姓 中 ﹂ あ て の感
系 譜 的 に は 鎌 倉 末 期 の 三木 名 ・柏 原 名 に 連 な る。 そ れ と 関
と 同 じ く 村 高 を 給 人 と の相 対 で決 め る 自 立 性 を も って いた
村 の集 合 体 、 そ の意 味 で惣 村 連 合 と し て の性格 を も って い
政 治 的 に も 自 立 的 に行 動 でき る 山 (村 ) と よば れ る中 世 惣
こと か ら み て種 野 山 は 年 貢 上 納 や 検 断 の主 体 と な り 、 か つ
治 的 な 判 断 で親 蜂 須 賀 氏 の側 に た って行 動 し てお り 、 この
こと は ま ち が いな い。 三木 山 ・柏 原 山 は 山 (村 )独 自 の政
連 し て 史 料 四を み て おく 。
史料 四
当 山預書物之事
相定候
但下別枝共 に
一弐 百四拾参石
一87一
る と み て よ い こと に な る 。
さ ら に、 貞 光 川 流 域 山 間 部 に 所 在 す る 口山 は 天 正十 七 年
検 地 段 階 で は 尾 山 名 ・宮 内 名 な ど 合 計 十 六 個 の名 か ら構 成
のた だ な か にあ る白 地 城 (徳 島 県 三好 郡池 田 町)であ った 。
ロ さ ら に元 親 軍 団 の基 幹 にな って いる のは 一両 具 足 と よば れ
る 丘ハ
農 未 分 離 の農 民 的 武 士 であ った 。
そ の名 高 は農 民 ら と の相 対 で定 め ら れ て いた こと を あ き ら
は 口 山 を 構 成 す る名 の 名 高 の総 計 と し て 計 算 さ れ て お り 、
立 ってお り 、 お のお の に名 本 が お か れ て いた 。 天 正 十六 年
沢 繁 氏 によ ると こ の郷 は 近 世 にお い ては 十 四 の村 か ら 成 り
を み てお く 。 木 頭 山 と 境 を 接 し て いる 槙 山 郷 に つ いて 、秋
一両 旦ハ
足 に つい て、 土 佐 国 香 美 郡 槙 山 郷 ・韮 生 郷 の場 合
か に し て いる 。 つま り 口山 を 構 成 す る十 六 個 の名 は そ れぞ
の長 宗 我 部 地 検 帳 によ ると 、 当 郷 は 十 三 人 の給 人 の給 地 が
さ れ て い る が 、 宇 山 氏 は こ の検 地 に際 し、 口山 全 体 の村 高
れ が 種 野 山 の 別 枝 山 と 同 じ く 惣 中 であ り、 口 山 は そ れ ら 惣
全 体 を 覆 って おり 、 七 町 か ら 五 反 ま でと 所 領 規 模 の差 は あ
村 の連 合 体 と し て の惣 村 連 合 にな って いる。
郷 など 四 国 山 地 全 域 が 戦 国 末 期 に は山 ・谷 ・郷 と 名 称 は 異
種 野 山 ・祖 谷 山 ・山 城 谷 ・仁 宇 山 、 土 佐 側 の韮 生 郷 ・豊 永
転 戦 し て いた。 さら に、 槙 山 と 谷 を 隔 て てお り 、 か つ東 祖
国 親 の代 か ら始 ま ってお り 、 四国 統 一戦 では 阿 ・讃 両 国 を
足 であ る。 こ れら 槙 山 衆 の長 宗 我 部 氏 への服 属 は 元 親 の父
るが 、 主 力 は所 領 一∼ 三町 余 の五 名 であ り 典 型 的 な 一両 旦ハ
な って いる が 、 名 を 構 成 要 素 と し た中 世 的 な 惣 あ る いは 惣
谷 山 とも 境 を接 し て い る韮 生 谷 (韮 生 郷 ) に つ い て、 同 地
平安 時 代 末 以 来 の山 所 領 の発 展 を ふ ま え れば 、 阿 波 側 の
村 連 合 が 高 度 な 発 達 を と げ て い る地 域 に な って いた と す べ
各 名 は 一名 11 一掴 主 (
給 地 で はな く 、 藩 主 直 轄 地 ) に な っ
検 帳 に よ る と十 二名 十 二村 で構 成 さ れ 、 八 町 ∼ 五 反 規 模 の
四 国 山 地 と いう 場 の特 質 と し て第 二 に み て お く 必 要 のあ
て いるが 、 これ ら拍 主 11名 主 層 も 野 中 氏 を 寄 親 と す る 一両
きである。
る の は 長 宗 我 部 元 親 と のか か わ り で あ る 。 元 親 は 天 正 十 年
具 足 に な って いた とす る。
十 三 年 の時 点 では 伊 予 を 攻 撃 中 で 、 ほぼ 四 国 一円 を 手 中 に
同地 検 帳 を 分 析 し た間 宮 尚 子氏 は 四十 四名 (村 ) を ① 名 本
ま た 、西 祖 谷 山 と 境 を 接 し て いる 長 岡 郡豊 永 郷 に つい て、
め (一五 八 二) の中 富 川 の戦 いを 契 機 に阿 波 ・讃 岐 を 制 圧 し 、
し て いた 。 元 親 が 四国 制 覇 の拠 点 と し て いた のは 四国 山 地
ii
すけをひ殿
長宮 元 親 判
率 いら れ る名 、 ③ 本 地 登 録 人 が 複 数 の給 人 よ り な る村 に分
く
殿
ま口
几
叉
ー
洪
が 本 地 登 録 人 で あ る名 (村 )、 ② 単 独 の 本 地 登 録 人 に よ り
類 し 、 こ のう ち の③ が 給 人 屋 敷 で構 成 さ れ る村 であ り、 給
西
人 の延 べ人 数 は七 十 五 名 に のぼ る と す る。 氏 は 在 地 小 給 人
狭 は 元 親 に仕 え、 天 正初 年 の讃 岐 藤 目 の戦 い に参 加 し た と
木 名 の本 地 登 録 人 (
名 主 ) で あ り 、 か つ先 代 の 三谷 佐 渡 若
て お き た い。 祖 谷 山 は 豊 永 郷 と 同 じ く 名 を 基 本 に構 成 さ れ
山 に お け る 高 取 名 主 家 であ る西 山 家 の由 緒 書 で の記述 を み
こ のよ う な ± 佐 国 側 の状 況 と か か わ って 、 史料 五 の祖 谷
の 三谷 二郎 三郎 に つ いて 、 給 人 屋 敷 一反 を も つと と も に筏
いう 伝 承 が あ る と こ ろ か ら 、 二郎 三 郎 (あ る いは そ の親 の
て お り 、 か つ香 長 平 野 か ら 白 地 城 に 至 る 道 筋 に あ る点 で豊
ね 若 狭 ) に代 表 さ れ る七 十 名 余 の在 地 小 給 人 は 一両 旦ハ
足 とみ
永 郷 と 同 じ であ る 。 こ の祖 谷 山 で西 山 ・久 保 ・菅 生 の諸 家
代 之 曾 祖 父 菅 生 孫 一郎 、久 保 源 次 郎 、 西 山 主 殿 助 三人 旗 下
一、 土 佐 国 長 宗 我 部 宮 内 少 輔 元 親 、 四国 分 国 之 節 、 私 共 六
史 料五
親 のも と で 四国 各 地 を 転 戦 し て いる 点 で、 土 佐 の槙 山 ・韮
憶 さ れ て いる と いう こと であ る が 、 西 山 家 な ど の先 祖 は 元
親 のも と で先 祖 が 戦 って いた こと は 誇 る べ き 事 績 と し て 記
あ た え ら れ た と し て い る。 これ は 祖 谷 山 名 主 に と って 、 元
ロ な し てよ いと す る。
二加 リ 、 土 佐 、 井 御 當 国 、 伊 予 、 讃 岐 二而 知 行 給 候 、 右 三
生 の 一両 具 足 と 異 な ると ころ のな い存 在 と み てよ い。 ま た
が 元 親 の も と で土 佐 ・当 国 (
阿 波 )・伊 予 ・讃 岐 で知 行 を
人 之 者 共 へ、 元 親 β 御 書 、 西 山 内 蔵 進 、 今 以 所 持 仕 、 写左
西 山 家 の みな らず 、 同 じ 祖 谷 山 の高 取名 主 で あ る 菅 生 家 ・
な お 、 祖 谷 山 と 同 じ く ± 佐 と 国 境 を 接 し 、 白 地 城 への香
両 旦ハ
足 と し て元 親 軍 団 に加 わ って いた と 推 測 さ れ る 。
久 保家 も 参 加 し た と な ってお り 、 祖 谷 山 豪 族 の相 当 数 が 一
こー
十
⊥
侯
ひ
→
看
さ た み つ ロ へ被 打 出 候 由 御 心 遣 不 及 是 非 、 万若 殿 請 合 を
以 、 山 分 へん こ の御 機 遣 尤 専 用 候 、 連 々 入 魂 志 るし な る べ
し、猶自是可申、謹言
一89一
氏 と 反長 宗 我 部 氏 と に 分 裂 し て いく が 、 そ れ を 反 映 し て 大
