ックの旗手と言われた彼がティーン )」。 そ ん なフ ォ ー ク ロ やノーベル賞受賞者となった彼にそ を過ごしていた私はテレビに映る、今 ボブ・ディラン』を愛聴した大学時代 イウェイ六一』と『ザ・ベスト・オブ・ 春樹で は なくディ ラン 。『 追憶のハ ろうピリ ポに近 づきイエスに会談を 申し 名 前から 恐ら く ギリシャ語が話せたであ が弟子のひとりであり、そのギリシャ風の だ 。数名のギリシャ語を 話す外国人たち だろうか。前後関係を見れば答えは明白 どうして「その時」を悟ることが出来たの が来ました」と宣言した。しかしイエスは てイエスは「人の子が栄光を受けるその時 いった 箇所に明らかであるが、ここに至っ 章)」や「仮庵の祭りに行く(七章)」と って行動していたことは「カナの婚礼(二 イエスが自らの生涯における「時」を測 かさなのだ。 奥義であ り、人の知恵を 超えたる神の愚 である。この逆 説的な栄光こそ十字 架の あり、いばらの冠こそが、栄光の王冠なの は 荒 削 りの十 字 架こそがイエスの玉 座で や銀の冠』の歌のごとく、ヨハネにとって 中」に現されるものだ 。そう 、あの『金 は恥を 「通して」ではなく、恥の「た だ 明らかだ。ここで語られるイエスの栄光と はない。それは二七節、三三節を 読め ば れない。しかしそれはこの福音書の筆致で 栄光』を指すのではないか」というかもし の途上で話されたような『苦難を通しての とある者は、 「いやここでの栄光とはエマオ が現れる。それを神の栄光というのだ。 貶められ、蔑まれてもかえってそこに栄光 欲と執着を捨てて仕えていく時に、 たとえ んだ一粒の麦になったように、私たちも我 ということである。イエスが地に落ちて死 を 描くものが出 来てこなければならない のうちに何かしらイエスの歩みと 相 似 形 あ ずかろうとするなら ば、その人の人生 ことだ。言い換えれば人がイエスの栄光に 御子イエスの逆説的栄光 (ヨハネ一二・二〇~二六) っ と 呟 い た 。「 ど ん な 気 分 だ い ( ? l e e f t i s e o d w o H 一九四五年四月九日未明、ある男の死 刑執行が始まった。それは実に静かな執 行だった。準備の間、彼はいつものよう に祈っていた。いよいよ執行の時、彼は だがイエスの言う 栄 光と 私た ちが考え なら、その生き方を主イエスのごとくにせ なりたい、その栄光にあ ずかりたいと思う 確な招きである。もし人がイエスの弟子と です。(二六節)」と言われた 。これは明 がいる所に、わたしに仕える者もいるべき 死についた人を見たことはない」そして 者として、この様に全くすべてを委ねて 看取った検視官はこういっている。「医 露と消えた。享年三九。だが彼の最期を 言者、D・ボンヘッファー牧師は刑場の てて反ナ チ運動に身を投じた時代の預 また短い祈りをささげ、従容として十三 るそれとの間の乖離は大きい。一般に栄光 よという呼びかけである。つまりイエスの 彼の 最 期の こ と ば は 「 こ れ で 終 わ り だ 。 一、栄光の時を悟る のころ憧れていたのはかのビリー・グ 入れたのである。この時点でイエスの名は 主日礼拝説教要旨 ラハム師。説教をする彼の姿にディラ 一 方においては 祭 司た ちやパリサイ人た 階段を上り、 、 、その数十秒後、一粒の麦 二〇一六年一 〇月一六日 ン少年はやられたという。その後七 〇 ちに否定されていたのだが、他方でその名 このようにしてイエスは自らの刑死その は地に落ちた。弱冠二四歳で大学教授資 シリーズ説教「神の子キリスト」 ㉖ 年代末には明確な新生体験をして「ス 声はユダヤ人社会を 大きく超え、世界に ものに神の栄光の顕現を見たのであるが、 格 を 得た 秀才に して ナチ ズ ムの 一貫か * ロー・トレイン・カミング」や「セイ 広がろうとしていた 。そのことを知ったと 更に進んで「わたしに仕えるというのなら、 つ徹底した反対者、亡命のチケットを捨 * ヴド」などキリスト教色の強いアルバ き、イエスは自らのメシアとしての使命を その人はわたしについて来なさい。わたし * ムを発表したこともあった。今回の授 果たす栄光の時を悟られたのである。 閑話休題。このセクションでイエス とは勝利や達成と結びつく概念だ。(例: 栄 光にあ ずかるには 単にイエスの十 字 架 しかしこれはいのちの始まりだ」である。 三、栄光にあずかる方法 賞理由は「新たな詩的表現の創造」だ は自ら に与えられ る栄光の時 を悟り、 ゆ ず「栄光の架橋」)。だがどうだ。イエ を信じるだけではなく、その歩みまでイエ 神の栄光は闇の中に輝く。アーメン。 そうだ。文学者ではないディランの受 次に栄光の性質を詳らかにし、更に彼 スの語ったたとえ、即ち「一粒の麦」はご スに似ていくことが求められているという 兎に角一昨昨日が彼にとっての栄光 の日であったことは間違いない。 一、栄光の属性 の追従者にご自身の栄光にあずかる 自身の犠牲の死を予表している。こういう 賞 に は戸 惑い や 批 判 があ るよ う だが 、 方法を教えておられる。上記の三点を ポイントに語りたい。
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