イスラエル 創世記32章22節~28節 2016年10月9日(日)礼拝説教

 イスラエル
創世記32章22節~28節
2016年10月9日(日)礼拝説教
皆さん、お早うございます。
毎日の、テレビや新聞の報道を見ておりますと、日本の安倍首
相をはじめ、アメリカのオバマ大統領、中国の習近平国家主席、
ロシアのプーチン大統領、ドイツのメルケル首相、イギリスの
メイ首相、アメリカ大統領候補のヒラリー・クリントンやトランプ、
果ては、小池百合子東京都知事などによる、権謀術数の世界
が、よく、見えてまいります。
今から、約4000年前、この、権謀術数に、非常にたけた、
人物が、おりました。
旧約聖書の創世記に登場して来る、ヤコブという、人物です。
‶ヤコブ″という名前の由来は、‶かかとをつかむ者″‶人を、
出し抜く者″という意味で、アブラハムの息子のイサクから
生れた、双子の兄弟のうちの、弟のヤコブが、産まれて来る時、
お兄さんのエサウのかかとを、つかんで、お母さんの、お腹の
中から、出て来たために、つけられた、名前でした。
ヤコブは、その名前の通り、権謀術数の限りを尽くして、財を
手にした、ずる賢い、男で、ありました。
そんなヤコブが、神さまによって変えられて、神さまを心の中心
に、置く、生き方に、変えられました。
今日は、そのことを、旧約聖書の創世記の32章22節から28節
までを、紐解きながら、ご一緒に、学んでまいりたいと、存じます。
初めに、ひとこと、お祈りさせていただきます。
父なる神さま、御子イエスさま、聖霊なる神さま。だんだん、秋
が、深まって来て、過ごしやすい毎日が、与えられていることを、
心から、感謝いたします。
今日は、ヤコブの、神さまに対する態度が、決定的に変えられ
た、‶ペヌエルの経験″について、学びます。どうぞ、あなたが、
ご一緒して、解りやすく、教えてください。感謝して、イエスさま
の尊い、御名前によって、お祈りいたします。 アーメン。
創世記32章22節。
しかし、彼は その夜のうちに
起きて、ふたりの妻と、ふたりの
女奴隷と、十一人の子どもたちを
連れて、ヤボクの渡しを 渡った。
お兄さんのエサウを騙して、長男の権利を手に入れ、加えて、
お父さんのイサクの祝福も、騙し取った結果、お兄さんの殺意
を、お母さんから知らされて、お母さんの実家に逃げて行った
ヤコブは、今度は、お母さんの兄から騙されて、十四年間も、
ただ働きをさせられたヤコブは、巧妙な手段を用いて、大きな
財を、手にいたしました。ところが、お母さんの兄のラバンの態度
や、その息子たちの、ヤコブに対する態度の変化に気付いた
ヤコブは、自分の家族を引き連れて、自分の故郷に帰ることを
神さまから示され、出発いたしました。
だんだん、自分の故郷が近づいて来ると、自分が騙した、兄の
エサウの、仕返しが、心配になって来たヤコブは、この場面でも、
また、得意な、権謀術数の技を用いて、自分の身の安全を図ろ
うと、いたしました。でも、どうしても、不安感を拭いきれなかった
ヤコブは、先ず、自分と自分の家族とを、‶ヤボクの渡し″という
浅瀬を使って、ヨルダン川を渡らせ、ヨルダン川の西岸に、身を
置きました。
創世記32章23節。
彼らを 連れて 流れを 渡らせ、
自分の持ち物も 渡らせた。
私は、教会から散歩に出かける時は、教会の鍵とスマホだけ、
持って、手には、何も持たないで、行きます。
手に何かを持って、出かけると、その手荷物が気になって、
自由な気分になれないのと、お祈りしていても、その手荷物が
邪魔に、なるからです。
ヤコブも、自分の家族と、自分の持ち物をすべて、ヨルダン川
の西岸に置いておいて、そっと、自由なスタイルで、一人だけで
ヨルダン川の東岸に戻って来たのでした。
創世記32章24節。
ヤコブは ひとりだけ、
あとに 残った。
すると、ある人が
夜明けまで
彼と 格闘した。
ヨルダン川東岸の岸辺で、ヤコブは、自分自身の内面と葛藤を
始めました。この時の、ヤコブの心境を、旧約時代の預言者
ホセアが、解説いたしております。
さきほど、交読文で、ご一緒に交読した、ホセア書12章4節で
す。‶彼は 御使いと 格闘して 勝ったが、泣いて、これに
願った。″
短い解説ですが、この短い文章の中に、この時の、ヤコブの
心境が、凝縮して、記されているのです。
私たちは、こう、あらなければ、ならないのだ、ああいう風に、
ならなければ、ならないのだ、ということは、いやというほど、
解っては、いるのです。でも、それが、出来ないのです。
結局、私たちに出来ることは、泣いて、イエスさまの前に跪き、
涙を流して、やろうとしても出来ない、丸裸の自分自身を、
イエスさまに、晒け出すこと、だけなのです。
そんな、傷だらけの、罪にまみれた、丸裸の、私たちを、イエス
さまが、十字架の恵みという、コートで、覆ってくださるのです。
‶自我″という名の、私たちの、どうしようもない罪から、私たち
を救ってくださるために、イエスさまは、十字架の上で、血潮を
流してくださったのです。
創世記32章25節。
ところが、その人は、
ヤコブに 勝てないのを
見て とって、ヤコブの
ももの つがいを 打ったので、