な が りが 強 調 さ れ て いる も のが 多 い。 大 西氏 は親 長 宗 我 部
書 ・伝 承 に つ い ては 、 池 田を 拠 点 に し て いた大 西 氏 と の つ
在 地 豪 族 を そ の基 盤 と し て いる 惣 村 ・惣 村 連 合 か ら 切 り は
国 山 地 全 域 を 軍 事 力 の基 盤 と し て重 視 し 、 そ こ で活 動 す る
土 佐 国 内 部 に限 定 さ れ た 存 在 と は いえ な く な る 。 元 親 は 四
阿 波 側 四国 山 地 の こ のよ う な 動 向 を み る と 、 一両 具 足 は
山 地 内 全 域 で みら れ た こと を 反 映 し た も の であ ろ う 。
西 軍 の 一部 と し て長 宗 我 部 氏 と 戦 った と い う伝 承 (漆 川 城
な す こと な く 、 ]両 旦ハ
足 と し て組 織 し て いる と み る べ き で
長 平 野 か ら の 通 路 に な って い る山 城 谷 に お け る 諸家 の由 緒
主 大 西 頼 光 の 伝 承 )、 逆 に 親 長 宗 我 部 派 に 属 し て、 土 佐 軍
ある。
ヨ 惣 村 連 合 と し て の 祖 谷 山 と ﹁堺 百 姓 ﹂ の 論 理
宗 我 部 氏 と密 接 にか ら ん でな さ れ て い た こと が ﹁± 州 人 相
の で あ る が 、 大 粟 山 ・仁 宇 山 な ど 第 一段 階 の 反 対 運 動 が 長
寺 名 へ出 張 ヲ 構 居 候 故 、 ⋮﹂ と あ る。 後 世 に 編 纂 さ れ た も
門蒙 仰 大 粟 へ罷 超 候 処 、 徒 党 人 大 勢 之 上 へ土 州 人 加 り 上 山
さ ら に、 ﹃阿 淡 年 表 秘 録 ﹄ 天 正 十 三 年 項 に 燗兼 松 惣 右 衛
根 底 か ら 否 定 さ れ る危 機 に迫 ら れ る こと に 対 す る 抵 抗 と い
て活 動 す る こ と で保 証 さ れ て いた 惣 村 を 基 盤 と す る 体 制 が
対 運 動 に つい て は、 国 分 によ り 元 親 支 配 下 の 一両 旦ハ
足とし
下 に入 る こ と にな る。 そ の点 か ら いう と 、 蜂 須 賀 氏 入 部 反
国 山 地 の多 く の部 分 が 元 親 か ら 切 り 離 さ れ 蜂 須 賀 氏 の支 配
そ のよ う な な か で 四国 国 分 が な さ れ 、 白 地 城 を ふ く め 四
1尾 形 家 由 緒 書 1
加 り ﹂ と いう 表 現 に な ってあ ら わ れ て いる 可 能 性 が 高 い。
う 側 面 か ら み て おく 必 要 が で てく る 。 これ に つ い て、 祖 谷
第三章
の先 鋒 と し て 戦 った と いう 伝 承 (下 名 の大 黒 蔵 之 丞 の伝 承 )
な ど が 入 り交 じ っ て い る。 し か し 、 天正 期 の 元親 の 四 国 制
覇 の段 階 で は 大 西 氏 も 全 体 と し て長 宗 我 部 氏 に 服 属 し てお
り、 山 城 谷 の豪 族 も 元 親 のも と で 一両具 足 と し て 行 動 し て
元親 軍 団 への 一両 旦ハ
足 と し て の参 加 は± 佐 と 国 境 を 接 す る
山 の動 向 を 中 心 に み て いく が 、 史 料 面 では 一宇 山 と 同 じ 貞
いた と み て よ い。
祖 谷 山 ・山 城 谷 に止 ま るも の で は な く 、 国 境 か ら や や 離 れ
光 川 流 域 山 間部 にあ る美 馬 郡 半 平 山 の ﹃尾 形 弥 七 郎 家 由 緒
ね て いる 第 一段 階 の反 対 運 動 が 起 こ って いる 地 を ふ く め 四国
90一
か った 史 料 で あ る が 、 ﹃南 家 由 緒 書 ﹂ と つき あ わ せ る と 、
書 ﹂ が 注 目 さ れ る。 こ れ は従 来 取 り あげ ら れ る こと の少 な
談 仕 、 諸 役 御免 被 仰 付 候 ヘ ハ和 順 可仕 旨 、然 所 ± 佐 よ り に
上 ハ跡 ヲ 仕 切討 取 申 躰 二取斗 り 居 申 候 へ共 、 彼 山 侍 共 へ対
佐 義 不 取 敢 祖 谷 山 へ罷 越 候 所 、 境 目 忍 弐 百騎 斗 罷 在 入 込 候
ゐ 国 分 に 対 応 し て祖 谷 山 惣 村 連 合 が そ れ に ど う 対 応 す べく 動
ろう と申 峠 迄 加 勢 数 百 人 寄 せ来 候 得共 、祖 谷 山 裏 返 り 候 二
内 容 を 整 理す る と つぎ のよ う に な る。
略) ・
之 旨 上 意 二而 、弥 七 郎 義 ハ宗 心 様 よ り 御 結 構 被 仰 付 、⋮ (後
被 遂 聞 召 、 早速 被 為 達 上 聞 二候 ヘ ハ、宗 心様 御 智 謀 御 手 柄
付 土 佐 勢 引申 候 、 和佐 ・弥 七郎 脇 御 城 江 罷出 右 之 段 言 上 仕
い て いる か が 浮 か び 上 が ってく る点 で 貴 重 な 史 料 であ る。
史料 六
此 者 元 祖 豊 後 国 尾 形 惟 義 源 平 兵 乱 以後 当 国 へ罷 越 、 末 孫
尾 形 弥 七 郎 其 子 甚 丘ハ
衛 其 子彦 十 郎 迄 三好 織 部 へ相 仕 、 美 馬
郡 貞 光 村 之 内 加 路 う と 名 、 一宇 山 之 内 樫 地 、 赤 松 、 鈴 目 地
以 上 四 ヶ 所 領 知 仕 候 所 、 土 佐 之 乱 瑚 三好 家 美 馬 九 郎 二被 討
取 囲イ申趣承知仕旨申上候処、相静申方 便如何哉と御意 二
山 二而 入 口三 ヶ 所 な ら て ハ無 御 座 、 御 入 込 之 上 ハ右 三 ヶ 所
召 候 所 、 当 孫 七 郎 御 呼 出 シ彼 山 ノ義 御 尋 に 付 申 上 候 ハ、 瞼
光 村 迄 御 発 向 之 所 、 ± 佐 よ り 加 勢 御 座 候 而 、 御 難 渋 二被 思
以 後 、 祖 谷 山 之 義 御 国 へ相 随 不 申 二付 為 御 討 静 、 宗 心 様 貞
び だ さ れ、 祖 谷 山 に つ いて御 尋 ね が あ った。
の の、 ± 佐 よ り の加 勢 で難 渋 し て いた。 そ の際 弥 七 郎 が よ
た が わず 、 宗 心様 (
稲 田家 初 代 ) は貞 光 村 ま で発 向 した も
2
十 郎 が 討 ち 死 し た。
部 に 仕 え 、 ± 佐 の乱 に際 し て (元 親 の 阿 波 侵 攻 )、 尾 形 彦
尾 形 家 の先 祖 は豊 後 国 か ら当 国 に来 て、 子孫 は 三好 織
付 、尚 又申 上 候 ハ、小 野寺 和 佐 与 申 者 私 不 遁 者 二而御 座 候 、
3
1
彼 者 ト 両 人 一先 祖 谷 山 江 被 遣 候 ヘ ハ、 申 談 罷 越 相 計 見 可 申
い の で、 こ の 三 カ 所 を 取 り 囲 む べき こと を 申 し 上 げ た 所 、
候 節 、 右 彦 十 郎 戦 死 仕 候 、 其 子当 弥 七 郎 義 、 蓬 庵 様 御 入 国
と 言 上 仕 、 則 和 佐 被 召 呼 両 人 諜 計 ヲ 以相 静 候 様 被 仰 出 、 労
相 静 め る方 策 如 何 と の 問 いが あ り 、 小 野寺 和 佐 と両 人 で祖
弥 七 郎 は、 祖 谷 山 は 険山 で 入 り 口三 カ所 以外 は入 れ な
尾 形 彦 十 郎 の 子弥 七 郎 は蓬 庵 様 入 国 に際 し祖 谷 山 が し
御 相 談 御 請 仕 、 宗 心 様 ニ ハ脇 御 城 へ御 帰 城 、 右 弥 七 郎 ・和
一91一
い つでも 討 ち と れ る よ う に し てお いた 上 で、 彼 山 の侍 共 と
名 は祖 谷 山 に 罷 り こし 、境 目 に 二〇 〇騎 ば か り を し のば せ 、
4
そ れ に 呼 応 し た も の であ ろ う 。 つま り 、 入部 直 後 に蜂 須賀
状 と 同 趣 旨 の催 促 状 が 三 好 郡 に もだ さ れ て お り 、大 西氏 は
て いる こと に な る 。 お そ ら く 、 上 記 史料 ニ ー① の 軍勢 催 促
こ で大 西 氏 が ﹁祖 谷 之 役 ﹂ に お いて 蜂 須賀 側 に立 って動 い
平 野 地 帯 か ら 祖 谷 山 に 入 る 重 要 な 交 通 路 に な って お り、 そ
﹁対 談 ﹂ し 諸 役 御 免 を 仰 せ つけ ら れ れ ば ﹁和 順 ﹂ す る旨 を
氏 は 脇 町 の稲 田氏 や 池 田 の牛 田 氏 の指揮 下 に美 馬 郡 ・三好
