ジョン・ロックの生涯と思想の展開(1)

井 上:ジ
263
ョン ・ロ ック の生 涯 と思想 の展 開(1)
ジ ョ ン ・ ロ ッ ク の 生 涯 と 思 想 の 展 開(1)
一 幼 ・少 年 期 の 環 境 一
井
上
公
正*
JohnLocke'sLifeandhisDevelopmentofThought(1)
TheSocialEnvironmentofThoseDays
KimimasaINouE
墜要
こ の小 論 は 自 由主 義 の祖 と いわ れ る イギ リスの 哲 学 者 ジ ョン ・ロ ック の人 間形 成 の要 因 の一 つ で あ
る か れ の 幼 ・少 年 期 の 社 会 的 環 境 を 究 明 しよ う とす る も の で あ る 。 内 乱 の起 こ る頃 ま で の社 会 情 勢
(絶対 主 義 と 自 由 の抑 圧 、 資 本 主 義 の 発 達 と市 民 の台 頭 等)か
れ の幼 ・少 年 期 の家 庭 環 境(ジ
ェン
トリ、 ピュー リタ ン、 織 物 業 者 、 法 律 家)と 両 親 に よ る教 育 等 。 これ らが 、 かれ のパ ー ソ ナ リテ ィの
形 成 過 程 にお い て、 か れ の 生 得 的 素 質 と複 雑 に絡 ま っ て、 か れ の行 動 傾 向 の基 盤 的 体 制 を形 成 す る要
因 と な り、 この 体 制 が か れ の 後 年 の 思 想 や 行 動 の 素 地 と な り、 か れ の社 会 思 想 、 と くに 自 由主 義 思想
を形 成 し、 そ れ らを特 徴 づ け る こ と に な った。 か れ の 思想 や 行 動 の 基 層 は幼 ・少 年 期 の社 会 環 境 に よ っ
て あ る程 度 形 成 され た とい え よ う。 した が って 、 まず 、 そ れ ら の環 境 を大 雑 把 に略 述 す る。
1ロ
ックの 出生 前 の イギ リスの 社 会 情 勢
ロ ック の生 涯(1632-1704)は
、 イ ギ リス の 内乱 と い う激 動 期 、 す なわ ち 、 ピ ュー リタ ン革
命 、 王 政 復 古 、 名 誉 革 命 を経 て 絶 対 王 政 が 崩 壊 し、議 会 制 民 主 主 義 、 立 憲 君 主 制 が 確 立 し、 民
主 主 義 、 自 由主 義 が 次 第 に発 展 し、 資 本 主 義 体 制 が 進 展 す る こ と に な る時 期 で あ った 。 ロ ック
自身 も こ の よ う な歴 史 の変 展 、 イ ギ リス 社 会 の発 展 に 貢献 した の で あ る。
ロ ック は どの よ う な イギ リス社 会 を背 景 に して幼 ・少 年 期 を過 した で あ ろ うか 。 っ ま り、 ロ ッ
ク は どの よ う な環 境 の も と に育 った で あ ろ うか 。 まず 、 ロ ックの 生 まれ る0世 紀 ほ ど前 か ら、
当時 の情 勢 を振 り返 ってみ る こ とに す る。16世 紀 の後 半 か ら17世 紀 の前 半 に か け て の 時 期 は 、
絶 対 主 義 が 最 盛 期 を迎 え る と と も に 、 矛 盾 が 噴 出 して い る時 期 で あ った 、 と い え よ う。 市 民 階
級 は、 近 世 初 頭 以 来 絶 対 君 主 の後 押 しも受 け た が 、 自 らの 力 で 次 第 に勢 力 を得 て 、 この 時 期 に
平 成7年9月26日
受 理*社
会学部非常勤講 師
奈
264
良 大 学
紀
要
第24号
は 、 絶 対 王 政 に 公 然 と反 抗 しだ した の で あ る。 これ は 、 国王 と議 会 の抗 争 、 国 教 会(徒)あ
い は 旧 教 会(徒)と
る
ピ ュー リタ ンの対 立 、 と して 現 れ た 。 エ リザ ベ ス 女 王 治 世(1558-1603)
に 絶 対 王 政 は 最 高 潮 に達 し、議 会 は ヘ ン リ7世 、 ヘ ン リ8世 時 代 の従 順 議 会 とい わ れ る様 相 を
表 面 上 変 る こ と な く保 持 して い た が 、議 会 に は 絶 対 王 政 に対 す る批 判 が 全 く なか った わ けで は
な く、 内部 で 胎 動 してい た 。 体 制 に 対 す る批判 の 一 つ と して一 連 の ピ ュー リタ ン運 動 が あ った 。
この 運 動 の 現 わ れ の 一 っ が1572年 の 「議 会 へ の 勧 告 」 で あ る。 浜 林 正 夫 著 『イ ギ リス宗 教 史 』
に よれ ば 、 この 勧 告 は 、数 名 の ピ ュー リ タ ンが 合 議 の う え で作 成 した もの と推 定 され 、 じ っさ
い に 議 会 へ 提 出 され た わ け で は ない が 、 ピ ュー リタ ンの最 初 の 公 然 た るマ ニ フ ェス トと いわ れ
る もの で あ り、 国教 会 内部 に お け る 「徹 底 した 速 や か な改 革」 を め ざ した も ので あ る。 ピ ュー
リタ ンた ち は、 「勧 告 」 に よ って 、 世 俗 的 権 威 に抵 抗 す る も の で も ない し、 国教 会 を敵 視 す る
もの で も な い、 と主 張 した が 、 政府 の 側 は 、 国教 会 批 判 を 国 家 体 制 へ の 批 判 にっ なが る も の と
み て 、 か れ らを弾 圧 した 。 これ は 、 ピ ュー リタ ンた ち に 、 国教 会 ・絶 対 王 政 と それ に結 びっ く
特 権 商 人 た ち に 対 して い っそ う敵 意 を抱 か せ る こ とに な った 、 と いえ よ う1)。ま た 、 国教 会 批
判 や 教 会 改 革 と は別 に 、 説教 や パ ン フ レ ッ トに よ る ピ ュー リ タ ン理 念 の 普 及 に 力 を注 ぐ、 い わ
ば 説 教 運 動 が1590年 代 に な る と起 こ って いた2)。エ リザ ベ ス 治 世 の 末 期 に は 、 ピ ュー リタ ンだ
け で な く、 絶 対 主 義 に対 立す る諸 勢 力 は 、 社 会 的 に も政 治 的 に もか な り の勢 い で進 出 し、議 会
を拠 点 と して 絶 対 主 義 と 抗 争 しよ う とい う態 勢 を と と の え て い た3)。旧 教 徒 に よ る反 動 攻 勢 と
ピ ュー リ タ ン に よ る 革 命 的 な 動 き が 強 ま り、 絶 対 王 政 が 危 殆 に 陥 い る と 、 ジ ェ ー ム ズ ー 世
(1566-1625、
在 位1603-25)一
ス コ ッ トラ ン ド王 ジ ェー ム ズ 六 世 が 血 縁 関 係 に よ って即 位
は 、 絶 対 王 政 を維 持 ・強 化 せ ん が た め に 、す なわ ち、 絶 対 主 義 の 精 神 的 な支 柱 を補 強 す る
た め に 、即 位 と 同 時 に 『自 由 な る王 国 の真 の法 律 』 と い う 論 文 を 発 表 し、議 会 そ の も の を 否 定
す る王 権 神 授 説 を 唱 え た の で 、 人 民 の側 は 、 イ ギ リス 固有 の コモ ン ・ロー 一
生 まれ た 封 建 的 性 格 を もっ も ので は あ る が
封建制 のなかに
を か か げ 、 法 が 国 王 に も議 会 に も優 越 す る と主
張 して議 会 で 国 王 に 抵 抗 した た め に、 国王 は人 民 と の激 突 の 場 と な った 議 会 を 一方 的 に 解 散 し
て人 民 の抵 抗 に 対 抗 した 。 争 点 は財 政 問題 で あ った 。 ジ ェー ム ズー 世 の治 世 中 に議 会 は 四 回 開
か れ て い るが 、 国 王 の 都 合 の よ い と き に 召 集 され 、 国 王 の形 勢 不 利 な と き に は 解 散 させ られ
た4)。こ の よ う な 国王 の0方 的 専 制 的 統 治 の な か で 、 議 会 の 権 限 を 確 立 しよ う とす る努 カー
人 民 の抵 抗
が続 け られ て いた 。 哲 学 者 フ ラ ン シ ス ・べ 一 コ ン(1561-1626)は
、1610年1
月 に第 四議 会 で ソー ル ズ ベ リー 卿 ロバ ー ト ・セ シ ル の 「大 契 約 」 政 策 が 難 行 した の で 、 国 王 と
議 会 と の衝 突 の 回 避 に 奔 走 して い る。 な お 、 べ0コ
ンは 、18年 に大 法 官 に任 じられ た が 、21年
の議 会 で 激 しい独 占論 争 が 起 き 、 そ の最 大 の 責 任 者 と して 、 ま た 収 賄 罪 で 告 発 され て 失 脚 し
た5)。こ の こ とは 、 国王 に 大 き な痛 手 と な った が 、 国 王 と人 民 との 激 しい対 立 の もた ら した ひ
と こま で あ った 、 とい え よ う。 そ の後 、議 会 は 、 国 王 の 外 交 政 策 を批 判 し、 旧 教 との 絶 縁 を要
求 した 。 国 王 は 、 これ に対 して 国 民 の越 権 行 為 で あ り、 国 王 の大 権 を侵 す も の で あ る、 と い う
回 答 を よ せ た の で 、1621年12月18日
、議 会(下
院)は 、 有 名 な 「抗 議 文 」(「
大 抗 議 書 」)を
提 出 し、 議 会 の 権 利 を主 張 した 。 国王 は 、 これ に 対 して 、 議 会 の解 散 と 抗議 の 首 謀 者 の投 獄 を
も って 対 抗 した6)。こ の よ う に 国王 と 議 会 と の対 立 は 尖 鋭 化 して い た が 、1624年 に議 会 は 、 反
独 占運 動 の 一 応 の 成 果 と して 、 国王 の も っ 独 占権 に 反 対 して 「独 占法 」(「
独 占取 締 条 令 」)
を 制 定 した の で 、 国王 ・政 府 当局 も議 会 に 対 して 一 応 譲 歩 し、 こ こに 紛 争 は しば ら くお さ ま る
こ と に な った7)。ジ ェー ムズ ー 世 は 、 議 会 と の対 決 の み な らず 、 宗 教 問題 に お い て も 非 国 教 徒
に 対 して 対 決 の姿 勢 を強 め た。 す な わ ち 、 か れ は 、 有 名 な 「主 教 な く して 国 王 な し」 と い う立
場 で 、 主 教 制 度 をっ ま り国教 会 を絶 対 王 政 の 支 柱 と して政 教 一 致 の政 策 を 遂 行 し、 ピ ュー リタ
♪
井 上:ジ
265
ョン ・ロ ック の生 涯 と思想 の展 開(1)
ンや 旧教 徒 を弾 圧 した 。 ジ ェー ムズ ー 世 は 旧教 徒 に 対 して は じめ は好 意 的 な 気 持 を 抱 き寛 容 の
政 策 を と ろ う と した が 、 弾 圧 政 策 を と らされ る こと に な った 。 す なわ ち 、 イ エ ズ ス 会 に 属 す る
旧教 徒 が 、 自分 た ち に対 す る刑 罰 法 規 へ の報 復 と して 、1605年 に議 事 堂 を爆 破 し、 ジ ェー ムズ
