CGK002706

﹃源氏物語﹄ と唐の歴史との関係
111
紅葉賀にみえる好色老女の物語と則天武后の故事||
はじめ
梅
︶
︶
︶
言われている。末摘花は美女ではないが、源氏を一途に愛して真心がある。二股をかける好色老女にはその性格が
︵
3
好みだけを押さえている。構成構想の研究においては、老女と末摘花の性格が極めて似ている、帯木系に属すると
結んでいたが、今までの源泉研究では二人の貴公子が自ら宮中に入って老女に近づいたことを見落として老女の色
明と構想の分析に集中して行われている。紅葉賀に登場した好色老女は宮中にいながら二人の貴公子と性的関係を
︵
2
す藤壷の物語と何の繋がりも見られないので、挿話と見られる。この短編についての研究は少なく、主に源泉の究
ど、うるさくてなむ﹂で結んだ短編がみえる。この短編は題材が特異なので、異質的と一一一一口われ、物語の本筋とみな
︵
1
紅葉賀に﹁帝の御年ねびさせたまひぬれど﹂から始まって﹁この御中どものいどみこそ、あやしかりしか。され
潔
ない。ということで、筆者は、老女の色好みだけでなく、二人の貴公子が自ら宮中に入って老女に近づいて性的関
C27)
日
事
係を結んだことを視野に入れて、物語の源泉を改めて考察してみようとする。
ところで、今まで老女のことは源典侍︵内侍︶と呼ばれ、その物語は紅葉賀だけでなく、賢木・葵・朝顔にも散
︶
源泉研究について
在していると言われる。本稿では、他の巻に触れなく、紅葉賀に絞って考察し、仮にそれを﹁老女の物語﹂と称す
︵
4
﹃眠江入楚﹄に﹁私云伊勢物語におもふをも思はぬおもけちめみせすといへる心欺﹂という注がみえる。昭和に
なってから村井順氏はこれに同調して典侍︵内侍︶は﹁つくも髪﹂の﹁おうな﹂︵蝿︶から転化したと述べ、両者
の一致点を挙げている。
一、老人でありながら、﹁昔、世心ある堀、 いかでこのなさけあらむ男に逢ひ見てしがなと思﹂ ってゐるやう
に、掘が甚だしい好色であること。二、息子の三郎が、﹁こと人はいとなさけなし、 いかでこの在五中将に逢
はせてしがなと思ふ心﹂のあったこと、﹁紅葉賀﹂でも、源内侍は頭中将に満足せず、﹁この君︵頭中将︶も、
人よりはいとことなるを、かのつれなき人︵源氏︶の御慰めにと思ひつれど、見まほしきはかぎりありけるを
︵
5
︶
とや、うたての好みや。﹂と叙べられてあるやうに、源氏以外の男では満足しなかった。三、男の方は、﹁あは
れがりて行きて寝にけりよといふごとく、恋愛感情より、むしろ憐慨が先立ってゐる。︵後略︶
その後、池田亀鑑氏も源泉研究を取り上げ、次のように敷街している。
このような老女の存在は、現実的にはとうてい考えられないようではあるが、しかし﹁おうなのけさう﹂とい
(28)
る
うことが、その頃﹁すさまじきもの﹂のたとえに用いられていたらしい点もあり、まれにはこうした女もいた
ものとみえる。稀有のことではあるが、すくなくとも作者はどこからか、そのような老女の例をもってきて潤
色したものであろう。そのモデルとしてまず考えられるのは、伊勢物語六十三段﹁いかで心なさけあらむ男に
︵
6
︶
あひえてしがな﹂と念ずる世心づいた揺が在五中将にあう話である。これはひどく猟奇的で作為的な説話では
あるが、案外このような話が源泉となったのではないか。
池田氏が指摘した老女の物語は作者の空想ではなく、どこからか、そのような例を持ってきて潤色したのだろう
という点に賛同するが、﹁つくも髪﹂は﹁老女の物語﹂の源泉であるという見解には賛同できない。と言うのは、
﹁つくも髪﹂の短も紅葉賀の老女も好色と言ってもよいが、しかし、﹁つくも髪﹂の揺が﹁いかでこのなさけあらむ
男に逢ひ見てしがな﹂と思って、息子の三郎は﹁こと人はいとなさけなし、いかでこの在五中将に逢はせてしがな﹂
と在五中将を引きとめた。それに対して紅葉賀に三郎のような人物がなく、貴公子二人が自ら宮中に入って老女に