谷 山 へ遣 し て も ら え れば 相 計 う と 言 上 し た 。
と り つけ た。 土 佐 よ り ﹁に ろ う ﹂ と いう 峠 ま で加 勢 が 数 百
郡 の在 地 豪 族 の連 合 軍 を 作 り あげ てお り 、 尾 形 ・南 ・大 西
弥 七 郎 と和 佐 と で 相 静 め る よ う にと の命 令 が あ り、 両
人 き て いたが 、祖 谷 山 が ﹁裏 返 り候 ﹂ に つき 引 い て い った 。
諸 家 は そ の 一角 を 担 って いる の であ る 。
﹃尾 形 家 由 緒 書 ﹄ 2∼ 4 項 は そ のよ う な 状 況 のな か で祖
の べ て い るか であ る 。 検 討 し てみ る と 、 まず 4 項 の ﹁
彼の
2 ∼ 4 項 が い つ起 こ って い る のか 年 月 は記 さ れ て いな い
か ら み て 、 半 平 山 を 拠 点 に し て い る尾 形 家 が 天 正十 三年 九
山 の侍 共 ﹂ に つい て、 祖 谷 山 は 惣 村 と し て の機 能 を も つ名
谷 山 に 入 った 豪 族 連 合 軍 の行 動 を 尾 形家 に 引 き つけ て 記述
月末 の 出 陣命 令 に 応 じ 蜂 須 賀 側 と し て出 陣 し た際 の 行 動 を
を 単 位 に構 成 さ れ た 惣 村 連 合 を 形 成 し てお り ﹁侍 共 ﹂ は惣
が 、 2 項 の内 容 と 史 料 ニー ① の ﹁± 佐 表 ﹂ への藩 主 の出 陣
記述 し て いる も のと み てよ い。 そ の際 、 尾 形 弥 七 郎 は 小 野
村 の指 導 者 と し て の名 主 ク ラ ス の在 地 豪 族 を 指 す と み て ま
し て いる も のと み な し う る 。 問 題 は そ れ がど こま で事 実 を
寺 和 佐 と 両 人 で祖 谷 山 に入 って い るが 、 この小 野寺 和 佐 が
ち が いな い。 注 目 す べき は ﹁侍 共 ﹂ が 一体 と な って 行動 し
命令 が ﹁
貞 光 ・弥 (祖 谷 ) 谷 中 ﹂ 宛 て にな って いる と ころ
﹃南 家 由 緒 書 ﹄ に あ ら わ れ て い る 一宇 山 の南 (小 野 寺 ) 源
て い る こと であ る。 同 じ 反 対 運 動 のな か でも 種 野 山 は そ の
これ と 関 連 し て、 ﹃阿 波 志 ﹄ 三好 郡 氏 族 編 に ﹁大 西 上 野
これ はそ れ 以外 の種 野 山 を 構 成 す る 山 は 長 宗 我 部 氏 側 に た
内 部 の 三木 山 ・柏 原 山 に 蜂 須 賀側 の感 状 が だ さ れ て い るが 、
れ 六 で あ る こと は ま ち が いな い。
介 居 西 井 内 、 子 義 武 称 九 郎 左 衛 門、 祖 谷之 役奉 命 絶 運 輸 之
つか 中 立 の立 場 を と るか し てお り 、 種 野 山 が 惣 村 連 合 と し
ハ 道 、 孫 某 為 里 正 、 ⋮﹂ と あ る。 井 内 谷 は貞 光 谷 と な ら ん で
一92一
れ の利 害 によ り独 自 の道 を 選 択 し て いる 。 そ れ ら と 対 比 す
族 た ち が 両 派 に わ か れ て 抗 争 し てお り 、 個 々 の名 が そ れぞ
て 一体 化 した 運 動 を 展 開 し た の では な い。 山 城 谷 でも 、 豪
であ る。 祖 谷 山 に も ど る 。 豪 族連 合 軍 が祖 谷 山惣 村 連 合 を
で蜂 須 賀 氏 は 折 衝 に よ る 組 織 化 を めざ し て いる と いう こ と
も な う も の であ る こと は ま ち が いな い ので あ り 、 そ の な か
谷 と 同 じ方 針 を と ろ う と し て いる こと の あ ら わ れ と み て よ
武 力 に よ って 制 圧 す る の では な く 、話 し合 いに よ る蜂 須 賀
さ ら に 同 じ 4項 で、 豪 族 連 合 軍 が あ え て武 力 を 前 面 にだ
い。 尾 形 家 が 主 体 と な って折衝 し た よ う に えが か れ て い る
る と 、 祖 谷 山 の場 合 惣 村 連 合 と し て 一体 と な って動 い て い
さず に 、 折 衝 によ る蜂 須賀 氏 帰 属 への働 き か け を し て い る
が 、 山 城 谷 と 同 じ く 藩 の方 針 が あ り 、 そ の方 針 のも と で動
氏 側 への帰 属 を 模 索 し て いた こと は祖 谷 山 に お いても 山 城
と 記 さ れ て い る こ と に つ いて 、 同時 点 の山 城 谷 と の対 比 で
い て いる の で あ ろ う 。
る と み てよ く 、 そ の結 束 は強 固 で あ った 。
み て お く 。 山 城 谷 に 口碑 で あ るが つぎ のよ う な 伝 承 が 残 さ
柄 と な り 、 明 治 維 新 に至 るま で大 野家 の 人 々 は 九 郎 右 衛 門
右 衛 門 を 狩 り に託 し て誘 殺 し た、 これ 以 後 両 家 は 仇 敵 の間
た が わず 乱 民 と と も に 反抗 し た、 そ こで 大 野 左 兵 衛 は 九 郎
尋、為
町 之 御 城 へ、 早 々 被 召 出 、 三 人之 者 共 、系 図之 儀 被 為 遊 御
久 保 源 次 郎 、 西 山 主 殿 助 三 人之 者 共 、蓬 庵 様 入 国之 節 、 脇
山 奮 記 ﹂ 所 収 の西 山 家 由 緒 書 に ■六 代 之 先 祖 菅 生 孫 一郎 、
そ し て話 し 合 い の結 果 祖 谷 山豪 族 は ﹁
諸役免除﹂を条件
宅 の近 傍 を 避 け て通 行 し た と いう も の で あ る 。 近 藤 辰 郎 氏
さ れ て いる こと に 注 目 し た い。 西 山 など 三家 は蜂 須賀 氏 入
れ て いる 。 山 城 谷 相 川名 主 九 郎 右 衛 門 は 大 野 名 主 大 野 左 兵
は これ に つ い て、 ﹁蜂 須 賀 氏 は こ の 騒 動 に 対 し て は つと め
部 に際 し て 、脇 町 城 に 召 出 さ れ ﹁
御 意 ﹂ と し て そ の名 主 職
に蜂 須 賀 氏 側 に 組 織 さ れ た 。 これ に つ いて ﹃宝 暦本 ・祖 谷
て雅 量 を し め し 、 従 う 者 は許 しあ え て残 党 の検 挙 を 厳 にせ
保 持 を 認 め ら れ て いる 。 脇 町城 は稲 田氏 の 居城 で あ り、 西
衛 と は 主 従 関 係 にあ ったが 、 蜂 須賀 入部 に 際 し ては 命 にし
ず 多 く は 不 問 に附 し た よう であ る﹂ と し 、 反 対 派 を 最 大 限
山 家 な ど が 蜂 須 賀 氏 側 への組 み こま れ を受 け 入 れ 、豪 族 連
り 御 意 、 私 共 持 懸 之 名職 拝 領 被 為 仰 付 旨 、 ⋮﹂ と記
取 り 込 ん で いく こと が 藩 側 の方 針 で あ った と し て い る。 土
合 軍 の指 揮 に あ た っ て いる 稲 田家 を 通 し て藩 主 の安 堵 を え
佐 と 国 境 を 接 し て い る山 城 谷 で の こ の紛 争 が 四国 国 分 にと
一93一
て いる と いう こと であ ろ う 。 これ は西 山 家 など 三家 のみ で
は じ め て大 名 間 の境 界 が 画 定 さ れ 、 領 域 的 な 広 が り を も っ
そ の よ う な 場 合 大 名 間 の紛 争 が 最 終 的 な 決 着 を み た と き 、
備 中 国 南 部 地 域 を と り あ げ る 。 こ の地 域 は 地 侍 層 の地 縁 的
は な く 、 祖 谷 山 豪 族 全 体 と し て豪 族 連 合 軍 と折 衝 を く り 返
さ ら に 長 宗 我 部 氏 が 加 勢 す べく 軍 勢 を ﹁に ろ う 口﹂ を 通
結 合 によ り 秩 序 が 保 た れ て いた 地 域 と な ってお り 、 天 正 七
た ﹁境 目 ﹂ は解 消 さ れ る の であ り 、こ れが 国分 であ ると し 、
し て送 り こ も う と し て い る こ と に つ い て、 ﹃南 家 由 緒 書 ﹄
年 (一五七 九 ) 頃 か ら の毛 利 氏 ・宇 喜 多 氏 の衝 突 のな か に
す な か で 、 蜂 須 賀 氏 側 へ帰 属 し て い った こと の 一端 を し め