0世 は お よ び 議員 を 一挙 に謀 殺 しよ う と企 てた が 、 陰 謀 は 未 然 に発 覚 し未 遂 にお わ った 。 だ が 、
これ を契 機 と して イ ギ リス の世 論 は 国 王 に 旧教 徒 へ の弾 圧 政 策 を と らせ る こ と に な った8)。旧
教 徒 を危 険 視 す る イ ギ リス 国 民 の 反 ロー マ ・カ トリ ック的 感 情 はホ 来 ず っと か わ らず 国 民 の 心
の 中 に残 り、 イ ギ リス の 歴 史 の 方 向 を決 定 す る ほ どの 要 因 と な る の で あ る 。 ロ ックが か れ の 寛
容 論 にお い て 旧教 徒 に 対 して 不 寛 容 な態 度 を と り、 とき に 批 判 を甘 受 しな けれ ば な ら ない こ と
も あ った が 、 こ の態 度 の 要 因 の 一 つ は イ ギ リス 国 民 の 旧 教 徒 を危 険 視 す る反 旧教 的 心 情 にあ っ
た 、 と い え よ う。 ピ ュー リタ ンに 対 す る抑 圧 に 眼 を転 じれ ば 、 なか で も1620年 の メ イ フ ラ ワー
号 の 出帆 も ピ ュー リタ ンに 対 す る迫 害 の結 果 で あ った 、 とい え よ う。 こ の よ う な ピ ュー リタ ン
に対 す る迫 害 に よ って 、 王権 に 対 す る反 抗 は ピ ュー リ タ ン的 な立 場 が と られ る こと に な った 。
そ こで 説 教 運 動 は着 実 に0般 大 衆 に 浸 透 して い った9)。
ジ ェー ム ズー 世 の子 で 、 次 の 国 王 チ ャー ル ズー 世(1600-49、
在 位1625-49)は
、 フ ラ ンス
の 王 女 で あ り、 旧教 徒 で あ る王 妃 の 影 響 か 、 旧教 主 義 を 信 奉 しフ ラ ン ス の絶 対 主 義 、 絶 対 王 政
に心 酔 し、 そ のた め の政 策 を 強 行 した の で 、 国王 と議 会 との 抗 争 は い よ い よ激 し く な った 。 国
王 の 財 政 は破 局 の状 態 に あ った の で 、 国王 は 、打 開 策 を 求 め て、1628年 に議 会 を 開 い た が 、 強
圧 的 な態 度 を と った。 これ に 対 して 議 会 は、 コー ク を 中 心 に 「権 利 請 願 」 を起 草 し、 議 会 の 決
議 と して 国王 にっ きっ け た 。 これ は 「請 願 」 の形 を と って い るが 、 コモ ン ・ロ ー の 歴 史 的 な権
利 に基 づ いた あ る種 の人 権 宣 言 で あ り、 また 、 当時 行 な わ れ て い た 憲 法 闘争 の 「象徴 」 的 文 書
と いわ れ る10)。憲 法 闘 争 の 権 利 主 張 は 、 主 と して ジ ェ ン トリ、 商 人 、富 農 層 の 経 済 的 利 害 を 反
映 して い るが 、 伝 統 的 ・封 建 的 思 考 型 式 を も って主 張 さ れ て い るの で 、 さ ま ざ ま な制 約 を も ち
なが らも、 基 本 的 に は封 建 的 な社 会 ・経 済 体 制 を維 持 す る方 向 で は な く、 それ を解 体 し近 代 社
会 を 展 望 す る方 向 を もっ も の で あ った 。 で は、 なぜ 憲 法 闘 争 が 伝 統 思 想 に よ って 闘 わ れ た か に
っ いて の 論 議 は 山 本 の 論 述 に ゆず る こ と にす る11)。さ て 、 「権 利 請 願 」 に よ っ て 国王 と議 会 と
の 対 立 は 絶 頂 に達 し、 国王 は 結 局1629年3月4日
に議 会 を解 散 して しま った 。 こ う して 無 議 会
政 治 、 親 政 を1640年 ま で11年 間行 な った 。 ホ ッ ブ ズ が1629年 に トウ キ ュ デ ィデ ス の 『歴 史 』
(『 ペ ロポ ネ ソ ス戦 記 』)の 翻 訳 を 公 刊 した が 、 そ れ は 「権 利 請 願 」 とそ れ に よ る市 民 の 台 頭
に対 抗 す る もの で あ った とい え よ う。 なお 、 と りあ げ て きた 時 期 につ い て留 意す べ き点 は、 ベ ー
コ ンに 象徴 され る経 験 っ ま り実 験 と観 察 に基 づ く実 証 的 な 自然 科 学 の 実験 的方 法 の成 立 で あ り、
また 、 ピ ュー リタ ンが 神 の創 造 物 で あ る 自然 を科 学 に よ って 認 識 す る こ と に よ り神 の 意 図 を 知
る こ とが で き る、 また 科 学 を神 の 知 恵 と神 の 創 造 した世 界 を 完 成 す る も の と考 え 、科 学 を 重 視
した こ とで あ る12)。ロ ッ クの 哲 学 の方 法 は この よ う な考 え 方 を もっ 自然 科 学 の 実 験 的 方 法 に よ
る こ と に な る。
ロ ックは 、1632年 に こ の よ う な社 会 情 勢 下 で 産 声 を あ げ た の で あ る。 っ ま り、生 れ お ち るや
否 や 、 ま さ に起 き ん とす る革 命 の嵐 の 前 兆 の なか に放 り出 さ れ た の で あ る。 こ の よ う な 新 旧 両
勢 力 の 抗 争 が 生 まれ た ば か りの ロ ックに 直 接 影 響 した と は 思 わ れ な いが 、 か れ の育 った 家 庭 に
は 深 刻 な事 態 を もた ら した。 っ ぎ に ロ ックの 家 系 を辿 って ロ ック家 の 家 柄 、 っ ま り家庭 の 環 境
を うか が う こ と にす る。
266
奈
良 大
学 紀
IIロ
要
第24号
ック の家 系
ロ ック の遠 い祖 先 は 確 め られ な いが 、 四代 前 は 、 サ ァ ・ウ ィ リア ム ・ロ ック(?一?)と
い
い 、 ヘ ン リー八 世 の 宮 廷 の 絹 織 物 な どの御 用 商 人 、 ロ ン ドンの 市 参 事 会 員 に な り、1548年 には
執 政 長 官 に就 任 して い る 。 そ の子 、 っ ま りロ ック の 曽祖 父 、 エ ドワー ド ・ロ ック(?一?)は
、
イ ング ラ ン ドの 南部 の ドア セ ッ ト州 へ 移 り、バ ック ラ ン ド ・ニ ュー トンに住 み 、1573年 に は 教
区委 員 に な り、 ま た 、 教 区 委 員 を代 表 して教 会 に奉 仕 す る世 話 人 に な って い た よ うで あ る。 祖
父 ニ コラ ス ・ロ ック(1574-1648)は
、織 物(服 地)製
造 販 売 業 者 で あ り、若 い 頃 に ドア セ ッ
ト州 か ら、 か な り恵 ま れ た 農 業 生 産 地 の一 つ で あ った サ マ ー セ ッ ト州 に移 住 し、 州 の 北 部 を 流
れ る チ ュー河 畔 の パ ブ ロ ウ に居 を定 め た。 す なわ ち 、 行 政 上 パ ブ ロ ウ の教 区 の 中 に あ った ペ ン
ス フ ォー ドの ベ ル トンに 一 軒 の 家 を購 入 した 。 かれ は 、 土 地 を買 って地 主(ジ
ェ ン トリ)と な
り、 同時 に毛 織 物 を 営 む 織 元 と な って い る。 かれ の こ こで の 暮 し向 は よ か った よ う で あ る。 か
れ の時 代 に は 、 古 い 手 工 業 制 度 は 問 屋 制 に道 を譲 って い た 。 そ れ に よ って毛 織 物 製 造(販
売)
業 者 は大 き な企 業 家 に な り、 多 くの労 働 者 を使 用 す るよ う に な った 。 サ マ ー セ ッ トの 毛 織 物 製
造 業 者 の な か に は 数 百 人 の 労 働 者 に職 を与 え 、 か な りの 財 産 を 蓄 え る も の も しば しば い た 、 と
いわ れ て い る13)。ニ コ ラ ス も 、 お そ ら く、 こ の よ う な 羽振 りの よ い部 類 に属 して いた の で は な
いで あ ろ う か。 ニ コラ ス は 二 度 結 婚 して い る 、最 初 は1603年7月4日
ク の祖 母 と な る 女性 と 結 婚 し、6人
に ペ ンス フ ォー ドで ロ ッ
の子 供 を も う け た が 、 妻 の 死 に よ って 、1624年11月18日
に
あ る未 亡 人 と結 婚 して い る。 彼 は 結 婚 後 パ ブ ロ ウ(ベ ル トン)の 住 居 を去 って後 妻 の 家 に 移 り
住 ん だ 。 この妻 の 家 は チ ュー ・マ グ ナ の サ トン ・●
ウ イ ク と よば れ た か な りの 家柄 の家 で あ った 。
ニ コ ラ ス は こ こ で生 涯 を 終 って い る(1648)。
した が って か れ は サ トン ・ウ イ ク の ニ コ ラス ・
ロ ック と よば れ た14)。
哲 学 者 の父 、 ジ ョン ・ロ ック(哲 学 者 と 同姓 同名)は
、 ニ コ ラス の先 妻 の子 で も あ り、 ベ ル
トン の家 を受 け継 い だ。 そ こで ロ ックの 家 はベ ル トンと い わ れ た 。 こ の家 は 、今 も な お 、 自然
の す ぐれ た 環 境 に恵 まれ 、 岡 の 上 に あ る快 適 なチ ュー ダ ー 風 の 農 家 で あ り、 メ ンデ ィ プ ・ヒル
ズ を見 晴 す 眺 望 のす ば ら しい 家 で あ った 。 哲 学 者 ロ ック は幼 ・少 年 時 代 を こ こで過 した の で あ
る。 現 在 、 家 は全 面 的 に 改築 さ れ て お り、 隣 り合 った農 家 の あ る部 分 が 創 建 当時 の建 物 の お も
か げ を ど う に か 留 め て い る15)。ロ ック の母 の 実 父 エ ドマ ン ド ・キ ー ンは 、 ロ ック の祖 父 ニ コ ラ
ス の 後 妻 の親 戚 で 、 リ ン トンの 製 革 業 者 で あ った 。 当時 多 くの 製 革 業 者 は小 ジ ュ ン トリに 属 し
て いた 。
上 述 か ら、 ロ ック の 父方 と母 方 との 祖 父 まで の生 業 は商 人 ・製 造 業 者 で あ った 。 で は この よ
う な生 業 は ど の よ う に して形 成 さ れ て きた の で あ ろ うか 。 山 本 に よれ ば 、14世 紀 か ら15世 紀 に
か け て、 農 業 生 産 力 の上 昇 、 毛織 物 工 業 の 興 隆 、 賦 役 地 代 か ら貨 幣 地 代 へ の転 換 と後 者 の 固 定
地 代 化 な ど に う なが され て農 民解 放 が す す ん で い った 。 ヨー マ ン リ階 層 の成 立 が それ で あ る 。
そ して 、16世 紀 に入 る と ヨー マ ン リ内部 にお け る分 解 現象 が激 しくな り、 上層 農 民 は富 農 層 へ 、
そ して ジ ェ ン トリ階 層 へ と上 層 して い った 。 富 農 や ジ ェ ン トリは 国 王 、 貴 族 、 教 会 の土 地 を 買
収 して経 営 規 模 を拡 大 す る と と も に 、 毛 織 物 工 業 へ と投 資 、 囲 い 込 み 運 動 の促 進 、 地 代 ・一 時