︵
7
︶
近づいて関係を結んだ。さらに﹁つくも髪﹂は﹁あはれがりて行きて寝にけり﹂というように﹁思ふをも、けぢめ
見せぬ心なむありける﹂という男のあり方を主題とするが、﹁老女の物語﹂は二人の貴公子が宮中にいる老女との
異常な関係を中心とする。要するに、紅葉賀は﹁つくも髪﹂と舞台が違い、男女の交わり方が違い、老女と交際し
た男子の人数も違う。さらに小説にとって最も重要な主題が違うので、源泉とは言いがたい。
8
﹁伊勢物語﹂を捻いて平安朝にある実在の人物も老女のモデルとして挙げられた。角田文衛氏は、長保三年︵一
︵
9
︶
︵
︶
00一︶から寛弘二年︵一 OO五︶頃に実在していた源明子をモデルと想定し、金田元彦氏は平貞文の姪にあたる
大輔典侍︵藤原守義女︶をモデルとみる。この指摘の正誤を判別するには、主題の一致は言うまでもなく、物語の
(29)
性質も考慮すべきである。
蛍巻にみえる著名な物語論によれば、源氏の物語は史実を持ってきて潤色した歴史小説である。﹁神代より世に
あることを、記しおきたるななり﹂によって、物語は作者の空想でなく、世のなかに起きたこと、 つまり史実を利
用して書き直されたものである口また﹁日本紀などは、ただかたそばぞかし﹂によって、利用された史実は日本の
ものが極めて少なく、他の国のものが多いと考えられる。時の平安朝にとって他の国とは中国のことであろう。中
国の歴史を調べたら、﹁老女の物語﹂と類似の故事が見つかった。それは平安朝と深い影響関係にあった唐の則天
武后のことである。高宗の死後、武后は宮中にいて 一人の貴公子と性的関係を持っていた。とはいえ、どうして一
条天皇の後宮に則天武后のことを題材にして作られた物語が流行していたのであろうか。
源氏物語が流行していた寛弘年間︵一 O O四i 一
O 二一︶は宋の真宗の大中祥符年聞に当たる。九六O年越氏兄
弟は、華北に興亡した五代王朝と、華北以外の諸地方に割拠・興亡した十ヵ国を統一して宋を建てた。新しい王朝
は勢いを振るい、経済の発展と技術の進歩を推し進めた。国は豊かになり、海外貿易も盛んになった。宋の商人は、
斬新な商品を平安朝に運び、 ついでに平安朝の高級貴族が好んだ宋版書を運んできたり、宋の文化風潮を伝えてい
︵
叩
︶
た。宋の文化風潮を受けたようで、平安朝寛弘年間は北宋と同じく白氏文集が大いに流行し、史実に基づいて作ら
れた小説も人気が高かった。
紫式部と宋商人との関係は源氏物語の作家論に欠かせない。少女時代の紫式部は、父について越前に行った。そ
こで宋商人を訪ねたり、漢文を読んだりしていた。才女の誉れが高く、宮仕えの女房に選ばれた。宮中に入ってか
ら中宮彰子に白氏文集を進講したり、物語を語ったりしていた。桐壷巻の前半に唐玄宗の故事を利用して作られた
C30)
︵日︶︵臼︶
帝の思念がみえるし、後半には唐太宗の教育失敗談を利用して作られた物語がみえる。そこから藤壷が登場し、源
氏との物語が始まる。
則天武后のことについて
則天武后は、中国史上において稀有の存在である。十四歳︵一説十六歳︶ で唐太宗の後宮に選ばれた。才人︵女
官職︶として太宗に仕えながら太宗の三男李治と恋した。太宗死後、武氏は子女のない績妃︵皇帝の側室︶ととも
に出家し、李治は即位して高宗となる。太宗一周忌の際二人は感業寺で再会した。その後、高宗は皇居の外に住ん
でいる彼女のところへ密かに通っていた。その四年後、武氏は高宗との聞に出来た皇子李弘を連れて再び宮中に戻
った。間もなく彼女は皇后となり、病弱な高宗を補佐して国政に参与し、﹁二聖﹂の時代を開いた。高宗の死後、
即位した息子を補佐したり、晩年になって自ら即位して神聖皇帝となった。私生活の面において自分の思いとおり
に振る舞い、醇懐義を寵愛したり、孫みたいな張易之・昌宗兄弟を寵愛したりしていた。このようなことは正史の