5 項 で 祖 谷 山 に 入 った 南 八 蔵 ら は ﹁祖 谷 山 境 目﹂ の山 に い
お い ても 、 地 下 人 一揆 と いう 形 で相 対 峙 す る 両 陣 営 の いず
そ の例 と し て織 田 (曲
豆臣 ) 氏 ・毛 利 氏 の角 逐 の場 で あ った
る± 佐 勢 と 対 峙 し た と あ る こと と 対 応 す る。 す な わ ち 、 豪
れ か に加 担 と いう こと は あ った が 、 そ れ は 争 乱 のな か で自
す と み て 不 自 然 では な い。
族 連 合 軍 は 一面 で国 境 間 近 に迫 って いる土 佐 勢 を く いと め
の最 前 線 に位 置 した 咽境 目 ﹂ の村 々 で [半 納 ﹂ が実 施 さ れ
分 た ち の安 全 を 確 保 す る た め に 状 況 を み き わ め た 上 で の こ
域 の 蜂 須 賀 氏 側 への組 織 化 が 実 現 し た こと で 、 長 宗 我 部 氏
両 属 性 が 保 持 され る。 し か し 天 正 十 二年 (一五 八 四 ) か ら
つ つ、 他 面 で祖 谷 山 内 部 では 惣 村 連 合 と 平 和的 な 折 衝 を お
の 軍 勢 は 引 き 上 げ ざ るを え な か った と いう こと であ ろ う 。
の秀 吉 側 と毛 利 側 と の問 で領 域 確 定 交 渉 が 進 み 、 境 界 が 画
と であ った 。 戦 線 の膠 着 状 態 を む か え る な か では 、 両勢 力
つま り 、 ﹃尾 形 家 由 緒 書 ﹂ 2∼ 4 項 は 祖 谷 山 惣 村 連 合 と
定 さ れ るな か で 呵半 納 ﹂ の基 盤 であ る ﹁境 目 ﹂ が 消 滅 す る
こな って いる と いう のが 現 実 であ った。 そ し て 、 祖 谷 山 全
蜂 須 賀 氏 の代 理 と し て の豪 族 連 合 軍 お よび 長 宗 我 部 氏 の三
こと に よ り 国分 (
中国国分)が成立したとする。
の状 況 に注 目 した い。 山 本 浩 樹 氏 は 戦 国 期 に あ って大 名 領
め た 四国 山 地 の状 況 を み て いく が 、 まず 同 時 点 の中 国 地 方
以 下 、 こ の記 述 を 手 が か り に 四 国 国分 時 点 の祖 谷 山 を ふ く
れ 、 何 れ の 国 にも 、 何 れ の郡 にも 何 れ の郷 にも 属 せざ り し
属 せ ず ﹂ に お いて ﹁王 朝 時 代 ま では 祖 谷 全 山 の阿 ± に 挟 ま
祖 谷 山 村 史 ﹄ が そ の第 一九 章 ﹁祖 谷 は 往 時 国 郡 の何 れ に も
四 国 国 分 に も ど る 。 四国 山 地 に つ い て は 、 ﹃大 正 版 ・西
ぶ 者 の動 き を ほぼ 事 実 に近 い 形 で記 述 し て い る と み てよ い。
国 間 で 両 属 的 な 曖 昧 な 中 間 地 帯 が 存 在 す る ケ ー スが あ り 、
一94一
宇 山 で お る も ん じ ゃわ な 。 一宇 山 で お り、 喜 多 源 内 が 、 こ
祖 谷 と いう と ころ は 、 昔 か ら 、祖 谷 と いう の はど う し て
は 事 実 な り ﹂ と し、 さ ら に ﹁足 利 氏 の始 世 に 土 佐 の豊 永 方
べ 、 土 佐 側 か ら は祖 谷 山 は土 佐 の 一部 と み な さ れ て いた と
祖 谷 と つけ た か と いう た ら 、 そ の 、± 佐 から 年 貢 を と り に
の祖 谷 へ来 た も ん じ ゃわ な 。
す る 。 村 史 は 海 部 郡 を も と り あ げ 、 ﹁海 部 の如 き 人 文 の梢
来 た ら、
面 の 人 は 祖 谷 を 紀 称 し て奥 豊 永 と い へり と 伝 へり ﹂ と の
や 開 け し 海 岸 線 に ても 、 天 正 の 頃 ま で 土 民 は 阿 波 と も 土 佐
﹁こ こは 阿波 じ ゃ 、± 佐 へ年 貢 を納 め る必 要 はな い﹂
と言 う て、 年 貢 を土 佐 へ納 めざ った ん じ ゃ と。 阿 波 か ら 年
と も 其 部 属 を わ き ま え ざ り し ﹂ と し 、 [人 文 の開 け ざ る 祖
谷 山 中 の如 き は 其 地 が 阿 ± 何 れ に 属 せ る や を 知 ら ず し て過
貢 を 取 り に行 く と 、
ね 史 料 六 1① は ﹃善 記 ﹂ の慶 長 十 七年 検地 に か か わ る部 分
と いう ん で 、祖 谷 と つけ た も ん じ ゃ。
一こ こは イ ヤ な土 地 じ ゃ、 イ ヤ な土 地 じ ゃ﹂
じ ゃ と いう ん で 、
ん で祖 谷 です ま いし た も ん じ ゃけ に 、 ほ ん で、 イ ヤな 土 地
り、 戦 争 に負 け た り いろ いろ し た ら 、 す ぐ に祖 谷 へ逃 げ こ
ん で、 ど っち へも年 貢 を 納 めず に 、 そ の、 悪 いこ とを した
と言 う て、 な んぼ に も年 貢 を 納 め な んだ ん じ ゃち ゅう 。 ほ
噛こ こ は土 佐 じ ゃ、 阿 波 へ年 貢 を納 め る こ と はな い。﹂
し ⋮ ﹂ と し て い る。 つま り、 中 世 に お い ては 四国 山 地 内 を
走 る 国 境 線 は そ の垣 根 は低 か った と いえ る 。 そ れ と 関 連 し
て史 料 六 を み てお く 。
史 料 六 1①
誠 に 祖 谷 山 之 儀 は土 州御 境 目 に 而 、 両 国 之 下 民 日 夜 応 対
仕 、 少 し に而 も 我 々勝 手 宜 敷 方 へ相 極 申 に 付 、 諸 事 御 免 被
為遊 可然旨申上候所、被為 聞召届、御検地之義は其方了簡
に任 せ 下 、 不 相 痛 御 為 成 り申 様 に 可 仕 旨 被 仰 付 候 、
喜 多 源 内 ち ゅう の は な、 魔 法 使 い でな 。 ほ い て魔 法 使 い
の 記述 で あ る 。 こ こ で喜 多 安 左 衛 門 は祖 谷 山 は土 佐 と の 国
史料 ⊥
パー②
で か ら に 南 八 郎 、 喜 多 源 内 と いう て 、 南 八 郎 と いう のは 一
一95一
る。 慶 長年 間 な いし そ れ 以 前 に お い て、 祖 谷 山 お よび そ の
り た て で 臨 む べ き であ る と 藩 主 に 進 言 し て いる と し て い
るす な わ ち きび し い年 貢 取 り た て で はな く 、 ゆ る や か な 取
い ては 平 和 的 な 組 織 化 を 一面 で追 求 し な が ら も 、 長宗 我 部
の低 いな か で、 阿 波 に入 部 し た 蜂 須 賀 家 政 は 四 国 山地 に つ
佐 と 阿 波 と を 分 断 す る こと に な る 。 し か し 、 国 境 線 の 垣根
そ し て 四国 国 分 の実 施 は 、 四国 山 地 内 を 走 る 国 境 線 で±
つ つ、 両 国 か ら の課 税 圧 力 を ま ぬ が れ よ う と 行 動 し て いる
周 辺 の 四 国 山 地 の 住 民 は 自 分 に都 合 の よ い方 に つく と い
氏 の影 響 力 を 軍 事 力 で排 除 し て在 地 の豪 族 を 圧 伏 さ せ 、実
境 にあ り、 こ の地 の ﹁下 民 ﹂ は ± 佐 ・阿 波 両 国 の う ち 、 少
う、 国境 に ま た が る 自 立 的 な 動 き を 展 開 し て いる と いう の
効 支 配 を 確 立 す る方 向 を 前 面 に 押 し だ し て いる 。 一方 長宗
状 況 が し め さ れ て いる と いえ る 。
で あ る 。史 料 ⊥
パー ② は 三好 郡 一帯 に広 く分 布 す る 喜 多 源 内
我 部 氏 も 天 正 十 三年 に至 る ま で の問 、 四 国 山 地 全 域 が 元親
し で も 都 合 の 良 い方 に つく の で 、 ﹁諸 事 御 免 ﹂ を 方 針 と す
伝 承 の 一つ であ る 。 喜 多 源 内 は近 世 初 頭 の 人 で あ る が 、 こ
の軍 事 基 盤 と な って いた こと も あ り 、 こ の国 境 線 を実 質 的
内 と み な し て いた 可 能 性 が 高 い。 と く に 奥 豊 永 と も いわ れ
の伝 承 は そ の前 史 にあ た る伝 承 と し て 語 ら れ て お り 、 両 国
が ら 、 土 佐 か ら の年 貢 も 阿 波 か ら の年 貢 も拒 否 し て 負 担 の