金 の 引 き上 げ な ど経 営 方 法 に も近 代 的 改 良を くわ えっ っ経 済 力 を蓄 積 して い った16)。こ の よ う
な趨 勢 の なか で 台頭 して きた 商 人 層 の あ る もの 、 た とえ ば 貿易 商 人 、仲 買 人 、問 屋 商 人 な ど は、
農 村 へ 進 出 し、 ジ ェ ン トリ的土 地 経 営 や 毛 織 物 工 業 へ と乗 り出 し、 生 産 と関 連 を もっ に い た っ
た の で あ る。 か れ らの多 くは ピ ュー リタ ンで あ った 、 と い え よ う。 ロ ックの 祖 父 まで の家 柄 は
この よ う な流 の 中 に あ った商 人 ・製 造 業 を 生 業 とす る ピ ュー リ タ ンの ジ ェン トリで あ った と思
井 上:ジ
267
ョン ・ロ ックの生 涯 と思 想 の展 開(1)
わ れ る。 したが って ロ ック の 出生 前 の家 は、 商 業 上 の取 引関 係 、 利 害 関係 、 ピ ュー リタ ンの ジ ェ
ン トリと して の 対 立 関 係 な ど社 会 的 に複 雑 な 諸 関係 を 内 包 す る家 庭 で あ った 。 そ の よ う な家 に
哲 学 者 の父 が 生 まれ た(1606-1660/1)。
父 は 、 父祖 か らの 生業 を 継 が ず 、 っ ま り 、 こ の 投機 的 で は あ る に して も収 益 の 高 い 職 業 に は
従 事 せ ず 法 律 家 に な った 。 複 雑 な人 間 関 係 を嫌 った の か も しれ な い。 か れ は 、 ペ ンス フ ォー ド
に い く らか の土 地 を も っ 小 地 主 で 、 下 層 ジ ェ ン トリの 末 端 に っ らな る弁 護 士 で あ り、 チ ュー ・
マ グ ナ の治 安 判 事 フ ラ ンシ ス ・バ ー バ ー の書 記 を勤 め た と もい わ れ て い る。 これ らの 職 は 進 歩
的 勢 力 の母 体 で あ る地 方 都 市 の ジ ェ ン トリが 就 く職 で あ る。 か れ の 兄 弟 の方 が経 済 的 に か れ よ
りも成 功 して い た。 これ は法 律 家 た ちが 怠 け 者 で あ った 、 とい う こと を 暗 示 す る も の で は な い 。
か れ らの仕 事 は複 雑 多 岐 に 亘 り、膨 大 で あ った 。 した が って か れ らは 多 忙 で あ り、 ロ ックの 父
も同 じで 、 と て も財 産 の維 持 、 増 殖 に気 を 配 る こ とは で き なか った 、 と思 わ れ る 。 そ の所 為 か 、
か れ は 生 まれ た 時 よ り も貧 乏 な人 に な って 死 を迎 え る こ と に な った17)。ま た 、 か れ は 、革 命 が
起 きた と き議 会 派 の一 将 校 と して参 戦 し、 そ の た め に財 産 を な く した 、 と も いわ れ て い る 。 こ
の よ う な ロ ック の父 の資 産 状 態 は 、 父 自身 や そ の 息 子(哲 学 者)が
紳 士 と して の体 面 を保 っ に
は 心 も と なか った が 、 息 子 を学 校 に遣 る な ど して、 後 年 偉 大 な 思 想 家 に な る資 質 を延 ば させ る
に は十 分 で あ った18)。
父 は 、24歳 の時 、 す なわ ち1630年7月15日
に 、 ア グ ネ ス あ る い は ア ン ・キ ー ン(1597-1654)
と結 婚 した 。 結 婚 式 は ドク タ ー ・ク ル ウ クに よ っ て執 行 され た。 両 親 は と も に ピ ュー リタ ンで
あ った 。
父 のす ぐ下 に1607年7月13日
生 れ の ピー ター(1607-1686)と
い う 弟 が い た 。 っ ま り哲 学 者
の叔 父 で あ る。 この 叔 父 の子 孫 にっ い て一 言 述 べ れ ば 、 か れ は二 人 の 娘 を も うけ て子 孫 を残 し
た 。 そ の 娘 の ひ と り、 従 姉 妹 の ア ンは ピー ター ・キ ン グ と結 婚 した 。 か れ らの 息 子 、 哲 学 者 に
と って は 「い と この 子 」 、 は ピー タ ー と名 づ け られ た が 、 後 に イ ギ リス の 大 法 官 に な った 。 そ
の 子孫 に あ た る ラ ブ レー ス 伯 爵 家 は ロ ック の残 した 膨 大 な手 稿 、 日記 、 書 簡 等 の ロ ック の研 究
に と って重 要 な 資 料 を 今 世 紀 まで 保 存 して い た 。 そ の 資 料 と は有 名 な ラ ブ レー ス ・コ レク シ ョ
ンで あ り、 これ を オ ク ス フ ォー ド大 学 の ボ ー ドリア ン ・ラ イ ブ ラ リが 所 蔵 して い る19)。
IIIロ
ック の家 の 階 層
ロ ック の家 は イ ギ リス の 社 会 の ど の よ う な層 に属 して い た ので あ ろ う か 。 ロ ックの 曽祖 父 、
祖 父 や 父 な どの 生 業 か ら、 また 、 ロ ックが ク ライ ス ト・チ ャーチ に入学 した 折 の 登 録簿 に は ジ ェ
ン トリの子 息 と記 載 され て い る点 か ら、 ロ ック の家 は ジ ェ ン トリ層 に属 して い た とい え よ う。
で は ジ ェ ン トリと は どの よ う な層 の こ とで あ ろ う か 。
17世 紀 の イ ギ リス社 会 に は お よそ 四 つ の階 層 が 存 在 して い た 、 と いわ れ て い る。 なお 、 こ の
「階 層 」 とい う語 は社 会 学 的 に定 義 され る よ う な、 明確 な、 正 確 な概 念 を 表 わ す もの で は な い 。
当時 は初 期 資 本 主 義 の段 階 で あ り、 身 分 制 は次 第 に崩 解 の 道 を辿 りっ っ あ り、 ま た 、 新 しい階
級 的 な社 会 関 係 が 形 成 され っ っ あ った 。 そ う して 「身 分 は 階 級 を 自 己 の枠 内 に編 入 しなが ら、
か っ 、 そ れ に適 応 す る過 程 を進 ん で い た20)」。 こ う い う 身 分=階 級 が 階 層 と い わ れ て い る。 っ
ま り、 そ れ は 「収 入 の大 小 ・経 済利 害 の 同 異 な い し合 反 とい う意 味 で の階 級 と 法制 的 意 味 で の
旧来 の封 建 的 な身 分 とを と も に含 む よ う な概 念 で あ る21)」。 さ て 四つ の 階 層 と は何 か 。 林 に よ
れ ば22)、
第 一 は 、 いわ ゆ る王 侯 ・貴 族 とい わ れ る も の、 っ ま り0括
して 貴 族 に代 表 され る 階 層 で 、 大
奈
268
良 大
学 紀
要
第24号
領 主 ・大 地 主 の 外 に 豪 商 と いわ れ る人 々を含 ん で い た 。
第 二 は 、 ジ ェ ン トリに代 表 され る階 層 で 、 中 小 領 主 ・中小 地 主 の外 に 富 農 また は 富 商 を含 ん
でいた。
第 三 は ヨ0マ ン=中 農 に代 表 され る 階 層 で 、 他 に都 市 の小 親 方 、 農 村 の 独 立 手 工 業 者 、 小 商
人 な ど含 ん で い た 。
第 四 は 、 上 述 の いず れ の階 層 に も属 さ ない 社 会 の一 般 大 衆 の 階 層 で 、 人 口の 最 大 多 数 を 占 め
て い た と こ ろの 貧 農 、 小 農 、雇 職 人 、 賃 金 労 働 者 、 浮 浪 者 な どを 含 ん で いた 。
さ て 、 ジ ェ ン トリ層 は 、一 言 で い って 中 産 的 地 主 階 層 で あ り、 中 間 的 不 安 定 さ を も って い る
が 、 そ こ には 地 域 差 も あ り、貴 族 層 と と も に若 干 の異 った類 型 が み られ る。 所 領 の経 営 にっ い
て は 、 封 建 的 生 産 様 式 、 あ る い は 、 前 期 資 本 に よ って い る保 守 的 な型 の 領 主 型 の貴 族 ・ジ ェ ン
トリと初 期 資 本 主 義 的 生 産 様 式 に よ って い る進 歩 的 な型 の地 主 型 の 貴 族 ・ジ ェ ン トリとが み ら
れ る。 前 者 は没 落 の運 命 に あ った こ とは 述 べ る まで も な い 。 後 者 に属 す る ジ ェ ン トリは 、大 体
にお い て、 地 方 の行 政 に熱 心 で あ り、 そ の 所 領 の経 営 や 改 良 に 専 念 し、 そ の土 地 を経 営 す る方
法 を 良 く心 得 て 、多 くの 者 は倹 約 に 努 め 、 額 に汗 して勤 勉 に 働 い て い た 。 地 主 型 ジ ェ ン トリの
部 類 に属 す る も の と して は 富 商 が あ り、 ロ ン ドン商 人 層 の や や 下 層 の も の、 地 方 都 市 に お け る
同様 な人 達 、羊 毛 仲 買 人 、 西 部 の 織 元 、 毛 織 物 製 造 業 者 な どが あ る。 か れ らが イ ギ リス の 資 本
主 義 の 発 展 に 貢献 した ので あ る。 また 、 これ らの 層 か ら役 人 や 知 識 人 も多 く出 て い る 。 っ ま り、
中央 や 地 方 の 官職 に就 い た り、法 律 家 、 司祭 、 医 師 な どの 知 的 な専 門 職 に 従 事す る も の が いた 。
これ らの人 た ち の な か に は ピ ュー リタ ニ ズ ム を信 奉 す る も の 、 つ ま り ピ ュー リタ ンが 多 く含 ま
れ て い た。 ロ ック の 家 も この よ う な階 層 に属 す る ピ ュー リタ ンで あ った 。 か れ の家 の 身 代 は 父
の代 に は傾 い た が 、 か れ の 家 は 、 家 柄 も よ く、社 会 階 層 的 に は 、 お よそ ジ ェ ン トリの 下 層 に 属
し、 そ の地 方 の住 民 の 階 層 か ら見 れ ば 、 中層 に属 して い た 、 とい え よ う。 哲 学 者 ロ ックは 、 人
間形 成 の過 程 で 、 ジ ェ ン トリ層 に属 す る ピ ュー リタ ンの もっ 社 会 的 性 格 、価 値 観 や倫 理 観 な ど
を身 にっ け て い った もの と思 わ れ る。 これ らが後 年 の か れ の 思 想 や 行 動 に現 わ れ て く る こ と に
な る。 ま た 、 ロ ックは か れ らの 願 望 や 要 求 を一 つ の ま と ま りの あ る体 系 に基 礎 づ け 代 弁 す る こ
と に な る。
Nピ
ュ ー リタ ン の 様 相
ロ ック の 両親 は ピ ュー リタ ンで あ った 、 と い わ れ て い るが 、 で は ピ ュー リ タ ン とは なん で あ
ろ うか 。 今 さ ら論 議 す るま で もな い 自明 な こ と と思 わ れ るが 、 こ の語 は、 青 木 が 述 べ た よ う に 、