みならず、唐の後宮を暴露する目的から作った扇情的小説のねたとなった。高宗とのことは﹃旧唐書﹄﹁后妃伝﹂
にみえるが、辞懐義とのことは﹃旧唐書﹄︵巻一八一ニ︶﹁外戚﹂に記されており、昌宗・易之兄弟とのことは﹃旧唐
書﹄﹁列伝﹂︵倉七十八︶ や、﹃新唐書﹄︵巻一百四︶、﹃資治通鑑﹄︵第二百六︶に記されている。最も早く出来た
﹁旧唐室己より紅葉賀にみえる﹁老女の物語﹂と関わりがありそうなところを引用しておこう。
行成族孫易之、昌宗。易之父希賊,羅州司戸。易之初以門蔭,累迂為尚乗奉御,年二十余,白哲美姿容,善音
律歌詞。則天臨朝,通天二年,太平公主存易之弟昌宗入侍禁中,既而回目宗居天后臼・・﹁町民児易之器用過臣,兼
(31)
工合錬。﹂即令召見,甚悦。由是兄弟倶侍宮中,皆侍粉施朱,衣錦繍服,倶承酔陽之寵。俄以昌宗為雲麿将
軍,行左牽牛中郎将・’易之為司豆少卿。賜第一区、物五百段、奴稗蛇馬等。信宿,加昌宗銀光禄大夫,賜防
閣,同京官朔望朝参。何贈希戚裏州刺史,母章氏阿賊封太夫人,使尚宮至宅問訊,乃詔尚書李週秀私阿戚。武
承嗣、三思、藤宗、宗楚客、宗晋卿候其門庭,争執鞭轡,呼易之為五郎,昌宗為六郎。俄加昌宗右散騎常侍。
聖暦二年,霞控鶴府官員,以易之為控鶴監内供奉,余官如故。久視元年,改控鶴府為奉展府,又以易之為奉展
令,乃辞人間朝隠、醇穣、員半千並為供奉。毎因宴集,則令瑚戯公卿以為笑楽。若内殿曲宴,則二張諸武侍
坐,樗蒲笑謹,賜輿無算。時誤債者奏云,回回宗是王子晋後身,乃令被羽衣,吹粛,乗木鶴,奏楽子庭,如子晋
乗空。辞人皆賦詞以美之。
日本語で紹介してみよう。易之と昌宗は張行成の族孫である。易之の父希戚は生前羅州︵甘粛正寧︶司戸︵司法︶
を務めていた。易之は先祖の恩恵を受けて禁中の尚乗奉御︵従四位︶となった。年は二十歳あまり、肌が白くて美
貌の持ち主である。音律に通じ、作詞にも長ける。則天武后在位の万歳通天二年︵六九六︶太平公主︵武后の娘︶
は、昌宗を禁中に連れてきた。仕えて間もなく、回目宗は﹁僕の兄易之は僕に勝るとも劣りませんし、医学にも通じ
ます﹂と武后に薦めた。易之を召し入れてすっかりと武后の気に入った。それから昌宗と易之兄弟は美しく化粧し、
錦繍の服を身につけ、内侍として仕えるようになった。まもなく昌宗に雲題将軍兼行左牽牛中郎将︵従四位︶を授
け、易之に可衛少卿を授けた。住宅一戸・織物五百匹・召使い・馬や賂蛇などを賜った。その翌日昌宗はまた銀光
禄大夫︵従三位︶に抜擢、護衛もつけられた。毎月一日と十五日になると、百官とともに朝会に参列するようにな
った。朝廷より昌宗と易之の亡父張希臓にコ袈州刺史﹂を追贈し、母章氏と阿減に﹁太夫人﹂という称号を与えた。
(32)
宮中から時々尚宮︵女官︶を阿減の許へ機嫌伺いに行かせ、鳳閣侍郎の李週秀を交わりの相手に遣わした。武氏一
族の武承嗣、武三息、蕗宗、宗楚客、宗晋卿も易之と昌宗の機嫌を取り、二人が乗る馬の轡を争って取った。易之
︶
日
︵
のことは五郎と呼ばれ、昌宗のことは六郎と呼ばれた。回日宗はまた右散騎常侍に賜った。
M
聖暦二年︵六九九︶後宮に相当する控鶴府が作られて、易之は監内となり、他の内侍は変わらなかった。翌年の
︵
︶
久視元年︵七OO︶控鶴府は奉震府に改め、易之は奉展令を務め、辞人の閤朝隠、醇稜、員半千などは供奉となっ
た。宮中で宴会が行われると、控鶴府の供奉たちは公卿をからかったり、菌らせたりして楽しんでいた。小型の宴
﹀
路
︵
会になると、昌宗と易之を初め、奉農府の供奉たちと武氏一族だけが参加し、賭け事をしたり、戯れたり、思う存
分遊んでいた。ある日のこと、娼びへつらうものは、畠宗は王子晋の生まれ変わりと奏上した。王子晋に憧れてい
た武后は大喜び、回目宗に羽衣を羽織らせ、木製の鶴にまたがせ、縦笛を吹きながら王子晋が空を舞い上がように踊
らせた。参会したものは歌を作ったりして賛美した。