て いた 土 佐 と のか か わ り の深 い祖 谷 山 に つ いて は 、 ±佐 の
な 国 境 線 と は みな し てお ら ず 、 四国 山 地 全 域 を ± 佐 国領 域
軽 減 を は か ろ う す る祖 谷 山 住 民 の行 動 が 語 ら れ て お り 、 民
領 域 内 に ふ く ま れ る のは 当 然 と み な し て いた よ う で あ り 、
の境 に あ る こと を 利 用 し て他 地 域 か ら の流 入 を も 受 容 し な
話 では あ る が 六 i① の史 料 を 裏 付 け る 内 容 にな っ て い る。
﹃尾 形 家 由 緒 書 ﹄ 2∼ 4 項 は 蜂 須 賀 氏 ・長 宗 我 部 氏 お よ
そ れ が 祖 谷 山 と の境 目 ま で 軍 勢 を 送 り こ む と い う こと に
で し め さ れ て い る の は、 そ の よ う な惣 村 な いし 惣 村 連 合 が
び 在 地 の惣 村 連 合 の 三者 のせ め ぎ あ い、 さ ら に いう と 、 四
四 国 山 地 に お い ては 、 自 立 性 の高 い惣 村 な いし 惣 村 連 合 が
外部 か ら の流 入 者 を う け い れな が ら、 特 定 の 支 配 者 の支 配
国 山 地 と いう 境 目 の地 を 両 大 名 の いつ れ が 支 配 下 に お く か
な ってあ ら わ れ て い る。
のも と に な い ﹁境 目 ﹂ の地 に あ る こ と を 背 景 に、 糊半 納 ﹂
を め ぐ る角 逐 を 浮 か び あ が ら せ て いる が 、 そ の点 で 、 天 正
全 域 に わ た って展 開 し て い た こ と は す で に み た が 、 史 料 六
と は 異 な る が ﹁堺 百 姓 ﹂ の論 理 と も いう べ き 論 理 を 駆 使 し
一96一
な 自 立 性 ・自 主 性 の保 証 であ った。 祖 谷 山 の場 合 、 惣 村 連
が 基 盤 と し て い る惣 村 ・惣 村 連 合 の保 持 し て き て いる 高 度
り か え し て いく が 、 そ こ で志 向 さ れ て いた のは 在 地 豪 族 層
賀 氏 の支 配 を う け い れず 、 そ れ への抵 抗 な いし は 折 衝 を く
わ ち 、 在 地 側 は長 宗 我 部 氏 の影 響 力 を 背 景 に 容 易 には 蜂 須
以後 と 基 本 的 に 同 じ状 況 が あ ら わ れ て いる と いえ る 。 す な
十 三 年 秋 の 四 国山 地 の 阿波 国側 に は備 中 国 南 部 の天 正 七 年
き が 典 型 的 にあ ら わ れ て いる と いえ る。
と みな し た方 に つく と いう、 中 世 的 な 惣 村 連 合 と し て の動
にか け て の交 渉 を お こな いなが ら、 自 分 たち にと って有 利
谷 山 の惣 村 連 合 の 勝利 と も いえ る。 こ こ に は両 大 名 を 天 秤
し か し こ れ は逆 に結 束 し た力 を 背 景 に有 利 な 選 択 を し た 祖
返 り ﹂ 以 外 の な にも の で も な か った と いう こと であ ろ う。
て て いた 可能 性 が高 い。それ は 長 宗 我 部 氏 側 か ら み れば ﹁裏
を 蜂 須 賀 氏 か ら 取 り つけ た と ころ で、 長 宗 我 部 氏 を 切 り 捨
惣 村 の自 治 的 な 側 面 の確 保 を 意 味 す る の で あ り 、 ﹁堺 百 姓 ﹂
豪 族 層 が 依 拠 し て いた 年 貢 ・検 断 な ど の地 下 請 を 核 と し た
除 ﹂ の内 容 は 不 明 であ るが 、 元 親 のも と で 保 証 さ れ て いた
と り つけ て蜂 須 賀 氏 へ帰 属 した と し て いる 。 こ の [諸 役 免
書 ﹄ 2 ∼ 4項 では 惣 村 連 合 側 は [諸 役 免 除 ﹂ と いう 条 件 を
に 両 大 名 を 相 手 に 折 衝 を く り か え し て いく 。 ﹃尾 形 家 由 緒
い る のも 、 そ の よ う な惣 村 連 合 の強 力 さ への対 抗 のた め で
り 、 蜂 須 賀 氏 が 周 辺 の豪 族 を 組 織 し て豪 族 連 合 軍 を 作 って
ケ ー ス は 惣 村 連 合 が 結 束 し て行 動 す る 典 型 を し め し て お
動 い て い るケ ー ス とが 混 在 し て いる。 そ のな か で祖 谷 山 の
スと 、 惣 村 連 合 を 構 成 す る名 (
惣村)単位が独自な判断 で
動 に つい て、 運動 と し て は惣 村 連 合 が ま とま って動 く ケ ー
天 正 十 三年 秋 の 四 国山 地 内 に おけ る蜂 須 賀 氏 入 部 反 対 運
ね 合 と し て の結 束 を みだ す こ とな く 、 そ の 結 束 し た 力 を 背 景
と し て の 地 位 の保 証 を 獲 得 し た と み て よ い。
境 線 ま で進 め てお り 、 史 料 は 残 って い な いが 惣 村 連 合 は ±
と みな し て いる 。 さ き に みた よ う に長 宗 我 部 氏 は 軍 勢 を 国
階 を 仁 宇 谷 に第 二段 階 を祖 谷 山 に代 表 さ せ て い ると み てよ
の ニカ 所 が 中 心 と な って起 こ って い る と し て い る。 第 一段
祖 谷 賊 、 負 険 不 服﹂ と し て入 部 反対 運 動 が 仁 宇 谷 と 祖 谷 山
あ った 。 蜂 須 賀 家 の由 緒 書 ﹃蜂 須 賀 家 記 ﹄で は ﹁時 仁宇 谷 ・
佐 側 と も折 衝 を く り 返 し て いた の で は な いか 。 つま り 、 惣
く 、 こ の ニ カ所 が 四 国山 地 のな か でも っとも 組 織 的 な 反 対
一方 、長 宗 我 部 氏 側 は祖 谷 山惣 村 連 合 の行 動 を ﹁裏 返 り﹂
村 連 合 は 両 大 名 双 方 と の折 衝 を 展 開 し て お り 、 有 利 な 条 件
97一
運 動 を 展 開 し て いた 地 域 にな って いた こ と を よ く し め し て
れ 中 心 に展 開 し て いた 可 能 性 が 高 い。
れ し を 申 立 、 貢 調 を 欠 如 す る者 勘 か ら さ れ は 、 ⋮郡 邑 に代
ち ま た と な り 、 馬 蹄 に 田畑 を踏 荒 さ れ 、 其 上 賦 敏 を 虐 せ ら
の人 民 、 近 年 来 元 親 か 為 に か け悩 ま さ れ 、 し は し は 兵 革 の
いる 。こ の 記事 に か か わ って ﹃改 撰 仙 石家 譜 ﹄に ﹁当 国 (
讃岐)
原 山 、 百 姓 起 一揆 、 依 背 秀 久 之 命 、 刎 百 余 人 ﹂ と 記 さ れ て
こ って お り 、 ﹃讃 岐 国 大 日 記 ﹂ 天 正 十 三年 項 に ﹁香 東 郡 安
で讃岐 に 入部し た仙 石氏 にた いし ても入部 反対運 動が 起
関連 し て隣 国 の讃 岐 に つ い て み て お く。 四 国 国分 のな か
豪 族 た ち が 長 宗我 部 氏 支 配 を背 景 に した ﹁堺 百 姓 ﹂ の論 理
わ ち 四 国 山地 の ほぼ 全 域 で、 在 地 の惣 村 や そ れ に依 拠 す る
吉 野 川 を越 え て対 岸 の阿 讃 山 地 と いう 四国 山 地 支 脈 、 す な
か は 定 か で は な いが 、 阿 土 国境 の走 る 四 国山 地 中 心 部 分 、
る と し て よ い。 両者 が 呼 応 した 上 で の動 き であ った か ど う
抵 抗 であ る こ と はあ き ら か であ り 、 ほぼ 同 時 に 起 こ っ て い
長 宗 我 部 氏 降 伏 後 に新 規 に入 部 し た 蜂 須 賀 氏 ・仙 石 氏 へ の
お り 、 一宇 山 の南 家 は そ の鎮 圧 に参 加 し て いる 。 両 者 と も
馬 郡 曾 江 山 ・岩 倉 山 では 蜂 須 賀 入 部 反 対 の行 動 が 起 こ って
そ し て こ の安 原 山 と 阿 讃 山 脈 を 境 に接 し て いる 阿波 国 美
官 を 置 き 、 検 使 を 副 て穿 墾 せ し む る と い へと も 、 猶 未 進 者
を武 器 に 有 利 な条 件 を も と め て新 支 配 者 と の対 立 ・折 衝 を