あ い ま い で 多 義 的 で あ る。 か れ は 「1560年代 半 ば か ら1640年 代 の初 め に い た る まで の 間 に、 イ
ン グラ ン ド国 教 会 を 内 部 か らカ ル ヴ ィニ ズ ム の 線 に そ って 改 革 しよ う と望 ん だ 者 た ちで 、 国 教
会 の 規 律 や 礼 拝 様 式 な ど の現 状 に な ん らか の 具 体 的 な不 満 を持 ち 、 そ の 改 革 を め ざ した 者 達 」
を ピ ュー リタ ンと し、 分離 派 と国 教 会 当 局 で 枢 要 な 地 位 を 占 め た 者 は 含 め な い 、 と考 え て い
る23)。な お 、 「予 定 説 」 に反 対 した 人 は ピ ュ0リ タ ンの 中 に入 れ な い 方 が よ い 、 よ う に 思 わ れ
る。 なぜ な らば 、 ピ ュー リタ ニ ズ ム の 本質 は 、 そ の 教 義 の 面 で は 、 カ ル ヴ ィ ンの 教 え 、 と りわ
け か の 「予 定 説 」 に あ った か らで あ る24)。ピ ュー リタ ニズ ム の核 心 と な って い る信 念 を 要 約 す
れ ば 、1)「
聖 書 」 の 中 に現 実 に神 の声 を 聞 く こ とが で き る と い う信 仰 、2)神
中 で 神 を 「礼 拝 」 す る こ とが 必 要 で あ る と い う確 信 、3)自
聖 な美 しさ の
分 は神 に対 して 「責 任 」 が あ る と
い う強 い 観 念 か ら な っ て い る 、 と い え よ う 。 ピ ュー リタ ン は、 こ の よ う な信 念 に 基 づ い て 「生
活 の 規 律 」 を 厳 守 し、 道 徳 的 に厳 格 な行 為 を な し、 神 の栄 光 のた め 自己 が 召 され て い る職 業 労
井 上:ジ
ョン ・ロ ック の生 涯 と思想 の展 開(1)
269
働 に精 励 す る こ とで あ った 。 ピ ュー リタ ンの厳 格 な 生 活 態 度 の根 底 に は カル ヴ ィン的 な 「予 定
説 」 の教 義 が あ った25)。また 、 当時 、 職 業 選 択 の 自 由を 導 入 した職 業 召 命 観 が 予 定 説 と結 び っ
い て禁 欲 的職 業 倫 理 と な っ て ピュ ー リタ ンの職 業 生 活 を 励 ま して い た 。 この よ う な生 活 態 度 が
ピ ュー リ タニ ズ ム を 信 奉 す る集 団や 階 層 の社 会 心 理 、 社 会 的 性 格 、倫 理 観 や 宗 教 観 等 を形 成 し
た の で あ る。
ピ ュー リ タ ンは 、17世 紀 に な る と伝 統 や 環 境(階 層 等)の 相 違 に よ って 、 大 体 三 つ の集 団 に
区別 され て くる こ と に な る。 第 一 は狭 義 の ピ ュー リタ ン、第 二 は長 老 派 、 第 三 は独 立 派 で あ る。
この 頃 は まだ 、 国 教 徒 と ピ ュー リタ ンと が 対 立 概 念 と して意 識 され て お らず 、 意 識 され て く る
の は1660年 以 降 の こ とで あ る26)。と考 え られ て い る。
ピ ュー リタ ンは 世 俗 社 会 で は どの よ う な 集 団 や 階 層 に属 して い た で あ ろ うか 。 か れ らの所 属
集 団 は 、 一 般 的 に い え ば 、反 封 建 的 、 い わ ば 、 反 体 制 的 な集 団 で あ り、 階 層 的 にみ れ ば 、地 主
型 貴 族 ・ジ ェ ン トリ、 ヨー マ ン、 商 人 、 製 造 業 者 一
者一
貿 易 商 人 、 卸 売 商 人 、 問 屋 商 人 、手 工 業
た ちで あ る。 か れ らは地 理 的 には 東 南 部 に多 く住 んで いた 。 も う少 し立 ち い ってみ る と 、
長 老 派 の 人 び と は大 地 主 や 大 商 人 の よ う な社 会 的 ・経 済 的 上 層 に 属 す る人hで
あ り・ い い か え
れ ば 、地 主 型 の貴 族 ・ジ ェン トリの 上 層 、 豪 商 や そ れ に近 い 商 人 層(大 貿 易 商 人 、大 卸 売 商 人 、
大 問 屋 商 人 な ど)で あ った。 独 立 派 の 人 び とは 、 長 老 派 の 人 び とが 属 す る階 層 よ りも低 い 階 層
に属 す る多 数 の人 達 で あ って 、 下 層 の ジ ェ ン トリと市 民 、 また ヨー マ ン ・手 工 業 者 、近 代 的 庶
民 地 主 ・富 め る ヨー マ ン ・中 産 市 民 層 とい った 人 び とで あ った27)。か れ らは 長 老 派 の人 び と よ
り も強 い反 封 建 的 、反 体 制 的 心 情 を も って いた 。 ピ ュー リ タ ンは 、 革 命 期 に は 、述 べ る まで も
な く革 命 派 な い し議 会 派 に加 担 した 。 議 会 派(革 命 派)の
内 部 には 三 っ の党 派 が で き 、 そ れ ぞ
れ の信 奉 して い る教 派 的 立 場 に した が って 長 老 派 、独 立派 、 水 平 派 と よ ばれ た。 議 会 派 の 最 左
翼 を形 成 し活 動 した の が デ ィ ッガー ズ で あ った が 、 革命 を 主 導 し遂 行 した担 い 手 の 主 要 な勢 力
は独 立 派 で あ った。 そ の 主 流 は 右 派 で あ り、 そ の構 成 員 は 、 独 立 派 の議 員 、す な わ ち 、 「残 余
議 会 」 に残 つた議 員 や 軍 隊 の 幹 部 、 将 校 た ちで あ り、 左 派 の 構成 員 の主 体 は 主 に 軍 隊 内 の 下 士
官 ・兵 で あ った。
ロ ック の家 は ピ ュー リタ ンの どの 集 団 にか か わ りを も った で あ ろ う か。 フ ィ ッ リプ ・エ イ ブ
ラ ム ス に よれ ば 、 ロ ック家 の 親 類 ・縁 者 の多 くは長 老 派 にか か わ り、 ロ ック の 家庭 の 性 格 は長
老 主 義 的 で あ った 、 と述 べ られ て い る28)。また 、野 田 は 、 多 分 エ イ ブ ラ ム ス に よ って 、 「ロ ッ
ク の家 は長 老 派 の 清 教 徒 の 家 で あ った 。 母 の生 家 も そ うで あ り、 親 戚 知 人 は 大 抵 同 じ派 の信 仰
に生 き る人 々で あ った。 父が 仕 え た 治安 判 事 ポ パ ム… … も 同 じ派 の 人 で 、長 期 議 会 の議 員 で あ っ
た29)」と述 べ て い る。 こ の こ と に つ い て は 一 考 を 要 す る よ う に思 わ れ る。 ロ ック の 家 は ・ ロ ッ
ク の父 が 活 躍 した 頃 に は 、 父祖 の属 した 社 会 階 層 や 議 会 側 の軍 隊 へ の参 加 、 職 業 な どか らみ て ・
心 情 的 に は 長 老 派 よ り も独 立 派 に傾 い て い た の で は ない だ ろ う か。
独 立派 の も っ 傾 向 や 特 徴 を探 ってみ る こと に す る。 独 立 派 の教 会 組 織 の 原 則 は 、 独 立 派 に属
す る社 会 層 の 社 会 的 性 格 か ら、 民主 主 義 的 で あ るが 、 独 立 派 政 治理 念 の 基 本 的 特 徴 は ・ こ の世
に お け る歴 史 的 な存 在 と して の 国家 体 制 も神 か ら 由来 した も の で あ る と して 把 握 され 、 「神 の
定 め 」 の 意 識 が 体 制 観 の基 調 に な って い た30)。この よ う な態 度 が か れ らの 思想 傾 向 ・ 体 制 観 ・
政 治 理 念 に 矛 盾 と思 わ れ る複 雑 さ を も って 現 わ れ て くる。 かれ らは 、 そ の 国 家 か ら分 離 、 集 会
の 独 立 を め ざ して お り、 宗 教 的 傾 向 と して は 個 人 の 「良心 の 自由 」 を 重 視 してお り ・ した が っ
て個 人 主 義 傾 向 を示 して い る。 この傾 向 は 宗 教 的 寛 容 の主 張 と な って 現 わ れ て い る。 ま た ・ 抵
抗 権=革 命 権 の 設 定 に よ る政 府 に対 す る拘 束 や 自然 権 と して の 自己 防 衛 権 な どの主 張 が 見 られ
る。 これ ら総 じて進 歩 的 な性 格 を も っ 要 求 は 、 歴 史 的 秩 序 は 神 に 由来 す る と い う意 識 に よ って
270
奈
良 大
学
紀 要
第24号
強 い 制 約 を 蒙 り、 個 人 の 自然 的権 利 を 基 盤 と して合 理 的 に 国 家 体 制 を 形 成 しよ う とす る 思想 は
見 出 され な い。 独 立 派 主 流 の体 制 観 は 、 現 象 と して、 君 主 制 と 共 和 制 、 独 裁 制 と 民主 制 と の 問
を 動 揺 す る 。 い う なれ ば 、 無 方 向性 一
浮 動 的 ・中 間 的 性 格
を 示 して い る31)。か れ らは 本
質 的 に現 状 維 持 的 で 妥 協 的 な性 格 を も って い るの で は な い か と思 わ れ る ほ どで あ る。 こ の よ う
な性 格 は 、 この 派 の担 い手 の所 属 階 層 の い わ ば 中 間 階 級 的 立 場 と 「神 の 定 め 」 の意 識 とが 複 雑
に 絡 ま って 、 現 わ れ た 、 と い え よ う 。 今 井 が 主 張 した よ う に 、 「か れ らの契 約 理 論 に して も 、
全 く神 学 的 に構 成 され た 神 と人 間 との 間 の 契 約 で あ り、平 等 な 個 人 の 自然 権 に立 脚 す る人 間相
互 間 の 契 約 、 合 理 主 義 的 な 『社 会 契 約 』 は 、 未 だ 、 そ こに は 考 え られ て い ない32)」。 こ こ に か
れ らの 契 約 理 論 の 限 界 が あ り、 ホ ッブズ や ロ ック を待 た ね ば な ら なか った 。
ロ ック の家 系 は 、す で に述 べ た よ うに 、 ロ ン ドンの 商人 、新 興 の ジ ェ ン トリ、 毛 織 物 の織 元 、
知 的 専 門 職 と して の 役 人 、 ピ ュー リ タ ンの 革 命 戦 士 と い う 、 当 時 の 新 しい階 層 を典 型 的 に示 し
て い た 。 この よ う な階 層 が 当時 の イ ギ リス 社 会 を担 い、 社 会 を近 代 化 させ る中 心 勢 力 の ひ とっ
で あ った 。 ロ ックは こ の よ う な階 層 の 出 身 で あ るか ら、 これ に よ って か れ の後 年 の思 想 と行 動
が 予測 され る。 ロ ックが 成 人 と して 当 時 の 新勢 力 と旧勢 力 と の 抗争 の 中 で 、 どち ら側 を支 持 し、
どの よ う な態 度 を と る よ う に な る の で あ ろ うか 、 と い う こ と は 大 体 見 当 をっ け る こ とが で き る
で あ ろ う。
Vロ
ックの 出 生 と社 会 の情 勢