当該部分は主に張易之と昌宗が聖神皇帝の寵愛を受けていたことを記している。主題や、登場人物の人数また人
間関係は大体﹁老女の物語﹂と一致している。物語のモデルを明確するために先ず﹁老女の物語﹂と﹁列伝﹂の登
﹁老女の物語﹂と﹁列伝﹂
場人物を考察してみたい。
1 登場人物について
﹁列伝﹂に天后・易之・昌宗が登場しているが、﹁老女の物語﹂に帝・典侍︵内侍︶・頭中将、また源氏が登場し
(33)
回一思示
頭中将
修理大夫
蒔懐義
ている。周知のとおり源氏名は本文になく、後世人によって書き入れたのである。筆者は、和辻哲郎氏の﹁本文自
身の中から﹃源氏物語﹄成立事情を見慣すという研究方針を実行するために後世人が書き入れた﹁源氏﹂を無視
易之
して、本文にみえる登場人物を﹁列伝﹂と対応させて考察してみたい。
天后リ聖神皇帝︵女帝︶
典侍︵内侍︶
典侍はまた内侍と呼ばれる。男性帝の後宮に女性が内侍を務めるが、神聖皇帝の後宮に美男が内侍を務めていた。
帝︵女帝︶に対応させることにした。
まひぬ﹂帝十﹁年いたう老いたる﹂典侍にひき分けた可能性がある。というわけで、﹁老女の物語﹂の帝を神聖皇
下がるにつれて物語の由来が分からなくなった。後世人は物語の筋を通すために年取った女帝を﹁御年ねびさせた
あるいは伝説として普及していたか、読者の知識を予想して﹁女﹂を書かなかったかも知れない。その一二、時代が
なっても第OO代天皇と言うだけで、女帝と言わない。その二、武后のことについて作者がすでに多く書いたか、
れない。女帝であっても、童聞かない可能性があるからである。日本では、古代から八人十代の女帝がいたが、今に
いつのことか分からないし、帝の性別も分からない。実際、﹁老女の物語﹂の冒頭にみえる帝は女性であるかも知
︵六九九︶・﹁久視﹂︵七O O︶という年号によって時の宮廷の風俗が分かる。﹁老女の物語﹂の冒頭を読むだけでは、
﹁列伝﹂にある﹁則天臨朝﹂によって別天武后すなわち女帝の在位が分かり、﹁通天﹂︵六九七i六九八︶・﹁聖暦﹂
老女の物語
伝
﹁老女の物語﹂に﹁采女、女蔵人などをも、容貌、心あるをば、ことにもてはやしおぼしめしたれば、よしある宮
(34)
帝
列
仕へ人多かるころなり﹂とあるが、聖神皇帝︵則天︶の在位中、張易之を始めとする美男が多く、上官焼児のよう
な才媛もいた。易之を典侍に、四日宗を頭中将に対応させると、典侍は老女でなく、美男に変わり、 一般読みの﹁源
氏﹂と重なった。
ついでに噂されただけで、登場しなかった老女の相手修理大夫について少し述べてみたい。平安朝において修理
︶
︶
幻
︵
C35)
大夫は宮城の修理や造営を司る修理職の長官であって、従四位に相当する。老女と性的関係を持っていたことで言
及された。この修理大夫は唐の醇懐義によって作られたのであろうと推測したい。高宗が崩御︵六八一二︶した二年
後、醇懐義︵?i六九五年︶は武后と通じるようになった。白馬寺の住職として寺院の修繕をし、政治や祭儀の中
︶
沼
︿
心となる明堂を修築する最高の責任者を務めた。醇懐義は武后の男妾だったし、職務上平安朝の修理大夫にも相当
する。というわけで、二人を対応させて表に書いた。
以上、主題や、登場人物の人数及び関係の一致によって、現実的に到底考えられない老女は案外唐にあると分か
った。﹁老女の物語﹂の創作は、池田亀鑑氏の推測を踏まえて言えば、作者は唐からそのような老女の例を持って
きて潤色したとなる。
︵
m
m
﹁老女の物語﹂再読
﹁老女の物語﹂と﹁列伝﹂の主題や、登場人物の人数及び関係の一致を前提にして物語の冒頭部分を改めて読み、
元の姿を推測してみたい。その前に原文を引用しておく。
①帝の御年ねびさせたまひぬれど、かうゃうのかた、え過ぐさせたまず、采女、女蔵人などをも、容貌、心あ
2
るをば、ことにもてはやしおぼしめしたれば、よしある宮仕へ人多かるころなり。
