YMN005004

四年から大正二年にかけて、﹁アララギ﹂内部でくり ひろげられた
﹁アララギ﹂の内部論争と 啄 木
目崎聖人太郎は﹁啄木とその前後﹂︵昭和明年 9月、 おうふう︶
伊藤左千夫と島木赤彦・斎藤茂吉らとの論争じたいに 、啄木という
田
の ﹁
序﹂に、つぎのように短歌主における啄木を位置づけている。
存在がどのようにかかわっていたかを短歌史的な視 占 からあきらか
太
私は啄木を近代短歌史の分水嶺と考えている。それは自然主義
にした
そもそも﹁アララギ﹂の内部論争の発端は、明治四十 三年四月に
﹁アララギ﹂内部分裂の危機
ころに開けた新しい地平であった。隆盛を極めた﹁ ア ララギ﹂
刊行された若山牧水の﹁別離﹂を合評した﹁アララギ ﹂二八月Ⅰ万左
の
1
時代も同様であって、この啄木の構築した視点の上に、独自な
子夫の批評にあった。四十三年の年頭にあたって 、 ﹁
小説に議論の
盛 なるに対して韻文家は何故に議論するの勇気を欠く か ﹂とのべ、
歌壇的議論を喚起していた左千夫からすれば、﹁創作﹂
の創刊、﹁ 別
しようとした啄木の存在を検証することによって、斎藤茂吉および
離﹂の出版によって新鋭歌人として歌壇の注目を集めていた放水 は、
一九
﹁アララギ﹂の精密な生成虫が可能であろう。本稿では、明治四十
国崎が提示するように、たしかに自炊主義の思潮を批判的に克服
写生論を適用したのである。
な断層が生じた。茂吉の象徴的地位も、この分水嶺を越えたと
る。啄木の生活短歌の主張の前後には、歌人の意識の上に大き
文学の受容を日本文学の近代化の重要赤襟と考える からであ
ノ寒
且
好の標的であった。
一一
O
作品として注目されたつぎの茂吉短歌が、
な批判を浴びることになる。しかも、﹁この歌の舌口語
の配置は頗る
四十四年一月号の﹁アララギ﹂の﹁短歌研究﹂欄で左 子夫の徹底的
本 のもとに梅はめば酸しをさな妻 ひとにさにづら ふ時 たちにけ
とも、活きた情緒の動きが三十一文字の全話 に行渡 って局ねば生
詞に 囚はれた不自炊極った記述﹂であるとし、﹁思 ひ つきは新し
この牧水短歌を﹁言語配布が余りに散漫﹂、﹁客観的描
写などとい
風凪ぎぬ松と落葉の木の叢のなかなるわが家 いざ君よ寝む
恰
ふ
う
ラギ口歌風樹立のために、放水の活動は利用された﹂にすぎなか
駁 店 が
しようと、それは問題ではなかったはずである。みずからの﹁ ア
︶が論断するように、目 アララギ﹂同人にとって、牧水がどう反
明治大正編 ヒ 一昭和目
年珂 月、角川書
ラギ﹂という図式によって、いわゆる﹁別離﹂論争は展開される
命
があるとし、﹁感情の動きょりも意識の力 が目立って 見える﹂、﹁
言
ギ﹂三月号の﹁ 唯真間夜話 一﹂で、その作歌態度に作 為的な先入観
短歌に理解を示した赤房にまで批判の矛先は向けられ た0 ﹁アララ
的情緒を描く、 只真摯の声であればい、﹂という発 @ によって茂吉
る﹂という左千夫の指摘にたいし、﹁形を描き、主観 を描き、印象
話 に何等のひびきがない﹂、﹁言語の自に
炊反した無理 な言ひ様であ
妥当を欠いて居る﹂、﹁感情をい
ひ現はした自吠の舌口業
でな Ⅵ
@から@
口-
のある歌ではない﹂と左千夫は否定した。以後、﹁創作﹂ 対 ﹁ア
く
っ
草創斯 の﹁アララギ﹂内部に浸透することを防止しなけれはなら
二期黄金期のいわば原動力となった﹁創作﹂を中心とした新勢力
批評を精力的に継続することで、明治四十三年という近代歌集の
個性表現としての新しい短歌をめざそうとする茂吉を はじめとする
的立場にいた元彦を酷評することで、自然主義の思潮 ほうながされ