哲 学 者 ロ ック は 、 両 親 の 結 婚2年 後 の1632年8月29日(ユ
リウ ス暦)33)に 、 ベ ル トンで は な
くて 、 そ こか ら西 方 へ 直 距 離 で10哩 の と ころ に あ る、 「市 」 の た っ リン トンの 教 会 の入 口の傍
に 建 っ わ ら葺 屋 根 の 母 親 の実 家 で生 ま れ た 。 時 に父 は25歳 、母 は年 長 で35歳 で あ った 。 こ の実
家 は 、 ロ ックの 母 方 の祖 母 の家 で あ り、 ロ ックの 母 が 処 女 時 代 、 っ ま り結 婚 す る まで 住 ん で い
た 家 で あ った34)。こ の生 家 は もは や 建 って は い な い が 、 教 会 の北 門 に隣 接 す る 壁 の 前 に立 っ 高
さ1メ ー トル 足 らず の石 碑 が 生 家 の跡 を 記 念 して い る。 また 、 ジ ョン ・ロ ック ・ル ー ム ズ と表
示 した 記念 館(石 造 二階 建)が 近 くに あ る35)。ロ ック は生 まれ た 日に そ の 教 区 の 牧 師 サ ムエ ル ・
クル ー クの 執 行 した 洗 礼 を受 け た。 そ の 記 録 を リン トン の記 録 所 で 現 今 で も なお 見 る こ とが で
き るが 、 しか し儀 式 が どの よ う な方 法 で執 行 され た か 、 にっ い て 正 確 に 推 測 す る こ と はむ っ か
しい36)。ロ ックは 、 生 まれ て 間 も な く、か つ て 祖 父 の 持 ち家 で あ った 父 の家 で あ るベ ル トンに
移 さ れ た 。 当 時 の イギ リス社 会 は基 本 的 に は 村 落 共 同体 を基 礎 とす る農 業 社 会 で あ り、 ロ ック
の 家 は そ の よ う な社 会 の なか に あ り、 か れ は そ こで 幼 ・少 年 時 代 を過 す こ と に な った 。
か れ の 生 まれ た 当時 の イ ギ リス の社 会 情 勢 を 眺 め てみ よ う。 この 頃 に は 古 い中 世 的 秩 序 はす
で に 過 去 に 属 す る もの に な って い た 。 サ マ ー セ ッ トや ブ リス トル の 商 人 た ちは もは や 旧教 徒 で
は な くて 、 か れ らの 多 くは ピ ュー リ タ ンに な って いた 。 州 の経 済 状 態 は 、17世 紀 初 頭 以 来 物 価
が 騰 貴 し、 経 済 情 勢 の激 しい変 動 に よ って 、 安 定 しなか った の で 、 革 新 へ の 衝 動 に駆 られ る人
び とや 過 去 の栄 光 に憧 れ る人 び と も現 わ れ た。 また 、 ひ どい貧 乏 が 蔓 延 して いた 。 バ ター や チ ー
ズ の値 段 も あが り、 飢 え た 人 び とは 穀 倉 を 襲 い 、 あ る い は多 くの人 び と は窮 乏 か ら首 をっ った 。
と ころ が 、 この よ う な惨 状 に も か か わ らず 、 一 部 の 少 数 者 に富 が 集 った 。 す なわ ち、 物 価 の騰
貴 は法 外 な小 作料 を と る地 主 た ち を、 町 々に食 料 を供給 す る当世 風 の農 民 を 、 さ らにイ ンフ レー
シ ョンを 自分 た ち の利 益 へ と か え る こ との で きた 大 商 人 や そ の他 の もの を 富 裕 に した 。 こ の経
済 的 あ っ れ きは 複 雑 な仕 方 で 宗 教 的 あ っ れ きに 反 映 した 。 さ らに 両 者 は 国 民 の 政 治 の なか に反
映 さ れ た 。 ピュー リタ ンに対 立 す る 高教 徒 、 古 い 型 の地 主 に た ち 向 う企 業 心 に富 む 資 本 家 、専
井 上:ジ
271
ョ ン ・ロ ッ ク の 生 涯 と 思 想 の 展 開(1)
横 な国 王 に 対 抗 す る侠 気 な政 治 家 、 国 王 や 国 教 会 に不 満 を い だ く ピ ュー リタ ンの商 人 。 これ ら
の対 立 は 内 乱 の 前 兆 で あ った37)。
ロ ック の生 まれ た1632年 は 、 以 上 の よ う に 、 中央 、地 方 と も に新 旧対 立 が激 し くな ってお り、
無 議 会 政 治(1629-40)を
行 った チ ャ ー ル ズ ー 世 の 治 世(1625-49)の
(1628)の 提 出 の4年
第7年
目、権 利 請 願
目に あた る。 チ ャー ル ズ ー 世 は 、 父 王 ジ ェー ム ズ ー 世 の 著 わ した 『遊 び
の 書』 を この年 に 再 刊 して、 日曜 日の娯 楽 を 認 め た 。 国 王 は 、 これ に よ って 、 ピュ ー リタ ンの
安 息 日厳 守 に対 抗 した の で 、 ピ ュー リタ ンは 国 王 や 為 政 者 た ち に対 して ひ どい 反 感 を抱 き激 し
く反 嬢 した。 この 安 息 日厳 守 の 危 機 は 、 サ マ ー セ ッ トの み な らず 、 イ ギ リス 全 土 を裁 然 と二 分
した 。す なわ ち、教 会 や諸 々の伝統 を愛 す る人 び とは 国王 や監 督 に対 す る忠 誠 心 を強 化 し、 ピ ュー
リタ ンは両 者 に対 す る敵 意 を 激 化 した 。
内乱 が 起 き た の は 、 ロ ックが 生 まれ た 時 か ら、 な お 、10年 後 の1642年 の こ とで あ った が 、 し
か し、 イ ギ リス人 た ち を 熱 狂 させ 、 内乱 へ と駆 りた て た 諸 勢 力 は こ の頃 す で に 革 命 へ の 高 潮 に
巻 き込 まれ て い た。 王 政 復 古 の 折 に、 ロ ック は 「私 が この 世 の 中 に存 在 す る 自身 に 気 づ くや 否
や 、私 は これ ま でず っと 続 い て きた 嵐 の中 に身 を お い て い た 自身 を知 った」 と 思 い 起 こ して い
る38)。っ ま り、 ロ ック は嵐 の 中 に 生 まれ お ちた ので あ る。
ロ ック の生 まれ た年 の一 般 事 項 を辿 ってみ る と、 ホ ッブ ズ(1588-1679)は
、 デ ヴ ォ ンシ ャー
伯 爵 の三 代 目ウ ィ リア ム ・キ ャ ヴ ェ ンデ ィシ ュの家 庭 教 師 を しなが ら、 『第0原 理 に っ い て の
小 論 』 を 執 筆 して い た が 、 ま だ 著 作 家 と して は 知 られ て い なか っ た 。 ガ リ レオ ・ガ リ レ イ
(1564-1642)が
「天 文 対 話 」 を 著 わ した が 、 これ が 地 動 説 に 関 す る著 書 の禁 令(1613)お
よ
び 教 皇 を愚 弄 した も の と され 、 か れ は 、 翌1633年 に ロ ー マ に 召 喚 され 宗 教 裁 判 所 で 異 端 と して
審 問 を受 け 、 反 聖 書 的 と して 自説 を 撤 回 し、 有 罪 の判 決 を 受 け 、 シ ェナ に幽 囚 の身 と な って い
る。 デ カル ト(1596-1650)は
論 文 』(『 世 界 論 』)と
、 オ ラ ン ダで 自然 にっ い て 思索 を 練 り、 『世 界 と光 に っ い て の
して完 成 し、 い ざ印 刷 と い う段 階 で ガ リ レイの 事 件 が 起 き た の で 、 公
刊 を 断 念 して い る。 ロ ック と 同年 に 生 まれ た 者 と して は 、 ク リス トフ ァー ・レ ン(数 学 者 、 建
築家
セ ン ト ・ポ ー ル 教 会 堂 等 を建 築)、
大 陸 で は サ ム エ ル ・プ ー フ ェ ン ドル フ(1632
-1694)や
ス ピ ノザ(1632-1677)を
あ げ る こ とが で き る。
チ ャー ル ズ の 無 議 会 政 治 を助 け た の は 、1632年1月
ス ・ウ ェ ン トワー ス(1593-1641、
に ア イ ア ラ ン ドの 総 督 代 理 と な った トマ
の ち の ス トラ フ ォー ド伯)と1633年8月
教 と な った ウ ィ リア ム ・ロ ー ド(1573-1645)と
に カ ンタ ベ リ大 主
で あ った 。 ロー ドは 説 教 運 動 の浸 透 に よ って
揺 い で い た 国教 会 の危 機 を打 開 す る使 命 を担 って大 司教 に就 任 した の で あ る。 か れ らは、 後 に、
ロー ド体 制 、 あ る いは ロ ー ド=ス トラ フ ォー ド体 制 と よ ばれ る こ とに な る弾 圧 の体 制 を1640年
か れ らが 失 脚 す る ま で と る こ と に な った39)。この よ う な体 制 が か れ らに よ って と られ た の は 、
当 時 一 般 に、 宗 教
民 衆 を 支 配 す る重 要 な機 能 を もっ 一
が社 会 に、 教 会 が 国 家 に不 可 欠 で
あ る と考 え られ て い た か らで あ る。 っ ま り、 民 衆 を 支 配 す る た め に 国 教 会 が 国 家 、 い な かれ ら
為 政 者 に と って 不 可 欠 で あ った か らで あ る 。 政 教 は 当時 一 致 して お り、 複 雑 に絡 ま り 、両 者 を
区 別 す る こ とは 困 難 で あ った 。 か れ らは 、 ピ ュー リタ ン に よ る政 教 一 致 で は な く、 ピ ュー リ タ
ンの 抵 抗 に よ る国 教 会 体 制 の弱 体 化 を 防 ぎ 、 体 制 の 強 化 を 図 った の で あ る。 す なわ ち 、 ロ ー ド
は 、 反 ピ ュー リタ ン的 態 度 を 明 らか に し、 カル ヴ ィニ ズ ム に対 立 す るア ル ミ ニ ア ニ ズ ム を採 用
し、 説 教 運 動 を 禁 止 し、 強 制 と弾 圧 に よ って ピ ュー リタ ンの活 動 を抑 え て か れ らの勢 力 を 弱体
化 し、 ピ ュー リタ ンの み な らず 他 の非 国教 徒 に 対 して 宗 教 的 寛 容 に よ って で は な く、 国教 会 に
よ る政 教 一 致 に よ って 抑 圧 を強 化 し、 国教 会 的 イ ン グ ラ ン ドの秩 序 、 っ ま り 国教 会 体 制 の確 立
と維 持 を 図 る政 策 を 強 行 した 。 これ に抵 抗 す る ピ ュー リタ ンに対 して 、 か れ ら は星 室 庁 や 高等
奈
272
良 大 学
紀 要
第24号
宗 務 裁 判所 を用 い て厳 しい弾 圧 を加 えた 。 これ が ロー ドの 「徹 底 政 策 」 とい われ るも ので あ る。
耐 え る こ と ので き な い 弾 圧 に 対 して、 当然 大 規 模 な抵 抗 が 組 織 化 され た し、再 び 急 進 的 な国 教
会 糾 弾 の運 動 も起 こ っ て お り40)、ま た 、 ピ ュー リタ ニ ズ ム が 次 第 に 「地 方 」 に定 着 しは じめ 、
そ の戦 闘 性 が 高 め られ た41)。旧教 会(徒)の
抵 抗 も 侮 りが た い も の で あ った 。 そ の精 神 的 支 柱