②はかなきことをも言ひ触れたまふには、もて離るることもありがたきに、日馴るるにやあらむ、げにぞあや
しう好いたまはざめると、こころみにたはぶれ言を聞こえかかりなどするをりあれど、情なからぬほどにう
ちいらへて、まことには乱れたまはぬを、まめやかにさうざうしと思ひきこゆる人もあり。
③年いたう老いたる典侍、人もやむごとなく、心ばせあり、あてに、おほえ高くはありながら、 いみじうあだ
めいたる心ざまにて、そなたには重からぬあるを、かうさだ過ぐるまで、などさしも乱るらむと、いぶかし
くおぼえたまひければ、たはぶれ言言ひ触れてこころみたまふに、似げなくも恩はざりける。︵中略︶
④上の御統櫛にさぶらひけるを、果てにければ、上は御桂の人召して、出でさせたまひぬるほどに、また人も
いなくて、この内侍常よりもきよげに、様体、頭つきなまめきて、装束、ありさま、いとはなやかに好まし
げに見ゆるを、さも旧りがたうもと、心づきなく見たまふものから、おもふらむと、さすがに過ぐしがたく
て、裳のすそを引きおどろかしたまへれば、
⑤かはぼりのえならず画きたるを、さし隠して見かへりたるまみ、いたう見延べたれど、目皮らいたく黒み落
ち入りて、いみじうはつれそそけり。似つかはしからぬ扇のさまかなと見たまひて、わが持たまへるに、さ
しかへて見たまば、赤き紙の、うつるばかり色深きに、木高き森の画を塗りかくしたり。
︵却︶︵剖︶
①は物語の冒頭である。玉上琢弥氏は①を新しい話の始めと言い、﹁物語の書き出しの口調であり、荘厳でさえ
ある﹂と評しているが、﹃全集﹄には﹁時の宮廷の風俗を述べ ︵中略︶その重々しい文体は、新たな物語の起筆を
印象づける﹂という注がみえる。いずれも新しい話の初めと言い、作者がその宮中に対してある種の敬意を持って
(36)
いると受け止めたのである。﹁老女の物語﹂に登場した帝は虚構の人物であり、漠然と﹁御年ねびさせたまひぬれ
ど、かうゃうのかた、え過ぐさせたまず﹂と言っただけである。﹁列伝﹂に登場したのは神聖皇帝︵武后︶ であっ
て、その好色ぷりは詳細に記されている。
聖暦二年,置控鶴府宮員,以易之為控鶴監内供奉,余官如故。久視元年,改控鶴府為奉展府,又以易之為奉展
令,乃辞人閤朝憶、辞稜、員半千並為供奉。
とあり、後宮に相当する控鶴府を設けて、すぐれた﹁采女、女蔵人﹂が多く、美男の供奉も揃っていた。それだけ
でなく、聖神皇帝はまた
令選美少年為左右奉展供奉。
もっと多くの美少年を選んで奉仕せよと命じた。
そのため、
尚舎奉御柳模自言子良賓潔白単調眉,左監門衛長史侯祥云陽道壮偉,過於葬懐義,専欲自進奉展内供奉。
尚舎奉御の柳模は我が子良賓は肌が白く単調眉も美しいと言い、左監門衛長史の侯祥は自分の男根が醇懐義より
強い、是非陛下に奉仕したいと言った。
ということで、年取った皇帝の好色ぶりを証している。﹁老女の物語﹂にある帝についての紹介は意味上﹁列伝﹂
と一致するが、おおざっぱである。帝の宮廷に対して敬意を持っているから、遠慮もしたのであろう。①に続いて
②がみえる。その麿突な始まりに対して玉上氏は、
いったい誰が誰にいうのか、﹁たまふ﹂という敬語がついているので、身分の高い人とはわかるが、誰が誰に
C37)
とも分からぬままに、おしゃべりは、いくらでもつづいて行く Q評釈﹄︶。
と述べている。種々分析した上で、玉上氏は﹁たまふ﹂という敬語がついているので、その人が﹁光源氏﹂である
と言った。その理由とは、冒頭の
書きぶりの似ているのは、﹁帯木﹂の冒顕である。﹁光源氏、名のみことごとしう言ひけたれたまふ答多かなる
に、いとど、かかる好きごとどもを、末の世にも聞き伝へて、かろびたる名をや流さむと、しのびたまひける
かくろへ事をさへ語り伝へけむ人のものいひさがなさよ﹂﹁帯木﹂の冒頭では作者は光る源氏をつきはなして
書いている。おしゃべりをする人々は、噂の主に対して責任を感じないから、なんでもかんでも平気でいう。