の内的感情の動きが少しも表れて居ない﹂などと、 新 世代の指導者
語の上に作者が感じて動いた情調のゆらぎが表れて 居 ない﹂、﹁作者
﹁アララギ﹂新人層の気勢をそごうとするねらいがあった
かった。別言すれば、そのことによって当時の自炊主美的な文学
一
と同時に人間観でもあった︶に敏感であった茂吉らの新世代を
しかしそうしたねらいとはうらはらに左千夫と赤彦
にかかわった 牧水が四十四年三月号の﹁創作﹂で、﹁アララギ﹂の
人屑との溝は深まるばかりであった。のみならず、 内 部論争の端緒
った。
実際には、四十三年九月号の﹁アララギ﹂に発表され 、新世代の
茂吉らの 新
制しておく必要が子規没後の﹁アララギ﹂を主導する左千夫には
が 第 歌
た。つまり、左千夫の立場からすれば、﹁アララギ﹂における短
、篠弘 ﹁近代短歌論争
史
う
な
牽 観
あ
芸術として客観化せられた主観の到達すべき所だと も云 へるだら
そこが即ち 純
二月号に掲載された左千夫の﹁冬のくもり﹂十一首に たいし、﹁ 現
動を示しり、ある人多しと存じ 候﹂
実 せること勿論更に従来のアラ、 ギに比して尤も深沈 なる情趣の上
に過ぐと存じ 候不充実のも勿論あれども大体に於て新 派などより 充
﹁先生はアラ、ギの近来を皆動機不充実と申され候へ 共 それは酷
する評価の問題よりも﹁アララギ﹂内部の作品評価 そ のものへの 積
自吠の動きが 自妖に旧型を脱し新しき形に移るは不可 なくして更に
﹁新しき情趣は自ら新しき形を求め候、旧型を脱し 来 り候 、情趣
実と直接の交渉がな いやう に思はる、ことが多いが、
う﹂という好意的な評価を与えたことが・方彦らに外 部作口叩にたい
極的姿勢をうながすことになった。かくして、明治四十五年一月号
結構の推移 と 町中位、新しからんがための新しきに非ず、自然に新
った左千夫の﹁黒髪﹂
しき也如斯は不可抗力と存じ 候、先生は茂吉の口真似 していけぬと
八 首の評価をめ
の ﹁アララギ﹂の巻頭をかざ
ぐって、赤房らとの対立は抜き差しならぬものになつ キ
@
ハ
@
。
一月号に申され候、口真似は悪し 、真に惚れて自炊 に真似るならこ
﹁アラ、ギ近来の歌は情緒的より情操的に進み 候。単 情 より情趣
世に薄き え にし悲しみ 相嘆き一夜泣かむと雨の日を来 し
うらすがしき頬にまつはる 里髪を見るに堪へねど目ょ は放れず
に進み候。発作的より瞑想的に進み候。かつて動と静 とを以て分た
れも不可抗力と存じ候、天下の事比々皆然りと存じ候
みずからの恋愛体験にかかわる痛切な感情の動きをき ねめて直哉
んとしたるはこの意に体ならず、この推移は歴々 とし て表はれ居り
かぎりなく 哀 しきこころ黙し居て自たぎ つかもりる、 黒髪
にうたりことで、﹁アララギ﹂における拝情性のあり かたを問いか
候﹂
新世代の年長者である赤 房とすれば、新しい作歌傾向 に無理解な
けようとする左千夫短歌を 、 ﹁アララギ﹂二月号では ︵光彩陸離︶
︵絶唱︶と過大に評価し、﹁益々我々に力の不足せるを思はしめ 候 ﹂
つある新人層の地歩を獲得しなければならなかった。だがこの方彦
左千夫に真正面から反論することで、﹁アララギ﹂内 部 に台頭しつ
あるものは森川日和木瓜の果を二人つみ つ 、相恋 ひに
の反論にたいし、左千夫は、﹁芸術の理想は、どこま でも生きんと
と 反省する市彦であった。しかし、二月号に発表した
あるものは髪をな ほすと嫁ぎゆきて春の蚕上げぬ別れ 来 にけり
進むところになければならぬ。生命の乏しいものに、 力 のある芸術