と な った の が 王権 神 授 の 信 仰 と 旧教 会 は神 授 の権 威 を もっ と い う信 仰 で あ り、 これ らは 、 人 民
が 最 高 の権 力 を もっ と い う信 仰 と衝 突 し、 イ ギ リス に しば しば大 騒 動 を 起 こ させ る こ と に な っ
た。 リ ン トンに 生 まれ た ひ と りの子 供 は 、 旧 教 、 国 教 、 清 教 の三 巴 の 争 い に 巻 き込 まれ 、 関 係
者 と して 、 思 想 家 と して解 決 の道 を 求 め て 進 ま なけ れ ば な らな い運 命 を 背 負 わ され た 。72年 の
か れ の 生 涯 の 大 半 は教 会 と国 家 と の 問 に 生 じた 危 機 と対 応 す る こ と に な った42)。か れ の 寛 容 論
は 対 応 の 指 導 書 で あ り、指 針 で あ った 。
ロー ド体 制 下 の も う0つ の 問 題 は 財 政 問 題 で あ り 、 国王 側 は 、 議 会 の 承 認 を必 要 と しな い収
入 確 保 の 方 法 を考 え 出 した 。す なわ ち、 そ れ は、 国王 が勝 手 に トン税 、 ポ ン ド税 を取 りた て 、
さ らに船 舶 税 を も と る こ とに な った 。 これ に よ って 国 王 の 専 断 は 極 点 に達 した 。 こ の税 の徴 集
は 、後 に述 べ る よ う に 、 ロ ックの 父 に と っ て厄 介 な苦 痛 な 仕 事 に な る ので あ る。
VIロ
ック の幼 ・少 年 期 の 家 庭 と騒 乱
ピ ュー リ タ ンで あ った ロ ック の両 親 は 、17世 紀 の イ ギ リス の ピ ュー リタ ンの 中 産 階 級 の 家 庭
に 共 通 の社 会 的 性 格 で あ る厳 粛 な信 仰 心 、 そ れ を 軸 とす る清 潔 で 厳 格 な宗 教 的 雰 囲 気 、 思 慮 深
い そ して 自信 にみ ち た勤 勉 さ 、 自 由 の愛 重 を 受 け っ いで い た43)。ロ ックは 、 緑 に 囲 ま れ た 小 さ
な村 で 、 この よ う な性 格 を もっ 家 庭 で 育 て られ 、 厳 しい しっ け を体 験 した 。 か れ は 、 節 制 し、
励 み 、 努 力 す る よ う に鍛 え られ た 、 ま た 、 簡 素 を 愛 し、 過 度 な飾 りや 虚 飾 を 憎 む よ う に育 て ら
れ た 。 か れ は 、 成 人 しい ろ い ろ な経 験 を し、 か れ の 視 野 を広 め 、 見解 を か え る こ と に な るが 、
か れ の 生 き方 に対 す る根 本 的態 度 は この よ う な家 庭 の教 育 に よ って ぴ た っ と身 にっ いた と い え
よ う44)。ダ ン は、 ロ ック が 成 人 期 を通 して 深 い ピ ュー リタ ンの 典 型 的 な心 情 を もち 続 け て い た
こ とは か れ の 手稿 に よ って 明 らか で あ る、 と述 べ て い る45)。ロ ックが 信 仰 の 篤 い 信 者 で あ った 、
と いわ れ て い るが 、 そ う だ と した ら、 そ の 素 地 は こ こ に あ った 、 とい え よ う。
ロ ック は 、幼 少 の 頃 、 父 か ら訓 育 され た と まで は い え な い に して も、 少 くと も感 化 され た 、
と思 わ れ る。 父 は 、性 格 上 謹 厳 で 無 口 な人 で あ り、時 に短 気 で サ デ ィズ ム の気 配 が な いわ け で
は なか った 。 ロ ック の思 い 出 に よれ ば、 「あ る と き、 父 は 、 か っ とな って 、 わ た く し(ロ ック)
が それ ほ ど悪 い こと を して い ない の に、 な ぐ った が 、大 人 に な った 後 に、 こ の こと を厳 粛 に わ
び た46)」ので あ る。 ロ ック は後 年 か れ の 『教 育 に 関す る 考 察 』(『 教 育 論 』)に お い て 父親 の
面 影 の0端 と 思わ れ る も の を 書 き残 して い る。 それ に よれ ば47)、
「少 しで も 自分 の 子 供 を 監 督 しよ う と考 え る人 た ち は 、 子 供 が 非 常 に小 さ い 間 に 始 め 、 子 供
が 完 全 に 両 親 に 従 うよ う に注 意 す べ きで す 。 自分 の 息 子 が 、 子 供 時 代 を過 ぎ て も、 自分 に 従 う
こと を お 望 み で し ょうか 。 そ れ な ら、子 供 が 服 従 で き、 誰 の 権 力 に 自分 が屈 して い るか を 理 解
で き るよ うに な った と き、 す ばや く父 親 の権 威 を 確 立 しな さ い。 も し子供 に 自分 を 畏 敬 させ よ
う と望 む な ら、 子 供 の 幼 時 に刻 み っ け な さ い 。 そ して 子 供 が 大 人 に近 づ くに っ れ て 、 も っ と馴
れ 馴 れ しくす る こ と を許 しな さ い。 そ うす る と子 供 の 間 は子 供 を忠 実 な 臣 下 に して お き(適 切
な こ とで す が)、 大 人 に な った と き は親 愛 な友 人 にす る こ と に な りま し ょ う。 とい うの は 、 思
う に 子 供 が 小 さ い間 は甘 く馴 れ 馴 れ し くす るが 、 大 人 に な る と子 供 に厳 格 で 子 供 と距 離 を も っ
て い る人 た ちは 、 自分 の子 供 の正 当 な 扱 い を 非 常 に誤 って い る の で す 。 とい うの は 自 由 と放 縦
井 上:ジ
273
ョン ・ロ ックの 生涯 と思 想 の 展 開(1)
は 、 子 供 には け っ して 良 い結 果 を与 え ま せ ん 。 子 供 に は判 断 力 が 欠 け て い る ので 束 縛 と訓 練 が
必 要 で す 」(40節)。
子 供 が 小 さ い と き に は 、両 親 を 自分 の 主 君 、 絶 対 的 な統 治 者 と看 倣 し、 そ う い う も の と して
両 親 を 畏 敬 す る こ と、 そ して成 人 に な る と、 子 供 が 両 親 を最 良 の 友 と も、 また 他 に な い確 か な
友 と も考 え 、 そ う い う も の と して 両 親 を 愛 し、 尊 敬 す る の は 、誰 しも理 にか な った も の と判 断
す る とわ た く しは想 像 します 」(41節)。
「怖 れ と畏敬 に よ って、 子供 の心 を最 初 に 支配 す べ きで あ り、成 長 す れ ば 、 愛情 と友 情 に よ っ
て そ の 支 配 力 を維 持 す べ き で あ る 」(42節)。
マ シ ャ ム夫 人 一
ケ イ ム ブ リジ ・プ ラ トン派 の 哲 学 者 ラル フ ・カ ドウ ァス の 息 女 ダ マ リス 、
晩 年 の ロ ック の面 倒 を 見 た
は 、 ロ ックか ら、 か れ の 父 につ い て 聞 い た こ と を、 ロ ック の 死
後 、 書 き留 め て い る。 す なわ ち 、 ロ ックの 父 は 「子 ども の うち は 畏 敬 させ 、 隔 て を お かせ て 、
厳 しく臨 む が 、 大 人 に な る に っ れ て 、 だ ん だ ん 厳 しさ を ゆ るめ る、 と い うや り方 で 、 っ い に は
友 だ ち に なれ る よ う に な る と、 す っか り友 だ ち付 き合 い で い っ し ょに く ら した48)」。 マ シ ャム
夫 人 の以 上 の よ う な言 葉 は 、 ロ ック が 自分 の 父 が 自分 た ち 子供 に 対 す る態 度 を書 い た こと(上
に引 用 した 文 章)を 証 して い る 、 と い え よ う。 ロ ック は この よ う な父 に よ って感 化 され た の で
あ る。 ロ ック は 、母 親 に っ い て は 多 くを 語 っ て い な いが 、 母親 を 非 常 に敬 慶 な女 性 で 、優 しい
母 親 と い って い る49)。母 は 、 ロ ック の22歳 の 時(1654年)に
死 ん で い る。 美 しい 婦 人 で あ った
よ うで あ る。 ロ ックが 両親 か ら受 け た 薫 陶 は 、 よか れ あ しか れ 、 死 に いた る 日ま で 、 か れ の 感
情 や 態 度 の 中 枢 に残 って い た 、 と い わ れ て い る50)。
ロ ック の若 い時 代 に か れ の 人 間 形 成 に と っ て重 要 な人 的要 因 の0つ
は ア レク サ ンダ ー ・ポ パ
ムで あ る。 ポ パ ム家 はサ マ ー セ ッ トと ウ イル トシ ャー と にわ た って よ く知 られ た裕 福 な家 で あ っ
た 。 ロ ック父 子 と ポパ ム と の 関係 と して 知 られ て い る こと は 父 か 治 安 判 事 で あ る ポパ ム の 書 記
を勤 め て いた こ と で あ る 。 父 は 、 ポ パ ム よ り一 歳 年 下 で あ り、 友 人 で あ った の で 、 治 安 判 事 の
代 理 人 と い った 立 場 に あ った よ うで あ る。 哲 学 者 ロ ック が ポ パ ムの 世 話 に な る の は青 年 期 に 近
づ い てか らで あ る。 ロ ック の 幼 年 期 に 父 や ポ パ ム の心 を悩 ま した 主 要 な 問題 は船 舶 税 の徴 収 の
仕 事 で あ った 。 これ は 、 す で に 述 べ た よ う に、 ロ ー ド体 制 の 最 大 の 弱 点 で あ った財 政 問題 か ら
起 きた も ので あ る。 船 舶 税 は 、1634年 に復 活 され 、 は じめ は 比 較 的 平 穏 裡 に徴 集 され た が 、 し
か し後 に拒 否 事 件 を 引 き起 こ し、 抵 抗 は 全 国各 地 に広 が った 。 なぜ な らば 、関 税 や 船 舶 税 の 大
権 的 徴 収 は 、 ジ ェ ン トリや 商 人 層 に 大 き な打 撃 を与 え て お り、1632年 の ジ ェー ム ズ の娯 楽 の 奨
め と と も に 、商 売 と信 仰 との 両 面 か ら、 ジ ェ ン トリや 商 人 階 層 の 国王 に対 す る敵 意 を激 化 させ
た か らで あ る。 した が って か れ らが 税 の 徴 収 に対 す る反 対 運 動 の 中 心 的 担 い手 に な った 。 最 初
の徴 収 令 状 が 国王 に よ って 発 布 され た の は1634年 、 ロ ックの 二 歳 の時 で あ った。 第 四 の 、 そ し
て最 後 の令 状 が 発 布 され た の は 七 歳 の 時 で あ った 。 父 に と って 心 の進 ま な い嫌 な苦 痛 な仕 事 は
役 目上 管 轄 地 域 の住 民 か ら 自分 た ち が 反 対 す る税 の徴 収 とい う任 務 の遂 行 で あ った 。 大 英 博 物
館 所 蔵 の法 律 家 ロ ック の 手 帳 に は 徴 税 に関 す る詳 細 が 記 録 され て い る。 なお 、 父 の税 額 は8シ