あの態度、その物いいが﹁帯木﹂の冒頭にはあった。その点ここの文章の調子は似ている。︵後略︶
という。筆者は玉上氏の分析に賛同し、②の前に光源氏を書き入れてもよいと考える。ただし、その理由を補充し
てみたい。﹁帯木﹂の冒頭では光源氏をつきはなして書いているが、②の冒頭に人物名は書いていない。先にも述
べたが、筆者は本文自身の中から﹃源氏物語﹄の成立事情を見出すために後世人によって童聞き入れた光源氏を無視
し、それを前提にして考察してみたのである。その結果、典侍は張易之に相当し、後世人が書き入れた光源氏役と
重なった。というわけで、﹁年いたう老いたる典侍﹂から始まった③にみえる﹁年いたう老いたる﹂は後世人の手
入れであり、典侍は﹁帯木﹂の冒頭にみえる﹁光源氏﹂に相当する。ということで、③の前半を②の前に持ってい
ったら、﹁帯木﹂の冒頭と同じようにみえる。私見を裏付けるように唐の演義小説に③②順と似ているような易之
の紹介がみえる。
易之は名門の出身であり、裡父張行成は太宗・高宗朝の大臣を務めていた。彼は若いながら禁中に務め、管弦
(38)
を遊ぶ時もあれば、歓楽街をぶらつく時もあった。容姿がすぐれて音律に通じ、名門の姫様がみな憧れていた。
しかし彼は鼻が高くほとんど目もくれなかった。
まとめて言うと、﹁老女の物語﹂は①から始まって、時の宮廷の風俗を紹介している。そもそも③の半分は②の
前にあって①に続いた。いま見られる老女を述べる内容はみな後世人の添削である。引きつ守ついて④を見ると、
じつまの合わないところが多くあることに気づいた。例えば、
一、主上がご装束の係を呼び寄せに出かけて典侍だけを部屋に残した。これは常識はずれである。普通なら、典
侍︵内侍︶は主上の御杭櫛に伺候し、それがすんだら、装束係を呼びに出かけるか、主上につき添って装束
C39)
の係を呼びに出かける。
二、老女の若作りは源氏の気に入らなかった。それなのに、見過ごしにくく、裳の裾を引っ張って気づかせよう
とした。見過ごしにくいことは何であろうか。
一二、帝が出かけた隙間に源氏は突如として登場した。彼はいつ宮中に入ってきたのか、朝早く宮中に入ってなに
をするつもりか、分からない。
歴史書に、
みえるのは、ほかでもなく年取った帝のことであり、武后のことである。武后は年取っても健康的で、美しかった。
る。いつもよりすっきりした美しい感じで、姿や髪もみずみずしく衣装も着こなしかたも華やかで色気たっぷりに
のようにいつも帝のそばに仕えている。帝の髪を結い上げると、装束係を捜しに出ていかなければ、帝と一緒にい
﹁列伝﹂に従えば、事情が変わる。易之に相当する典侍や昌宗に相当する頭中将はみな内侍である。彼らは当然
て
コ
太后雌春秋年高、善自塗津、雄左右不覚其表。
太后は年取ったけど、よく化粧する。周りの人々も年取ったと思わない。
と書いてある。その後に⑤が続いているが、④とまったく違う調子で老女のことを繰り返している。同じ人物のこ
とをまったく違う口調で語るのは同時代また閉じ人物の作ではない証拠となる。続いて
上は御桂果てて、御障子よりのぞかせたまひけり。似つかはしあらぬあはひかなと、 いとをかしうおぼされて、
︵
泊
︶
﹁好き心なしと、常にもてなやむめるを、さはいへど、過ぐさざりけるは﹂とて、笑はせたまへば、︵略︶
とある。これも不可思議な話である。源氏研究の分野において桐査帝は醍醐天皇に相当し、延喜の御代を背景にし
ている通説がある。醍醐天皇はそのような不品行なさまを自にすると、笑うのか、と疑う。また一条天皇の後宮に
仕えている紫式部はなによって執筆したのか、とも考える。このような場面は﹁列伝﹂を利用して書かれたとも思
えない。
さて、物語の終わりに冒頭と照応する内容がみえる。
やむごとなき御腹々の親王たちだに、上の御もてなしのこよなきに、わづらはしがりて、いとことにさりきこ