のありゃうはない。人真似の上に新しい天地があるであらうか。 人
﹁あるものは﹂を﹁題目的趣味﹂の延長にある駄作であると庄子
夫からきびしく批判された方彦 は 一気に反撃にでた。
た。このように、﹁アララギ﹂二月号の歌論﹁新しい歌 と 歌の生ム旦
真似に自己の生命が保ち得られるであらうか﹂と容赦なく攻めたて
4月、八木書店 - であきらかにしたとおりである。
うことについてはすでに拙著﹁日本近代短歌史の構築 ヒ 一平成憾年
べき恋愛体験が赤房短歌の形成虫に重要なモメントと なった、とい
なかから独自の写生理念を模索していた。︵中原静子体験︶という
一一一一
生命 があって
する恋愛感情のう ごきにとらわれていた方彦じしん からすれば、
中 原 開白にたい
において、﹁歌は新しい為に価値があるのではない、
﹁舌口語の声化﹂によってはじめて︵生命ある
歌 ︶が 生 まれるという
始めて芸術である﹂とし、﹁作歌感情の興奮した動き﹂にもとづく
﹁黒髪﹂評価にあたって、あえて自己の痛切な﹁作歌感情﹂を抑制
工点を明確に
な立場から左千夫との 対 -
左千夫と、 歌友の中村憲吉にあてて﹁叫ぶよりも瞑想したい・発作
しなければならなかった。
し 、﹁発作的よりも瞑想的﹂
﹁
久、の鼻口
的感情よりも情趣的のものがなっかし い。いつか 動と 静を以て言 っ
て見た私は今先生の﹁我が ム旦亘 要ヒなどよ り
の方がずっと い い﹂一仏年 3 月 2日一と書き送る赤房 との対立は 、
年三月号﹁アララギ﹂では、開白子、小壁 干 、不二、 様子、丑子な
ところで、この赤房 と左千夫のたがいの批評が掲載さ れた四十五
た。先師子規の十周年忌にあたる四十四年から編集を 担当していた
ことで、いかにも内部論争が決定的な段階にきたとい,
っ印象を示し
たる歌論﹂、赤房 の ﹁漫 舌口﹂、茂田
のロ﹁短歌小舌口﹂などの論評を組む
かくして四十五年四月号の﹁アララギ﹂は、左千夫の ﹁強ひられ
どの信州出身の女性歌人の作品を掲載した﹁信濃の歌﹂欄が目にっ
茂吉は 、 ﹁アララギ﹂の分裂、廃刊を覚悟のう えで、 その内部論争
たった。
っになった 赤
﹁アララギ﹂の命運にかかわる深刻な状況を呈するにい
く 。四十四年二月以降、信州会員の選歌を担当するよ、
しかし、新しい歌をたんなる時代の流行としての意味以上に認め
に 挑もうとしていた。
における指導力、発言力を強めつつあった。﹁信濃の歌﹂欄に掲載
ない左千夫の頑迷な態度はいささかも変わらなかった 。とくに示度
彦は 、同年十一月号の特集︵信濃 号マ 0編集によって 、 ﹁アララギ﹂
された女性歌人の作品は、信州会員の飛躍によって、明治四十五年
にたいする攻撃は執 拘きね まりなかった。
﹁舌口証印の土戸
化﹂という持論を再説したものであるが、後述する︵ 叫び︶の説に
﹁強ひられたる歌論﹂は、﹁新しい歌と歌の生命﹂での
のあかしでも
の ﹁アララギ﹂に新風を吹きこもうとする市彦の戦法
あった。四十五年に再燃した左千夫との論争に懸命であった方彦 は、
赤房直系の最初の女性歌人中原開白との恋愛をめぐる内面的葛藤の
あた
っも
たの
。で
赤房
いたる左千夫の基本理念をあらためて力説し
﹁高い低いなどと心配しないでズンズン変った方が愉 央 である。 そ
ある。これあるが故に人間は進化し、変遷するので
ブギ
表現即ち押物﹂であると非難したりえでア
、フ
﹁
近に
い現はれ
為に出ること﹂が目につき、ひ
﹁
は計
虚ら
仮の表現産
をむ、虚仮の
方彦派の旗揚げ宣言 口のような性格を担っていたといえ よう。
こうとした。その意味では、四月号、五月号の﹁漫 @﹂は、いわば