リン グ9ペ
ンス で あ った51)。ジ ェ ン トリで あ り下 級 の役 人 で あ る父 た ち に 課 せ られ た 重 荷 が か
れ らを革 命 へ と駆 りた て た と い え よ う。 幼 時 の ロ ック は 、 父 の 苦 悩 を感 得 で き な か った か も し
れ な いが 、家 庭 に漂 う 暗 い 雰 囲 気 を 感 じて いた で あ ろ う。 この よ う な家 庭 に 明 る い 光 が さ し込
んだ 。 す なわ ち 、1637年 ロ ックの 五 歳 の 時 に弟 トマ ス が 生 まれ た 。 ロ ック に は二 人 の 弟 が い た
が 、次 弟 ピー タ ー は 誕 生(生 年 月 日不 詳)後
間 も な く夫 逝 した 。 末 弟 の トマ ス は 、8月9日
に
洗 礼 を受 け 、長 じて法 律 家 に な った が 、 結 核 で1663年 に 兄 ジ ョン よ りも先 に世 を去 った 。 ロ ッ
ク 兄 弟 は 、幼 ・少年 期 を ベ ル トンの 家(核 家 族)で 過 し、 兄 一弟 と い う家 族 関係 を 経 験 し なが
274
奈
良 大
学 紀
要
第24号
ら成 長 した の で あ る。
1637年 頃 には 、 ロー ドの残 酷 な刑 罰 に よ る弾 圧 が ます ます 厳 し く な る にっ れ 、 国教 会 派 の 中
間 派 的 な部 分 は む しろ ピ ュー リタ ンに 同 調 しは じめ た 。 大 衆 へ の み せ しめ の はず で あ った プ リ
ン達 の 公 開 処 刑 は 逆 に見 物 人 に プ リ ン達 を 支 持 させ る こ と に な った 。 なお 、 こ の年 大 陸 で は デ
カル トが 『方 法 叙 説 』 を 出版 してい る。 ス コ ッ トラ ン ドで は 、1637年11月 に は貴 族 、 レアー ド、
市 民 、 長 老 派 牧 師 の各 代 表 か らな る委 員 会 が 結 成 され 、1638年2月
(Covenant)」
には 代 表 者 に よ って 「契 約
が 作 成 され た 。 こ の契 約 とい う 思想 は 、 元 来 、 神 と 人 との 間 に結 ば れ る も の
と考 え られ て いた が 、 ピ ュー リ タ ンに よ って 、 教 会 を組 織 す る際 の 人 と人 と の契 約 と され 、 さ
らに新 しい社 会 の建 設 の 際 に も用 い られ る よ う に な った。1638年 の 「契 約 」 は 「国 民契 約 」 と
して ひ ろ く知 られ る よ う に な った もの で あ り、 国 民 の再 組 織 を め ざす も ので あ り、 具 体 的 に は
チ ャー ル ズ の教 会 政 策 に対 す る抵 抗 組 織 を よび か け た も の で あ った52)。この 人 と人 と の契 約 と
い う思 想 が 革 命 を起 こす 要 因 の 一 つ で あ り、 ホ ッブ ズや ロ ック に も影 響 した と思 わ れ る。 税 の
不 払 な どの ピ ュー リタ ンの反 応 が 強 ま る につ れ て・40年 か ら41年(ロ
て、 議会 が 主 導権 を握 る よ うに な った 。1640年4月
ック の8-9歳)に
かけ
にチ ャー ル ズ は 、 ス コ ッ トラ ン ドの カル ヴ ィ
ン派 の抵 抗 を鎮 圧 す る経 費 を まか な うた め に、 議 会 を 召 集 した が 、 議 会 の反 対 に あ い 、3週 間
で 議 会 を解 散 した 。 これ が い わ ゆ る短 期 議 会 で あ る。1640年10月
に は新 た に議 会 を 召集 す る た
め の 選 挙 が 行 わ れ 、新 議 会 は11月 に召 集 され 、 ク ロ ンウ ェル の 手 に よ っ て解 散 され る1653年 ま
で12年 半 も続 いた 。 した が って 長 期 議 会 と よ ばれ る こと に な った 。 選 出 され た 議 員 の 出 身 階 層
は圧 倒 的 に ジ ェ ン トリが 多 か った 、 とい わ れ て い る53)。教 会 改 革 の推 進 を 求 め る議 会 説 教 の制
度 化54)され た 長 期 議 会 は 、 国 王 の要 求す る 課 税 審 議 を拒 否 し、 ロ ー ドや ス トラ フ ォー ドた ち 指
導 者 の追 放 、星 室 庁 や 高 等 宗 教 裁 判 所 の廃 止 、 不 当 な独 占や 関 税 の停 止 と い った改 革 を あ い つ
いで 断 行 して い った55)。国 王 の専 政 的 無 議 会 政 治 は公 然 と 非 難 され 、 国 王 は 議 会 と提 携 して 統
治 す べ きで あ り、 貴 族 と庶 民 と と も に議 会 の 一 構 成 員 にす ぎ な い と考 え られ る よ う に な った56)。
なお 、40年5月9日
に は ホ ッブズ が 『法 の原 理 』 を著 わ し、 手 稿 の ま ま 回覧 して い る 。 ロ ック
が 後 にか れ の 『政 府 論 』 で反 駁 す る こ と に な る ロバ ー ト ・フ ィル マ ー(1588-1653)の
『族 長
(家 父 長)、 別 名 、 国王 の 自然 的 権 力 』 と い う論 文 が1635年 頃 か ら1640年 前 後 ま で の 頃 に 書 か
れ 、 手 稿 の ま ま 回 覧 され 、 あ る も の は 国王 に献 じられ た 、 とい わ れ て い る。 この論 文 の狙 い は 、
内乱 勃 発 の前 夜 に お け る中 産 階 級 お よび ヨ ー マ ンの革 命 的 高 ま り に対 して 国王 の 支 配 を 擁i護す
る こ と に あ った 、 と い え よ う。
社 会 情 勢 が 革命 的様 相 を お び る にっ れ 、1641年11月 に ピ ム、 ヘ ン リー ・ヴ ェー ン、 オ リヴ ァ・
ク ロ ム ウ ェルた ち は 、 「大 諌 奏 」(「 大 抗 議 文 」)を 議 会 に 提 案 し、 国王 の失 政 を 批 判 し、 長
期 議 会 に対 す る非 難 を反 駁 した 。 これ に は公 権 事 項 に お け る国 王 大 権 そ の も の を議 会 の 掌 握 下
にお き 、議 会 主 権 を要 求 し、 新 しい政 治 体 制 の樹 立 を め ざす 狙 いが あ った。 これ は 議 会 を 僅 小
の差 で 通 過 した が 、議 会 を 王 党 派 と議 会 派 と の二 つ の 陣 営 に 二 分 す る こ と に な った 。
ア イ ア ラ ン ドで 、 カ トリ ックの 叛 乱 とか れ らに よ るプ ロテ ス タ ン トの大 量 殺 害 が1641年10月
にお こ り、 この し らせ が イ ン グ ラ ン ドを興 奮 の るっ ぼ に なげ こん だ と き 、 グ ッ ドウ ィ ンは 『ア
イ ア ラ ン ドの擁 護 者』 と題 して 、 反 乱 の直 後 、11月14日 に 説 教 した 。 そ の な か で 、 ア イ ア ラ ン
ドで の プ ロテ ス タ ン トの 生 命 、 自 由 と財 産 を守 り、救 い 、 また カ トリ ック と い う 「反 キ リス ト
の蜂 ども 」 を た た くた め に努 力 す べ きだ と訴 え た57)。この 生 命 、 自由 、 財 産 は ロ ック が 後 に 主
張 す る プ ロパ テ ィに あ た る もの と い え よ う。 ロ ック が プ ロパ テ ィの保 全 や 旧教 徒 に 対 す る非 寛
容 を主 張 した の は グ ッ ドウ ィンた ち の主 張 を受 け っ い だ もの と い え よ う。
政 治 ・経 済 ・宗 教 の 問 題 に まっ わ る新 旧両 勢 力 、 各 階 層 間 、 国王 ・議 会 の 問 の あ っ れ き は ま
井 上:ジ
ョン ・ロ ック の生 涯 と思想 の展 開(1)
す ます 激 し くな り、我 慢 の 限 界 に達 した 国王 は 、っ い に1642年8月
275
末 、 ノ ッテ ィ ン ガム で 兵 を
挙 げ た ので 、 内乱 が始 ま った 。 ロ ックが10歳 に な る 頃 で あ った 。 ポ パ ム は議 会 軍 の 大 佐 と して
騎 兵 隊 を組 織 し、 ロ ック の 父 は 大 尉 と して か れ の指 揮下 に は い り王 党 軍 と戦 った。 か れ らの 軍
は、 は じめ は優 勢 で あ った が 、 翌 年 に は 敗 北 し、 か れ らは 私 財 を 失 う破 目に な り軍 務 を去 って
い る。 ロ ック家 に と って不 幸 な 日 々で あ った 。 騒 乱 の嵐 は 、 感 じ易 い ロ ック の心 を傷 っ け 、 後
にか れ に 自 由 ・平 等 に して平 和 な 民 主 的 社 会 を構 想 させ る萌 芽 に な った 、 と い え よ う。 ま た 、
ホ ッブズ が 『市 民 論 』 を まず 出版 す る契機 と も な った 。
1646年(ロ
ック14歳)に5年
にわ た る内 乱 が よ うや く収 ま った 。 ロ ック少 年 は こ の年 頃 ま で
に学 校 教 育 を 受 け た で あ ろ うか 。 ク ラ ンス トン もエ ア ロ ンも これ に っ い て は 述 べ て い な い。 あ
る研 究 者 が 、 ロ ック は近 くの ブ リス トル に あ る グ ラ マ ・ス クー ル で 学 ん だ 、 と述 べ て い るが58)、
そ れ を確 証 す る資 料 を も ち あわ せ て い な い 。 ブ リス トル はか れ の 家 か ら歩 い て 通 え る所 で は な
い か ら、 か れ が そ こで 学 ん だ と した ら、寄 宿 以外 に 考 え られ な い が 、 そ の よ う な資 料 が 見 当 ら
ない 。学 校 生 活 の 経 験 の な い、 学 友 を持 た な い ロ ックは 、 少 年 と して 時 に は 孤 独 で あ った か も
しれ な い が 、 書 物 に 恵 まれ た 読 書 好 き の家 庭 に 育 ち 、 読 書 を大 い に楽 しみ 夢 中 に な っ て いた 。
ま た かれ を 楽 しませ る もの と して、 巨石 文 化 の遺 構 が か れ の家 の近 くに あ った 。 ベ ル トンか ら
そ う遠 くな い と ころ に ス タ ン トン ・ ドゥル ウ と い う小 さ な村 が あ り、 それ に 接 して ドル ー イ ド
の 巨石 の サ ー ク ル(有 史 以 前 の 大 建 造 物 の遺 跡)が
あ った 。 か れ は 、少 年 時 代 に 、 しば しば そ
こを訪 ね て い た 、 後年 、 著 名 な 同時 代 人 、 ジ ョン ・オ ー ブ リー(1626-97、
古 物 研 究 家)に
あ
い 、 この 巨石 に っ い て 語 りあ った し、 手 紙 のや りと りを して い る。 ま た 、 か れ の 家 の 近 く に、
ロ ー マ の軍 営 地 、 中世 の 鉱 山 な どが あ った 。 か れ は 、 そ の よ う な古 代 の遺 跡 を 後 年 思 い 出 す 機