その人と 格闘しているうちに、
ヤコブの ももの つがいが
はずれた。
ホセアの解説によると、どうやら、ヤコブが格闘した相手は、
神さまからの御使いであったようです。
神さまからの御使いは、ヤコブの自我が強すぎて、とても、手に
負えないことを知って、ヤコブの、大腿骨の関節を、打ちまし
た。その結果、ヤコブの大腿骨の関節は、外れてしまったの
でした。このことは、何を、意味しているのでしょうか。
私たちは、自分の力で、どこまでも、頑張る者です。
でも、或る時、私たちは、私たちの努力では、どうすることも、
出来ないような、局面に、陥ってしまうことが、あるのかも、しれ
ません。そんな時には、イエスさまの十字架を仰ぎましょう。
そして、自分の頑張りを、諦めましょう。
結局、それが、イエスさまの御心に沿った、ベストの方向へと、
私たちを、導いて、くれるのです。
創世記32章26節。
すると その人は 言った。
「 わたしを 去らせよ。夜が 明けるから。」
しかし、ヤコブは 答えた。
「 私は あなたを 去らせません。
私を 祝福して くださらなければ。」
ホセアは、‶彼は 御使いと格闘して 勝ったが、泣いて、これに
願った。″と、記しております。
そうなのです。私たちは、あくまでも、自分の自我を押し通そうと
するのです。その結果、私たちには、一見、イエスさまに勝利
したかに、見えるのです。でも、そんな私たちではありますが、
私たちの心の中には、本物の勝利は、与えられていないことを
私たち自身は、知っているのです。
ですから、私たちは、イエスさまの前に、涙を流して、泣いて、
訴えるのです。‶私に、本物の勝利を、与えてください。″と。
創世記32章27節。
その人は 言った。
「 あなたの名は 何というのか。」
彼は 答えた。
「 ヤコブ です。」
時々、イエスさまは、‶あなたの名は 何というのか。」 と、
私たちに、お聞きになることが、あります。
これは、私たちが、本当に、寄り頼んでいるものは、何なので
すか? と、イエスさまは、私たちに、尋ねておられるのです。
ヤコブの答えは、‶私の名前は、かかとをつかむ者、人を出し
抜く者です。″と、正直な、答えでした。
私たちの答えは、どうでしょうか?
相変わらず、外面を装った、中身とは、何の関係もない、見え
透いた、表面的な、名前で、答えているのでは、ないでしょうか。
創世記32章28節。
その人は 言った。
「 あなたの名は、
もう ヤコブとは 呼ばれない。 イスラエルだ。
あなたは 神と 戦い、
人と 戦って、勝ったからだ。」
「イスラエル」 とは、‶神と 争う″、或いは、‶神の王子″という
意味の言葉です。
ヤコブは、イエスさまと、徹底的に格闘しました。
それは、自分自身の自我との格闘でした。
私たちは、自分の力では、この、自分の自我を砕くことは出来
ないのです。ただ、イエスさまのみが、私たちの自我を徹底的
に、砕くことが、お出来になるのです。
イエスさまが、ヤコブの大腿骨の関節を、お打ちになると、
ヤコブの、大腿骨の関節は、簡単に外れてしまいました。
大腿骨の関節が、外れてしまって、いたのでは、もう、兄の
エサウと、闘うことなど、出来ません。
私たちの自我が、イエスさまによって、打ち砕かれて、私たちの
大腿骨の関節が、外れてしまった時、すなわち、私たちが、
イエスさまと闘って、イエスさまが勝利された時、私たちには、
新しい、霊的な、勝利が、与えられるのです。
新しい、霊的な勝利が、私たちに与えられた後は、戦ってくださ
るのは、もう、私たち自身では、なくなります。イエスさまの力に
よって、私たちは、戦うことになるのです。
そうなれば、私たちは、もう、敗れることを、心配する必要が、
無くなります。
この、50年間、私にも、様々な、戦いが、ありました。
でも、戦っていてくださるのは、イエスさまなのだ、という確信が
与えられている時、もう、戦いの勝敗の結果など、どうでも良く
なってしまいました。
勝てば、それは、イエスさまの祝福であり、イエスさまのご栄光
が、現れる時。負けても、それが、結局は、イエスさまの御心に
かなったことであり、それによって、イエスさまの、ご栄光が、
現わされ、私自身も、後で、振り返って見た時に、ああ、あの時
負けておいて、本当に、良かったのだと、イエスさまに感謝する
ことが、出来るように、させられたのです。
お祈りさせていただきます。
父なる神さま。御子イエスさま。聖霊なる神さま。
みことばを、ありがとうございました。
あなたの、ご栄光を、賛美いたします。
私たちは、自分自身の自我を捨て切れなくて、悩み、葛藤を
繰り返す、弱い者です。
でも、イエスさま。あなたは、私たちが、私たちの自我と闘って
行くために、一番重要なものを、お打ちになり、それによって、
私たちは、それを失ってしまいます。
でも、その、私たちにとって、一番、大切なものを、失うことに
よって、イエスさまは、本物の勝利を、私たちに与えてくださる
御方であることを、私たちは、私たちの体験を通して、知らされ
ておりますので、私たちは、イエスさま、あなたに、感謝いたし
ます。感謝して、イエスさまの、尊い、御名前によって、お祈り
いたします。 アーメン。