変遷してくれ給へ﹂と、﹁アララギ﹂における世代交代の流れを 導
の方が却って生きてゐる人の自炊である。アララギ 同 人はズンズ ン
ある﹂とし、
て先
、に
意立
識つ
的行
0作品およびその作歌態度に﹁総て計らひが
出
た、柿人茂吉千樫文明等の諸君にも、僕は強引
いく
感こ
興と
をが
﹁
恕 しき抗日こ批評の短歌史的意味
の危機にあった。
2
の立
って導かれた新しい道であるとし、そうした
自言
分に
たた
ちい
舌
Ⅰ﹂と応酬があり、
は方
、彦
自分たちの歌がおのら
ずの
か変遷によ
かする疑義をただしたりえで、﹁選歌を暫く休みます﹂と 、突牡に
﹁どうも気になる﹂では、方彦や茂吉80 作品批評の ありかたにた
方で、同号の
た歌 、生命のある歌であるという自説をくりかえす 一
﹁自然感情の動きが直接に響きを発したやうな歌 ﹂ こ そ人間の生き
四十五年六月号﹁アララギ﹂の﹁表現と提供﹂で、
む表
、現
とを
ぃ生
ふや
して、﹁註文である、計らひである、虚仮の
﹁馬酔木﹂以来の選歌の休止を宣告した。さらに編集担当の茂吉 じ
左千夫は 、
五年四月、五月のこの時期は、まさに﹁アララギ﹂ 内部分裂の最大
りでほぼ沸騰 占に 達したものと言っていい﹂とのべる ように、四十
| その 上と表現 口 ︵平成2年 5月、おうふう︶が﹁ 論 争はこのあた
子夫が急逝する直前まで続けられるが、木杯勝矢﹁ 斎藤茂吉の研究
明治四十四年一月からはじまった内部論争は、大正二 年七月に左
れし
たて
と作
見ら
ゆる
来なかつた。内に強い深い感情の動きが無く
歌許りである﹂と、強硬な姿勢を崩そうとしなかった
@
見ち
のと
相の
違音
は
、
よりもさらに過激であった。左千夫と自分た
相違﹂である
もはや議論の段階ではなく﹁全
肉
人体
格
及精神一の
情感
とさえ断言し、左千夫の作品批評の基準に
不た
いを
しあ
てられ
一い
歩﹂
もと
譲、
るこ
うな反対説は困るではないか。議論にならな
漫
にした。つづく五月号にも左千夫の﹁柿の村
人房
君の
へ﹁
﹂
、赤
の貴
とはなかった。﹁新しきを求むるといふこと
はい
、本
人能
間で
二四
思想苦を背負いながら二十七歳で病没した。啄木の死 は、この年の
のさなかにあたる明治四十五年四月、青年歌人石川 啄 木が生活苦、
こうした内部論争によってもたらされた﹁アララギ﹂分裂の危機
ば 、絶望的な現実認識や自己凝視を感傷的詠嘆によっ てうたおうと
に新しい文学表現の可能性を切り開こうとしていた
や内容に新しい短歌の方向性を認めながらも、小品と い、
っジャンル
現実の生活感情を直哉に表現しようとした﹁ 恕 しき 玩 日二の形式
るのを見る時に、この奥に生きて居る心の貧しさを 思 はずには
二月に セ十七歳で長逝した高崎正風のそれよりも、仕ム五的歌壇的意
した野情主体に飽きたりぬものがあった。啄木の末期 をよく知る 牧
しんも九月号の子規没後十年の記念号をもって﹁アラ ブギ﹂廃刊を
味 ははるかに少なかった。しかし、短歌 史 を創るとい, ユ ユ場からが
水が大正一年八月号の﹁文章世界﹂に発表した﹁ 裁 しき玩巳評も
居られない。
えば、﹁アララギ﹂からもっとも遠かった啄木の存在 とその死が如
また、﹁燃ゆるやうな、しかもあてのない反抗と空想 との 巣 ﹂で 病
覚悟していた。
上の内部論争に深くかかわっていたという事実は無視 しえない短歌
没した友人の遺作をじっくり吟味する精神的余裕はな かった。しか
し不思議なことに、歌人的立場やその短歌観を異にす る左千夫が好
葉舟からすれ
史的意味をもっていた。