いる。
多 け れ ハ、 ⋮此 上 は武 威 を 以 て 邪 民 を 正 す へし と て、 其 張
く り か え し て いた のが 四 国 国分 段 階 の現 状 であ った と し て
お 本 安 原 甚 太 郎 と いふ者 、 香 東 郡 安 原 山 に匿 れ 住 め り 、 ⋮甚
よ い。
ゆ つぎ の問 題 は 、 この 反 対 運動 が い つ終 息 した のか に つ い
反対運動の終息
で 明確 で は な いが 、安 原 山 (
現 香 川 郡塩 江 町 に ふ く ま れ る )
て であ る。 桑 田氏 は 北 六 郎 三 郎 が 祖 谷 山 の ± 民 を 説 服 し 、
第 三章
太 郎 を 始 め 首 魁 十 三人 、 其 余 の党 類 百 余 人 を 召 捕 へ、 ⋮ ﹂
と あ る。 こ こで の 長宗 我 部 氏 に 多 く と ら れ た の で、 仙 石 氏
に支 払 う 余 裕 は な いと いう年 貢 納 入 拒 否 の論 理 は 、 阿 波 で
は阿 波 と 国境 を 接 す る 阿 讃 山 脈 内 の山 間 部 に位 置 す る と こ
木 屋 平 の松 家 長 大 夫 は 名 西 郡 上 山村 の 反 民を 鎮 め 、 山 田宗
の ﹁堺 百姓 ﹂ の論 理 と 同 じ であ る 。 他 の関 係 史 料 が な い の
ろ か ら み て 、 こ の論 理 に も と つ く 抵 抗 が 、 讃 岐 の山 間部 を
98一
い るが 、 祖 谷 山 を のぞ き 終 息 時 期 を 明 記 し て いな い。 そ れ
⊥ハ年 間 に お よ んだ が 天 正 十 八 年 に は 平 静 に帰 し た と の べ て
重 が 仁 宇 谷 を 平 定 し た と し 、 祖 谷 山 のみ が 抵 抗 が 継 続 さ れ
上 の こと であ った と し 、 以後 進 め ら れ て いく 検 地 に つ いて
て ほ し いと 重 臣 ら に依 頼 し て いる のも 抵抗 の激 し さ を み た
藩 主 の 父 正 勝 は 藩 主 家 政 が 若 い ので何 事 に つ いて も 配慮 し
地 豪 族 か ら う け た 抵 抗 は 蜂 須 賀 氏 に衝 撃 を あ た え て お り 、
不 及 申 候 へ共 、 國 衆 井 今 度 渡 海 之 御 牢 人 衆 、 御 堪 忍候 様 二
當 國 之 様 子諸 式 、以 一書 、阿 波 守 仁 、申 渡 候 間 、被 得 其 意 、
史料七
こ の ﹁國衆 井 今 度 渡 海 之 御牢 人衆 ﹂に つ い て であ る が 、﹁御
若 い家 政 を 補 佐 す る こと を重 臣 た ち に依 頼 し た と し て いる。
の際 に 渡 海 し た牢 人 た ち への扱 い に注 意 す る こと 、 そ し て
る と す る 。 一方 、 ﹃神 山 町 史 ﹄ は ﹁阿 波 の地 侍 と 四国 平 定
あ と の関 連 で史 料 七 を み て お き た い。
御 心 付 肝 要 二存 知 候 、 阿 波 守 若 候 間 、 何 事 茂 諸 事 被 引 取 、
牢人衆﹂ については 醐
御 ﹂ と いう 敬 称 が 付 け ら れ て いる こ
め は こ の土 豪 一揆 への対 策 も あ って慎 重 な 対 応 が な さ れ て い
御 異 見 慧存 候 、 若 又 各 御 才 覚 二も 不 被 及 之 儀 候 ハバ 、 拙 者
と か ら み て、 正勝 が 四 国 平定 に際 し 四国 に送 り こん だ 牢 人
を 指 す と み る の は無 理 で あ る。 牢 人 に は牢 籠 の人 す な わ ち
レ か た へ可 被仰 候 、 恐 々 謹 言
蜂須賀彦右衛 門尉
十 一月 三 日
す と み る べ き で あ る 。 書 状 のだ さ れ る直 前 の 天 正十 三年 十
阿 波 ・讃 岐 を失 い土 佐 に と じ こめ ら れ た長 宗 我 部 元親 を 指
領地 ・
地 位 を う し な って落 碗 し て いる 人 の意 味 が あ る ので 、
稲 田 太 郎 丘ハ
衛尉殿
月 に 元親 は秀 吉 に 拝 謁 し てお り 欄
今 度 渡 海 ﹂ と 矛盾 し な い
正勝御花押
牛 田又右衛門殿
し、 敬 称 が 付 け ら れ て いる こと も 当 然 と いう こ と に な る。
山 地 の 在 地 豪 族 と み て い る。 これ に つ い て備 中 南 部 のケ ー
を指 す と し 、 宇 山 氏 は 蜂 須 賀 入 部 反 対 運 動 を 展 開 し た 四 国
一方 ﹁国 衆 ﹂ に つ いて は 、 ﹃神 山 町 史 ﹄ は 阿 波 の地 侍 一般
・(中 略 ) ・
参 人 々御 中
こ の正 勝 書 状 に つ いて 宇 山 氏 は 入 部 に際 し て の阿 波 の在
99一
界 線 以東 の毛 利 方 諸 城 の 引 き 渡 し を 優 先 さ せ 、 [半 納 ﹂ の
現 し よ う と す る姿 勢 を と る の に対 し て 、 秀 吉 側 は 新 し い境
し 、 未 解 決 の領 ± 問 題 を の こ しま た ま ま で暫 定 的 和 平 を 実
状によると、毛利側が 一
半 納 ﹂ と いう 両 属 性 を そ のま ま に
ん で いる が 、 天 正 十 二年 十 一月 の 正 勝 ・孝 高 ら の恵 遭 宛 書
孝 高 な ど と 、 毛 利 側 の安 国寺 恵 瑳 に よ り 領 土 確 定 交 渉 が 進
スを み てお く 。 天 正十 二年 か ら秀 吉 側 の蜂 須 賀 正 勝 ・黒 田
息 宣 言 に な って いる の であ る。
蜂 須 賀 氏 の も と への組 織 化 に成 功 した と す る、 反 対 運 動 終
の豪 族 な いし惣 村 に対 す る長 宗 我 部 氏 の影 響 力 を 断 ち き り
を 表 し て いる と み て よ い。 そ の意 味 で こ の書 状 は 四国 山 地
認 め て いる の であ り、 重 臣 ら が そ れ に そ そ いだ 努 力 に謝 意
て き て いる 国 分 が大 筋 に お いて は軌 道 に の って い る こと は
と ら え た 方 が 妥 当 で あ る。 ただ 、 正勝 も 八 月 以来 進 め られ
摘 の よ う に 四国 山 地 で蜂 須賀 氏 入部 に抵 抗 し て いた豪 族 と
豪 族 や さ ら に は そ の背 後 に い る長 宗 我 部 氏 への対 応 の慎 重
正 勝 が 重 臣 た ち に求 め て い る のは 、 国境 地 帯 に お け る 在 地
と いう 方 向 に 一種 のあ や う さ が あ ると み た の で は な いか 。
け に 家 政 のと って い る軍 事 力 に重 点 を お いた境 界 線 の設 定
関 係 のな か で、 容 易 では な い こと を 実 感 し て お り 、 そ れ だ
設 定 と いう こと が 、 対 毛 利 氏 ・対 在 地 の惣 村 と いう 複 雑 な
処 理 に あ た って い る正 勝 は 一境 目﹂ の地 に お け る 境 界 線 の
み こむ 方 針 の実 行 者 と し てあ ら わ れ て いる 。 し か し 、 現 実
い こう と す る 動 き を 否 定 し、 大 名 権 力 の も と に 全 面 的 に 組
た い。 正 勝 は 惣 村 (
連 合 ) が そ の地 域 独 自 な 秩 序 を 保 って
こ こ で正 勝 が 毛 利 と の交 渉 にあ た って いる こと に 注 意 し
いる と み る べき であ る 。
谷 山 を ふ く め て十 一月 に は 沈 静 化 し て いた こと を し め し て
の書 状 が だ さ れ て いる こと 自 体 が 第 二段 階 の反 対 運動 が 祖
入 部 反 対 行 動 の沈 静 化 は いえ な い こと であ る 。 そ の点 で こ
山 にあ り 、 祖 谷 山 で の事 態 の沈 静 化 を ぬ き に 阿 波 全± で の
お く 必 要 のあ る のは 、 入 部 反 対 行 動 第 二段 階 の焦 点 は祖 谷
れ てお り 入 部 反対 行 動 と は 直 接 の関 係 は な い。 と く に み て
る が 、 六 郎 三郎 の定 使 任 命 は 天 正 検 地 と のか か わ り で な さ
が 定 使 と な って こと を も って 一揆 が 終 息 し た と み な し て い
桑 田氏 の場 合 は ﹃奮 記 ﹄ に天 正 十 八 年 十 二月 に 北 六 郎 三 郎