えたまへるi
とある。これは唐の事情を踏まえて書いたようである。張易之と昌宗が聖神皇帝︵武后︶の寵愛を受けているので、
武承嗣、三思、諮宗、宗楚客、宗晋卿候其門庭,争執鞭轡︵後略︶。
という。武承嗣は武后の異母兄武元爽の子、三思は武后の異母兄武元慶の子、宗楚客は武后の伯父の娘の子、いず
れも皇族であり、親王または皇女である。彼らは武后の寵愛を受けている易之と昌宗の機嫌を取るために争って乗
(40)
馬の鞭をとった。それにしても煩わしいことがあった。
︵中宗為皇太子︶太子男都王重潤及女弟永泰郡主窃言二張専政。易之訴於則天,付太子の自鞠処寵,太子並自
給殺之。
皇太子なる中宗の子部王重潤及び娘永泰郡主は密かに・氏兄弟が専政することを語り合った。それを耳にした易
之は武后に訴えた。武后は皇太子を通じて孫たちに自殺を命じた。
以上、﹁老女の物語﹂の冒頭部分を改めて読んでみた。史実を利用して警かれたところもあれば、まったく虚構
したものもあると分かった。歴史小説は歴史でなく、虚構は許せる。ただし、物語の由来が分からないと、真偽を
見分けないばかりか、こじつけて読まなければならないときがある。
まとめ
﹁老女の物語﹂は﹁列伝﹂と舞台が違い、登場人物名が違い、千変万化の様態を呈している。しかし、主題の一
致や、登場人物の人数と人間関係の一致によって唐の歴史と結びつくことができた。
中国において平安朝と深い影響関係にあった唐の則天武后のスキャンダルはよく知られている。最晩年になって
また孫みたいな張易之・四回宗を寵愛して、異常な性的関係を持っていたことはとりわけ有名である。類の話は唐が
滅びて半世紀ほど経った宋から語り始めた。宋初期の皇帝は歴代王朝の滅亡から教訓を取るようと呼びかけ、歴史
を諮る風潮が生じた。それはだんだんと娯楽になり、皇帝を初めとして皇族も夢中になった。宮中で﹁局﹂を設け
て民間から有名な小説家を召し入れて競演させた。唐のことなら、玄宗・楊貴妃のロマンスや、高宗・則天武后の
(41)
不倫恋は欠かせなかった。
ちょうどその頃宋商人が頻繁に来日し、平安朝の僧侶も商船に便乗して海を渡った。宋の摺本が平安朝に輸入し、
宋の文化風潮も伝えられた。摺本白氏文集が伝来すると、白詩が一気に広げた。白氏文集の愛読に伴って清少納言
の枕草紙が出来て、紫式部の源氏物語も流行し始めた。白氏文集と源氏物語との関係は源氏研究の重要且つ永遠の
課題となっているが、白詩に長編小説のもの筋がないことは研究者の悩みの種となった。私見によれば、白氏文集
の愛読はある意味で源氏物語の流行を推し進めたが、白氏文集の愛読と源氏物語の流行はみな宋の文化の影響を受
けて生まれたもので、大本が違う。
源氏物語の本筋と見なす藤壷の物語は則天武后の個人史を大綱にして作られた。しかし、源氏のモデルはすべて
高宗だったというわけではない。源氏のモデルは時代また事件によって変わる。好色老女の物語に登場した貴公子
のモデルは名臣張行成の族孫張易之と昌宗である。物語の由来が分からない場合は好色老女は藤壷と何の関わりも
︶
但
︵
ないと思われるが、物語の由来が分かると、同じ歴史人物のことだったと分かる。とはいうものの、どうして武后
の、三十歳前後皇后になったことや、高宗と密会して出来た子の立太子などを利用して書かれた物語を、最晩年二
︶
お
︵
人の貴公子と性的関係を結んだ物語と同じ巻に入れたのであろうか。考えて見れば、三つの可能性がある。 一、和
辻哲郎氏が述べたように現存の﹃源氏物語﹄は桐壷よりはじめて現在の順序のままに書かれたものではなかった。
ちなみに藤壷の物語も武后の生涯を追って書かれたのではなく、短編構成であった。二、そもそも順番に語られた
物語は伝えられるうちに順番を倒錯してしまった。一ニ、時代が下がるにつれて物語の由来が分からなくなり、後世
人はもの筋を通すために無理に手入れし、姿を変えた。