啄木と同世代でおなじく﹁明星﹂新詩社の同人であっ た水野菜舟
目悉 しき元日こを読む﹂は、 牧永 のそれとともにも っともはやい
に掲載された
晶子の実績を高く評価したりえで、前田夕暮、 若 m牧水 、吉井勇、
﹁悲しき玩具 ヒの 同時代 評 であるが、短歌史的には 最 初の体系的な
意 的な評価を寄せた。大正一年八月号﹁アララギ﹂
土岐豆果、石川啄木らが明治末年の歌壇を割拠したと し 、とくに 自
﹁悲しき玩具 ヒ 批評であるといえよう。それにしても なぜ左千夫は
一
﹁文章世界﹂大正 1年竹戸 一で、与謝野
然主義の影響によって従来の短歌的因習を打破し 、 ﹁歌を現在の生
啄木の﹁悲しき玩具 ヒという歌集を批評の姐上に載せ ようとしたの
は ・﹁明治最終の短歌壇﹂
活と直接のものとしようとした﹂啄木を認めつつ、 か れの道歌集と
であろうか。
結論的にいえば、もっとも﹁アララギ﹂とは遠い啄木 短歌のなか
て いる。
ここに石川氏の最後の集を読む時に、吾 々は氏の生活 と 露骨に
に、もっとも﹁アララギ﹂に近い接点を発見すること で、内部論争
ョ恋しき暁旦 こほ ついて、つぎのようにのべ
面を接することが出来る。それに対して或る尊敬を起 す 。しか
による﹁アララギ﹂分裂の危機をのりこえようとした からである。
なった
し、結局、この 葉 一冊に通じたものはセンチメンタリズム であ
歌を作るのかと住まれるものが比々 皆吠りで、作者の精神が何
真人達は歌に対する、どうい ふ信念と要求とから、 こんな風な
@@
えし 叶
-m
己主義者と友人との対話﹂﹁歌のいろいろ﹂の歌論も くり か
処 にあるのか、殆ど吋度し難いものが多い。︵
蜂
﹁一利
んだ左千夫は、啄木の短歌 観 やその作歌に同感でき ないものの、
それが石川君の歌を見ると、航行の目的と要求とが 明瞭して居
﹁
恕 しき元日三の短歌百九十四百はもとより、歌集 所 載の
﹁首肯される占も充分認められる﹂という。
つて、それに対する、碇も羅針盤も確実に所有し、自分の行き
たい所へ行き、自分の留りたい所へ 習 ってるのである。世評許
﹁吾輩はロハ石川君の所謂 忙しい生活の間に心に浮 ん では消えて
行く刹那々々の感じを愛惜する云々︶といふ や うな 意味 で作られた
あえて端的にいえば、左千夫はあらゆる見解と立場の 相違を ,
﹂
え
り気にして居る、 狡鮎な作者が能く 云ふ、試作などが ふ暖味な
形式との関係には、石川君などの 云ふ よりは、もつと もつと深い意
て、自炊正義との接触によって発生したいわゆる短歌 滅亡論 に立ち
ものが最善の歌とは思へない﹂とし、﹁吾輩は要する に詩 といふも
味が皿 ければならぬと吾輩は信じて居る﹂と、︵刹那︶の生命を愛
向かい、短歌という表現形式を近代人の個性表現とし ていかにある
歌が、石川君の歌には一首も無いのである。
惜する心をうたうためには三十一字 詩という形式にとらわれる必要
べきか、という難問とたえず真剣にたたかっていた啄本という存在
のに、形式といふ事をさう軽く見たくはないのである。詩の生命と
はないとする啄木の短歌観にたいして、刹那的感情の歌は生命のこ
をはじめて正当に認めることができた。左千夫の文脈にしたがえば、
ない訳に行かない﹂という前段の考えを、後段では﹁ 一種の創作と
もった歌とへだたり、詩の生命は定型という形式と密 接な関係にあ
︵刹那︶にたいする認識、定型という短歌形式におい て、左千夫
﹂こにあった。
認むるに塙膳しない﹂と是正せざるをえないゆえんも@
啄木短歌を﹁創作と認めるには、顕著な初足らなさを 、吾輩は思は