が 、祖 谷 山 のみ は 終 息 す る の は 十 八年 に な って か ら とす る。
研 究 史 で は 入部 反対 の動 き は 天 正 ⊥
⊥ 二年 中 に鎮 静 化 す る
が 解 消 を 優 先 さ せ る姿 勢 を と って い る と いう 。
さ で あ ろ う 。 そ の点 で いう と 、 こ の 哨国衆 ﹂ は宇 山 氏 の指
100一
まとめ
利 益 で祖 谷 山 豪 族 を 蜂 須 賀 側 に 組 織 す る こと を さぐ り、 一
方 惣 村 連 合 は 両 大 名 を 相 手 に ﹁堺 百 姓 ﹂ の論 理 を駆 使 し て
国 山 地 は惣 村 ・惣 村 連 合 が 広 範 囲 に 展 開 し てお り 、 か つ戦
境 紛 争 を か ら め た 入 部 反 対 の動 き が 顕 在 化 す る。 中 世 の 四
に か け て祖 谷 山 を 中 心 と す る 阿 土 国 境 地 帯 で、 ± 佐 と の 国
た た め 、 こ の運 動 が 長 宗 我 部 氏 の動 向 と 深 く か か わ り 、 と
の な か に 位 置 づ け ら れ る 反 対 運 動 と いう 視点 が欠 落 し て い
を対 比 さ せ てみ る と 、 四国 国 分 と いう 四 国地 域 全 体 の動 き
以 上 の こと と 研 究 史 では 定 説 と な って いる 桑 田氏 の論 と
折 衝 を か さ ね な が ら 有 利 な 条 件 を 引 きだ し て蜂 須賀 氏 への
国 末 期 に お いて は 元 親 支 配 下 の 一両 旦ハ
足 と し て惣 村 の指 導
く に 第 二段 階 は 長 宗 我 部 氏 と 蜂 須 賀 氏 の こ の地 域 への実 効
以 上 、 ﹃奮 記 ﹄ か ら は な れ 、 南 ・尾 形 両 家 の も の を 中 心
者 た ち が 活 動 し て いた 地 域 で あ る が 、 反 対 運 動 は 四国 国分
支 配 を め ぐ る 争 い (国 境 紛 争 ) が か ら ん で進 行 し て いる こ
帰 属 を 選 択 す る 。 一方 祖 谷 山 豪 族 の組 織 化 に失 敗 し た長 宗
の 一環 と し て 入 部 し て き た 蜂 須 賀 氏 に対 し て、 惣 村 お よび
と を 把 握 でき て いな い。 ま た 反 対 運 動 の舞 台 と な って いる
と し た 由 緒 書 ・系 図 を 素 材 に 、 蜂 須 賀 入 部 反 対 運 動 に つ い
そ の指 導 層 で あ る 在 地 豪 族 の自 立 性 保 持 を 求 め て抵 抗 ・折
地 域 が 惣 村 が 高 度 に発 達 し て いる 地 域 であ る こと を み て お
我 部 氏 は 手 を ひ かざ る を え な く な る 。 そ し て 八 月 の 入部 以
衝 す る と いう こと で 展 開 す る 。 と く に九 ∼ 十 月 段 階 の焦 点
らず 、 反 対 運 動 の基 盤 と な って いる 惣 村 ・惣 村 連 合 の動向
て検 討 し て き た 。 天 正 十 三 年 八 月 か ら 九 月 にか け て、 仁 宇
に な って いる の は 祖 谷 山 を 中 心 と し た 国 境 線 近 く の地 域 で
を 欠 落 さ せ てし ま って い る。 さ ら に、 桑 田氏 を ふ く め ほ と
後 な さ れ てき た 反 対 運 動 も 、 藩 主 の父 正 勝 の書 状 が だ さ れ
あ り 、 国境 線 の 垣 根 の 低 さ も あ って両 大 名 の いず れ が こ の
ん ど の研 究 が 依 拠 し て い る ﹃奮 記 ﹂ に つ い て、 祖 谷 山 惣 村
山 ・大 粟 山 ・種 野 山 と いう 那 賀 郡 ・名 西 郡 ・麻 殖 郡 の山 間
地 域 を 実 効 支 配 す る か で 国 境 紛 争 と いう 形 を と った 対 立 が
連 合 の活 動 、 さ ら には 両 大 名 の祖 谷 山 を め ぐ る 角 逐 に つ い
た十 一月 に は 沈 静 化 し て いる と み てよ い。
顕 在 化 す る 。 そ の な か で 蜂 須 賀 氏 は 周 辺 の豪 族 を 組 織 し た
て は ふ れ な いま ま 、 一宇 山 南 家 の 一員 で あ る 北 六 郎 三 郎 ・
部 で入 部 反対 運 動 が 起 こ ってお り 、 引 き 続 き 九 月か ら 十 月
豪 族 連 合 軍 を送 り こみ 、 武 力 抑 圧 では な く 諸 役 免 除 と いう
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安 左 衛 門 が 蜂 須 賀 氏 入 部 に抵 抗 す る 祖 谷 山 豪 族 を 武 力 で鎮
圧 し 、 以 後 祖 谷 山 を 専 制 的 に 支 配 し て いく と し て いる 。 し
か し 六 郎 三郎 ら は南 家 の 一員 と し て 祖 谷 山 に 送 り こま れ た
き た。
考 察 - 四 国 国 分 を 中 心 に ー ﹂ (﹁日 本 史 研 究 匹 三 四 二 号 、
豊臣 期国分 に関す る 一
(4 ) 四 国 国 分 に つ い て は 、 藤 田達 生 [
一九 九 一年 ) を 参 照 。
阿波国中世所
(5 ) 阿 波 に お け る山 所 領 に つ い て は、 福 家 清 司 ﹁
領 研 究 ノ ー ト ﹂ (コ四 国 中 世 史 研 究 ﹂ 創 刊 号 、 ]九 九 〇年 )
豪 族 連 合 軍 に加 わ って いた 可 能 性 は 高 いが 、 そ れ 以 上 の存
在 では な く 、 祖 谷 山 豪 族 を武 力 鎮 圧 す る 中 心 的 な 地 位 に い
を参照。
匹2 (
中) に ■
家 系 ・南 八 蔵 家 系 申 立 ﹂
と し て収 め られ て い る (
徳島県上
-⊥文 書 館 所 蔵 マイ ク ロ フィ
,
阿 波 国続 徴 古 雑 抄
(6 ) こ の 由 緒 書 に は 異 な った 二 つ の系 列 が 存 在 す る 。 一つは
た と は 考 え ら れ な い。 な に よ り 、 ﹃尾 形 家 由 緒 書 ﹂ で あ き
ら か な よ う に、 祖 谷 山 で は 平 和 的 な 折 衝 が な さ れ 、 そ のな
か で蜂 須 賀 氏 帰 属 が き ま って い った こと に 留 意 し た い。 こ
ル ム に よ った 。 未 公 刊 )
。 作 成 年 月 は 記 さ れ て いな いが 、
文 中 に宝 暦卜 一年 (一七 六 一) の事 柄 が 記 さ れ てお り 、 そ
の時 点 で 武 力 鎮 圧 は な か った の で あ る。 つま り 、 ﹃奮 記 ﹂
の記 述 は 蜂 須 賀 氏 入部 直 後 の 祖 谷 山 の現 実 と は か け は な れ
れ 以後 の作 成 であ る。 も う 一つは
と し て記 載 さ
証 文 並 御 書其 外 御 状 事 ﹂ と し て、 中 世 文 書 を ふ く む 一五 通
阿波国続徴古 雑抄﹄所収 の 冗
南 家 由 緒 書 匹 の末 尾 に 一御
(7 ) ﹂
史 料 一は村 史 か ら の引 用 であ る。
あ る。両者 の 天 正年 間段 階 ま で の記 述 は 同 一であ る 。な お 、
化 五年 (一八〇 八) 八 月 の記 述 が あ り 、 そ れ 以 降 のも の で
れ て いる (
同 村 史 汽 二 四頁 )。 や は り年 月 記 載 はな いが 文
に ]宇 村 蔭 居住 の南 正 二郎 蔵 ︹
南家由緒書
一宇 村 史 -(]九 L 二年 )
た も の に な って お り 、 ﹃善 記 ﹄ に 依 存 し た 天 正 期 祖 谷 山 お
よ び 周 辺 の 四 国山 地 に つ いて の従 来 の研 究 は 全 面 的 な 見 直
わ し を 必 要 と す る。
︻注 ︼
が 書 き あ げ ら れ て お り 三 通 は そ の な か に ふ く ま れ て いる 。
一九 三 〇年 。
ただ し 、﹃一宇 村 史 ﹄に は こ の関 連 文 書 は 掲 載 さ れ て いな い。
(1 ) 私 家 版
(2 ) 一二∼ 二七 頁 に収 め ら れ て いる 。
⊥ハ氏 蔵 と な って いる が 、 森 甚 一郎 ﹁木 頭 村 の古 文 書 ﹂ (徳
物 産 陳 列場 版 ・阿 波 藩 民 政 資 料 ﹄ 三 五 頁 に海 部 郡近 藤 金
(8 ) ﹃