C42)
本稿では、﹁老女の物語﹂の冒頭、だけを取り上げて考察したので、問題はまだ多く残っている。ただし、考察を
通じて、現﹃源氏物語﹄は、紫式部一人の作ではなく、 一時の作でもない、 つぎはぎをした作品であるという点だ
︵
︵
︵
︵
︵
1
2
︵
︵
︶
︶
︶
︶
︶
︶
︶
︶
︶
池田亀鑑︵日本古典全書︶﹃源氏物語﹄﹁紅葉賀﹂、朝日新聞出版社、一九五O年
。
室伏信助監修・上原作和編集﹁人物で読む源氏物語日鵬月夜・源典侍﹄︵勉誠社、二OO五年十月︶は全面的に纏
められている。
けを断言する自信がついた。
︵
主
︵
3 ①高橋和夫﹁源氏物語の主題と構想﹄﹁紅葉賀・葵の両巻のある部分について﹂︵桜楓社、一九六六年︶、②池田勉
﹃源氏物語試論﹄﹁紅葉の賀の巻における異質的なものについて﹂︵古川書房、一九七四年︶、③阿部秋生﹃光源氏
論発心と出家﹄﹁光源氏の容姿﹂︵東京大学出版会、一九八九年︶などが詳しい。
4 ﹃源氏物語﹄の注釈書、中院通勝著、五五巻、一五九三年︵慶長一一一︶完成。
5 村井順﹃源氏物語上﹄﹁紅葉賀の巻・源内侍をめぐって﹂中部日本教育文化会、昭和三十七年。
6 池田亀鍛﹃物語文学 I﹄﹁日源典侍﹂、至文堂、昭和四十三年。
7 日本古典文学全集﹁伊勢物語﹄︵六十三段︶﹁つくも髪﹂︵小学館、一九八九年八月︶による。
8 角田文衛司紫式部とその時代﹄﹁源典侍と紫式部、角川書店、一九六六年。
9 金田元彦﹁源典侍﹂︵秋山度編別冊国文学日︶﹃源氏物語﹄︵必携E︶、学灯社、一九八二年。
︵
叩
︶ 拙稿三条朝寛弘年間の文学と北宋初期との関係||白氏文集の流行と女流文学の進歩をめぐって||﹂﹃中国文
化研究﹄︵天理大・第二十三号︶、二OO七年三月。
︵
日
︶ 拙稿﹁一不自詩筆﹂と﹃源氏物語﹄i
ii相壷巻にみえる帝の思念をめぐってi i﹂﹃中国文化研究﹄︵天理大・第十九
号︶、二OO二年三月。
︵
ロ
︶ 拙稿﹁吋源氏物語﹄桐壷巻と唐の歴史||桐壷巻の後半にみえる﹁父帝の寵愛﹂をめぐって||﹂司和漢比較文学﹄
C43)
︵
︶
武后が即位してから高宗の遺願を実現するために垂挟四年︵六八八︶洛陽で明堂を建て﹁万象神宮﹂と名付けた。
張一兵著﹃明堂制度源流考﹄︵社会科学文庫第四輯、人民出版社、二OO七年二月︶が詳しい。
原文は新潮日本古典集成﹃源氏物語﹄︵﹃集成﹄と称する︶より引用、記号は筆者付。
玉上琢弥﹁源氏物語評釈﹄︵二巻︶、角川書店、昭和五十七年。﹃評釈﹄と称する。
日本古典文学全集﹃源氏物語一﹄︵第二十九版︶、小学館、一九九二年十月。﹃全集﹄と略称する。
﹃新唐書﹄︵巻六十七︶﹁后妃・則天武皇后﹂。
新潮日本古典集成﹃源氏物語﹄︵一︶﹁解説﹂、平成四年三月版。
拙稿﹁﹃源氏物語﹄と唐の歴史との関係l i
藤壷の立后をめぐって||﹂﹃中国文化研究﹄︵天理大・第二十五号︶、
二OO九年三月。
前掲日間著。
︵第二十九号︶、二OO九年八月。
︵
日
︶ 控鶴府とは晩年の武后を楽しませる機構である。易之を初めとする供奉は聖神皇帝のセックスの相手を努めたり、
小型の宴会を催したりする。
M ﹁展﹂は御所、控鶴府は天子の後宮に相当する。
︵
日
︶ 王子晋とは周の霊王の皇太子晋のこと、笠の名手で、後嵩山に上って三十余年修行した後、ついに白鶴に乗って昇
天したと伝えられる。
和辻哲郎﹃日本精神史﹄﹁﹃源氏物語﹄について﹂、大正十一年、岩波書店。
迦葉摩騰と竺法蘭の二人の僧が白馬に乗って﹃四十二章経﹄を携えて都の洛陽を訪れたという説話に因んで、白馬
寺と名づけられたという。
︵
日
︶
︵
臼
︶
︵
日
︶
︵
四
︶
︵
却
︶
︵
幻
︶
︵
沼
︶
︵
お
︶
︵
但
︶
︵
お
︶
門附注︺本稿は二O 一
O年九月台湾大学に於いて行われた﹃和漢比較文学研討会﹄の口頭発表に基づいて書き直したもの
である。
(44)