からすれば、啄木の王張と実践はとうてい容認できるものではなか
ある意味では自明のことであろうが、﹁信念と要求﹂ の暖味な﹁新
るという。
った。しかし、啄木の﹁歌に対する 其信念と要求とが能く一致して
のであろう。だからこそ、左千夫は︵刹那︶ということを作歌動機
しい歌を読む人﹂とは、内部論争の対立者である赤房 や茂吉をさす
最う少し精しく 云ふて見れば、今の詞壇には、新しい歌を読む
とすることに必要以上に抵抗したのであろう。
居る﹂ことは、敬服に堪えないという。
人 が随分少なくはない、併し 其諸名家の作物を読んで 見ると、
二五
﹁吾輩の要求する歌には、心に浮んだ刹那の感じを伝 へただけで
一一ノ
山、
微細なもの﹂になりつつあるという方彦の提言にたいする反論とも
新しい﹁歌の動機が時間から見れば瞬間的になり、 空間から見れば
この左千夫の主張にしても、啄木にたいするという ょりも、最近の
い﹂、したがって﹁吾輩は石川君の歌に不満足な感が多い﹂という。
それでなければ、作者の個性発揮も充分でな い、情調化も充分でな
同号、二年二月号の﹁アララギ﹂に発表した﹁叫びと 話﹂は、六千
や茂吉たちが驚異の目をみはる発展を示した。わけて も大正一年九
である﹂。実際に、これ以後の左千夫は歌論的にも実作的にも赤房
﹁近代文学としての短歌の創造と発展という課題をも っていたはず
アリズムの特異の接触点として、きわめて重要な対決であった﹂し、
論争忠明治大正編目がのべるよう に、﹁明治四0年 代 における リ
短歌史的には、左千夫にとって啄木との対話は、 篠弘 ﹁近代短歌
受けとれる。さらに、ことさらに﹁情調化﹂ということを持ちだ す
夫じしんの歌境の深まりと密接な関係にあるというだ けにとどまら
ほしいのだ。
のも、﹁新しき情趣﹂とか﹁深沈なる情趣の生動﹂とかに、 ﹁アララ
ず、近代短歌におけるリアリズム表現の、ひいては﹁ アララギ﹂的
は 足らない﹂、﹁刹那の感じから受けた心の影響を伝へて
ギ﹂の新しい短歌の方向性を見いだそうとする方彦 ら への批判が根
リアリズム表現のめざすべき指針をきわめて具体的に 提起したすぐ
れた歌論であった。あらためて詳述すべき問題ではあ るが、内部論
手 における一貫した短歌観を ︵叫び︶の説として体系化するにいた
る契機は、﹁恕 しき抗日二 批評をとおして啄木の歌論 とその作品が
この ょう に如上の左千夫の﹁ 恋 しき尻目 二 批評には、 つぎの有名
底 にあったからであろう。
な
吾輩は苑で、アララギ諸同人に忠告を試みたい、我諸同人の歌
もとより方彦や茂吉らの新人膚にとっても、この庄子 夫の﹁恋 し
提起する短歌的問題を自分たち じしんの問題意識でもあると真摯に
少しもないやうな歌風を見て、自己省察の料に供すべきである。
き抗日至批評は少なからず﹁自己省察﹂の材料になっ た。茂吉がの
は、 概して形式を重んじ過ぎた粉飾の過ぎた弊が多い やうであ
結語にあきらかなように、﹁形式を重んじ過ぎた粉飾 の過ぎた﹂ 赤
ちに﹁明治大正和歌 史口 一昭和的年山月、中央公論社一の結語のな
受けとめえたことにあったといえ よう。
彦 ・茂吉ら新人膚にたいする再度の宣戦布告とでも ザ っ べき性格が
かで、﹁石川啄木の﹁悉 しき耳目三の説か、伊藤左 千夫の﹁余裕な
るから、石川君の歌などの、とんと形式に拘泥しない、粉飾の
あった。
の根本問題として左千夫の﹁ 悪 しき抗日 こ 批評は少な からぬ影響を
立つかといふことが第一の問題である﹂とのべるよう に、作歌態度
ない。作歌に際しての覚悟に、この二つの態度のいづ れが有効に役