会 が あ った の で 、 古 代 や 中 世 の遺 跡 に 興 味 を も ち親 しん で い た よ う に 思 わ れ る59。か れ は 、 こ
う して子 供 な り に諸 種 の経 験 を し、 夢 多 い 日々 を過 ご した の で あ る60)。
ロ ック の幼 ・少 年 期 の社 会 的 環 境 の 一一部 分 を以 上 の よ うに 大 雑 把 で 雑 駁 で は あ るが 多 角 的 に
略 述 して き た 。 これ らは 、 ロ ックの 成 長 の過 程 、 っ ま り、 パ ー ソナ リテ ィの 形 成 過程 に お い て 、
か れ の生 得 的 素 質 と複 雑 に 絡 ま って 、 か れ の 心 の 中 に な ん らか の 行 動 傾 向 を も っ体 制 を もた ら
し、 か れ の 後 の思 想 や 行 動 の基 層 を 形 成 す る習 得 的 要 素 と な った 、 と思 わ れ る 。 な お 、 か れ の
生 得 的 素 質 を示 す 資 料 を検 出 で き な い の が 、 目下 の と ころ 、 この 研 究 に と って の大 き な 阻 路 で
あ るが 、 今 後 は 、 出来 れ ば そ の 資料 の 検 出 に努 め 、 か っ か れ の 思 想 や 行 動 の基 層 を探 求 し、 そ
れ に よ って か れ の思 想 の展 開 を究 明 した い 。
奈
276
良 大
学 紀
要
第24号
注
1)浜
林正夫
『イ ギ リ ス 宗 教 史 』(大
2)山
本隆基
『レ ヴ ェ ラ ー ズ 政 治 思 想 の 研 究 』(法
3)森
月 書 店1987年)120頁
修 二 『イ ギ リ ス 革 命 史 研 究 』(御
4)浜
林
前 掲 書70頁
5)花
田圭 介
。
律 文 化 社1986)8頁
。
茶 の 水 書 房1978年)111頁
参照。
。
『ベ イ コ ン 』(勤
草 書 房1982)26頁
、248-250頁
参 照 、 な お 、1620年
、 トマ ス ・ホ ッ ブ
ズ は べ 一 コ ン の 秘 書 と して べ 一 コ ン の 著 作 の ラ テ ン 語 訳 等 に 尽 力 し て い る 。 ベ ー コ ン は こ の 頃
実 験 誌 備 録(パ
ラ ス ケ ー ヴ ェ)』
を 執 筆 し、10月
、
『自 然 誌 ・
『諸 学 の 大 革 新 』 の 題 名 の も と に 『ノ ウ ム ・オ ル ガ
ヌ ム』 に付 して 出版 して い る。
6)浜
林正夫
7)森
『イ ギ リ ス 市 民 革 命 史 』(増
前 掲 書113-4頁
補版
未 来 社1974年)72頁
参照。
参照。
8)cf.G.M.Trevelyan,IllustratedHistoryofEngland,London,1956,p.385.HenryKamen,
TheRiseofToleration,London,1967,p.164.
9)山
本
前 掲 書8-9頁
10)山
本
前 掲 書168頁
参照。
参照。
11)山
本
前 掲 書168頁
、169頁
12)大
林 信 治 ・森 田 敏 照 編 著
、172頁
、173頁
参照。
『科 学 思 想 の 系 譜 学 』(ミ
ネ ル ヴ ァ 書 房1994)82-92頁
参照。
13)cf.M.Cranston,JohnLocke,OxfordUniversityPress,1983,p.5.
14)cf.J.S.Yolton(ed.),ALockeMiscellany,Thoemmes,1990,p.1.
15)cf.Cranston,op.cit.,p.6.R.1.Aaron,JohnLocke.Oxford,p.46.
16)山
本
前 掲 書162頁
。
17)cf.Cranston,op.cit.,p.4,p.10.
18)cf.J.Dunn,Locke,Oxford,1984,p.2.
19)ジ
ョ ン ・ロ ッ ク 、 レイ モ ン ド ・ク リ バ ン ス キ ー 序 、 平 野 取 訳 注
deTolerantia(朝
日 出 版 社1970年)li-lxii参
『寛 容 に っ い て の 書 簡 』Epistola
照 。 平 野 取 は 、 訳 者 序 文 に お い て 、 ラ ブ レー ス ・コ レ
ク シ ョ ン と い わ れ る ロ ッ ク の 膨 大 な 手 稿 、 ノ ー ト、 日 記 類 の 保 管 の 事 情 、 調 査 、 研 究 、 整 理 等 の 詳 細 に
っ い て 、綿 密 に調 べ 、 そ の成 果 を述 べ て い る。
20)林
21)林
22)林
23)青
達
『イ ギ リ ス 革 命 の 構 想 』(学
前 掲 書127頁
前 掲 書127-140頁
木道彦
文 社 昭 和40年)127頁
。
。
参 照。
「ピ ュ ー リ タ ン の 定 義 を め ぐ っ て 」(『
刊 行 会1992年)7頁
社 会 思 想 史 の 窓 』No.98-『
社 会 思想 史 の 窓 』
。 浜 林 は 、 ピ ュー リタ ン と い う名 で 一 括 され る も の を大 別 し、 非 分離 派 の カル
ヴ ィ ニ ス ト、 分 離 派 の カ ル ヴ ィ ニ ス ト、 分 離 派 の 非 カ ル ヴ ィ ニ ス ト と い う 三 っ に 区 別 し、 こ の 三 つ の う
ち 、 第 三 の 非 カ ル ヴ ィ ニ ス トを ピ ュ ー リ タ ン に は ふ く め ず 、 も っ と も 典 型 的 な 、 も っ と も 狭 い 意 味 で の
ピ ュ ー リ タ ン は 第 二 番 目 の 分 離 派 の カ ル ヴ ィ ニ ス トで あ る が 、 教 義 の う え で は か え っ て 非 分 離 派 の 方 が
カ ル ヴ ィ ニ ズ ム を 純 粋 に 保 っ て い る こ と が 多 い よ う で あ る 、 と 述 べ て い る 。 浜 林 、 前 掲 書55頁
24)林
25)林
26)ク
前 掲 書162頁
前 掲 書163-4頁
リ ス トフ ァ ー ・ ヒル
参照。
『十 七 世 紀 イ ギ リ ス の 宗 教 と 政 治 』(小
野功生訳
11頁 以 下 参 照 、 ヒ ル の 原 典 を 入 手 で き ず 、 や む お え ず 訳 本 に よ る 。
27)林
前 掲 書167-175頁
参照。
参照。
参照。
法 政 大 学 出 版 局1991年)
井 上:ジ
277
ョン ・ロ ックの 生涯 と思 想 の 展 開(1)
28)cf.JohnLocke,TwoTractsonGovernment.,ed...byPhilipAbrams,Cambridge,1967,p.
49.
29),野
田 又夫
30)1今
井
31>林
『ロ ッ ク 』(講i談
社
昭 和60年)6頁
宏 、『イ ギ リ ス 革 命 の 政 治 過 程 』(未
前 掲 書252-253頁
32)今
井.前
33)大
槻春彦
掲 書124頁
。
来 社1984年)123頁
参 照 。・
参照。
。 ・,.,
『ロ ッ ク 』(牧
34)・・cf.Cranston,oP.cit.,・
書店
昭 和39年)19-20頁
参照。
や1).5-13.
35)J.S.Yolton(ed.),op.cit.,p.1.
36)Cranston,op.cit.,p.1.
37)cf.Ibid.,pp.2-3.
38)B.L.MSS.Locke,c.28f.2a.cf.Cranston,op.cit.,p.3.
39)浜
林
『イ ギ リ ス 市 民 革 命 史 』75頁
40)山
本
前 掲 書9頁
参照。
41)今
井
前 掲 書18頁
参照。
、
『イ ギ リズ 宗 教 史 』138頁
参照。
42)cf.AlexanderCampbellFraser,Locke,WilliamBlackwoodandSons,Edinburghand
London,1890,p.3.
43)cf.Fraser,op.cit.,p.5.
44)cf.Aaron,op.cit.,pp.2‐3.
45)cf.Dunn.,op.cit.,pp.1-2.
46)cf.Cranston,op.cit.,P.12.
47)JohnLocke,SomeThoughtsconcerningEducation(TheWorksofJohnLocke,ANew
Edition,Vo1.IX,1963),pp.33-4.
ロ ック著
服部知文訳
『教 育 に 関 す る 考 察 』(岩
波書店
昭 和42年)57-59頁
参照。
48)Cranston,op.cit.,p.12.
49)Ibid,.p.13.
50)Dunn,op.cit.,p.1.
51)Cranston,op.cit.,p.16.LawrenceStoneはTheCausesoftheEnglishRevolution1529-16
42(紀
藤 信義訳
『イ ギ リ ス 革 命 の 原 因1529∼1642』
未 来 社1978年181頁)に
おいて船舶税
な どの税 の徴 集 にっ い て の治 安 判 事 の苦 悩 にっ い て述 べ て い る。
52)浜
林
53)今
井
『イ ギ リ ス 宗 教 史 』141-2頁
54)田
村秀夫編
55)山
本
56)水
田 洋 ・安 川 悦 子 ・安 藤 隆 穂 編
57)山
田 園子
前 掲 書20頁
参照。
参照。
『イ ギ リ ス 革 命 と 千 年 王 国 』(同
前 掲 書175頁
文館
平 成2年)40-41頁
参照。
参照。
『社 会 思 想 史 へ の 招 待 』(北
『イ ギ リ ス 革 命 の 宗 教 思 想 』(御
樹 出 版1991年)17頁
茶 の 水 書 房1994年)33頁
参 照。
参 照。
58)cf.S.Kang.ThePhilosophyofLockeandHobbes,MonarchPress,1965,p.69.
59)cf.Cranston,op.cit.,p.13.
60)騒
乱 期 の 戦 況 、 ニ ュー トン の 出 生 等 の 一 般 事 項 や 議 会 派 の 権 利 思 想 等 に っ い て は 紙 数 の 都 合 上 省 略 し 、
次 回 に譲 る こ と にす る。
278
奈
良 大 学
紀
要
Summary
Bygraspingthepersonalityofathinkerandtheprocessofhowhispersonalitywasformed,
wecanbetterunderstandhisbehaviourandhiswayofhisthinking.Oneofthefactorswhich
developthepersonalityisthesocialenvironment.Thisessaytriestoinvestigate'・thesocial
environmentofLocke'schildhoodandboyhood,forexample,thesocialsituationofthosedays
(includingtheCivilWar),hisfamily'senvironmentandhiseducationby`hisparents,andso
on.Itseemstomethattheseenvironmentslaidthefoundationo.fhisthoughtuptoacertain
point.
第24号