(3 ) 全 文 は ﹃
大 正 三 年 物 産 陳 列 場 版 ・阿波 藩 民 政 資 料 陀 (
復刻
版 ) の 二 〇 七 ∼ 三九 頁 に 掲 載 さ れ て い る。 こ の書 は 中 ・
近 世 の祖 谷山 を み る 上 で 重 要 な 史 料 と し て従 来 利 用 さ れ て
102
によ る と 、海 部 郡 (
現 那 賀 郡 ) 木 頭 村 近 藤 家 に所 蔵 され て
島 県 立 図 書 館 編 ﹃総 合 学 術 調 査 報 告 ・木 頭 ﹄ 一九 七 〇 年 )
で あ る 。 こ の書 は 宝 暦 九 年 (一七 五 九 )年 に 作 成 さ れ て お
(20 ) これ は ﹃宝 暦 本 ・祖 谷 山 奮 記 ﹄ に お け る 西 山 家 の 項 の 記述
り、祖谷山高取名・
王八 家 の由 緒 書 集 成 と も いう べ き も の に
な っ て いる 。 詳 し く は 、 拙 稿 ﹁近 世 阿 波 国 学 の潮 流 -橿 邨
い る。
前 史 1 ﹂ ﹃史 窓 ﹄ 三五 号
(21 ) ﹃三 名 村 史 ﹄ 第 二編 第 五 章 大 西 氏 項 参 照 。
二〇 〇 五 年 。
(
9 ) 那 賀 郡 木 頭 村 刊 行 ﹃木 頭 村 誌 ﹄ 八 頁
一九 六 一年 。
(10) 歴史 と 民俗 の面 か ら み た 阿 波 と ±佐 と を結 ぶ 峠 に つ いて は、
(22 )嘉 永 四 年 (一八 五 一) に 編 纂 さ れ た 徳 島 藩 の 正 史 。編 者 は
尾形弥七郎項所収。
(23 ) 猪 井 達 雄 編 ﹃稲 田 家 御 家 中 筋 目 書 ﹂ (三 ) 三 一三 頁
中 山 茂 順 。 ﹃徳 島 県 史 史 料 一﹂ に 活 字 化 さ れ て いる 。
山崎清 憲氏 ﹃
± 佐 の峠 風 土 記 ﹄ 一九 九 一年 が 参 考 に な る。
一九 六 〇 年 。
峠 に つ い て は いつ れ も この 著 に よ った 。
(11) 近 藤 辰 郎 氏 著 ﹃山城 谷 村 史 ﹄ 二〇 二頁 上
千 六十八
な い。 た だ 、 そ の付 属 史 料 で あ る 上 掲 史 料 ニ ー ② の稲 田氏
(24 ) ﹃南 家 由 緒 書 ﹂ 本 文 で は 尾 形 家 と の共 同 行 動 に は ふ れ て い
(13 ) 注 11 ﹃
山城谷村史﹄ 二〇三頁。
か ら 南 源 六 に 宛 て ら れ た 書 状 に 、 ﹁⋮其 口 よ り 御 人 数 被 遣
一九 六 八 年 ) 第 二編 第 六
(12 ) 三 名 十 とも い い 、藩 政期 に は 御 境 目 御 押 御 用 を 仰 付 け ら れ
て い る。 ﹃三名 村 史 ﹄ (田村 正 著
(14 ) 注 11 ﹃
山 城 谷 村 史 ﹄ 三 三七 ∼ 三 八 頁 よ り 引 用 。
候 は ん 条 、 随 分 才 覚 候 へ、 尚 々 意 に 少 々 談 合 申 儀 候 間 、此
章 三 名 士 項 参 照。
(15) 同 氏 ﹁
表 高 成 立 過 程 に 関 す る 一考 察 - 阿 波 蜂 須 賀 氏 の天
と あ る 。 南 ・尾 形 両 家 が 祖 谷 山 に 入 る に 際 し 、南 家 と し て
者 参 着 次 第 父 子 な か ら 御 下 地 何 事 も 面 に て可 申 入 候 、 ⋮﹂
も 工夫 す る こと も あ ろ う し 打 ち 合 わ せ す る こと も あ ろ う か
二 四頁
一九 九 二年 。
ら 、 此 者 (尾 形 弥 七 郎 ) が 到 着 次 第 南 源 六 ・八 蔵 親 子 は 面
正 ・慶 長 検 地 帳 を素 材 に し て ー ﹂ 鳴 門 史 学 六 集
(16 ) 宇 山 氏 注 15論 文 二 四頁 。
庫本 による。
文 化 一二 年 (一八 一五 )年 成 立 。徳 島 県立 図書 館 蔵 呉郷 文
(25)﹃阿波 志 ﹄全 一二巻 。 佐 野 山 陰 (之憲 )が 編 纂 し た藩 撰 地 誌 。
同行 動 が え が か れ て いる こと に な る 。
本 文 で は 直 接 に は ふ れ ら れ て いな いが 、 付 属文 書 に この共
談 す る よ う に 稲 田が 指 示 し て い る、 と と り う る。 つま り、
(17 ) 山 本 大 氏 ﹁四国 の蓋 ー長 曽 我 部 元 親 の 四 国 制 覇 1 ﹂ ﹃
図説 ・
高 知 県 の歴 史 ﹄ 一九 九 一年 )
。
(18 ) 同 氏 一± 佐 の山 村 - 大 忍 庄 愼 山 を 中 心 と し て ー﹂ 網 野 ・
一九 九 五 年 、 八 一∼ 三頁 お よび 八 五 頁 。
石 井 編 ﹃中 世 の 風 景 を 読 む 6 ・内 海 を 躍 動 す る 海 の 民 ﹄
一九 八 三 年 。
(19) 同 氏 ﹁近 世 土 佐 の山 村 ﹂ 山 本 大 編 ﹃高 知 の 研 究 ﹄ 三
103
(27) 注 20 ﹃
宝 暦 本 ・祖 谷 山 藷 記 ﹄ 西 山 家 項 。
(26) 注 11 ﹃山城 谷 村 史 ﹄ 二〇 三 頁 。
論 は正 当 であ る と 考 え る が 、今 後 中 国 地 方 の動 向 と の対 比
阿 波 と± 佐 と の国 境 線 を めぐ る動 向 を み る 限 り、 藤 田氏 の
と す べ き であ る﹂ と し て、 藤 木 説 に 疑 問 を なげ か け て いる。
下 西 芳 蔵 ﹂ 池 田 町 昔 話 .伝
所収。
一九 九 一年 。
五 四頁 。
二〇 〇 五年
(38) 注 28 山本 論文 八六 頁 参 照 。
三六 八 頁 。
(37 ) 神 山 町 史 編 集 委 員 会 ﹃神 山 町 史 ﹄ 上 巻
二 二 号 四 八頁
(36) 同氏 ﹁
蜂 須賀 氏 の阿 波 入 部 直 後 の検 地 と 年 貢 徴 収 ﹂ ﹃史 窓 ﹄
(35) ﹃
阿 波 国 ・徴 古 雑 抄 ﹂ 四七 五 頁 。
(34) ﹃
大 日本 史 料 ﹄ 第 十 一之 十 八
(33) ﹃
香 川叢 書 ﹄ 二
を さ ら に深 め る こと で、実 態 が より 明 確 にな る の ではな いか。
(28) 同 氏 [
戦国大名領国 ﹁
境 目 ﹂地 域 に お け る合 戦 と民 衆 ﹂ ﹃
年
報 ・中 世 史 研 究 ﹄ 第 一九 号 、 一九 九 四年 。
(29 ) 村 史 九 四 ∼ 八 頁 。 な お 、 ﹃大 正版 .西 祖 谷 山 村 史 ﹄ の著 者
川崎
は喜 多 家 の直 系 であ る 喜 多 源 内 であ る。
(30 ) ﹁喜 多 源 内 の話 ・話 者
説 資 料 集 編 集 委 員 会 編 ﹃阿 波 池 田 の昔 話 と 伝 説 資 料 集 ﹄
三 一九 頁 。
(31 ) 中 世 後 期 の惣 村 に結 集 し た 農 村 た ち は自 分 た ち の 生 き 残 り
一般 的 にみ ら れ る こと であ り、 そ れだ け に 戦 況 の いか ん で
を か け て、 積 極 的 に戦 う 領 ・
王の いつ れ か に 加 担 す る こと は
(39) 本 稿 は科 学 研究 費 基 盤 研究 C ﹁
幕 藩 制 下 阿 波 にお け る 中 世
山 村 像 の 変 遷﹂ (
代 表 丸 山 ) の中 間報 告 であ る。
は 寝 返 る こと は当 然 の こと と み な さ れ て いた が (
神 田千 里
氏 ﹃± 一揆 の時 代 ﹄ 一七 〇 頁 )、 天 正 期 の 両 大 名 に は さ ま
れ た 祖 谷 山 で起 こ って い る こ と は これ と 同 じ であ り 、 祖 谷
山 惣 村 連 合 は自 ら に と って有 利 と 判 断 を し た 選 択 を し た も
の であ る。
(32) な お 四 国 国分 に つい て、 藤 木 氏 は 豊 臣 政 権 下 に お け る 国 分
る惣 無 事 令 が 貫徹 し て お り 、 裁 定 の実 現 に 当 た っては 徒 事
は 戦 国 期 の 国分 と は峻 別 さ れ 、 戦 国 大 名 の交 戦 権 を 否 定 す
者 の自 力 を 排 し て職 権 的 な 強 制 執 行 の態 勢 を と る こと に特
これ に つ いて藤 田 達 生 氏 は 注 4論 文 で [当 事 者 と し て力 関
質 が あ る と さ れ 、 四 国 国 分 は そ の嗜 矢 と 位 置 づ け て い る。
係 で決 定 し 相 手 方 を 従 属 さ せ る武 力 征 服 の色 彩 が 濃 か った
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