き活動﹂の説か、これらは単に説として是非を云々 す べきものでは
う ﹁ラジカル な出会い﹂と私のいう﹁大胆な挑戦﹂と が短歌典の 動
もそのラジカル な出会いを予告するものとなっている ﹂0篠私 のい
明 ずる ように、﹁茂吉の創刊号における出 詠は、くしく
書院 一 が舌口
ことになるが、 篠弘 ﹁自然主義と近代短歌﹂
けて﹁アララギ﹂と﹁生活と芸術﹂とで激しい表現論 争 が展開する
も 熱心であった陣営に 、
線として一致するとすれば、いわば啄木短歌の継承に おいてもっと
昭和㏄ 午 打肩、明治
かれらにもたらした。
実際には、大正一年十一月 寺 で前田夕暮の﹁陰影﹂を 、 翌 二年一
同号で若山牧水の﹁ 死か 芸術か ヒを、二月号で佐佐木信 網の ﹁新月﹂
論をどのように﹁アララギ﹂のあるべきリアリズム論 に 止揚してい
て、同時代の清新な息吹きを積極的に注入し、子規いらいの﹁写生﹂
本邦雄﹁茂吉秀歌|赤光百首 き﹂させるという茂吉の挑発 にあった。
る禍禍しい気配、すなは ち 、あり 得 べき新しい歌の姿 を 予感﹂︵ 塚
この一百 が 象徴するように﹁素材の不条理な配ムロ
めん 鶏 8秒あび居たれひっそりと剃刀 研人は過ぎ行き
くかということに集中するようになった。さらにその ことを証明す
それは、﹁アララギ﹂内部論争の最強の対立者であっ た左千夫急逝
を 、四月号で北原白秋の﹁桐の花 ヒをそれぞれ批評す ることによっ
るように、方彦も茂吉も﹁何か盲目的な心の機転﹂︵茂吉︶に引き
の直後のことであっただけに、歌壇における﹁アララ ギ﹂の存亡 を
、そ ねから生まれ
ずられた︵乱調子︶を通過点とし、﹁アララギ﹂歌風 に新しい感受
かけた挑戦でもあった。
**
性 をもたらした中村書生ロ と のムコ
著 ﹁馬鈴薯の花﹂ 大 正 2 年 7 月︶
を 、第一歌集﹁赤光﹂︵大正2年山月 -をそれぞれァ ブラギ叢書 と
このように左千夫の﹁ 悲 しき玩碁 批評をきっかけに 新人屑の 活
目を浴びるようになった。この茂吉の大胆な挑戦を可能にしたのは、
﹁アララギ﹂が大正初期歌壇においていわば先進的な 存在として 注
ょ って後発の
躍 によって﹁アララギ﹂再生の道は切り開かれた。なかでも茂吉は 、
職別な内部論争のさなかに提起された左千夫の﹁ 悉 しき玩畢 批評
結果的には、茂吉の大胆な挑戦は成功し、それに
大正二年九月の﹁生活と芸術﹂創刊号に発表した﹁ 七 月 二十三日﹂
が茂吉らに﹁アララギ﹂にもっとも遠い啄木の歌論 と その短歌にこ
して刊行した。
二十首 できわめて大胆な挑戦をこころみた。大正四年から五年にか
二七
る﹂とし、﹁左千夫の啄木評以来アララギの現実観照 の深化、日常
そのイデオロギー的側面を除外すれば、意外に正しい 継承関係にあ
二八
﹂とを気づか
そ ﹁アララギ﹂にとって克服すべき課題があるという@
ラギ派とに分離曲折して行く近代短歌の歴史的位相において、それ
せたからにほかならない。たとえば、木杯勝矢 が前掲 書で 綿密に論
のあらはれ﹂﹁内部急迫﹂という概念によって形成していく写生論
ぞれの歌論的契機を内合していた﹂という国時論にし たがえば、 啄
性への固執などは啄木との対決を経過して達成された 面がある﹂と
は 、内部生命のエネルギーを動力 源 とすることによ って 、 ︵叫び︶
木の歌論とその作品のすぐれた批判的継承者として、 茂吉はいわば
いう卓見に導かれたものであった。﹁啄木の歌論は、生活 派と アラ
の説に体系化される左千夫のそれにかさなり、また作歌主体と現実
内部論争の集約的意味をもって﹁生活と芸術﹂にたい して大胆な挑
体 的な 拝情へのきっかけを捉えることが出来た﹂茂吉 が、 ﹁い のち
認識とのかかわりにおいてもいのちへの愛惜を強調す る啄木ときわ
戦をこころみたといえよう。
証しているように、左千夫との﹁対立を通じて近代 歌 人 としての 王
めて近似的であり、茂吉が啄木短歌を﹁ 一たびは必ず通過せねばな
あらためて冒頭に引用した国崎の短歌史観に立ちもど るならば、
生活派とアララギ派とに分化していく啄木短歌の継 尾関係をもっ
らぬ歌境﹂であることを認め、﹁日常的現実に発想の 契機を持ち、
近代的な自意識を定着させようとする﹂点に茂吉が 啄木を積極的に
て、啄木を近代短歌史の分水嶺と位置づけるという 根 拠は、如上の
﹁アララギ﹂内部論争という短歌史的季節を境界とす るところにあ
摂取しようとしたということなども、その例証といえ る 。
かつて啄木の短歌観について考察したときに、︵いの ちの一秒︶
千丈 や ﹁いのちのあらはれ﹂を唱えた茂吉などの
論争後の﹁アララギ目には、論争前のそれとはちがっ た、おのずか
内部論争が 、 ﹁アララギ
ヒ理論構築の共同作業となった わけであり、
った。その内部論争じたいは、左千夫との﹁対立モメントの対決を、
拙著
ときわめて近接している、ということを指摘したことがある 一
っように、﹁ア
5作品評価の基準が確立されていった﹂ 棟弘︶とい,
という独自の生命 観と 結合させたかれの短歌 親 は、タ 暮や 放水など
ヒに 所収の﹁短歌滅亡 論 と石 川啄木の短歌
新人膚がみずからの ノ吠的な課題として受けとめたと ころに、この
﹁日本近代短歌史の構築
ララギ﹂がめざすべきリアリズム短歌の確立を誘導す ることになっ
の自然派歌人たちとの影響もあるが、それ以上に︵ 叫 び ︶の説の左
観 ﹂参巴 。もとよりそのことは 国崎 聖人太郎﹁増訂 啄木論序説 ヒ
た。さらに﹁白飲正義の影響によって、はじめて短歌 は実生活やそ
ア乞 ブギ派の歌論
一昭和姐年 1 月 、法律文化社︶の、﹁啄木からアララギ への路線は 、
0人生を捉えうるようになり、近代文学の一環に加わ ったのではな
かったか﹂という 彼 弘の短歌史的見地に同意する立場 からいえば、
白状主義の思潮からもっとも遠いようにみえる﹁ ア乞 ブギ﹂が、純
客観的な写生の手法に主観的要素を加味することで リアリズム短歌
の確立をめざした よう に、自然主義の課題を短歌表現のうえでもっ
とも具現化したのではないか。もとより赤房、茂吉、千樫、文明そ
れぞれに個性的ではあったが、それを﹁アララギ﹂のリアリズム短
歌の確立として包括しえたモメントは、ほかならぬた子夫の﹁恕 し
き尻目至 批評にあったといえよう。
啄木短歌の継承を生活短歌およびプロレタリア短歌に のみ一元化
しがちな従来の短歌史的通説に異論を唱える立場からすれば、生活
派、プロレタリア派が啄木から受け継がなかった︵ 見失ったⅠ 短
歌が近代人の心性をあらうす表現俸としていかにある べきかという
課題、あるいは定型表現におけるリアリズム、詠嘆性、象徴性、詩
的感性、などの意味を確実に受け継ご ぅとしたのは、むしろ内部論
争の当事者であった左千夫や茂吉らの﹁アララギ﹂ではなかったか
と考えられる。
における講演﹁短歌史 におけ
︵付記︶本稿は、平成十八年四月二十二日に開催された国際 啄
本学会 春の セミナー︵甲南大学一
る。
。
る啄木という存在﹂の草稿の一部を修正したものである
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